真壁地区の散策も、やはり雨が結構降ってきたので帰ろうかとも思いましたが、やはり予定通り薬王院(椎尾薬師)に立ち寄ることにしました。椎尾(しいお)の名の通り椎の木の古木が沢山あるこの古刹。筑波四面薬師としても12月に石岡市内の講演会でも紹介しましたので、昨年も訪れており、今年も少し前にも訪れています。やはり雨が結構降っており、他の参拝者もほとんどおりませんでした。社務所の方にも「足元にお気をつけて・...
近代石岡の歴史を訪ねて(14) 昭和10年の街並み(その7)
前回に引き続き石岡市内中町通りの東側の街並みを順に見ていきましょう。明治後半の資料には、中町は「仲町」と書いてありました。先ずは角の「まちかど情報センター」です。このビルはセントラルビルといって篠塚カバン店のビルでした。現在は1Fに市の委託施設であるNPO運営の情報センターが入っています。私の所属するふるさと風の会の月2回の会合に利用させていただいています。駅前通りの御幸通りの一番角に建っていますが、こ...
近代石岡の歴史を訪ねて(13) 昭和10年の街並み(その6)
石岡市街中心部の今と昔の街並みを比較しながら紹介しています。前回から大分間があいてしまいましたがもう少し続けていきましょう。今回は前と少しダブりますが中町から守木町のメイン通りを見て見ましょう。(昭和10年の中町通り)昭和4年に大火で多くが焼けてしまい、その後に復興し、建てられた看板建築の商店が特徴ともいえます。(現在のYAHOO MAPから)それでは石岡駅西口から広い御幸通り(八間通り)を進んだ突きあた...
今週水曜日、1か月ぶりの銚子行き。天気はそれほど良くないし、最近はあまり立ち寄る場所も思いつかない。朝早めに石岡を出てきたが、霞ヶ浦北側の国道355号線をのんびり車で走る。早めに出たので高校生たちの通学時間に出くわした。駅前の歩道で生徒たちの渡るのを待って車を動かす。そういえば最近我が茨城も横断歩道で停車してくれる車が増えたようだ。以前はお構いなしだったけど、こうして歩行者優先のマナーが浸透していくの...
近代石岡の歴史を訪ねて(12) 昭和10年の街並み(その5)
今回は石岡駅から御幸通りの突き当り辺りを見ていきます。このあたりもあまり今迄変化が少ないと思っていたのですが、ここ1~2年ほどでかなり激しく変わっています。少し前まで石岡に住んでいた人もその変化に驚くほどです。(昭和10年の御幸通り突き当り付近)(2024年10月現在の上記地域:わかる範囲で地図に追記した。)上記地図に書き加えていますが、閉店となったり、移転となったり、また今までの建物が壊されたり...
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真壁地区の散策も、やはり雨が結構降ってきたので帰ろうかとも思いましたが、やはり予定通り薬王院(椎尾薬師)に立ち寄ることにしました。椎尾(しいお)の名の通り椎の木の古木が沢山あるこの古刹。筑波四面薬師としても12月に石岡市内の講演会でも紹介しましたので、昨年も訪れており、今年も少し前にも訪れています。やはり雨が結構降っており、他の参拝者もほとんどおりませんでした。社務所の方にも「足元にお気をつけて・...
桜川市真壁町の総鎮守とされる「五所駒瀧神社」は新緑に包まれひっそり佇んでいました。元々は真壁氏の創建とされ、鹿島神宮のタケミカヅチを祀っていた神社ですが、別に4社を合祀して、「五所」と名前に冠して今の名前になりました。秋には紅葉が境内を赤・黄に染めます。上曽峠を真壁に下る途中に鎮座しています。神社のすぐ上に「分水嶺」の大きな石碑が建っています。境内を流れる清らかな水が心に積るわだかまりなどもスッ...
13日の日曜日、小雨の中真壁の町へ。真壁氏の城跡が国の指定史跡に指定されたのは平成6年とある。筑波山系の山懐に囲まれた様に雄大な城跡の敷地が残されている。このあたりの中世の城は山城が多い中、東側の裏山を背にして、西に開かれた麓平野に町が広がる。桓武天皇の曾孫から民間に降った桓武平氏の流れをくむ北条多気山の多気氏から分かれた一族がここ真壁に居を構えて「真壁氏」と呼ばれたが、佐竹氏の家臣となって、佐...
