・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
柳田國男の「地名の研究」を読んでいます。ここまで、「地名の話」(大正元年)「地名と地理」(昭和7年)「地名の歴史」(昭和9年)に刊行された講義録のようなものを見てきましたが、この地名の研究にはその他に「地名考設」という明治22年~昭和2年の書かれたものを55項目にわたってまとめて載せてあります。ここでは、書かれた内容を大雑把に要約し、検証も含めて記載してみたいと思います。<地名考説(1~7)>平民生...
NHK朝ドラ「あんぱん」では四国高知県の「御免予町」が舞台となっていますが、高知駅の少し手前に「後免駅」があり、後免町がモデルと考えられます。この後免町(ごめんまち)の町名由来をこの地名の研究から探ってみます。柳田國男の地名研究と同じように、まず同じ名前の地名を全国から探して見ます。今の郵便番号簿から拾ってみましょう。1)「後免」で探すとここ1件だけです。 高知県南国市後免町 コウチケンナンコクシゴメンマチ2...
最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ている。「あんぱんまん」も年代としてはもう子供の世代という感じで、それ程インパクトや想い入れも無いのだが、テレビに映る映像に懐かしい気がして見入てしまうこともしばしば。のぶの女子師範学校時代が終わったが、この高知県の師範学校の校舎は地元「土浦一校」の旧校舎だ。見ていてすぐにわかった。この校舎は実によく使われる。 以前書いたブログ ⇒ こちらまた、今度赴任する御免与...
地名と歴史(7)14、交通の変遷 県下交通の変遷に関しても、地名はかなり豊富な資料を包含しているらしいが、自分は時間が足りなくて、その点までは書き抜くことができなかった。一つ二つ気のついた点をいうと、この地方だけに多く出逢うゴウドという地名は古い。美濃の川渡(ごうど)などは大往還の駅であって、すでに『太平記』以前から知られている。尾張・三河のものはすべてが官道の上にあるわけでもないが、その数が非常に多...
昨日銚子へまt仕事で出掛け、終わったのは夕方5時半前頃。そこから石岡へ車で帰る時、利根川の千葉県側の堤防沿いにできた356号のバイパス道を通りました。夕方6時半ごろが今の時期の日の入り。正面から夕陽を受けながら、右手は利根川の土手、左手は田植えがされたばかりの水田地帯。やはりサングラスが必要かな?これから夏至に向かって日没方向は少しづつ北に向かう。銚子からも利根川上流に陽が沈む。(写真撮影場所の...
地名と歴史(6)11、我々の小地名は新旧が交錯しているために、全部一度にできたかのごとき感を抱くが、生活上の必要もないものを、拵(こしら)えておく人はなかったろう。田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはりアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、なにか問題となって注意していた者が多く、有名になっていたから踏襲したのであろう。小さい事ではあるが、これによら...
地名と歴史(5)9、<焼畑、切替畑>(山間部の地名)・九州・四国:コバツクリ、コバキリ・関東四周の山地:サス(武蔵・相模)、ソリ(ソラス:荒らす)、焼畑が行われ、それを元の地形に戻すに適する区域を、甲州などは何々草里(そうり)といい、駿河・遠江ではゾウレ(蔵連など)といい、土地によっては単にソともいう。・クサ:豊根振草(とよねふりくさ)などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切...
地名と歴史(4)<畠作の地名>水田に続いて畠作の歴史があるが、まだいっこう調べられていない。常畠の開け始めた土地は、やはりいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。そのため水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、地形語が地名となる機会は多かった。・コウゲ:中国全部と四国の片端にかけて、水のない草生地の地名(村が山から遠くに独立するとき、肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却)・カッ...
地名と歴史(3)6、フケ、フゴ、クゴ、アワラ、ドブ、クテ、トンボ、タンボ:変化する地名 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを窺(うかが)い知ることができる。フケは泓とか湗とかいう漢字をあてて、クテよりははるかに広く使われる地形名である。京都でも富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入...
地名と歴史(2)4、地名は普通にはまず地形によって附ける。それが間に合わなくなって他の材料を加味して行くのである。たとえば、アイヌなどは狩猟が中心で耕作がほとんど進まず、農地など居住以外の目的で土地を区割して占有することがほとんどないため、地名は場所さえ記憶でき、かつ他人とその話ができればよい。従って地名には具体的にその土地の性質を指示するものを選び、誰が聞いてもその意味を捉えやすいものとなる。これ...
柳田國男の書いた「地名の研究」を紐解いています。ここからは「地名と歴史」というタイトルで愛知教育という雑誌に昭和9年7月に発表した記事です。明治の初期に全国で大字・字を選定する事業があり、多くの字名が誕生しました。ここには古くからの地名や新たに追加した地名もたくさん混じっています。愛知県では明治15年に「愛知県地名調」という冊子を印刷し頒布していたようです。このため、この「地名と歴史」もこの活用...
地名の研究(14) 地名と地理(10) 人文地理と地名の研究
地名と地理(10)人文地理と地名の研究 以前私などの学校にいた頃にも、人文地理なる名の学問はあるにはあったが、ただ統計の要約であり、現状の記述に止まっていた。しかし、一たび訝(いぶか)り問わんとするようになって、学問それ自身がかなり煩悶をしたようである。大地の表面は隅から隅まで、人類去来の足跡であり、無名の彫塑(ちょうそ)家の篦(へら)の痕(あと)であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至...
地名と地理(9)地形語 東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人が住むには不向きと思われるが、実際はかなり古い部落や耕地の地名となっているものが無数ある。農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠(よ)る所がある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。それが平和...
地名と地理(8)地名発生の変遷 地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて区々(まちまち)なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。地名の起りには限らず、物の名前が必要となるのは、指でさし顎でしゃくっ...
地名と地理(7)地名の分類 地名発生の理由には前に書いたように明白なる時代の変化があった。今でも新たに利用地名を作る場合がないとは言われないが、永く伝えてくれる望みは乏しい。その地にすでに地名があり、細かく区割した地域地名があり、新たに割り込んで行く余地がなくなっている。だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを除いて、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったと思わ...
地名と地理(6) 新開拓地と地名1) 地名が定着して一時代を過ぎて、戦争などで住民が離散し、それまでの多くの地名が消えた。2) 再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたが、この時につけられた地名は・以前からの故老が少しでも残っていた場合はできるだけ在来のものを利用した。・それがまったく忘却された地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示...
潮来に来ると古刹「長勝寺」に立ち寄ることが多い。桜の時期、新緑の時、菩提樹の花の時期、紫陽花、紅葉とそれぞれに境内は美しい。「山門不幸」と立て板が建てられている。3月末に亡くなられた前住職の「谷元明さん」が90歳でお亡くなりになったようだ。禅寺であるこの長勝寺もいろいろ観光客にも開放していつもきれいに管理されているのも谷住職のお陰でもあろうかと思う。ご冥福をお祈りいたします。新緑に交じって「紫蘭:...
