推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が34代の舒明(じょめい)天皇として即位されました。舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀...
一進一退の状態が続いた朝鮮戦争は、ソ連の提案もあって1951(昭和26)年7月から休戦会談が開かれるようになりましたが、交渉は難航しました。その後、アメリカで早期停戦を主張し続けていた共和党のアイゼンハワーが大統領に就任したり、ソ連の独裁者であったスターリンが死去したりするなど、米ソの指導者の交代を契機として、1953(昭和28)年7月にようやく休戦となり、軍事境界線上にある板門店(はんもんてん)で休戦協定が調...
膠着(こうちゃく)した戦局を打開するため、マッカーサーは1951(昭和26)年4月に満州への原爆投下をトルーマン大統領に提案しましたが、戦闘が中華人民共和国内にまで及べば、ソ連を刺激するのみならずヨーロッパをも緊張関係に巻き込むことになり、第三次世界大戦に発展する恐れがあると判断したトルーマンは提案を却下し、同月にマッカーサーを解任しました。解任されて帰国したマッカーサーは、翌5月3日に開かれたアメリカ上...
朝鮮戦争の緒戦は兵力に勝る北朝鮮軍が優位に立ち、一時期は国連軍や韓国軍を釜山(プサン)にまで追いつめましたが、9月15日にマッカーサーが北朝鮮軍の背後をついた「仁川(インチョン)港上陸作戦」に成功すると形勢は逆転し、今度は国連軍が38度線を突破して、中華人民共和国国境の鴨緑江(おうりょくこう)にまで迫りました。しかし、中華人民共和国が人民解放軍を「義勇兵」として派遣したことで北朝鮮軍は勢力を盛り返し、...
朝鮮半島では、1948(昭和23)年にソ連が支援する朝鮮民主主義人民共和国(=北朝鮮)と、アメリカが支援する大韓民国(=韓国)とに北緯38度線を境界として分割されていましたが、1950(昭和25)年に入って、1月にアメリカと韓国とが「相互防衛援助協定」を結ぶと、翌2月には中華人民共和国とソ連とが「友好同盟相互援助条約」を締結するなど、緊張が高まりました。また、同じ1950(昭和25)年の1月には、アメリカのアチソン国務...
ドッジ=ラインによる強引な改革によって我が国のインフレは収束し、政府も赤字財政から脱出できましたが、超緊縮財政によって不況が深刻となり、中小企業の倒産が増大しました。不況による人員整理によって、街には失業者が増大するとともに、労働争議も激しくなりましたが、昭和24(1949)年に国鉄(現在のJR)による人員整理が発表された直後に「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」が相次いで発生し、その際に疑いの目が国鉄労...
我が国の経済復興を強く求めたGHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)は、昭和23(1948)年12月に第二次吉田茂(よしだしげる)内閣に対して、予算の均衡(きんこう)・徴税の強化・資金の貸出制限・賃金の安定・物価の統制・貿易の改善・物資の割当の改善・国内原料や製品の増産・食糧の集荷の改善といった「経済安定九原則」の実行を指示しました。これらの原則を実施させるため、翌昭和24(1949)年にGHQの顧問として来日した銀行...
大東亜戦争で我が国に勝利したことで、満州(現在の中国東北部)など東アジアにおける権益を自国のものとすることができると信じていたアメリカは、我が国が二度と欧米列強に抵抗することのないように、終戦後に行われた対日占領政策を、非軍事化や民主化を中心に進めてきました。しかし、中国大陸や朝鮮半島における共産主義の台頭によって、アメリカが得られた果実がほとんど存在しないという厳しい現実や、大戦末期からの米ソ対...
中国大陸では、第二次国共合作によって、蒋介石(しょうかいせき)の国民党と毛沢東(もうたくとう)の共産党とが、日華事変(=日中戦争)やその後の大東亜戦争といった我が国との戦闘に対して「抗日民族統一戦線」を形成しましたが、昭和20(1945)年に我が国の敗戦が決まると、国共合作が破れて、両者は内戦状態となりました。毛沢東はソ連の、蒋介石はアメリカの支援を受けてそれぞれ戦闘を続けましたが、戦局は共産党の優位に...
