桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...
ふるさと風の会では昨年に常陸国風土記を読み、行方地方を中心に2回に分けてまわりました。今年春に、鹿島地方を巡って見ようと計画しています。行先の候補として1)芭蕉の月見の寺(仏頂禅師)大儀寺2)白鳥の里 白鳥山大光寺 照明院3)沼尾神社4)坂戸神社5)鹿島神宮6)郡衙跡(神野向遺跡)7)跡宮8)一の鳥居(西)大船津9)息栖神社などを考えて居ます。上記には風土記と関係のない場所もありますが、折角行くのでしたらな...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は10回目です。最終回です。<10> 4月6日大洗 ~ 4月7日 帰京(現代語訳)(四月)六日 曇り、多駄八と共に宿屋を出て今日は大洗に行こ...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は9回目です。<9> 水戸散策(2)偕楽園周辺(現代語訳)ふりかへり見ながら通り過ぎて行くと、一株の枝垂桜(しだれざくら)があった。や...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は8回目です。<8> 水戸散策(1)弘道館・水戸城跡まわり(現代語訳)多駄八と共にくたびれ足をひきずりながら城の方へと向ったこのほとり...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は7回目です。<7> 小幡~長岡~水戸(現代語訳)この辺の街道は松繩手(松並木)にあらずして路の両側に桜の木が植えられている。木の様は...
正岡子規の「水戸紀行」を読み進めていて、気になった場所を探しながら旧水戸街道の「小幡宿」にやってきました。ここは水戸から「長岡」のつぎにあたる2番目の宿場町でした。その旧宿場の通りの中ほどの大きな木の根元に石像や「聖徳太子」などと書かれた石碑が集められている場所があり、そこに「小幡城跡」の矢印看板が置かれていました。どの程度の城跡なのかはよく知りませんので、先ずは行って見ないことには・・・車で畑...
阿玉台貝塚の梅見の後、近くの「豊玉姫神社」へ。豊玉姫は竜宮城の御姫様。でも「大和邇」(ワニ)であるようなので、何故このような話が神話に出て来るのか、その話の起源はどこにあるのか。いつも不思議に感じています。また「海神(ワダツミ)」など九州を中心とした海洋信仰が、ヤマトタケル伝説と一緒になってこの銚子の内陸部に根をおろしている。何か不思議な気がしています。この豊玉姫神社は、東庄町の「東大社」と旭市...
今回銚子に行く途中で立ち寄ったのだが、一寸行かないうちにだいぶ神社の周りが明るくなった。駐車場を整備したり、遊歩道を作ったり、喫茶店なども出来て、今までのイメージとはだいぶ変わってきた。鳥居の前にあった石の看板などは拝殿近くに移されていたようだ。この鳥居の前を左に行くと次の角にあらたな喫茶店が出来ました。大きな駐車場もその先を曲がった先にできています。この境内案内板も新しくできたようだ。境内も少し...
先週の2月最後の日に千葉県香取市(小見川)の国指定史跡「阿玉台貝塚」にある梅林に立ち寄りました。ただまだ少し早かったのか?梅はもう少しと云った感じでした。また以前より梅の木も少し少ないように感じましたが・・・・これらの維持管理も大変だと思います。小見川から樹林寺を通って、阿玉台貝塚へ。何度か通り馴れた道です。道路は少し狭くなって坂を上って少し高台に行きます。貝塚がどうしてこんなに高台になどと昔は...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は6回目です。<6> 石岡(府中)~竹原~片倉~小幡(現代語訳) 石岡は醤油の名所なり 萬屋は石岡中の第一等の旅店なり さまて美しくは...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は5回目です。<5> 土浦~中貫~稲吉~石岡(約15km) (現代語訳)土浦の町は街道の一筋道ではなく、あっちへ曲がり、こっちへ曲がりなど...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は4回目です。<4> 藤代~牛久~荒川沖~中村~土浦 約23km(現代語訳)四日(4月4日)朝起き出でゝ見れば小雨がしよぼしよぼと振ってい...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は3回目です。 <3> 我孫子~取手~藤代(約14km) (現代語訳)(我孫子宿では)両側の宿屋の下女が人を呼ぶとめ、騒々しく嚙みつきそ...
