遠州京丸(きょうまる)の牡丹(ぼたん)の話、あれは今の周智(しゅうち)郡気多(けた)村大字小俣(おまた)京丸の一部である。人の住む在所である。路が遠くて悪いのは人家の数が少なく経済力が弱いためである。たまたまその土地の名を奥山などと呼ぶために、不当な概念ができてしまった。京丸という地は多分は京往きの夫役(ふえき)を、世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろう。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 シズオカケンハママツシテンリュウ...
鎌倉時代にまとめられた説話集「撰集抄」(せんじゅうしょう)に鹿島神宮の事が書かれていましたので紹介しておきます。撰集抄は西行法師に仮託されて書かれている説話集で、作者は不明です。 巻7第13話(73) 鹿嶋明神事 原文は ⇒ やたがらすナビ (参照) 治承(1177~1181年)のころ、常陸鹿島の明神(鹿島神宮)にお参りすると、神宮の造りは南向きになっており、その前は海で、後ろは山である。社や瓦屋根が並び、廻廊...
先日天気も良くて、車でちょこっと筑波山まわりを一回りしてきました。 石岡市八郷地区側から見た筑波山は、手前の女体山の一つ頂上の山に見えます。石岡市根小屋の県畜産センター付近つくば市小和田 国道125号線北条大池手前。こちらからは女体・男体の二峰が離れて見えます。国道125号から県道14号(筑西つくば線)に入ると、女体山が隠れて男体山のみが見えてきます。わんわんランド付近筑波山のすそ野を廻るように真...
11月26日に行方市の西蓮寺に立ち寄りました。ここの大銀杏の黄葉は毎年12月始め頃ですのでまだ早いのですが様子を見ておきたくなったためです。樹齢1000年以上ともいわれる大銀杏ですが、紅葉にはまだ早かったようです。まだ青々とした元気な葉を繁らせていました。...
芥川龍之介が今昔物語集を題材にいくつもの短編小説を書いています。羅生門、芋がゆ、鼻などが有名ですが、その中に「六の宮の姫君」という話しが有ります。この中に、都に残した姫君と遠く離れた陸奥守(仙台・多賀城)、常陸守(介)として赴任する父親について一緒に現地へ行った男の話が語られています。物悲しい話ですが、当時の様子を少し垣間見れるような気がしましたので、ここに載せておきます。芥川龍之介 六の宮の姫...
今昔物語の中に平貞盛の嫡子「平維叙(これのぶ)」の話が載っていますので紹介しましょう。平将門を倒し、朝廷から褒美をたくさんもらったと言われる平貞盛は国香の嫡男であり桓武平氏の棟梁です。常陸の国にいると、この貞盛の弟・繁盛の子供である「維幹(これもと)」が貞盛の養子となり、常陸国の平氏の長として大掾氏が誕生しますが、貞盛の直接の嫡子とされる維叙(これのぶ)はいったいどのような人物だったのでしょう。...
常陸国の大掾氏(だいじょうし)は関東にやってきた桓武天皇系列の平氏の一族です。平将門の乱を平定したとされるのは藤原秀郷(俵藤太)と平国香の長男の平貞盛の二人で、共に朝廷よりたくさんの褒章として東国の土地などを与えられることになります。そこで貞盛は自分の血族の人たちの多くから養子をうけいれ、これらの土地の管理を任せることにしたようです。常陸国では源護から譲り受けた大掾職は護の娘婿の平国香に渡り、国...
平安時代中期の頃、常陸国出身の相撲人真髪成村(まかみなりむら)という男がいた。この成村の話が、今昔物語集と宇治拾遺物語に書かれている。永観2年(984)相撲の節会(せちえ)で左の最手(ほて:現在の横綱)となり,右の最手海恒世(あまのつねよ)と死闘をくりひろげたという。当時の相撲取りがどのような扱いを受けていたか詳しくはわからないが、なかなか興味深い。相撲節会(せちえ)飛鳥時代から相撲は存在したが、奈良時代の...
前回多気太夫こと平維幹が宇治拾遺物語に登場している話を書きましたが、今回は「今昔物語」に、将門の乱からおよそ100年後に起きた「忠常の乱」の話があり、この平維幹が登場します。紹介しておきましょう。平維幹(多気太夫)は平忠常と利権をめぐって抗争しており、忠恒(忠常)は惟基(維幹)のことを「惟基ハ先祖ノ敵也」と述べています。これは忠常の母は将門の娘であるといわれており、父方は千葉氏の祖と言われた平良文...
