(地名の研究・最終回です)境の山に矢立という地名の多いのは注意する必要がある。国境の境ならずとすればすなわち荘郷の榜示(ぼうじ)の地点であろう。磐城相馬郡玉野村大字東玉野字矢立沢磐城刈田郡七ヶ宿村大字渡瀬字矢立平甲斐東山梨郡神金(かみかね)村上萩原組字矢立石対馬(つしま)佐須村大字久根田舎(くねいなか)字矢立山<矢立地名>宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立 ミヤギケンカッタグンシチカシュクマチヤタテ宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立平 ミヤギケンカッタ...
先日鹿島神宮へ行ったが、昼食時間になっていたこともあり、初めて御手洗池口へ車で向かった。この池の近くにお茶屋(一休:ひとやすみ)があり、蕎麦を出していて比較的評判が良かったので、折角ならと思い一番近いこちらの入口に行ってみたのだ。駐車場はこちらの大きな鳥居の手前に設けられていて、無料でおける。それにしても思ったよりずっと立派でこちらの入口周辺はきれいに整備され、とても気持ちが良い。調べて見るとこ...
鹿島神宮の正面から工事中の楼門の下をくぐって境内に入りました。6月ですので、正面に大きな茅の輪が置かれています。大型バスが駐車場に到着して、ぞろぞろと団体客がバスのガイドさんに案内されてやってきました。皆続々と楼門下をくぐり、茅の輪を三回くぐって、拝殿に向かわずにめのまえにある境内摂社の「高房社」に並んでお詣りし、其れから右側日本で拝殿側に向かっていきました。 あまり見向きもされていなかったと...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は10回目です。最終回です。<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京(現代語訳)(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こ...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は9回目です。<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺(現代語訳)ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。や...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は8回目です。<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり(現代語訳)多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向ったこのほとり...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は7回目です。<7> 小幡~長岡~水戸(現代語訳)この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。木の様は...
正岡子規の「水戸紀行」を読み進めていて、気になった場所を探しながら旧水戸街道の「小幡宿」にやってきました。ここは水戸から「長岡」のつぎにあたる2番目の宿場町でした。その旧宿場の通りの中ほどの大きな木の根元に石像や「聖徳太子」などと書かれた石碑が集められている場所があり、そこに「小幡城跡」の矢印看板が置かれていました。どの程度の城跡なのかはよく知りませんので、先ずは行って見ないことには・・・車で畑...
阿玉台貝塚の梅見の後、近くの「豊玉姫神社」へ。豊玉姫は竜宮城の御姫様。でも「大和邇」(ワニ)であるようなので、何故このような話が神話に出て来るのか、その話の起源はどこにあるのか。いつも不思議に感じています。また「海神(ワダツミ)」など九州を中心とした海洋信仰が、ヤマトタケル伝説と一緒になってこの銚子の内陸部に根をおろしている。何か不思議な気がしています。この豊玉姫神社は、東庄町の「東大社」と旭市...
今回銚子に行く途中で立ち寄ったのだが、一寸行かないうちにだいぶ神社の周りが明るくなった。駐車場を整備したり、遊歩道を作ったり、喫茶店なども出来て、今までのイメージとはだいぶ変わってきた。鳥居の前にあった石の看板などは拝殿近くに移されていたようだ。この鳥居の前を左に行くと次の角にあらたな喫茶店が出来ました。大きな駐車場もその先を曲がった先にできています。この境内案内板も新しくできたようだ。境内も少し...
先週の2月最後の日に千葉県香取市(小見川)の国指定史跡「阿玉台貝塚」にある梅林に立ち寄りました。ただまだ少し早かったのか?梅はもう少しと云った感じでした。また以前より梅の木も少し少ないように感じましたが・・・・これらの維持管理も大変だと思います。小見川から樹林寺を通って、阿玉台貝塚へ。何度か通り馴れた道です。道路は少し狭くなって坂を上って少し高台に行きます。貝塚がどうしてこんなに高台になどと昔は...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は6回目です。<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡(現代語訳) 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくは...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は5回目です。<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) (現代語訳)土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなど...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は4回目です。<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km(現代語訳)四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振ってい...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は3回目です。 <3> 我孫子~取手~藤代(約14km) (現代語訳)(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼ぶとめ、騒々しく嚙みつきそ...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は2回目です。 <2> 千住~松戸~小金~我孫子(約40km)(現代語訳)千住の中頃より右に曲るとは聞いていたが分かれ道がどこやら分らず、...
