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後藤和弘のブログ https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。 反対のご意見やコメントも歓迎しま

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2014/10/30

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  • 「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

    仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出を書きたいと思います。私は愛宕中学校をを1951年に卒業しました。それそれから61年目の2012年10月に仙台市愛宕中学校の第二回生の同窓会が秋保温泉でありました。私は卒業以来61年目に初めて仙台の同窓会に出席しました。若くして仙台を出てアメリカへ留学した私はそれ以来61年間仙台の中学校の同窓会へは不義理を重ねてきました。今回をもって最後にしますという案内状に誘われて出席しました。61年目に再会した懐かしい友人が皆笑顔で迎えてくれたのです。その折に幹事が配った名簿に物故者の名簿がありました。分かっているだけでも既に76名もの人が旅立っていたのです。2回生は全部で350人でした。その中に一緒に遊んだ友だちが数人もいたのです。亡くなったことも知らなかった私でした。長い間疎遠に...「仙台の愛宕中学校の友人たちの思い出」

  • 「年老いて懐かしい仙台一高のこと」

    年老いて懐かしく思うのは昔卒業した仙台一高でのいろいなことです。私は昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な仙台市立愛宕中学校から古い雰囲気の宮城県立の仙台一高に入ったのです。印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。旧制の仙台...「年老いて懐かしい仙台一高のこと」

  • 「老人になると昔の高校時代の友人がやたら懐かしく思う」

    老人になると昔のことがやたら懐かしく思うものです。今日は高校時代の友人の思い出を書きたいと思います。面白くないと思いますが、まあ一読してみてください。私は仙台一高を卒業しました。その高校時代に2人の友人がいましいた。一人の友人は野田君と言いました。彼はフルートを吹いていました。戦後のバラック建ての暗い彼の家の中で何度か美しいフルートの音色を聞かせてくれました。ガランとして貧しそうな家の中に澄んだフルートの音が響き渡ります。母子家庭だった彼の母は働いていたので家にはいつも誰もいませんでした。フルートの曲目を聞くとバッハの「トッカータとフーガ」だと言います。野田君は色の白い小柄な少年でした。無口で控え目な性格でした。その野田君とは高校卒業以来二度と会えません。消息不明なのです。どんな人生を送ったのでしょうか。...「老人になると昔の高校時代の友人がやたら懐かしく思う」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    今日の小金井公園の風景です。今日は青空です。午後から小金井公園まで散歩しました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」

  • 「日本の神社信仰の風景」

    今日は日本人と神社とのかかわりについてスケッチ風に簡単に描いてみたいと思っています。神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、もろもろの神様や偉い人達がご神体として祀ってあります。家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。多くの日本人は神社を遊び場にして育ったと思います。家内安全を祈った場所でした。この様な場所を持っている日本人は幸せだと思います。このように日本人と神社や神道とのかかわりは軽やかで一見重要でないようにも見えます。しかし神社や神道は日本民族の基底にある独特な文化の一部なのです。以下では数多くの神社の写真と富士山信仰の宗教的な登山の風景写真を掲載します。神社の写真は九州の祐徳稲荷神社と京都の賀茂別雷神社と北海道の札幌稲荷神社の写真です。祐徳稲荷神社は何年か以前に行きましたが日本一豪華な神社です。...「日本の神社信仰の風景」

  • 「日本の仏教の無力さを示す太平洋戦争と私自身の仏教体験」

    日本は統計的にみて約8470万人が仏教徒であり、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多い。世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。一方、現代の日本人は特定の信仰宗教、宗教観を持っていないものが大多数であり、自らを仏教徒と強く意識する機会は少ないがブリタニカ国際年鑑の2013年度版では99%の日本人が広義の仏教徒とされている。このような仏教国の日本が真珠湾攻撃をし太平洋戦争でアメリカと熾烈な戦争をしたのです。日本の仏教の無力さを示したのです。以下は、私自身の仏教とのかかわりを簡略に書いたものです。私自身の仏教体験です。1番目の写真は私の故郷の仙台市にある...「日本の仏教の無力さを示す太平洋戦争と私自身の仏教体験」

  • 「キリスト教の無力さを示すウクライナの戦乱」

    ウクライナもロシアもキリスト教国です。キリスト教の正教という同じ宗派です。そこで今日はキリスト教の無力さを示すウクライナの戦乱を書いてみたいと思います。キリスト教の無力さを考えてみたいと思います。ウクライナの宗教は、東方正教会(ロシア正教)72%、東方典礼カトリック教会(ロシア正教の礼式でカトリックを受容)14.1%、プロテスタント2.4%、カトリック1.7%、イスラム教0.6%、ユダヤ教0.2%、その他9%となりました。2003年の統計です。ですからウクライナ人の大部分、90%以上はロシア正教を信じているのです。「汝殺すなかれ」と教えるキリスト教を信じているのです。ウクライナとロシアの教会の写真を示します。1番目の写真はウクライナのキエフにある聖ヴォロディームィル大聖堂です。。2番目の写真はモスクワにあ...「キリスト教の無力さを示すウクライナの戦乱」

  • 「東京23区内にある9つの乗馬クラブ」

    東京23区内にある9つの乗馬クラブでは初心者でも安心して楽しめます。詳しくは、https://www.uma-crane.com/tokyo23wards-clubsをご覧ください。「東京23区内にある9つの乗馬クラブ」

  • 「春の陽射しに水ゆるむ」

    今日は暖かく春が来たようです。陽射しに水ゆるむ風景の写真をお送り致します。先程、武蔵野公園で撮りました。「春の陽射しに水ゆるむ」

  • 「世界に現存する唯一の野生馬の、モウコノウマ」

    野生馬は、1878年にロシアの地理学者・探検家ニコライ・プルジェワリスキー(1839~1888年)によって発見されたが、1960年代後半までにほぼ絶滅した。その理由は、1944~1945年の極めて厳しい冬で、生息数が激減したせいです。現存するはすべて、当時世界各国の動物園や自然保護区に残っていた野生馬の子孫まのです。モウコノウマは、ロシア版レッドブックおよび国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストに記載されています。世界のいくつかの国では生息数回復の取り組みがなされています。その結果、ロシアのオレンブルク草原では2018年に最初の子孫が誕生し、現在、当地の馬の数は約100頭に増えています。(https://jp.gw2ru.com/travel/216606-przewalski-roshia-yase...「世界に現存する唯一の野生馬の、モウコノウマ」

  • 「木曽馬の開田高原への小さな旅」

    以前に木曽の開田高原に1泊2日の小さな旅をしました。この旅のテーマは日本在来種の木曽馬をたずねることです。木曽福島の関所跡から御嶽山の麓を西に登った広い開田高原には木曽馬の放牧場があるのです。気性の優しい働き者の小型の馬が群れ遊んでいます。元気に走り回っている馬もいます。今年生まれた子馬が母親と並んで歩いています。嗚呼、はるばる来て良かったなと感じる光景でした。山下家の加村金正さんが詳しく木曽馬の飼育方法、馬市へ出す時の家族との別れのことなどを話してくれました。山下家は代々、多数の馬を農家に預け、飼育して貰い馬市へ出していたそうです。馬の売上金の四分の一だけを飼い主へ与え、四分の三は山下家のものにしていたそうです。その一番盛んな頃は毎年300頭の馬を馬市へ出していたといいます。それでは撮ってきた写真を示し...「木曽馬の開田高原への小さな旅」

  • 「人と馬が遊んでいる写真」

    埼玉県の新座乗馬クラブは雑木林に隣接した広い乗馬クラブです。人と馬が遊んでいる様子を見るとくつろいぎます。3枚の写真は女の人が馬と遊んでいる風景です。馬が楽しそうに走り回っていました。なお新座乗馬クラブの詳細は、http://nojimagroup.sakura.ne.jp/jouba.htmに出ています。新座乗馬クラブの動画も是非ご覧下さい。https://www.youtube.com/watch?v=SqD2Lns6Aggにあります。「人と馬が遊んでいる写真」

