chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
arrow_drop_down
  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(74)

    ここからはオジッセアス・エリティスの作品。最初は「エーゲ海」。三つの断章で構成されている。しかも、その一行一行が短く、体言止めの行が多い。イメージが並列しながら世界が展開する。そのなかから一行だけを選び出すのはあまりにも乱暴すぎるかもしれないが。花嫁、船を待つ。「Ⅰ」の部分の二連目の最後の行。読み方は二通りに可能だろう。助詞「が」を補って花嫁「が」船を待つ。「と」を補って花嫁「と」船を待つ。後者の場合、花嫁といっしょに船を待つことになるのだが、意識の重心は「船を待つ」ではなく、「花嫁」になるだろう。船を待っている、ただ待っているのではなく、花嫁と待っている。意識は花嫁を離れない。花嫁と一体になっている。詩人が花嫁の気持ちになっている、という感じか。どっちだろう。手がかりは「が」を補ったときの印象である。(...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(74)

  • Estoy Loco por España(番外篇430)Obra, Emilio Sanchez Garcia

    Obra,EmilioSanchezGarciaSólopuedoreconocerloqueyasé.Además,sólopuedoreconocerlascosascomoquieroreconocerlas.Porejemplo,estasobrasdeEmilio.Noquieroreconocerlascomohierro,piedraomadera.Nopuedoevitarreconocerlascomopájaros.¿Mepreguntoamimismoporque?Estasobrasnoponenhuevos.Novuelanenelcielo.Sinembargo,losreconozcocomopájaros.Lacognición,elcerebro,esextremadam...EstoyLocoporEspaña(番外篇430)Obra,EmilioSanchezGarcia

  • ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

    ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)(中洲大洋スクリーン1、2024年01月29日)監督ヨルゴス・ランティモス出演エマ・ストーン、マーク・ラファロ、ウィレム・デフォー簡単に言ってしまえば、これは映画ではなく「安直な文学(大衆小説)」です。つまり、スクリーンで展開されていることをことばに置き換え、ストーリーにすると、それなりにおもしろい。趣向が変わっているので「純文学」と思い、ストーリーがよくわかるというので、絶賛する人がいるかもしれない。ちなみに、映画COMには、ストーリーをこんなふうに要約している。「不幸な若い女性ベラは自ら命を絶つが、風変わりな天才外科医ゴッドウィン・バクスターによって自らの胎児の脳を移植され、奇跡的に蘇生する。「世界を自分の目で見たい」という強い欲望にかられた彼女は...ヨルゴス・ランティモス監督「哀れなるものたち」(★★)

  • こころ(精神)は存在するか(6)

    和辻哲郎全集第六巻。「ホメーロス批判」の125ページに「まとめなおす」ということばが出てくる。「まとめる」という動詞と「なおす」という動詞が組み合わさったことばである。「イリアス」を完成させたのは誰か。複数の人間が、現在残っている形に「ととのえおなした」のではないか。そこには複数の人物の「構想力」が交錯しているのではないか。この「まとめる」という動詞は170ページにも登場し、「まとめなおす」は171ページでは「整理して」「編み込む」という形で出てくる。私が「構想力」ということばで呼んだものを、和辻は「見渡す」ということばをつかいながら「全体の構図を見渡す」(177ページ)と書いている。「全体の構図(全局ということばが178ページにある)」を見渡す力が「構想力(和辻のつかっている構図ということばのなかに、同...こころ(精神)は存在するか(6)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

    「陶工」。壺や鍋をつくっている陶工。土が残った。だから、女を造った。乳房を硬く大きくした。ギリシャ語では、どう書いてあるのだろうか。たぶん、句点「。」ではなく読点「、」でつながる一行、いや、読点さえもないかもしれない。それ以上に気になるのが「硬く」ということばである。粘土でつくるおんな。乳房がやわらかいわけがない。どうしたって硬い。そこで、思うのだ。たとえばミロのビーナスの乳房。あれは硬いか、やわらかいか。大理石だから、触れば硬い。しかし、見かけはどうか。どれくらいのやわらかさか。ここには、男(陶工)の夢が託されている。それは詩を最後まで読むとわかるのだが、「硬さ」というひとことで、詩の展開を「予言」させているところがとてもおもしろい。そのポイントを緊張感のあることば、文体で中井は訳出している。中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(73)

