「五月雨を集めてはやし最上川」は有名な芭蕉の句です。この俳句に誘われて私は2度の最上川を見に行きました。最上川は水量が多く滔々と流れていました。水量が多い急流です。・・・はやし最上川・・・ということを実感しました。最上川の写真をお送り致します。「五月雨を集めてはやし最上川」
1番目の写真は中国の東北部の瀋陽にあるカトリック教会です。瀋陽南関天主堂です。2番目の写真は北京の王府井にある王府井カトリック教会です。3番目の写真は北京の西安門のそばにあるカトリック教会です。天主教西什庫教堂です。4番目の写真は上海にあるカトリック教会です。徐家匯天主教堂です。徐家匯聖イグナチオ大聖堂とも言います。「共産党独裁の中国の現在活動中のカトリック教会の写真」
「新ローマ法王レオ14世と日本に来たヨハネ・パウロ2世、そして瀋陽での思い出」
新しいローマ法王にレオ14世が就任しました、それで思い出すのは日本に来たローマ教皇は、ヨハネ・パウロ2世とフランシスコ教皇の2人です。ヨハネ・パウロ2世は1981年に初来日し、フランシスコ教皇は2019年に来日しました。ヨハネ・パウロ2世:1981年2月23日から26日にかけて、東京、広島、長崎を訪問しました。広島では平和記念資料館を訪れ、被爆者と交流し、核兵器の廃絶を訴えました。フランシスコ教皇:2019年11月23日から26日にかけて、東京、広島、長崎を訪問しました。広島と長崎では、被爆者と交流し、核兵器の廃絶を訴えました。1981年2月ヨハネ・パウロ2世が日本に来た次の年、私は中国の瀋陽市の天主堂で現地の人々のミサへ出席したのです。外側は煉瓦作りの立派な教会だが、内側には大きな落書きや、破壊の...「新ローマ法王レオ14世と日本に来たヨハネ・パウロ2世、そして瀋陽での思い出」
今日の午後の散歩は都立武蔵野公園立武蔵野公園まででした。武蔵野公園の広い園内には雑木林・草原・植木畑等、武蔵野の野趣をとどめる公園です。約80種、約7,000本にも及ぶ植木畑の樹々は都心の街路樹や各地の庭園に移植するため栽培されているのです。「今日の午後の散歩は都立武蔵野公園まで」
北海道に旅をすると、あちこちにあるアイヌ民族の博物館を見ます。1番目の写真は丸木舟に乗り魚を釣るアイヌ人です。2番目の写真は戦前のアイヌ人です。写真にあるようなアイヌ独特の着物は鎌倉時代以降にアイヌ文化が成立していくうちに出来たアイヌの正装です。この服装はアイヌ部落が消滅して行く終戦後まで北海道で見られたのです。しかし1945年の終戦になると、北海道のアイヌ人たちはより良い生活環境を求めて東北地方の開拓地などに移住して来たのです。その結果、私は一人のアイヌ人と友人になったのです。私は仙台市に生まれ育ちました。その仙台へもアイヌ人一家が移住して来たのです。私の家の近所の雑木林を切り開いて生活をしようとしていたのです。私はそのアイヌ人の一家の少年と仲良くなります。仲良くなったのですが、ある時フッと消えてしまい...「私のアイヌの友人への追憶」
北海道にはアイヌ民族が縄文時代より以前の大昔から住んでいました。北海道の先住民です。第二次大戦の直後までアイヌ民族だけの村落が北海道に散在していたのです。それが現在は忘れられています。そこで今日はアイヌ民族の文化と生活の様子をご紹介したいと思います。さて私がアイヌ民族に興味を持つきっかけになったのはモースが撮ったアイヌ人の1枚の集合写真です。エドワード・モースは大森貝塚の発見で有名ですが、それ以上に日本の陶磁器の収集と民具や風景写真の収集でも偉大な功績を上げました。その中に次の写真があったのです。1番目の写真はモースが明治20年代(1890年頃)に撮った北海道のアイヌの集合写真です。写真の出典は、小学館の「百年前の日本」(1983年11月25日初版発行)という写真集です。明治時代のアイヌは伝統的な服装と家...「アイヌ民族の文化と生活の様子」
「札幌の大通り公園 、北大植物園など、そしてアイヌ民族の悲劇」
今日は北海道の思い出をお送り致します。札幌の大通り公園、北大植物園、ポプラ並木、開拓村などの思い出です。まずロマン溢れる札幌です。中心にある大通り公園が四季を通じて楽しい場所なのです。札幌はその広大な大通り公園の回りに高層ビルが美しく並んでいるのです。そばには北海道大学の植物園があり、明治を偲ばせるレンガ建ての道庁があります。花の咲いている百合が原公園や八紘学園花菖蒲園もあります。北海道大学の有名なポプラ並木もロマンチックです。郊外には手稲山ジャンプ台があり眺望絶佳です。さらに北海道開拓村が北海道の開拓の歴史を展示しています。それではこれらの写真を示しましょう。1番目の写真は札幌の百合が原公園です。写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、悠悠北海...「札幌の大通り公園、北大植物園など、そしてアイヌ民族の悲劇」
小金井公園はいつもは人がいなくて静かな公園です。今日はそんな公園をゆっくり歩いてきました。撮ってきた写真をお送り致します。「人がいなくて静かな今日の小金井公園の風景」
奥多摩は東京都ですが魅力的な自然が広がっています。多摩川上流と支流の秋川に沿った山郷に人々が静かに暮らしています。そして渓谷と山々の絶妙な組み合わせで美しい風景になっています。今日は奥多摩の美しい風景を写真でご紹介致します。1番目の写真はJR御岳駅からほど近い国際鱒釣りセンターのある多摩川です。鱒を沢山多摩川に放流してお客が釣っています。ここは車で河原に降りれる唯一の場所です。奥多摩は自分の家から2時間以内に行けるので何百回も行きました。この写真も昨日家内が撮った写真です。これからご紹介する風景写真4枚の出典は以下の通りです。但し6番目と7番目の写真は以前自分が撮ったものです。https://www.jalan.net/kankou/spt_13228ab2042087037/?screenId=OUW1...「奥多摩の魅力と写真」
檜原都民の森は、奥多摩三山の最高峰である三頭山(みとうさん、標高1531メートル)とその麓に広がる地帯で、広さは197ヘクタール。実に東京ドーム42個分と広大だ。山頂付近には希少なブナ林が広がり、季節ごとにさまざまな野鳥が見られる。登山者をはじめ、サイクリングやツーリングを楽しむ人々が訪れており、2022年5月には来訪者が700万人を突破した。詳しい情報は下記にあります。https://www.my.metro.tokyo.lg.jp/w/001-20220725-00005674「豊かな自然がある「都民の森」」
奥多摩の温泉の「もえぎの湯」、日帰り入浴施設「奥多摩温泉もえぎの湯」。地下深くの奥多摩温泉源泉から引いた源泉100%の天然温泉を堪能できます。多摩川の清流と山なみを大きな窓から楽しめる内風呂、自然を肌で感じられる露天風呂のほか、手軽に利用できる足湯もあります。奥多摩駅から徒歩約10分とアクセス良好です。「奥多摩の温泉、もえぎの湯」
