・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
2025年5月
・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
柳田國男の「地名の研究」を読んでいます。ここまで、「地名の話」(大正元年)「地名と地理」(昭和7年)「地名の歴史」(昭和9年)に刊行された講義録のようなものを見てきましたが、この地名の研究にはその他に「地名考設」という明治22年~昭和2年の書かれたものを55項目にわたってまとめて載せてあります。ここでは、書かれた内容を大雑把に要約し、検証も含めて記載してみたいと思います。<地名考説(1~7)>平民生...
NHK朝ドラ「あんぱん」では四国高知県の「御免予町」が舞台となっていますが、高知駅の少し手前に「後免駅」があり、後免町がモデルと考えられます。この後免町(ごめんまち)の町名由来をこの地名の研究から探ってみます。柳田國男の地名研究と同じように、まず同じ名前の地名を全国から探して見ます。今の郵便番号簿から拾ってみましょう。1)「後免」で探すとここ1件だけです。 高知県南国市後免町 コウチケンナンコクシゴメンマチ2...
最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ている。「あんぱんまん」も年代としてはもう子供の世代という感じで、それ程インパクトや想い入れも無いのだが、テレビに映る映像に懐かしい気がして見入てしまうこともしばしば。のぶの女子師範学校時代が終わったが、この高知県の師範学校の校舎は地元「土浦一校」の旧校舎だ。見ていてすぐにわかった。この校舎は実によく使われる。 以前書いたブログ ⇒ こちらまた、今度赴任する御免与...
地名と歴史(7)14、交通の変遷 県下交通の変遷に関しても、地名はかなり豊富な資料を包含しているらしいが、自分は時間が足りなくて、その点までは書き抜くことができなかった。一つ二つ気のついた点をいうと、この地方だけに多く出逢うゴウドという地名は古い。美濃の川渡(ごうど)などは大往還の駅であって、すでに『太平記』以前から知られている。尾張・三河のものはすべてが官道の上にあるわけでもないが、その数が非常に多...
昨日銚子へまt仕事で出掛け、終わったのは夕方5時半前頃。そこから石岡へ車で帰る時、利根川の千葉県側の堤防沿いにできた356号のバイパス道を通りました。夕方6時半ごろが今の時期の日の入り。正面から夕陽を受けながら、右手は利根川の土手、左手は田植えがされたばかりの水田地帯。やはりサングラスが必要かな?これから夏至に向かって日没方向は少しづつ北に向かう。銚子からも利根川上流に陽が沈む。(写真撮影場所の...
地名と歴史(6)11、我々の小地名は新旧が交錯しているために、全部一度にできたかのごとき感を抱くが、生活上の必要もないものを、拵(こしら)えておく人はなかったろう。田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはりアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、なにか問題となって注意していた者が多く、有名になっていたから踏襲したのであろう。小さい事ではあるが、これによら...
地名と歴史(5)9、<焼畑、切替畑>(山間部の地名)・九州・四国:コバツクリ、コバキリ・関東四周の山地:サス(武蔵・相模)、ソリ(ソラス:荒らす)、焼畑が行われ、それを元の地形に戻すに適する区域を、甲州などは何々草里(そうり)といい、駿河・遠江ではゾウレ(蔵連など)といい、土地によっては単にソともいう。・クサ:豊根振草(とよねふりくさ)などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切...
地名と歴史(4)<畠作の地名>水田に続いて畠作の歴史があるが、まだいっこう調べられていない。常畠の開け始めた土地は、やはりいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。そのため水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、地形語が地名となる機会は多かった。・コウゲ:中国全部と四国の片端にかけて、水のない草生地の地名(村が山から遠くに独立するとき、肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却)・カッ...
地名と歴史(3)6、フケ、フゴ、クゴ、アワラ、ドブ、クテ、トンボ、タンボ:変化する地名 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを窺(うかが)い知ることができる。フケは泓とか湗とかいう漢字をあてて、クテよりははるかに広く使われる地形名である。京都でも富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入...
地名と歴史(2)4、地名は普通にはまず地形によって附ける。それが間に合わなくなって他の材料を加味して行くのである。たとえば、アイヌなどは狩猟が中心で耕作がほとんど進まず、農地など居住以外の目的で土地を区割して占有することがほとんどないため、地名は場所さえ記憶でき、かつ他人とその話ができればよい。従って地名には具体的にその土地の性質を指示するものを選び、誰が聞いてもその意味を捉えやすいものとなる。これ...