地名と地理(5) 地名と人の苗字 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。・これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風...
五月一日、行方市井上にある古刹「西蓮寺」(常陸高野)を訪れました。新緑に包まれた境内には誰もおらず、心地よい風が吹いていました。千年銀杏の黄葉も見事ですが、この時期の新緑も気持ちよいです。...
地名と地理(4) 点地名から地域地名へ <アイヌの地名>アイヌの地名解は永田方正氏の一著があり、またバチェラア師辞書の旧版の附録にも若干の講説があって、今日ではまず十の八九までおおよそは意味が明らかになったと言ってよい。そのお蔭に今では内地の地名まで、よくわかっているのにアイヌ化しようと努める人さえできて来た。あほらしい話である。アイヌ人地名のわかりやすい理由は明白で、彼等の名の付け方は一色しかな...
五月の初日に銚子へ行く途中に潮来で藤まつりがたしか四月末にやっていたことを思い出して立ち寄りました。まつりは過ぎて、次のアヤメ祭りで観光潮来は頭が一杯でしょうが、潮来の藤も長く房が垂れ下がることが江戸時代に書かれた「甲子夜話」にも出てきていたので、復活されたら4月から6月までの潮来観光にもう一つの目玉が出来るかと期待していたのだが・・・・昨年の方がきれいだったような。アヤメの準備だけでも大変だろ...
地名と地理(3) 東西南北の地名の一致 日本の地名研究のまた一つの大きな特徴は、東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすいことである。これは一つの中心地から四方に向って、前後何回かの移民が分散して行った国でないと、見ることのできない現象であって、これあるがために我々は純然たる帰納法によって、地名ばかりからでも多くの前代生活を闡明(せんめい)することを得るのである。いずれの国で...
地名と地理(2) 日本の地名の特色 日本における地名研究が他の民族のそれに比べて、何ほどの特色があるのか。これは将来この仕事を始めて見ようという人には小さくない関心事であり、私はそれが確かに張合いのある研究だという結論をもっている。○ 地名の分量が多く、その変化が盛んである。この国に生まれて、これを当り前のように思っているが、日本はきわめて多種な地質的変化があり、他の国よりも多くの地名がある。道府...
地名と地理(1) 地名研究の学術分野(注:本論文は日本地理学会が1925(大正14)年に発行を開始した機関誌「地理学評論」の昭和7年に載せた論文である。従って読者の対象者は「地理学」に携わる学生たちが主と思われる。) 地名を調査して一つ一つを解説し、一般的傾向を要約した書物は西洋では多くの国で出されており、これを独立した一つの学問分野と見ることはできない。地名の研究には、いろいろの文化現象に興味をもち、...
地名の話(3) 区割するための地名 開墾地ではまたその内を区割するための地名を必要とする。二つに切って上下東西に分ける場合はいうまでもなく、共同開墾人が五人八人で分けて持つべき場合には一々の地名がいるのである。大和朝初期の地租改正法は、明治九年のやり方よりもいっそう激烈なものであった。今まで居住者のあった村は古くからの字・小字も多かったろうに、それをドシドシと改めて行って、新たに条里の制をしいた。三...
地名の話(2) 開墾地の総称 第一期の地名:地名には一種の拡充性ともいうべきものがある。・最初は一地点または一地形に附与した名前を、これを包含している広い区域にも採用して行く風習がある。たとえば女夫(めおと)岩という二つの岩の屹立している所があると、それに接続している数町歩の田畑または村里の字をも女夫岩という。また、ドウメキ、ザワメキ、ガラメキなどはもと水の音を形容した地名であるが、瀬の早い川の岸に...
三年程前に、山上氏の手紙の中に、神保(じんぼう)氏の話と記憶するが、こんなことが書かれていた。「日本の地名には意味の不明なものがはなはだ多い。アイヌなどとは大いに違うと平生いっておられる。」この一言は予にとっては感謝すべき刺戟であった。自分はこの言葉をこう解した。『日本内地における地名の大多数は、まだ説明することができないものが多い。これをだんだん研究し説明して行くならば、将来地理学上・言語学上む...
本ブログでも茨城県・千葉県・埼玉県と三県にわたって「難読地名」を取り上げ、その地名の発祥由来などを調べてきました。しかし、やはり基礎知識が少ないこともあり、肝心なところで解釈にブレが生じており、すこし勉強を加える必要を感じ、民俗学の父とも云われる柳田國男の「地名の研究」について、少し真面目に読み下してみたいと思うようになりました。この書物は、明治終わりころから昭和の初期に柳田國男が各誌に発表した...
真壁地区の散策も、やはり雨が結構降ってきたので帰ろうかとも思いましたが、やはり予定通り薬王院(椎尾薬師)に立ち寄ることにしました。椎尾(しいお)の名の通り椎の木の古木が沢山あるこの古刹。筑波四面薬師としても12月に石岡市内の講演会でも紹介しましたので、昨年も訪れており、今年も少し前にも訪れています。やはり雨が結構降っており、他の参拝者もほとんどおりませんでした。社務所の方にも「足元にお気をつけて・...
桜川市真壁町の総鎮守とされる「五所駒瀧神社」は新緑に包まれひっそり佇んでいました。元々は真壁氏の創建とされ、鹿島神宮のタケミカヅチを祀っていた神社ですが、別に4社を合祀して、「五所」と名前に冠して今の名前になりました。秋には紅葉が境内を赤・黄に染めます。上曽峠を真壁に下る途中に鎮座しています。神社のすぐ上に「分水嶺」の大きな石碑が建っています。境内を流れる清らかな水が心に積るわだかまりなどもスッ...
13日の日曜日、小雨の中真壁の町へ。真壁氏の城跡が国の指定史跡に指定されたのは平成6年とある。筑波山系の山懐に囲まれた様に雄大な城跡の敷地が残されている。このあたりの中世の城は山城が多い中、東側の裏山を背にして、西に開かれた麓平野に町が広がる。桓武天皇の曾孫から民間に降った桓武平氏の流れをくむ北条多気山の多気氏から分かれた一族がここ真壁に居を構えて「真壁氏」と呼ばれたが、佐竹氏の家臣となって、佐...
桜川市真壁町に戦時中の小学校に置かれた「奉安殿(ほうあんでん)」が残されており、見てきた。戦後GHQの市道でほとんどが壊されて残存する物も少ないが、ここにはきれいに残されている。旧真壁駅のすぐ近くの通り沿いにポツンと置かれており、説明板などは一切ない。菊の御紋のある大火式の独立型の立派な建物だ。内部には、明治・大正・昭和の3代の天皇、皇后さまのお写真と、教育勅語などが額に入れて飾られている。各学校...
