生きづらいものが生きていくために。回復とサバイバルについて考えていきます。
生きづらさは重い負荷ですが、それにより自分が生きるために必要なものへの意識や関心が深くなります。生きづらい人は誰のためでもなく、自分が生きていくために世間にまだ存在しないものを創りださなければいけない切実さを抱えています。生き抜くことは全く保証されていない。それにも関わらず生き残ろうとする人たちの創造は、通じる課題を持つ人たちの力となり、そして自身だけでなく、周囲の世界も回復させる力を持ちます。
ジャンル難民ミーティングお知らせ 2/8 2/9 2/10 2/22
ジャンル難民ミーティングのお知らせです。 www.facebook.com 次回、8日のカフェコモンズでの回は、自分のさしおけない関心事、探究していきたいことやそのエピソードをシェアしてもらおうと思っています。 あと、この日は僕が「自分の「時間」を動かす研究」を簡単に発表します。 なお、翌日9日19時からは本町エスコーラで矢板さんのテーマである「揺らぎ」に焦点をあてた映像の鑑賞と話しの集まりで探究します。 また、2月22日(金)19時〜も本町エスコーラでジャンル難民ミーティング行います。 あと10日も空いているので、希望者があればちいさな学校鞍馬口で「自分の「時間」を知る」ワークショップ開きま…
言葉が変わればものの見え方、感じ方は変わってきます。 自分のなかにある自律的なプロセスを「時間」という言葉に置き換えはじめたここ最近、世界の把握のされ方が変わってきています。 空間的思考、「時間」的思考、空間的な移動、「時間」的な展開、というような言葉を使ったりしましたが、「時間」は思考ではないなと思ったりして、整理しています。 ある位置からある位置へ意思で移動しようとする空間的な思考の堂々めぐり、空間的思考での把握による停滞があります。空間的思考は実体でないものを実体と勘違いする思考、詐欺的な思考である一方、プロセスとしての「時間」は実体であり、疲弊を最小限に抑え、むしろ活力をもたらしさえし…
去年8月からはじまった芸術実践と人権。1回だけどうしても行けなかったですが、残りの8回と講義の後のゼミはとても充実する時間でした。 www.kyoto-seika.ac.jp 人権という言葉が自分にとってリアリティを持ったのは、ここ10年ぐらいではと思います。 空虚な、欺瞞的なスローガンかなと思っていた「人権」。 それが変わったのは、人間の肯定的変化、回復には、身体的な安全と、自分が大きく揺れても大丈夫だと思える、信頼できる他者がいる環境、そして他の誰のようでもないこの自分というニーズをもった一人の個人としての尊厳を周りから提供されることが必要なのだと知ってからです。 信頼できる環境はまだしも…
<ジャンル難民:探究の相談はじめます> ジャンル難民(自分の感覚で該当すると思えばOK)が自分の気になることを探究する時にどこからどうやってやっていくか、動き出しにくいと思いますので、探究の相談の受付をはじめます。 ジャンル難民の集まりは、それぞれの探究をすすめるのに必要な刺激を得たり、必要なものに出会うという趣旨があります。 そして、個々人の探究とは、それぞれの個人には動こうとしている「時間」(プロセスと言ってもいいのですが。)を動かしていくことともいえるのではないかと思っています。 ですので、ジャンル難民の集まりの存在意義は、個々人の「時間」を動かすことに寄与することであるとも思います。 …
ジャンル難民ミーティング ワークショップ、<「時間」のすすめ方を知る>終了しました。 自分のなかにある生きたプロセス、展開し、動こうしているプロセスに「時間」という言葉をあて、感覚的にとらえられるようになると、頭は身体へ、思考は感覚へ、「いつとも知れない先」は「今ここ」へと戻りやすくなります。 「時間」を感覚的に使えるために、まずヤフー記事「時間が止まった私 冤罪が奪った7352日」と「沈黙ー立ち上がる慰安婦」を紹介しました。 news.yahoo.co.jp kurahate22.hatenablog.com 大きな不幸に見舞われたり、必要な体験ができないままでいたり、大切な何かを失った人の…