  • 「人と馬との絆を楽しむ八王子乗馬倶楽部の写真」

    乗馬クラブのことを書きたいと思います。乗馬クラブは北海道から沖縄県まで数多くあります。乗馬クラブの良いことは会費さえ納めれば、老若男女、誰でも馬に気軽に乗れることです。その上、多くの乗馬クラブでは乗馬する人に馬の世話をさせます。すると人と馬の絆が深まり乗馬する人の意思のままに馬が言うことを聞くようになるのです。こうして乗馬クラブでは単に乗るだけでなく、人と馬との温かい絆を楽しむことが出来るのです。以前に八王子乗馬倶楽部に行って写真を撮って来ました。撮った写真をお送りいたします。1番目の写真は乗馬初心者の若い女子の写真です。姿勢が悪く、数分見ていると鞍にしがみ付くような行動をしていました。2番目の写真はかなり上達した女子の写真です。姿勢が良く馬を好きなように走らせています。自分の膝を折り上下の揺れに対してク...「人と馬との絆を楽しむ八王子乗馬倶楽部の写真」

  • 「妻の影響で馬が好きになった」

    結婚して非常に驚いたことは妻からの色々な影響を受けることです。皆様も程度の差があっても同様と思います。特に理系だった私は妻から文学や芸術の楽しみ方を教わりました。印象派の油彩画の素晴らしさが分るようになりました。茶道、華道の面白さが分るようになりました。日本文学や西洋文学も少し理解出来ます。そして吃驚したのは他所の家の犬や猫が寄ってきて体を家内に摺り寄せることです。家内に驚いたことは沢山ありますが今日は一つの例だけをご紹介したいと思います。それは妻は馬を見ると駆け寄り、猫や犬のように撫でまわし可愛いがるのです。私は馬が怖くて傍に寄れません。馬に噛みつかれそうで恐怖で足が止まるのです。1番目の写真は以前に北海道で妻が大型の欧米系の道産馬に駆け寄り撫でまわし可愛いがっている場面です。馬も嬉しいのか妻にすり寄っ...「妻の影響で馬が好きになった」

  • 「箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館」

    箱根は東京から2時間以内に行ける観光地です。小田急のロマンスカーだけでなく新幹線の小田原駅乗換えで湯本や強羅に簡単に行けます。湯本から芦ノ湖、仙石原、宮ノ下、大涌谷などなどへは頻繁にバスやケーブルカーが出ていて交通が至極便利に出来ています。勿論、車で行っても便利です。自然の中の散策が好きなら芦ノ湖畔の遊歩道や仙石原の広大なススキ原があります。そして仙石原には魅力的な湿性植物園があります。東海道の歴史に興味のある人のためには箱根の関所の建物が精巧に復元されています。往時の杉並木もあります。芸術の好きな人のためには箱根彫刻の森美術館やポーラ美術館や成川美術館や岡田美術館があります。ヨーロッパの香りがする工芸品の展示場として箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館もあります。そして星の王子さまミュージアムもあり...「箱根ガラスの森美術館と箱根ラリック美術館」

  • 「山梨県立美術館をご紹介致します」

    思い返すと以前は随分と美術館を見て回ったものです。日本各地の県立美術館も幾つも見ました。特に山梨県には私の山小屋があるので山梨県立美術館と文学館へは何度も訪れしたました。そこで今日は山梨県立美術館と文学館をご紹介したいと存じます。山国の甲府に堂々たる県立美術館と文学館が並んであるのです。内容が充実し、敷地や建物が広大で芸術的に設計、配置されています。野外にはロダンやザッキンや岡本太郎の大作も展示してあります。南アルプスを望むロケーションが素晴らしいのです。感動したので数回訪れました。1番目の写真は大きな彫刻が並んでいる美術館の前庭です。この美術館は特に絵画の蒐集方針が立派なのです。ジャンフランソワ・ミレーとバルビゾン派にこだわり、根気よく収集を続けています。ミレーの傑作だけでも20点ほどを収集、展示してあ...「山梨県立美術館をご紹介致します」

  • 「霧が流れる美ヶ原高原美術館の野外展示の大きな彫刻」

    美ヶ原高原美術館は遥かに遠い天空の上の野外展示の美術館です。標高は2004mです。4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。(〒386-0507長野県上田市武石上本入美ヶ原高原)この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな作品です。美ヶ原高原美術館と箱根の彫刻の森美術館と比較すると感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。それでは早速、7枚の写真で霧が流れる...「霧が流れる美ヶ原高原美術館の野外展示の大きな彫刻」

  • 「日本の経済急成長の後の立身出世主義の消滅と価値観の変化」

    日本は第二次大戦後に復興期があり、続いて経済の高度成長期があり、そのGDPが世界で2位になりました。この日本の高度成長を支えてきたのは欧米の技術を導入した工業技術の進歩によるものでした。この高度成長にはいろいろな要因があります。政府の経済政策、資金調達に関する法律の整備、工業団地の設置、アメリカ式の経営と品質管理方法の導入などなど多数の要因の相乗効果で経済の高度成長が起きたと考えられます。そしていろいろな分野で優秀な人材が集まらなければなりません。その中で重要なものの一つは、優秀な技術者を集めることです。そしてそれを育てる大学の工学部の学生が熱心に勉強することが非常に重要です。日本の復興期と高度成長期の工学部の学生は猛烈に勉強をしたものです。大学を卒業して会社に就職した後も、技術者は職場で熱心に勉強会を開...「日本の経済急成長の後の立身出世主義の消滅と価値観の変化」

  • 「午後の散歩は小金井駅前の広場まで」

    青空です。午後の散歩は小金井駅前の広場までの往復です。日差しは明るいのですが冷たい風が吹いてました。途中にある上野原公園でも子供の写真を撮りました。1番目の写真と2番目の写真は小金井駅前の南側の広場です。3番目の写真と4番目の写真は上野原公園です。「午後の散歩は小金井駅前の広場まで」

  • 「ドイツを荒廃させた30年戦争の凄惨さ」

    ある民族の歴史はそこに住んでみないと本当には判らないものです。1969年から1970年にかけて一年余、ドイツのローテンブルグとシュツットガルトに家族と共に住んだことがありました。そこで私は「30年戦争」のことを初めて聞きました。私が知らなかった大戦争です。この「30年戦争」はドイツだけでなく全ヨーロッパを荒廃させた大戦争でした。しかし日本の学校ではこの30年戦争の事は殆ど教えません。日本の学校教育の欠落知識です。今日はこの「30年戦争」のことをご紹介したいと思います。「30年戦争」のことはドイツ人からさんざん聞かされました。ドイツ人の歴史にとって「30年戦争」は日本人の「関ヶ原の戦い」のように大変重要な戦争だったのです。そのことが、住んでみて、はじめて身に沁みて理解出来ました。例えば「アルト・ハイデルベル...「ドイツを荒廃させた30年戦争の凄惨さ」

  • 「驚いたドイツ人の趣味、大きな電気機関車を所有する趣味」

    近代国家は個人を尊重し、個人の自由を守る社会で出来ています。個人の権利を可能なかぎり拡大し、保護する社会です。欧米で暮らした経験のある日本人はしみじみと「嗚呼、日本はまだまだだ!」と思い知ることに何度も遭遇します。今日は大きな電気機関車を所有し運転する趣味を持っているドイツ人をご紹介したいと思います。先ず写真をご覧下さい。1番目の写真は大井川沿いを走る蒸気機関車の写真です。皆様はこの蒸気機関車を買って個人所有をしたいと思いませんか?自分で運転して日本の各地を走ってみたいと思いませんか?蒸気機関車を一人で運転するのは難しいものですが、電気機関車なら一人で運転する趣味ができそうです。そんな究極の趣味を楽しんでいる女の人がドイツにいるのです。バーバラ・ピルヒさんという51歳の女性です。2番目の写真はバーバラさん...「驚いたドイツ人の趣味、大きな電気機関車を所有する趣味」