西側諸国が北大西洋条約機構を結成して体制を固めた一方で、同年に原子爆弾の開発に成功したソ連は、1955(昭和30)年に、ルーマニア・アルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)の東欧諸国とともに、ソ連のモスクワに司令部を置いた「ワルシャワ条約機構」を結成(翌年には東ドイツも加盟)し、共同防衛組織を築き上げました。これ以降、アメリカやソ連を中心とする東西二大...
【ハイブリッド方式】第97回黒田裕樹の歴史講座のお知らせ(令和5年7月)
「黒田裕樹の歴史講座」は対面式のライブ講習会とWEB会議(ZOOM)システムによるオンライン式の講座の両方を同時に行う「ハイブリッド方式」で実施しております。準備の都合上、オンライン式の講座のお申し込みは事前にお願いします。対面式のライブ講習会は当日の参加も可能です。なお、前回(第96回)より会場が「貸会議室プランセカンス」に変更となっているほか、メインの主催者が「国防を考える会」に変更されています。QRコ...
マーシャル=プランによって、西欧諸国への経済的・軍事的援助が行われましたが、こうした動きを警戒したソ連は、ドイツの首都であり、当時は東側をソ連に、西側をアメリカ・イギリス・フランスに分割統治されていたベルリンに対して、東ベルリンから西ベルリンに向かうすべての鉄路と道路を1948(昭和23)年に封鎖しました。これを「ベルリン封鎖」といいます。ソ連によって陸路を封鎖された西ベルリンでしたが、アメリカやイギリ...
対立関係が深まったアメリカとソ連は、お互いの国家体制(自由主義と共産主義)を維持する目的もあって、近隣諸国を次々と自国の勢力下に置きはじめました。ソ連は1947(昭和22)年にコミンフォルム(=共産党・労働者党情報局)を結成し、ルーマニアやアルバニア・ハンガリー・ブルガリア・ポーランド・チェコスロバキア(現在のチェコとスロバキア)など、戦後に次々と誕生した共産主義国家を従えて、東欧圏(けん)とも呼ばれる...
二度にわたる世界大戦によって、国力が著しく衰退した西欧諸国に代わり、抜きん出た軍事力や経済力を誇るアメリカが、世界に対する影響力を圧倒的に高めるようになりました。しかし、国力を飛躍的に高めたのはアメリカだけではありませんでした。1917(大正6)年のロシア革命によって、1922(大正11)年に誕生したソビエト社会主義共和国連邦(=ソ連)も、アメリカと同じように世界に対して圧倒的な影響力を持つまでにのし上がっ...
ところで、国連(=国際連合)はそもそも第二次世界大戦における連合国(United Nations)がそのまま国際機関として移行したものであり、「国際連合」という名称は、実は我が国による和訳に過ぎません。このため、国際連合すなわち「United Nations(連合国)」には、日本やドイツなど旧枢軸(すうじく)国、すなわち旧「敵国」に対して軍事行動を起こす場合は、安全保障理事会の許可を必要としないという例外的規定(これを「敵国...
※今回より「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。国際紛争の平和的解決と国際協力のための機関として、第一次世界大戦後の1920(大正9)年に「国際連盟」が設立されましたが、国際平和を維持するための具体的かつ有効的な措置(そち)を取り得ぬまま、1939(昭和14)年に第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)してしまいました。こうした流れを受けて、アメリカ・イギリス・ソ連の3か国を中心とした戦争終結後の...
※「第96回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月18日)からは「昭和時代・戦後」の更新を再開します(8月1日までの予定)。朝廷が仏教の力によって国家を鎮護(ちんご)しようとする傾向が強まったことから、大官大寺(だいかんだいじ、後の大安寺=だいあんじ)や薬師寺(やくしじ)など官立の大寺院が造営されました。このうち薬師寺東塔(とうとう)は奈良時代に再建されたものですが、白鳳期の建築様式を現...
