この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
五反田に古墳との関係をする話があるが、これには同意できない。やはり五反を一区とする田地のあったゆえの地名である。<五反田地名>宮城県登米市豊里町五反田 ミヤギケントメシトヨサトチョウゴタンダ宮城県遠田郡涌谷町北五反田 ミヤギケントオダグンワクヤチョウキタゴタンダ宮城県遠田郡涌谷町五反田 ミヤギケントオダグンワクヤチョウゴタンダ福島県伊達市梁川町五反田 フクシマケンダテシヤナガワマチゴタンダ福島県河沼郡会津坂下町五反田 フクシマケンカワヌマグンアイヅバンゲマチゴタンダ茨城県かすみがう...
・一鍬田(ひとくわた)、一窪田: 田を開きにくい地域内に、孤立して存する小面積の田のことであろう。下記2か所の「一鍬田」にはどのような地名の共通点があるのだろうか?・千葉県香取郡多古町一鍬田 チバケンカトリグンタコマチヒトクワダ・愛知県新城市一鍬田 アイチケンシンシロシヒトクワダまた、小字名に・出雲能義(のぎ)郡飯梨村大字植田字西谷字一鍬田がある。ここは場所の特定が小地であるので地形と対照することは容易と考えて考察す...
・ソリ、ソウリ、ゾレ: 焼畑のこと横浜市神奈川区に「反町」があり、今は「タンマチ」と訓じているが、諸国にある反町は「ソリマチ」と読む地が多く在る。<反町 地名>・反:ソリ福島県喜多方市塩川町反町 フクシマケンキタカタシシオカワマチソリチョウ福島県本宮市本宮反町 フクシマケンモトミヤシモトミヤソリマチ栃木県宇都宮市下反町町 トチギケンウツノミヤシシモソリマチチョウ栃木県真岡市反町 トチギケンモオカシソリマチ栃木県矢板市川崎反町 トチギケンヤイタシカワサキソリマチ群馬県太田市新田反町町 グンマケン...
・玉来(タマライ): 狩猟の集合所人の集合する所を溜(たまり)といい、熊本県では「り」をもって終る連体格の動詞を、ライと昔風に延べて言う風があると記憶する。豊後の玉来も同じ火山の麓だから集合の意味で附せられた一つのタマライであるべく、なおおそらくはこれもまた「狩溜ライ」であろう。大分県竹田市玉来 オオイタケンタケタシタマライ「狩集」は薩摩においては「カラズマイ」と呼び、他の国では常のごとく「カリアツマリ」という。...
・教良石、教良木:このキョウラは「清らかな」意ではないだろうか。「清ら石」「清ら木」であろう。すなわち霊石または霊木のある地でその石その木を神明の依る所として祭祀を営んだ場所と考える。<キョウラ 地名>山梨県北杜市白州町上教来石 ヤマナシケンホクトシハクシュウチョウカミキョウライシ山梨県北杜市白州町下教来石 ヤマナシケンホクトシハクシュウチョウシモキョウライシ和歌山県伊都郡かつらぎ町教良寺 ワカヤマケンイトグンカツラギチョウキョウラジ福岡県北九州市八幡西区京良城町 フクオカケ...
・魚ノ棚:棚とは店のことで、魚の棚は魚商人が毎日または日を決めて魚の店を出した場所広島県廿日市市宮島町(魚之棚町) ヒロシマケンハツカイチシミヤジマチョウ(ウオノタナチョウ)愛媛県宇和島市吉田町魚棚 エヒメケンウワジマシヨシダチョウウオタナ鹿児島県大島郡大和村大棚 カゴシマケンオオシマグンヤマトソンオオダナ京都府京都市下京区下魚棚 キョウトフキョウトシシモギョウクシモウオノタナ京都府京都市中京区小結棚町 キョウトフキョウトシナカギョウクコムスビダナチョウ京都府京都市中京区衣棚町 キョウトフキョウトシナカギョウクコ...
