大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
ご即位後にいきなり不祥事に巻き込まれた天智天皇でしたが、着々と国内の改革を進められました。まず、668年に我が国で初の本格的な法令となる「近江令(おうみりょう)」を中臣鎌足らとともに制定したとされています。ただ、近江令は現存せず、近年ではその存在を疑われている一面もあります。続いて670年には、公地公民制への準備として我が国初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」がつくられました。また、67...
667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江(おうみ、現在の滋賀県)の大津宮(おおつのみや)に遷(うつ)しました。遷都(せんと)の理由は詳しくは分かりませんが、新たな政治体制をつくるため、既存の勢力が強い飛鳥から思い切って遷ったからとも、あるいは唐などの諸外国から攻められた場合に、移動しやすいように交通の便が良い場所を選んだからとも思われます。そして翌668年正月、中大兄皇子は43歳でようやく天智(てんじ)天皇...
島国である我が国は、朝鮮半島に大陸の属国ではない強力な独立国が存在している間は、大陸からの侵略を受けずに済んできたのですが、今回の例もまさにその原則どおりとなりました。我が国が原則どおりに行動できた背景の一つに、新羅との友好関係の構築が挙げられます。百済との関係が深かった我が国にとって、それまでの外交姿勢を180度転換させるような政策は、そう簡単にできるものではありませんでした。しかし、実際に7世紀後...
新羅は旧百済領を唐と争ってこれを奪い、旧高句麗領の南半分とともに自領として朝鮮半島の統一に成功すると、その後は唐に対して謝罪外交と小競り合いを繰り返すなど、唐と交戦状態に入ってからも和戦をうまく使い、巧妙な外交を展開しました。その後、旧高句麗領の北部を中心に渤海(ぼっかい)が建国されたり、唐自体の内乱もあったりして、兵を集中できなくなった唐は朝鮮半島の支配を諦め、やがては新羅の存在を認めたのでした...
我が国と旧百済の軍勢は海を渡り、663年に朝鮮半島の白村江(はくすきのえ、または「はくそんこう」)で唐・新羅の連合軍と激突しましたが、戦いは我が国側の大敗で終わりました。百済の復興は夢と消え、我が国も朝鮮半島への足がかりを完全に失ってしまいました。この戦いを「白村江の戦い」といいます。白村江の戦いの敗北によって、百済の王族以下多くの人々が我が国に亡命し、その後帰化しました。我が国は唐や新羅の報復を恐...
さて、生き残りのために自国の文化をすべてチャイナ風に改めた新羅には、独立国としての面影が全く存在しませんでしたが、たとえ「唐のコピー」となることがどれだけ屈辱的(くつじょくてき)であろうが、国が滅びては意味がありません。まさになりふりかまわぬ究極の策といえました。こうして唐と同盟を結んだ新羅は、やがて反撃に転じました。660年には唐と共同で百済を攻め、首都を落とされた百済は滅亡してしまいました。百済...
新羅は自国の滅亡を免れるために、敢えて唐と同盟を結びました。しかし、それは表向き「唐の属国」となることを意味していたのです。新羅は属国であることをアピールするために、自国の文化をかなぐり捨て、唐の真似をすることを始めました。つまり、民族の風俗や服装、官制や年号だけでなく、名前のあり方(名字を漢字一文字に変えました)に至るまで、すべてをチャイナ風に改めたのです。百済の有名な将軍である鬼室福信(きしつ...
隋が滅んだ後に建国された唐は朝鮮半島全体を支配下に置くことを考え、手始めに陸続きだった高句麗(こうくり)を攻めました。高句麗は唐の猛攻をはね返しながら、後顧(こうこ)の憂(うれ)いをなくすため、百済(くだら)と結んで新羅(しらぎ)を攻め立てました。こうなると困ったのは新羅です。高句麗と百済の両方から攻められたうえに、我が国の支援も得られず、追いつめられた新羅は、起死回生の策として唐との軍事同盟を選...