今日は思い出の多い多摩川について書いてみたいと思います。多摩川のお世話になったのは、1962年に東京に住むようになって現在までの60年間です。東京の西郊の小金井市に住み始めたので、週末は必ずのように娘と息子を連れて多摩川上流に行き、川遊びや焚火や釣りを楽しんだのです。当時は川原で焚火をするのが普通で、子供たちに枯れ木にマッチ一本で火をつける方法を教えたものです。一番、足しげく通った場所は御岳駅のそばにある国際マス釣り場の川原でした。川原が広がっていて流れも浅く子供の水遊び適していたからです。3歳の息子が浮き輪に乗って流れてしまい、家内が必死に追いかけた光景が忘れられません。そして御岳駅のそばの玉川屋というソバ屋にもよく行ったものです。高い場所にある茅葺の昔風の家です。近くには多摩川に沿って幾度も訪れた玉堂...「思い出多い多摩川と妻のスケートの趣味」
水の流れる風景に誘われて、1975年に山梨県の山林に小屋を建てました。早速その小屋を建てた場所を写真で示します。山梨県の甲斐駒岳の麓です。1番目の写真は山梨県の北杜市から見上げた甲斐駒岳連峰の写真です。晩秋に撮った写真です。右手の山が甲斐駒岳で中央の雪のある所が朝日尾根です。山から流れて来るのは石空川(イシウトロガワ)です。景色だけを眺めていれば良かったのですが、無謀にも小屋を建ててしまったのです。場所は写真の中央部の山林の中です。2番目の写真は甲斐駒岳の麓の森の奥にある私の山小屋です。晩秋に撮ったので木々が紅葉しています。電気、ガス、水道の無い小屋でした。スウェーデンの学生さん達も来ました。楽しい思い出がたくさんある小屋です。3番目の写真は小屋に登って行く雪道です。こんな森の中の道を2Kmほど登ると小屋...「山梨県の山林の中の小屋」
過ぎ去りし日々を振り返って人生のいろいろを思い出しています。老境にある人は皆同じように自分の人生を時々思い返していると思います。我が人生で最大の思い出は良き妻を得たことです。68年間一緒に幸せに暮らしてきました。妻の自慢話を書いたら長くなります。そこで今日は私が建てた山林の中の小さな小屋の話を書こうと思います。我が人生に深い影響を与えた体験です。その小屋は八ヶ岳の見える甲斐駒岳の麓の山林のなかにあります。甲斐駒岳を見上げると夏に学生君たちと登ったことを思い出します。息子と2人だけで登ったことも思い出します。そしてスウェーデンやドイツから来た学生のことも思い出すのです。この山を見る度に登高の情熱と山頂に立った時の高揚感を思い出します。熱い血潮が老境にある私の体にも流れるように感じるのです。甲斐駒岳を見上げな...「嗚呼、過ぎ去りし日々よ、甲斐駒の麓の思い出」
「誰もいなくなった老境の悲しみ、そして山林の友人たちの思い出」
老境の悲しみは親兄弟、親戚、恩人、友人が一人、また一人と旅立って行くことです。89歳になってある日気が付いたら私の周りに誰もいなっくなっていました。親兄弟や恩人、仕事仲間など我が人生を大きく支えてくれた人々との惜別は悲しみも深く、そして感謝の気持ちが豊かに湧いてきます。高校時代の友人も次々と亡くなりました。そして大学時代の友人もです。茫々70年前の1958年に、我々は東北大学工学部金属工学科を卒業しました。2018年の4月に東北大学の同級生と昼食を共にしました。同級生は30名いましたが東京近辺の7名だけが集まりました。この昼食会は20年くらい前から年間2、3回開催していました。人生の余暇に一緒に遊んだ中学校、高校、大学の友人たちのたちとの別れには悲しみを感じるものです。このような学校での友人の他に趣味の山...「誰もいなくなった老境の悲しみ、そして山林の友人たちの思い出」
アメリカは自由の国と言いますが、日本と比べてどのくらい自由なのでしょうか?アメリカ合衆国には州によって多少する違いはありますが、いろいろな幅広い自由があるのです。国家が教育に干渉しないで自由に教科書を作れる自由、同性婚の自由、銃を持つ自由、狩猟趣味の自由、などなど州によって違いがありますが、国家による規制が一切ありません。そして外国の宗教や新興宗教の布教活動も自由です。創価学会や統一教会もアメリリカで盛んに布教活動をしています。唯一の国民の義務は徴兵に応ずる義務でがあります。それも絶対平和主義の人は期間を長めにして後方勤務をして良い自由があったのです。これらの多種多様な自由がアメリカの社会に深い奥行を作り、それがアメリカの強さの根源になっているのです。今日はその一つの実例としてアーミッシュ派という極端に禁...「アメリカ社会の奥深さを体験する」
私どものオハイオでの結婚式とレセプションの写真をお送りいたします。64年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生ません。先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です...「オハイオでの質素な結婚式とレセプションの写真」
オハイオ州の洞窟の中でもっとも美しくて大きい"OhioCaverns"(オハイオ洞窟)の写真をお送りいたします。私もオハイオに住んでいた頃何度も遊びに行きました。このオハイオ洞窟では、美しい色をした鍾乳石(天井からツララのように成長した石灰岩)と石筍(せきじゅん、天井から落ちたしずくが落ち再結晶化された石炭岩が盛り上がって竹の子のように成長したもの)をたくさん見ることが出来ます。その写真をお送り致します。詳しい説明は、https://ameblo.jp/ohiokitty/entry-11050485546.htmlにあります。「オハイオの巨大な鍾乳洞の写真」
オハイオ州には通算、4年間住んでいました。懐かしい州なのでその州花の真紅のカーネーションの写真をお送りいたします。他の色のカーネーションの写真も添えました。写真は「カーネーションの花の写真」を検索して、インターネットの写真から綺麗な写真を選びました。「オハイオ州の州花は真紅のカーネーション」
はじめて留学したのはオハイオ州立大学でした。コロンバス市にある大学でした。オハイオ州には3つの都市があります。エリー湖のそばのクリーブランドと首都のコロンバスと南のシンシナティです。オハイオ州は、エリー湖に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されています。オハイオ州の南部境界はオハイオ川によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって区切られています。東にはペンシルベニア州、北部はエリー湖です。西部はインディアナ州で南部はケンタッキー州です。留学したオハイオ州の風景写真をお送り致します。1番目の写真はコロンバス市にある州政府です。2番目の写真はオハイオ河です。3番目の写真はエリー湖のそばのクリーブランドです。4場目の写真は南のシンシナティです。オハイオとは、インディアンのイロコイ族の...「はじめて留学したオハイオ州の風景写真」