・ハンタテバ、ハンバ(飯立場、飯場):ハンはおそらくは判が正しいので、訴訟示談等によって境論を決着した場合のことであろうと思うこの地名は信州その他の山地の小字として折々あったように記憶する。またハンバというも同じ由来を有するものかと思うが、文字はまちまちで、飯場または飯立場と書いたものが最も多い。これとは別にこの飯場については述べている。この「飯場」(ハンバ)などという名前は、前の地名の研究(18)...
・アテラ(安寺、阿寺): アテラのアテは陰地または日陰の義、ラはもと名詞を確定するための一種の語尾ではないか。大工がアテというのは樹木の日陰に向った側面で生長悪く木質の素直でない、反(そ)りやすき部分であるという。ある村では痩地(やせち)の作物に適せぬ所をアテといい、あの畑はアテだからいかぬなどというという。アテラという地は、山の陰、日光の十分でない地にある。また、安寺跡という地名も山中の新田にしばし...
地名の研究(31) 地名考説(21) アクツ、アクト、アクタ
・アクツ、アクト、アクタ: 川添の平地(阿久津、圷、悪田)「阿久津」(アクツ)という地名は水運の発達に伴い、荷を下ろす船着場に多く存在もしているが、各地の分布を調べると、必ずしも「津=船着場」とは限らない。これは東国では単に川沿いの平地をさす言葉と云える。常陸ではこれを「圷(アクツ)」と書くが、これは「塙(ハナワ)」という語と同様に、近世和製の会意文字であろう。 水戸市渡里町に、旧地名で渡里(わたり...
・ナル、ナロ:山腹の傾斜の比較的緩やかなる地、平らな地。東国にては何の平(たいら)と言い、九州南部ではハエと呼ぶ地形を中国・四国ではすべてナルといっている。<ナル、ナロ、奈良地名>兵庫県美方郡香美町村岡区池ケ平 ヒョウゴケンミカタグンカミチョウムラオカクイケガナル伊予周桑郡小松町大字新屋敷字堂ガ平(なる)丹波氷上郡鴨庄村大字牧字大岩ガ平(なる)伯耆東伯郡北谷村字詰平(つめがなる)但馬美方郡村岡町大字板仕野(いたしの)字平ル淡路津名...
・コウゲ、カガ、カヌカ:開けたる草生地のこと東京人が単にハラまたはクサッパラと呼んでいる地形を、中国諸県では古くから、コウゲといっている。また、このコウゲ(草地)を東北地方では「カガ」という地名となっている。芝原、芝生を「カガハラ」「カヌカハラ」という。鹿糠(カヌカ)もコウゲと同様の意味を持つ土地。<高下(こうげ)地名>兵庫県宍粟市山崎町高下 ヒョウゴケンシソウシヤマサキチョウコウゲ岡山県津山市椿高下 オカヤマケンツヤマシツバキ...
・強羅(ごうら):岩石の露出している小面積を意味し、耕作その他の土地利用から除外しなければならない場所相模足柄下郡宮城野村字強羅相模足柄上郡三保村大字中川字ゴウラ飛騨吉城(よしき)郡国府村大字宮地字ゴウラ越前坂井郡本郷村大字大谷字強楽丹波氷上郡上久下(かみくげ)村大字畑内字中ゴラ備前赤磐(あかいわ)郡軽部村大字東軽部字ゴウラ周防玖珂(くが)郡高根村大字大原字ゴウラ谷大隅(おおすみ)姶良(あいら)郡牧園村大字下...
・富土、風戸(ふと、ふっと):ホド(陰部)と同じかなり古くから、男女ともにおのおのその隠し所の名を高い声で呼んでいたらしい。その痕跡を留めている地名のごときは、よほど起原の古いものと見てよろしいのである。これも海岸において往々遭遇するフトまたはフットと言う地名は、疑いもなくホドすなわち陰部と同じ語である。海岸に沿うて漕ぎ廻る船から見れば、二つの丘陵の尾崎が併行して海に突き出している所あたかも二俣大...