さて、大化の改新によって新たな政治を実行しようとした中大兄皇子でしたが、改革は必ずしも順調に行われたわけではありませんでした。理想に燃えた皇子でしたが、性急な改革は現実とかけ離れることが多く、伝統を重んじる他の有力者との間には、いつしかすきま風が吹き始めていました。例えば、中大兄皇子が新たな冠位制度を導入した際に、左大臣の阿倍内麻呂と右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が新しい冠の着用を拒否しています。これ...
乙巳の変が起きた直後に、皇極天皇は孝徳(こうとく)天皇に譲位されました。生前での天皇のご譲位は初めてのことです。中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となり、政治の全般を担当することになりました。中大兄皇子は都を難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや、現在の大阪市中央区)に遷(うつ)すと、我が国史上初めての元号となる「大化」を制定し、645年は「大化元年」となりました。続いて朝廷内の役職の改革に着手し...
目の前で繰り広げられた大惨事に、皇極天皇は思わず大声を上げられました。「何事ですか、これは!」天皇の息子である中大兄皇子は、母の皇極天皇の前へ進み出ると、きっぱりと理由を述べました。「蘇我入鹿は皇族を滅ぼして自分が皇位につこうとした大悪人ですから、誅殺(ちゅうさつ)したまでのことです」。理由を聞かれた皇極天皇は、黙って席を立たれました。その間に刺客たちが入鹿に止めを刺し、ついに入鹿は殺害されてしま...
「あと少しで読み終わってしまう」。焦った石川麻呂の声が乱れ、両手もガタガタ震え出すなど、誰が見ても明らかに動揺し始めました。その様子を不審に思った入鹿が、石川麻呂に声をかけました。入鹿「どうして震えているのだ!」石川麻呂「へ、陛下(へいか)の御前(おんまえ)ですから、ふ、不覚にも緊張しまして…」しどろもどろで返答する石川麻呂に対して、入鹿がさらに不信感を持ちました。このままでは計画が失敗するどころ...
蘇我氏の打倒を虎視眈々(こしたんたん)とうかがっていた中大兄皇子と中臣鎌足に、絶好の機会が訪れました。朝鮮半島からの使者が貢物(みつぎもの)を届けるために来日し、天皇に面会する儀式が行われることになったのです。朝廷にとって重要な行事ですから、大臣(おおおみ)の蘇我入鹿も必ず出席します。これを好機と見た二人は、儀式の途中で入鹿を殺害する計画を立て、当日までに刺客を二人準備して、彼らとともに儀式が行わ...
中大兄皇子は舒明天皇を父に、また皇極天皇を母に持ち、次期天皇の有力候補者と見られていましたが、蘇我入鹿は自分の言いなりだった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を後継として立てるつもりでいました。幼少時から優秀かつ果敢な性格を称(たた)えられていた中大兄皇子にとっては、自分も将来は山背大兄王のような目にあうかもしれないという思いと、何よりも蘇我氏による専横をこれ以上黙って見ていられないという強い...
ところで、皆さんは「蹴鞠(けまり)」をご存知でしょうか。蹴鞠は7世紀前半までにチャイナから我が国に伝わったとされており、貴族から武士あるいは一般民衆に至るまで幅広く親しまれました。一般的には優雅な遊びと見られていますが、鞠(まり)を高く蹴りあげるなど、かなりの技術と体力を有する競技でもあります。蘇我入鹿が強大な権力を握っていたある日のこと、飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)の広場で蹴鞠の会が盛大...
皇極天皇を後継にしたのは、蘇我蝦夷の息子(=馬子の孫)の蘇我入鹿(そがのいるか)でした。入鹿は自分の意のままになる天皇を選び、政治の実権を我が手に握ろうとしていましたが、そのためには優秀な山背大兄王の存在が目障(めざわ)りだったのです。643年、父親である蘇我蝦夷から大臣(おおおみ)の地位を独断で譲られた入鹿は、返す刀で山背大兄王を攻め立てました。追いつめられた山背大兄王は、一族全員が首をくくって自...
推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が34代の舒明(じょめい)天皇として即位されました。舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀...