柳田國男の書いた「地名の研究」を紐解いています。ここからは「地名と歴史」というタイトルで愛知教育という雑誌に昭和9年7月に発表した記事です。明治の初期に全国で大字・字を選定する事業があり、多くの字名が誕生しました。ここには古くからの地名や新たに追加した地名もたくさん混じっています。愛知県では明治15年に「愛知県地名調」という冊子を印刷し頒布していたようです。このため、この「地名と歴史」もこの活用...
地名の研究(14) 地名と地理(10) 人文地理と地名の研究
地名と地理(10)人文地理と地名の研究 以前私などの学校にいた頃にも、人文地理なる名の学問はあるにはあったが、ただ統計の要約であり、現状の記述に止まっていた。しかし、一たび訝(いぶか)り問わんとするようになって、学問それ自身がかなり煩悶をしたようである。大地の表面は隅から隅まで、人類去来の足跡であり、無名の彫塑(ちょうそ)家の篦(へら)の痕(あと)であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至...
地名と地理(9)地形語 東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人が住むには不向きと思われるが、実際はかなり古い部落や耕地の地名となっているものが無数ある。農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠(よ)る所がある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。それが平和...
地名と地理(8)地名発生の変遷 地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて区々(まちまち)なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。地名の起りには限らず、物の名前が必要となるのは、指でさし顎でしゃくっ...
地名と地理(7)地名の分類 地名発生の理由には前に書いたように明白なる時代の変化があった。今でも新たに利用地名を作る場合がないとは言われないが、永く伝えてくれる望みは乏しい。その地にすでに地名があり、細かく区割した地域地名があり、新たに割り込んで行く余地がなくなっている。だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを除いて、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったと思わ...
地名と地理(6) 新開拓地と地名1) 地名が定着して一時代を過ぎて、戦争などで住民が離散し、それまでの多くの地名が消えた。2) 再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたが、この時につけられた地名は・以前からの故老が少しでも残っていた場合はできるだけ在来のものを利用した。・それがまったく忘却された地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示...
潮来に来ると古刹「長勝寺」に立ち寄ることが多い。桜の時期、新緑の時、菩提樹の花の時期、紫陽花、紅葉とそれぞれに境内は美しい。「山門不幸」と立て板が建てられている。3月末に亡くなられた前住職の「谷元明さん」が90歳でお亡くなりになったようだ。禅寺であるこの長勝寺もいろいろ観光客にも開放していつもきれいに管理されているのも谷住職のお陰でもあろうかと思う。ご冥福をお祈りいたします。新緑に交じって「紫蘭:...
地名と地理(5) 地名と人の苗字 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。・これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風...
五月一日、行方市井上にある古刹「西蓮寺」(常陸高野)を訪れました。新緑に包まれた境内には誰もおらず、心地よい風が吹いていました。千年銀杏の黄葉も見事ですが、この時期の新緑も気持ちよいです。...
地名と地理(4) 点地名から地域地名へ <アイヌの地名>アイヌの地名解は永田方正氏の一著があり、またバチェラア師辞書の旧版の附録にも若干の講説があって、今日ではまず十の八九までおおよそは意味が明らかになったと言ってよい。そのお蔭に今では内地の地名まで、よくわかっているのにアイヌ化しようと努める人さえできて来た。あほらしい話である。アイヌ人地名のわかりやすい理由は明白で、彼等の名の付け方は一色しかな...
五月の初日に銚子へ行く途中に潮来で藤まつりがたしか四月末にやっていたことを思い出して立ち寄りました。まつりは過ぎて、次のアヤメ祭りで観光潮来は頭が一杯でしょうが、潮来の藤も長く房が垂れ下がることが江戸時代に書かれた「甲子夜話」にも出てきていたので、復活されたら4月から6月までの潮来観光にもう一つの目玉が出来るかと期待していたのだが・・・・昨年の方がきれいだったような。アヤメの準備だけでも大変だろ...
