これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
近代石岡の歴史を訪ねて(11) 昭和10年の街並み(その4)
前回に引き続いて、「香丸町・柿岡街道入口」から駅前通り(八間通り・御幸通り)までを見ていきます。これも少し見ないうちに変わっていきますね。親の代で商売をやめたり・・・・昭和10年ころからだと結構様変わりかもしれません。通りの西側(駅の反対側)は角に明治生命のビルが建っています。ここも裏口からの人(保険セールスレディーなど)がありますが、表側からのお客さんの出入りはほとんど見たことがありません。こ...
近代石岡の歴史を訪ねて(10) 昭和10年の街並み(その3)
前回載せた石岡の中央通り(香丸通り・中町通り)は旧水戸街道でもあります。昭和10年の地図から北から順に分割しながら現在と比べてその歴史を見ていきましょう。(昭和10年の「国分町府中3丁目信号~香丸町柿岡街道入口信号まで)地図の上部(北)は右(東)に泉町があり、常磐線のうえを越えて一里塚、杉並方面に続きます。この道が昔の水戸街道方面です。(上記地図の現在のGoogle Maps)現在の北側の国分町信号の所です。い...
昭和10年に作られた石岡の街並み地図を元に、にぎやかであった頃を振り返ってみています。先ずはメイン通りである旧水戸街道沿いの香丸町、中町の真直ぐな通りを眺めて見ましょう。この通りは今は電柱が地中化され、昭和レトロな看板建築が残る通りとなっていますが、昭和10年(1935年)からもうすぐ90年の時が過ぎてどのように変わっていったのでしょうか?今のGoogle Mapsの上記場所の地図も比較のために載せておきます。地図...
先週末に仕事で銚子に行ったが、比較的早めに仕事が終わったので、最近整備が整った千葉県側の利根川土手道を車で走ってみた。車の量は少なく、逆水門のある利根川大橋入口から小見川大橋まで千葉県側の利根川沿いにきれいな道路が整備された。いまは更にこれを銚子まで延長する工事が行われている。銚子からの帰りは何時も沈みゆく夕陽を追いかけるように走るのだが、この土手道はその夕日を遮るものがないので車にはまぶしい。...
9月16日(月)に千葉から祭りを見学に石岡に遊びに来た息子夫婦と孫娘が帰る前に、筑波山にロープウィーで登りたいというので八郷地区側から行くことにしました。ゆりの郷温泉の方から車でロープウィー口まで登ることとしたのですが、途中にある今も水車で瀬木線香を作っておられる「駒村清明堂」さんに立ち寄ってみました。東リの反対側の駐車場に車を停めて、お店のめでご主人がおられたので、「水車を見学させてください」と...
さて、9月15,16,17日と3日間「いしおかのお祭り」も無事終了いたしました。今年は年番が泉町でした。中日に幌獅子の車に轢かれた人、山車から落ちた人が各1名がけがをして病院へ。まつりの在り方も少しずつでも考えて行かねばならないように思います。さて、近代石岡の歴史を紹介しているのですが、祭りで中断してまた再開します。ここからは「石岡 昭和10年の街並み」という昭和10年4月に作成された地図(県道国道擴築記念)...
昭和4年3月14日に旧石岡の街並みの1/3余りが消失した火災が発生した。被災した家屋は約2000棟、被災者は約3000人でした。現在の石岡の地図にその範囲を赤く記してみました。石岡の街も歴史に残る大火はいくつもある。939年の平将門の国府襲撃で多くの神社や300戸ほどの家屋や焼かれたという。また1590年には佐竹氏などによる府中城攻略で街中も含め町中が焼けたといわれている。この時の街の再建は1597年から佐竹氏の手で行われた...
人口減少に子供の人数減少で小学校の統廃合が止まない。私は団塊世代の人口が増えていた時の生まれなので、私が小学校の時はこの逆の現象が起きていた。其れこそいっぺんに小学校入学の生徒数が1.5倍くらいに増え、学校の数も教室の数も足りなくなっていた。もっともこれは子供の時にはあまり感じることもなく、そういうものだと何となく納得していたが、今から思えば大変な時代だっといえるだろう。1クラス50人位の生徒がい...