7世紀後半から8世紀初頭にかけて、大化の改新以後から藤原京時代までの我が国の文化は「白鳳(はくほう)文化」と呼ばれています。なお「白鳳」は孝徳天皇が在世中の年号である「白雉(はくち)」の別称として用いられたとされています。白鳳文化は天武天皇・持統天皇の時代を中心とした、律令国家が形成されようとする意気込みが感じられる若々しい文化でもありました。この時代までに朝廷の儀式が充実し、天皇が即位された年に行...
この他、春に稲を貸し付け、収穫時に高い利息とともに徴収するという「出挙(すいこ)」があり、このうち「公出挙(くすいこ)」が国の重要な財源となった一方で、年5割~3割という重い負担が民衆を苦しめました。これに対して、個人が行う「私出挙(しすいこ)」は年の利率が10割に達するものもありました。我が国の治安と国防にも民衆の力が必要でした。正丁3~4人に1人の割合で兵士が徴発され、兵士は諸国の「軍団(ぐんだん)...
当時の民衆は「租(そ)」・「調(ちょう)」・「庸(よう)」・「雑徭(ぞうよう)」などの負担が課せられました。このうち租は6歳以上の男女に課せられ、口分田などの収穫から約3%の稲を納めるものであり、主に諸国において地方財政の費用に充(あ)てられました。調は男子の人頭税として絹・布・綿・塩など各地方の特産物を納め、庸は都での10日の歳役(さいえき、律令国家で課される労役のこと)のかわりに麻布(まふ)2丈(...
当時の人民は、6年に1回作成される戸籍(こせき)や、税を課するための台帳として毎年つくられた計帳(けいちょう)に登録され、50戸で1里が組織されたほか、この戸を単位として口分田(くぶんでん)が班給(はんきゅう、分け与えること)されました。口分田は6歳以上の男女に支給され、その広さは6歳以上の良民の男子には2段(1段は約11.7アール)、女子にはその3分の2、さらに私有の賤民(家人・私奴婢)には良民男女のそれぞれ...
律令制における身分制度としては「良民(りょうみん)」と「賤民(せんみん)」とに大別されました。このうち、賤民には五種類の区別があり、官有の「陵戸(りょうこ)」・「官戸(かんこ)」・「公奴婢(くぬひ)」と、私有の「家人(けにん)」・「私奴婢(しぬひ)」がありました。これらを「五色(ごしき)の賤」といいます。なお、賤民の割合は良民の1割にも満たなかったと推定されている一方で、中央の大寺院や地方の豪族の...
中央や地方の各官庁は「長官(かみ)」・「次官(すけ)」・「判官(じょう)」・「主典(さかん)」の4つの等級からなる「四等官(しとうかん)」と、それ以下の多数の下級の官人(かんじん)によって構成されていました。なお、四等官は「四等官制」とも呼ばれます。官人は正一位(しょういちい)などの位階(いかい、官人の序列を示す階級のこと)を与えられ、位階に対応する官職(かんしょく)に任じられました。これを「官位...
国内の要地である京や難波(なにわ)の地には「左・右京職(さ・うきょうしき)」や「摂津職(せっつしき)」が置かれたほか、軍事あるいは外交上の要地である九州北部には「大宰府(だざいふ)」が置かれ、西海道を統轄(とうかつ、多くの人や機関を一つにまとめて管轄すること)しました。ところで、大宰府は現在の福岡県太宰府市にありましたが、いわゆる「大宰府」と「太宰府」の表記の違いについては、現存する古代の印影が「...
都の周辺の地域を意味する「畿内(きない)」とも呼ばれる「五畿」は「大和国(やまとのくに、現在の奈良県)」・「山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)」・「摂津国(せっつのくに、現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)」・「河内国(かわちのくに、現在の大阪府東部)」・「和泉国(いずみのくに、現在の大阪府南西部)」に分かれました。五畿のうち「山背」は平城京(へいじょうきょう)から見て「奈良の山の背後...