地名と地理(3) 東西南北の地名の一致 日本の地名研究のまた一つの大きな特徴は、東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすいことである。これは一つの中心地から四方に向って、前後何回かの移民が分散して行った国でないと、見ることのできない現象であって、これあるがために我々は純然たる帰納法によって、地名ばかりからでも多くの前代生活を闡明(せんめい)することを得るのである。いずれの国で...
地名と地理(2) 日本の地名の特色 日本における地名研究が他の民族のそれに比べて、何ほどの特色があるのか。これは将来この仕事を始めて見ようという人には小さくない関心事であり、私はそれが確かに張合いのある研究だという結論をもっている。○ 地名の分量が多く、その変化が盛んである。この国に生まれて、これを当り前のように思っているが、日本はきわめて多種な地質的変化があり、他の国よりも多くの地名がある。道府...
2025年5月
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柳田國男の「地名の研究」を読んでいます。ここまで、「地名の話」(大正元年)「地名と地理」(昭和7年)「地名の歴史」(昭和9年)に刊行された講義録のようなものを見てきましたが、この地名の研究にはその他に「地名考設」という明治22年~昭和2年の書かれたものを55項目にわたってまとめて載せてあります。ここでは、書かれた内容を大雑把に要約し、検証も含めて記載してみたいと思います。<地名考説(1~7)>平民生...
NHK朝ドラ「あんぱん」では四国高知県の「御免予町」が舞台となっていますが、高知駅の少し手前に「後免駅」があり、後免町がモデルと考えられます。この後免町(ごめんまち)の町名由来をこの地名の研究から探ってみます。柳田國男の地名研究と同じように、まず同じ名前の地名を全国から探して見ます。今の郵便番号簿から拾ってみましょう。1)「後免」で探すとここ1件だけです。 高知県南国市後免町 コウチケンナンコクシゴメンマチ2...
最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ている。「あんぱんまん」も年代としてはもう子供の世代という感じで、それ程インパクトや想い入れも無いのだが、テレビに映る映像に懐かしい気がして見入てしまうこともしばしば。のぶの女子師範学校時代が終わったが、この高知県の師範学校の校舎は地元「土浦一校」の旧校舎だ。見ていてすぐにわかった。この校舎は実によく使われる。 以前書いたブログ ⇒ こちらまた、今度赴任する御免与...
地名と歴史(7)14、交通の変遷 県下交通の変遷に関しても、地名はかなり豊富な資料を包含しているらしいが、自分は時間が足りなくて、その点までは書き抜くことができなかった。一つ二つ気のついた点をいうと、この地方だけに多く出逢うゴウドという地名は古い。美濃の川渡(ごうど)などは大往還の駅であって、すでに『太平記』以前から知られている。尾張・三河のものはすべてが官道の上にあるわけでもないが、その数が非常に多...
昨日銚子へまt仕事で出掛け、終わったのは夕方5時半前頃。そこから石岡へ車で帰る時、利根川の千葉県側の堤防沿いにできた356号のバイパス道を通りました。夕方6時半ごろが今の時期の日の入り。正面から夕陽を受けながら、右手は利根川の土手、左手は田植えがされたばかりの水田地帯。やはりサングラスが必要かな?これから夏至に向かって日没方向は少しづつ北に向かう。銚子からも利根川上流に陽が沈む。(写真撮影場所の...
地名と歴史(6)11、我々の小地名は新旧が交錯しているために、全部一度にできたかのごとき感を抱くが、生活上の必要もないものを、拵(こしら)えておく人はなかったろう。田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはりアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、なにか問題となって注意していた者が多く、有名になっていたから踏襲したのであろう。小さい事ではあるが、これによら...
地名と歴史(5)9、<焼畑、切替畑>(山間部の地名)・九州・四国:コバツクリ、コバキリ・関東四周の山地:サス(武蔵・相模)、ソリ(ソラス:荒らす)、焼畑が行われ、それを元の地形に戻すに適する区域を、甲州などは何々草里(そうり)といい、駿河・遠江ではゾウレ(蔵連など)といい、土地によっては単にソともいう。・クサ:豊根振草(とよねふりくさ)などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切...
地名と歴史(4)<畠作の地名>水田に続いて畠作の歴史があるが、まだいっこう調べられていない。常畠の開け始めた土地は、やはりいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。そのため水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、地形語が地名となる機会は多かった。・コウゲ:中国全部と四国の片端にかけて、水のない草生地の地名(村が山から遠くに独立するとき、肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却)・カッ...