  • Estoy Loco por España(番外篇429)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensCuandoviestaobra,meacordédelaobra"人,opersona"quepresentéel1deenero.Aquíunadela人(probablementeJoaquín)sostienealaotra.Podríasersuesposa.Podríasersuhijo.Lapersonaensusbrazossesientecompletamentealiviadaysucuerpoflotaenelaire.Susrostrosestánmuyjuntoscomosiestuvieranapuntodebesarse.Elpequeñoobjetoatrapadoentredoscuerpospuedeserunhijo.Enotra...EstoyLocoporEspaña(番外篇429)Obra,JoaquínLlorens

  • 杉惠美子「ハプニング」ほか

    杉惠美子「ハプニング」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年01月14日)受講生の作品を中心に。ハプニング杉惠美子接触事故で電車が止まった復旧の目途は立っていませんとアナウンス駅のホームには既に並ぶ人々こんな待ち時間は何と説明するのだろうおみやげにもらった饅頭を食べたいけれどそういう訳にもいかない別に焦る気持ちもないけれど黙って待つより他はない少しずつ夕暮れ時の空に包まれ寒気がしてきたビルの明かりがより明るくなり時間を取られたのかもらったのかと考えた昔、たまたま帰りの電車で父と一緒になった時の、父の横顔を思い出した「三連目、時間を取られたのかもらったのかと考えた、がおもしろい。二連目の、実際に起きた出来事に、作者の気持ちが重なっていく部分が、とても自然に読むことができる」「日常的な時間の流れ、待つと...杉惠美子「ハプニング」ほか

  • こころ(精神)は存在するか(5)

    和辻哲郎全集第六巻。43ページ。「ホメーロス批判」の「序言」にケーベル先生のことばを引用している。Philosophie(哲学)は非常に多くのことを約束しているが、自分は結局そこからあまり得るところはなかった。Philologie(文学)は何も約束していないが、今となってみれば自分は実に多くのものをそこから学ぶことができたこれは、和辻自身が自分の体験を語っていることばのようにも思える。私が和辻の文章を読むのは、それが「文学」でもあるからだ。私のつかっている「文学」ということばは、引用した文章に出てくる「文学」とはかなり意味が違うと思うが、まあ、気にしない。私は「学問」として和辻を読んでいるわけではないのだから、そういうことは気にしないのである。この文章で印象に残るのは、「哲学」「文学」ということばと同時に...こころ(精神)は存在するか(5)

  • Estoy Loco por España(番外篇428)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloSólounavezhevistoesecolorantesdequelollamaranazul.Esecolorsealejó,ocultándosedetrásdelrojoyelblanco.Eralaformaenqueunamantesealejabadiciendo:"Sirealmentemenecesitas,venabuscarme".¿FueunpintordeRusoquedijoquecuandoyanopuedeverelcolor,estesevuelvemáspuroenlamemoria,ounpintordeunpaísquecombinaloscomplejossonidosdelalrededordeRuso?Nadierec...EstoyLocoporEspaña(番外篇428)Obra,JesusCoytoPablo

  • こころ(精神)は存在するか(4)

    和辻哲郎全集第五巻。545ページ。法華経は文学と哲学との合い子であって、純粋の文芸作品でもなければ、また純粋の哲学書でもないのである。同じようなことはプラトーンの対話篇についても言える読みながら、これは和辻の文章についても言えるのではないか、と思う。和辻の文章には、文学的魅力と哲学的魅力がある。逆に言った方がいいかもしれない。哲学的魅力と文意学的魅力がある。別な言い方をすると、哲学(論理)を追究して言って、ある瞬間に、論理を打ち破って感覚が世界を広げる瞬間がある、と私は感じる。そして、その感覚が押し広げた世界は、いままで存在しなかった論理を待っている感じがする。論理の予感がある。いま引用した文章にプラトン(対話篇)が登場するが、これも私が和辻に惹かれる理由である。私はいつでもプラトンを読み返したい。ここ何...こころ(精神)は存在するか(4)

  • ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

    ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」(★★★★)(2024年01月20日、KBCシネマ1)監督ウッディ・アレン出演ヨーロッパ映画、ウォーレス・ショーン、ジーナ・ガーション「インテリア」を見たとき、ああ、ウッディ・アレンがベルイマンのまねをしている、と思ったけれど。ああ、ほんとうにベルイマンが好きなんだねえ。「野いちご」まで出てきた。「第七の封印」「鏡の中の女(だと思う、私ははっきり覚えていない)」も。ほかにも、フェリーニも、トリュフォーも、ゴダールも。いいなあ、昔の映画は。やっぱり「主演」は、ヨーロッパ映画だね。あ、「市民ケーン(オーソン・ウェールズ)」はアメリカか。例外だね。しかし、まあ、笑いっぱなしだったなあ。他の観客は、ひとり、一回笑った人がいたけれど、みんな「沈黙」。どうして?お...ウッディ・アレン監督「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

    「井戸のまわりで」。女たちが水を汲みにきている。誰か(恋人かもしれない)が小石を投げる。壺に当たってしまう。壺が壊れる。しかし、水はこぼれない。水はそのままだった。これは非現実的だが、一瞬のこととしてならあり得る。こぼれる前、水は壺の形のまま、そこに立っている。映画の、ストップモーションのよう。そのまま動かない。そこに緊張がある。心臓が止まりそうなくらいの。「水は」の繰り返しが、その緊張を高める。原文は「水は」を繰り返していないかもしれない。一行一文かもしれない。しかし、中井は、それを二文に分けた。分けながら、「水は」を繰り返すことによって緊張感を高めている。「分断」と「接続」の、緊張した時間。とりかえしのつかない時間。というのも。たぶん、その井戸のまわりには、石を投げた男をつかまえようと待ち構えている敵...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(72)

  • 精神(こころ)は存在するか(3)

    和辻哲郎全集第五巻の464ページ。最後の一句は、乗門道人親戚工師細民とあって、わたくしにはちょっと読みこなせないのであるが、この「読みこなせない」ということばが、とてもおもしろい。「読めない」ではない。「読む」ことは、読む。このとき、いったい何が起きるのだろうか。先の引用とは直接関係があるわけではないのだが、476ページには、こういう表現がある。思うにこの答えはそういう矛盾を示そうとするものではないであろう。「思うに」ということばがある。強引に言えば、「読みこなせない」とき、その「読みこなせない」部分を「思う」のである。想像するのである。「思う」ことで「道」をつくる。497ページには、こんな文章がある。古い形の法華経を一つの作品として鑑賞し、分析し、この作品の構造や、その根底に存する想像力の特性等を明らか...精神(こころ)は存在するか(3)

  • 精神(こころ)は存在するか(2)

    和辻哲郎を読んでいると「道」ということばが、しばしば出てくる。「道」に最初に出会ったのは『古寺巡礼』だった。仏像や寺を見て回るのだが、仏像や寺の印象を語るまえに「道」が出てくる。「二」の部分で、和辻の父が「お前のやっていることは道のためにどう役立つのか」と問う。和辻は、それに即答はしないのだが、このやりとりが私の頭の中にいつまでも残っている。私は私の父から「お前の道はどうなっているのだ」というようなことは聞かれたことがないが、まるで自分が質問されているように感じてしまう。「道」とは何か。いろいろな答え方があるだろうが、(和辻の父の問いから飛躍するが)、きのう書いた「肉体=ことば=世界」を利用して言えば、このイコール(=)が道である。きのうは、それを「法」と書き換えたが、肉体とことばと世界の関係を成り立たせ...精神(こころ)は存在するか(2)

  • 精神(こころ)は存在するか(1)

    2024年01月018日(木曜日)精神(こころ)は存在するか(1)「精神(こころ)は存在するか」というのは、私がいつも考えていることである。考えがまとまってから書けばいいのかもしれないが、まとまるまで待っていたら書くことができないと思うので、(その前に死んでしまうと思うので)、少しずつ書いていくことにする。仏教というのか、東洋思想と呼べばいいのかよくわからないが、五感+心(意識)で世界を把握する。目耳鼻舌身は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それは独立している。それを統合するものとして「意識(精神/こころ)」があるというのだが、どうして「意識(精神/こころ)」という目に見えないものを持ち出すのか、これが私には疑問なのである。なぜ「頭(脳)」を目耳鼻舌身に追加し、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚+ことば(意識=知覚...精神(こころ)は存在するか(1)