  • 「ヨーロッパの悲惨な戦災とマックス・プランク研究所の思い出」

    第二次世界大戦でヨーロッパの大都市はドイツ軍によって徹底的に破壊されました。その荒廃した都市の写真をご覧下さい。1番目の写真はドイツ軍によって破壊されたソ連のミンクス市です。写真はインターネットからお借りしました。2番目の写真はドイツ軍の空襲下のロンドンです。3番目の写真はドイツ軍によって破壊されたチェルブルクです。ドイツでは1945年4月30日ヒトラー自殺し、1945年5月7日ドイツが西側の連合国軍に降伏しました。1945年5月9日にはドイツがソ連に降伏して第二次世界大戦が終わりました。各国の戦死者数はソ連の1450万人が図抜けて多く、ドイツの280万人がこれに次いで多くなっています。中東欧のオーストリア、ポーランド、ルーマニアも、それぞれ40~85万人と多かったのです。第二次世界大戦は歴史上もっとも大...「ヨーロッパの悲惨な戦災とマックス・プランク研究所の思い出」

  • 「お遍路さんにまつわる写真」

    日本人ならお遍路さんのことを知っています。実際に歩けなくとも何となく憧れています。「お遍路」とは、約1200年前に弘法大師(空海)が修行した88の霊場をたどる巡礼のことです。お遍路する人のことを「お遍路さん」と呼びます。巡礼の旅は徳島からはじまり、高知、愛媛、香川の順にめぐるものでず。「回遊型」の参拝ルートが特徴です。その道のりは約1400kmにも及び、すべての札所を巡拝することで願いが叶ったり、弘法大師の功徳を得られるといわれています。地元の人の笑顔やあたたかいもてなし「お接待」も魅力のひとつです。お遍路さんにまつわる写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.iyokannet.jp/feature/henro/kihonです。「お遍路さんにまつわる写真」

  • 「広島のカトリック曙町教会の今日のミサの風景」

    2月23日年間第7主日のミサの写真です。広島のカトリック曙町教会のミサです。「広島のカトリック曙町教会の今日のミサの風景」

  • 「2月23日 年間第7主日のミサの動画配信」

    広島のカトリック曙町教会の今日のミサです。https://www.youtube.com/watch?v=7W7UczMGvgo第1朗読サムエル記上26章2、7~9、12~13、22~23節第2朗読コリントの信徒への手紙一15章45~49節福音朗読ルカによる福音書6章27~38節〒730-0016広島県広島市中区幟町4-42TEL082-221-0621FAX082-221-8486「2月23日年間第7主日のミサの動画配信」

  • 「浅草の「駒形どぜう」の歴史」

    「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。初代が始めたどぜうなべ・どぜう汁に加え、三代目助七がくじらなべを売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあっ...「浅草の「駒形どぜう」の歴史」

  • 「農家を見ると戦争中の疎開生活とドジョウ汁を思い出す」

    小金井公園にある江戸東京たてもの園には3軒の昔の農家が展示されています。農家を見ると戦争中の疎開生活のいろいろを思い出します。広い水田や田舎の小学校などを思い出します。終戦の玉音放送はその小学校の校庭で聞きました。いろいろを思い出しますが印象深かったのはドジョウ汁でした。そこでドジョウ汁をご紹介したと思います。私は弟2人と共に宮城県の北の農村に疎開しました。そこでドジョウ汁を初めて食べました。農家の夕飯によく出たのです。江戸東京たてもの園の昔の農家を見る度にそんなことを時々思い出します。1番目の写真は私が疎開した宮城県の北の農村によく似た農村の風景です。写真はインターネットからお借りしました。疎開した農家で馬を飼っていました。珍しいので草をよく食べさせました。2番目の写真は大鍋がぶら下がった囲炉裏の写真で...「農家を見ると戦争中の疎開生活とドジョウ汁を思い出す」

  • 「郷愁を誘う ”よろず屋” のある風景」

    昔、”よろず屋”は全国にありました。戦後しばらくしてスーパーマーケットが増えてくると次第に消えて行きました。でも地方に行くと”よろず屋”がまだ健在です。今日は郷愁を誘う”よろず屋”のある風景をご紹介致したいと思います。1番目の写真は小金井公園にある江戸東京たてもの園に展示してある小寺醤油店です。醬油店からはじめて”よろず屋”になった店です。大正期から、現在の港区白金で営業していた商店です。味噌や醤油、酒類を売っていました。2番目の写真は小寺醤油店の商品です、ウイスキーや日本酒をはじめ色々なものを売っていました。3番目の写真は山梨県の私の山小屋の近所にある野本商店という”よろず屋”です。よくビールを買って山小屋で飲んだものです。4番目の写真は地方にある”よろず屋”の一例です。5番目の写真は現在でも健在な地方...「郷愁を誘う”よろず屋”のある風景」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    快晴ですが寒かったです。梅林がまだ咲いて美しいです。散歩しながら写真を撮って来ました。「今日の小金井公園の風景」

  • 「ルピナスの花の植物学」

    ルピナスという名前はラテン語でオオカミを意味するルプス(lupus)という言葉に由来する。牧野富太郎は、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させた、塚本洋太郎は、ルピナスが大地を破壊すると畏怖されており、そこからオオカミが連想されてこの名がついたと著書で言及している。これに対して中村浩は、語源はオオカミではなく、ギリシア語で悲哀を意味するルペー(リュペー、λύπη)であると推定する。ルピナスの豆(種子)は苦く、噛んだ人が苦虫を噛み潰したような表情になることが、その根拠であるという。暑さに弱く、暖地の気候にはあまり合わない。この属は、アメリカや地中海沿岸地域などに分布し300種類以上ある。古代には食用、飼料用、石鹸の材料として利用された。日本では、明治期に緑肥用作物として導入された。園芸植物としての...「ルピナスの花の植物学」

  • 「ニュージーランドの野原に自生する野生のルピナスの花」

    ルピナスの花は世界中に咲いております。南半球のニュージーランドにも咲きます。2枚の写真はニュージーランドの野原一面に自生するルピナスです。(https://naturenz.net/?p=3210)「ニュージーランドの野原に自生する野生のルピナスの花」

  • 「北海道の大雪山の麓に咲くルピナスの写真」

    北海道の大雪山の麓に咲くルピナスの写です。北海道でも種を蒔けばルピナスは咲きます。大雪山の麓では野生化して一面に咲いています。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx...です。「北海道の大雪山の麓に咲くルピナスの写真」

  • 「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」

    昔に南ドイツのシュツットガルトに住んでいました。西側には黒い森があります。郊外の草原をよく散歩したものです。そこにはルピナスが一面に咲いていました。懐かしい光景です。インターネットに「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」という写真集があります。(ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス-ルピナスのストックフォトや画像を多数ご用意-ルピナス,花,ルピナスブルーボネット-iStock(istockphoto.com))4枚の写真をお借りしてお送り致します。「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」

  • 「修善寺温泉と川端康成の『伊豆の踊子』」

    伊豆半島にまつわる話を書きます。修善寺温泉と川端康成の『伊豆の踊子』について簡略に書きます。修善寺温泉は何度か訪ねた懐かしい嘗遊の地です。修善寺温泉には夏目漱石、井伏鱒二などが滞在しましたことも有名です。修善寺川が流れており、私は河原の野天風呂にも入りました。川沿いには温泉旅館が並んでいました。町並みは昔風で伊豆の小京都のような雰囲気がありました。歴史的には1194年には源頼朝の弟の範頼が自刃に追い込まれた町です。また1204年には頼朝の子の頼家が暗殺されています。鎌倉幕府を作った源頼朝の所領地だったのです。岡本綺堂の「修善寺物語」に頼家の死をめぐる夜叉王とその娘達の桂と楓の話があります。写真に修善寺温泉の風景を示します。家内が撮った写真です。さて以下で端康成の『伊豆の踊子』のあらすじをご紹介します。出典...「修善寺温泉と川端康成の『伊豆の踊子』」