この他、一台とは「弾正台(だんじょうだい)」のことであり、中央行政の監察や都の風俗の取り締まりなどを担当しました。また、五衛府は「衛門府(えもんふ)」と左右の「衛士府(えじふ)」、左右の「兵衛府(ひょうえふ)」のことであり、こちらは宮城(きゅうじょう)の警備や都の巡察などを担当しました。地方の組織としては、まず全国が「五畿七道(ごきしちどう)」に区分され、その下に国郡里制(こくぐんりせい)として、...
この頃の我が国の中央組織は、天皇のもとに「二官(にかん)・八省(はっしょう)・一台(いちだい)・五衛府(ごえふ)」の構成でした。このうち、二官とは神々の祀(まつ)りをつかさどる「神祇官(じんぎかん)」と、行政全般を担当する「太政官(だいじょうかん、または「だじょうかん」)」のことです。太政官の下には政務を分担する八省が設けられ、政治は「太政大臣(だいじょうだいじん、または「だじょうだいじん」)」・...
ところで、我が国の「日本」という国号は飛鳥浄御原令によって正式に定められたと考えられていますが、それから約1300年以上を経た現代まで、この国名は全く変わることなく使われ続けています。チャイナや朝鮮半島などの国々が、王朝が変わるごとに国名が変わってきたことと比較すると、それが特別のことであるのが理解できますね。我が国の国名が長い年月のあいだ変わっていないのは、チャイナや朝鮮半島などのように王朝が変わっ...
天武天皇の崩御後は、皇后であり天智天皇の娘でもあった鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が称制によって政治を行い、天武天皇と自身の子である草壁皇子(くさかべのみこ)の成長を待っていましたが、皇子が先に死去したため、690年に自らが41代の持統(じとう)天皇として即位されました。天武天皇の諸政策を次々と引き継いでいかれた持統天皇は、689年に法典である「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」を施行(しこ...
壬申の乱の後、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位され、天武(てんむ)天皇となられました。天武天皇は、大臣(おおおみ)を置かずに自らが先頭に立たれて政治を行われました。豪族による私有地と私有民の廃止を徹底し、684年には、皇族出身者を中心とする新しい身分秩序である「八色(やくさ)の姓(かばね)」を定められました。その他にも、チャイナの法体系にならった律令や我が国の...
では、もう一つの理由とは何でしょうか。大海人皇子が勝利した理由のもう一つは「改新事業への支持」が考えられます。白村江の戦いに敗れて窮地(きゅうち)に陥(おちい)った天智天皇(当時は中大兄皇子)は、大化の改新によって土地や人民を取り上げられたことで不満の高まっていた中央の豪族と妥協するために人民の私有を復活させましたが、これは明らかな改新事業の後退でした。一方、民衆の考えに近い下級役人や地方豪族の立...
天智天皇の崩御後は、大友皇子が政治の実権を握られましたが、まだ24歳と若い後継者は父ほどの器量をお持ちでおられず、政情不安が尽きませんでした。様子を見ていた大海人皇子は、672年旧暦6月に吉野を出立して美濃(みの、現在の岐阜県南部)へ逃れ、近江朝廷に対して反旗を翻(ひるがえ)しました。東国の兵士を味方に付けた大海人皇子は、近江や大和へ向かって軍を進めました。近江朝廷側も善戦しましたが結局は敗北し、大友皇...
ところで、天智天皇には後継者として二人の人物がいました。息子である大友皇子(おおとものみこ)と、弟である大海人皇子(おおあまのみこ)です。このうち、大友皇子は父同様に「反新羅」の外交路線を継承する考えだったようですが、大海人皇子は「親新羅」路線への転換を考えていました。我が国とかかわりの深い任那や百済を滅ぼした新羅は確かに憎いですが、その新羅が朝鮮半島を統一しようとする勢いである現状を考えれば、我...
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推古天皇の崩御を受け、後継を誰にするかで朝廷内での意見が分かれました。聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を支持する声もあったのですが、結局は蘇我蝦夷が推す田村皇子(たむらのみこ)が34代の舒明(じょめい)天皇として即位されました。舒明天皇の時代の大きな出来事といえば、初めて遣唐使(けんとうし)が送られたことが挙げられます。久しぶりに中国大陸の統一を果たした隋(ずい)でしたが、無謀...