この「水戸紀行を巡る」のブログは、明治22年4月に正岡子規が水戸街道(110kmあまり)を歩いた紀行文「水戸紀行」を紐解きながら、当時の街道や町の様子などを想像してみようとするものです。数回に分けてブログにUPしようと思います。 1回目から読むには ⇒ こちらから今回は2回目です。 <2> 千住~松戸~小金~我孫子(約40km)(現代語訳)千住の中頃より右に曲るとは聞いていたが分かれ道がどこやら分らず、...
俳人正岡子規は学生であった明治22年4月3日から7日にかけて、第一高等中学校(現東大)の友人と2人で同学年の親友であった水戸の菊池謙二郎氏を訪ねて旅行をしています。当時水戸までは小山経由で鉄道は開通していましたが、本郷の常盤會寄宿舎から水戸まで3日間かけて水戸街道を歩いて旅行しました。本人たちは2人でしたので弥次喜多道中を意識しての徒歩道中の気分だったようですが、子規は体は丈夫な方ではなかったようですが...
常陸国風土記を紐解き、関係のありそうな所を調べながら記事にしています。今回は行方郡の最後に記述されている大生の里にある古社「大生(おおう)神社」を紹介します。ここを最初の訪れたのは2014年でした。 今から9年近く前になります。いろいろなサイトで「元鹿島」といわれるとの紹介があり訪れてみたのです。当時の記事から少し引用します。元鹿島といわれる大生神社は、鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少...
事務所に置いたままになっている鉢植えのシクラメン。今年で6回目の冬を越えました。健気でかわいらしいが、手入れも殆んどしないずぼらな主人で少し可哀相になる。去年の夏は葉っぱを総て枯らして水を数ヶ月絶った。秋になって水をあげたが、年明けて蕾だった花も3月になってやっと咲いてきた。リンなどの栄養素もわずかに差した。殺風景な場所だけど、日当たりは結構いいんだよね。後数ヶ月きっと咲いてくれそうだ。ありがとう...
大生の里には元鹿島と呼ばれる大生神社があります。私も今までに数回訪れているのですが、まともにこの鹿島神宮の「元」の意味を紐解いたことが有りません。何しろ、鹿島神宮の創建よりこちらの大生神社は大分後に創建されているのですから、「元」という」意味が理解できずにいます。まずはこの大生原といわれる大地の上に広がる大生古墳群を見てみましょう。築造されたのは古墳時代中期と言いますので、大体5世紀頃と言います...
大生の郷については、常陸国風土記の行方郡最後に「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり・・・」と出てくるだけで、相鹿の里と大生の里は合体しているような書き方がされています。又説明も倭武の天皇(ヤマトタケルの命)が相鹿の丘前の宮にいたときに、飯を炊いた建屋を浦浜に建てたので「大炊(おほひ)」から「大生の村」という名前になったという謂れしか紹介されていません。そのため、角川の...
常陸国風土記の行方郡の最後に、「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘...
昨日書いた行方郡の田の里にある鹿島神宮と関係の深かったという(小牧)鉾神社を紹介しましたが、この神社のある台地に南側に普門寺(天台宗)というお寺が、この神社の別当であるというので、そちらも確認して来ました。山の麓に立っていますが、台地の上からは竹林で道は確認できませんでした。この寺の上には中世に砦があったようです。下の道から回っていきました。寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。...
先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の...
常陸国風土記の行方郡に「芸都(きつ)の里」という場所が書かれています。前に書いた当麻(たぎま)の里のすぐ後、「此れより以南に芸都(きつ)の里あり。古、国栖、名は寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)と謂ふ二人有りき。其の寸津毘古、天皇の幸に当り、命に違ひ、化(おもむけ)に背きて、甚く粛敬无(な)かりき。爰(ここ)に御剣を抽(ぬ)きて、登時(すなはち)斬り滅(ころ)したまひき。是に、寸津毘売、...
この角折の浜についても今まで何回か書いてきたが、いろいろ調べていくと知らない話しも出てきて面白い。1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づ...
この記事は以前書いたものの再話ですが、こちらにも少し変えて残しておきます。常陸国風土記の香島郡の記述「郡の北三十里に、白鳥(しろとり)の里あり。古老の曰へらく、伊久米の天皇の世に、白鳥有り。天より飛び来たり、僮女(をとめ)と化為りて、夕に上り朝に下る。石を摘(ひろ)ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒(いたづら)に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。僮女等、 白鳥の 羽が 堤を つつ...