※今回より「第96回歴史講座」の内容の更新を開始します(7月17日までの予定)。我が国初の女帝となられた推古(すいこ)天皇の皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)となってから、我が国のために内政・外交とも大活躍を見せた聖徳太子(しょうとくたいし)でしたが、622年に49歳で逝去(せいきょ)すると、それを待っていたかのように蘇我(そが)氏の横暴が再び始まり...
※「昭和時代・戦後」の更新は今回で中断します。明日(6月13日)からは「第96回歴史講座」の内容を更新します(7月17日までの予定)。実は、彼らはシベリアへ抑留(よくりゅう)された際にソ連(現在のロシア)によって徹底的に洗脳され、日本の共産革命の尖兵(せんぺい)として、いち早く帰国を許されていた青年たちでした。彼らは今回の行幸(ぎょうこう)で、暴力をもってしてでも昭和天皇に戦争責任を認めさせ、それを革命の...
次に、引揚げ者の一団の前を通られた昭和天皇は、その場で足をお止めになられると、深々と頭を下げられ、お言葉を掛けられました。「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。皆さんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争の...
因通寺の参道には、遺族や引揚げ者も大勢つめかけていましたが、昭和天皇は最前列に座っていた年老いた女性に声をかけられました。「どなたが戦死をされたのか」。「息子でございます。たった一人の息子でございました」。声を詰まらせながら返事をする老婆に、陛下は続けて声をかけられました。「どこで戦死をされたの?」「ビルマ(現在のミャンマー)でございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言っ...
昭和24(1949)年5月22日、佐賀県にお入りになった昭和天皇は、主に満州(現在の中国東北部)で両親を亡くした孤児たちを預かった、因通寺(いんつうじ)の洗心寮(せんしんりょう)にお越しになられました。寮の各部屋の孤児一人ひとりに対して声をかけられた陛下は、最後の部屋で父と母の位牌(いはい)を抱いていた女の子に目を留められ、お尋ねになられました。「(位牌をご覧になって)お父さん、お母さん?」「はい、そうで...
昭和22(1947)年12月7日に、昭和天皇は原爆の地である広島にお入りになられました。陛下は原爆による孤児たちをご覧になって励ましのお言葉をお掛けになり、また原爆症で頭髪が抜け落ちた男の子の頭を抱(かか)え込むようにして、しばし御目頭(おめがしら)を押さえられました。そんな陛下のお姿に周囲の群集も静まり返り、やがてすすり泣きの声が聞こえてきました。奉迎場(ほうげいじょう、身分の高い人をお迎えする場所)と...
その後もご巡幸を続けられた昭和天皇は、GHQの予想を大きく覆(くつがえ)して、各地の国民から熱烈な歓迎をお受けになりました。しかし、何と言っても終戦直後です。全国各地の中にはまともな宿泊施設は少なく、列車の中や学校の教室などに泊まられた事もありました。しかし、陛下は「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日ぐらいは風呂に入らなくてもかまわない」と全く気にされることもなく、元気にご巡幸の毎日をお過ご...
昭和天皇によるご巡幸は、昭和21(1946)年2月の神奈川県下の昭和電工を振り出しに始められましたが、この付近は終戦後にアメリカ軍が接収(=権力機関が個人の所有物を強制的に取り上げること)しており、我が国の中でも占領色が一段と濃い場所でした。それだけに、会場には外国のカメラマンやアメリカ兵たちがひしめき合っており、彼らによって昭和天皇はあちこち引っ張られるなどもみくちゃにされました。しかし、陛下は全く意...
戦争に負けた国の当時の最高権力者が直(じか)に国民に会うことはもちろん、まして励ますなど、世界の常識では考えられないことでした。なぜなら、以前にも述べたように、戦争に敗北した国の元首の末路は悲惨なものであり、またその血統は断絶して、新しい王朝が誕生するのが当然だったからです。それだけに、陛下(へいか)のご巡幸の計画を聞いたGHQも、当初は「天皇の意図が分からない」と怪しみましたが、やがて一つの確信を...