地名と歴史(3)6、フケ、フゴ、クゴ、アワラ、ドブ、クテ、トンボ、タンボ:変化する地名 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを窺(うかが)い知ることができる。フケは泓とか湗とかいう漢字をあてて、クテよりははるかに広く使われる地形名である。京都でも富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入...
地名と歴史(2)4、地名は普通にはまず地形によって附ける。それが間に合わなくなって他の材料を加味して行くのである。たとえば、アイヌなどは狩猟が中心で耕作がほとんど進まず、農地など居住以外の目的で土地を区割して占有することがほとんどないため、地名は場所さえ記憶でき、かつ他人とその話ができればよい。従って地名には具体的にその土地の性質を指示するものを選び、誰が聞いてもその意味を捉えやすいものとなる。これ...
柳田國男の書いた「地名の研究」を紐解いています。ここからは「地名と歴史」というタイトルで愛知教育という雑誌に昭和9年7月に発表した記事です。明治の初期に全国で大字・字を選定する事業があり、多くの字名が誕生しました。ここには古くからの地名や新たに追加した地名もたくさん混じっています。愛知県では明治15年に「愛知県地名調」という冊子を印刷し頒布していたようです。このため、この「地名と歴史」もこの活用...
地名と地理(10)人文地理と地名の研究 以前私などの学校にいた頃にも、人文地理なる名の学問はあるにはあったが、ただ統計の要約であり、現状の記述に止まっていた。しかし、一たび訝(いぶか)り問わんとするようになって、学問それ自身がかなり煩悶をしたようである。大地の表面は隅から隅まで、人類去来の足跡であり、無名の彫塑(ちょうそ)家の篦(へら)の痕(あと)であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至...
地名と地理(9)地形語 東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人が住むには不向きと思われるが、実際はかなり古い部落や耕地の地名となっているものが無数ある。農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠(よ)る所がある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。それが平和...
地名と地理(8)地名発生の変遷 地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて区々(まちまち)なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。地名の起りには限らず、物の名前が必要となるのは、指でさし顎でしゃくっ...
地名と地理(7)地名の分類 地名発生の理由には前に書いたように明白なる時代の変化があった。今でも新たに利用地名を作る場合がないとは言われないが、永く伝えてくれる望みは乏しい。その地にすでに地名があり、細かく区割した地域地名があり、新たに割り込んで行く余地がなくなっている。だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを除いて、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったと思わ...
地名と地理(6) 新開拓地と地名1) 地名が定着して一時代を過ぎて、戦争などで住民が離散し、それまでの多くの地名が消えた。2) 再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたが、この時につけられた地名は・以前からの故老が少しでも残っていた場合はできるだけ在来のものを利用した。・それがまったく忘却された地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示...
潮来に来ると古刹「長勝寺」に立ち寄ることが多い。桜の時期、新緑の時、菩提樹の花の時期、紫陽花、紅葉とそれぞれに境内は美しい。「山門不幸」と立て板が建てられている。3月末に亡くなられた前住職の「谷元明さん」が90歳でお亡くなりになったようだ。禅寺であるこの長勝寺もいろいろ観光客にも開放していつもきれいに管理されているのも谷住職のお陰でもあろうかと思う。ご冥福をお祈りいたします。新緑に交じって「紫蘭:...
地名と地理(5) 地名と人の苗字 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。・これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風...
五月一日、行方市井上にある古刹「西蓮寺」(常陸高野)を訪れました。新緑に包まれた境内には誰もおらず、心地よい風が吹いていました。千年銀杏の黄葉も見事ですが、この時期の新緑も気持ちよいです。...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...
桜もだいぶ咲き始めました。今朝、市内の国府公園にいってみました。桜ももうだいぶ咲いています。桜と考える人?彫刻またスズランもきれいです。オオアラセイトウ(紫ハナナ、紫金草、花ダイコン)...
