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  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(104)

    アンゲロス・シケリアノスの詩が一篇だけ訳されている。詩集の最後に置かれている。「パーン」。浜の石にも錆色の山羊の熱気にも静寂が落ち、「静寂が落ちる」。この「落ちる」は強烈だ。真昼の光のように、空を超える高みから、まっすぐに、垂直に落ちてくる感じがする。この「落ちる」と、その後の「昇る」を経て「立ち上がる」という動詞の動きがつづくのだが、「落ちる」が強烈だけに「立つ」も鮮明になる。その「立つ」は最後の行にも登場するが、それは書かれていない「立つ」を浮かび上がらせる構造になっている。一行だけの引用なので、まるで謎解きのような書き方だが、それが実際にはどういう行、どういうことばの動きなのかは、ぜひ、詩集で確かめてください。「静寂」ということばがくれば、私はついつい「つつむ」という動詞を思い浮かべてしまう。ギリシ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(104)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(103)

    「夢」。心はじっと見る、星を、空を、舵輪(だりん)を、詩そのものの魅力的な行ということになれば、引用した次の行なのだが、「訳詩」、つまり中井の訳の魅力ということになれば、この行である。この行には、日本語の特徴が生きている。助詞「を」の繰り返し。ギリシャ語は知らないのだが、たぶんギリシャ語で何かを見ているとき、ひとつひとつ「を」とは言わないだろう。(動詞「見る」のあとに、助詞ではなく、前置詞をつかうかもしれないが、対象のそれぞれに前置詞をつけないだろう。)そして、そのひとつひとつに「を」がなくても、読者は(私だけかもしれないが)、それらを見ていると思う。心はじっと見る、星、空、舵輪を、であっても、「意味」は変わらない。しかし、リズムが決定的に違う。「を」が繰り返されると畳みかける感じがし、スピードが上がる。...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(103)

  • こころは存在するか(34)

    和辻哲郎が、マイヤーのことばを引用している。マイヤーは「歴史の基礎理論をアントロポロギー(人類学)」と呼んでいる。それは「しばしば誤って歴史哲学と呼ばれている」。歴史哲学は人間学と呼ばれるべきである。これはマイヤーの理解の仕方であり、理解は常に「表現」をもっと具体的に示される。おもしろいのは(重要なのは)、その理解の仕方を「誤って」と呼ぶところにある。たぶん、マイヤー以外のひとは、マイヤーの説(表現)を「誤っている」というだろう。「歴史哲学=人間学」を統一することばあれば、この「誤り」は止揚されるだろう。和辻は、それを「倫理学」ということばで止揚(統一)したいのである。この私の「理解」は「誤っている」か。「誤って」いても私はかまわない。私はもともとすべてのことばを「誤読」したい人間である。つまり「誤読」を...こころは存在するか(34)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(102)

    「カリグラフィー」。空(そら)の非在の中に私は、後先を考えずにはじめてしまうので、こんなはめに陥るのだが、セフェリスの短い詩のなかから一行を選んで、そこに中井の訳の特徴と詩の魅力を重ね合わせ語るのは、ほとんど無謀な試みである。途中で方針転換をすればよかったのかもしれないが、もう終わりも近い。つづけてみるしかない。中井は「空」に「そら」とルビを振っている。前に「ナイル(河)」が出てくるから、その対比として「空(そら)」を想像するのは自然な気がするから、逆に「そら」というルビが気にかかる。ナイル河だから、その周囲に広がる砂漠を思う人がいるかもしれないし、中井は最初に砂漠を思ったのかもしれない。何もない砂漠。空(くう)としての砂漠。何もないから「非在」ということばもやってきたかもしれない。突然やってきた「空(く...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(102)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(101)