・袋(ふくろ):平地の水辺につけられた地名「フクラ」が海岸線や山の中の水辺にあって、この「フクロ」は平地の水辺に多く在るので、語源は恐らく別であろう。ただ、肥前平戸の西方には江袋湾と言う入江があり、これは「フクラ」地形と同じに見える。<全国の袋地名>北海道砂川市袋地 ホッカイドウスナガワシフクロチ北海道石狩郡新篠津村袋達布 ホッカイドウイシカリグンシンシノツムラフクロタップ青森県弘前市清野袋 アオモリケンヒロサキシセイノフクロ青森県弘前市袋町 アオモリケンヒロ...
・福良(ふくら):海岸線の湾曲している形状我国の海岸線にもっとも多い地名は「由良(ゆら)」「女良(めら)」「福良(ふくら)」の3つがあるが、この中で「ふくら」は「膨(ふく)れる」と語源は一緒であろう。ただし、このフクラ地名には海岸線とは関係がない山の中にも結構ある。しかし、平地にはほとんどないので、山地においては水筋の屈曲していることを表現する語となったのかあるいはまた狭い谷を入って行って地勢が再びやや寛(...
地名の研究(24) 地名考説(14) 湿地を意味するアイヌ語
・湿地を意味するアイヌ語:トマム・トマン・ニト・ニタトトマム・トマン・・・沼、沼地ニト:濡れて腐りたるニタト:沼地に樹の生じたる部分ヤチ :沼沢マカ:開く、開けたる + ト:湖水 ⇒ マカド(間門)<どうまん地名>武蔵都筑郡二俣川村大字二俣川字榛(はり)ヶ谷小字ドウマン谷武蔵北足立郡美谷本村大字内谷字大野小字堂満武蔵入間郡柳瀬村大字坂下字道満前相模愛甲郡依知村大字下依知字堂満坂磐城相馬郡金房村大字小谷...
・江角(えすみ、えずみ):出づるもの・・・ではないか? 出雲(いづも)も同様か?出雲八束(やつか)郡恵曇(えとも)村大字江角(えずみ)浦この江角は郡名の恵曇(えとも)村の曇(とも)は安曇(あずみ)の「ずみ」であり、江角(えずみ)となった。ただこれはアイヌ語と係わりがあったと考えられる。北海道には室蘭の東南に「エドモ(絵鞆崎又は江友)と名のつくアイヌ部落が存在する。江戸時代の元禄郷帳には「エンドモ」と記載が...
・真間(ママ):間々は儘(まま)にて、土が心の儘に崩るる所(十六夜日記残月抄) 『万葉集』に勝鹿(かつしか)の真間(まま)の入江、または麻万(まま)の浦と出て来るママは市川市真間であろうか。ママという地名は東部日本に充満している。「間々田」や「大間々」などいくらでもある。土の崩れる崖をママという。上総・信濃では土堤のことをママという。その説明には崩れるということはないが、高地の側面をママということだけは前...
・ドブ、ウキ:排水不十分なる足入(あしいり)の地東京では下水堀のことをドブというが、これは明らかに転用であって、以前は阿原と同じく排水不十分なる足入(あしいり)の地のことである。この地名の普及したのは、まったくドブが水稲の栽培に通ずるという経済上の意義があるからである。また、ドブは昔の語ではウキである。諸国にある浮田という地名は、すなわちまた武蔵などの土浮耕地である。総てがこれとは限らないが、一つ一つ...
・阿原(あわら):昔は池や沼であった所の水が減り後に開拓した所。また、陸地の上昇、川床の下降などで、まだ排水が不十分な地、関東では「谷地(やち)」などと呼んでいる場所と同類の地。アワラの「ア」が「ヤ」と混同したのではないか? 「あわら」は近世に水が「あせた」所?蘆原なども似たようなものであるかもしれない。アワラは中部地方、ヤチは東北地方に集中している。<全国の「あわら・あはら」(阿原)地名>富山県高...