桜川市の雨引山で奇祭「マダラ鬼神祭」が4月第2日曜日の13日に行われました。毎年桜のこの時期に行われる奇祭です。マダラ神(摩多羅神 )は天台宗の常行堂の後戸に祀られて、人前にその姿をさらすことが殆どない神と云われ、能楽などの芸能の神とも云われていますが、ここ雨引山楽法寺の祭りの起源話としては「裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。 当山はこのため炎上...
昨日銚子に行くときに思いついて、浮島にある和田公園に立ち寄りました。浮島(稲敷市)も昔は霞ケ浦に浮かぶ島でしたが、江戸時代に灌漑も進んで陸地と繋がりました。霞ヶ浦沿岸を車で走ると、この時期は田植えの準備で田に水が張られて水面が輝いて・・・・出も既に田植えを終えたところもあり、田植中の所もありました。田植えも、いつもの年より少し早そうです。また、和田公園のチューリップ公園は13日の日曜日に「チューリ...
埼玉県の難読地名(51) 天目指峠、出牛峠、粥新田峠 (最終)
天目指峠【あまめざすとうげ】・・・飯能市 出牛峠【じゅうしとうげ】・・・皆野町/長瀞町 粥新田峠【かゆにたとうげ】・・・皆野町/東秩父村山の名や峠の名前には良く首をかしげたくなる名前がついていたりします。埼玉県も秩父地方を抱えており、西部の山には変わった峠の名前があります。ここにその一部を拾ってみました。 天目指峠【あまめざすとうげ】名栗と吾野を結ぶ県道395号線が通る峠で、かなり勾配がきつい峠(...
贄川【にえがわ】・・・秩父市 露梨子【つゆなし】・・・寄居町 樋籠【ひろう】・・・春日部市 贄川(にえがわ):荒川上流部にある支流に川の名として贄川があり、その一帯に「贄川村」が明治22年まであった。戦国期から地名として見られ、その後大字として贄川が残った。 現在は秩父市の地名として「荒川贄川」と表記されている。地名の由来は角川の地名辞典には次の2つを挙げている。①、贄の魚を捕る渓流の意(秩父郡...
今羽【こんば】・・・さいたま市北区 仁手【にって】・・・本庄市 仏子【ぶし】・・・入間市 今羽(こんば):荒川右岸の大宮台地上にあり、東と南に見沼の低地がある。江戸期より今羽村があり、明治35年に今羽町となり、大宮市の町名となり、現在はさいたま市北区の町名として残る。地名の由来についてはよくわかっていません。 仁手(にって):利根川中流右岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、戦国期から見える地名である...
小手指【こてさし】・・・所沢市 差間【さしま】・・・川口市 白井差【しらいざす、しろいざす】・・・小鹿野町武蔵国であった埼玉県南部は「指」「差」という字に「さし」「さす」といった読み方をする地名があります。以前あげた地名にも「指扇(さしおうぎ)」という地名もありました。どこか共通した地名のようです。これは武蔵(むさし)の「さし」にも共通する発音で、一般には「焼畑」の意味だとされています。新たに開...
八甫【はっぽう】・・・久喜市 八基【やつもと】・・・深谷市 三九【さんく】・・・三郷市八甫(はっぽう):「八浦」とも書くと、地名由来は「旧利根川流路に面し、8つの浦があったことによる(新編武蔵)が、不祥という。ただ場所は中世から河川交通の要所で重要な河岸場であったという。また、八ヵ村に囲まれた地から八方と言われて「八甫」となったという説もあるがはっきりしない。また洪水でしばしば被害を受けている。...
曲本【まがもと】・・・さいたま市南区 曲田【まがつた】・・・深谷市 曲師【まげし】・・・川島町 曲本(まがもと):「まげもと」ともいう。荒川下流左岸の平地に位置する。美女木のすぐ北側にあたる。荒川が曲がっているところではあるが、昔の荒川はどのような流れであったのかはよくわからない。 曲田(まがつた):角川の地名辞典では「まがりた」とあり、平凡社では「まがつた」とある。 郵便番号住所は「まがつた」...
吉妻【きつま】・・・春日部市 吉敷【きしき】・・・さいたま市大宮区 吉妻(きつま):角川の地名辞典では、「きつま」の「き」は城か柵を表し、「つま」は隅と解されることから地名は柵の隅と地の意という(地名誌)。と書かれている。この「き」が城や柵をあらわしているのは、東国地方には多く存在し、昔の蝦夷人たちとの境界に「柵=き」を作っていたことの表れだと思われる。古代朝鮮語(百済?)での「キ」は「城」を意...
上谷【かみやつ】・・・越生市 上谷塚【かみやつか】・・・草加市 上八ツ林【かみやつばやし】・・・川島町 上谷(かみやつ):「上谷戸」とも書き、上殿川の山間地に位置するという。村名も室町期から見られる。単純に「谷津、谷戸:やつ」の谷地形から付けられた地名と思われる。 上谷塚(かみやつか):越生郷の村の一つで、中谷塚、下谷塚があり、八つ塚(古墳など)の伝承がある。明治22年にこの3ヶ村を含む7ヶ村が合...
馬内【もうち】・・・加須市 鹿手袋【しかてぶくろ】・・・さいたま市南区 鹿室【かなむろ】・・・さいたま市岩瀬区 馬内(もうち):会ノ川の自然堤防上に位置し、地名の由来は牧草地が多く馬が多く飼われていたことによる。とされる。<県内の「馬のつく地名>埼玉県さいたま市西区西遊馬 サイタマケンサイタマシニシクニシアスマ埼玉県さいたま市緑区馬場 サイタマケンサイタマシミドリクバンバ埼玉県さいたま市岩槻区馬込 サイタマケンサイタマシイワツキクマゴメ埼玉県行田市...
名栗【なぐり】・・・飯能市 名細【なぐわし】・・・川越市 名栗(なぐり):名栗川、名栗渓谷、名栗湖などと今でも観光地として「名栗(なぐり)」の名前は残っていますが、都市としての「名栗村」の名前は2005年に飯能市に編入されて消えました。この名栗川や名栗渓谷などは私も子供時分に小学校の遠足などで行った事があります。名栗の名前の由来は① 古くから栗の名産地② ナ・クリ(刳)で浸食地③ 狸が多くいたため...
都幾川【ときがわ】・・・比企郡ときがわ町 都家郷【つけのごう】 大調郷【おおつきのごう】 都幾川(ときがわ):この「都幾川」も現在は市町村名では「ときがわ町」とひらがな表記になってしまいました。越辺川の支流に「都幾川(ときがわ)」という名の川があり、この名前があって都幾川村が村名となったと言われています。ただ、都幾山(ときさん)という山もあり、都伎山とも書いていたりもしますので「とき」という言葉...