  • Estoy Loco por España(番外篇427)Obra, Juan Manuel Arruabarrena

    Obra,JuanManuelArruabarrenaSentíqueestabasoñando.Laflorartificialfrentealaobranoeraflorartificialalprincipio.Eraunaflorordinaria.Sinembargo,enelmomentoenquesecolocófrentealapintura,seconvirtióenunaflorartificialdebidoalainfluenciadelapintura.Esmás,setratadeunaflorartificialúnica.Notengoideadeloquerepresentalapinturadetrásdelaflor.Penséenunpaisajedeshidrat...EstoyLocoporEspaña(番外篇427)Obra,JuanManuelArruabarrena

  • Estoy Loco por España(番外篇426)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorens¿Esesteunárbol,unahierba(flor)ounapersonaquebaila?Mepareceunaplantaquehabrotadodelatierra,balanceándoseycreciendoconlaluzyelviento,opareceunserhumanoquenopuedecontenersualegríaycomienzaabailarconlaluzyelviento.Yaseanplantasohumanos,hayalgoencomún.Unavidaquenacecambiaamedidaqueinteractúaconelmundo;estaobracapturaelmovimientonaturalqueocu...EstoyLocoporEspaña(番外篇426)Obra,JoaquínLlorens

  • 吉田義昭「余命」

    吉田義昭「余命」(「みらいらん」13、2024年01月15日発行)吉田義昭「余命」は「正しい土地で死にたい」という一行で始まり、何度も「正しい」が繰り返される。正しい死に方で死にたい余命三ヶ月なかなか日も暮れていかない正しい黄昏の時間なのか波打ち際を漂っていた彼が波音に消され語りだす声私に語りかけてはいない「正しい死に方で死にたい」の「正しい」は彼の言った「正しい」。一方、「正しい黄昏の時間なのか」は吉田が考えている「正しい」。それは、一致しているとは言えない。それは吉田が、彼の言った「正しい」を正確に受け止めていないからだ。「正しいって、いったい、どういうことなんだろう。何が正しいのだろう」という疑問が吉田には残っているからだ。では、いったい彼が言いたい「正しい」は何なのか。それは「正しい」としか言いよ...吉田義昭「余命」

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(71)

    「仕事を果たす」。「仕事」は何を指しているか。読者の想像力に任されている。木の葉が一枚。その微かなそよぎ。もうそこからおれは入れる。「そこ」とはどこか。これも読者の想像力に任されているのだが、「そこへ入ること」、それが「おれの仕事」だとわかる。それは誰もができる仕事ではない。彼にしかできない。詩は「そこ」を起点にして、劇的に変化するのだが、この劇的な変化の前に、「木の葉が一枚」と書き、それを「その」で受け止めながら「微かなそよぎ」へ「入っていく」という運動がある。すでに運動が始まっていて、そのあとで「そこ」からということばがつづく。この畳みかけるスピードが、読者の想像力を引っ張っていく。すべては読者の想像力に任されているのだが、一方で、その想像力は強い力でリッツッォスに引っ張られている。この呼吸を、中井は...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(71)

  • Estoy Loco por España(番外篇425)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorensTécnica.Hierromacizo.44x17x15Serie.A.S.T.LaobradeJoaquínLlorensescompletamentediferentealaobradeJesúsdelPeso.Silesmostraraundibujoadosylespidieraquecrearanunapiezadeestaforma,creoqueterminaríanconalgocompletamentediferente.LaformadeJesúsdelPesoestádominadaporunfuerteespíritumecánico.Porotrolado,nosientoningúnelementomecánicoenlasobrasde...EstoyLocoporEspaña(番外篇425)Obra,JoaquínLlorens

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(70)