老境になると一番懐かしいのは最初のアメリカ留学です。私の人生で一番大きな出来事でした。今日はその思い出を書きたいと思います。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。アメリカ全土には、同...「老境になって一番懐かしいのは最初のアメリカ留学」
今日の午後の散歩は都立小金井公園までの往復でした。小金井公園の面積は約80haあり、その広大な敷地は都立公園の中でも最大規模で、日比谷公園の4.8倍、上野公園の1.4倍に相当します。なお、東京都にはさらに広い国営昭和記念公園があり、その面積は小金井公園の2倍近いのです。公園西側には南北に小金井街道(東京都道15号府中清瀬線)が、南側には東西に五日市街道(東京都道7号杉並あきる野線)が通っています。また、五日市街道に沿って玉川上水が流れて、公園の北側には隣接してゴルフ場小金井カントリー倶楽部が広がっています。東京緑地計画を元に紀元二千六百年記念事業として計画された「小金井大緑地」が原形で、1954年(昭和29年)1月に「小金井公園」として開園しました。園内には雑木林と芝生が広がり、1,800本の桜が植えられ...「午後の散歩は都立小金井公園までの往復」
誰でも仕事を止めて老境に入ると、それまで仕事の忙しさで忘れていた幼少時の思い出がよみがえって来ます。それは喜びと悲しみの入り混じった懐かしさです。切ない思い出です。われわれ年代の高齢者の幼少時は戦前、戦後の苦しい時代でした。貧しさ故の悲しみが入り混じった懐かしい思い出です。さて自分が撮って来た山郷の花々の写真をお送りいたします。甲斐駒岳の東に広がる北杜市の武川町の花々です。これらの花々の写真をしみじみと眺めながら想ったことがあります。現在、働き盛りの若い人々は老境になってどのような思い出を持つのでしょうか?時代が違いますから思い出の具体的な内容は違います。想像して書いてみました。楽しかった海外旅行、スマホ、ゲーム、ドライブ、ショッピング、旅先で食べたソフトクリームの味、おとぎの国のようなディズニーランドの...「幼少時に見たような花々の思い出」
初夏の季節なのでしょうか。こんな季節には遥かな尾瀬の風景を思い出します。一時流行った尾瀬の歌を思い出します。『夏の思い出』という歌でした。1949年発表の日本の歌曲です。NHKにて放送されるや否や、瞬く間に多くの日本人の心をとらえたものです。この歌のおかげで尾瀬(おぜ)の人気が高まり訪れる人が非常に多くなったのです。私は1951年に高校に入学し、1954年に大学に入学したのでこの曲をNHKのラジオで何度も聞き、自分でもよく歌ったものです。当時は仙台に住んでいて、復興もまだまだで苦しい生活でした。はるかかなたの尾瀬などへ行くことは出来ません。ですから尾瀬とか水芭蕉という言葉は憧れの夢だったのです。写真雑誌で尾瀬の風景や水芭蕉の群落の光景を見てますます憧れが強くなったものでした。『夏の思い出』の作曲は、『ちい...「春も過ぎ、時々思い出すはるかな尾瀬遠い空」
「風薫る五月に 、 "Im wunderschönen Monat Mai"」
風薫る五月になるとシェーネン・モナート・マイという言葉をつぶやくようになります。家内が何か本で読んで覚え、新婚のころ私に教えてくれた言葉です。この言葉はハイネの詩から出ているようです。後にシューマンが曲を付けて有名な歌曲になりました。ハイネの詩はこうです。ImwunderschönenMonatMai,風薫る五月にalsalleKnospensprangen,蕾たち弾けるころdaistinmeinemHerzen僕の心の奥にdieLiebeaufgegangen.咲いた恋心・・・以下省略します。(訳文は、https://sfukuhara.web.fc2.com/lyrics/1/analyze/im_wunderschoenen_monat_mai.htmlからです)日本でも皐月はすがすがしい季節で俳句...「風薫る五月に、"ImwunderschönenMonatMai"」
小金井公園の有名な桜も散って季節はめぐり新緑が美しい候になりました。午後から散歩に行きました。撮ってきた写真をお送り致します。「小金井公園の今日の新緑の風景」
「今日は東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました」
今日はインターネットを通して東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました。その動画配信は下記にあります。「今日は東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました」
一般的に女性は花言葉が好きなようです。男性に使って貰いたいようです。しかし男性は面倒がって使いません。花言葉はそれぞれの花に対応した言葉を決めて、言葉の代わりにその花を女性に贈り、男性の気持ちを伝えるのです。勿論、その逆もあります。女性は美しい花を貰った上で男性の気持ちが分かるのです。女性にとって花言葉は楽しい、そしてロマンチックな言葉なのです。しかしこれは一種の暗号なので花言葉の解読には暗号の意味を示す暗号表を双方で持っていないと大変な誤解が生じます。私は新婚当時家内の誕生日に黄色いバラを10本贈って怒られたことがあります。「黄色いバラは愛の薄らぎ」だと言うのです。その後は赤かピンクのバラにしました。花言葉を知っていることも重要ですが、その使い方も大変重要なのです。(1)花言葉の一覧表と使い方例えば日本...「花言葉一覧表、花言葉の使い方、そして花々の民族誌」
人にもよりますが、ほぼ70歳以上になると老いというものを意識するようになります。もう20年以上前から私は老いということを考えています。老いには良いこともあります。人生の全ての束縛から解き放されて、毎日が実に明るく、楽しくなるものです。これを老いの華やぎと言うのです。しかし同時に老いの悲しみや淋しさが時々、湧き上がって来ます。老いの淋しさにはいろいろな原因があります。その原因の一つに親、兄弟、や恩人や友人がみんな、みんな亡くなってしまうことがあります。自分独りだけがこの世に取り残されているのです。亡くなって淋しさを感じるのは親や恩人だけではありません。戦後、読みふけった数多くの本の作家もみんな亡くなってしまいました。思い出すままに書くと、遠藤周作、堀田善衛、北杜夫、井上靖、三島由紀夫、内田百閒、船橋聖一、山...「老いの華やぎと道端に花々のある風景」