桜川市真壁町に戦時中の小学校に置かれた「奉安殿(ほうあんでん)」が残されており、見てきた。戦後GHQの市道でほとんどが壊されて残存する物も少ないが、ここにはきれいに残されている。旧真壁駅のすぐ近くの通り沿いにポツンと置かれており、説明板などは一切ない。菊の御紋のある大火式の独立型の立派な建物だ。内部には、明治・大正・昭和の3代の天皇、皇后さまのお写真と、教育勅語などが額に入れて飾られている。各学校...
桜川市の雨引山で奇祭「マダラ鬼神祭」が4月第2日曜日の13日に行われました。毎年桜のこの時期に行われる奇祭です。マダラ神(摩多羅神 )は天台宗の常行堂の後戸に祀られて、人前にその姿をさらすことが殆どない神と云われ、能楽などの芸能の神とも云われていますが、ここ雨引山楽法寺の祭りの起源話としては「裏筑波山系の雨引山に長尾勢を追い上げた足利勢は、四方から火を放って長尾勢を攻め立てた。 当山はこのため炎上...
昨日銚子に行くときに思いついて、浮島にある和田公園に立ち寄りました。浮島(稲敷市)も昔は霞ケ浦に浮かぶ島でしたが、江戸時代に灌漑も進んで陸地と繋がりました。霞ヶ浦沿岸を車で走ると、この時期は田植えの準備で田に水が張られて水面が輝いて・・・・出も既に田植えを終えたところもあり、田植中の所もありました。田植えも、いつもの年より少し早そうです。また、和田公園のチューリップ公園は13日の日曜日に「チューリ...
天目指峠【あまめざすとうげ】・・・飯能市 出牛峠【じゅうしとうげ】・・・皆野町/長瀞町 粥新田峠【かゆにたとうげ】・・・皆野町/東秩父村山の名や峠の名前には良く首をかしげたくなる名前がついていたりします。埼玉県も秩父地方を抱えており、西部の山には変わった峠の名前があります。ここにその一部を拾ってみました。 天目指峠【あまめざすとうげ】名栗と吾野を結ぶ県道395号線が通る峠で、かなり勾配がきつい峠(...
贄川【にえがわ】・・・秩父市 露梨子【つゆなし】・・・寄居町 樋籠【ひろう】・・・春日部市 贄川(にえがわ):荒川上流部にある支流に川の名として贄川があり、その一帯に「贄川村」が明治22年まであった。戦国期から地名として見られ、その後大字として贄川が残った。 現在は秩父市の地名として「荒川贄川」と表記されている。地名の由来は角川の地名辞典には次の2つを挙げている。①、贄の魚を捕る渓流の意(秩父郡...
今羽【こんば】・・・さいたま市北区 仁手【にって】・・・本庄市 仏子【ぶし】・・・入間市 今羽(こんば):荒川右岸の大宮台地上にあり、東と南に見沼の低地がある。江戸期より今羽村があり、明治35年に今羽町となり、大宮市の町名となり、現在はさいたま市北区の町名として残る。地名の由来についてはよくわかっていません。 仁手(にって):利根川中流右岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、戦国期から見える地名である...
小手指【こてさし】・・・所沢市 差間【さしま】・・・川口市 白井差【しらいざす、しろいざす】・・・小鹿野町武蔵国であった埼玉県南部は「指」「差」という字に「さし」「さす」といった読み方をする地名があります。以前あげた地名にも「指扇(さしおうぎ)」という地名もありました。どこか共通した地名のようです。これは武蔵(むさし)の「さし」にも共通する発音で、一般には「焼畑」の意味だとされています。新たに開...
八甫【はっぽう】・・・久喜市 八基【やつもと】・・・深谷市 三九【さんく】・・・三郷市八甫(はっぽう):「八浦」とも書くと、地名由来は「旧利根川流路に面し、8つの浦があったことによる(新編武蔵)が、不祥という。ただ場所は中世から河川交通の要所で重要な河岸場であったという。また、八ヵ村に囲まれた地から八方と言われて「八甫」となったという説もあるがはっきりしない。また洪水でしばしば被害を受けている。...
曲本【まがもと】・・・さいたま市南区 曲田【まがつた】・・・深谷市 曲師【まげし】・・・川島町 曲本(まがもと):「まげもと」ともいう。荒川下流左岸の平地に位置する。美女木のすぐ北側にあたる。荒川が曲がっているところではあるが、昔の荒川はどのような流れであったのかはよくわからない。 曲田(まがつた):角川の地名辞典では「まがりた」とあり、平凡社では「まがつた」とある。 郵便番号住所は「まがつた」...
