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まほらにふく風に乗って http://mahoranokaze.com/

団塊世代のおやじが、歴史の里と呼ばれる常陸の都-石岡-に住んで感じたことなどを徒然に紹介します。

Roman1405
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住所
茨城県
出身
小千谷市
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2011/04/26

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  • 近代石岡の歴史を訪ねて(11) 昭和10年の街並み(その4)

    前回に引き続いて、「香丸町・柿岡街道入口」から駅前通り(八間通り・御幸通り)までを見ていきます。これも少し見ないうちに変わっていきますね。親の代で商売をやめたり・・・・昭和10年ころからだと結構様変わりかもしれません。通りの西側(駅の反対側)は角に明治生命のビルが建っています。ここも裏口からの人(保険セールスレディーなど)がありますが、表側からのお客さんの出入りはほとんど見たことがありません。こ...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(10) 昭和10年の街並み(その3)

    前回載せた石岡の中央通り(香丸通り・中町通り)は旧水戸街道でもあります。昭和10年の地図から北から順に分割しながら現在と比べてその歴史を見ていきましょう。(昭和10年の「国分町府中3丁目信号~香丸町柿岡街道入口信号まで)地図の上部(北)は右(東)に泉町があり、常磐線のうえを越えて一里塚、杉並方面に続きます。この道が昔の水戸街道方面です。(上記地図の現在のGoogle Maps)現在の北側の国分町信号の所です。い...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(9) 昭和10年の街並み(その2)

    昭和10年に作られた石岡の街並み地図を元に、にぎやかであった頃を振り返ってみています。先ずはメイン通りである旧水戸街道沿いの香丸町、中町の真直ぐな通りを眺めて見ましょう。この通りは今は電柱が地中化され、昭和レトロな看板建築が残る通りとなっていますが、昭和10年(1935年)からもうすぐ90年の時が過ぎてどのように変わっていったのでしょうか?今のGoogle Mapsの上記場所の地図も比較のために載せておきます。地図...

  • 夕陽を追いかけて利根川沿いを走る。

    先週末に仕事で銚子に行ったが、比較的早めに仕事が終わったので、最近整備が整った千葉県側の利根川土手道を車で走ってみた。車の量は少なく、逆水門のある利根川大橋入口から小見川大橋まで千葉県側の利根川沿いにきれいな道路が整備された。いまは更にこれを銚子まで延長する工事が行われている。銚子からの帰りは何時も沈みゆく夕陽を追いかけるように走るのだが、この土手道はその夕日を遮るものがないので車にはまぶしい。...

  • 水車杉線香

    9月16日(月)に千葉から祭りを見学に石岡に遊びに来た息子夫婦と孫娘が帰る前に、筑波山にロープウィーで登りたいというので八郷地区側から行くことにしました。ゆりの郷温泉の方から車でロープウィー口まで登ることとしたのですが、途中にある今も水車で瀬木線香を作っておられる「駒村清明堂」さんに立ち寄ってみました。東リの反対側の駐車場に車を停めて、お店のめでご主人がおられたので、「水車を見学させてください」と...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(8) 昭和10年の街並み(その1)

    さて、9月15,16,17日と3日間「いしおかのお祭り」も無事終了いたしました。今年は年番が泉町でした。中日に幌獅子の車に轢かれた人、山車から落ちた人が各1名がけがをして病院へ。まつりの在り方も少しずつでも考えて行かねばならないように思います。さて、近代石岡の歴史を紹介しているのですが、祭りで中断してまた再開します。ここからは「石岡 昭和10年の街並み」という昭和10年4月に作成された地図(県道国道擴築記念)...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(7) 昭和4年の大火の記憶

    昭和4年3月14日に旧石岡の街並みの1/3余りが消失した火災が発生した。被災した家屋は約2000棟、被災者は約3000人でした。現在の石岡の地図にその範囲を赤く記してみました。石岡の街も歴史に残る大火はいくつもある。939年の平将門の国府襲撃で多くの神社や300戸ほどの家屋や焼かれたという。また1590年には佐竹氏などによる府中城攻略で街中も含め町中が焼けたといわれている。この時の街の再建は1597年から佐竹氏の手で行われた...