緑が美しい季節です。今日は都立武蔵野公園の緑の草原の写真を撮りに行きました。撮ってきました写真をお送り致します。「美しい緑の草原の写真を撮りに行く」
ヨットの見える風景は何故か心が熱くなります。ヨットをしていた頃の情熱が思い出すのです。インターネットのヨットの写真をお送りいたします。「ヨットの風景の写真」
ヨットの見える風景は何故か心が熱くなります。ヨットをしていた頃の情熱が思い出すのです。インターネットのヨットの写真をお送りいたします。「ヨットの風景の写真」
横浜港に展示してある日本丸のことを教えてくれたのは友人の星野君でした。ヨットを共に楽しんだ星野君の思い出を書きたいと思います。星野君は仙台の大学の同級生でした。彼とはいろいろな所で一緒にヨットに乗りました。例えば猪苗湖で彼の大きなヨットで花春カップレースに3回参加したこともあります。そして会津城やその城下町を観光しました。1番目の写真は猪苗代湖と磐梯山の写真です。出典は、http://www.yae-mottoshiritai.jp/seishin/inawashiroko.htmlです。2番目の写真は夏の猪苗代湖を帆走するヨットの写真です。出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.htmlです。星野君とこの写真のような彼のヨットに乗り湖を何度も帆...「日本丸のことを教えてくれた星野君の思い出」
25年もヨットに乗っていると、風や波が帆や船体の何処にどの様に当たっているか実際に目に見えるような錯覚に捉われます。そこである疑問が湧いて来ました。「大型タンカーやコンテナ船、そして豪華客船の船長は帆船操作の経験をしているのだろうか?」、「していれば荒天のとき落ち着いて操船出来るに違いない!」、「まてよ、横浜の日本丸は昔、商船学校の練習船だったそうだ」、「そうだ、そこを訪ねて関係者に聞いてみよう!」、と。早速、車を駆って首都高速を駆け抜け、横浜、みなとみらいの日本丸の係留してある岸壁に行きました。2008年4月のことでした。そして1930年にイギリスのラメージ&ファーガソン会社によって製造された帆船・日本丸に乗船することになったのです。乗船切符を買う窓口で少し専門的な説明をお願いしました。「それなら今日は...「25年間のヨットの趣味と帆船・日本丸」
戦前生まれの私は少年の頃に海洋少年団に入っていました。しかし戦争が激しくなって実際に海上での訓練はできませんでした。それ以来、大海原を大型帆船で走るのが終生の夢になりました。自分の人生が落ちついてやっと中年になってこの夢が実現そたのです。今日は大形帆船シナーラ号での帆走について書きたいと思います。さて日本には大型帆船が幾つかあります。乗船料を払えば大形帆船のセイリング体験が出来ます。その例は三浦半島のシーボニア・マリーナのシナーラ号、沼津市の帆船Ami号、神戸の帆船「みらいへ」号です。これれら3隻の帆船は一般の人も乗れました。舵輪を握ってセイリング体験が出来るのです。青い海原を大形帆船でセイリングをすると気持ちが壮大になります。爽快になります。特にディンギーヨットの経験があると舵輪を握っていきなり帆走でき...「少年の頃の海洋少年団の夢をはたす大形帆船シナーラ号」
趣味として私は世界の民族についてあれやこれやと調べています。そんな趣味で集めたヨーロッパに住んでいる少数民族の写真をお送りいたします。今回は北方の少数民族に限ります。1番目の写真はマンシ族の住居の夏の風景です。マンシ族はロシアのハンティ・マンシ自治管区の先住民です。ハントィとは近い親戚の意味で現在、およそ12,000人がロシアで暮らしています。写真の出典は、『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ…ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.htmlです。2番目の写真は街に出て来たマンシ族の家族の写真です。3番目の写真は昔のサーミ民族の家と民族衣装を着た家族の写真です。このような家には住んでいましたが現在は近代的な家に住んでいます。テントは夏だけ...「写真で見る絶滅寸前の北欧とロシアの少数民族」
アフリカには3000もの民族がいて2000種類以上の言語が使われています。その多様性は他の大陸とは較べられない多様性です。例えばアフリカの民族を示せば次のようになります。ヌバ族アンコレ族トゥンブカ族グロ族...アングロアフリカンイラク族アルシャ族...レンディーレ族イッサ族ムーア人...ゴンベ族アムハラ人ドゥル族...アンガス族コファ族バントゥー系民族...イガラ族トングェ族クナマ族...ガモ人ショナ人ドゴン族...ネグリロンゴニ族キッシ族、などなどです。以上のようにあまりにも多数なのでそれぞれの民族の詳細は省略いたします。そこで日本でも有名なマサイ族だけ一例としてご紹介します。マサイ族はケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民で、人口は推定20-30万人程度と推測されています。垂直ジャンプを繰り返す独特...「アフリカの多数の民族とマサイ族」
世界の果ての僻地へ行って、幸せそうに暮らしている日本人が沢山います。個人の自由と幸福とは何かということに信念がある国際人なのです。「人間至る処青山あり」を実践しているのです。私は狭量なので東京にしがみついて故郷の仙台だけを懐かしんで生きているのです。ですから私にとっては世界の僻地に住んでいる日本人に感動し尊敬しています。今日は一例として南米のペルーのマチュピチュ遺跡の麓に村を作ってマチュピチチュ遺跡を世界遺産にした日本人の話をご紹介します。正確に書くと福島県安達郡玉井村の野内与吉さんが1917年ペルーに移民し、1923年にマチュピチュの麓の部落に定住したのです。そしてその部落にホテルなどを作りマチュピチュ遺跡への観光拠点として発展させ、マチュピチュ村の初代の村長になったのです。野内与吉の次男のホセは198...「世界の僻地、マチュピチュに暮らし異国の土になった日本人」
つくづく女性は優しくて強いと感動します。世界の片隅に住んで幸せな家庭を持って悠々と人生を過ごしています。自然体で現地に溶け込んで、異国の生活に何も不自由なく夫を愛し、子供を育て周囲の村人を助けています。今日は北インドの僻地のラダックに住んで家庭を持っている日本人の女性をご紹介したいと思います。彼女はヒマラヤの麓の北インドのラダック地方のストック村に住んでいます。彼女の名前は池田悦子さんといいます。夫とともに農業をしながら旅行代理店をしてインドのチベットと言われる秘境に観光客を呼び込んでいます。その上、自分達で改装した自宅の古民家でホームステイを運営しながら子育てをして暮らしています。まずその地方の風景や彼女の子供達の写真を示します。1番目の写真は彼女の家の裏の風景です。ヒマラヤの麓です。桃の花が満開になて...「世界の片隅に住む日本の女の幸せ」