・帷子(かたびら):一方山に拠(よ)り一方は田野を控えている=片平地形古代稲作中心の生活には、必ず水田の近き所に邑落を作ることを要とした。そしてできる限り水の害を避けるため、近く平野に臨める丘陵の傾斜地、すなわち片平の地を求めねばならなかったのである。また、大小名主の時代には、さらに軍事上の理由が片平を重要ならしめた。たくさんの帷子は皆当て字であることは、さして推測に困難ではないが、なお十分に地図に...
・久木<クキ、クノキ>:燃料採取地を意味する地名1)各地のたくさんある「クキ」「クニ」などの地名 久木、久喜、久木野村、久木迫(くきさこ)、釘山(くぎやま)、柴島(くにしま)、岫崎(くきざき)、 久弐(くに)郷、玖珂(くが)郡、柞原(くはら)郷、樟原(くにぎはら)、欅崎(くのきさき) 久原(くはら)・久沢(くさわ)・久谷(くたに)・久土(くど)・久場(くば)・久平(くのひら)これらはみな「柴・薪」などの燃料にする...
柳田國男の「地名の研究」を読んでいます。ここまで、「地名の話」(大正元年)「地名と地理」(昭和7年)「地名の歴史」(昭和9年)に刊行された講義録のようなものを見てきましたが、この地名の研究にはその他に「地名考設」という明治22年~昭和2年の書かれたものを55項目にわたってまとめて載せてあります。ここでは、書かれた内容を大雑把に要約し、検証も含めて記載してみたいと思います。<地名考説(1~7)>平民生...
NHK朝ドラ「あんぱん」では四国高知県の「御免予町」が舞台となっていますが、高知駅の少し手前に「後免駅」があり、後免町がモデルと考えられます。この後免町(ごめんまち)の町名由来をこの地名の研究から探ってみます。柳田國男の地名研究と同じように、まず同じ名前の地名を全国から探して見ます。今の郵便番号簿から拾ってみましょう。1)「後免」で探すとここ1件だけです。 高知県南国市後免町 コウチケンナンコクシゴメンマチ2...
最近、NHKの朝ドラ「あんぱん」を見ている。「あんぱんまん」も年代としてはもう子供の世代という感じで、それ程インパクトや想い入れも無いのだが、テレビに映る映像に懐かしい気がして見入てしまうこともしばしば。のぶの女子師範学校時代が終わったが、この高知県の師範学校の校舎は地元「土浦一校」の旧校舎だ。見ていてすぐにわかった。この校舎は実によく使われる。 以前書いたブログ ⇒ こちらまた、今度赴任する御免与...
地名と歴史(7)14、交通の変遷 県下交通の変遷に関しても、地名はかなり豊富な資料を包含しているらしいが、自分は時間が足りなくて、その点までは書き抜くことができなかった。一つ二つ気のついた点をいうと、この地方だけに多く出逢うゴウドという地名は古い。美濃の川渡(ごうど)などは大往還の駅であって、すでに『太平記』以前から知られている。尾張・三河のものはすべてが官道の上にあるわけでもないが、その数が非常に多...
昨日銚子へまt仕事で出掛け、終わったのは夕方5時半前頃。そこから石岡へ車で帰る時、利根川の千葉県側の堤防沿いにできた356号のバイパス道を通りました。夕方6時半ごろが今の時期の日の入り。正面から夕陽を受けながら、右手は利根川の土手、左手は田植えがされたばかりの水田地帯。やはりサングラスが必要かな?これから夏至に向かって日没方向は少しづつ北に向かう。銚子からも利根川上流に陽が沈む。(写真撮影場所の...
地名と歴史(6)11、我々の小地名は新旧が交錯しているために、全部一度にできたかのごとき感を抱くが、生活上の必要もないものを、拵(こしら)えておく人はなかったろう。田畠や村里の名に、何野・何沼という類の古名が残っているのも、やはりアテラやオチと同様に、それを開発しようというある年月日の前から、なにか問題となって注意していた者が多く、有名になっていたから踏襲したのであろう。小さい事ではあるが、これによら...