さて、常陸国風土記も一般によく引用やお話しに扱われる話も結構ありますが、全く無視されている箇所もたくさんあります。まあ、ここでは余り説明も殆んど無い箇所を主に取り扱っていますが。昨年くらいから、この江戸時代にUFOか? とか 養蚕伝承との関係は? とか 瀧澤馬琴の話し 新分や展示会などいろいろ取り上げられています。どこまでが本当にあった話なのかはここでは検証はしませんが、常陸国風土記に書かれている...
常陸国風土記の香島郡については、先日「香島の天の大神」や郡家跡(神向遺跡)などを紹介しました。今回は、このさらに南部について書かれている辺りを散策して来ました。まず、香島郡の成立については、西暦649年に下総国の軽野の南側の1里(さと)と那珂国の寒田より北の5里を割いて、香島の神の郡を設けたと書かれています。この軽野という地名は現在神栖市の神之池(ごうのいけ)の南部に軽野という地名があります。小...
常陸国風土記の行方郡の後半に、気になる記述があった。「郡の南二十里(約10km)に、香澄の里あり。・・・・・・・・此の郷(霞の郷)より以西の海の中の北の洲を新治の洲と謂う。・・・・・・・・此れより往南十里(約5km)に板来の村あり。近く海浜に臨みて、駅家を安置けり。此を板来の駅と謂う。その西、榎木、林を成せり。飛鳥の浄見原の天皇の世(天武天皇と持統天皇2台代)、麻続王(をみのみこ)を遣らひて居処らし...
常陸国風土記の行方郡の後半の記述に現鉾田市あたりの事が書かれている。「都より東北十五里に当麻(たぎま)の郷(さと)あり。古老の曰へらく、倭武の天皇(ヤマトタケル)、巡り行でまして、此の郷を過ぎたまふに、佐伯、名は鳥日子(とりひこ)と曰ふもの有り。其の命に逆ひしに縁りて、随便ち(すなはち)略殺したまひき。即(すなは)ち、屋形野の帳の宮に幸(いでま)ししに、車駕の経るところの道狭く地深浅しかりき。悪...
常陸国風土記の行方郡。ここまで、現原の丘、鴨の宮と書いて来ましたが、この鴨野の北として書かれている場所を見てみましょう。 「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」とあります。でもこの記述について、あ...
前にもここで鴨の宮調査は終ってしまっているので、今回はもう一度チャレンジと言うわけで、GOOGL地図を広げた。するとそこには「鴨之宮神社」なる場所が地図に載っていた。最近のGOOGLE地図は誰かがこうして登録してくれたりする。以前、私が銚子で「天狗湯」探しを下記事を書いたが、その後この場所がGOOGLE地図に書き込まれていた。私は登録した覚えも無いので誰かが登録しているのだろう。さて、地図には載っていたが、探す...
元あったという鴨の宮は江戸時代末期に存在した玉造郷校の跡地から東に250mくらいの場所にあると聞いていたので、まずは江戸時代に水戸藩の大山守をしていたという県指定有形文化財となっている「大塲(おおば)家住宅」へ。なかなか手入れも行き届いていて梅の花もきれいに咲いていた。見学は申し込みが必要なのか? 門は開いてない。この大塲家の裏山に戦国時代末期まで玉造城があり、城は1591年に佐竹氏により滅ぼされたが...
常陸国風土記の行方郡では、「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」その後、地元の人が鴨野の場所にお宮を建て祀ってきたという。しかし、昭和2年に鹿島参宮鉄道は玉造駅までできていたが、玉造...
常陸国風土記は現在完全な物はなく、全て省略本でしかない。その中で「行方郡」は、今残されている写本で「不略之=略かず」と注記されている唯一の郡になる(総記も短いが省かれていない)。そのため、結構細かなことまでを詳細に記述がされている。恐らく、他の郡も同じように省かれる前は、細かなところまで記述されていたのではないかと考えても不思議儀ではない。また、この行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に...
親鸞聖人の幽霊退治話で知られた茨城県鉾田市にある「無量寿寺」が火災にあったのは2021年1月21日。今から約2年前だ。このニュースを聞いたとき大変驚いたが、その後ここを訪れる機会もなくそのままになってしまった。昨日、この近くまでより道できたので、ついでに足を伸ばしてみた。鉾田手前で巴川沿いに川に沿って上流へ向かう。暫くして見覚えのある無量寺の前に出た。手前にある駐車場に車を止めた。寺の入口には「茨城百...