何所までも続く細い道に何故かロマンを感じます。そんな細い道を探して散歩します。今日も武蔵野公園へ続く細い道を歩いてきました。撮ってきた写真をお送り致します。「道の風景に何故かロマンを感じる」
今日の都立武蔵野公園の風景の寫眞をお送り致します。晴天でしたが南風が強く吹いていました。「今日の都立武蔵野公園の風景」
2012年10月に、仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。長い間疎遠にしていた私のお詫びとして以下の追悼文をお送りいたします。まず萩生田啓一君へ私の疎遠をお詫びします。君の家にはしょっちゅう遊びに行き優しい母上に随分とお世話になりました。北海道炭鉱に勤めていた父上にも親切にして貰いました。お霊屋下の奥の方に家があり近所に住んでいた宮内量君ともよく一緒に遊んだものです。君が大学卒後、七十...「忘れ得ぬ仙台の中学校の亡くなった同窓生」
後期高齢者になると人生のあれこれを思い出して楽しんでいます。この頃は私の人生で出来た不思議な人間の絆を思い出し考えています。そして忘れ得ぬ人々の顔や姿を懐かしく思い浮かべています。そんな不思議な人間の絆と忘れ得ぬ人々のことを書いてみようと思います。人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。これらの絆の5つの例を考えてみたいと思います。(1)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬ人との絆ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深...「不思議な人間の絆、忘れ得ぬ人々」
今日の「忘れ得ぬ人々(2)」は若き日のアメリカ留学出来た親友、ジョージの思い出です。私は1960年から1962年までオハイオ州立大学に留学しました。そのPh.Dコースでは戦場のような激しい勉強が続きました。セント・ピエール教授、フォンタナ教授、ラドルフ・スパイサー教授、ゴードン・パウエル教授、スプレットネク教授の講義は厳しくて、それについて行くためにはアメリカ人の同級生からノートを見せてもらったり毎週行われる試験の予想問題を丁寧に教えてもらったのです。激しく攻めるのが5人の教授で、隊列を組んで防戦するのが14、5人の同級生です。同級生は戦友のような感じでした。その中でジョージ・オートン夫妻とは生涯の友人としてお付き合いをしました。ジョージ・オートンさんは14歳年上の空軍大佐でした。大柄なふくよかな体格の持...「忘れ得ぬ人、若き日のアメリカ留学で出来た親友、ジョージ」
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「五月雨を集めてはやし最上川」は有名な芭蕉の句です。この俳句に誘われて私は2度の最上川を見に行きました。最上川は水量が多く滔々と流れていました。水量が多い急流です。・・・はやし最上川・・・ということを実感しました。最上川の写真をお送り致します。「五月雨を集めてはやし最上川」
今日はインターネットを通うしてカトリック高円寺教会のミサにあずかりました。そのミサの風景をお送り致します。「カトリック高円寺教会の今日のミサの風景」
梅雨の時期は長雨が続いて、晴れた青空と太陽がなかなか見られません。憂鬱な季節になりました。そこで少しでも明るい気持ちになるように美しい詩を5つほどお送り致します。気持ちをさっぱりとさせ、心にしっとりと寄り添うような作品です。以下は、https://mahoblog.com/tsuyu/から引用致しました。茨木のり子「六月」どこかに美しい街はないか食べられる実をつけた街路樹がどこまでも続きすみれいろした夕暮は若者のやさしいさざめきで満ち満ちる中原中也「六月の雨」またひとしきり午前の雨が菖蒲のいろのみどりいろ眼うるめる面長き女たちあらはれて消えてゆく谷川俊太郎「生きる」生かす六月の百合の花が私を生かす死んだ魚が生かす雨に濡れた仔犬がその日の夕焼が私を生かす萩原朔太郎「こころ」こころをばなににたとへんこころはあ...「梅雨の季節の詩、5編」
今日は印象派の油彩画を見ております。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。ClaudeMonet,は1840年11月14日に生まれ、1926年12月5日に亡くなりました。彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC...です。1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75×104)2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868-69年です。(油彩、キャ...「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」
今日は印象派の油彩画を見ております。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。ClaudeMonet,は1840年11月14日に生まれ、1926年12月5日に亡くなりました。彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC...です。1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75×104)2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868-69年です。(油彩、キャ...「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」
岡鹿之助の『雪の発電所』は私の好きな絵なのでお送り致します。堅固な建造物が纏うはだら雪の柔らかさが静謐な雰囲気を醸し出しています。またパンジーの思索深い表情は画家の精神性の高さや穏やかな人柄を表しているように思えるのです。岡鹿之助は1898年(明治31年)に生まれ1978年(昭和53年)に没しました。昭和時代に活躍した洋画家で文化勲章受章者です。1956年には『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受けます。また1957年には毎日美術賞も受けました。なお小松裕文さんの感想文を読むとこの絵が描かれた場所が分かります。https://www.danube4seasons.com/search/013/01.htmlそれにパンジーの絵を3枚つけます。「岡鹿之助の『雪の発電所』と『パンジーの花』の絵」
