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黒田裕樹の歴史講座 http://rocky96.blog10.fc2.com/

受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。

黒田裕樹
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2012/08/07

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  • 壬申の乱 その2

    ご即位後にいきなり不祥事に巻き込まれた天智天皇でしたが、着々と国内の改革を進められました。まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる「近江令(おうみりょう)」を中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として我が国初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」がつくられました。また、67...

  • 壬申の乱 その1

    667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江(おうみ、現在の滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に遷(うつ)しました。遷都(せんと)の理由は詳しくは分かりませんが、新たな政治体制をつくるため、既存の勢力が強い飛鳥から思い切って遷ったからとも、あるいは唐などの諸外国から攻められた場合に、移動しやすいように交通の便が良い場所を選んだからとも思われます。そして翌668年正月、中大兄皇子は43歳でようやく天智(てんじ)天皇...

  • 白村江の悲劇 その6

    島国である我が国は、朝鮮半島に大陸の属国ではない強力な独立国が存在している間は、大陸からの侵略を受けずに済んできたのですが、今回の例もまさにその原則どおりとなりました。我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。しかし、実際に7世紀後...

  • 白村江の悲劇 その5

    新羅は旧百済領を唐と争ってこれを奪い、旧高句麗領の南半分とともに自領として朝鮮半島の統一に成功すると、その後は唐に対して謝罪外交と小競り合いを繰り返すなど、唐と交戦状態に入ってからも和戦をうまく使い、巧妙な外交を展開しました。その後、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は朝鮮半島の支配を諦め、やがては新羅の存在を認めたのでした...

  • 白村江の悲劇 その4

    我が国と旧百済の軍勢は海を渡り、663年に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)で唐・新羅の連合軍と激突しましたが、戦いは我が国側の大敗で終わりました。百済の復興は夢と消え、我が国も朝鮮半島への足がかりを完全に失ってしまいました。この戦いを「白村江の戦い」といいます。白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐...

  • 白村江の悲劇 その3

    さて、生き残りのために自国の文化をすべてチャイナ風に改めた新羅には、独立国としての面影が全く存在しませんでしたが、たとえ「唐のコピー」となることがどれだけ屈辱的(くつじょくてき)であろうが、国が滅びては意味がありません。まさになりふりかまわぬ究極の策といえました。こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。百済...

  • 白村江の悲劇 その2

    新羅は自国の滅亡を免れるために、敢えて唐と同盟を結びました。しかし、それは表向き「唐の属国」となることを意味していたのです。新羅は属国であることをアピールするために、自国の文化をかなぐり捨て、唐の真似をすることを始めました。つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてをチャイナ風に改めたのです。百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ...

  • 白村江の悲劇 その1

    隋が滅んだ後に建国された唐は朝鮮半島全体を支配下に置くことを考え、手始めに陸続きだった高句麗(こうくり)を攻めました。高句麗は唐の猛攻をはね返しながら、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくすため、百済(くだら)と結んで新羅(しらぎ)を攻め立てました。こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として唐との軍事同盟を選...

  • 大化の改新への道のり その5

    さて、大化の改新によって新たな政治を実行しようとした中大兄皇子でしたが、改革は必ずしも順調に行われたわけではありませんでした。理想に燃えた皇子でしたが、性急な改革は現実とかけ離れることが多く、伝統を重んじる他の有力者との間には、いつしかすきま風が吹き始めていました。例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿倍内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が新しい冠の着用を拒否しています。これ...

  • 大化の改新への道のり その4

    乙巳の変が起きた直後に、皇極天皇は孝徳(こうとく)天皇に譲位されました。生前での天皇のご譲位は初めてのことです。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となり、政治の全般を担当することになりました。中大兄皇子は都を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや、現在の大阪市中央区)に遷(うつ)すと、我が国史上初めての元号となる「大化」を制定し、645年は「大化元年」となりました。続いて朝廷内の役職の改革に着手し...

  • 大化の改新への道のり その3

    目の前で繰り広げられた大惨事に、皇極天皇は思わず大声を上げられました。「何事ですか、これは!」天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は殺害されてしま...