  • 高浜地区小学校の統廃合

    人口減少に子供の人数減少で小学校の統廃合が止まない。私は団塊世代の人口が増えていた時の生まれなので、私が小学校の時はこの逆の現象が起きていた。其れこそいっぺんに小学校入学の生徒数が1.5倍くらいに増え、学校の数も教室の数も足りなくなっていた。もっともこれは子供の時にはあまり感じることもなく、そういうものだと何となく納得していたが、今から思えば大変な時代だっといえるだろう。1クラス50人位の生徒がい...

  • 秋の雲はまだ来ない・・・・

    昨日は朝から銚子まで行ってきました。途中、稲は半分ほどが刈られ、今刈り取りの最中の所も多かったです。近くのスーパーでも周りに米はたくさんあるので、値上がり方がひどいです。どこかで「このチャンスにいろいろなものが値上がりして、米農家も材料費UPもあるのだから」とささやくような声が聞こえてきそうです。お米は自由競争の様でもどこかでコントロールしているように感じます。しかし、せめて値上がり幅はコントロー...

  • ハスの実

    常陸国風土記の香島郡のところに「社の南に郡家がある。 北側には沼尾の池がある。古老の話では、ここは、神代に天より流れ来た水がたまって沼となったもの。この沼で採れる蓮根は、他では味わえない良い味である。病気の者も、この沼の蓮を食うと、たちどころに癒えるという。鮒や鯉も多い。ここは前に郡(こおり)のあった所で、橘も多く、その果実は美味しい。」と書かれている。数日前に仲間と話していて食べたのを『ハスの...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(6) 製糸産業と精米所

    石岡市の近代化の歴史をたどっていますが、醸造が盛んであった都市として知られるので先ず酒と醤油の歴史を振り返りました。しかし、これらに少し遅れて絹糸や絹織物などをつくる製糸産業がブームを引き起こしました。一時は日本の外貨獲得のホープとしてわれもわれもと農家でも蚕を飼い糸を紡いで大忙しでした。またこの景気により、石岡の街は活気づき、銀行業なども大いに発達したのです。ところが、1920年の輸入品の増加によ...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(4) 醤油醸造

    明治から昭和初期頃、ここ石岡は「醸造の街」との認識がかなり広がっていたようです。街には酒と醤油醸造の工場が多くあり大豆などのかすを燃やすために高い煙突が何本も街中に聳えていました。今回は醤油醸造の歴史とその衰退。また今に残されたその跡などを調べて見たいと思います。石岡市史によれば、幕末から明治初年にかけて醤油醸造を始めた大和田三郎左衛門や村田宗右衛門はそれ以前に酒造家であったが醤油醸造を始めるのに...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(3) 酒醸造所

    正岡子規が水戸紀行文の中で石岡を訪れ「万屋旅館」に1泊したのは、明治22年の春です。この時はまだ常磐線は無く、石岡での印象を次のように表現しています。「石岡は醤油の名所なり、萬屋は石岡中の第一等の旅店なり ・・・・・・・ 二日路は筑波にそふて日ぞ長き 白雲の蒲團の中につつまれてならんで寝たり女體男體 ・・・・・・...

  • 近代石岡の歴史を訪ねて(2) 蒸気船

    霞ヶ浦から利根川を経由して江戸日本橋までの船運は、最初は船底の浅い高瀬舟に帆をかけた帆掛け船が多く使われてきました。これも大きなものは長さが30m程もあったそうです。しかし、風の力を使って船を動かすので、どうしても風の方向で進む方向も決まります。霞ケ浦周辺でも昼間は海岸方向から内陸側に「海風」が吹き、逆に夜になってくると陸から海に向かって「陸風」が吹きます。そのため、荷物や旅客を乗せた船も帆を張っ...

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