  • 「伊豆半島に遊び地質学の面白さを想う」

    以前に何度か車を運転して伊豆半島に遊びに行きました。三島から伊豆中央道路で、溶岩の盛り上がった中央山地を通り、天城峠を越え河津に下たこともありました。河津川の岸辺に延々と咲き乱れる河津桜のもとを散歩したのです。その時に河津で撮った菜の花の写真を示します。1番目の写真は河津川の岸辺に咲いていた菜の花です。河津で桜と菜の花をゆっくり見たあとは伊豆半島の東海岸沿いに熱川、稲取、伊東と北上し、火山の小室山の麓で金目鯛の昼食をとり、小室山に遊びました。2番目の写真は火山の小室山です。写真のように小室山は小さな火山で頂上までリフトで簡単に上がれます。頂上からは火山の大室山や富士山や大島の三原山が鮮明に見えます。この伊豆半島に来ると、その奇異な地形から地質形成の歴史への興味がむらむらと湧き上がってきます。そして伊豆半島...「伊豆半島に遊び地質学の面白さを想う」

  • 「遥かなる西伊豆の戸田と三津浜の美しい海の風景」

    私は駿河湾の向こうに富士山の見える風景が好きです。そんな風景の見える所は西伊豆の沼津から伊豆半島の三津浜から戸田にかけての西浦地方の海岸です。東京からは遥か遠方なので観光客がめったには行かない地域です。その戸田には昔、家内と泊まった楽しい思い出があります。それから駿河湾では北欧風のヨットで2009年に帆走した思い出もあるのです。ある晴れた日に家内と一緒に車で西伊豆の海岸の風景を楽しむ旅に出ました。西伊豆の旅の後は宇佐美に出て湯河原温泉に泊まりました。それでは伊豆半島の三津浜から戸田にかけての西浦地方の海岸の風景写真を示します。1番目の写真は内浦湾の重須ヨット係留地の風景です。ヨットのマストの上に富士山がぼんやり写っています。晴天でしたが富士山には薄い雲がかかっていて鮮明には見えませんでした。2番目の写真は...「遥かなる西伊豆の戸田と三津浜の美しい海の風景」

  • 「遥かなる伊豆、美しい伊豆半島の東海岸」

    伊豆半島は感動的の美しい自然に覆われています。自宅から遠い場所ですが何度も泊りがけで行きました。伊豆半島の東側の観光名所は城ガ崎海岸、一碧湖、池田20世紀美術館、稲取漁港、外浦海水浴場、爪木崎の野生の水仙群生地、須崎のえびす島、下田の玉泉寺、などなどです。私の旅日記をご紹介したいと思います。しかし旅日記の前に伊豆半島がどのようにして出来たかを書きたいと思います。伊豆半島は小さな火山の連続的爆発で盛り上がった山々が半島になったと考えられます。従って山々が急峻で、黒い溶岩が固まった凸凹の激しい地形になっています。溶岩がそのまま海に流れ落ちて崖になっていて、その崖が伊豆半島をぐるりと囲んでいます。それでも注意深く観察すると狭い砂浜が所々にあり小さい漁船が発着できます。堤防で囲って漁港が崖のくぼみにあります。溶岩...「遥かなる伊豆、美しい伊豆半島の東海岸」

  • 「忍野八海の水の美しさ」

    富士山の忍野八海は車で90分で行けるので気軽によく行きました。富士五湖の山中湖の傍にある昔風の集落の中にあります。忍野八海は特に水が綺麗で中を泳いでいるヤマメやマスが鮮明に見えます。なんとかして、水の美しさを写そうと、いろいろ苦心して撮影しました。水の美しさをご想像しながらお楽しみ頂いて下されば嬉しく思います。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)「忍野八海の水の美しさ」

  • 「冬の琵琶湖の風景」

    箱根の関から東側に一生住んでいると、「琵琶湖」が色々な意味で憧れの湖として心に棲みついてしまいます。そんな湖のほとりにネットの上での友人のちひろさんが住み、何時も感性豊かな写真をブログへ掲載しています。何故か写真作品へ心が引かれ何度も転載の許可を頂いて、このブログでご紹介して来ました。何度、掲載しても飽きないのです。今日も初冬の琵琶湖風景の写真を3枚ご紹介します。心が静かになり安らぐような写真です。初冠雪の山稜は比良山の山並みだそうです。(http://www.eonet.ne.jp/~hanamusasi/)尚、ついでにちひろさんからのご返事の一部も下にご紹介します。最近、あまり見ない美しい日本語ではありませんか?それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)====...「冬の琵琶湖の風景」

  • 「冬の武蔵野、雑木林の中の散歩道」

    以前に八王子の郊外の都立小宮公園によく行きました。四季折々の雑木林が美しい所です。冬の風景もよいものです。落葉した梢の美しいシルエットを飽かず眺めたのを思い出しました。冬の雑木林は静かで幻想的な雰囲気です。小宮公園の雑木林の中の散歩道の写真をお楽しみ下さい。「冬の武蔵野、雑木林の中の散歩道」

  • 「美しい韓国の風景写真」

    美しい韓国の風景写真をお送り致します。写真の出典は、https://www.istockphoto.com/jp/search/2/image-film?phrase=%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%80%80%E9%A2%A8%E6%99%AFです。「美しい韓国の風景写真」

  • 「韓国人はお祭りやイベントが好き」

    日本の技術援助で韓国南東地域の浦項に近代製鉄所が出来た。技術研究所の所長は、以前東京大学にいた金鉄祐氏でした。その頃、私も東大で働いていたので金鉄祐氏と仲良くなりました。その彼に招待されて韓国へ講義に行ったのです。1985年に妻と一緒に行きました。そうしたら韓国人は祭りやイベントが好きなのです。祭りやイベントを開催して楽しく暮らしているのです。日本人の祭り好きとよく似ています。そんな韓国の祭りの様子は、「韓国のお祭り2014」に数多く紹介してあります。その中から私の気に入った祭りを5つ選んでご紹介いたします。http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_5.jsp?cid=977374を開けてみて、あなたのお好きな祭りを選んでみるのも楽しいと思います。(1...「韓国人はお祭りやイベントが好き」

  • 「韓国にある仏国寺や海印寺などの写真」

    日本にも貴重な文化遺産があります。奈良の唐招提寺や京都の高台寺などなどです。同じように韓国にも素晴らしい世界遺産のお寺があります。今日は韓国の世界遺産の仏国寺や海印寺などのを写真でご紹介いたします。写真の出典は、https://www.travelbook.co.jp/topic/18683です。1番目の写真は韓国の世界遺産の「宗廟」です。お寺です。牌を祀ってあります。朝鮮王朝の歴代王と、そして王妃の位牌を祀っており、神聖な場所として知られています。2番目の写真は世界遺産の「仏国寺」です。仏教芸術の最高傑作かつ国宝の寺院とされている仏国寺は理想的な彼岸の世界観が表現されております。この仏国寺は1982年に家内と訪問したことがあります。3番目の写真は韓国の世界遺産の「慶州歴史地域」です。慶州市周辺の史跡や古...「韓国にある仏国寺や海印寺などの写真」

  • 「恩を絶対に忘れない韓国人、金鉄佑さんの思い出」

    今日は恩を絶対に忘れなかったある韓国人の思い出を書いてみたいと思います。それは韓国の浦項製鉄所の技術研究所の所長をしていた金鉄佑さんのことです。金鉄佑さんは2013年の暮れに亡くなりましたが忘れ得ぬ人です。浦項総合製鉄は現在、英語名の「PohangIronandSteelCompanyLimited」を略してPOSCO、ポスコと呼ばれている大会社です。さて話の発端は1962年から1966年の昔のことです。当時、六本木に東京大学工学部付属研究所の「生産技術研究所」がありました。そこは現在、国立美術館になっております。その生産技術研究所の製鉄部門の雀部高雄教授の研究室に金鉄佑さんが所属していました。私も東大の工学部で製鉄技術を専門にしていたので雀部教授の研究室によく遊びに行っていました。当時、金鉄佑さんは、そ...「恩を絶対に忘れない韓国人、金鉄佑さんの思い出」

  • 「今日の小金井公園の風景」

    賑やかな陶器市も終わって小金井公に静かさが戻ってきました。落ちついた気分で散歩してきました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の小金井公園の風景」