俳人正岡子規は学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。当時水戸までは小山経由で鉄道は開通していましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。本人たちは2人でしたので弥次喜多道中を意識しての徒歩道中の気分だったようですが、子規は体は丈夫な方ではなかったようですが...
石岡では「石岡ひな巡り」が開催されています。市内のお店や神社などにひな人形が飾られています。今回は「まちかど情報センター」さんの展示を2日前に見てきました。(今日木曜日は休みです)「雛巡り 歴史絵巻情景飾り ~空蝉 久遠のいのち~」時は春今日木曜日は街中はお休みのお店が多いです。ここ情報センターや丁子屋さんも休みです。是非石岡にお越しください。...
昨日地元石岡市内の「たかぎ書店」さんに立ち寄りました。老舗の本屋さんですが、頑張っておられます。なかなか店売りはこの書店業界も苦労されているようです。私の新潟(長岡)の親戚も大きく手を広げて書店をしておりましたが10年以上前に閉店となりました。このお店に私の作った本も以前から置かせていただいています。置かれている場所が少し前から変更され、地元関連の本がある一角に集めて展示されるようになりました。き...
今の時期に銚子を訪れると、重そうな野菜の箱をたくさん積んだトラックが、ゆっくりと前を走っていることがよくあります。荷が重いためか、スピードも上がらず、後ろの車を先に追い越させようと道端へ寄ってゆっくりと走っていたりします。銚子は「春キャベツ」が有名なのですが、このキャベツは今は峠を過ぎて、この時期は大根を運んでいるようです。集荷された箱には「さわやか大根」と書かれた文字が見えます。銚子附近の高原...
昨日は朝からまた千葉県銚子市に仕事で出掛けてきました。EXCELによる業務改善のプログラムで少しエラーがあり、検証に2~3日前から時間を使ってきました。このブログではあまり仕事のことは書きませんが、昔作成したプログラムもいくつかを統合したりして複雑になると、EXCELのバージョン改定で不具合が生じることが多々出てきます。大分これも慣れてはきたのですが、意外な落とし穴に気が付かず、見落としがあり苦労することがあ...
石岡から銚子に行くときに、神栖市を通って銚子大橋を渡り、銚子の町に入ることが最近は多くなりました。霞ヶ浦の北岸を通っていくこの道は、比較的交通量も多くなく、神栖などは拡張された広いまっすぐな道路が続きますので、時間短縮、燃費向上などになります。最近乗っている軽自動車はガソリン1リットル当たり、20~25km走ります。銚子まで片道80km強ですから 片道で4リットルくらいで済みます。ガソリン代も高くなっ...
霞ヶ浦の茨城側(北東側)の国道355号線は潮来市手前で水戸・鹿島-香取成田千葉間をつなぐ国道51号線一緒になり、香取(旧佐原)まで国道51号線と一緒になります。しかし、潮来市街にはこのまままっすぐに進むと、そこは「牛堀」となります。この牛堀も今は潮来市の一部となって居ますが、江戸時代から明治時代頃には「常州牛堀」と呼ばれた水郷地区の一部で、葛飾北斎も富岳三十六景の19番にてここからの富士山を描いてい...
銚子へ行く途中、神栖で鹿島コンビナートの高い塔から白い煙が目に入り、市内の神之池(ごうのいけ)に立ち寄ることにしました。立ち寄ると云っても街道沿いにあるので、通りからすぐに車を駐車場に停められます。この神之池は現在池の周りは緑地ベルトがめぐらされ、緑地公園となり、静かで朝からジョギングする人などが沢山います。また、市役所などの行政機関も並んでいます。神之池(ごうのいけ)の現在の面積は44万平方メー...