埼玉【さいたま】【さきたま】 行田【ぎょうだ】 久喜【くき】今回は一般に使われていますので特に読みにくいという地名ではないですが、地名の由来なども気になりますので載せておきます。埼玉(さいたま):埼玉県の名前ですのでどなたも読めると思いますが、初めて目にしたら読めませんね。普通に読んだら「さきたま」でしょうか。こちらは行田市にある「埼玉」は「さきたま」と読みます。埼玉の名前は律令国の武蔵国の「埼...
越辺川【おっぺがわ】 身馴川【みなれがわ】 実熟川【みなれがわ】 樋遣川【ひやりがわ】・・・加須市川の名前は、地名と違って時代でかなり変化してきているように思う。古代、中世はその流れる土地の地名で呼ばれることも多かった。そのため、川の上流から下流まで何通りもの呼び名が有ったように思う。今回取り上げるものもそんな見方もしておかなければならない。越辺川(おっぺがわ):この川の名は、越生(おごせ)の地...
御正【みしょう】・・・熊谷市(江南村) 円良田【つぶらた】・・・美里町 金鑚【かなさな】・・・神川町 御正【みしょう】「新編武蔵」の見える中世末期ごろから見える郷名に「御正郷」が使われている。地名の由来は、古くからこの辺が上野(こうずけ)国新田(にった)岩松氏の所領で、荘園があり、「御庄」と一般に呼んでいたためという。(角川地名大辞典) 円良田【つぶらた】角川の地名辞典には『地名は「ツブラ」な田...
マイナンバーカードも作成してから5年で電子申請の期限が来て使えなくなる。この更新手続きの手紙が数か月前に来ていたが、余りよく見ずに放っておいた。誕生日まじかになったので、取り出して役所に行くのかとよく見たら、申請にID番号があって、次の3つの方法で申請するように書かれていた。①スマホで自分の顔写真を撮ってオンライン申請②パソコンで6か月以内に撮影した写真をつけてオンライン申請。申請にはメールアドレス...
埼玉県の「猿」のつく地名を集めて見ました。 猿田【やえんだ】・・・日高市 猿ケ谷戸【さるがやと】・・・さいたま市(大宮市) 猿喰土村【さるがいとむら】・・・深谷市(花園町) 猿田(やえんだ):全国に猿田(さるた)という地名は数多いが、(やえんだ)と読む地名はここだけでした。(現郵便番号簿)ここも「さるた」ともいうと地名辞典には書かれている。日本神話に出て来る「猿田彦(毘古)」は天狗のように鼻が長く...
庁鼻和【こばなわ】・・・深谷市室町期に地名として存在する。「ちょうのはな」「ちゃうのはな」などとも読むという。唐沢川右岸の台地上に位置する。この「こばなわ」地名は日本各地にあり、多くが「小塙」と書く。漢字の通り、「はなわ」は少し高く成った場所であり、逆に低く成った場所は「圷(あくつ)が使われる。この「塙」と「圷」という漢字もあとからの合成語であろうと思われます。「鼻」も「ハナ」は少し高くなった顔...
不老川【としとらずがわ】 野老沢【ところざわ】 老袋【おいぶくろ】・・・川越市 不老川(としとらずがわ):この川は入間川の支流で、冬季に渇水し、流水が年を越してながれないことから「年不越川(としこさずがわ)」と呼ばれ、次第に不老川(としとらずがわ)となったと言われている。現在は水量が減り、住宅も増え川の汚濁が著しいという。 野老沢(ところざわ):この野老沢は室町期(1486)の書物に書物に「ところざ...
入間【いるま】 入西【にっさい】 入東【にっとう】古代から中世にかけての入間(いるま)郡は武蔵国の中央に位置し、現在の埼玉県の南部中央部に位置している。しかし716年に南西部を割いて「高麗郡」が新設され、1799人の高句麗人がここに集められました。また758年には新羅郡が新設され、後に新座郡と改称されていますが、こちらも入間郡から割いたともいわれています。途中でこれらの地域を分けていますので領域が少...
利田【かがだ】・・・行田市 釣上【かぎあげ】・・・さいたま市岩槻区 志多見【しだみ】・・・加須市 利田(かがだ):岩波の地名辞典には『地名の由来は、平坦のな草地を意味する「カガ」によるという(地名誌)』とある。寛永12年(1635)の中村家文書に「加賀田」と書かれている。柳田国男の地名の研究にはこの「カガ」について次のように書いている。------------------- 東国奥羽にてはいまだこの名の地名を発見せぬけ...
入間【いるま】 入西【にっさい】 入東【にっとう】古代から中世にかけての入間(いるま)郡は武蔵国の中央に位置し、現在の埼玉県の南部中央部に位置している。しかし716年に南西部を割いて「高麗郡」が新設され、1799人の高句麗人がここに集められました。また758年には新羅郡が新設され、後に新座郡と改称されていますが、こちらも入間郡から割いたともいわれています。途中でこれらの地域を分けていますので領域が少...
村君【むらきみ】・・・羽生市 角川地名辞典には室町期から『村君郷(むらきみのごう)』という郷名があり、場所は県東北部の利根川中流域に位置する。という。利根川が少し屈曲している地区で、川に隣接している。江戸時代初期に、上・下の2村に分かれ、明治22年に近隣の5村が合併して「村君村」となり、昭和30年に三田ヶ谷村と合併して千代田村となった後は大字上村君、下村君が残った。地名の由来については、平凡社の地名体...
鹿下【かのした】・・・越生町 大満【だいま】・・・越生町 龍ケ谷【たつがや】・・・越生町越生町から地名を3つあげておきます。 鹿下(かのした):室町期から見える地名。また縄文中期の集落跡「谷遺跡」がある。「鹿ノ下」などとも書く。全国の「鹿」のつく地名は、古代の「鉄」製造に関係すると思われる場所が多くあるように思われます。ここもそうかもしれないです。 大満(だいま):大間とも書き、中世戦国期には「...
美女木【びじょぎ】・・・戸田市 女影【おなかげ】・・・日高市 妻沼【めぬま】・・・熊谷市今回は女性に関する地名を3件。少し由来が調べたくなりました。 美女木(びじょぎ):この名前は室町期(14世紀半ば)より見える地名です。角川の地名辞典には地名の由来として2つの説を上げています。1)「もと上笹目と云いしが・・・・・・古え京師より故ありて、美麗の官女数人当所に来り居りしことあり、其頃近村のもの当村をさ...
粕壁【かすかべ】・・・春日部市 長瀞【ながとろ】・・・長瀞町 甘粕【あまがす】・・・美里町 粕壁(かすかべ):角川の地名辞典では、「春日部(かすかべ)」の名前由来は『4世紀頃、安閑天皇の時に設けられた屯倉で御名代部(みなしろべ)であったことによる(旧県史)』と書かれている。ただ4世紀とあるのは少し違っていて6世紀始め頃ではないかと思われます。また御名代(みなしろ)は「ヤマト王権に奉仕することを義...