昭和20(1945)年10月、昭和天皇は宮内省の役人に対して下記のお言葉を発せられ、全国をご巡幸(じゅんこう)される強い決意を示されました。「先の戦争によって先祖からの領土や国民の多くの生命を失い、大変な災厄を受けた。この際、私としてはどうすればよいのかと思い、退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国をくまなく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と...
つまり、昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」において、天皇と国民との絆は、神格化によらずとも相互の信頼と敬愛とによって固く結ばれていることや、我が国の民主主義は外国によるものではなく、明治天皇の頃から我が国独自で育て上げてきたものであるという、いわば当然のことを言葉とされることで、終戦で傷ついた国民の誇りを失わないようにと配慮されたのです。それなのに、マスコミや出版社の多くが「天皇が神格化を否定し...
昭和天皇が「新日本建設ニ関スル詔書」の中で仰っておられることは、終戦の詔書などと比較しても際立って新しいこととはいえませんし、むしろ常日頃からお考えだからこそ、繰り返し強調されておられるのではないでしょうか。ところで、この詔書の最初に、明治天皇による「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が紹介されているのを皆さんはご存知でしょうか。詔書に五箇条の御誓文を付け加えられたのは昭和天皇ご自身のお考えであり、実...
「新日本建設ニ関スル詔書」の文章の中で、一般的に人間宣言の根拠となっているのは以下の部分です。「天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」。この文章だけ読めば、昭和天皇が自らの神格化を否定されたと見なすことも不可能ではないですが、これは詔書のほんの一部分に過...
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大正13(1924)年に加藤高明内閣が成立した際に外務大臣となった幣原喜重郎は、我が国の権益を守りつつも中国には配慮し、また欧米との武力対立を避けながら、貿易などの経済を重視するという外交を展開しました。幣原外相による外交は今日では「幣原外交」あるいは「協調外交」と呼ばれ、一般的な歴史教科書では肯定的な評価が多く見られますが、その平和的な姿勢が相手国にとっては「軟弱外交」とも映ったことで、結果として我が...
1925(大正14)年に孫文が死去した後に国民革命軍総司令となった蒋介石(しょうかいせき)は、翌1926(大正15)年に、未だに軍閥が支配していた北京に向かって攻めることを決断しました。これを「北伐(ほくばつ)」といいます。国民革命軍は南京などの主要都市を次々と攻め落としましたが、その一方で国民党内において共産党員が増加していた事態を警戒した蒋介石は、1927(昭和2)年4月に上海で多数の共産党員を殺害しました。こ...
1911(明治44)年に辛亥(しんがい)革命が起きて清国(しんこく)が滅亡し、孫文(そんぶん)によって中華民国が建国されましたが、その後の中国は軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の北方派(=北京政府)と、国民党を結成した孫文率いる南方派とに分裂し、果てしない権力抗争が続いていました。中国大陸の混乱を共産主義化の好機と見たソビエト政権のコミンテルンは、1921(大正10)年に「中国共産党」を組織させたほか、大陸制覇に...
先述のとおり、アメリカの対日感情は年を経るごとに悪化していきましたが、それに追い打ちをかけたのが、パリ講和会議において我が国が提出した人種差別撤廃案でした。白色人種の有色人種に対する優越を否定する案に激高したアメリカは、ますます日本を追いつめるようになったのです。1920(大正9)年にはカリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、日本人移民自身の土地所有の禁止だけでなく、その子供にまで土地所有が禁止さ...
ワシントン会議によって成立した様々な国際協定は、東アジアや太平洋地域における列強間の協調を目指したものであり、当時は「ワシントン体制」と呼ばれました。ワシントン体制はヨーロッパのヴェルサイユ体制とともに第一次世界大戦後の世界秩序を形成することになりましたが、我が国にとっては大戦で得た様々な権益を放棄させられるなど、アジアにおける政策に対して列強からの強い制約を受けることになったほか、日英同盟の破棄...