昨日銚子の老舗ホテルのぎょうけい館が閉鎖されていたことを書いた。(こちら)この宿には皇族、政治家や文豪など数多くの有名人が宿泊したと書かれている。特に高村光太郎が智恵子と最初に親しくなった場所というので、青空文庫で「智恵子抄」に書かれている内容を探した。一部ではあるが、見つかったので参考のため紹介しておきます。<抜粋>追憶の中の彼女をここに簡単に書きとめて置かう。 前述の通り長沼智恵子を私に紹介し...
昨日、1月半ばであったが、今年正月過ぎて初めての銚子へ出かけた。正月に前に銚子で老舗のホテル「ぎょうけい館(暁鶏館)」で前にランチを食べたことを思い出した。今もランチはやっているかな? と検索してみたら、何と昨年1月(1年前)に営業停止していた。様々な文豪たちも宿泊したという明治初めにできた老舗ホテルだが、とうとうコロナ禍最後に閉店してしまったという。たしかに建物も老朽化し、周りにいくつもホテルは...
このブログも2010年8月から8年5か月、これは今所属している「ふるさと風の会」での活動とほぼ同じです。この風の会のスタートは2006年の6月であるが、私がこの会に入会し、最初にここ会の会報に記事を書いたのは2012年11月号からです。ただ、ブログを始めた頃にはすでに、この「ふるさと風の会」は存じており、非会員として白井先生などの会員の勉強会?などに時々顔を出しておりました。会報に毎月記事を投稿する...
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今朝の日の出。 石岡市高浜地区 恋瀬川下流 「平和橋」にて今朝の筑波山...
先週喉王日に、年末最後の「ふるさと風の会」忘年会と称して、去年と同じカフェレストラン「オリーブ」さんでランチ会での忘年会をしました。勿論酒類は一切なく、レストラン特製のランチと美味しいパンケーキにコーヒーを頂き、おしゃべり会でお開きとしました。この会も十七年半ほど続いています。毎月発行していた機関誌は今年から年四回の季刊となりましたが、会員皆さん頑張って原稿を書いていただいています。それをまとめて...
先週末に銚子に行くときに神栖市波崎の鹿島灘に面した「舎利浜」を見てきました。以前にこの地も訪れていますが、この浜辺は見ていなかったので確認に行ったのです。江戸時代の滝沢(曲亭)馬琴などが調べて書き残している「うつろ舟」が漂着したと伝えられる浜辺です。この「うつろ舟」はUFOのような円盤状の形をしており、中には異国の美女が乗っていたと伝えられています。興味のある方は「うつろ舟」で検索してみてください...
八郷十三塚へ今年も遅れてやってきました。雨の後で、時間も夕方になり、日暮れ前に何とか行ってきました。12月半ばに何回か訪れていますが、今年の紅葉はもう終わりですね。また来年もこの静かな里は守られていますように!...
先日(12月7日)行方市の古刹西蓮寺の銀杏の黄葉を紹介しましたが、昨日(12/15)にまた立ち寄って写真を撮ってきました。時間は前回と同じ、午前9時頃です。前回はこの時間にも結構写真を撮られる方が4~5人ほどおられましたが、今回は誰もおりませんでした。確かに、朝方は雨が降り、どんよりとした冬の朝は写真には向きませんね。でもこの見事な銀杏の黄葉もおそらくもう今年は見納めですので、銚子への仕事で近くを通るので...
今年の紅葉も遅いとは思っていても、やはり見ておきたいので今年も出かけてきました。行方市の西連寺さんの古木「銀杏」の黄葉。毎年、少し散って、下に黄色い絨毯が出来た頃・・・・・・確か12月の7~10日頃。いつもだと、銚子に行くときに立ち寄るのだけれど、今回は行くのが少し遅くなって、散り終えてしまうかもと気になって。今朝出かけてきました。まあ、丁度いい頃合いのようです。まだ数日、今週末から来週初め頃までは...