    「残骸」。記憶の残骸。残骸ということばには、否定的な意味がある。しかし、きみの耳の下にちらりと小さな影が見えた。これは、どうだろうか。このあとの行に「これだけ」ということばがあらわれるが、「これだけ」は美しさをひめている。「影」だから、永遠に存在するわけではない。光があるとき、その一瞬だけ「ちらり」と存在した。しかし、ひとはなぜ、そういう「小さいこと」を忘れることができないのだろうか。思い出は小さくなれば小さくなるほど美しくなる。それにしても、この「ちらりと小さな影が見えた」ということばの順序の絶妙さ。「小さな影がちらりと見えた」では、何かが違ってくる。「ちらり」は、これからあらわれるものを予感させる。その予感によって「小さな影」が小さいけれどとても印象深くなる。こんなところにも中井の訳のおもしろさがある...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(70)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(69)

    「屈伏」。この作品も、映画の一シーンのよう。その一シーンの中にある、微妙な動き。それを、中井は、こう訳している。髪は、二羽の大きな鳥のように肩に止まった。「髪は、」の読点「、」。これは、すごい。意味としては(情景としては)、この読点があってもなくても変わらない。前の部分を説明すると、女が窓を開ける。風が入ってくる。その風に吹かれた髪が……。ここで、大きな問題が起きる。その髪の動きを見ているのは誰か。詩人(リッツォス)が見た、と判断するのがふつうかもしれない。もし映画のシーンなら、観客がそれを見る。しかし、私は、違うと思う。この髪を見たのは、女なのだ。女が自分の髪が風に吹かれ動いたの見た。そして、「二羽の鳥が肩に止まった」と感じたのだ。「髪は女の命」とはギリシャでも言うかどうかは知らないが、髪に思い出がある...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(69)

  • Estoy Loco por España(番外篇424)Obra, Jesus del Pesos

    Obra,JesusdelPesoCuandomiroestaobrabidimensional(pintura)deJesus,mepareceelplanodeobratridimensional.Y,aunquenuncameheentrenadoenlalecturade"plano"(talvezporquenuncameheentrenado),eltrabajobidimensionalmeparecesertridimensional.Esdecirquelapinturameparecemástridimensionalquelaescultura(obratridimensional)colocadafrentealapintura.Además,elcuerposólido(lapi...EstoyLocoporEspaña(番外篇424)Obra,JesusdelPesos

  • 金野孝子「米研ぎするずと」

    金野孝子「米研ぎするずと」(「ミて」165、2023年12月31日発行)金野孝子「米研ぎするずと」におもしろいことば(言い回し/表現)が出てくる。米研ぎ始めっとたまぁに昔ァ来るもんなァ「昔が来る」。「ミて」発行者の新井高子も、この表現に注目したらしく、どういう感覚なのか電話で問い合わせところ昔というのは、それを語ったときに自分の中におのずと入ってくるもので、他のお年寄りたちもこの言い方をしたのだという。私は、こういう感覚が大好きなのだが、この表現に出会った瞬間、フアン・ルルフォの「ペドロ・パラモ」の一節を思い出した。レテリア神父が、生まれたばかりのミゲルを父親のペドロのつれて言ったときのこと(昔)を思い出している。こういう文章が出てくる。Teníamuypresenteeldíaqueselohabíal...金野孝子「米研ぎするずと」

  • 池田佳隆と政治資金(読売新聞から見えてくること2)

    自民党安倍派の裏金問題で、なぜ池田佳隆が逮捕されたのか。だれが「情報を提供したのか」ということをめぐって、私は背後に統一教会の存在があるのではないか、と8日に書いたが、2024年1月11日の読売新聞は、とてもおもしろい記事を書いている。自民党派閥「清和政策研究会」(安倍派)の政治資金パーティーで、池田佳隆衆院議員(57)(比例東海、自民を除名)を支援するパチンコ関連などの5社が2019~21年、パーティー券を計860万円分購入していたことがわかった。パーティー1回当たりの購入額は各社ともに法定上限(150万円)内だが、5社の代表は同一人物で、合計額は各年ともに上回っていた。識者は「法規制の趣旨に反する」と批判している。池田の裏金(キックバックされた金)の総額は「4800万円」とされている。今回の記事は、そ...池田佳隆と政治資金(読売新聞から見えてくること2)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(68)