  • 大化の改新への道のり その2

    「あと少しで読み終わってしまう」。焦った石川麻呂の声が乱れ、両手もガタガタ震え出すなど、誰が見ても明らかに動揺し始めました。その様子を不審に思った入鹿が、石川麻呂に声をかけました。入鹿「どうして震えているのだ!」石川麻呂「へ、陛下(へいか)の御前(おんまえ)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころ...

  • 大化の改新への道のり その1

    蘇我氏の打倒を虎視眈々(こしたんたん)とうかがっていた中大兄皇子と中臣鎌足に、絶好の機会が訪れました。朝鮮半島からの使者が貢物(みつぎもの)を届けるために来日し、天皇に面会する儀式が行われることになったのです。朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を殺害する計画を立て、当日までに刺客を二人準備して、彼らとともに儀式が行わ...

  • 蘇我氏の横暴 その5

    中大兄皇子は舒明天皇を父に、また皇極天皇を母に持ち、次期天皇の有力候補者と見られていましたが、蘇我入鹿は自分の言いなりだった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を後継として立てるつもりでいました。幼少時から優秀かつ果敢な性格を称(たた)えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王のような目にあうかもしれないという思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられないという強い...

  • 蘇我氏の横暴 その4

    ところで、皆さんは「蹴鞠(けまり)」をご存知でしょうか。蹴鞠は7世紀前半までにチャイナから我が国に伝わったとされており、貴族から武士あるいは一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で蹴鞠の会が盛大...

  • 蘇我氏の横暴 その3

    皇極天皇を後継にしたのは、蘇我蝦夷の息子(=馬子の孫)の蘇我入鹿(そがのいるか)でした。入鹿は自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権を我が手に握ろうとしていましたが、そのためには優秀な山背大兄王の存在が目障(めざわ)りだったのです。643年、父親である蘇我蝦夷から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自...

  • 蘇我氏の横暴 その2

    推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が34代の舒明(じょめい)天皇として即位されました。舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀...

  • 蘇我氏の横暴 その1

    ※今回より「第96回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月17日までの予定)。我が国初の女帝となられた推古(すいこ)天皇の皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)となってから、我が国のために内政・外交とも大活躍を見せた聖徳太子(しょうとくたいし)でしたが、622年に49歳で逝去(せいきょ)すると、それを待っていたかのように蘇我(そが)氏の横暴が再び始まり...

  • 昭和天皇のご巡幸 その9

    ※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(6月13日)からは「第96回歴史講座」の内容を更新します(7月17日までの予定)。実は、彼らはシベリアへ抑留(よくりゅう)された際にソ連(現在のロシア)によって徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵(せんぺい)として、いち早く帰国を許されていた青年たちでした。彼らは今回の行幸(ぎょうこう)で、暴力をもってしてでも昭和天皇に戦争責任を認めさせ、それを革命の...

  • 昭和天皇のご巡幸 その8

    次に、引揚げ者の一団の前を通られた昭和天皇は、その場で足をお止めになられると、深々と頭を下げられ、お言葉を掛けられました。「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。皆さんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争の...

  • 昭和天皇のご巡幸 その7

    因通寺の参道には、遺族や引揚げ者も大勢つめかけていましたが、昭和天皇は最前列に座っていた年老いた女性に声をかけられました。「どなたが戦死をされたのか」。「息子でございます。たった一人の息子でございました」。声を詰まらせながら返事をする老婆に、陛下は続けて声をかけられました。「どこで戦死をされたの?」「ビルマ(現在のミャンマー)でございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言っ...

  • 昭和天皇のご巡幸 その6

    昭和24(1949)年5月22日、佐賀県にお入りになった昭和天皇は、主に満州(現在の中国東北部)で両親を亡くした孤児たちを預かった、因通寺(いんつうじ)の洗心寮(せんしんりょう)にお越しになられました。寮の各部屋の孤児一人ひとりに対して声をかけられた陛下は、最後の部屋で父と母の位牌(いはい)を抱いていた女の子に目を留められ、お尋ねになられました。「(位牌をご覧になって)お父さん、お母さん?」「はい、そうで...