    「ジャスミン」。かわらぬ白さ。この一行を読んだとき、何か衝撃を受けた。「白さ」が、私の目のなかで、一瞬強くなった気がした。ギリシャ語のことは知らないが、この一行の思いがけない強烈さは、日本語ならではのものかもしれない。「白さ」は「白い」という形容詞の語幹に「さ」をつけることで、状態をあらわす名詞に変えたもの。日本語の形容詞は「用言」である。動詞と同じように活用がある。変化する。しかし、名詞は変化しない。名詞の白は白であり、変わることがない。形容詞の白いは「白かった」「白くなる」「白い」と変化する。「白さ」という状態は、変化する。形容詞派生だから、そこには変化が含まれているということなのか。(こういう論理でいいかどうかわからないが……。)その変わることを含んだことば「白さ」を「かわらぬ」ということばで否定す...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(101)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(100)

    「栓をひねると出てくる温水は……」。私のそばには他にいのちのあるもののないのを。三行の短い詩。引用した行では、音(母音)の揺らぎが「あ」から「お」へとかわっていくのだが、何か、音を飲み込んでしまうブラックホールのようなものが、その行のうねりのなかにあり、その重力のそばで音(声)が動く。そのときの不思議な音、聞こえない音が聞こえる。最後を「あるもののないものを」と書くと、文法的に間違いになるのか。意味が違ったものになるのかわからないが、その消えていった「も」(お)の音が、暗く暗く、真っ暗に瞬間的に輝いて、聞こえる。私は、引用しながら正確に引用しているか、何度も何度も確かめたが、確かめるたびに不安になるのだった。*************************************************...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(100)

  • 野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」

    野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」(「イリプスⅢ」7、2024年04月15日発行)野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」は、とても「正直」な文章である。藤井の『ピューリファイ!』の数篇の断章を引用し、「まったくわからない」ということについて、書いている。なぜ、「正直」というか。いままで野沢は「わからない」ことがあると(つまり考えていて自分のことばが動かなくなったとき)、もっぱら西洋の哲学者やら日本の評論家やら、他人のことばを引用していた。自分のことばを組み立て直すのに、自分のことばを点検し、変更するのではなく、それはそのままにしておいて、他人のことばで新たな「言語構造」を作り上げていた。野沢の「根本」はそのままにした「自己拡大」、「野沢の...野沢啓「藤井貞和、自在な〈ことば力〉--言語隠喩論のフィールドワーク」

  • Estoy Loco por España(番外篇440)Obra, Calo Carratalá

    Obra,CaloCarrataláEnelmomentoenquevioestaspinturasdeCalo,mesientomareado.Cadaunodepaisajeestámuylejos.Ysientoquecadaunodeelloses"detamañoreal".Sinembargo,eltérmino"tamañoreal"significa"eltamañorealdelpaisajevistodesdeaquí".Lascosasqueestánlejosparecenmáspequeñas.Esapequeñezeseltamañomismoquesevedesdeaquí.Voyaescribirloconotraspalabras.Hayunespaciomuchomás...EstoyLocoporEspaña(番外篇440)Obra,CaloCarratalá

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(98)

    「海の洞の中には……」。きみが誰かも分からず、きみも私を知らずに。恋の始まり。さて。「分かる」と「知る」。ギリシャ語では区別があるか。ギリシャ語が「分かる」「知る」を使い分けていたから、中井はそれにあわせて使い分けたのか。ギリシャ語には使い分けがないが、中井が使い分けたのか。これは大事ではない。大事なのは、中井が使い分けているということである。同じことばであっても訳し分けることはできるし、違うことばであっても同じ語(ことば)にすることもできる。だから、これは「中井語」そのものなのである。「私」は「私を知っている」。たとえば「きみが誰かも分からない」のが「私のいまの状態であると知っている」。その意識が「私」と「知る」を結びつけ、「きみ」は「私を知らない」ということばを選ばさせるのだ。「私は私が誰であるか知っ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(98)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(97)

    「過酷な瞬間と瞬間との……」。きみの表情が次の表情にかわるあいだに、いちばん短い「瞬間」とは、どういうものだろうか。きみの「どんな表情」が「どんな表情」にかわったのか。この詩では「かわった」ではなく「かわる」と書いてある。このときの「かわる」は日本語では「現在形」ではなく「未来形」である。まだ「かわっていない」、「かわりつつある」のでもない。しかし「かわる」ことがわかっている。「かわる」ことを詩人は何度も見てきている。そして予測している。その予測は「過酷」と関係しているのか。その「過酷」がどういうものかわかるのは、私が引用した行の、次の行である。それは読んでもらうしかないのだが、そこに書かれていることは未来形「かわる」と同じように、いわゆる動詞の「原形(活用しない形)」で書かれている。ギリシャ語のことはわ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(97)