1年で1冊の本を作ろうとして、どうにか形になりました。年内に何とか間に合いましたね。年1冊と言っても結構大変ですね。まずは風の会のネット店に出してみました。「常陸国風土記を巡る」 - 遺称地を訪ねて -A5判 292ページ+詳細地図折込14枚本体価格1200円+税ネットでは税込みで1200円送料無料販売ページ(ふるさと風販売Shop) ⇒ こちら 当アイテムの販売ページ ⇒ こちら...
最近電車に乗ることもあまりなくなった。先々週の土曜日には東京の実家(武蔵小金井)へ法事で出かけた時も車で行った。まあ平日では無ければ都会も運転は楽だ。月に数回程度出かけている銚子などは車でなければ不便でしょうがない。あと何年乗れるかわからないが・・・・・・。先週土曜日は大学時代の友人との昼飲みに東京銀座へ。前回は7月に暑気払いと称してコロナ後初会合。今回は少し早いが忘年会。東京までは高速バスを利...
全4回の公民館講座が本日終了しました。初めての講師は結構疲れました。タイトルは「常陸国の源平合戦」です。本日は、私のライフワークともなっている現地調査結果の説明でした。佐竹氏の南方三十三館仕置で実際何があったのか。残されていた物証を見ていくと何が見えてくるか・・・こんな内容です。始めて講師をさせていただきましたが、教えたり説明をするという事はかなり難しいということを痛感しました。きっと慣れてくれ...
昨日11月16日(木曜日)は、先週に続き3回目の歴史講座を行いました。1週間前に2回目を行っており、その間の3日間はまちかど情報センターで風の会の文庫展もあり、少し疲れました。昨日は天気も良く、暑いくらいで、今日は逆に雨で1日中寒い。気温の変化もありますね。だんだん体力も衰えてきます。公民館での講座内容は今回「常陸の源氏=佐竹氏」の歴史を振り返ったのですが、水戸以南の大掾氏を中心とした平氏たちと違って、...
「常陸国における源平合戦」と題して4回連続での講習会をしていますが、今週木曜日に2回目の講座を城南地区公民館で行いました。1回目に比べると少し落ち着いて周りを見ることもできたかと思いますが、まだまだですね。大変多くの方(約30名)が熱心に聞いていただきありがとうございました。平日の昼間ですので、やはり年配の方が中心ですね。男女比率は半々くらいでしょうか?しかし、八郷地区や石岡市内からの方もおり、この...
日立市をさらに南へ戻って、東海村へやってきました。ここには十三参りで有名な村松虚空蔵があります。しかし、風土記が書かれたころはまだこの虚空蔵尊はなく、後に筑波山から見て鬼門(北東=丑虎)方向に建てられたものだと理解していますので、今回は風土記の頃を考えて、風土記の遺称地として名前が挙がっている「権現山古墳」を探していってきました。このあたりにはほかにも古墳が残されていますが、これらは「那賀国造一...
多珂郡から日立市南部は「久慈郡」となる。現在、日立市の泉神社と呼ばれる比較的有名なパワースポットがある。ここが常陸国風土記の久慈郡に書かれている「密筑(みつき)の里」と呼ばれる場所だとされている。風土記には「称ふ所の高市、此より東北二里(約1km)に密筑(みつき)の里あり。村の中に浄き泉あり、俗(くにひと)、大井(おほゐ)と謂ふ。夏は冷にして、冬は温し。湧き流れて川と成る。・・・・・・・」と書か...
昨日書いた「仏の浜」については、現在どうも風土記の遺称地とは違うのではないかという意見が多くなっているようです。理由としては、① 常陸国風土記に書かれている流れからすると、「藻島の駅家」と「飽田の村」との間にあると読めそうで、これらの遺称地がそれぞれ、日立市十王町伊師北部と、日立市相田町と考えられており、この度志観音のある日立市田尻町は相田町より少しばかり南であり、位置が違っている。② この度志観...
常陸国風土記の多珂郡の記述はそれほど多くはない。多珂郡が大化の改新以降に律令制制度での国や郡を明確に区分するようになる前は、まだ多珂国とよばれており、国造(くにのみやつこ)が派遣されていた。都から4世紀中頃に、ここの国造に派遣されたのは建御狭日命(たけみさひのみこと)で出雲臣と同族の人であったという。また、この頃の多珂国は今の日立市助河の北から福島県の大熊町あたりまでと記載されている。この多珂国...