芭蕉たちが鹿島に来て何か所かで句を詠んでいますが、私が訪れたことがある句碑が置かれている場所を書いておきたいと思います。書かれている句は次の5か所に分類されています。1)仏頂和尚の庵にてをり/\にかはらぬ空の月かげも ちヾのながめは雲のまに/\ 和尚月はやし梢は雨を持ながら 桃青 (根本寺)寺に寝てまこと顔なる月見哉 同 (大儀寺)雨に寝て竹起かへるつきみかな 曾...
仏頂和尚について今回は芭蕉が禅の師と仰ぐ、鹿島の仏頂和尚(禅師)について、あまり知られていませんので紹介しておきたいと思います。仏頂和尚(仏頂河南)は寛永19年(1642)2月18日鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家(平山家)に生まれました。芭蕉より2歳年上です。 (仏頂和尚像:根本寺蔵) (大儀寺の仏頂和尚石像)白鳥村の名前は常陸国風土記の香島郡に登場する「白鳥(しらとり...
(解説) 松尾芭蕉は伊賀上野の生まれですが、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。小田原町は慶長年間の僅かな期間存在した地名ですが、その後本小田原町となり、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年(1680年)まで8年間を過ごしています。しかし日本橋の芭蕉宅には寿貞という身の回りを世話してくれる妾と、伊賀...
芭蕉の鹿島紀行を巡る(はじめに) 松尾芭蕉は貞享四年(1687)八月の中秋の名月の日に、二人の門人と共に鹿島地方を月見に訪れました。これは江戸深川の芭蕉庵にいた時に知り合った仏頂和尚からの誘いを受けたものでした。仏頂和尚は当時鹿島の根本寺(こんぽんじ)の住職をしており、鹿島神宮との間で寺領争いがあり寺社奉行に訴えるために、江戸深川の臨川院という草庵にいました。仏頂和尚は、根本寺の寺領訴訟に天和2年(168...
桜の開花は進まないけど、日が照って暖かくなると気持ちも豊かに・・・・ かすみがうら市に用事があり朝早く行ってきました。四万騎農園の栗の木の幼木畑には一面の菜の花がきれいに咲いていました。毎年のことだけどやはり春を感じますね。部屋に鉢植えシクラメンもほったらかしでも毎年遅咲きでも花を咲かせてくれます。やっと満開になりました。事務所入り口の花も、取り除かずにおいたらどんどん出しゃばり・・・・・でも可愛...
常陸大宮市東野(とうの)にある真宗大谷派の法専寺で教えて頂いた元山伏弁円こ「明法房」が葬られたとされる墓所へ。頂いた地図で、元の通り側に戻って法専寺の裏山の向こう側に車で向かいました。地図もあるし大丈夫と思っていたのですが、入口の曲道を通り越して、大回りしてまたもとへ帰って来て見つかりました。通りからの曲がり道に何か案内でもあればいいのですが、何もなかったので見過ごしてしまいました。分って見れば...
昨日の続きです。親鸞の弟子二十四輩の第十九番目が 山伏弁円こと「明法房」です。昨日は真宗本願寺派の「上宮寺(じょうぐうじ)」を紹介しましたが、今日は真宗大谷派の「法専寺(ほうせんじ)」を紹介します。このお寺は常陸大宮市東野(とうの)地区にある寺で、山伏弁円が最初にこの地で修験場を開いた場所です。弁円の素性ははっきりしないとされていますが、ここでは平清盛の孫と云われています。正確には清盛と時子の長...
本ブログも数年前に常陸国と親鸞聖人の足跡などを辿って、記事にもし、また本にもまとめました。しかし、24輩の弟子の残した寺などは特に辿っているわけではありませんでした。ただ、最近見落としている寺などが気になり、特に石岡に暮らしていると大覚寺に伝わる山伏弁円などをもう少し詳しく調べて見たくなりました。思い立つとその残された寺や墓などと云うところに行ってみなければならないという気持に襲われ、昨日3月16日...
3日ほど前だが、案風の強かった日に銚子へ出かけていたのだが、ランチ後に少しの時間で何処か梅見によいところは?と調べて見たが、銚子市内ではあまりヒットしない。それでも「梅と浄国寺」の写真が出て来た。このお寺は確か「芭蕉と一茶の句碑」があったはずで、昔訪れたことがあった。街中から近いし、小雨でもあるので立ち寄ってみることにした。浄土宗の寺院だが、なかなか趣のあるお寺である。境内のお堂と梅のコラボレー...