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まほらにふく風に乗って http://mahoranokaze.com/

団塊世代のおやじが、歴史の里と呼ばれる常陸の都-石岡-に住んで感じたことなどを徒然に紹介します。

Roman1405
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茨城県
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小千谷市
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2011/04/26

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  • 近代石岡の歴史を訪ねて(1)

    ここ数回にわたって『石岡の歴史を訪ねて』と題して、古代の常陸府中=石岡 の歴史を眺めてきました。ここから『近代石岡の歴史を訪ねて』として、繁栄を誇った明治時代、大正時代、昭和初期の石岡の歴史を訪ね、現在の石岡の街並みを辿ってみたいと思います。前回の最初に述べましたが、これは2022年6月末に八郷の下青柳にある古民家のBookcafeえんじゅにて行われたト-クサロンに講師としてお招きいただきいた時にお話し...

  • 石岡の歴史を訪ねて(15) 古代編(付録)

    石岡の古代の歴史を常陸国の成立ちや郡衙・国衙及び都とをつなぐ古代官道などを調べながら見てきました。しかし、まだ理解が足らない気がします。古代の律令制度や、労役などとここにいた民衆や国司などがどのようにかかわってきたのかがまだ理解していないようです。1)古東海道などは誰がどうやって造っていったのか?2)都との伝令はどのように行っていたのか?3)都に運ぶ庸・調の運搬はどのように行われたのか?4)畿内(五...

  • 石岡の歴史を訪ねて(14)古東海道

    【古東海道の終点の都市 : 石岡】■古道7街道について 国造りがおこなわれた律令制時代(今から1300年以前)から主要国を結ぶ道は作られていた。当時の大阪・京都などの地帯は五畿内(山城、摂津、河内、和泉、大和)と呼ばれ、ここから全国に七道が五畿と63カ国を結んでいた。(東北北部と北海道はまだ入っていなかった)古代の東海道は伊賀国(国府:今の伊賀上野市坂ノ下国町)より常陸国(国府:今の茨城県石岡市)まで続い...

  • 石岡の歴史を訪ねて(13)国衙と郡衙(その3)

    常陸国の古代郡衙を紹介しています。今回は最後で常陸国の中心茨城郡です。 11)茨城(うばらき)郡衙 常陸国の最後に常陸国の国衙(国府)が置かれた茨城郡の郡衙(郡家)を紹介しましょう。まず茨城の読み方ですが、現在のイバラキではなく、多くの書物で「ウバラキ」と読ませているものが多くあり、ここでもウバラキとしました。これは、平安時代の辞書ともいわれる倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)に当時の国名、郡名、...

  • 石岡の歴史を訪ねて(12)国衙と郡衙(その2)

    常陸国の国衙(国府)と郡衙(郡家)の場所や規模などをその遺構から探っていきましょう。1)新治(にいはり)郡衙 新治郡が何処にあったのかについては、その名前の「新治(にいはり)郡」というのが、茨城県内の各所で使われていたために、いろいろな意見がありました。江戸末期から明治初めに石岡で活躍した国学者である鬼澤大海(おうみ)さんが書いた「常陸旧地考」には地元の近くにあった現在のかすみがうら市新治、(東・...

  • 石岡の歴史を訪ねて(11) 国衙と郡衙(その1)

    大化の改新(645年)から50年位をかけて日本の律令制の体制を作っていきました。そして全国60ほどの国に国衙(国府)を定め国司を派遣し、国内をいくつかの郡に分け、そこに郡衙を置き郡司を任命しました。朝廷はそれまで地方豪族たちが持って居た土地や民衆を朝廷(天皇)の物として位置付け「公地公民制」をしきました。これは百済王国を助け、白村江において唐・新羅連合軍に大敗して(663年)この日本国を一つにまとめ...

  • 石岡の歴史を訪ねて(10) 律令制度と国府

    古代の常陸国の国府が置かれた現在の石岡市の歴史を巡っていきます。さて、ここからは1) 律令制度の内容と歴史をこの常陸国で探る2) 古都石岡と都を結ぶ古官道の歴史を探るの大きな2つのテーマを中心として歴史を見て行きたいと思います。まず、古代の律令制ですが、Wikipediaの内容を集約して載せます。(wikipedia内容は⇒ こちら )1) 律令制: 律=刑法、令=刑法以外の法律をいい、社会秩序を維持する規範、古代国...

  • 石岡の歴史を訪ねて(9)

    前回の記事から少し間があいてしまいました。休み休みまた続けていきます。ここでのテーマは「常陸国の国府が何故今の石岡の地に置かれたのか?」という疑問にすこしでもその答えに近づきたいというものです。少し整理してみましょう。1) 大和朝廷は3世紀後半~4世紀半ばに東国支配に乗り出した。 西暦721年頃に成立した「常陸国風土記には、「古老が言うには、昔は相模国足柄の坂から東の県(あがた)は我姫(あずま)の国と...

  • 石岡の歴史を訪ねて(8)

    ここからは、石岡の地が常陸の国の国府(国衙)に選ばれた理由を考えて見たいと思います。まず、古代の地形を想像してみたいと思います。FloodMapsというソフトで海面高さを+5mに設定してみましょう。1)大和地方にて地盤を固めた大和朝廷は先ず九州から東海地方までの地域の統一を図り、四道将軍を派遣し、強制的(?)に地域を占領していったものと思われます。(3世紀半ば)2)4世紀に入り足柄峠から東の東国制圧に入ります...

  • 石岡の歴史を訪ねて(7)

    上記の表は左側に常陸国に朝廷より国司が派遣され始め、最初は「常陸守」でしたが、それが常陸介となって行った経緯を示しています。また右側には朝鮮半島と大和朝廷の歴史的なかかわりを年代別に示しました。先ず第1代の常陸守ですが、西暦700年10月に「百済王遠寶(くだらのこにしきえんぽう)(?~734年)が派遣され、708年3月まで国司をしています。この百済王(くだらのこにしき)という名前の説明に右側の表が...

  • 石岡の歴史を訪ねて(6)

    現在石岡市では令和3年度から国指定文化史跡などの領域およびその周辺の土地の公有化を進めています。令和6年度は、この舟塚山古墳周辺地域の公有化を推進しています。(⇒こちら)5世紀中葉に築造されたと考えられている「舟塚山古墳」は全長186mで東日本第2位の大きさの前方後円墳です。第1位は群馬県太田天神山古墳で、全長は210mあり、舟塚山より少し前の5世紀前半の築造だとされています。したがって、天神山古墳は...

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