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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 朝鮮戦争の勃発 その4

    一進一退の状態が続いた朝鮮戦争は、ソ連の提案もあって1951(昭和26)年7月から休戦会談が開かれるようになりましたが、交渉は難航しました。その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調...

  • 朝鮮戦争の勃発 その3

    膠着(こうちゃく)した戦局を打開するため、マッカーサーは1951(昭和26)年4月に満州への原爆投下をトルーマン大統領に提案しましたが、戦闘が中華人民共和国内にまで及べば、ソ連を刺激するのみならずヨーロッパをも緊張関係に巻き込むことになり、第三次世界大戦に発展する恐れがあると判断したトルーマンは提案を却下し、同月にマッカーサーを解任しました。解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上...

  • 朝鮮戦争の勃発 その2

    朝鮮戦争の緒戦は兵力に勝る北朝鮮軍が優位に立ち、一時期は国連軍や韓国軍を釜山(プサン)にまで追いつめましたが、9月15日にマッカーサーが北朝鮮軍の背後をついた「仁川(インチョン)港上陸作戦」に成功すると形勢は逆転し、今度は国連軍が38度線を突破して、中華人民共和国国境の鴨緑江(おうりょくこう)にまで迫りました。しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、...

  • 朝鮮戦争の勃発 その1

    朝鮮半島では、1948(昭和23)年にソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)と、アメリカが支援する大韓民国(=韓国)とに北緯38度線を境界として分割されていましたが、1950(昭和25)年に入って、1月にアメリカと韓国とが「相互防衛援助協定」を結ぶと、翌2月には中華人民共和国とソ連とが「友好同盟相互援助条約」を締結するなど、緊張が高まりました。また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その10

    ドッジ=ラインによる強引な改革によって我が国のインフレは収束し、政府も赤字財政から脱出できましたが、超緊縮財政によって不況が深刻となり、中小企業の倒産が増大しました。不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その9

    我が国の経済復興を強く求めたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭和23(1948)年12月に第二次吉田茂(よしだしげる)内閣に対して、予算の均衡(きんこう)・徴税の強化・資金の貸出制限・賃金の安定・物価の統制・貿易の改善・物資の割当の改善・国内原料や製品の増産・食糧の集荷の改善といった「経済安定九原則」の実行を指示しました。これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その8

    大東亜戦争で我が国に勝利したことで、満州(現在の中国東北部)など東アジアにおける権益を自国のものとすることができると信じていたアメリカは、我が国が二度と欧米列強に抵抗することのないように、終戦後に行われた対日占領政策を、非軍事化や民主化を中心に進めてきました。しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その7

    中国大陸では、第二次国共合作によって、蒋介石(しょうかいせき)の国民党と毛沢東(もうたくとう)の共産党とが、日華事変(=日中戦争)やその後の大東亜戦争といった我が国との戦闘に対して「抗日民族統一戦線」を形成しましたが、昭和20(1945)年に我が国の敗戦が決まると、国共合作が破れて、両者は内戦状態となりました。毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その6

    西側諸国が北大西洋条約機構を結成して体制を固めた一方で、同年に原子爆弾の開発に成功したソ連は、1955(昭和30)年に、ルーマニア・アルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)の東欧諸国とともに、ソ連のモスクワに司令部を置いた「ワルシャワ条約機構」を結成(翌年には東ドイツも加盟)し、共同防衛組織を築き上げました。これ以降、アメリカやソ連を中心とする東西二大...

  • 【ハイブリッド方式】第97回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年7月)

    「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、前回(第96回)より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコ...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その5

    マーシャル=プランによって、西欧諸国への経済的・軍事的援助が行われましたが、こうした動きを警戒したソ連は、ドイツの首都であり、当時は東側をソ連に、西側をアメリカ・イギリス・フランスに分割統治されていたベルリンに対して、東ベルリンから西ベルリンに向かうすべての鉄路と道路を1948(昭和23)年に封鎖しました。これを「ベルリン封鎖」といいます。ソ連によって陸路を封鎖された西ベルリンでしたが、アメリカやイギリ...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その4

    対立関係が深まったアメリカとソ連は、お互いの国家体制(自由主義と共産主義)を維持する目的もあって、近隣諸国を次々と自国の勢力下に置きはじめました。ソ連は1947(昭和22)年にコミンフォルム(=共産党・労働者党情報局)を結成し、ルーマニアやアルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)など、戦後に次々と誕生した共産主義国家を従えて、東欧圏(けん)とも呼ばれる...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その3