江戸時代になり東北方面からの物資の輸送には水戸側から涸沼に船で入り、一部陸路や小河川などを経由して北浦から鹿島の大船津から前川を通って、潮来地区の河岸にいったん荷下ろし、保管をして、高瀬舟などに荷を積みなおして、江戸まで利根川などを使って江戸まで荷物を船で輸送していました。これは、家康が利根川を銚子の方と結び、江戸での洪水防止を兼ねて船で関東や東北地方からの輸送を行う大輸送ルートを開拓したもので...
北茨城方面は猿に対する伝承や昔話も多いので、過去の文献などを探していたところ見つかった話があり、ここに残しておく。鎌倉時代に書かれた説話集の「古今著聞集 巻第二十 魚虫禽獣第三十の698話」を取り上げます。698 近ごろ常陸国多珂の郡に一人の上人ありけり大きなる猿を飼ひけり<現代語訳(解説)> 近ごろ、常陸国多珂(たか)郡に一人の上人がおりました。その上人は大きなる猿を飼っていました。この上人は、お経の...
今日は朝外を見たら深い霧が一面に広がっていました。昨日までの寒気が緩んで今日は暖かくなりそう。今日はゴロ合わせで「いい夫婦(1122)の日だとか・・・・まああまりこんな記念日に気持ちも動かないが、久しぶりの晴天気になりそうだったので、近くの紅葉具合を見に筑波山周り巡ってきました。石岡からはフルーツラインで朝日トンネルを抜けて土浦市側に出て、小町の里から見学スタートです。小町の里には時々風の会の会報を...
今昔物語集から地蔵菩薩説話を。京より生身の地蔵に会うことを願いながら、方々を訪ね歩きながら常陸国にやって来てやっと願いがかなった話です。やはり都から見れば、東の端の国である常陸国は遠い国だったのでしょう。遠い国まで願いを持ちながら旅する僧侶の思いが伝ってきます。 巻十七第1話 地蔵の化身に会った話 原文はこちらを参照 ⇒ やたがらすナビ<現代語訳(解説)>今は昔、西方の京に住む僧がありました。たい...
松浦静山の甲子夜話はひとまず終りにして、過去の色々な文献資料を探してみましょう。今回は「閑居友(かんきょのとも)」という、鎌倉時代初期の承久 4年(1222年)春成立とされる説話集です。原本は仮名文で書かれており、上21話、下11話の 2巻全32話からなり、無名の人や女性などが発心して仏道に適う話しが主体です。その中から 閑居友 上巻 第14話 常陸国の男、心を発して山に入る事 中ごろ、常陸国に言う程の価値も...
常陸麻生藩は新庄氏が江戸時代の殆どを治めていましたが、松浦静山公は麻生藩11代直規(1772-1802)、12代直計(1803-1845)の2代に渡って親しくしていたようです。甲子夜話の表現では越州、駿州などと役職での呼び名で書かれていて、現代の感覚では理解しがたい面があります。新庄直規(なおかず)の役職は「備前守」で、新庄直計(なおかず)は「駿河守」です。藩主は江戸屋敷にいて常陸国などにはあまりこなかったよう...
今回も甲子夜話から間宮林蔵の話です。間宮林蔵は常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県つくばみらい市上平柳)の農家の生まれです。 続編巻之五十六 【7】 間宮林蔵 官の小吏の中に、間宮林蔵と云し者あり。予一見したく思ふこと有りて尋ぬるに、是まで値(あ)はざりき。斯人嚮(あき)に蝦夷地に事ありしとき、蝦夷の極に至り、満州の境を踰(こ)へ、清人にも接語せしと聞く。頃ろ或人に聞くに、林蔵は常陸の人にて、先年蝦...
常陸国久慈郡亀作村の農家の生まれで、江戸に出て蔵前の札差に立身出世した、「上総屋今助」こと「大久保今助」(正しくは伊麻助)の記事(甲子夜話)ですが、ここにも書かれている通り、世の中の評判は良い人・悪い人が半々と別れていたようです。ただ、静山公も実際に会っており、その人物と接し、その人物評をしています。ヤクザまがいの男が江戸で成功して大富豪となり、水戸藩に多大な献金をして勘定奉行までつとめ、水戸藩...