  • 昭和天皇のご巡幸 その5

    昭和22(1947)年12月7日に、昭和天皇は原爆の地である広島にお入りになられました。陛下は原爆による孤児たちをご覧になって励ましのお言葉をお掛けになり、また原爆症で頭髪が抜け落ちた男の子の頭を抱(かか)え込むようにして、しばし御目頭(おめがしら)を押さえられました。そんな陛下のお姿に周囲の群集も静まり返り、やがてすすり泣きの声が聞こえてきました。奉迎場(ほうげいじょう、身分の高い人をお迎えする場所)と...

  • 昭和天皇のご巡幸 その4

    その後もご巡幸を続けられた昭和天皇は、GHQの予想を大きく覆(くつがえ)して、各地の国民から熱烈な歓迎をお受けになりました。しかし、何と言っても終戦直後です。全国各地の中にはまともな宿泊施設は少なく、列車の中や学校の教室などに泊まられた事もありました。しかし、陛下は「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日ぐらいは風呂に入らなくてもかまわない」と全く気にされることもなく、元気にご巡幸の毎日をお過ご...

  • 昭和天皇のご巡幸 その3

    昭和天皇によるご巡幸は、昭和21(1946)年2月の神奈川県下の昭和電工を振り出しに始められましたが、この付近は終戦後にアメリカ軍が接収(=権力機関が個人の所有物を強制的に取り上げること)しており、我が国の中でも占領色が一段と濃い場所でした。それだけに、会場には外国のカメラマンやアメリカ兵たちがひしめき合っており、彼らによって昭和天皇はあちこち引っ張られるなどもみくちゃにされました。しかし、陛下は全く意...

  • 昭和天皇のご巡幸 その2

    戦争に負けた国の当時の最高権力者が直(じか)に国民に会うことはもちろん、まして励ますなど、世界の常識では考えられないことでした。なぜなら、以前にも述べたように、戦争に敗北した国の元首の末路は悲惨なものであり、またその血統は断絶して、新しい王朝が誕生するのが当然だったからです。それだけに、陛下(へいか)のご巡幸の計画を聞いたGHQも、当初は「天皇の意図が分からない」と怪しみましたが、やがて一つの確信を...

  • 昭和天皇のご巡幸 その1

    昭和20(1945)年10月、昭和天皇は宮内省の役人に対して下記のお言葉を発せられ、全国をご巡幸(じゅんこう)される強い決意を示されました。「先の戦争によって先祖からの領土や国民の多くの生命を失い、大変な災厄を受けた。この際、私としてはどうすればよいのかと思い、退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国をくまなく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と...

  • 占領下の皇室と国民 その6

    つまり、昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」において、天皇と国民との絆は、神格化によらずとも相互の信頼と敬愛とによって固く結ばれていることや、我が国の民主主義は外国によるものではなく、明治天皇の頃から我が国独自で育て上げてきたものであるという、いわば当然のことを言葉とされることで、終戦で傷ついた国民の誇りを失わないようにと配慮されたのです。それなのに、マスコミや出版社の多くが「天皇が神格化を否定し...

  • 占領下の皇室と国民 その5

    昭和天皇が「新日本建設ニ関スル詔書」の中で仰っておられることは、終戦の詔書などと比較しても際立って新しいこととはいえませんし、むしろ常日頃からお考えだからこそ、繰り返し強調されておられるのではないでしょうか。ところで、この詔書の最初に、明治天皇による「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が紹介されているのを皆さんはご存知でしょうか。詔書に五箇条の御誓文を付け加えられたのは昭和天皇ご自身のお考えであり、実...

  • 占領下の皇室と国民 その4

    「新日本建設ニ関スル詔書」の文章の中で、一般的に人間宣言の根拠となっているのは以下の部分です。「天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」。この文章だけ読めば、昭和天皇が自らの神格化を否定されたと見なすことも不可能ではないですが、これは詔書のほんの一部分に過...

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