  • 「中国人は信義に篤い」

    中国人は信義に篤いと言います。一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。私にはそんな中国人の友人が2人いました。一人は北京鋼鉄学院の周栄章教授で、もう一人は瀋陽にある東北工学院の金応培教授です。しかしこの2人は紛れもない立派な共産党員でした。しかし個人的な付き合いの中では共産党員らしさが微塵も無いのです。中国人は権力者には従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。そんな周栄章さんとの付き合いの中で、楽しかったこと、感銘を受けたことをもう少し書いて置きたいと思います(1)周栄章さんに連れて行ってもらった北海公園~仿膳飯荘あれは確か、1980年のある秋の夜でした。下の写真の北海公園の石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だ...「中国人は信義に篤い」

  • 「北京に咲く花々の写真」

    北京に咲く花々の写真をお送り致します。写真の出典は、http://kamakura.travel.coocan.jp/beijinflower.htmlです。1番目の写真は天安門前に咲くキク・サルビアなど秋の花々の写真です。2番目の写真は王府井天主堂前に咲く黄色いパンジーの花の写真です。3番目の写真は恭王府花園に咲く薄紅色のハナカイドウの花の写真です。4番目の写真は頤和園長廊前に咲く菊の花の写真です。「北京に咲く花々の写真」

  • 「京ダックと周栄章さんの思い出」

    筆者を1980年から何度も北京へ招待してくれたのは北京鋼鉄学院の周教授でありました。もう故人になってしまいましたが友情の深い、年上の男でした。1945年頃には既に天津の北洋大学の学生だったそうです。学生共産党員として天津を国民党の軍隊から解放する作戦へ参加し、解放後は天津市の行政に参加した時期もあったと話していました。善い共産党員の見本のような人で、何時も北京の貧しい人々への同情を話していました。よく私を庶民的な北京ダック専門店へ招待してくれました。そして北京ダックの美味しい店は少し汚くて、観光客の来ない所ですと教えてくれます。彼は北京鴨が自慢なのです。縦長の白い顔は眉が太く、昔の中国の大人の風貌です。いつも静かな微笑みを浮かべ、ゆっくりした英語で話し合いました。以下は1980年代の終わりころ、残留孤児が...「京ダックと周栄章さんの思い出」

  • 「今日の都立武蔵野公園の風景」

    曇り日で鮮明な写真は撮れませんでした。でも珍しく野川に白鷺が来ていました。東松山の鷺山を思い出しました。撮ってきた写真をお送り致します。「今日の都立武蔵野公園の風景」

  • 「仏教とキリスト教の皮相的な違い、お気軽にご覧下さい」

    宗教というものはやっかいなものです。ある宗教の一つの宗派に属して、ある程度の修行をしないとその宗派の教えが理解出来ないのです。従って仏教を信じている人はキリスト教が理解出来ません。その逆も真なのです。私はカトリックを少し信じています。その立場で仏教とキリスト教の違いを書けば、必然的に皮相的になります。日本の仏教はお釈迦さまの死後400年位の間にインド人の宗教指導者がいろいろ改革して出来たものです。ですから当然、日本の仏教はお釈迦さまの教えと変わっています。その相違を示すと次のようになります。1)釈迦は自分が死んだら墓を作らず、遺骨は野に捨てよと言って入滅しました。しかし日本の仏教では先祖の墓を大切にし、お寺はお墓の管理で収入を得ています。(2)釈迦は全ての像を拝んではいけない。仏像など作ってはいけないと教...「仏教とキリスト教の皮相的な違い、お気軽にご覧下さい」

  • 「今日の第6主日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサ」

    今日の第6主日は東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにインターネットを通してあずかりました。動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/Qe9B8C3_g1wカトリック聖イグナチオ教会のミサの風景の写真をお送り致します。聖イグナチオ教会住所・連絡先102-0083〒東京都千代田区麹町6-5-1電話:03-3263-4584Fax:03-3263-4585ホームページ:http://www.ignatius.gr.jp/JR中央線・総武線、東京メトロ丸ノ内線・南北線「四ツ谷駅」下車すぐ。「今日の第6主日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサ」

  • 「小金井公園の梅林の今日の風景」

    風も無く暖かい日です。午後から小金井公園まで散歩しました。梅林の花が美しく咲いてました。撮ってきた写真をお送り致します。「小金井公園の梅林の今日の風景」

  • 「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

    1960年に留学した時非常にお世話になったのが黒田さんでした。オハイオ州のコロンバスにある州立大学に私が留学した時です。大学の留学生受け入れ事務所に黒田さんは車で私を迎えに来てくれたのです。黒田さんはそのまま彼が住んでいた家に私を連れて行き2階の一室を私に与えてくれました。その家にはアメリカ人の学生3人と日本人の留学生3人が住むことになったのです。部屋は別々でしたが料理場と食堂は6人一緒です。黒田さんは男っ気の九州男児でした。6人の同居人の親分のような人でした。弱気なアメリカ人の学生を勇気づけていました。隣の家のアメリカ人一家と仲良くしていました。私は大らかな九州男児の黒田さんと同じ家に1年間住んでいたのです。日本から呼び寄せた婚約者とオハイオで結婚した時も披露宴などの写真を沢山撮ってくれました。オハイオ...「懐かしいある友人とオハイオの思い出」

  • 「初めて留学したオハイオ州立大学の写真」

    老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験装置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。4番目の写真はこ...「初めて留学したオハイオ州立大学の写真」

  • 「午後の散歩は武蔵野公園までの往復」

    今日は風も無く穏やかな晴天です。午後の散歩は武蔵野公園まででした。「午後の散歩は武蔵野公園までの往復」

  • 「遥かなスエーデン王国への旅の思い出」

    スエーデン王国はヨーロッパの北にあり日本からは遥かに遠い国です。今日は1974年に旅したスエーデン王国への旅の思い出を書きたいと思います。私を招待してくれたエケトルプ教授の思い出も書きたいと思います。スエーデン王国は北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島にある立憲君主制国で、首都はストックホルムです。北欧諸国のひとつであり西にノルウェー、東がフィンランド、南はデンマークと国境を接しております。バルト海を挟む形でバルト三国やポーランドとも近い国です。人口は1045万人で北欧諸国では最大の人口です。住民の大半は北方ゲルマン系のスウェーデン人ですが北部には少数のサーミ人とフィン人が暮らしています。宗教は国教であるルーテル教会が大多数を占めています。言語はスウェーデン語が公用語であり他にサーミ語やフィンランド語など...「遥かなスエーデン王国への旅の思い出」

  • 「ドイツの紅葉の思い出」

    ドイツの紅葉は緯度が高いので、急に真っ赤、真っ黄色になって、冷たい雨が降って、すぐに散ってしまいます。その紅葉の色は鮮烈です。もうすっかり遠い昔になってしまいましたが、1969年の9月に見たローテンブルグの町の紅葉は忘れられません。城壁の外の住宅に下宿していたので、毎日、車で城門をくぐり、ドイツ語学校へ通ったものです。そして日が暮れ行くころには、タウバウ川のほとりから、紅葉に彩られた町を囲む城壁が夕陽に輝くのを毎日見上げたものです。それはいつも独りで見上げていた晩秋の風景でした。異国の秋の夕暮れは何故かもの悲しいものでした。そんなドイツの紅葉を思い出したのでネットに写真が無いか探してみました。そうしたら、「もうすけさん」のブログ(http://mo-suke1122.blog.so-net.ne.jp/2...「ドイツの紅葉の思い出」

  • 「地方色豊かなドイツのカーニバルの写真」

    「カーニバル」は、特にラインラント地方やドイツの中でもカトリックの影響が強い地方の古い風習です。その中心地はマインツ、ケルン、デュッセルドルフ、ボンです。南ドイツではアレマン地方の伝統的ファスネットを祝います。https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/willkommen/karneval-gegend/9672961番目の写真はケルンのカーニバルです。2番目の写真はデュッセルドルフのカーニバルの王子です。3番目の写真はチューリンゲン州ヴァーズンゲンのカーニバルです。4番目の写真はソルビア地方のカーニバルです。ソルビア地方のカーニバルドイツ東部の少数民族ソルブ人の独自の風習を持っています。冬を追い出すため、騒々しい音を立てながら村の中をねり歩く、この仮想した集団は、村はずれま...「地方色豊かなドイツのカーニバルの写真」

