大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
一進一退の状態が続いた朝鮮戦争は、ソ連の提案もあって1951(昭和26)年7月から休戦会談が開かれるようになりましたが、交渉は難航しました。その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調...
膠着(こうちゃく)した戦局を打開するため、マッカーサーは1951(昭和26)年4月に満州への原爆投下をトルーマン大統領に提案しましたが、戦闘が中華人民共和国内にまで及べば、ソ連を刺激するのみならずヨーロッパをも緊張関係に巻き込むことになり、第三次世界大戦に発展する恐れがあると判断したトルーマンは提案を却下し、同月にマッカーサーを解任しました。解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上...
朝鮮戦争の緒戦は兵力に勝る北朝鮮軍が優位に立ち、一時期は国連軍や韓国軍を釜山(プサン)にまで追いつめましたが、9月15日にマッカーサーが北朝鮮軍の背後をついた「仁川(インチョン)港上陸作戦」に成功すると形勢は逆転し、今度は国連軍が38度線を突破して、中華人民共和国国境の鴨緑江(おうりょくこう)にまで迫りました。しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、...
朝鮮半島では、1948(昭和23)年にソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)と、アメリカが支援する大韓民国(=韓国)とに北緯38度線を境界として分割されていましたが、1950(昭和25)年に入って、1月にアメリカと韓国とが「相互防衛援助協定」を結ぶと、翌2月には中華人民共和国とソ連とが「友好同盟相互援助条約」を締結するなど、緊張が高まりました。また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務...
ドッジ=ラインによる強引な改革によって我が国のインフレは収束し、政府も赤字財政から脱出できましたが、超緊縮財政によって不況が深刻となり、中小企業の倒産が増大しました。不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労...
我が国の経済復興を強く求めたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭和23(1948)年12月に第二次吉田茂(よしだしげる)内閣に対して、予算の均衡(きんこう)・徴税の強化・資金の貸出制限・賃金の安定・物価の統制・貿易の改善・物資の割当の改善・国内原料や製品の増産・食糧の集荷の改善といった「経済安定九原則」の実行を指示しました。これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行...
大東亜戦争で我が国に勝利したことで、満州(現在の中国東北部)など東アジアにおける権益を自国のものとすることができると信じていたアメリカは、我が国が二度と欧米列強に抵抗することのないように、終戦後に行われた対日占領政策を、非軍事化や民主化を中心に進めてきました。しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対...
中国大陸では、第二次国共合作によって、蒋介石(しょうかいせき)の国民党と毛沢東(もうたくとう)の共産党とが、日華事変(=日中戦争)やその後の大東亜戦争といった我が国との戦闘に対して「抗日民族統一戦線」を形成しましたが、昭和20(1945)年に我が国の敗戦が決まると、国共合作が破れて、両者は内戦状態となりました。毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に...
西側諸国が北大西洋条約機構を結成して体制を固めた一方で、同年に原子爆弾の開発に成功したソ連は、1955(昭和30)年に、ルーマニア・アルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)の東欧諸国とともに、ソ連のモスクワに司令部を置いた「ワルシャワ条約機構」を結成(翌年には東ドイツも加盟)し、共同防衛組織を築き上げました。これ以降、アメリカやソ連を中心とする東西二大...
【ハイブリッド方式】第97回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年7月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、前回(第96回)より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコ...
マーシャル=プランによって、西欧諸国への経済的・軍事的援助が行われましたが、こうした動きを警戒したソ連は、ドイツの首都であり、当時は東側をソ連に、西側をアメリカ・イギリス・フランスに分割統治されていたベルリンに対して、東ベルリンから西ベルリンに向かうすべての鉄路と道路を1948(昭和23)年に封鎖しました。これを「ベルリン封鎖」といいます。ソ連によって陸路を封鎖された西ベルリンでしたが、アメリカやイギリ...
対立関係が深まったアメリカとソ連は、お互いの国家体制(自由主義と共産主義)を維持する目的もあって、近隣諸国を次々と自国の勢力下に置きはじめました。ソ連は1947(昭和22)年にコミンフォルム(=共産党・労働者党情報局)を結成し、ルーマニアやアルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)など、戦後に次々と誕生した共産主義国家を従えて、東欧圏(けん)とも呼ばれる...