ワシントン海軍軍備制限条約と並行して、条約を結んだ5か国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルが加わって、大正11(1922)年に「九か国条約」が結ばれました。この国際条約によって、アメリカが提唱していた中国の領土と主権の尊重や、経済活動のための中国における門戸(もんこ)開放・機会均等の原則が成文化されましたが、これは我が国が九か国条約より先にアメリカと結んだ「石井・ランシング協定」に明らかに反する...
さて、四か国条約が結ばれた翌年の大正11(1922)年には、条約を結んだイギリス・アメリカ・日本・フランスにイタリアを加えた5か国の間に「ワシントン海軍軍備制限条約」が結ばれ、主力艦の保有総トン数をアメリカ・イギリスが5、日本が3、フランスとイタリアが1.67の割合に制限しました。我が国の海軍は米英への対抗のため対7割(米英5、日3.5)を唱えましたが、海軍大将でもあった全権の加藤友三郎がこれを抑えるかたちで調印し...
ところで、現代では日本、アメリカ、オーストラリア、インドの4か国の枠組みによる「クアッド(=QUAD)」が進められており、自由や民主主義、法の支配といった共通の価値観に基づいて連携(れんけい)を強化するとともに、インフラや海洋安全保障、テロ対策、サイバーセキュリティなどの分野で協力し、さらに海洋進出を強める中華人民共和国を念頭に「自由で開かれたインド太平洋」の実現を目指しています。21世紀のクアッドと20...
我が国が日英同盟を破棄することに応じたのは、軍縮問題を会議の中心と考え、四か国条約が世界平和につながると単純に信じた全権大使の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)による軽率な判断があったからだといわれています。なお、幣原はこの後に「幣原外交」あるいは「協調外交」という名の「相手になめられ続けるだけだった弱腰外交」を展開し、我が国に大きな影響を与えることになります。理由はどうあれ、日英同盟の破棄によっ...
ワシントン会議でまず槍玉(やりだま)に挙げられたのが日英同盟でした。明治35(1902)年に初めて結ばれた日英同盟は、日露戦争の終結後も第一次世界大戦で我が国がドイツへ参戦するきっかけとなるなど、日英両国にとって価値の高いものでした。しかし、我が国を激しく憎むアメリカにとって、将来日本と戦争状態となることを想定すれば、日英同盟は邪魔(じゃま)な存在でしかなかったのです。このためアメリカはドイツが敗れて同...
第一次世界大戦への参戦をきっかけに世界での発言権を高めることに成功したアメリカは、大戦後の体制を自国主導の下に構築しようと考え、イギリスを抜く世界一の海軍国を目指して艦隊の増強計画を進めました。アメリカの思惑(おもわく)に気付いた我が国は、これに対抗する目的で艦齢8年未満の戦艦8隻(せき)と巡洋戦艦8隻を常備すべく、先述した「八・八艦隊」の建造計画を推進していましたが、果てしない軍拡競争に疲れたアメ...
ところが、大正14(1925)年に普通選挙法が成立したことにより、支持政党を持たず、プライドもなく、政治に無関心な有権者が一気に誕生しました。このような人々から票を集めようと思えば、それこそ大規模なキャンペーンを行わなければならず、一回の選挙にかかる費用の激増をもたらしたのは、むしろ必然でもありました。しかし、政党にそんな多額の費用を負担する余裕などあるはずもなく、当時の財閥(ざいばつ)などからの大口の...
「日本では1925(大正14)年になって、男子のみではあったもののようやく普通選挙が実現しました。選挙権が財産や性別などで制限されている選挙では国民の意思を政治に生かすことはできませんから、長い歴史を経て誕生した普通選挙制度は大切な制度なのです」。高校での一般的な歴史・公民教科書(あるいは副読本)には概(おおむ)ね以上のように書かれており、普通選挙制度の重要性を訴えるのが通常となっていますが、確かに制限...