    「罪」。リッツォスの詩は映画的手法で書かれている、と中井は言う。この六行の詩も、そうである。非常に短い。しかし、映画のアップのように、ぐいと迫ってくる一行がある。それから誰かに言い訳するようにこれは、いわば「顔」のアップである。あるいは「手」のアップかもしれない。ほんのわずかな動きなのかに、感情の動きが見える。他の行が人の動き、ものの動きそのものを描いている。いわば、ふつうの映画のように、その「情景(あるいはアクション)」が見える。しかし、この一行だけは「アクション」が見えない。映画でいうなら、こういうシーンでは「情」を読み取らなければ、何も見えない。肉体は動かないが感情が動いている。その瞬間を、ことばにしている。リッツォスが見た感情、中井が共感した感情が、そこにある。さて、「誰に」言い訳をするのか。それ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(68)

  • 池田佳隆って、知ってる?(読売新聞から見えてくること)

    自民党安倍派の裏金問題。池田佳隆が逮捕された。そこで私が思ったことは、ただひとつ。池田佳隆って、誰?なぜ、池田が逮捕された?誰が情報を流した?池田佳隆は読売新聞(2024年1月8日)の情報によれば日本青年会議所会頭などを経て12年衆院選愛知3区で初当選。21年衆院選は小選挙区で敗れたが比例復活し、4回目の当選を果たした。文部科学副大臣などを歴任した。政治に強い関心があれば「文部科学副大臣」で記憶している人がいるかもしれないが、ふつうは知らないだろう。そのとき、だれが文科相だった?ほら、言えないでしょ?だいたい小選挙区で敗れ、比例復活する人である。支援者だって「限度」があるのだろう。つまり、知らない人は投票しない、という感じの人なのだと思う。で、これからである。私は邪推が好きな人間というか、なんでも想像して...池田佳隆って、知ってる?(読売新聞から見えてくること)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(67)

    「見知らぬ部分」。この詩も八行。その終わりの方。あんな上に靴と衣服を置いて来た。さて、なぜ「あんな上に靴と衣服を置いて来た」のか、理由は書いていない。「あんな上に」とは、いったいどこを指しているか。解釈は読者に任せ、さて、とつづける。「さて」は話題を転換するだけではなく、その転換のなかに疑問を含んでいる。その疑問へ、リッツォスは読者を誘い込む。この呼吸がとてもいい。有無を言わさない。「それでは」「ところで」では間が抜ける。長いし、疑問が含まれている感じも減ってしまう。中井の訳文は、意味だけではなく「呼吸」を伝える。疑問は、急を要している。**********************************************************************★「詩はどこにあるか」オンライ...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(67)

  • 高橋順子『泣魚句集』

    高橋順子『泣魚句集』(思潮社、2023年12月31日発行)詩人・高橋順子の『泣魚句集』。「現代詩詩人」の多くがつくるような「現代詩くささ」がないのがいい。もっとも初期のしらうをは海のいろして生まれけり夕焼けの桃売りにつきまとはれしは、少し「現代詩」の作為を感じさせるが。腸(はらわた)のごとき鉄管夾竹桃も「現代詩」っぽいかもしれないが、どこか初々しさを感じてしまう。やたらと凝っていないところがある。特に、この「腸」は、あ、本当にむき出しになった鉄管を見たんだろうなあという印象を呼び起こす。「正直」があらわれている。高橋の現代詩の特徴は、「正直」と「初々しさ」にあるが、それがときどきとても自然な感じで顔を出す。そういう句が、私は好きである。次の句は、遍路の途中で詠んだ句か。一列に烏の歩く春田かなきっと高橋も「...高橋順子『泣魚句集』

  • 小川三郎『忘れられるためのメソッド』

    忘れられるためのメソッド小川三郎七月堂小川三郎『忘れられるためのメソッド』(七月堂、2023年11月16日発行)「もの思う葦」に仮に人間だったとしたら座っているのと走っているのとではどちらがいいだろうか。という行がある。馬と人間とどちらがいいか、という設問を受けての展開なのだが、私はこの「仮に」につまずいた。このあと「仮に走っているのだったとしたら」「仮に裸だったとしたら」とさらに展開するのだが、この繰り返しもおもしろい。なぜ、小川は繰り返したのか。何か、強引なものがある。「むりやり」がある。だいたい小川は人間なのだから「仮に人間だったとしたら」ということば自体にむりがある。「仮に馬だったとしたら」ならば、まあ、自然だ。この不自然さの中に、どうしても書かなければならない何かがある。「馬」がある生き方の「象...小川三郎『忘れられるためのメソッド』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(66)