二度にわたる世界大戦によって、国力が著しく衰退した西欧諸国に代わり、抜きん出た軍事力や経済力を誇るアメリカが、世界に対する影響力を圧倒的に高めるようになりました。しかし、国力を飛躍的に高めたのはアメリカだけではありませんでした。1917(大正6)年のロシア革命によって、1922(大正11)年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(=ソ連)も、アメリカと同じように世界に対して圧倒的な影響力を持つまでにのし上がっ...
ところで、国連(=国際連合)はそもそも第二次世界大戦における連合国(United Nations)がそのまま国際機関として移行したものであり、「国際連合」という名称は、実は我が国による和訳に過ぎません。このため、国際連合すなわち「United Nations(連合国)」には、日本やドイツなど旧枢軸(すうじく)国、すなわち旧「敵国」に対して軍事行動を起こす場合は、安全保障理事会の許可を必要としないという例外的規定(これを「敵国...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、第一次世界大戦後の1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、国際平和を維持するための具体的かつ有効的な措置(そち)を取り得ぬまま、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)してしまいました。こうした流れを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心とした戦争終結後の...
※「第96回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月18日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。朝廷が仏教の力によって国家を鎮護(ちんご)しようとする傾向が強まったことから、大官大寺(だいかんだいじ、後の大安寺=だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)など官立の大寺院が造営されました。このうち薬師寺東塔(とうとう)は奈良時代に再建されたものですが、白鳳期の建築様式を現...
7世紀後半から8世紀初頭にかけて、大化の改新以後から藤原京時代までの我が国の文化は「白鳳(はくほう)文化」と呼ばれています。なお「白鳳」は孝徳天皇が在世中の年号である「白雉(はくち)」の別称として用いられたとされています。白鳳文化は天武天皇・持統天皇の時代を中心とした、律令国家が形成されようとする意気込みが感じられる若々しい文化でもありました。この時代までに朝廷の儀式が充実し、天皇が即位された年に行...
この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収するという「出挙(すいこ)」があり、このうち「公出挙(くすいこ)」が国の重要な財源となった一方で、年5割~3割という重い負担が民衆を苦しめました。これに対して、個人が行う「私出挙(しすいこ)」は年の利率が10割に達するものもありました。我が国の治安と国防にも民衆の力が必要でした。正丁3~4人に1人の割合で兵士が徴発され、兵士は諸国の「軍団(ぐんだん)...
当時の民衆は「租(そ)」・「調(ちょう)」・「庸(よう)」・「雑徭(ぞうよう)」などの負担が課せられました。このうち租は6歳以上の男女に課せられ、口分田などの収穫から約3%の稲を納めるものであり、主に諸国において地方財政の費用に充(あ)てられました。調は男子の人頭税として絹・布・綿・塩など各地方の特産物を納め、庸は都での10日の歳役(さいえき、律令国家で課される労役のこと)のかわりに麻布(まふ)2丈(...
当時の人民は、6年に1回作成される戸籍(こせき)や、税を課するための台帳として毎年つくられた計帳(けいちょう)に登録され、50戸で1里が組織されたほか、この戸を単位として口分田(くぶんでん)が班給(はんきゅう、分け与えること)されました。口分田は6歳以上の男女に支給され、その広さは6歳以上の良民の男子には2段(1段は約11.7アール)、女子にはその3分の2、さらに私有の賤民(家人・私奴婢)には良民男女のそれぞれ...
律令制における身分制度としては「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」とに大別されました。このうち、賤民には五種類の区別があり、官有の「陵戸(りょうこ)」・「官戸(かんこ)」・「公奴婢(くぬひ)」と、私有の「家人(けにん)」・「私奴婢(しぬひ)」がありました。これらを「五色(ごしき)の賤」といいます。なお、賤民の割合は良民の1割にも満たなかったと推定されている一方で、中央の大寺院や地方の豪族の...