国分功一郎さんと斎藤環さんのシンポジウムの様子が掲載された精神看護1月号を手に入れました。友人の山口純さんが、以前SNSの投稿でモノを修理すること、現代の責任とはなんであるかと書いてあったのを思い出しました。中動態の考え方において、主体ははじめからあるのではなく、かかわりの中で形成されていくものとされているようです。 10年ほど前に、高速道路建設が決まった西山での西山ピクニックという場の弔いのようなピクニックに参加しました。廃村になった大見という村をもう一度再生しようという大見新村プロジェクトで行われた大見新村ニュー祭りでは、人間が鹿になる演劇がありました。 それらは、かかわりの中で、新しい主…
1/20 ジャンル難民ミーティング ワークショップ「時間」の進めかたを知る
今回は「時間」のすすめ方を参加者で探究します。 ミヒャエル・エンデの「モモ」で時間泥棒に奪われた時間とは具体的には何だったのでしょうか。全ての時間を効率のためのものと考えることによって、何が失われたのでしょうか。 「時間の流れは みんなに1個ずつあって とまらない」芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』 時間泥棒は、時間を移動したり、交換したり、蓄積したりすることが可能なものとしました。そのように扱えるものは死んだ時間です。お金としての時間、といってもいいかもしれません。その結果として生きた「時間」はむしろ停滞したのです。 境毅さんは著書の『「モモ」と考える時間とお金の秘密』において、モモにおけ…
自分の核心的な興味に近づき、それを探究していく探究会、ジャンル難民ミーティングを行なっていきます。 近いところでは、1/20(日)14時から北区のちいさな学校鞍馬口で行います。その後、2月8日(金)19時〜カフェコモンズ(大阪)、2月22日(金)19時〜本町エスコーラです。 次回、1月20日14時からの回は、いつもより時間をとって、「時間」の進めかたを探究するワークショップを行います。 自分の核心的な関心、テーマに近づいていくと、自分の「時間」が動きだします。探究は自分の「時間」を動かしていく営みです。探究的に世界に触れ、関わっていくことで、世界の見え方と関わりのあり方が更新されていきます。 …
僕の理解では、パウロ・フレイレは被抑圧状況からの「移行状態」を人の人たる特性であるとしています。その移行状態にない時に、人は特に人たるものでもないのです。人の体を持っていたり、何かを達成したり、どこかの文化圏に所属するからといって自動的に人たるわけではないのです。 少し似たように、僕は人がどこにいるのだろうかと考えていて、人は勝利するほうにはいないと思うようになりました。先のフレイレの話しと同じく、この時、「人」は物理的な存在ではなく、加えて「移行状態」でもありません。人は負ける側にいます。それは与えるということでもあります。 しかし、自分が「与える」から負けているということにはなりません。こ…
ジャンル難民という言葉、別にオリジナルではなくてアサダワタルさんの「コミュニティ難民のススメ」からいただいたのですが、参加の方は割と気に入ってくれているようで、どのジャンルともつかぬ自分の探究や関心をあらわすのに、使い勝手がいいようです。 コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ― 作者: アサダワタル 出版社/メーカー: 木楽舎 発売日: 2014/12/01 メディア: 単行本(ソフトカバー) この商品を含むブログ (3件) を見る どちらかというとネガティブなアイデンティティのようにも聞こえますが、逆に開き直って(?)自由になれる肩書きのようです。 ところで国分功一郎…