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。それでは写真で大原美術館をご紹...「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」
エミール・ガレ(1846-1904)やドーム兄弟の独創的なガラス器の作品を700点も収蔵、展示してあるのが諏訪湖のほとりにある北澤美術館です。その展示品はフランスのアール・ヌーヴォー期のガラス工芸品です。芸術的な工芸品です。バルブ製造会社で財をなした北澤利男氏が設立し、1983年に開館したのです。隣にはやはり北澤利男氏が設立したサンリツ服部美術館があります。エミール・ガレやドーム兄弟はガラス工芸の新しい技法を次々と創作していったことが素晴らしいと思うのです。深い芸術性を感じるのです。今日は北澤美術館に展示してあるエミール・ガレやドーム兄弟の作品をご紹介いたします。1番目の写真は一夜茸というキノコを模した作品です。高さ83cmの大きなものです。北澤美術館で非常に大切にしていて、貸し出し厳禁の展示品です。北澤...「諏訪湖の湖畔の北澤美術館とエミール・ガレの作品」
この美術館は伊豆半島の山の中、美しい一碧湖の畔にあります。車で行くと道中が風光明媚で楽しいのです。さて池田20世紀美術館をご紹介したいと存じます。この美術館は本格的現代美術館です。1975年5月伊豆の一碧湖の岸辺にできました。この美術館の土地、建物と約1400点の所蔵作品の大半は、ニチレキ(株)の創立者池田英一氏が寄付したものです。建物は彫刻家井上武吉氏の設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張りです。入口から出口まで連なる展示作品が大へん観賞しやすい美術館です。所蔵作品は20世紀に制作された絵画・彫刻で《人間》をテーマとするものを中心に約1400点収蔵しています。館内には、ルノワールをはじめ、ボナール、ピカソ、マティス、レジェ、シャガール、アンディ・ウォーホール、ミロ、ダリ、デ・クーニン...「伊豆半島の一碧湖の畔にある池田20世紀美術館」
鬱蒼とした樹々の写真を撮ってきました。近所の学芸大学の構内です。撮ってきた写真をお送り致します。「鬱蒼と生えている樹木の写真」
日本4大アヤメ園とは、広大な敷地に多数の品種が植えられ、特に大規模なあやめ園として知られる4つの場所を指します。具体的には、山形県長井あやめ公園、茨城県水郷潮来あやめ園、千葉県水郷佐原あやめパーク、そして新潟県新発田市五十公野公園あやめ園です。1,長井あやめ公園(山形県長井市):120種以上のあやめが植えられ、毎年6月には「長井あやめまつり」が開催されます。2,水郷潮来あやめ園(茨城県潮来市):150種類以上のあやめが咲き誇り、6月には「水郷潮来あやめまつり」が開催され、花菖蒲にちなんだイベントも行われます。3,水郷佐原あやめパーク(千葉県香取市):300品種以上のあやめが植えられ、見頃には一面の花菖蒲が広がります。4,五十公野公園あやめ園(新潟県新発田市):300品種、60万本のあやめが咲き競う...「日本の4大アヤメ園」
一面にアヤメが咲いている場所はもう一つ東村山市にもあります。北山公園のアヤメです。撮ってきた写真をお送り致します。撮影は2013年6月6日でした。「東村山市北山公園のアヤメの花々」
毎年、茨城県の潮来では『潮来あやめ祭り』を開催しています。それは色とりどりのアヤメが一面に咲く華やかな花まつりです。今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました。この『潮来あやめ祭り』は以前から関東地方では有名でした。そして昭和30年に美空ひばりさんの「娘船頭さん」のロケが水郷潮来で行われたのがきっかけとなり、その名は全国的にも知られるようになったのです。美しい娘さんが船頭になった小さな船に観光客が乗り、水郷を巡りながらアヤメの花を楽しむのです。何かロマンチックで美しい風景です。私も長い間、潮来につながる霞ヶ浦でヨットをしていたので一度行って見たいと思っていました。そこでついに2008年の6月17日に行ったのです。それでは写真に従ってお話を進めて行きたいと思います。1番目の写真は妻をヨットに乗せ、霞ヶ浦の沖に...「今年も潮来のあやめ祭りの季節になりました」
庭の花の写真です。10年以上前に潮来から買って来たアヤメが今年も咲きました。他の花の写真も含めてお送り致します。「庭の花の写真」
今日の小金井公園の風景です。小金井公園は東西に2kmあります。今日行った場所は西の端の部分です。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」
毎年、お盆のころになると日本のあちこちで灯篭流しや精霊流しがあります。この世を去ってしまった家族や友人の魂を弔うのです。あの世で平安に暮らしていることを祈るのです。そして故人があの世から暗い水面をゆらゆら揺れて流れてていく灯を見て慰められるのです。それは日本の夏の美しい風物詩です。そんな光景を下の写真で示します。真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。1番目の写真は長崎と佐賀県の一部で作られる精霊船を町中を引いて海辺に運んでいる様子です。2番目の写真は佐世保市の灯篭流しです。3番目の写真は曹洞宗本山、永平寺の灯篭流しです。4番目の写真は灯篭流しと精霊流しの画像検索によって転載させて頂きました。それはそれとして、毎年、実際に灯篭流しをしている人はそんなに多くありません。テレビや新聞で灯...「灯篭流し、精霊流しは夏の美しい風物詩」
我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流しは江戸時代から引き続き灯ろう流しは行われ、昭和に入ると花火大会も同時に開催されるなど、「夏の終わりを告げるの風物詩」として親しまれるようになりました。仙台市内有数の夏祭りです。その風景写真をお送り致します。「我が故郷、仙台の広瀬川の灯篭流し」