吉妻【きつま】・・・春日部市 吉敷【きしき】・・・さいたま市大宮区 吉妻(きつま):角川の地名辞典では、「きつま」の「き」は城か柵を表し、「つま」は隅と解されることから地名は柵の隅と地の意という(地名誌)。と書かれている。この「き」が城や柵をあらわしているのは、東国地方には多く存在し、昔の蝦夷人たちとの境界に「柵=き」を作っていたことの表れだと思われる。古代朝鮮語(百済?)での「キ」は「城」を意...
上谷【かみやつ】・・・越生市 上谷塚【かみやつか】・・・草加市 上八ツ林【かみやつばやし】・・・川島町 上谷(かみやつ):「上谷戸」とも書き、上殿川の山間地に位置するという。村名も室町期から見られる。単純に「谷津、谷戸:やつ」の谷地形から付けられた地名と思われる。 上谷塚(かみやつか):越生郷の村の一つで、中谷塚、下谷塚があり、八つ塚(古墳など)の伝承がある。明治22年にこの3ヶ村を含む7ヶ村が合...
馬内【もうち】・・・加須市 鹿手袋【しかてぶくろ】・・・さいたま市南区 鹿室【かなむろ】・・・さいたま市岩瀬区 馬内(もうち):会ノ川の自然堤防上に位置し、地名の由来は牧草地が多く馬が多く飼われていたことによる。とされる。<県内の「馬のつく地名>埼玉県さいたま市西区西遊馬 サイタマケンサイタマシニシクニシアスマ埼玉県さいたま市緑区馬場 サイタマケンサイタマシミドリクバンバ埼玉県さいたま市岩槻区馬込 サイタマケンサイタマシイワツキクマゴメ埼玉県行田市...
名栗【なぐり】・・・飯能市 名細【なぐわし】・・・川越市 名栗(なぐり):名栗川、名栗渓谷、名栗湖などと今でも観光地として「名栗(なぐり)」の名前は残っていますが、都市としての「名栗村」の名前は2005年に飯能市に編入されて消えました。この名栗川や名栗渓谷などは私も子供時分に小学校の遠足などで行った事があります。名栗の名前の由来は① 古くから栗の名産地② ナ・クリ(刳)で浸食地③ 狸が多くいたため...
都幾川【ときがわ】・・・比企郡ときがわ町 都家郷【つけのごう】 大調郷【おおつきのごう】 都幾川(ときがわ):この「都幾川」も現在は市町村名では「ときがわ町」とひらがな表記になってしまいました。越辺川の支流に「都幾川(ときがわ)」という名の川があり、この名前があって都幾川村が村名となったと言われています。ただ、都幾山(ときさん)という山もあり、都伎山とも書いていたりもしますので「とき」という言葉...
埼玉【さいたま】【さきたま】 行田【ぎょうだ】 久喜【くき】今回は一般に使われていますので特に読みにくいという地名ではないですが、地名の由来なども気になりますので載せておきます。埼玉(さいたま):埼玉県の名前ですのでどなたも読めると思いますが、初めて目にしたら読めませんね。普通に読んだら「さきたま」でしょうか。こちらは行田市にある「埼玉」は「さきたま」と読みます。埼玉の名前は律令国の武蔵国の「埼...
越辺川【おっぺがわ】 身馴川【みなれがわ】 実熟川【みなれがわ】 樋遣川【ひやりがわ】・・・加須市川の名前は、地名と違って時代でかなり変化してきているように思う。古代、中世はその流れる土地の地名で呼ばれることも多かった。そのため、川の上流から下流まで何通りもの呼び名が有ったように思う。今回取り上げるものもそんな見方もしておかなければならない。越辺川(おっぺがわ):この川の名は、越生(おごせ)の地...
御正【みしょう】・・・熊谷市(江南村) 円良田【つぶらた】・・・美里町 金鑚【かなさな】・・・神川町 御正【みしょう】「新編武蔵」の見える中世末期ごろから見える郷名に「御正郷」が使われている。地名の由来は、古くからこの辺が上野(こうずけ)国新田(にった)岩松氏の所領で、荘園があり、「御庄」と一般に呼んでいたためという。(角川地名大辞典) 円良田【つぶらた】角川の地名辞典には『地名は「ツブラ」な田...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...