常陸国風土記には「藻島(めしま)の駅家(うまや)の東南の浜に碁石あり。色は珠玉(たま)の如し。所謂常陸の国に有る麗しき碁石は、唯、是の浜のみなり。」と書かれている。このきれいな碁石がとれる場所が現在国民宿舎として有名な「鵜の岬」の北側の海岸と考えられれている。ここ「伊師浜海岸」は江戸時代初期頃から使われている名前で、その前は「石浜」と呼ばれていたらしい。この海岸入り口には「伊師浜海水浴場」と鵜の鳥...
高萩の多珂郡衙跡である大高台遺跡より南下して(戻って)、日立市十王町伊師にある長者山官衙遺跡の場所を目指しました。ここは鵜の岬でおなじみの伊師浜の少し北側の内陸側にあります。ただ常磐線よりは浜辺(東側)です。まず、日立市十王町伊師3586の伊師町田園都市センターへ行ってみましょう。駐車できる場所としてはちょうどよいのですが、「無断駐車禁止」の大きな立て看板が置かれていました。ここに国指定史跡「長者山...
年内に常陸国風土記の本をまとめをしたいため、茨城県の東北部にあたる「多珂郡」の遺称地を訪ねて行ってきました。この辺りはあまり散策したことがないため、ナビの助けを借りて車で下道を走り、高萩までいきました。ここに多珂郡の郡衙が置かれていたようです。石岡から約80kmほどを2時間半くらいで到着。高速を使わなかったので少し時間はかかりました。常陸国風土記には、「成務天皇(景行天皇の後代で4世紀中頃?)の時...
ふるさと風の会で、常陸国風土記に書かれている遺称地巡りの2回目として10月12日に行方地域の東南部を回った。生形地域も結構広く、多くの遺称地巡りもネットに公開されているものも多いが、ほとんどが玉造から小高地方くらいまでで、この東南側の北浦方面が抜け落ちている。前回大生神社などを紹介しているが、今回紹介するのは、相鹿の里と丘前の宮である。相鹿は後の10世紀前半の辞書「和名類聚抄」に「逢鹿郷(あふか...
潮来市内の辻地区に、江戸時代の国学者「宮本茶村」の墓がある。いつも潮来に来てもあまりこちら方面までは足を延ばさないが、久しぶりに行ってみたいと思い訪ねた。 この辻地区はいろいろ探索してみたい地区で、結構古くから歴史がありそうな地区である。頼朝が鹿島神宮に祈願文を書いたときに使った硯を奉納した「硯宮神社」や二十三夜尊堂、愛友酒造などがあり、古墳も残されている。この宮本茶村は江戸時代の学者で、延方郷...
潮来の熱田神社の次はそのまま北上して大生神社へ。ここは鹿島神宮の元社などともよばれるが、鹿島神宮より古いという訳でもない。鹿島神宮に祀られているのは「武甕槌(たけみかづち)大神」だが、常陸国風土記に出てくる「建借間命(たけかしまのみこと)」がこの地を制したことから、一族がこの大生地方に住み着き、ここに「建借間命(たけかしまのみこと)」を最初に祀った。そして、後に、鹿島神宮に「武甕槌(たけみかづち...
常陸国風土記の遺称地巡り第2回目として、先日あまり訪れない場所を巡ったが、その中に潮来市の郊外にある「熱田神社」を訪れた。この神社は、常陸国風土記には書かれた記述はないが、ヤマトタケル伝説が残る神社だ。県道50号線と潮来市辻あたりから大生神社をつなぐ街道との交差点付近にある。この交差点は立体交差で、県道50号がこの神社の下を通る。神社の詳細はむかしこのブログにも書いたので今回は省略する。(前回記事:...