加藤高明内閣は大正14(1925)年に「普通選挙法」を成立させ、それまでの納税制限を撤廃(てっぱい)して満25歳以上の男子すべてが選挙権を持つようになり、選挙人の割合も全人口の5.5%から4倍増の20.8%と一気に拡大しました。一方、加藤高明内閣は「治安維持法」も成立させました。これは、同年に日ソ基本条約を締結してソ連との国交を樹立したことや、普通選挙の実施によって活発化されることが予想された共産主義運動を取り締...
第二次山本内閣が総辞職した後は、枢密院(すうみついん)議長だった清浦奎吾(きようらけいご)が首相になりましたが、政党から閣僚を選ばずに貴族院を背景とした超然内閣を組織しました。清浦がこの時期に超然内閣を組織したのは、衆議院の任期満了が数か月後に迫っており、選挙管理内閣として中立性を求められたために貴族院議員を中心とせざるを得なかったという側面もありました。しかし、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部のい...
※今回より「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。大正10(1921)年11月に首相の原敬(はらたかし)が暗殺されると、後継として大蔵大臣を務めていた高橋是清(たかはしこれきよ)が首相を兼任し、その他の閣僚をすべて引き継ぐというかたちで新たに内閣を組織しました。しかし、高い政治力を誇っていた原が急死した影響は大きく、間もなく与党の立憲政友会内部で対立が深刻化したこともあって高橋内閣は短命...
※「飛鳥時代」の更新は今回で中断します。明日(6月2日)からは「第108回歴史講座」の内容を更新します(7月5日までの予定)。ところで、例えば「至誠は天に通じる」といったような、我が国の伝統的な思想として「ひたすら低姿勢で相手のことを思いやり、また争いを好まず、話し合いで何事も解決しようとする」考えがありますが、そういったやり方は、たとえ国内では通用しても、国外、特に外交問題では全くといっていいほど通用し...
明くる608年、聖徳太子は3回目の遣隋使を送りましたが、この際に彼を悩ませたのが、国書の文面をどうするかということでした。一度煬帝を怒らせた以上、中国の君主と同じ称号を名乗ることは二度とできませんが、だからといって、再び朝貢外交の道をたどることも許されません。考え抜いた末に作られた国書の文面は、以下のように書かれていました。「東の天皇、敬(つつ)しみて、西の皇帝に白(もう)す」。我が国が皇帝の文字を避...
裴世清からの国書は「皇帝から倭皇(わおう)に挨拶(あいさつ)を送る」という文章で始まります。「倭王」ではなく「倭皇」です。これは、隋が我が国を「臣下扱いしていない」ことを意味しています。文章はさらに続きます。「皇(=天皇)は海の彼方(かなた)にいながらも良く民衆を治め、国内は安楽で、深い至誠(しせい、この上なく誠実なこと)の心が見受けられる」。朝貢外交にありがちな高圧的な文言(もんごん)が見られな...
中国の皇帝が務まるほどですから、煬帝も決して愚かではありません。だとすれば、聖徳太子の作戦が理解できて、自分に対等外交を認める選択しか残されていないことが分かったからこそ、より以上に激怒したのかもしれませんね。さて、煬帝は遣隋使が送られた翌年の608年に、小野妹子に隋からの返礼の使者である裴世清(はいせいせい)をつけて帰国させましたが、ここで大きな事件が起こってしまいました。何と、小野妹子が隋からの...
西南戦争の勝者は政府軍であり、敗者は不平士族となりましたが、これは政府が組織した徴兵令に基づく軍隊が戦争のプロともいえる士族に勝利したことを意味していました。一人ひとりは決して強くない兵力であっても、西洋の近代的な軍備と訓練によって鍛(きた)え上げたり、また人員や兵糧・武器弾薬などの補給をしっかりと行ったりすることで、士族の軍隊にも打ち勝つことが出来たのです。逆に、政府軍に敗れた士族たちは自分たち...
征韓論争に敗れて下野した西郷隆盛は、故郷の鹿児島へ帰って晴耕雨読の日々を送っていましたが、地元では西郷をそんな待遇へと追いやった政府に対する強い不満が渦巻いていました。そんな中、明治10(1877)年1月に鹿児島の私学校の生徒が火薬庫を襲撃する事件が起こると、西郷は「おはんらにこの命預けもんそ」と決意を固め、ついに同年2月に政府に反旗を翻(ひるがえ)しました。ただし、西郷による決起は単純な「不平士族の反乱...