地名と歴史(5)9、<焼畑、切替畑>(山間部の地名)・九州・四国:コバツクリ、コバキリ・関東四周の山地:サス(武蔵・相模)、ソリ(ソラス:荒らす)、焼畑が行われ、それを元の地形に戻すに適する区域を、甲州などは何々草里(そうり)といい、駿河・遠江ではゾウレ(蔵連など)といい、土地によっては単にソともいう。・クサ:豊根振草(とよねふりくさ)などのクサという地名が、同じ地方には折々あるようだが、これも多分は切...
地名と歴史(4)<畠作の地名>水田に続いて畠作の歴史があるが、まだいっこう調べられていない。常畠の開け始めた土地は、やはりいろいろの条件に恵まれていなければならなかった。そのため水田適地に次いで人が早くからこれに注意を払い、地形語が地名となる機会は多かった。・コウゲ:中国全部と四国の片端にかけて、水のない草生地の地名(村が山から遠くに独立するとき、肥料の補給によって、切替畑の利用法から脱却)・カッ...
地名と歴史(3)6、フケ、フゴ、クゴ、アワラ、ドブ、クテ、トンボ、タンボ:変化する地名 ただしクテと同じであろうと思う水づいた低地を、フケといいフゴまたはクゴといい、あるいはアワラともドブともいう人のいたことは、地名によってこれを窺(うかが)い知ることができる。フケは泓とか湗とかいう漢字をあてて、クテよりははるかに広く使われる地形名である。京都でも富家と書いた地名がよく知られており、関東の方でも足の入...
地名と歴史(2)4、地名は普通にはまず地形によって附ける。それが間に合わなくなって他の材料を加味して行くのである。たとえば、アイヌなどは狩猟が中心で耕作がほとんど進まず、農地など居住以外の目的で土地を区割して占有することがほとんどないため、地名は場所さえ記憶でき、かつ他人とその話ができればよい。従って地名には具体的にその土地の性質を指示するものを選び、誰が聞いてもその意味を捉えやすいものとなる。これ...
柳田國男の書いた「地名の研究」を紐解いています。ここからは「地名と歴史」というタイトルで愛知教育という雑誌に昭和9年7月に発表した記事です。明治の初期に全国で大字・字を選定する事業があり、多くの字名が誕生しました。ここには古くからの地名や新たに追加した地名もたくさん混じっています。愛知県では明治15年に「愛知県地名調」という冊子を印刷し頒布していたようです。このため、この「地名と歴史」もこの活用...
地名の研究(14) 地名と地理(10) 人文地理と地名の研究
地名と地理(10)人文地理と地名の研究 以前私などの学校にいた頃にも、人文地理なる名の学問はあるにはあったが、ただ統計の要約であり、現状の記述に止まっていた。しかし、一たび訝(いぶか)り問わんとするようになって、学問それ自身がかなり煩悶をしたようである。大地の表面は隅から隅まで、人類去来の足跡であり、無名の彫塑(ちょうそ)家の篦(へら)の痕(あと)であるはずだが、それがどういう順序と計劃の下に行われたかに至...
地名と地理(9)地形語 東国奥羽において沢といい、西南日本において谷というなどは、ともにその字義から見ると天然の力ばかり強く人が住むには不向きと思われるが、実際はかなり古い部落や耕地の地名となっているものが無数ある。農作は当初自然の水流を利用するために、好んで傾斜のある山添いを利用し、しかも背後に拠(よ)る所がある最小の盆地を求めたゆえに、上代の植民は常に川上に向って進む傾向をもっていた。それが平和...
地名と地理(8)地名発生の変遷 地名の必要には三期があって、一期ごとに若干の新命名は出現したが、人はその煩労を節約すべく、毎回必ず若干の旧地名を採択保存することを心掛けたのである。その結果としてある一つの時代の横断面には、新旧年齢のきわめて区々(まちまち)なる、命名の趣旨の最も著しく相異した地名が、入り組んで頭を出しているのである。地名の起りには限らず、物の名前が必要となるのは、指でさし顎でしゃくっ...