我が国初の女帝となられた推古(すいこ)天皇の皇太子並びに摂政(せっしょう、天皇が幼少または女帝である場合に代わって政治を行う人物のこと)となってから、我が国のために内政・外交とも大活躍を見せた聖徳太子(しょうとくたいし)でしたが、622年に49歳で逝去(せいきょ)すると、それを待っていたかのように蘇我(そが)氏の横暴が再び始まりました。老いてなお盛んであった蘇我馬子(そがのうまこ)は、聖徳太子という後...
法隆寺は7世紀後半に一度火事で消失しましたがその後再建され、寺院の一部は世界最古の木造建築として残っており、平成5(1993)年には「法隆寺地域の仏教建造物」が我が国で初のユネスコの世界文化遺産として登録されました。仏教の信仰によって、数多くの仏像が造られました。中でも有名なのは鞍作鳥(くらつくりのとり、別名を止利仏師=とりぶっし)が制作した金銅像(こんどうぞう)である法隆寺金堂(こんどう)の釈迦三尊像...
仏教の発展によって、6世紀末から7世紀前半にかけて数多くの寺院が建てられました。なお、寺院は古墳にかわって豪族の権威を象徴するものであり、礎石(そせき、建造物の基礎にあって柱などを支える石のこと)の上に丹塗(にぬり、朱色で塗ること)の柱を立てて、屋根に瓦(かわら)を葺(ふ)く建築技法が用いられました。聖徳太子は四天王寺の他に607年に法隆寺(ほうりゅうじ、別名を斑鳩寺=いかるがでら)を自ら建立し、また...
ところで、聖徳太子は若い頃から仏教を深く信仰していましたが、仏教を積極的に受けいれようとする崇仏派(すうぶつは)の蘇我馬子(そがのうまこ)と、禁止しようとする廃仏派(はいぶつは)の物部守屋(もののべのもりや)との間で、先述のとおり587年に大きな争いが起きてしまいました。聖徳太子(当時は厩戸皇子=うまやどのみこ)はこのときまだ14歳の少年ながら戦闘に参加しましたが、戦いは蘇我氏にとって不利な状況が続き...
さて、聖徳太子(しょうとくたいし)が内政や外交に大活躍していた頃の我が国では、仏教が朝廷の篤(あつ)い保護を受けて急速に発展した時代でもありました。この時代の文化を「飛鳥(あすか)文化」といいます。飛鳥文化は仏教文化を中心として、中国の南北朝時代の文化と我が国の古墳時代の文化が融合し、当時の西アジアやエジプトあるいはギリシャにもつながる特徴をもっていました。聖徳太子は、自ら高句麗(こうくり)の高僧...
今回の改定により、小中学校の教科書において、少なくとも10年は「聖徳太子」の記載が守られることになりました。このこと自体は大きな前進といえるかもしれませんが、実は、高校の歴史教育において使用される有名な教科書において、既(すで)に「厩戸王」という表現が使用されているのです。私が歴史教育の世界に身を投じて、これまでに積み重ねてきた講演を振り返ってつくづく思うのは、いわゆる「プロパガンダ」は近現代史だけ...
今回の学習指導要領の改訂案に関して、文科省は国民の意見を「パブリックコメント(意見公募)」として平成29(2017)年3月15日まで募集しましたが、その結果として改定案の見直しが行われて「聖徳太子」の名称が「復活」することになりました。学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、文科省が現行の表記に戻す方向で最終調整していることが明らかになったのです。文科省が改定案公表後にパブリックコメントを実施したところ...
藤岡氏が指摘した「聖徳太子抹殺計画」に続くかたちで、平成29(2017)年2月27日には、産経新聞が「主張」において、今回の改定案に疑問を呈(てい)しました。「主張」では「国民が共有する豊かな知識の継承を妨(さまた)げ、歴史への興味を削(そ)ぐことにならないだろうか。強く再考を求めたい」と最初に指摘したほか、今回の改定の理由である「聖徳太子は死後につけられた呼称で、近年の歴史学で厩戸王の表記が一般的である...