千葉県東庄町では、今も天保水滸伝を看板に掲げた施設なども多くみられます。今ではこの講談・浪曲や歌謡曲などを知る方もめっぴり減ったように思います。私も最初に訪れた時には、江戸時代のヤクザ同士の争いなどとあまり興味もなかったのですが、次第に興味を覚えるようになりました。歌謡曲でも田畑義男の「大利根月夜」や三波春夫の「大利根無情」などで歌われた大利根河原の決闘場所もこの東庄町です。もちろんこれらの歌も...
昔、千葉県の九十九里浜の内陸側に「椿の海(太田ノ胡水とも呼ばれた)」大きな内海がありました。江戸時代になり、この内海を埋め立てて、広大な農地を作り、「干潟八万石」とまで言われるほどの農地が出現したのです。私が千葉県側をよく散策するようになり、それまで茨城県側からのみ古代、中世の歴史などを見てきたのですが、こちらの千葉県九十九里浜方面からの人の流れが見えるようになると、それまでの歴史観も変わってき...
昨日は「ふるさと風の会」のメンバーで第2回常陸国風土記の遺称地を巡るとして、行方地方の2回目を行いました。前回7月に行ったのですが、予定の40%くらいが回り切れず、今回その残りの場所訪問でした。メンバーは6人。2台の車に分乗して朝9時に石岡を出発しました。途中昼食に選んだのは、「らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ」という行方市宇崎にある施設です。白浜少年自然の家に近い場所で、廃校になった小学校を利...
先月の末頃に、石岡から上曽峠を越えて、(桜川市)真壁町に行ってきました。もうだいぶたってしまったのですが、FBでご連絡をいただき、急遽ご招待を受けて人に会いに出かけたのです。伝正寺前の旧旅館「桜井館」を改装しリニューアルの「見晴らしの丘 真壁 うり坊」という施設でした。私が丁度10年前にこのブログに書いた下記の記事を読んでご連絡いただいたものです。 真壁散歩(6)伝正寺 ⇒ こちらこの時に寺も、こちら...
茨城県行方市の行方・小高地区あたりはどうも周りの行政区のはざまにあって今の行政組織ではどうも忘れ去られている感が強いと感じる。佐竹氏の南方三十三館の皆殺し(仕置き)で、この地に居を構えていた行方四頭の長男「小高氏」は消滅してしまった。その後ここに佐竹派の重鎮「大山氏」が移り住み、常陸太田から佐竹氏が建てた寺「常光院」を移し、歴代の佐竹氏の墓も移した。しかし、佐竹氏はすぐに出羽(秋田)へ配置替えと...
常陸国風土記の遺称地を巡ってみようと、ふるさと風の会で7月半ばに行方地方を巡りました。しかし、予定していたところの60%くらいしか回れませんでした。そのため残された地区を第2回目として10月に回る計画を立てました。道が不安な箇所もあり、昨日、確認のため、一度一回りしてみました。1,国神神社(行方市行方)行方郵便局の信号の少し先の道を斜めに戻るように曲がった方が広くて間違わない。また国神神社から畑の...
今週初めに真壁に行った。人に会うためであったが、時間的に少し早かったので、久しぶりに国指定史跡である「真壁城跡」に立ち寄った。石岡からは上曽峠を越えて中世の真壁氏の氏寺である五所駒瀧神社側に下り、真壁の町に入った。現在この上曽峠はトンネルの工事中で、先日石岡側と真壁側がつながり開通式が行われた。まだ道路の整備や、トンネル内の整備などに時間はかかるため道路の開通はまだ先で2025年度になるという。...
7月初旬に「ふるさと風の会」で、勉強中の「常陸国風土記」の現地見学の第1回目を実施した。風土記に書かれた内容が最も多く残されている「行方郡」の遺称地を全部回ろうと考えたが、朝9時から夕方の5時頃までにまわれた範囲は予定の半分くらいしか回れなかった。そこで、回ることが出来なかった小高、麻生、大生、相賀、古高、藝都の里などを来月にまた回ろうと考えています。実際に食事の時間や、往復の移動時間を考えると...