征韓論争で西郷隆盛らが敗れて下野(げや)したことは、同時に士族の働き場所が失われたことを意味しており、自分たちが明治維新の実現に大きく貢献したと自負しながら、その後の待遇が決して良くないことに大きな不満を持っていた士族の中には、武力によって政府を倒そうとする者も現われるようになりました。まず明治7(1874)年1月、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂から馬車で移動していたところを士族に襲われて負傷しました。こ...
幕末に我が国とロシアとの間で日露和親条約を結んだ際、樺太(からふと)は国境を定めず両国の雑居地とした一方で、千島(ちしま)列島は択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉島以西は日本領、得撫島以東はロシア領とすることで、両国の国境を一度は画定しました。しかし、雑居地とした樺太においてロシアの横暴による紛争が激しくなると、朝鮮や琉球の問題を同時に抱えていた政府は、ロシアとの衝...
現代において沖縄が中国の支配を受けてしまえば、中国の軍艦が東シナ海から太平洋へ抜けて、我が国の近海に容易に接近できることでしょう。もしそうなれば、我が国の安全保障に深刻な影響をもたらすことになります。それが分かっていたからこそ、当時の日清両国は沖縄の帰属問題についてお互いに一歩も引きませんでしたし、またアメリカが第二次世界大戦後に沖縄を長期に渡って占領し、我が国返還後も沖縄の基地を手放そうとしない...
それにしても、薩摩藩による支配を受けてから沖縄県として我が国に編入されるまで、琉球王国は我が国と清国とのはざまで時の流れに翻弄(ほんろう)され続けました。琉球にとっては悲劇ともいえる歴史に同情する人々も多いようですが、その背景として「琉球=沖縄が抱える地政学上の宿命」があることをご存知でしょうか。沖縄や朝鮮半島、あるいは中国大陸が含まれている日本地図をお持ちの方がおられましたら、一度地図を逆さにひ...
清国の煮え切らない態度に激怒した政府は、明治7(1874)年に西郷従道(さいごうつぐみち)が率いる軍隊を台湾に出兵させました。これを「台湾出兵」または「征台(せいたい)の役(えき)」といいます。出兵後、事態の打開のために大久保利通が北京へ向かって清国と交渉を行うと、イギリスの調停を受けた末に、清国が我が国の行為を義挙と認めて賠償金を支払い、我が国が直ちに台湾から撤兵することで決着しました。台湾出兵によ...
廃藩置県の終了後にわざわざ琉球藩を置いたのは、表向きは独立した統治が認められる藩とすることによって、我が国の琉球への方策に対する清国からの抗議をかわそうとした政府の思惑がありましたが、そのような小手先の対応に清国が納得するはずがありません。清国は琉球が自らの属国であることを政府に主張し続けましたが、そんな折に日清両国間での琉球の処遇を決定づける事件が起きました。明治4(1871)年、琉球の八重山諸島(...
自らを宗主国として朝鮮を属国とみなし、独立国と認めようとしない清国の存在は、南下政策を進めるロシアとともに我が国にとって外交上の大きな問題でした。先述のとおり明治4(1871)年に我が国は日清修好条規を結んで清国と国交を開きましたが、間もなく琉球(りゅうきゅう)王国をめぐって紛争が起きてしまいました。琉球王国はそもそも独立国でしたが、江戸時代の初期までに薩摩藩の支配を受けた一方で、清国との間で朝貢(ち...
ところで一般的な歴史教育においては、日本が欧米列強に突き付けられた不平等条約への腹いせとして、自国より立場の弱い朝鮮に対して欧米の真似をして無理やり不平等条約となる日朝修好条規を押し付けたという見方をされているようですが、このような一方的な価値観だけでは、日朝修好条規の真の重要性や歴史的な意義を見出すことができません。確かに、日朝修好条規には朝鮮に在留する日本人に対する我が国側の領事裁判権(別名を...