文科省が次期学習指導要領を発表して以来、一部の歴史学の関係者やマスコミからは、これは「聖徳太子抹殺計画」ではないか、という厳しい批判が見られるようになりました。拓殖大学客員教授を務めた藤岡信勝(ふじおかのぶかつ)氏は、平成29(2017)年2月23日付の産経新聞の「正論」欄において、今回の学習指導要領の改訂案における聖徳太子の表記について「国民として決して看過できない問題」であると指摘したほか「日本史上重...
平成29(2017)年2月14日、文部科学省は小中学校の次期学習指導要領の改定案を公表しました。なお学習指導要領とは、学校教育法などに基づき児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準であり、約10年ごとに改定されており、教科書作成や内容周知のために告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間があります。次期指導要領は翌3月末に告示され、小学校は令和2(2020)年度、中学校は令和3(2021)...
※今回より「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。さて、内政並びに外交の両面において今日の我が国を形づくった偉大な政治家である聖徳太子(しょうとくたいし)は令和4(2022)年に没後1400年を迎えましたが、彼の生涯には様々な伝説が残されていることでも有名です。例えば聖徳太子の母親が臨月の際に馬小屋の前で産気づいたため、彼が生まれた後に「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたという話があり...
※「第108回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月6日)からは「飛鳥時代」の更新を再開します(7月31日までの予定)。美術では日本画の横山大観(よこやまたいかん)や下村観山(しもむらかんざん)、安田靫彦(やすだゆきひこ)らによって、大正3(1914)年にそれまで解散状態だった日本美術院が再興され、現在も続く院展(=日本美術院主催の展覧会のこと)が開催されました。なお、横山大観は「生々流転(せ...
演劇の世界では、大正13(1924)年に小山内薫(おさないかおる)や土方与志(ひじかたよし)らによって築地(つきじ)小劇場がつくられ、知識人層を中心に新劇運動が大きな反響を呼びました。音楽では、山田耕筰(やまだこうさく)が本格的な交響曲の作曲や演奏を行い、大正14(1925)年には我が国初の交響楽団である日本交響楽協会を設立しました。その後、大正15(1926)年には日本交響楽協会から近衛秀麿(このえひでまろ)が脱...
第一次世界大戦を経て、社会主義運動や労働運動が高まりを見せたのに伴ってプロレタリア文学運動がおこり、雑誌「種蒔(たねま)く人」「戦旗」などが創刊され、小林多喜二(こばやしたきじ)の「蟹工船(かにこうせん)」、徳永直(とくながすなお)の「太陽のない街」などが読まれました。大正時代には、庶民(しょみん)の娯楽としての読み物である大衆文学も流行しました。大正14(1925)年に大衆雑誌の「キング」が創刊され、...
明治43(1910)年に創刊された雑誌の「白樺(しらかば)」では、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)や志賀直哉(しがなおや)、有島武郎(ありしまたけお)らが活躍し、個人主義や人道主義あるいは理想主義を追求する作風を示して「白樺派」と呼ばれました。武者小路実篤は「その妹」、志賀直哉は「暗夜行路(あんやこうろ)」、有島武郎は「或(あ)る女」などの作品が有名です。一方、雑誌「スバル」では独自の唯美(ゆいび...
大正期の文学は、「こゝろ」や「明暗」などの作品を残した夏目漱石(なつめそうせき)や「阿部一族」などを発表した森鴎外(もりおうがい)の影響を受けた若い作家たちが次々と登場しました。人間社会の現実をありのままに描写する自然主義が、作者自身を写しとるだけの私小説へと変化していったのに対し、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)や菊池寛(きくちかん)らは雑誌「新思潮」を発刊し、知性を重視して人間の心理を鋭く...
自然科学では、野口英世(のぐちひでよ)による黄熱(おうねつ)病の研究や、本多光太郎(ほんだこうたろう)のKS磁石鋼(じしゃくこう)の発明、八木秀次(やぎひでつぐ)による今のテレビ用アンテナの原型となる八木アンテナの発明などの業績がありました。また、研究機関として理化学研究所が大正6(1917)年に創立されたり、航空研究所・鉄鋼研究所・地震研究所などが相次いで設立されたりしました。ところで、この当時の教育...