昨日は朝から銚子まで行ってきました。途中、稲は半分ほどが刈られ、今刈り取りの最中の所も多かったです。近くのスーパーでも周りに米はたくさんあるので、値上がり方がひどいです。どこかで「このチャンスにいろいろなものが値上がりして、米農家も材料費UPもあるのだから」とささやくような声が聞こえてきそうです。お米は自由競争の様でもどこかでコントロールしているように感じます。しかし、せめて値上がり幅はコントロー...
常陸国風土記の香島郡のところに「社の南に郡家がある。 北側には沼尾の池がある。古老の話では、ここは、神代に天より流れ来た水がたまって沼となったもの。この沼で採れる蓮根は、他では味わえない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食うと、たちどころに癒えるという。鮒や鯉も多い。ここは前に郡(こおり)のあった所で、橘も多く、その果実は美味しい。」と書かれている。数日前に仲間と話していて食べたのを『ハスの...
石岡市の近代化の歴史をたどっていますが、醸造が盛んであった都市として知られるので先ず酒と醤油の歴史を振り返りました。しかし、これらに少し遅れて絹糸や絹織物などをつくる製糸産業がブームを引き起こしました。一時は日本の外貨獲得のホープとしてわれもわれもと農家でも蚕を飼い糸を紡いで大忙しでした。またこの景気により、石岡の街は活気づき、銀行業なども大いに発達したのです。ところが、1920年の輸入品の増加によ...
明治から昭和初期頃、ここ石岡は「醸造の街」との認識がかなり広がっていたようです。街には酒と醤油醸造の工場が多くあり大豆などのかすを燃やすために高い煙突が何本も街中に聳えていました。今回は醤油醸造の歴史とその衰退。また今に残されたその跡などを調べて見たいと思います。石岡市史によれば、幕末から明治初年にかけて醤油醸造を始めた大和田三郎左衛門や村田宗右衛門はそれ以前に酒造家であったが醤油醸造を始めるのに...
正岡子規が水戸紀行文の中で石岡を訪れ「万屋旅館」に1泊したのは、明治22年の春です。この時はまだ常磐線は無く、石岡での印象を次のように表現しています。「石岡は醤油の名所なり、萬屋は石岡中の第一等の旅店なり ・・・・・・・ 二日路は筑波にそふて日ぞ長き 白雲の蒲團の中につつまれてならんで寝たり女體男體 ・・・・・・...
霞ヶ浦から利根川を経由して江戸日本橋までの船運は、最初は船底の浅い高瀬舟に帆をかけた帆掛け船が多く使われてきました。これも大きなものは長さが30m程もあったそうです。しかし、風の力を使って船を動かすので、どうしても風の方向で進む方向も決まります。霞ケ浦周辺でも昼間は海岸方向から内陸側に「海風」が吹き、逆に夜になってくると陸から海に向かって「陸風」が吹きます。そのため、荷物や旅客を乗せた船も帆を張っ...
「ブログリーダー」を活用して、Roman1405さんをフォローしませんか?
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
・イナカ=田舎 とはどの範囲を表しているのだろうか?イは居であって、イナカは民居の中ではないかと思う。 田舎という語の最も古く顕われたのは『日本書紀』垂仁天皇の二年、意富加羅(おおから)国王の子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝説である。その中の黄牛(あめうし)に田器を負わせて田舎に将往(い)かんとすとあって、田舎の二字をいつの頃よりかイナカと訓ませている。昔は今でいう田舎それ自身の中において、特に田舎...
・軽井沢:「カルウ=背負う」から、この地で馬から人の背に荷物を積みかえ人力で山を越す仕度をした場所? 軽井沢と称する地で最も有名なものは、もちろん中仙道碓氷(うすい)峠の軽井沢である。この「軽井沢」という地名が諸国にわたって多いことと、それが知れている限りいずれも峠路の麓にあることとを注意していた。この地名の意を今までの書物では、「涸渓(かれさわ)の義(村岡櫟斎(れきさい)翁)」とか「水源涸渇の渓頭(吉...
・饗庭(あへば):饗場の田ではあるまいか武蔵の村々に饗庭(あへば)という地名かまたは家名が多いが、相場もこれと同じく、ともに道饗祭(みちあヘまつり)すなわち邪神祭却の祭場のことであろう。また北武蔵などに多いアイノ田「間の田」という字も単に里と里との境の意味でなく、饗場の田ではあるまいか。二万分一図で見ると、古川跡の田に開かれた所に「間の田」が多い。すなわちあまり古い地名でないことがわかる。<アイバ地名>...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...