    「いつの日かの休日」。この詩は八行。とても短い。しかも「空に雲がいくつか。」のように「○○に○○」という定型でことばがつづいていく。しかし、終わりから二行目で突然この定型が破られる。一枚の木の葉がきらり光る。一枚の木の葉に光がきらり、と訳すことができるはずである。しかし中井は、ここであえて定型を破っている。それは、その直前の「詩に言葉。」がとても強烈だからかもしれない。直前の行でつまずく。そこから立ち直るためには「一枚の木の葉に光がきらり」ではだめなのである。何かしら、動詞が必要なのだ。肉体を動かすことばが必要なのだ。そしてそれは、直前の「詩に言葉。」にも動詞を補え、と読者に要求してくるのである。ほんとうに読ませたいのは「詩に言葉。」それをどう読むか(解釈するか)、「一枚の木の葉がきらり光る。」のように言...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(66)

  • ★「詩はどこにあるか」オンライン講座★(受講生募集中)

    ★メール講座★随時受け付け。料金は1篇(40字×20行以内、1000円)(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)1週間以内に、講評を返信します。講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円。★ネット会議講座(googlemeetかskype使用)★随時受け付け。ただし、予約制。1回30分、1000円。(長い詩の場合は60分まで延長、2000円)メール送信の際、対話希望日、希望時間をお書きください。折り返し、対話可能日をお知らせします。費用は月末に1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。お申し込み・問い合わせは、yachisyuso@gmail.comまた朝日カルチャーセ...★「詩はどこにあるか」オンライン講座★(受講生募集中)

  • 白井知子『ヴォルガ残照』

    ヴォルガ残照白井知子思潮社白井知子『ヴォルガ残照』(思潮社、2023年10月20日発行)「白樺の木立ゴリツィ」のなかで船のガイドのイリーナが白井の質問に答えてこんなことを語る。ロシアは広いとても他の土地のことは知らないそれは白井の質問とは直接は関係がない。関係がないが、質問に答えているうちに、ふと出てきたことばである。しかし、この二行が、私にはいちばん印象に残った。「他の土地のことは知らない」は、必ずしも「この土地(自分の土地)のことは知っている」とは限らないだろう。自分の土地のことでも知らないことはあるだろう。しかし、いくらかは知っている。だから「他の土地のことは知らない」は、他の土地のことは「まったく」知らない、ということになるかもしれない。しかし、そういうことは別にして……。「知らない」と言い切ると...白井知子『ヴォルガ残照』

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(64)

    「忘れられていた優しさ」は、お祖母さんの死を描いている。お祖母さんの顔の描写から始まり、性格の描写、その日の周囲の人たちの描写とつづく。そして、雨がエルコメノス教会の石段で泣く。リッツォスの詩は映画的である、と中井は言う。その特徴がこの一行に集約している。カメラが教会の全体(あるいは教会とわかる範囲)をとらえた後、さーっと石段のアップに移る。石段に積もった雨、その表面に小さな水紋ができる。石段に映った空が(雲が)少し乱れる。その揺らぎが「泣く」かもしれない。いつも通っていた、その「石段」を、いまお祖母さんが上っていく。その足の動きが見えるような一行でもある。「エルコメノス教会」については、中井が注釈で、「詩人の生地にある」と書いている。興味深いのは「お祖母さん」に名前がなくて、教会には名前があることである...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(64)

  • Estoy Loco por España(番外篇423)Obra, Jesus Coyto Pablo

    Obra,JesusCoytoPabloAveces,cuandoelautorestáalladodelaobra,laobrasevediferente.Cuandolamirésolo(fuehacemuchotiempo),cadasiluetaenestapinturameparecíacadapersonadiferente.PerocuandoJesusestáasulado,mesientocomosicadasiluetafueraJesús.Unhombreconunbolsoenlamanoizquierda,unhombreconunbolsoenladerecha,unhombretirandodeunbolsoyunasiluetavagaenelextremoderecho....EstoyLocoporEspaña(番外篇423)Obra,JesusCoytoPablo