常陸国風土記を読んでいると、この行方(なめかた)地方に興味が行く。何故ならこの昔には茨城の中心はこの行方あたりにあったのではないかとさえ思えるからだ。現在残されている常陸国風土記はすべて写本であり、記述も「総記」部分以外は「行方郡」だけが省略なしで、他の郡はすべてが残されていない。また一切記述が残されていない郡もある。また、この行方郡という郡名「なめかた」は、読み方についても変わっていて、意味合...
「石岡のおまつり」が無事終了し、やっと静かになった。今年は年番町になり、動くに動けず、千葉にいる息子夫婦と孫娘が中日にやってきたが、車で家にたどり着くのに狭い道に苦労したようだ。祭りは3日間とも正式には午後からなので、着いた日(2日目)は町中の祭りを見学して、夜に八郷温泉「ゆりの郷」へ行った。祭り見物も時間が遅くなり、ゆりの郷に着いたのは夜の7時20分頃。7時から少し料金が安くなるが、この日はた...
今年の「石岡のおまつり」が昨日までの3日間(9/16~9/18)行われた。ここ数年はコロナにより自粛されたり、雨天に悩まされたりしてきたが、今年は久しぶりに雨も降らず、晴天に恵まれ祭りはにぎわった。また年番が「若松町」で、私の住む地区であり、連日多くの人出が出ていた。しかも、町の主な道路は午後1時から夜9時まで交通止めとなり、我が家から出ようにも車だと細い道を迂回しながら回っていくしかない。まあそれでも盛...
行方市の小高地方を少し散策しています。まあ、今日(午後)から地元石岡ではお祭りが3日間はじまります。今年は私がいる若松町が年番で、近所は賑わいを見せております。でも祭りネタは別な方に任せて、私は誰も訪れないようなところをひたすら探しながら記事を書いていきましょう。小高小学校も2012年に廃校となり、麻生小学校へ吸収合併となりました。その跡地を昨日眺めてきました。側鷹神社のすぐ隣にまだ、昔の姿で残って...
今年は暑かったですね。でもこれもあと1週間くらいの辛抱でしょうか?夏の暑さに閉口してブログも更新が思うように進みません。今朝は少し起きるのが遅かったせいかもしれませんが、朝焼けは見られませんでした。こちらは9月11日(月)朝5時半頃に、我が家から見た朝焼けです。また、今年も夕方に空一面が茜色に染まった日が何日かありました。うまく写真を撮れる場所にいなかったので、今日も茜色に染まったと頭上の空を眺めて...
行方市旧麻生町)小高に「小高のカヤ」と呼ばれる大きなカヤの木が残されています。県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。この台地には昔小高小学校があったそうです。この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移...
もうだいぶ前に小高地方を歩いて記事を書いたが、その時に訪れていなかった(小高山)不動院に行ってみた。すぐ近くだが少し奥まった感じの通りの曲がり角にあった。少し高台に鳥居のある神社と並んで、不動院があり、入り口に説明板が置かれていた。しかし、字が薄れてしまってあまりよく読むことが出来ないが、ここに安置されている2体の小さな仏像(市指定文化財)の説明であった。こちらは市のHPより転載させていただこう。1...
国道355号線を、昨日紹介した「橋門の八坂神社」から左に曲がって、常光院の方に少し進んだ左側に小さな社が置かれています。あまり、ここを通る人は地元の方でないと、気にもせずに前を素通りしていくと思います。今から十数年前にこの社を見つけた時はそれほど感じることもなかったと思いますが、その後常陸大掾氏や佐竹氏の南方三十三館仕置き事件をいろいろ知る中で、忘れられない記憶としてこの観音様が残っているのです。1...
今から10年近く前に、行方市の小高地区を「小高散歩」として6か所ほど紹介しています。今年になって、常陸国風土記の遺称地などを巡る機会も増え、7月に行方地方も一度訪れましたが、時間の関係で予定の半分くらいしか訪れることが出来ませんでした。これを、また少し涼しくなってから再訪問したいと考えていますが、気になる場所を少しずつ調べなおしたりしています。この行方市の「小高地区」はそれほど広いわけでもなく、今は...