神米金【かめがね】・・・所沢市 吉田林【きたばやし】・・・本庄市児玉町 礼羽【らいは】・・・加須市 神米金(かめがね):この地名は明治になって、江戸時代の三つの村が合併した時に各村名から合成地名としてつけられたものだ。元の村名は「神谷新田」「平塚新田」「堀金(兼)新田」であるが、平塚新田は「久米新田」とも呼ばれていたという。 吉田林(きたばやし):「きったばやし」ともいうと言い、平安期に児玉郡の...
百間【もんま】・・・宮代町 垳【がけ】・・・八潮市 百間(もんま):室町期に地名として存在し、百間中、百間中島、百間東、など広く使われている。「もんま」の名前の謂れは、今の所アイヌ語(縄文語)説が有力とみられています。「mo」は「静かな」であり、「ma」は「わずかな水面」で沼などをあらわすという。「mo」についてはアイヌ語辞典などでも載っているが、「ma」については載っていない。ただ柳田国男の地名の研究...
新開【しびらき】・・・さいたま市桜区 神田【じんで】・・・さいたま市桜区 文蔵【ぶぞう】・・・さいたま市南区 新開(しびらき):荒川左岸東方の鴨川と高沼(こうぬま)排水にはさまれた低地に位置する。名前の由来は天正18年岩槻落城後、その旗本の武士がこの地に土着して1村を切り拓いたことによる(新編武蔵)とある。(旧浦和市)でも新しく開くと書いて、何故「しびらき」と読むようになったのかは不明。 神田(じん...
新座【にいざ】・・・新座市 難読漢字地名としては一般には取り上げないが、高麗と同様に特徴的な地名なのでここに加えておきます。新座(にいざ)は758年に新羅(しらぎ、しらき)郡が新設されたことに始まります。続日本紀に天平宝字二年(758)八月二四日条に「帰化新羅僧32人、尼2人、男19人、女21人、武蔵国に移し、新羅郡を設置する。」とあります。高麗郡の設置は716年ですからこれより40年ほど後になります。また高麗郡...
蚊斗谷【かばかりや】・・・吉見町大豆戸【まめど】・・・鳩山町椚平【くぬぎだいら】・・・ときがわ町蚊斗谷(かばかりや):角川の地名辞典では地名はかつて蒲が多い原野を開発したので「蒲苅谷」と称したことによる(新編武蔵)とある。江戸前期の正保から元禄(1644~1704)頃に開発され、古来は大和田より分かれて「蒲苅谷」と云ったという。大豆戸(まめど):豆土・大豆土・馬見土とも書くという。中世の室町時代に比企郡大...
高麗本郷【こまほんごう】・・・日高市毛呂本郷【もろほんごう】・・・毛呂山町716年(霊亀2年)に、関東各地(当時の7カ国)に住んでいた「高麗人」1,799人が武蔵国に集められ、「高麗郡」ができました。この高麗郡に2つの本郷と名のつく地名があります。高麗本郷(こまほんごう):高句麗は、中国の東北部から朝鮮半島にかけて約700年間(紀元前37年頃から668年(天智7年))栄えた大きな国でした。 しかし、その高句麗は、唐や新...
飯能市【はんのうし】越生町【おごせまち】鴻巣市【こうのすし】今回は良く知られてて読めないと恥ずかしい地名かもしれない名前です。飯能(はんのう):角川の地名大辞典は、「地名の由来は武蔵七党の判乃氏が居住したことによるという。」とだけ紹介していますが、これは余りにも不親切です。平安鎌倉時代頃に、各地に武士たちの氏族が散らばってその地の地名を氏として名乗るようになりますが、この判乃氏もこの現在の飯能の地...
万吉【まげち】・・・熊谷市御稜威ケ原【みいずがはら】・・・熊谷市楊井【やぎい】・・・熊谷市今回は熊谷市の難読地名を3つ万吉(まげじ):角川の地名辞典には1)牧(まき)の当て字で「牧=万吉」から「マキチ」となり「マゲチ」になった2)条里制に基づく牧津里からおこったという説が紹介されている。中世(鎌倉期)には武蔵国大里郡の中に万吉郷があった。明治22年まで万吉村があり、その後大字名で残った。御稜威ケ原(み...
今日も机に向かって地名などを調べていましたところ、私の携帯に着信がありました。目も悪いので知らない番号だけどと思って出て見ると、少し間があり、暫くしてから男の人の声で「こちらは大阪。。。生活安全課の者ですが、事件の事でお話があります。10分ほどよろしいですか?」と、これは何か怪しそうだと、発信の電話番号を見て見ると 下4桁が「0110」です。最近テレビで盛んにやっている「詐欺」のようです。まあ、何かあ...
屈巣【くす】・・・鴻巣市下忍【しもおし】・・・鴻巣市荊原【ばらはら】・・・鴻巣市鴻巣市の難読地名です。屈巣(くす):屈巣村は江戸期から明治29年まで存在し、明治29年に川里村の大字名となった。平成13年に川里町となり、平成17年(2005)に鴻巣市に編入となった。角川の地名辞典には屈巣は「屈須」とも書いていたとあり、地名由来を4つ紹介している。1)地名は、元は「国主」といっていたが、正長年間(1428~1429)に村社...
神戸【ごうど】・・・東松山市下青鳥【しもおおどり】・・・東松山市箭弓町【やきゅうちょう】・・・東松山市東松山市の地名を集めて見ました。神戸:「神戸」は一般に「ごうど」と読む地名は多く、その多くがその地に神社領などがあった所が多い。・東松山市神戸(ごうど)・・・かつて伊勢神宮の御厨があったため(新編武蔵)・川口市神戸(ごうど)・・・当地に神社領があったことによる(新編武蔵)・羽生市神戸(ごうど)・・...
上赤工【かみあかだくみ】・・・飯能市下赤工【しもあかだくに】・・・飯能市双柳【なみやなぎ】・・・飯能市赤工:江戸期からの地名で、江戸時代初期には「赤内匠(あかだくみ)村」が存在していた。元禄郷帖に「上赤工村」「下赤工村」とあり、この頃分村したと思われ、名前表記も変更された。角川の地名辞典には名前の由来は「赤土」に由来するという、と書かれている。また平凡社の地名辞典には大量の紙漉き(和紙)を行ってい...
牛重【うしがさね】・・・加須(かぞ)市(騎西町)上種足【かみたなだれ】・・・加須市(騎西町)中種足【なかたなだれ】・・・加須市(騎西町)下種足【しもたなだれ】・・・加須市(騎西町)牛重:「牛重」(うしがさね)という地名も江戸期からあるが、地名辞典にもその由来は書かれていない。この地域の鎮守は「天神社」で、祭りなども行われているというが、名前の「さね」は「鉄」のことを指しているのかもしれない。下記の...