今年も7月になるとお盆が来て各地で精霊流しをします。お盆の期間は、8月13日~16日の4日間(8月盆)が一般的ですが、東京をはじめとする一部地域では、7月13日~16日の4日間(7月盆)で行われます。また、東京の多摩地区では7月31日〜8月2日に行う場合もあります。お盆には、お盆提灯やキュウリ・ナスで作った牛馬など、お盆独自のお飾りをして故人様をおもてなしする風習があります。ご自宅の玄関先・庭先やお墓などの場所で「迎え火」を焚き、ご先祖様の霊をお迎えします。迎え火と同様にお盆が終わると、玄関先・庭先やお墓などの場所で「送り火」を焚き、ご先祖様の霊をお見送りします。そしてお盆の風物詩は「精霊流し」です。有名なのは長崎の江迎千灯籠祭りです。毎年8月23日と24日に行われる祭りです。3000個以上の灯籠で飾られ...「今年もお盆が来て精霊流しをします」
家内の夏の思い出と言えばまず由比ヶ浜での海水浴、親類の若者が大勢泊りに来て砂浜にビーチパラソルを立てて、水浴びしたり海の家で食事やかき氷を食べたり小屋掛けの射的・ボットル落としや楽焼をした楽しい思い出をよく話しています。戦争末期に群馬県の下仁田町に疎開したのですがそこでも楽しい思い出が沢山あるようです。本来楽天的というか人懐こく物おじしない性格なので山あいの生活や小学校にすぐ慣れて、友達とカブラ川へ水浴びに行き、帰りに河原の桑の実を食べるのがとても楽しかったそうです。ママのお土産にしようとポケット一杯摘んで帰ったら白いワンピースのポケットが真っ赤に染まってしまったそうです。川の上流の浅瀬でバチャバチャしていたら流されて大渕という深みまで行って溺れていたら、大岩の上にいた3歳上の姉が飛び込んで救ってくれた。...「家内の夏の思い出」
1945年の7月10日にB29の空襲があり仙台はすっかり焼け野原になってしまいました。そしてB29の焼夷弾空襲によってし全国の200市町村が焼け野原になってしまったのです。まず東京大空襲の写真をお送りいたします。東京大空襲は1945年(昭和20年)3月10日のアメリカ空軍による夜間空襲でした。その7枚の写真をお送り致します。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2です。1番目の写真は東京を空襲しているB-29爆撃機です。多量の焼夷弾を落としています。2番目の写真は1945年1月27日の空襲で数寄屋橋上を逃げ惑う親子です。この日の爆撃の主目標は郊外にあった中島飛行機武蔵製作所でしたが、...「夏の思い出はB29の空襲と焼け野原の光景」
何故かこんな風景が美しく見えます。写真はインターネットからお借りしました。「托鉢僧の写真です」
平成29年3月10日、国の文化審議会が文部科学大臣の諮問に対し、深大寺の銅造釈迦如来倚像(飛鳥時代)を国宝に指定することを答申しました。深大寺釈迦如来倚像は博物館や美術館を除いて、関東の寺院所蔵の国宝仏では、鎌倉大仏に次ぐ二例目、制作年数は鎌倉大仏より約500年古く、東日本最古の国宝仏となります。深大寺開創の天保5年(733)より前に文化の中心であった畿内地域において、作られたと考えられます。白鳳時代(飛鳥後期645-710)同時期の傑作である奈良県新薬師寺薬師如来立像(香薬師)、奈良県法隆寺観音菩薩立像(夢違観音)と深大寺釈迦如来倚像は銅の成分が極めて近似するなど共通する部分が多く認められ、同一の工房又は同系統の工人によって作られたと考えられます。「深大寺の銅造、釈迦如来倚像(飛鳥時代)は国宝」
今日は少し有名な深大寺をご紹介します。国宝の飛鳥時代の銅造釈迦如来像(白鳳仏)もあります。深大寺は733年に創建され、浅草寺と並んで東京では最も古いお寺の一つです。天台宗別格本山の寺です。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。以前に撮った門前の店と山門などの写真をお送りします。1番目の写真は山門の左にある店です。門前には名物の「深大寺ソバ」の蕎麦屋や土産物屋が沢山並んでいます。深大寺ソバは家内と何度も食べました。この土産物屋だけ特に示した理由は店の右に坂道があり、そこを登ると神代植物公園の東口があるからです。2番目の写真は深大寺の山門です。3番目の写真は本堂です。阿弥陀如来が本尊の本堂です。4番目の写真は本堂の左にある元三大師堂です。天台座主、元三慈恵大師の像...「東京で最古の寺、深大寺の写真」
私は1936年に仙台で生まれ24歳まで仙台に住んでいました。その間に何度も蔵王山に登りました。蔵王山は故郷の山なのです。その蔵王山に咲く花をインターネットで調べ幾つかみつけました。その写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1493です。1番目の写真はハクサンイチゲです。2番目の写真はシラネアオイです。3番目の写真はユキワリコザクラです。4番目の写真はミヤマオダマキです。「我が故郷、懐かしい蔵王山に咲く花の写真をお楽しみ下さい」
松島は故郷の仙台から仙石線の電車で1時間くらいです。仙台に住んでいた頃はよく行った曾遊の地です。そこで四季折々の美しい松島の写真をお送り致します。写真は、「松島の景色の写真」を検索して、出て来た多くの写真から美しいものを選びました。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。1番目の写真は松島湾を一望出来る大仰寺の庭からの眺めです。大仰寺は標高116メートルの山頂にあります。山を背に東、南、西の三方向が開けていて、島々が湾内に連なる様子が見えます。2番目の写真は松島湾の東側、宮戸島の大高森の山頂からの風景です。何度も登った山頂です。松島湾の向こうには遠く奥羽山脈の山々も望めます。3番目の写真は寒い冬が終わり桜が満開になっている松島の夕暮れ風景です。「西行戻しの松公園」という公園からの風景です。写真は、https://...「我が故郷、松島の四季折々の写真をお楽しみ下さい」
今日の散歩は小金井公園まででした.今日は曇りですが乾燥した軽やかな風が吹いていました。気分爽快に小金井公園まで行って来ました。「今日の散歩は小金井公園まで」
郷愁を誘う昔の町の面影をお送り致します。郷愁を誘う昔の町の写真が沢山掲載されているブログを見つけました。https://4travel.jp/travelogue/11815459です。そこから4枚の写真をお借りして示します。「郷愁を誘う昔の町の面影」
安曇野の奥、木崎湖や青木湖のさらに奥の白馬東急ホテルに泊ったことがありました。そのホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。バルコニーの椅子に座って眺めると、芝生に覆われた広い庭の向こうは森になっています。ヨーロッパの古いホテルの雰囲気でした。写真をお送り致します。1番目の写真は白馬東急ホテルの玄関です。写真はインターネットからお借りしました。2番目の写真は私どもが泊まった部屋と同じような部屋の写真です。写真はインターネットからお借りしました。ここのホテルを出て、暗い森の中を歩き、崖の道を下るとゴンドラの駅があり八方池まで登れたのです。そ八方池まで登る道からは、八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳など...「安曇野の奥の白馬東急ホテルの寫眞」