大正時代には、学問も各分野において様々な発展を遂げました。人文科学においては、東洋史学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)や内藤虎次郎(ないとうとらじろう、別名を湖南=こなん)が、日本古代史の研究として津田左右吉(つだそうきち)らが現れました。それ以外には、政治学で先述のとおり吉野作造が「民本主義」を唱えたほか、法学では美濃部達吉(みのべたつきち)が、民俗学では柳田国男(やなぎだくにお)らが現れました。...
大正時代には新聞や雑誌が発行部数を飛躍的に伸ばしました。大正末期には「大阪朝日新聞」や「大阪毎日新聞」など発行部数が100万部を超える新聞もあったほか、「中央公論」や「改造」などの総合雑誌が知識人層を中心に急速な発展を遂(と)げました。1920(大正9)年にアメリカで定期放送が始まったラジオ放送は、その5年後の大正14(1925)年に東京・大阪・名古屋で開始されると翌年には日本放送協会(=NHK)が設立され、ニュー...
平成5(1993)年8月に成立した非自民8党派による連立である細川護熙内閣は、衆議院総選挙において「小選挙区比例代表並立制」を導入し、選挙制度改革を含んだ一連の政治改革法案を成立させました。しかし、細川首相が3%の消費税を廃止して新たに7%の税率による国民福祉税を導入する構想を発表した頃から政権の求心力が低下し、また首相自身による佐川急便グループからの借入金処理問題の発覚もあって、細川内閣は平成6(1994)年...
衆議院総選挙に敗北して宮澤内閣が退陣する直前の平成5(1993)年8月4日、当時の河野洋平(こうのようへい)内閣官房長官による「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」が発表されました。いわゆる「河野談話」のことです。この談話は、1990年代から朝日新聞などの日本のマスコミや韓国によって盛んに主張され始めたいわゆる「従軍慰安婦問題」に関し、その幕引きを図るべく、当時の宮澤首相と河野官房長官とが旧...
昭和63(1988)年に発覚したリクルート事件を受けて国民の政治不信が強まっていたことから、抜本的な政治改革を行って国民の信頼を取り戻すべきだという声が政府の内外から次第に高まってきました。また、宮澤内閣当時の平成4(1992)年には佐川急便事件が、翌平成5(1993)年にはゼネコン汚職事件が相次いで発覚し、国民の激しい非難を浴びたことから、選挙制度改革や政界再編を目指す動きが与野党を巻き込んで見られるようになり...
宇野内閣の後継には海部俊樹(かいふとしき)氏が首相に選ばれ、平成元(1989)年8月に第一次内閣を組織しました。海部首相は平成2(1990)年2月に行われた衆議院総選挙で勝利し、新たに第二次内閣を組織しましたが、同年8月に発生したイラクによるクウェート侵攻から翌平成3(1991)年1月に勃発(ぼっぱつ)した「湾岸戦争」においては、人的支援の不手際もあったことからその対策に苦慮することになりました。その後、自らが政策...
昭和62(1987)年11月に成立した竹下登内閣は、絶対多数を占(し)めた与党・自民党の勢力を背景に消費税を含めた税制改革関連法案を昭和63(1988)年12月に成立させ、翌平成元(1989)年4月に消費税が税率3%で導入されました。しかし、消費税の導入には野党や世論に強硬な反対意見も多く、同時期に大規模な贈収賄(ぞうしゅうわい)事件となったリクルート事件が発覚したこともあり、竹下内閣の支持率はひとケタにまで急降下し、...
平成26(2014)年4月から8%に引き上げられ、さらに令和元(2019)年10月には一部を除いて10%となった消費税。私たちの生活に直接影響を与える間接税だけに、国民の関心も非常に高いものがありますが、皆さんは、我が国でいつ消費税が導入されたかご存知でしょうか。答えは平成元(1989)年4月1日であり、当時の税率は3%でした。また、消費税を導入することを正式に決定したのは前年の昭和63(1988)年12月であり、当時の内閣総...