靭負【ゆきえ】・・・(比企郡)小川町「靭」は一般には「靭帯」「強靭」など音読みで「じん」と読み、意味は「しなやか」です。しかし古代の律令制の職に、「靭負(ゆげい)」という職の人がいました。「靭」は「矢を入れる道具」のことで、「靭(ゆぎ)」と呼んでおり、これを背負って運ぶ人を「靭負(ゆげい)」と呼んでいました。しかし、中世ではこの矢を入れる道具は「矢巣(やす)」とも呼ばれていました。またこの名前「靭...
道祖土【さいど】・・・さいたま市緑区「道祖」と書いて、「さい」「さや」と読む地名が各地に存在する。角川の地名辞典にはこの道祖土【さいど】・・・さいたま市緑区(旧浦和市)は、江戸期は武蔵国足立郡浦和領に属し、地名の由来については2つの説が書かれている。(1)道祖土神の社があったため(新編武蔵」(2)比企郡八ツ林村の名主道祖土氏の祖先道祖土土佐守が戦国期に当地に住したため一般には人名は土地の名前から呼...
五十子【いかっこ】・・・本庄市 十二月田【しわすだ】・・・川口市 一被目【いちひめ】・・・春日部市埼玉県の数字を含んだ少し変わった地名を集めて見ました。五十子: 全国に五十とつく地名はたくさんあり、その多くの読みが「いか」「いが」である。五十嵐(いからし、いがらし)、五十土(いかづち)、五十里(いかり)、五十畑(いかばた)、五十原(いかはら)、五十浦(いかうら)、五十沢(いかざわ、いさざわ)、五...
如意【ねおい】・・・越生町 この「如意」は本来は「にょい」という。 地名の由来はこの地に行基作ともいわれる如意輪観音を本尊とする「如意寺」があったことによるという。現在は寺はなく「観音堂(如意輪堂)」のみが残されている。このお堂には応保2年(1162)の墨書銘がある木造如意輪観音半跏像(県指定文化財)がある。読みの「ねおい」も「にょい」の発音から「ねおい」と書くようになったのかもしれないが、定かでは...
上手計【かみてばか】・・・深谷市 下手計【しもてばか】・・・深谷市 血洗島【ちあらいじま】・・・深谷市手計: 深谷市に「手計」とかいて「てばか」と読む地名がありますが、鎌倉期には「手墓村(てばかむら)」という名前が見られ、「手波賀郷」などの名前も見られます。また「手墓村」は鎌倉時代に「上手墓村」と「下手墓村」に分村していた記録があります。名前の由来は、下の血洗島の話と同様で、源義家が切られた片腕...
矢颪【やおろし】 ・・・ 飯能市 征矢町【そやちょう】 ・・・ 飯能市矢颪: 角川の地名辞典には『「矢下風」とも書く。とある。また前ヶ貫村から元禄年間までに分村したと考えられる。地名由来は矢は岩、「おろし」は「崖」の意で、地形に由来するという。征矢町: 矢颪のすぐ南側にあり、総鎮守としての「征矢(そや)神社」がある。矢颪、征矢町、前ヶ貫(まえがぬき)の3つの地区の境にこの「征矢神社」があり、地名...
男衾【おぶすま】・・・寄居町 この「男衾(おぶすま)」は平安時代の倭名類聚抄(和名抄)の武蔵国の郡名として出てきます。読み方は「乎夫須萬」となっている。地域は武蔵国のやや北部で、「大里・比企・秩父・榛沢」の郡に囲まれた地区である。名前の初見は正倉院の調布に記された天平6年(714年)11月の墨書である。この地には「小被(おぶすま)神社」があり、この社が男衾郡の総鎮守と云われている。創建はかなり古く...
仏子【ぶし】・・・入間市 道佛【どうぶつ】・・・埼玉郡宮代町仏子: 角川日本地名大辞典には、『読みは「ぶし」「ぶっし」とも云うとある。また「ブシ」の意味は、この名前の多くは小平地・河岸段丘・谷頭・鈍頂の山に見られる地名であるとも云われ、また仏師、あるいは武士がもとになったともいわれる。』とある。また、平凡社の日本歴史地名体系には『永禄年間(1558~70)と推定される文書に「仏師村」の記述がみえる』と...
宮ケ谷塔【みやがやとう】・・・さいたま市見沼区 宮ケ谷戸【みやがやと】・・・深谷市 さいたまし見沼区(旧大宮市)の宮ケ谷塔のは「みやがやとう」とも「みやがやと」とも云っているようで、「田園簿」には宮ケ谷戸村と記載がある。註:武蔵田園簿・・・慶安2~3年(1649~1650)成立。郡別に村名・村高・田畑高・諸役銭・社寺朱印高・支配代官・旗本知行主・大名領主、また一国の寄高・道法・船道・村駅・古城・名所が明ら...
上敷免【じょうしきめん】・・・深谷市 番匠免【ばんしょうめん】・・・三郷市 三町免【さんちょうめん】・・・鴻巣市(吹上町) 埼玉県内で「免」の付く地名が3つありました。一般に「免」がつく地名は、「租税」が免除されていた地区についています。上敷免:江戸時代から明治22年までは「上鋪免村」と書かれていましたが、明治22年以降の大字名として「上敷免」と書くようになりました。名前の由来としては、昔の職人で「...
水判土【みずはた】・・・さいたま市西区「水判土」は「水波田」とも書き、意味は角川日本地名大辞典は、水畑=水田 の水田地帯であることにちなむか(地名誌)とある。ただし地名としては戦国期には見られ、随分古く縄文早期~後期の水判土遺跡がある。「新編武蔵」に、足立郡に「水判土荘」が見られる、とある。また、水判土地区の中央には「慈厳寺(じげんじ)」という天台宗の寺があり、「大宮水波田観音」として親しまれ、...
清河寺【せいがんじ】 ・・・ さいたま市西区 清河寺(せいがんじ)はその名の通り、ここに存在する「清河寺」という寺の周辺についた名前が、地域の分村時にそのまま村名となったものである。清河寺は臨済宗円覚寺派の寺院で、山号は「大龍山」である。1360年(正平15年)、初代鎌倉公方足利基氏の開基とされる。寺名であるので名前の由来はよくわからない。寺は応永年間(1394年 - 1428年)には足利家の祈願所として栄えたが...
指扇【さしおうぎ】 ・・・ さいたま市西区さいたま市(旧大宮市)の「指扇」は、角川地名大辞典には『指扇子・差扇とも書く。荒川と鴨川にはさまれた大宮台地上に位置する。地名由来は「さしおぎ」とも称しているが、「サシ」は日向地や傾斜地、「オギ」は崖・湿地の意があり、地形からつけられた地名である。』と書かれている。ただ、江戸の小石川指ヶ谷町(さすがやちょう)のサスは焼畑の義で、「ソリ」や「ソウリ」も焼畑...