  • こころは存在するか(33)

    和辻哲郎はハイデガーについて言及することが多い。「風土」はハイデガーの「存在と時間」を念頭に置いている。ハイデガーは人間存在を時間をもとに考える。空間性を考えない。しかし、和辻は常に空間を考える。その「空間性」を「間柄」という、とても日本的なことばで考え続ける。だからだと思うが、私の知っているコスタリカ人は「風土」を読み、これは日本人論だと言った。そこから私は、ハイデガーの「時間論」に引き返し、「風土」が日本人論ならば「存在と時間」は「西洋人論」なのではないか、と思った。「西洋人論」というのは変な言い方になるが、別の言い方をすれば「キリスト教の人間論」(一神論の人間論と言った方がいいかもしれない)になる。コスタリカ人を「西洋人」とは、日本人はたぶん呼ばないが、コスタリカはキリスト教が信じられている国、一神...こころは存在するか(33)

  • Estoy Loco por España(番外篇439)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPablo¿Cambiarádeazulaamarillo?¿Cambiarádeamarilloaazul?¿Dedóndevienenelazuldelcieloyelamarillodeloscampos?Duranteeltiempoquetardóelazulenconvertirseenunazulbrillante,¿elamarilloestabacerradosuscapulloscomosiesperarasuamante?¿Habríasoportadoelazullasoledadduranteeltiempoquetardóelamarilloenabrirseenformadepétalos?Cuandoelazulyelamarilloseenc...EstoyLocoporEspaña(番外篇439)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころは存在するか(32)

    和辻哲郎の「倫理学」。こんなことを書いている。(私のノートに残っているメモなので、正確な引用ではない。)個人と全体者(社会)とは、それ自身では存在しない。他者と関連において存在する。個人は社会を否定し、個人になる。社会は個人を否定し、社会になる。否定という行為をとおして、個人も社会も、その姿をあらわす。ここには二重の否定、相互否定がある。この否定の否定、絶対的否定性から、和辻は「空」ということばを引き出している。あるいは「空」ということばに結びつけて考えている。「色即是空/空即是色」の「空」である。「混沌」、あるいは「無」ではなく「空」を思考(ことばの運動)のなかに取り込んでいる。「空」は、私にとっては「無」よりも「理念的」である。「無」は定まった姿のあらわし方がない(無)であり、つまり、そこからはどんな...こころは存在するか(32)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(96)

    「もう少し先に行けば見えるよ……」。ちょっと背伸びしていい?行く手を阻むのは丘だろうか。背伸びをすれば、視線が丘の頂点を越えて、その向こうが見える。でも、丘でなくても、何か遠くを見るとき、見えないものを見るとき、思わず爪先立つ。つまり背伸びをすることがある。待ちきれないのだ。この「肉体感覚」が、私には、とてもうれしい。読んだ瞬間に、私の肉体が動いてしまう。思わず背伸びをしてしまう。背伸びをして、遠くを、いまは見えないものを見たとき、見ようとしたときを思い出してしまう。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライン講座★メール、googlemeetを使っての「現代詩オンライン講座」で...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(96)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(95)

    「眠り」。魅力的な行が多い。そのなかから、中井独特の「語感」をもった行を選ぶとすれば、でもきみの影が伸び縮みしつつ他の影の間に消えるのを見ていた、「でも」は非常に口語的だ。一方「……つつ」はどちらかといえば文語的(書きことば的)だ。「でも」と書き始めたひとは、たぶん「伸び縮みしながら」と書くと思う。「伸び縮みしつつ」を優先させるひとなら、「でも」ではなく「しかし」と書くのではないか。私の印象では、この一行は、なんとなく「ちぐはぐ」である。しかし、それがおもしろい。この詩のタイトルは「眠り」だが、書かれていることはけっして「眠り」ではない。「半覚醒/半眠」という「はざま」の雰囲気がある。正反対のものが出会って、「半分」のところ(中間点?)で動いている感じ。それが「でも」と「……つつ」の出会いに、なんとなく似...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(95)