今回も松浦静山公の甲子夜話から拾っています。千葉県銚子は常陸国ではなく下総国でしたが、この書物ではたびたび常陸とか常州と書かれていますので、ここに加えておきます。今回はアシカ島、銚子浦(利根川河口部)の記述内容を取り上げます。現在の銚子は江戸時代の利根川東遷事業などで、現在の利根川河口に銚子漁港ができて、江戸に魚などを運ぶ水運で発展してきました。しかし最初に漁港が出来たのは「外川(とかわ)」の方で...
甲子夜話で常陸沖、銚子沖での鯨猟の異国船の話は前に紹介した。今回は常州銚子沖合はるか遠いところに在る「メッポウ島」の話を紹介します。でも実はこの島はジョン万次郎が最初に漂流して100日以上滞在してアメリカの捕鯨船に助けらえたという「鳥島」ではないかと思われるのです。先ずは甲子夜話の記事から紹介しましょう。 続編巻之七 【22】 メッポウ島 或人云ふ。近き頃、伊豆の沖なる無人島に漂流して数年在りし人...
甲子夜話に常州下館周辺(古河、関宿、小山、結城など)で、多くの寺の石塔が一夜にしてたくさん磨かれるという怪事が発生した。その原因を探ろうと見張るが、音はすれど姿は見えないうちに次々と石塔が磨かれたのであった。また続編巻之五十五には墓や塔を磨く人物がいることも載っています。千塔磨けば祈願が成就するなどという話しも各地に伝わり墓を磨いて銘字に金朱を施したりも各地であったようです。(続編巻55の1,2,5...
以前の豆知識(5)に書いたが、常陸太田藩という藩は正式には存在していないが、水戸藩家老の中山備州が高萩(松岡)から城を常陸太田に移して「常陸太田藩」と呼ばれた時期があった。これは1707年~1803年の約100年間で甲子夜話が書かれた頃は松岡に城を戻していた。しかし、この中山備州(備前守)の常陸太田での話が載っていたのでここにも記載して残しておきたいと思う。巻之10 〔23 〕 凶兆信ず可からざる事 奇...
松浦静山は水戸公とはかなり親しかったようで、甲子夜話には特に水戸光圀公(黄門)に関する記事もよく出てきます。今回は光圀が隠居して住まいとした西山荘(常陸太田)について書かれている内容を紹介したいと思います。 三篇巻之四 【1】 水戸義公西山御隠栖之事〔運河弥話〕并記 この頃(甲午四月:1835年)故ありて、水戸侯の同朋運阿弥(同朋は芸術などを将軍や藩主などに世話をする朋:運阿弥は小方運阿弥か?)に...
甲子夜話などによると常州は常陸のみではなく房総半島の先の方、北総や銚子辺りも「常州」とか「常陸」などと書かれています。この銚子沖から常陸沖には鯨の油を採る異国船がかなり頻繁に来ていた様子がわかります。ここでは常陸沖と銚子沖の異国船の話を4話載せます。なお、甲子夜話の記載は平凡社の東洋文庫の記載を採用しています。原文からはカタカナをひらがなにしたり、読みやすく訂正されていますが、原文に近くなったもの...
甲子夜話より続きます。今回は常陸太田の瑞竜町にある「旗桜寺(せいおうじ)跡の桜」が紹介されている記事です。この瑞竜町には水戸徳川家墓所(国指定史跡)があります。ここには水戸德川家の歴代当主とその夫人、一族が眠る約200基の墓が広大な敷地にあります。見学は可能ですが予約が必要です。その同じ瑞竜町にある桜の古木の話です。甲子夜話 巻之六十 【10】 旗桜寺の桜 南道和尚行脚のとき見たる迚(とて)話す。八幡...
甲子夜話に鹿島神宮及び周辺で『鹿島の七不思議』の一つと言われる「根上がりの松」の話が載っています。一般には「根上がり松」と呼ばれる松の木は、根が地表から上に出ている松で、日本各地にあります。しかし、鹿島の「根上がりの松」は違い、「鹿島山および高天原に生える松は、すべて伐り株より芽が出てくることから、幾度伐っても枯れないといわれています」と書かれています。また七不思議にはもう一つ鹿島の松が載っていま...