遊馬【あすま】町 ・・・草加市 西遊馬【にしあすま】 ・・・さいたま市西区 この「遊馬」で【あすま】と読む地名が2か所ありますが、両所は結構離れておりお互いの関係は不明です。角川日本地名大辞典には、さいたま市の遊馬について『「遊間」とも書き、低湿地上にあり、「アソ」に水の浅いところ・湿地の意が、「マ」に湖沼・狭間の意があり、荒川沿岸の低湿の狭間に位置することによる(地名誌)』との説明があり...
風渡野【ふっとの】・・・さいたま市見沼区風布【ふうぷ、ふうっぷ】・・・寄居町、長瀞町「風」の付く難読地名を2つ。風渡野 角川日本地名大辞典によると、『県東部、綾瀬川右岸の大宮台地上に主として位置する。東と西に見沼の低地が入り組んでいる。地名の由来について「地名誌」には、「風渡野のフットはホトの義、ホトは女陰、噴火口の方言から地名となり、多くは河谷の名となっている」とあり、地形から生じた地名としてい...
茨城県、千葉県と続いた難読地名シリーズも3県め「埼玉県」に入ります。どれくらいまとめられるかまだ不明ですが、しり込みして居たら何も始まりませんので早速、始めましょう。第1回目は 生出塚【おいねづか】・・・鴻巣市一般に「生出」は「おいで」「はいで」などと読む場合が多く、 ・埼玉県加須市(旧大利根町)生出・・・「おいで」 ・愛知県稲沢市生出本町・・・「はいで」加須市(旧大利根町)の「生出」は角川...
ここ数回にわたって桜川市の真壁地区を紐解いています。旧陣屋があった場所に今は伝承館という施設が建ち、町の歴史などを学べます。またこの施設の周りの街並みが真壁の街並みとして国指定の建屋などがたくさん並んでいます。更に平成22年には国の「重要伝統的建造物群保存地区=重伝建」に指定されています。この街並みはどのように作られていったのでしょうか?(伝承館(旧陣屋跡)入口)この伝承館の南側の通りの西側が「下...
1,古代の新治郡の郡衙は旧協和町古郡(現桜川市)にありました。2,古代常陸国の国府である現在の石岡市からこの新治郡衙迄どのような道を通っていたのでしょうか? 距離的に近い道と考えると、両者の間には筑波山から北に延びる加波山とのの間の峠を越えていくことになります。ここに、真壁町(桜川市)の伝承館発行の一つの資料があります。「歴史の道 鎌倉街道と小栗道」これは、もう何年も前に友人から頂いた資料です。この...
本ブログ「まほらにふく風に乗って」のアクセス数(ページビュー)が本日 100万回に到達しました。 ブログ開始日:2010年8月10日 本日(達成日):2025年3月15日 総日数:5,332日 総記事数:4,021件 1日当たり閲覧数:187.5回(平均)これもブログを続けていくためのモチベーションアップ。いつまで続けられるか?・・・・・・・・地域に埋もれた歴史などを掘り起こして満15年目前に何とかクリア。こうして記録を...
真壁の伝承館のすぐわきに神社がありますが、ここは「神武天皇遥拝所」といい、「神武さま」と呼ばれています。明治14年に真壁の氏神である五所駒瀧神社の分社として建立されました。ここは神武天皇を遥拝する場所ですが、拝殿の向きはこの五所駒瀧神社の方向を向いています。その先には「鹿島神宮」方向です。五所駒瀧神社は平安時代(1014年)に鹿島神宮の御祭神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)の分霊を祀り、真壁氏の氏神...
雨引観音から真壁の町中に引き返し「伝承館」へ久しぶりに来たのだけれど少しイメージが違いました。建物が増えたのかもしれません。周りが狭く感じました。裏側の駐車場に車を停めて表の通りの方にぐるりと歩いていくと「教育発祥之地」という看板が置かれていました。その上に小さく「真壁小学校」とあり、右側には「真壁小学校創立百周年記念」と彫られています。元々この地には笠間藩の真壁陣屋がありました。そして明治6年...
先週の事ですが、久しぶりに雨引観音に立ち寄りしました。桜はまだのようですが、4月13日(日)はどうなりますか・・・・...
上曽トンネルが出来るとこの峠道を通らなくなりそうですね。という訳で峠の中腹にある五所駒瀧神社に立ち寄ってみました。石岡からの県道沿いからは裏側の入口からは入れます。入口は狭いですが、駐車場は結構広いです。「櫻斎軒」ひなまつり期間中はきっとここにも雛段が飾られていたのでしょう。今は静かにひっそりと・・・・...
石岡市と桜川市真壁町を結ぶ上曽峠のトンネルもいよいよ本年度の開通が予定されています。昨日、上曽峠を越えて真壁町へ行ってきましたので、真壁側の出口の状況を見てきました。写真は県道7号線の真壁町の出口道路部分です。この左側が国指定史跡となっている「真壁城址跡」です。多気平氏の一族であった真壁氏も佐竹氏の家臣として活躍し、佐竹氏の出羽(秋田)転封により秋田角館に800石で移りました。関ヶ原の戦いで戦功をあ...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、国分寺の鐘は鹿島郡子生村よりあがると云伝ふるより子生村の人に尋けるに、子生より一里去て上釜村と言所に鯵(あち)明神の辺に池あり、是より上ると也、国分寺迄引たる道筋は上釜村より下太田村迄の原道に七日が原八日堤下太田村より造谷村迄に折れ車鐘洗ひと云地名あり、造谷村より富田村の間にまた鐘洗といふ地名あり、是より先はしらずと也、是昔鐘を引...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、大砂新田は寛文年中平ら高の内別御割付に成、初て名主を立たり(解説)大砂は村上の東北側で、「ひまわりの郷」の手前辺り。 寛文年中は1661~1672年であり、この頃に新田を拓いたのか?...
江戸時代の常陸府中(石岡)の地誌「府中雑記」を読み解いています。1、當所御縄は皆川山城守殿御代寛永二年より今に至る迄用る也、縄打役人は皆川御家臣岡安長左衛門、櫻田清兵衛、勝浦太郎左衛門、中嶋 此五人也、寛永三年より正保四年迄の新開き今古畑古田と号す、慶安年中より後の新開を今新切に用ゆ、寛永九年より表深杉北の位分る、格免は御當代様御仁恵を以御立被下置候(解説)縄打(なわうち)とは検地と同じような...
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・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
柳田國男の「地名の研究」を読んでいます。ここまで、「地名の話」(大正元年)「地名と地理」(昭和7年)「地名の歴史」(昭和9年)に刊行された講義録のようなものを見てきましたが、この地名の研究にはその他に「地名考設」という明治22年~昭和2年の書かれたものを55項目にわたってまとめて載せてあります。ここでは、書かれた内容を大雑把に要約し、検証も含めて記載してみたいと思います。<地名考説(1~7)>平民生...