大糸線の大町駅から白馬駅の間に車窓から3つの湖が見えます。その周囲には何も無い静かな湖沼群で標高が一番高い西端の青木湖から中綱湖、そして木崎湖と農具川でつながっていて、木崎湖から流れ出ているのも農具川といい、それは高瀬川に合流し、信濃川になります。この仁科三湖は透明度の高い水で、遥か遠方には残雪の白馬連山が横たわっています。そんな美しい水をたたえた風景写真をお楽しみ下さい。大糸線の車窓から撮った写真です。そして下の写真はこの仁科三湖と北アルプスの山々ととの位置関係を示しています。この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E6%B9%96です。「安曇野の仁科三湖、木崎湖、中綱湖、青木湖の寫眞」
思い出ばかり書いているのは老人の悪い傾向です。と知りながら今日も書きます。安曇野の風景と大きな水車の思い出です。思い出すたびにすがすがしい気分になります。元気が出ます。そして老境を格調高く生きることが出来るのです。1番目の写真は残雪が輝く北アルプス連峰です。写真の出典は、https://www.kabegamikan.com/p/i.php?url=www.kabegamikan.com%2Fimg%2Fna14%2F169619.jpgです。2番目の写真は北アルプスの麓に広がる水田の風景です。写真はインターンットからお借りしました。続いて自分が2017年6月に撮った安曇野の清流と水車の写真をお送りいたします。3番目の写真は訪れた安曇野の山葵園の脇にある美しい流れの光景です。川底の藻がゆらゆら揺れていて、...「安曇野の風景と大きな水車の思い出」
武蔵野公園までの道すがら撮った写真です。順に真蔵院、小金井市立美術館、昔風の農家の写真です。「今日の散歩道の風景」
初夏の陽に輝く草原の風景です。今日は初夏の碧い空が広がっています。先程、その写真を撮って来ました。「初夏の陽に輝く草原の風景」
牡丹は花びらを何枚も重ね大輪の花を咲かせます。牡丹の花言葉は「王者の風格」「富貴」「恥じらい」です。原産国の中国では、観賞用の花として牡丹が大人気です。唐代の詩人・白居易は牡丹の人気を「街中の人が狂ったようだ」と記しています。その大きく鮮やかな花姿から、牡丹は「花王」「花神」とも呼ばれ、中国でもっとも格式の高い花とされました。その牡丹の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://news.biglobe.ne.jp/trend/0222/mwk_230222_4045486843.htmlです。「中国人が大好きな牡丹の花」
皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。ですから民主主義の日本の仮想敵国でしょうか?しかし私はその中国の数人の人と親しく付き合っていました。今日は中国の周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出を書いてみたいと思います。私は1981年に北京と瀋陽に行きました。私を紫禁城(故宮)、頤和園、明の13陵、万里の長城、天壇、北京原人の周口店、瀋陽の清朝の発祥の宮殿、そして文化大革命で荒らされたキリスト教の教会(天主堂)などなどに行きました。西安の大雁塔や玄奘法師の墓のある慈恩寺も行ました。1番目の写真は紫禁城、故宮です。この故宮は多くの日本人も観覧していますので説明は省略します。そして頤和園のいかにも離宮らしいロマンチックな雰囲気に圧倒されました。湖も山上の楼閣も素晴らしいのですが、特に美しい左右の風景を見な...「周恩来、鄧小平、胡耀邦、温家宝などの思い出」
昔の武蔵野にあった農家はそれぞれ屋敷森に囲まれていました。そんな屋敷森に囲れている家が現在の小金井市に数軒あります。今日は北はずれにある屋敷森の写真を撮ってきました。家は森に隠れて写真には写っていません。「昔の武蔵野の屋敷森の写真を撮って来た」
ある時代に繫栄していたが現在はすっかり忘れられている町が沢山あります。時代の変化についていけず寂れてしまうのです。私はそんな町を訪れて繁栄していた頃の様子を偲ぶのが好きです。現在住んでいる人の静かな息づかいが感じられ、しみじみと旅愁を憶えます。そんな町の一例に北海道の松前藩の松前町があります。北海道の南端にあります。以前に独りで旅をした曾遊の地です。今日はこの松前藩の歴史と独り旅の思い出を書いてみたいと思います。松前藩は徳川幕府に正式に認められた北海道唯一の藩でした。慶長九年(1604年)に徳川家康から安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、蝦夷地の交易の独占権を得ます。こうして日本最北の藩、松前藩が成立しました。(town.matsumae.hokkaido.jp)しかし領内に米の生産がないので、幕府の『武鑑...「北海道の魅力(2)松前藩の盛衰と現在の寂しい町の風景」
北海道は魅力溢れる旅先です。特に夏の北海道は暑くなく旅行が快適です。私も何度も旅を楽しみました。北海道には美しい湖や原野が広がっています。今日は美しい洞爺湖と隣接する新しい昭和新山をご紹介します。そして洞爺湖を見下ろすザ・ウインザー・ホテル洞爺をご紹介します。この地は千歳空港から近いので何度も訪れました。さて洞爺湖ですが、この湖は北海道の虻田郡の洞爺湖町にあります。周辺は支笏洞爺国立公園に指定されています。また、「日本百景」や「美しい日本の歩きたくなるみち500選」にも選ばれている美しい湖です。1番目の写真は洞爺湖の全景です。湖の中心に島のある大きなカルデラ湖です。2番目の写真は湖の中心の中島の近景です。島にはエゾシカが棲んでいます。洞爺湖には在来種のアメマス、ウグイ、ヨシノボリ、ハナカジカ等が棲んでいま...「北海道の魅力(1)洞爺湖、昭和新山、ザ・ウインザー・ホテル」
近所の道沿いに咲いているムクゲの花です。道沿いに沢山咲いています。素晴らしい7眺めです。「近所の道沿いに咲いているムクゲの花」
狭い庭にも花々が今年も綺麗に咲きました。家内が世話をしている花々です。「庭に綺麗に咲いた花々」
カトリック松原教会の今日のミサの動画配信は、https://www.youtube.com/watch?v=NQfCUMTgGW8にあります。「カトリック松原教会の今日のミサの動画配信」