  • 杉惠美子「うごく」ほか

    杉惠美子「うごく」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年04月01日)受講生の作品ほか。うごく杉惠美子白木蓮の落下のあとに寂しさはない拡がる一筋のぬくもりとその気配は春をあつめ私の部屋へと春を届ける行間に落ちる花びらが潤いと時の動きを告げ遅れてやってきた風は少しはにかみながら今を届けるあらゆるものを忘れて落ち着いた時がうごく「尺八の音が聞こえてくる。精神性が落ち着いている。白木蓮の落下に春のすがすがしい空気を感じる」「一連目『特に寂しさはない』がいい。三連目の『行間に落ちる』という表現が好き」「落下ということばが具体的で強い響きを持つ。気配や時間が動く。『行間に落ちる』という表現が詩的。最終連、春らしく、ゆっくりした空気がいい」「最終連にこころを動かされた」三連目、時の動きと漢字で書かれているのが最...杉惠美子「うごく」ほか

  • こころは存在するか(31)

    神谷美恵子「生きがいについて」(著作集1、みすず書房)を読んでいて、「人格」ということばにであった。死刑囚にも、レプラのひとにも、世のなかからはじきだされたひとにも、平等にひらかれているよろこび。それは人間の生命そのもの、人格そのものから湧きでるものではなかったか。「人格」ということばは、何度も何度も和辻哲郎の本のなかに出てくる。その定義はむずかしいが、私は、ひとが実践をとおして肉体の内部にかかえこむひろがりと感じている。「おおきな人格」というのは、実践がそのひとを「おおきく」見せるのだと思う。そして、その「おおきさ」は客観的には測れないが、自然にわかってしまう「おおきさ」であり、「おおきなもの」は大きな引力をもっているから、それに引きつけられてしまう。神谷は「人格」を「生命そのもの」とも呼んでいるが、こ...こころは存在するか(31)

  • イタリアの青年と「論語」を読みながら

    いま、イタリアの青年といっしょに「論語」を読んでいる。中国語ではなく、日本語で。テキストは岩波文庫(金谷治訳注、和辻哲郎が「孔子」を書くときにつかったテキスト)。私は中国の歴史をまったく知らないので彼からいろいろ教えてもらうことが多い。日本語は私の方が彼よりも詳しいので、日本語教師としていっしょに読んでいるのだが、きょう、とてもおもしろいことを体験した。イタリアの青年は「論語」を読むくらいなのだから、ふつうの日本語はほとんど問題がない。会話は、博多弁(福岡弁)が得意で、私よりも上手だ。その彼が、つぎの文章でつまずいた。子曰く、已んぬるかな。吾れ未だ徳を好むこと色を好むが如くする者を見ざるなり。先生がいわれた、「おしまいだなあ。わたしは美人を好むように徳を好む人を見たことがないよ。」イタリアの青年は「現代語...イタリアの青年と「論語」を読みながら

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(94)

    「アルゴナウトの人たち」は、突然はじまる。どんな詩も(文学も、あるいは芸術は)突然はじまるものかもしれないけれど。して、魂よ、「して」は「しかして」「しこうして」が縮まったものなのかもしれないが、それが「しかして」「しこうして」、あるいは「そうして」であったとしても、やはり突然感間がある。「しかして」が接続詞なのに、その前に何もない。何かが切断されたまま、接続詞が動いて、次のことばがあふれてくる。そうなのだ。それは、接続詞には違いないのだが、前に何が書かれてあったかよりも、これから書くことの方が大事なのだ。実際、この詩では、引用し、何かを書きたいという行が次々に登場するのだが、それについて書くよりも、やはり書くべくことは「して」なのである。「しかして」よりもさらに短く、「して」のみ。ここには、漢文体が口語...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(94)

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