さて、冷戦の終結や、湾岸戦争の勝利などによって、世界においてアメリカの一極支配が強まる一方で、その他の近隣諸国が緊密な経済関係を築こうとする動きも活発になりました。ヨーロッパでは、1992(平成4)年にEC(=ヨーロッパ共同体)加盟国が、統合の基本原因を定めた欧州連合条約(マーストリヒト条約)を締結し、翌1993(平成5)年には「ヨーロッパ連合(=EU)」を発足させ、統一通貨である「ユーロ」を発行するなど、経済...
カンボジアの総選挙は、予定どおり平成5(1993)年5月23日に行われましたが、この日は奇しくも中田さんの四十九日法要と同じでした。カンボジアでの平均投票率は90%という高水準でしたが、中田さんが担当した地域の投票率は、99.99%という驚くべき数字を残しました。また、中田さんが担当した地域で開票作業をしていた投票箱の中から、いくつもの手紙が出てきて、中にはこう書いていたものもあったそうです。「今まで民主主義と...
さて、国連カンボジア暫定統治機構(=UNTAC)によって平成4(1992)年9月に自衛隊がカンボジアへ派遣されましたが、同じUNTACが1993(平成5)年5月にカンボジアで実施予定の総選挙を支援するために募集した国際連合ボランティア(=UNV)に採用された一人の日本人の若者がいました。彼の名を中田厚仁(なかたあつひと)といいます。かねてより世界平和に関心を抱き、国連で働くことを希望していた中田さんは、大学を卒業したばか...
海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(=PKO協力法)」を成立させて「国連平和...
湾岸戦争で人的支援を見送ったことで国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的でペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業を...
湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危...
イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことが国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸戦争に関してアメリカ...
イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日にアメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は自衛隊の海...
※今回より「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。先述のとおり、1989(平成元)年12月にアメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して国連...
※「第102回歴史講座」の内容の更新は今回が最後となります。明日(7月4日)からは「平成時代」の更新を再開します(8月5日までの予定)。松方正義による緊縮財政は「松方財政」とも呼ばれ、西南戦争の後の政府の財政危機を立て直しただけでなく、発行紙幣と銀貨との兌換を可能とした銀本位制を確立したことで、当時の政府の世界における信用度を高めることにもつながるなどの大きな成果をもたらしました。しかし、政府による歳出を...
その後、明治十四年の政変で大隈が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まつかたまさよし)が政府の歳入を増やしながら同時に歳出を抑え、保有する正貨を増やすことによって財政危機から脱出する政策に取り組みました。松方は酒造税や煙草(たばこ)税を増税することで政府の歳入を増やした一方で、歳出を抑えるために行政費を徹底的に削減したほか、官営事業の民間への払い下げを推進しました。また、余った...
明治10(1877)年に起きた西南戦争に要した経費は、陸軍だけでも当時の国家予算の8割に相当する約4,000万円もの巨額となりました。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣(ふかんしへい)を発行することでなんとかやり繰りしましたが、その結果として当然のように市中に大量の紙幣が出回りました。紙幣が大量に流通するということは、紙幣の価値そのものを著(いちじる)しく下げるとともに、相対的に物価の値上が...
ただし、これらの私擬憲法のほとんどは後の大日本帝国憲法と同じ立憲君主制を基本としており、ここでも政府と民権派との考えに大きな差がないことが明らかとなっています。こうして国会開設への具体的な動きを受けてさらなる発展を見せようとした自由民権運動でしたが、この後に思わぬかたちで大きな挫折(ざせつ)を経験することになりました。挫折の主な原因となったのは、皮肉にも自由民権運動が本格化するきっかけをつくった「...
さて、自由民権運動の悲願でもあった国会開設に関する具体的な時期が決まったことで、民権派は政党の結成へ向けて動き出しました。国会開設の勅諭が出された直後の同じ明治14(1881)年10月、国会期成同盟を母体として板垣退助が党首となった「自由党」が結成されました。続いて翌明治15(1882)年4月には大隈重信を党首とする「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」が結成されました。両党は、自由党がフランス流の急進的な自由...