ジャンル難民ミーティング、ジェンダーを含めて、今回アイデンティティについて関心がある人が割と多かったような気がします。 さて、当事者にとっては、アイデンティティと呼ばれるものの学問的な位置づけを知りたいというよりは、自分からみても納得し、肯定性が見いだせる自分の位置づけを見つけたいということなのではないかなと思えます。 建前や前置きの仕方はどうであれ、世間では例えば正社員で結婚している人が「普通」であるとされ、そうでない人、そういう性向を持たない人はあからさまでなくても、ちょっと違う人、ちゃんとしていない人、ぶらぶらしている人のように二流市民扱いされます。 「普通」というのは大多数が自然にそう…
手近なものを集めて、自分の安定を作って固まってしまう人間の自動的な自己疎外について話していました。 裸のミノムシの周りに綺麗な毛糸の細切れをおいておけば、ミノムシはその毛糸を使ってミノを作り、カラフルになります。ミノムシにとって、重要なのはとりあえず身を隠すミノをつくることであり、ちょっと変な人工のものであっても周りにそれしかなければそれでミノを作ります。 手近なものとは、たとえば「普通」と認識される範囲におさまるように振る舞うことや、「人の迷惑をかけない」という道徳であったり、何かが「できる」という自分の能力であったりするのだと思います。 それらによって、人間は自分でも気づかず、自動的にミノ…
人間は自分で自分を疎外していきます。そしてその疎外を自分だけで止めることはできないと思います。僕は昨年奥田知志さんを知って、人間観がようやくそこに落ち着きました。 人間は素晴らしい、とかとにかく全肯定の人間観は実は否定的なのです。なぜならそうなれないからです。弱く、苦しんでいる人ほど、そんな素晴らしい人間観に耐えきれず苦しみます。 弱く、どうしようもなく、一人では駄目である、という人間観のほうが、妥当だと思います。そうなるとみんなが駄目になるのではなく、逆で、自分に着地できると停滞から抜けていくことができます。 奥田さんは、人と人が健全に傷つけあうことが社会にとって必要であるといいます。また地…
「自給」とか「DIY」というと閉じてこじんまり完結したサイクルに入りたいんだなとよく思われるようです。よく会話で持ちだされる「定年後の畑」みたいな、お金を稼いで安定が保証された後のささやかな解放と楽しみ、みたいな文脈で理解されるなあと思います。 自給というと、そういう閉じたサイクルに入ることが目的だと思われるのですが、その閉じたサイクルと見えるのは、国とか会社とか、誰かの都合で自分の生きることが左右されない自律性を担保する「手段」なのであって、目的ではないのですね。 でも、一般的にはお金を多く得ていることが自由や自律性を獲得することであると思われています。ところがお金で得られるものというのは、…
大阪のオムツ外し学会の時に買った三好春樹さんの『関係障害論』、年末年始の時間で読みました。 デイに来る必要がないくらい軽度の人に対して「何でこの人が来るのだろう?」と疑問をもっていた時、その人の家にいく機会があり、家族のその人への日々の態度が冷たいことを著者が知った時、ああ、この人は来たほうがいいと思い、それ以降心から「いらっしゃい」と言えるようになったというエピソードが心に残りました。 職を転々としていた著者が、偶然の流れで介護の仕事に出会い、そこでの仕事が今までいたような効率主義、進歩主義の職場とはまったく別のものを感じたということ、関係性を抜きにして人を物体として扱う科学主義、衰えるもの…
身体教育研究所の角南和宏さんがジャンル難民のことをブログで触れてくださいました。 異化と同化について考えています。記憶とは異化されたものだということです。それが同化したとき、記憶は消える、と。 では、同化するとは一体何に同化しているのでしょうか。「自分」に同化するといっても、「身体」に同化しているのか、「自意識」に同化しているのか、「自然」に同化しているのか・・・。 この体自体が、そもそも異物と異物の対話としてあると考えてみるならどうなるでしょうか。対話であるので、そこには相互変容がおこっています。しかし、ただ無秩序に相互変容がおこっているのではなく、その変容はある一定方向へ向く力の流れ、エネ…
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