    二度にわたる世界大戦によって、国力が著しく衰退した西欧諸国に代わり、抜きん出た軍事力や経済力を誇るアメリカが、世界に対する影響力を圧倒的に高めるようになりました。しかし、国力を飛躍的に高めたのはアメリカだけではありませんでした。1917(大正6)年のロシア革命によって、1922(大正11)年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(=ソ連)も、アメリカと同じように世界に対して圧倒的な影響力を持つまでにのし上がっ...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その2

    ところで、国連(=国際連合)はそもそも第二次世界大戦における連合国(United Nations)がそのまま国際機関として移行したものであり、「国際連合」という名称は、実は我が国による和訳に過ぎません。このため、国際連合すなわち「United Nations(連合国)」には、日本やドイツなど旧枢軸(すうじく)国、すなわち旧「敵国」に対して軍事行動を起こす場合は、安全保障理事会の許可を必要としないという例外的規定(これを「敵国...

  • 冷戦体制の形成とアジア情勢 その1

    ※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、第一次世界大戦後の1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、国際平和を維持するための具体的かつ有効的な措置(そち)を取り得ぬまま、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)してしまいました。こうした流れを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心とした戦争終結後の...

  • 白鳳文化 その2

    ※「第96回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月18日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。朝廷が仏教の力によって国家を鎮護(ちんご)しようとする傾向が強まったことから、大官大寺(だいかんだいじ、後の大安寺=だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)など官立の大寺院が造営されました。このうち薬師寺東塔(とうとう)は奈良時代に再建されたものですが、白鳳期の建築様式を現...

  • 白鳳文化 その1

    7世紀後半から8世紀初頭にかけて、大化の改新以後から藤原京時代までの我が国の文化は「白鳳(はくほう)文化」と呼ばれています。なお「白鳳」は孝徳天皇が在世中の年号である「白雉(はくち)」の別称として用いられたとされています。白鳳文化は天武天皇・持統天皇の時代を中心とした、律令国家が形成されようとする意気込みが感じられる若々しい文化でもありました。この時代までに朝廷の儀式が充実し、天皇が即位された年に行...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その9

    この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収するという「出挙(すいこ)」があり、このうち「公出挙(くすいこ)」が国の重要な財源となった一方で、年5割~3割という重い負担が民衆を苦しめました。これに対して、個人が行う「私出挙(しすいこ)」は年の利率が10割に達するものもありました。我が国の治安と国防にも民衆の力が必要でした。正丁3~4人に1人の割合で兵士が徴発され、兵士は諸国の「軍団(ぐんだん)...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その8

    当時の民衆は「租(そ)」・「調(ちょう)」・「庸(よう)」・「雑徭(ぞうよう)」などの負担が課せられました。このうち租は6歳以上の男女に課せられ、口分田などの収穫から約3%の稲を納めるものであり、主に諸国において地方財政の費用に充(あ)てられました。調は男子の人頭税として絹・布・綿・塩など各地方の特産物を納め、庸は都での10日の歳役(さいえき、律令国家で課される労役のこと)のかわりに麻布(まふ)2丈(...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その7

    当時の人民は、6年に1回作成される戸籍(こせき)や、税を課するための台帳として毎年つくられた計帳(けいちょう)に登録され、50戸で1里が組織されたほか、この戸を単位として口分田(くぶんでん)が班給(はんきゅう、分け与えること)されました。口分田は6歳以上の男女に支給され、その広さは6歳以上の良民の男子には2段(1段は約11.7アール)、女子にはその3分の2、さらに私有の賤民(家人・私奴婢)には良民男女のそれぞれ...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その6

    律令制における身分制度としては「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」とに大別されました。このうち、賤民には五種類の区別があり、官有の「陵戸(りょうこ)」・「官戸(かんこ)」・「公奴婢(くぬひ)」と、私有の「家人(けにん)」・「私奴婢(しぬひ)」がありました。これらを「五色(ごしき)の賤」といいます。なお、賤民の割合は良民の1割にも満たなかったと推定されている一方で、中央の大寺院や地方の豪族の...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その5