一方、西洋を「見なかった」西郷らの留守政府には外遊組の意図が理解できませんでした。まさに「百聞は一見に如(し)かず」であったとともに、活躍の場をなくしていた士族を朝鮮との戦争によって救済したいという思惑が彼らにはあったのです。征韓論は政府を二分する大論争となった末に、太政大臣(だじょうだいじん)代理となった岩倉によって先の閣議決定が覆(くつがえ)されました。自身の朝鮮派遣を否定された西郷は政府を辞...
このような朝鮮の排他的な態度に対して、明治政府の内部から「我が国が武力を行使してでも朝鮮を開国させるべきだ」という意見が出始めました。こうして政府内で高まった「征韓論(せいかんろん)」ですが、その中心的な存在となったのが西郷隆盛でした。しかし西郷はいきなり朝鮮に派兵するよりも、まずは自分自身が朝鮮半島に出かけて直接交渉すべきであると考えていました。その意味では征韓論というよりも「遣韓論(けんかんろ...
政府は早速、当時の朝鮮国王である高宗(こうそう)に対して外交文書を送ったのですが、ここで両国にとって不幸な行き違いが発生してしまいました。朝鮮国王は、我が国からの外交文書の受け取りを拒否しました。なぜなら、文書の中に「皇(こう)」や「勅(ちょく)」の文字が含まれていたからです。当時の朝鮮は清国(しんこく)の属国であり、中国の皇帝のみが使用できる「皇」や「勅」の字を我が国が使うことで「日本が朝鮮を清...
不平等条約の改正と肩を並べる重要な外交問題として、我が国が欧米列強からの侵略や植民地化をいかにして防ぐかということがありましたが、特に深刻だったのはロシアの南下政策でした。当時のロシアの主要な領土は北半球でも緯度の高いところが中心でしたが、極寒の時期になると港の周辺の海が凍ってしまうのが大きな悩みでした。このため、ロシアは冬でも凍らない不凍港を求め、徐々に南下して勢力を拡大しつつあったのですが、こ...
ようやく全権委任状を入手できた使節団でしたが、アメリカから新たな条約項目の提案を受けるなどの難題が多かったこともあり、条約改正の交渉は結局打ち切られてしまいました。その後の使節団は目的を欧米視察に切り替え、近代国家の政治や産業など多くの見聞を広め、欧米の発展した文化を政府首脳が直接目にしたことで、我が国が列強からの侵略を受けないためにも内政面における様々な改革が急務であることを痛感しました。そんな...
※今回より「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。明治政府にとって何よりも重要な外交問題は、旧幕府が欧米列強と結ばされた不平等条約を改正すること、すなわち「条約改正」を実現することでした。一方、西洋の進んだ文明や文化を学ぼうと思えば、留学生だけではなく、政府の首脳が直接海外に出かけて視察する必要があると考えました。そこで、明治4(1871)年旧暦11月に右大臣の岩倉具視(いわくらともみ...
※「平成時代」の更新は今回で中断します。明日(6月3日)からは「第102回歴史講座」の内容を更新します(7月3日までの予定)。中国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年にはチベットのダライ・ラ...
聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった中国との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて宮澤氏が官房長官の時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで中国に売り渡したのです。し...
また、現在の皇后陛下のご尊父でもある小和田恒(おわだひさし)外務事務次官(当時)も、平成4(1992)年3月にアマコスト駐日米大使(当時)に対して「過去の清算は現天皇の訪中によって初めて可能になる」との認識を示しています。さて、天皇陛下のご訪問に「感激」した当時の中国は「今後は歴史問題について言及しない」と我が国に対して確かに表明しましたが、そもそも日本を「家来」扱いした中国がそんな口約束を守るはずがあ...
天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中国は、日本の天皇を自国へ招いて友好的な姿勢を演出することで国際世論を軟化させようと目論(もくろ)みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国が中国を訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下が中国の都を訪問されれば、それは我が国が「中国の傘...