  • Estoy Loco por España(番外篇422)Obra, Jesus del Pesos

    Obra,JesusdelPeso¿Cuálesladiferenciaentreunapinturayunaescultura?¿Sediceunapinturaasímisma:"Soyunapintura?"¿Sediceunaesculturaasímisma:"Soyunaescultura?"¿Elmarrónsabesisucoloreselmarrón?¿Deseaserdeuncolordiferente?¿Eltriángulosabesisuformaeseltriángulo?¿Deseaserdeunaformadiferente?Loscoloresylasformasnodistinguenasimismo.Lagentehaceladistincióndelcoloryla...EstoyLocoporEspaña(番外篇422)Obra,JesusdelPesos

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(63)

    「幼年時代--回復期」。この詩には、ちょっとした思い出がある。「回復期」ということばがあるのだが、私には病気になった少年が回復するときのことを書いているとは読めなかった。死んでいく、と感じた。対話の相手が天国の父というのも影響している。『リッツォス詩選集』(作品社、2014年7月15日発行)の「感想」でも、そう書いた。中井は、私の感想に、谷内は「死にゆく少年の詩と読んでいるが、これは病気の少年が回復して、従妹の家に遊びに行ける喜びを表した話と私には思われる」とわざわざ「注釈」をつけている。なぜ、死んで行く少年と思ったのか。青い鹿が来るよね、この「青」が印象的だったのだ。馬の「青毛」と言えば、青光りのする黒い馬である。鹿の場合も、「青」には特別な意味があるかもしれないが、私は「青」を死の象徴と思ったのである...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(63)

  • 中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(62)

    「三幅対」。三篇で構成された詩から一行選ぶのは難しいが。「一、たそがれまで」から、その三行目。自分の内部に聞いたのかも。「外部」に存在するものを、「自分の内部」に聞く。そのとき「外部」と「内部」を区切るものは何だろうか。一人の人間に内部と外部があり、それを区切るものがある。もうひとりの人間にも内部と外部があり、それを区切るものがある。その区切るもの同士が触れ合ったとき、どちらの人間の区切るものが優先されるのだろうか。あるいは、区切るものと区切るものの間にあるもの、つまり「外部」は、そのときどんな形で存在するのだろうか。この私のことばは、私の「内部」から生まれたのか。それとも私の「外部」からやってきたのか。もし「外部」だとして、それはたとえば中井久夫の、あるいはリッツォスの「内部」とどう関係しているのか。「...中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(62)

  • Estoy Loco por España(番外篇421)Obra, Joaquín Llorens

    Obra,JoaquínLlorens「人」eslacarácterkanjipara"persona".Esdifícilvivirsolo,perosiseapoyanunoaotro,nocaerán.Sediceque人representatalforma.Meacordédeestocuandovilaobra(derecha)deJoaquín.LaobradeJoaquínintentatomarlaformadeesa"人".Unapersonaconoceaotray,apartirdeahora,losdosseconviertenen"人".Deahínacennuevas"人".MuchasdelasobrasdeJoaquínmeevocanunsentimientodefami...EstoyLocoporEspaña(番外篇421)Obra,JoaquínLlorens

  • プラトン「饗宴」

    プラトン「饗宴」(鈴木照雄訳)(プラトン全集5、岩波書店、1986年10月09日、第三刷発行)2024年の読み初めに「饗宴」を選んだ。そのなかに「中間」ということばが出てくる。「知と無知との中間」(75ページ)という具合である。さらにつづいて76ページには、こういう文章がある。正しい思いなしとはいま言ったようなもの、つまり叡知と無知との中間にあるここから私は、和辻哲郎、林達夫、三木清、中井久夫という、私の大好きなひとたちの文章を思い起こすのである。「中間」としての「思いなし」。中井久夫は「シンクロ」ということばをつかう。林達夫は「想像力」、三木清は「構想力」、和辻哲郎は「統一力(統合力)」か、あるいは「直観」か。いいかげんな読者なので、はっきりとは覚えていないが、全体的な真理(叡知)とそうではないもの(無...プラトン「饗宴」

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さんをフォローしませんか?

ハンドル名
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん
ブログタイトル
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
フォロー
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用