地名と地理(7)地名の分類 地名発生の理由には前に書いたように明白なる時代の変化があった。今でも新たに利用地名を作る場合がないとは言われないが、永く伝えてくれる望みは乏しい。その地にすでに地名があり、細かく区割した地域地名があり、新たに割り込んで行く余地がなくなっている。だからこれからの分類には、まずやや命名の趣旨の複雑に見えるものを除いて、人がその地域を占有してしまう以前から、すでにあったと思わ...
地名と地理(6) 新開拓地と地名1) 地名が定着して一時代を過ぎて、戦争などで住民が離散し、それまでの多くの地名が消えた。2) 再び平和な土着期に戻って、その荒地が改めて開拓せられたが、この時につけられた地名は・以前からの故老が少しでも残っていた場合はできるだけ在来のものを利用した。・それがまったく忘却された地域にあって、始めて近世風の命名を試みている。この新開地の地名にも、相変らず時代と慣行とを表示...
潮来に来ると古刹「長勝寺」に立ち寄ることが多い。桜の時期、新緑の時、菩提樹の花の時期、紫陽花、紅葉とそれぞれに境内は美しい。「山門不幸」と立て板が建てられている。3月末に亡くなられた前住職の「谷元明さん」が90歳でお亡くなりになったようだ。禅寺であるこの長勝寺もいろいろ観光客にも開放していつもきれいに管理されているのも谷住職のお陰でもあろうかと思う。ご冥福をお祈りいたします。新緑に交じって「紫蘭:...
地名と地理(5) 地名と人の苗字 今一つの特殊なる興味は、日本の地名と我々の家名との関係であった。日本人のいわゆる苗字は全国を通じてその数が何万の多きに及ぶのだが、面白いことにはその中のごく一小部分五十か六十のものが最も普通であって、それを名のる家の数も多く、かつ万遍なく各府県に行き渡っており、残る大部分はいずれも地方的にわずかずつかたまっている。・これを自分等は家が居住地の地名によって呼ばれる風...
五月一日、行方市井上にある古刹「西蓮寺」(常陸高野)を訪れました。新緑に包まれた境内には誰もおらず、心地よい風が吹いていました。千年銀杏の黄葉も見事ですが、この時期の新緑も気持ちよいです。...
地名と地理(4) 点地名から地域地名へ <アイヌの地名>アイヌの地名解は永田方正氏の一著があり、またバチェラア師辞書の旧版の附録にも若干の講説があって、今日ではまず十の八九までおおよそは意味が明らかになったと言ってよい。そのお蔭に今では内地の地名まで、よくわかっているのにアイヌ化しようと努める人さえできて来た。あほらしい話である。アイヌ人地名のわかりやすい理由は明白で、彼等の名の付け方は一色しかな...
五月の初日に銚子へ行く途中に潮来で藤まつりがたしか四月末にやっていたことを思い出して立ち寄りました。まつりは過ぎて、次のアヤメ祭りで観光潮来は頭が一杯でしょうが、潮来の藤も長く房が垂れ下がることが江戸時代に書かれた「甲子夜話」にも出てきていたので、復活されたら4月から6月までの潮来観光にもう一つの目玉が出来るかと期待していたのだが・・・・昨年の方がきれいだったような。アヤメの準備だけでも大変だろ...
地名と地理(3) 東西南北の地名の一致 日本の地名研究のまた一つの大きな特徴は、東西南北の一致がきわめて顕著であって、その発生の通則が見つけやすいことである。これは一つの中心地から四方に向って、前後何回かの移民が分散して行った国でないと、見ることのできない現象であって、これあるがために我々は純然たる帰納法によって、地名ばかりからでも多くの前代生活を闡明(せんめい)することを得るのである。いずれの国で...