  • 「ドイツの冬の暗さと『30年戦争』」

    ドイツは日本の同盟国として第二次世界大戦をともに戦った国でした。当時日本の新聞や雑誌にはドイツの良いことが沢山書かれていました。戦前は日本人の憧れの国だったのです。昭和11年生まれの私にとっても理想の国に思えたのです。しかし日本よりも早く降伏したのでドイツの見方が少し変わりました。それでもドイツに留学したいと思い続けていました。それが実現したのは1969年から1970年でした。1960年から1962年のアメリカ留学の後でした。1969年の8月にドイツに到着しました。それから家族をよんで1970年の11月までシュツットガルトに住みました。娘はドイツの小学校に、息子は幼稚園に通いました。家内は教会の旅行や買物等の日常生活を楽しんでいました。南ドイツに住んでいたのでスイスやフランスにも旅しました。ドイツに住んで...「ドイツの冬の暗さと『30年戦争』」

  • 「ドイツ留学で理解できたハプスブルグ家の絶大な影響」

    ドイツには1969年の夏から1970年の秋まで一年4ケ月住んでいました。そして一番吃驚したことはヨーロッパは国々や地域によって文化が非常に違うということでした。日本から眺めると西洋文化という一つの文化があるように見えますが、住んでみると国々や地域によってそれぞれ歴史や文化が非常に違うのです。ドイツも北では「こんにちは」はグーテンターグと言いますが、私共が住んでいた南ドイツではグリュースゴットと言います。言葉だけでなく考え方が違うのです。シュツットガルトでアパートを探しましたらシュバーベン出身の人以外には貸さない家主が多いのです。シュツットガルト地方は昔、シュバーベン王国だったのです。要するに地元の人にしか貸さないのです。新聞広告にはっきり「シュバーベン人に限るに」と明記してあります。理由を聞くとシュバーベ...「ドイツ留学で理解できたハプスブルグ家の絶大な影響」

  • 「陽光に輝く花園の写真」

    春らしい陽光がふりそそいでいる花園の写真を送ります。先程小金井公園で撮ってきた写真をお送り致します。「陽光に輝く花園の写真」

  • 「青空に輝く梅の花」

    今日の小金井公園の梅林は青空に輝いているのです。思わず息を飲みました。撮って来ました写真をお送り致します。「青空に輝く梅の花」

  • 「スイスの隣にあるリヒテンシュタイン公国の紹介」

    スイスの隣にあるリヒテンシュタイン公国の面積は南北に25キロメートル、東西に6キロメートルと狭い国です。日本の小豆島とほぼ同じです。世界で6番目に小さい国です。昔スイスへ遊びに行った途中に何度も通り抜けました。懐かしいので首都の写真を示します。リヒテンシュタインの料理は、周辺国の料理であるスイス料理、ドイツ料理、フランス料理に共通したものが多いです。チーズフォンデュ、オムレツ、シュニッツェル、ザワークラウトなどがよく食べられています。住民はドイツ系が大半で、ゲルマン系のドイツ・アレマン人が86%、その他イタリア人、トルコ人などが14%です。分かりやす言えばドイツ文化圏です。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%86...をご覧...「スイスの隣にあるリヒテンシュタイン公国の紹介」

  • 「美しいスイスの風景」

    美しいスイスの風景の写真です。写真は「スイスの風景の写真」を検索して、インターネットの写真から美しい写真を選びました。「美しいスイスの風景」

  • 「曾遊の地、スイスの風景の写真」

    南ドイツに住んでいた頃にスイスは近いのでよく行きました。懐かしいです。スイスの風景の写真をお送り致します。写真は順に、グリンデルワルト、インターラーケン、ルツェルン、マッターホルンです。昔、旅した懐かしい曾遊の地です。写真の出典は、https://www.nta.co.jp/media/tripa/articles/sLyW0です。それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)「曾遊の地、スイスの風景の写真」

  • 「思い出のホテル(15)スイスの恐怖の民宿」

    ドイツでの生活は1969年の夏から始まりました。シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年3ケ月の研究生活をしました。シュツットガルトはスイスとフランス南東に近い所です。ですから週末にはスイスのアイガー山麓やレマン湖によく行きました。インターラーケン、ボーデンゼー、シャッハハウゼンなどスイスへ何度も訪ねました。フランス南東部のストラスブルグ市にも旅しました。すべてオペル・レコルトという車で家族旅行をしました。住んでいたシュツットガルト市からここまで車で4時間弱かかりました。1番目の写真はアイガーの麓の町のグリンデルヴァルトです。ここに泊りました。ケーブルカーで更に高台に登りアイガーやアルプスの山稜の眺望を楽しみました。グリンデルヴァルトへは下のインターラーケンから登山電車で行ったこともあり...「思い出のホテル(15)スイスの恐怖の民宿」

  • 「小金井の野川を見て山林の中の小屋の小川を思い出す」

    今日の散歩は小金井の野川そいの道でした。歩きながら山梨の山林の中の小屋の小川を想ってました。60年以上前に建てた小屋の庭に小川が流れているのです。写真は順に、小金井の野川、秋の山林の中の小屋の小川、夏の山林の中の小屋の小川、冬の山林の中の小屋の小川の写真です。「小金井の野川を見て山林の中の小屋の小川を思い出す」

  • 「函館では現在でも路面電車が走っている」

    函館では現在でも路面電車が走っています。市電で巡る絶景の場所は、https://www.hakobura.jp/courses/13に掲載されています。写真は函館の路面電車の最新型です。「函館では現在でも路面電車が走っている」

  • 「アメリカの次世代路面電車の写真」

    「次世代路面電車」はライトレール(LRT)とも呼ばれています。そんな「次世代路面電車」は都市部の輸送機関として、もともとは1970年代に北米で誕生したものです。「次世代路面電車」は路面電車より走行速度も速く都市型小型鉄道という乗り物です。写真をお送り致します。写真はサクラメント市内を走るライトレール。米国ではライトレール網を持つ大都市が多いようです。ドイツでも、1960年代にはライトレールと同様の性格を持つ「シュタットバーン」(都市間鉄道)が登場しています。もともとドイツは路面電車網が発達していたのです。写真の出典は、https://www.gaisha-oh.com/soken/light-rail-traffic/です。「アメリカの次世代路面電車の写真」

  • 「昔の仙台の市電の最終日の写真」

    何度も乗った仙台の市電は昭和51年に廃止になりました。その仙台市電の最終日の市電の写真をお送り致します。写真の出典は、https://pixta.jp/photo/63518878です。「昔の仙台の市電の最終日の写真」

  • 「時代の空気、都電の隆盛と消滅のものがたり」

    時代の空気とは何でしょう?日本の社会にある時代に流れていた空気のことです。その時代の社会の雰囲気です。それは煙のようにはかないものですが独特の香りや臭いを持っていました。その時代の空気のことを考えると楽しい思い出、悲しい思い出が心に浮かんできます。今日はそんな儚い時代の空気、そして都電の隆盛と消滅のものがたりを書いてみたいと思います。昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょ...「時代の空気、都電の隆盛と消滅のものがたり」

  • 「光の春、樹々のシルエット」

    梅だけは咲きましたが他の樹々は裸の梢が寒い風に揺れています。「春は名のみの風の寒さよ、、、」という歌のとうりです。小金井公園の樹々のシルエットの写真をお送り致します。「光の春、樹々のシルエット」

  • 「光の春、梅の花だけが淋しく咲いている」

    風は真冬です。しかし陽光が明るくさしてます。光の春です。寒風の中に梅の花だけが淋しく咲いています。そんな風景を先ほど小金井公園で撮って来ました。「光の春、梅の花だけが淋しく咲いている」