中央や地方の各官庁は「長官(かみ)」・「次官(すけ)」・「判官(じょう)」・「主典(さかん)」の4つの等級からなる「四等官(しとうかん)」と、それ以下の多数の下級の官人(かんじん)によって構成されていました。なお、四等官は「四等官制」とも呼ばれます。官人は正一位(しょういちい)などの位階(いかい、官人の序列を示す階級のこと)を与えられ、位階に対応する官職(かんしょく)に任じられました。これを「官位...
国内の要地である京や難波(なにわ)の地には「左・右京職(さ・うきょうしき)」や「摂津職(せっつしき)」が置かれたほか、軍事あるいは外交上の要地である九州北部には「大宰府(だざいふ)」が置かれ、西海道を統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)しました。ところで、大宰府は現在の福岡県太宰府市にありましたが、いわゆる「大宰府」と「太宰府」の表記の違いについては、現存する古代の印影が「...
都の周辺の地域を意味する「畿内(きない)」とも呼ばれる「五畿」は「大和国(やまとのくに、現在の奈良県)」・「山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)」・「摂津国(せっつのくに、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)」・「河内国(かわちのくに、現在の大阪府東部)」・「和泉国(いずみのくに、現在の大阪府南西部)」に分かれました。五畿のうち「山背」は平城京(へいじょうきょう)から見て「奈良の山の背後...
この他、一台とは「弾正台(だんじょうだい)」のことであり、中央行政の監察や都の風俗の取り締まりなどを担当しました。また、五衛府は「衛門府(えもんふ)」と左右の「衛士府(えじふ)」、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」のことであり、こちらは宮城(きゅうじょう)の警備や都の巡察などを担当しました。地方の組織としては、まず全国が「五畿七道(ごきしちどう)」に区分され、その下に国郡里制(こくぐんりせい)として、...
この頃の我が国の中央組織は、天皇のもとに「二官(にかん)・八省(はっしょう)・一台(いちだい)・五衛府(ごえふ)」の構成でした。このうち、二官とは神々の祀(まつ)りをつかさどる「神祇官(じんぎかん)」と、行政全般を担当する「太政官(だいじょうかん、または「だじょうかん」)」のことです。太政官の下には政務を分担する八省が設けられ、政治は「太政大臣(だいじょうだいじん、または「だじょうだいじん」)」・...
ところで、我が国の「日本」という国号は飛鳥浄御原令によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わっ...
天武天皇の崩御後は、皇后であり天智天皇の娘でもあった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が称制によって政治を行い、天武天皇と自身の子である草壁皇子(くさかべのみこ)の成長を待っていましたが、皇子が先に死去したため、690年に自らが41代の持統(じとう)天皇として即位されました。天武天皇の諸政策を次々と引き継いでいかれた持統天皇は、689年に法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行(しこ...
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武(てんむ)天皇となられました。天武天皇は、大臣(おおおみ)を置かずに自らが先頭に立たれて政治を行われました。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には、皇族出身者を中心とする新しい身分秩序である「八色(やくさ)の姓(かばね)」を定められました。その他にも、チャイナの法体系にならった律令や我が国の...
では、もう一つの理由とは何でしょうか。大海人皇子が勝利した理由のもう一つは「改新事業への支持」が考えられます。白村江の戦いに敗れて窮地(きゅうち)に陥(おちい)った天智天皇(当時は中大兄皇子)は、大化の改新によって土地や人民を取り上げられたことで不満の高まっていた中央の豪族と妥協するために人民の私有を復活させましたが、これは明らかな改新事業の後退でした。一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立...
天智天皇の崩御後は、大友皇子が政治の実権を握られましたが、まだ24歳と若い後継者は父ほどの器量をお持ちでおられず、政情不安が尽きませんでした。様子を見ていた大海人皇子は、672年旧暦6月に吉野を出立して美濃(みの、現在の岐阜県南部)へ逃れ、近江朝廷に対して反旗を翻(ひるがえ)しました。東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが結局は敗北し、大友皇...
ところで、天智天皇には後継者として二人の人物がいました。息子である大友皇子(おおとものみこ)と、弟である大海人皇子(おおあまのみこ)です。このうち、大友皇子は父同様に「反新羅」の外交路線を継承する考えだったようですが、大海人皇子は「親新羅」路線への転換を考えていました。我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我...
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大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...