今回も静山公の甲子夜話より記録を残します。巻之三十五 〈23〉 ウキゝ (大魚の名) 東海のウキゝと云る魚は、未だ形を見ることも無りしが、辛亥の東覲中、長崎の宿老徳見茂四郎も東来して予が邸を訪ひ、水戸侯へ参りてこれを食したると語り。又その臣に請て真図を得たりとて示す。予即其図を写す〔小記を附す〕。ウキゝ本性の文字なし。故に献上にも仮名にて認(したため)上る也。魚の大きさ弐間四方、或は三四間余りも有り...
今回も甲子夜話から一つ抜粋します。潮来の藤の話です。三篇の終りの方ですので静山公も晩年の頃(1841年8月没)の話でしょう。三篇 巻之七十五 〔8〕 潮来曲、潮来の藤花、鹿嶋神社の藤花の事都下に云触(ふら)す。潮来曲(ぶし)と云うは、常陸国行方郡潮来村の游女が歌ふ曲(ふし)なり。又聞。此処の藤花は、殊に長ふして能く垂ると。因て一両年前、彼地に識人有て、小枝を求て園中の池畔に植置しが、稍長じて今春は盛花...
松浦静山公の甲子夜話からまた一つ巻之ニ十 〈22〉 山猫の事 故中山備州の領邑常州の太田にあり。備州一年邑に行しとき、鳥銃を持て邑中を猟あるきしが、一朝、山間の経路を上るに、向一夫の息を切(きらし)て走来るあり。近付(ちかづき)て何ごととぞと尋(たづぬ)れば、山猫跡より追来れば逃去ると云ながら走り行く。外に同行の人ありやと問へば無(なし)と答ふ。其うちはや犬より大なる猫の、毛色紫なるが牙を露(あら...
江戸時代後期に書かれた甲子夜話には松浦静山公が晩年の20年間にわたって毎日書き続けた数千にものぼる話が載っている。その中から常陸の奇妙な話が載っているので紹介しておこう。甲子夜話続編 巻之22 〔12〕 常州奇病概要は以下の通り 家の中にいると、外の通りを大きな声で何か瓦版を売りあるく者がいたので、従者に言ってその瓦版を買い求めた。そこに書かれていたのは 「常陸国の利根川に沿った谷田辺村(現つくば...
豆知識3回目は鹿島灘の塩汲みから長者となり都で貴族に出世した文正長者のお話です。鹿島灘沿いに「大野潮騒はまなす公園」という大きな公園があります。最寄り駅は少し前まで、日本で一番長い駅名としても知られた鹿島臨海鉄道「長者が浜潮騒はまなす公園前」(かな22文字)駅です。まあ、東日本のハマナスが咲く南限とも言われていますが、このすぐ鹿島灘海岸は「角折(つのおれ)」と呼ばれる地名であり、常陸国風土記にそ...
豆知識の2回目はやはり今昔物語からの豆知識です。久慈川に沿って水郡線と並行して国道118号線が上小川駅(大子の1つ手前)の少し手前で久慈川が小さく輪を書くように蛇行し、線路と国道が川を横切るように橋と鉄橋が並んでいる場所があります。このあたりは「頃藤」と呼ばれていますが、川を渡る手前の山の上に中世は頃藤城とよばれた佐竹派(小川氏)の城がありました。あまり知られていませんが、佐竹氏が南方三十三館虐殺の...
過去の文献などに記載されている常陸国にかかわる記事などから、少し気になる記事をいくつか気が付いた時にここに紹介していきたいと思います。時代は古代から近代まで、ジャンルもバラバラになりますが備忘録的に残したいものを順不同でUPしていきます。 最初は平安時代に常陸の海岸に巨人女の死体が打ちあげられた話です。常陸国風土記には那賀郡のところに、大男の伝承が書かれています。いわゆるダイダラボッチなどと云わ...
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遠州京丸(きょうまる)の牡丹(ぼたん)の話、あれは今の周智(しゅうち)郡気多(けた)村大字小俣(おまた)京丸の一部である。人の住む在所である。路が遠くて悪いのは人家の数が少なく経済力が弱いためである。たまたまその土地の名を奥山などと呼ぶために、不当な概念ができてしまった。京丸という地は多分は京往きの夫役(ふえき)を、世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろう。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 シズオカケンハママツシテンリュウ...
この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...