  • 「角谷まゆみ、「詩集 光の春』のご紹介」

    「この本に集められた詩は、2009年から2011年にかけての、およそ3年間の間に書いたものであり、30余年にわたる厳しい冬の後に訪れた春の喜びを歌ったものである。・・・・・・読者の皆様が、私に訪れた春を、共に楽しみ、寿いで頂ければ著者として、それに優る喜びはない。」(「あとがき」より)【目次】第1章光の春第2章順境の川第3章自由の大洋第4章何故はない第5章輝くためにこそ第6章神は陶工第7章穏やかな風景【詩の抜粋】永久の春(1)主の臨在の光が私の眼前を照らし、主の御心の愛が私の内で炎と燃えるとき、光と暖の内に、闇と冷たく凍る冬は終わりを告げるのだ。奇跡のように、永久の春が来た。「角谷まゆみ、「詩集光の春』のご紹介」

  • 「大きな陶器市の風景」

    小金井公園で毎年2月に大きな陶器市が開催されます。今日はその風景の写真をお送り致します。「大きな陶器市の風景」

  • 「今年も小金井公園の梅林が咲きだしました」

    2、3日前には、まだだったのに梅林が急に咲きだしましました。何故か嬉しくなって写真を撮りました。撮って来ました写真をお送り致します。「今年も小金井公園の梅林が咲きだしました」

  • 「年老いて静かに想う去年の我が家の庭」

    例年なら梅が満開になっています。今年は咲いていません。去年の庭の風景を思いその写真をお送り致します。最後の2枚の写真はこのコンピューターの向こうのい見える風景です。こんな風景を見ながら毎日文章を書いてます。「年老いて静かに想う去年の我が家の庭」

  • 「年老いて懐かしく想うアメリカ人の親切とオハイオ州の鍾乳洞と麦畑の風景」

    年老いて懐かしく想うのはアメリカ人の親切とオハイオ州の鍾乳洞と麦畑の風景です。アメリカ人の親切は留学したオハイオ州立大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。1番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。そこへ生後6か月の長女を家内が抱いて行った帰り道で車が故障しました。周囲はぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。ここでオハイオ州の田舎に似た風景写真も示します。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。2番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行く道によく似た麦畑の風景です。3番目の写真もオハイオ・...「年老いて懐かしく想うアメリカ人の親切とオハイオ州の鍾乳洞と麦畑の風景」

  • 「年老いて懐かしく想うのは初めて留学したオハイオ州コロンバス市の風景」

    懐かしく想うのは初めて留学したオハイオ州の風景です。留学したのはオハイオ州立大学でした。その大学は写真に示した中心街からノース・ハイ・ストリートを北に行った所にありました。。真面目に毎日通ったものです。大学のあるコロンバス市の写真です。「年老いて懐かしく想うのは初めて留学したオハイオ州コロンバス市の風景」

  • 「大学卒業後58年目のクラス会」

    私たちは67年前の1958年に東北大学の工学部金属工学科を卒業しました。クラスは32名でした。そのうち物故者は数名です。2013年の5月12日の午後5時から東京のアジュール竹芝というホテルで17名の出席で卒業後58年目のクラス会がありました。卒業後58年目の5月12日のクラス会に出席した人の集合写真を示します。紅顔の若い青年たちも58年年経つとこうなるのです。中に1人だけご婦人がいますが、竹内君の奥さんです。この会合は大体2年ごとに幹事2名が交代で開催してきました。仙台のそばの松島や盛岡のそばの温泉でもしましたが、その他は箱根や熱海、湯河原でしました。今回の幹事は管野君と香坂君でした。遠方から新幹線で来る人の便利を考えて東京浜松町に近いアジュール竹芝に設定してくれました。会場に行ってみて吃驚しました。こん...「大学卒業後58年目のクラス会」

  • 「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

    昭和11年生れの私は戦前、戦後に仙台市で少年時代を過ごしました。その頃日中戦争が起きやがて真珠湾攻撃があり悲惨な大戦争のあった時代です。今日は仙台の戦前、戦後の暮らしぶりの思い出を書いてみたいと思います。さて皆様が子供の頃に釣りをしたり、遊んだ川や沼はまだ現存していますか?皆様の子供の頃には炊事のための燃料や風呂釜の燃料は何だったのでしょうか?今日の私の話は昔、釣りをしていた三つの沼と燃料にしていた亜炭という不思議な燃料が跡形も無く消えてしまったという話です。完全に消えてしまったのです。これは小さな出来事ですが私にとっては大きなショックでした。それは故郷の仙台市の向山という地区のことです。その向山からは仙台の中心街が見下ろせる景色の良い所なのです。料亭や温泉旅館のあるささやかな仙台の観光地だったのです。そ...「少年の頃の思い出、消えてしまった沼と亜炭の煙」

  • 「大好きな広い景色の風景」

    私は広い景色が好きです。大好きです。見ると心が癒されるのです。今日も開けた景色を求めて武蔵野公園まで行きました。自然の中に身を置くことで疲れが無くなります。撮って来ました草原の写真をお送り致します。「大好きな広い景色の風景」

  • 「時が止まったような奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿の風景」

    時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そして死んで行きます。しかし古い農家とその周囲の風景は変わりません。古い宿場町の家並みの風景はシーンとして静かに時を刻んでいるだけです。以前の奈良井宿への旅で、その家並みの中を歩きながら人の生き死にの儚さを考えていました。写真をお送りします。1番目と2番目の写真はその時撮った中山道の奈良井の宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。3番目と4番目の写真は中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠の宿場町の風景です。数年前に3度ほど行きました。3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅見つめ直す旅」というブログです。素晴らしい旅行記のブログです。5番目と6番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠...「時が止まったような奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿の風景」

  • 「大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿の風景の写真」

    大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿の風景の写真を順にお送り致します。1番目の写真は大内宿です。2番目の写真は妻籠宿です。3番目の写真は馬籠宿です。4番目の写真は奈良井宿です。5番目の写真は海野宿です。「大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿の風景の写真」

  • 「江戸時代そのままの風景の亀山市の関宿」

    昔の風景を見ると胸がかきむすられるような気分になります。懐かしさで胸がいっぱいになります。そんな訳で古い宿場町も訪問してきました。私が何度も訪れた宿場町は大内宿、妻籠宿、馬籠宿、奈良井宿、海野宿などです。これらの宿場町については詳しいしい紹介記事を掲載いたしました。今日は江戸時代そのままの風景の亀山市の関宿をご紹介したいと思います。関宿(せきじゅく)があるのは三重県北中部の亀山市です。江戸時代に整備された53ある宿場のうち、東海道五十三次の江戸から数えて47番目がこの東海道の関宿です。参勤交代や、お伊勢参りの人々で賑わったこの宿場町は、昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されました。江戸時代の建物が今も大事に保存されています。その風景写真をお送り致します。写真の出典は、https:/...「江戸時代そのままの風景の亀山市の関宿」

  • 「中國原産の桃の写真」

    中国原産の桃は世界中で親しまれ、食用としても人気です。また桃は文学や漢詩、書画の題材としても広く取り上げられています。今日は中国に咲く桃の花の花の写真をお送り致します。写真の出典は、https://beststravel.com/chinapeachです。「中國原産の桃の写真」

  • 「桃の花の美しい写真」

    桃の花の写真を検索していろいろ探していたらあまりにも美しい写真があったのでお送り致します。桃の花は何故か縁が無く、ゆっくりと眺めたことが無かったのです。北アルプスの残雪の山稜の下に咲く桃の花は本当に華麗ですね。写真は「桃の花の写真」を検索して、インターネットにある多数の写真から選ました。「桃の花の美しい写真」

  • 「桃の花の美しい写真」

    桃の花の写真を検索していろいろ探していたらあまりにも美しい写真があったのでお送り致します。桃の花は何故か縁が無く、ゆっくりと眺めたことが無かったのです。北アルプスの残雪の山稜の下に咲く桃の花は本当に華麗ですね。写真は「桃の花の写真」を検索して、インターネットにある多数の写真から選ました。「桃の花の美しい写真」