NHK朝ドラ「あんぱん」では四国高知県の「御免予町」が舞台となっていますが、高知駅の少し手前に「後免駅」があり、後免町がモデルと考えられます。この後免町(ごめんまち)の町名由来をこの地名の研究から探ってみます。柳田國男の地名研究と同じように、まず同じ名前の地名を全国から探して見ます。今の郵便番号簿から拾ってみましょう。1)「後免」で探すとここ1件だけです。 高知県南国市後免町 コウチケンナンコクシゴメンマチ2...
最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ている。「あんぱんまん」も年代としてはもう子供の世代という感じで、それ程インパクトや想い入れも無いのだが、テレビに映る映像に懐かしい気がして見入てしまうこともしばしば。のぶの女子師範学校時代が終わったが、この高知県の師範学校の校舎は地元「土浦一校」の旧校舎だ。見ていてすぐにわかった。この校舎は実によく使われる。 以前書いたブログ ⇒ こちらまた、今度赴任する御免与...
地名と歴史(7)14、交通の変遷 県下交通の変遷に関しても、地名はかなり豊富な資料を包含しているらしいが、自分は時間が足りなくて、その点までは書き抜くことができなかった。一つ二つ気のついた点をいうと、この地方だけに多く出逢うゴウドという地名は古い。美濃の川渡(ごうど)などは大往還の駅であって、すでに『太平記』以前から知られている。尾張・三河のものはすべてが官道の上にあるわけでもないが、その数が非常に多...
昨日銚子へまt仕事で出掛け、終わったのは夕方5時半前頃。そこから石岡へ車で帰る時、利根川の千葉県側の堤防沿いにできた356号のバイパス道を通りました。夕方6時半ごろが今の時期の日の入り。正面から夕陽を受けながら、右手は利根川の土手、左手は田植えがされたばかりの水田地帯。やはりサングラスが必要かな?これから夏至に向かって日没方向は少しづつ北に向かう。銚子からも利根川上流に陽が沈む。(写真撮影場所の...
地名と歴史(6)11、我々の小地名は新旧が交錯しているために、全部一度にできたかのごとき感を抱くが、生活上の必要もないものを、拵(こしら)えておく人はなかったろう。田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはりアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、なにか問題となって注意していた者が多く、有名になっていたから踏襲したのであろう。小さい事ではあるが、これによら...
地名と歴史(5)9、<焼畑、切替畑>(山間部の地名)・九州・四国:コバツクリ、コバキリ・関東四周の山地:サス(武蔵・相模)、ソリ(ソラス:荒らす)、焼畑が行われ、それを元の地形に戻すに適する区域を、甲州などは何々草里(そうり)といい、駿河・遠江ではゾウレ(蔵連など)といい、土地によっては単にソともいう。・クサ:豊根振草(とよねふりくさ)などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切...
地名と歴史(4)<畠作の地名>水田に続いて畠作の歴史があるが、まだいっこう調べられていない。常畠の開け始めた土地は、やはりいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。そのため水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、地形語が地名となる機会は多かった。・コウゲ:中国全部と四国の片端にかけて、水のない草生地の地名(村が山から遠くに独立するとき、肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却)・カッ...
地名と歴史(3)6、フケ、フゴ、クゴ、アワラ、ドブ、クテ、トンボ、タンボ:変化する地名 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを窺(うかが)い知ることができる。フケは泓とか湗とかいう漢字をあてて、クテよりははるかに広く使われる地形名である。京都でも富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入...
地名と歴史(2)4、地名は普通にはまず地形によって附ける。それが間に合わなくなって他の材料を加味して行くのである。たとえば、アイヌなどは狩猟が中心で耕作がほとんど進まず、農地など居住以外の目的で土地を区割して占有することがほとんどないため、地名は場所さえ記憶でき、かつ他人とその話ができればよい。従って地名には具体的にその土地の性質を指示するものを選び、誰が聞いてもその意味を捉えやすいものとなる。これ...
柳田國男の書いた「地名の研究」を紐解いています。ここからは「地名と歴史」というタイトルで愛知教育という雑誌に昭和9年7月に発表した記事です。明治の初期に全国で大字・字を選定する事業があり、多くの字名が誕生しました。ここには古くからの地名や新たに追加した地名もたくさん混じっています。愛知県では明治15年に「愛知県地名調」という冊子を印刷し頒布していたようです。このため、この「地名と歴史」もこの活用...
地名と地理(10)人文地理と地名の研究 以前私などの学校にいた頃にも、人文地理なる名の学問はあるにはあったが、ただ統計の要約であり、現状の記述に止まっていた。しかし、一たび訝(いぶか)り問わんとするようになって、学問それ自身がかなり煩悶をしたようである。大地の表面は隅から隅まで、人類去来の足跡であり、無名の彫塑(ちょうそ)家の篦(へら)の痕(あと)であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至...
地名と地理(9)地形語 東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人が住むには不向きと思われるが、実際はかなり古い部落や耕地の地名となっているものが無数ある。農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠(よ)る所がある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。それが平和...
地名と地理(8)地名発生の変遷 地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて区々(まちまち)なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。地名の起りには限らず、物の名前が必要となるのは、指でさし顎でしゃくっ...
地名と地理(7)地名の分類 地名発生の理由には前に書いたように明白なる時代の変化があった。今でも新たに利用地名を作る場合がないとは言われないが、永く伝えてくれる望みは乏しい。その地にすでに地名があり、細かく区割した地域地名があり、新たに割り込んで行く余地がなくなっている。だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを除いて、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったと思わ...
地名と地理(6) 新開拓地と地名1) 地名が定着して一時代を過ぎて、戦争などで住民が離散し、それまでの多くの地名が消えた。2) 再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたが、この時につけられた地名は・以前からの故老が少しでも残っていた場合はできるだけ在来のものを利用した。・それがまったく忘却された地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示...
潮来に来ると古刹「長勝寺」に立ち寄ることが多い。桜の時期、新緑の時、菩提樹の花の時期、紫陽花、紅葉とそれぞれに境内は美しい。「山門不幸」と立て板が建てられている。3月末に亡くなられた前住職の「谷元明さん」が90歳でお亡くなりになったようだ。禅寺であるこの長勝寺もいろいろ観光客にも開放していつもきれいに管理されているのも谷住職のお陰でもあろうかと思う。ご冥福をお祈りいたします。新緑に交じって「紫蘭:...
地名と地理(5) 地名と人の苗字 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。・これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風...
五月一日、行方市井上にある古刹「西蓮寺」(常陸高野)を訪れました。新緑に包まれた境内には誰もおらず、心地よい風が吹いていました。千年銀杏の黄葉も見事ですが、この時期の新緑も気持ちよいです。...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...