    中央や地方の各官庁は「長官(かみ)」・「次官(すけ)」・「判官(じょう)」・「主典(さかん)」の4つの等級からなる「四等官(しとうかん)」と、それ以下の多数の下級の官人(かんじん)によって構成されていました。なお、四等官は「四等官制」とも呼ばれます。官人は正一位(しょういちい)などの位階(いかい、官人の序列を示す階級のこと)を与えられ、位階に対応する官職(かんしょく)に任じられました。これを「官位...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その4

    国内の要地である京や難波(なにわ)の地には「左・右京職(さ・うきょうしき)」や「摂津職(せっつしき)」が置かれたほか、軍事あるいは外交上の要地である九州北部には「大宰府(だざいふ)」が置かれ、西海道を統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)しました。ところで、大宰府は現在の福岡県太宰府市にありましたが、いわゆる「大宰府」と「太宰府」の表記の違いについては、現存する古代の印影が「...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その3

    都の周辺の地域を意味する「畿内(きない)」とも呼ばれる「五畿」は「大和国(やまとのくに、現在の奈良県)」・「山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)」・「摂津国(せっつのくに、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)」・「河内国(かわちのくに、現在の大阪府東部)」・「和泉国(いずみのくに、現在の大阪府南西部)」に分かれました。五畿のうち「山背」は平城京(へいじょうきょう)から見て「奈良の山の背後...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その2

    この他、一台とは「弾正台(だんじょうだい)」のことであり、中央行政の監察や都の風俗の取り締まりなどを担当しました。また、五衛府は「衛門府(えもんふ)」と左右の「衛士府(えじふ)」、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」のことであり、こちらは宮城(きゅうじょう)の警備や都の巡察などを担当しました。地方の組織としては、まず全国が「五畿七道(ごきしちどう)」に区分され、その下に国郡里制(こくぐんりせい)として、...

  • 律令制度と戸籍・班田収授法 その1

    この頃の我が国の中央組織は、天皇のもとに「二官(にかん)・八省(はっしょう)・一台(いちだい)・五衛府(ごえふ)」の構成でした。このうち、二官とは神々の祀(まつ)りをつかさどる「神祇官(じんぎかん)」と、行政全般を担当する「太政官(だいじょうかん、または「だじょうかん」)」のことです。太政官の下には政務を分担する八省が設けられ、政治は「太政大臣(だいじょうだいじん、または「だじょうだいじん」)」・...

  • 律令国家の完成 その3

    ところで、我が国の「日本」という国号は飛鳥浄御原令によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わっ...

  • 律令国家の完成 その2

    天武天皇の崩御後は、皇后であり天智天皇の娘でもあった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が称制によって政治を行い、天武天皇と自身の子である草壁皇子(くさかべのみこ)の成長を待っていましたが、皇子が先に死去したため、690年に自らが41代の持統(じとう)天皇として即位されました。天武天皇の諸政策を次々と引き継いでいかれた持統天皇は、689年に法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行(しこ...

  • 律令国家の完成 その1

    壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武(てんむ)天皇となられました。天武天皇は、大臣(おおおみ)を置かずに自らが先頭に立たれて政治を行われました。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には、皇族出身者を中心とする新しい身分秩序である「八色(やくさ)の姓(かばね)」を定められました。その他にも、チャイナの法体系にならった律令や我が国の...

  • 壬申の乱 その5

    では、もう一つの理由とは何でしょうか。大海人皇子が勝利した理由のもう一つは「改新事業への支持」が考えられます。白村江の戦いに敗れて窮地(きゅうち)に陥(おちい)った天智天皇(当時は中大兄皇子)は、大化の改新によって土地や人民を取り上げられたことで不満の高まっていた中央の豪族と妥協するために人民の私有を復活させましたが、これは明らかな改新事業の後退でした。一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立...

  • 壬申の乱 その4

    天智天皇の崩御後は、大友皇子が政治の実権を握られましたが、まだ24歳と若い後継者は父ほどの器量をお持ちでおられず、政情不安が尽きませんでした。様子を見ていた大海人皇子は、672年旧暦6月に吉野を出立して美濃(みの、現在の岐阜県南部)へ逃れ、近江朝廷に対して反旗を翻(ひるがえ)しました。東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが結局は敗北し、大友皇...

  • 壬申の乱 その3

    ところで、天智天皇には後継者として二人の人物がいました。息子である大友皇子(おおとものみこ)と、弟である大海人皇子(おおあまのみこ)です。このうち、大友皇子は父同様に「反新羅」の外交路線を継承する考えだったようですが、大海人皇子は「親新羅」路線への転換を考えていました。我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我...

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