  • 「山梨の満開の桃畑と中国の桃源郷の話」

    山梨県へは以前に何度も出かけて行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の小屋を持っていたのでよく行きました。その甲府盆地の周囲の山沿いの傾斜地はブドウ栽培や桃の栽培に使われています。春になると桃畑は文字通り「桃色」の花が一斉に咲きます。特に東部の一宮や南部の南アルプス市、そして西部の新府には桃畑が広大に斜面を覆っています。毎年4月になり花が咲くと夢のような風景になります。あちこちに「桃源郷」という看板が出ています。甲府盆地の東の一宮には「日本一の桃の里一宮」という大きな看板が中央高速道に出ています。そして夜叉人峠の入り口の南アルプス市、そして西の新府などの桃の産地には随分と通ったものです。桃の花は開花すると間引きのため摘花(てきか)します。摘花したあとの桃の枝には花がまばらにしか残っていないので淋しい風景になっ...「山梨の満開の桃畑と中国の桃源郷の話」

  • 「ドイツで鰻の蒲焼を作った体験記」

    鰻の蒲焼は美味しいものです。特に家内が好きです。鰻の蒲焼で有名な浜名湖や諏訪湖にはわざわざ食べに行きました。鰻の蒲焼を食べるための旅行でした。1番目の写真は以前に諏訪湖の畔で食べた鰻の蒲焼です。このような鰻の蒲焼を自分で作ると難しいのです。素人が作ると実に難しいものです。以下にドイツで鰻の蒲焼を作った体験記をお送り致します。その苦心談をお送り致します。それは1969年の秋でした。南ドイツのシュツットガルトのある研究所で働いていた頃のことです。ある日、デパートの鮮魚売り場に行ったところ、水槽にマスやドイツ鯉を沢山泳がせて売っています。足元のバケツには太いウナギがうごめいています。パッとひらめきました。鰻の蒲焼を作る決心をしたのです。一番太いウナギを買いながら、何処で獲れたか聞きました。ライン河です。その支流...「ドイツで鰻の蒲焼を作った体験記」

  • 「江戸時代の面影残す川越の町の写真」

    日本の都会の家々はどんどん立て替えられ新しくなって行きます。市街の景観が時代とともにともに刷新されていきます。しかし地方の小さな町には江戸時代の雰囲気が残っている所があります。私の家から車で1時間半くらいの川越の町には江戸時代の雰囲気が残っています。そんな古い町も好きで何度も遊びに行きました。古い街をゆっくり歩きます。そして古風なうなぎ屋に入ります。荒川の支流が近くを流れているのでウナギが獲れるのです。そんな小江戸川越の町の風景写真を示します。家内が撮ったものです。1番目の写真から3番目の写真は江戸時代の面影を残す川越の街の写真です。4番目の写真は川越にあるうなぎ屋「いちのや」の写真です。川越市松江町一丁目信号角にあります。5番目の写真は「いちのや」のうな重の写真です。川越城は、現在、その本殿が修復されて...「江戸時代の面影残す川越の町の写真」

  • 「戦国時代の関東平野と川越城の歴史」

    今日は何度も行ったことのある川越城にまつわる歴史を書きたいと思います。さて皆様は上杉謙信と武田信玄の川中島での戦いはご存知と思います。室町時代の後半の戦国時代の越後や信濃では上杉謙信が君臨し甲斐の国では武田信玄が勢力を拡大していました。そのせいで信濃や越後や甲斐の中部日本の戦国期の歴史は学校でも習います。しかし以下に書く関東平野の戦国期のことは知らない人が多いのではないでしょうか。戦国期の関東平野の歴史は理解し難く、その上、川中島の合戦のようにドラマチックでないのです。一言で言えば面白くないのです。戦国期の関東平野の歴史が理解し難い原因は、室町幕府が関東に「関東管領」と鎌倉府の長官である「鎌倉公方」の両方を置いたことが原因になっています。当時の関東平野では「関東管領」と「鎌倉公方」の勢力争いが複雑になり、...「戦国時代の関東平野と川越城の歴史」

  • 「雛祭りの歴史と雛飾り」

    雛祭り(ひなまつり)は、3月3日に行われる行事で、女児の幸福を祈るために行います。[雛飾り、白酒、菱餅、桃の花などを飾ります。3月3日は五節句の一つ上巳の節句にあたり、桃の節句(もものせっく)、雛の節句(ひなのせっく)とも呼ばれます。なお、「上巳の節句」という名称は中国由来の上巳(3月最初の巳の日)に行う行事が日本では3月3日に固定しました。また雛祭りは「桃の節句」ともいいます。「桃の節句」は桃の花が咲く時期である旧暦の3月3日(新暦の4月頃)に行われていましたが、明治以降は新暦の3月3日に行なうことが一般的になったのです。しかし新暦の3月3日には桃は咲いておらず、桃の造花を用います。雛祭りの食べ物は地域にもよりますが、以下のものが食べられます。菱餅雛あられ白酒、未成年は甘酒桜餅ちらし寿司や手まり寿司はま...「雛祭りの歴史と雛飾り」

  • 「見て感嘆した伊豆の稲取の吊るし雛」

    随分昔に見ました。感動したので今だに稲取の吊るし雛の光景が忘れられません。その写真をお送り致します。写真はインターネットからお借りしました。「見て感嘆した伊豆の稲取の吊るし雛」

  • 「全国一大規模な勝浦の雛祭り」

    千葉県勝浦市では毎年、大規模なひな祭りが開催されます。勝浦市芸術文化交流センター・キュステをメイン会場とし、興津(おきつ)会場、上野会場、総野会場、御宿会場など各地区で工夫をこらした雛飾りを見ることができます。お雛様の数がすごいのです。すべて合わせると約30,000体にもなるそうです。勝浦市の人口の約19,000人を軽く超えるのです。そのうえ日本全国から集められたので見たこともないような珍しい雛人形を見ることができりそうです。詳しくは、https://colocal.jp/news/66181.htmlをご覧下さい。勝浦の雛祭りの写真をお送り致します。「全国一大規模な勝浦の雛祭り」

  • 「ミサとは何か?」

    レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画に絵がかれている、キリストが12人の弟子たちと過ごした「最後の晩餐」、これがミサの起源です。その絵を示します。最後の晩餐の終わり頃にキリストはパンをとり、「これはあなたがたのために渡される私のからだである」と言い、またぶどう酒の入った杯をとり、「これは私の血の杯、あなたがたのために流される新しい契約の血である」と言って、「これを私の記念として行いなさい。」と弟子たちに命令しました。ミサではこの最後の晩餐を再現し、カトリックの洗礼を受けた信者は、キリストのからだである「パン」をミサの終わり頃に拝領します。キリストの復活を信じるキリスト者はキリストのからだを受けることで、日々の信仰生活の糧としています。もちろん、カトリック信者でなくてもミサに参加し、共に聖書のことばを聴き、キリス...「ミサとは何か?」

  • 「今日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサの風景」

    今日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサの風景の写真をお送り致します。「今日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサの風景」

  • 「春はそこまで、菜の花の思い出」

    近所に毎年菜の花の咲く畑がありました。数年前にそこで写真を撮っていたら、畑のご主人が菜の花を沢山むしって「花より団子だ」と家内にくれました。オヒタシにしても良いしテンプラも美味しいよと教えてくれました。その畑の菜の花の写真をお送り致します。今年も春はそこまで来ているのです。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。「春はそこまで、菜の花の思い出」

  • 「今日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサ」

    今日はインターネットを通して東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサにあずかりました。カトリック聖イグナチオ教会のミサの動画配信は下記にあります。https://www.youtube.com/live/kgJkuoaJ5Gg写真はカトリック聖イグナチオ教会です。カトリック聖イグナチオ教会〒102-0083東京都千代田区麹町6丁目5−1電話番号:03-3263-4584主任司祭:髙祖敏明「今日の東京のカトリック聖イグナチオ教会のミサ」

  • 「農家の写真をお送り致します」

    小金井公園の江戸東京たてもの園には茅葺きの昔の農家が3軒移築され展示されています。懐かしく思い写真を撮って来ました。2軒の農家の写真をお送り致します。「農家の写真をお送り致します」

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