今年の春にある依頼がありました。地域に眠る歴史の掘り起こしなどで、今までに小冊子を35,6冊作成したりしてきました。また「ふるさと風」会報への記事も継続して書いており、知らぬ間に「郷土史家」などと言われることもあり、少し面食らっています。歴史などの文系科目は苦手でそんなに好きではないのに・・・・・今まで仕事にしてきた内容とは全く縁のないぶんやなのです。ただ、何かを残すということに少なからぬ魅力を見出...
公園の大きな木の下にテーブルと長椅子があり、夏の暑い日差しを避けて、弁当をひろげた。孫たちと食べたおにぎりはやはりおいしい。この長椅子に寝転んで、見上げたカツラの葉の形はハート形できれいだ。急にどこか遠い日のなつかしさが蘇ってきた。でも、それもどこだかよく思い出せない・・・・・もしかしたら記憶違いかもしれないな~。そしてそっと目を閉じる。優しい風が汗ばんだ頬をそっとなでる。目をそっと開けると、こ...
私は、団塊の世代真っただ中に生まれた。生まれは新潟県だがすぐに横浜に越して、小学校に入った。そして2年生からは東京郊外の都営住宅に大学初めまでいた。その頃は皆同じような暮らしをしている人も多く、そこから努力もみな同じ。私の周りは似たような家族に囲まれていたように思う。家を持つことはまた夢のようであったのだろう。両親の苦労もまた計り知れない。お盆で両親の墓のある東京郊外の多摩湖に近い墓に、私の子供...
17日の坂東市の県立自然博物館に続いて、翌18日は孫たちを連れてつくばのエキスポセンターへプラネタリウムを見に行ってきました。つくば万博の時に施設を一部残してこのエキスポセンターが出来ましたが、最初の頃に数回行ったきりで最近は行っていなかったのです。でも昔とあまり変わらない感じでした。メインはやはりプラネタリウムで、その他は科学技術の展示というよりは、子供たちに科学に興味を持ってもらいたいという...
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(地名の研究・最終回です)境の山に矢立という地名の多いのは注意する必要がある。国境の境ならずとすればすなわち荘郷の榜示(ぼうじ)の地点であろう。磐城相馬郡玉野村大字東玉野字矢立沢磐城刈田郡七ヶ宿村大字渡瀬字矢立平甲斐東山梨郡神金(かみかね)村上萩原組字矢立石対馬(つしま)佐須村大字久根田舎(くねいなか)字矢立山<矢立地名>宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立 ミヤギケンカッタグンシチカシュクマチヤタテ宮城県刈田郡七ヶ宿町矢立平 ミヤギケンカッタ...
遠州京丸(きょうまる)の牡丹(ぼたん)の話、あれは今の周智(しゅうち)郡気多(けた)村大字小俣(おまた)京丸の一部である。人の住む在所である。路が遠くて悪いのは人家の数が少なく経済力が弱いためである。たまたまその土地の名を奥山などと呼ぶために、不当な概念ができてしまった。京丸という地は多分は京往きの夫役(ふえき)を、世襲的に勤めていた者の屋敷給田の地であろう。静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸 シズオカケンハママツシテンリュウ...
この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
先日鹿島神宮へ行ったが、昼食時間になっていたこともあり、初めて御手洗池口へ車で向かった。この池の近くにお茶屋(一休:ひとやすみ)があり、蕎麦を出していて比較的評判が良かったので、折角ならと思い一番近いこちらの入口に行ってみたのだ。駐車場はこちらの大きな鳥居の手前に設けられていて、無料でおける。それにしても思ったよりずっと立派でこちらの入口周辺はきれいに整備され、とても気持ちが良い。調べて見るとこ...
鹿島神宮の正面から工事中の楼門の下をくぐって境内に入りました。6月ですので、正面に大きな茅の輪が置かれています。大型バスが駐車場に到着して、ぞろぞろと団体客がバスのガイドさんに案内されてやってきました。皆続々と楼門下をくぐり、茅の輪を三回くぐって、拝殿に向かわずにめのまえにある境内摂社の「高房社」に並んでお詣りし、其れから右側日本で拝殿側に向かっていきました。 あまり見向きもされていなかったと...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...