地名と地理(2) 日本の地名の特色 日本における地名研究が他の民族のそれに比べて、何ほどの特色があるのか。これは将来この仕事を始めて見ようという人には小さくない関心事であり、私はそれが確かに張合いのある研究だという結論をもっている。○ 地名の分量が多く、その変化が盛んである。この国に生まれて、これを当り前のように思っているが、日本はきわめて多種な地質的変化があり、他の国よりも多くの地名がある。道府...
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この「鉦打(かねうち)」地名は、以前鉦打(かねうち)部落の住んでいたためにできたものと思う。下総の三ヶ尾(現千葉県野田市)のことは前にも話が出ている(柳田、念仏団体の変遷、郷土研究二巻二号)がこれらの土地の現状はいかん。常陸筑波(つくば)郡鹿島村大字古川字鉦打下総猿島(さしま)郡弓馬田(ゆまだ)村大字弓田(ゆだ)字鐘打下総香取郡古城村大字鏑木(かぶらぎ)字蟹打台(かにうちだい)下総印旛(いんば)郡公津(こうづ)村大...
「ハマイバ」という地名は、奥州から中国にわたって無数にある。「破魔射場」と漢字でかいた地名だけ挙げて見るが、<破魔地名>常陸多賀郡黒前(くろさき)村大字黒坂字破魔射場(はまいば)三河八名(やな)郡七郷村大字名号(みょうごう)字破魔射場伊勢鈴鹿(すずか)郡関町大字新所字破魔射場同 同 亀山町大字亀山東町字破魔弓場(ゆみば)美作(みまさか)真庭(まにわ)郡美和村大字樫東字鳴ノ殖(うえ)小字破魔場石見(いわみ)美濃郡豊田...
これも諸国の山村に数多いトツラまたはツツラという地名は、前に挙げた多々良とは何の関係もないらしい。自分はこの小名ある地のしばしば谷川の岸であることと、東北ではもっぱらトツラといい中央部から西ではツツラばかり多いのを見て、二者はともに藤その他の蔓(つる)類を意味し、その地名の発生した事由は、単にこの植物の多くある所というところだけではなく、これを採取して最も利用する作業、すなわち筏(いかだ)を組むわざに...
東西の各府県にわたって「タタラ」という地名があって、とりわけ山中に多い。久しく、この地名を「タタラ製鉄」由来としてすべてを語るのは、いかに砂鉄の分布でもおおよそ限りのあるものであろうから、その起原をことごとく鍛工または鋳工の居住に帰するのは無理であろうと思うていた。しかし、多数のタタラは必ずしも原料の所在でなくとも、工人の分散してその業を営んだためであって、しかも燃料または用水の関係及び場所の清浄...
何々屋敷という小字の中には注意すべき者が多いかと思う。ことに今は田畠や山林となっていてなおその地名を存する者などは、何か普通の農民にあらざる者が居住したために、その地を別異にする風があった結果かと認められる。その一例として金子屋敷のことを言おう。もっとも金子という地名はいくらもある。今の美作(みまさか)苫田(とまた)郡加茂村大字黒木字樫原に金屋護神(かなやごじん)という祠がある。銕山(かなやま)の守護神だ...
「グリ」は各地で、海中の暗礁のことをそう呼んでいる。また地域によっては陸上でも岩の事を指す場合もある。「はなぐり」などよよばれる大きな立岩があるマクリ・シワナグリ・イスズグリ等とあり、、一合ぐり・宇田島ぐり・姫ぐり等もある。『和漢三才図会』には涅、和名久利、水中黒土などが載っている。東京などでも道路に敷く小さな割石をワリグリと呼んでいる。「ハエ」というのも中国・四国の海辺で、弘く暗礁を意味する語で...
水田を「ウダ」というという説があるが、ウダは果して単純なる水田だろうか。東北地方の多くの宇田という地名には注意せられぬまでも、鴫(しぎ)わな張ると大昔の歌にもある大和の菟田県(うたのあがた)などがあり、ウダは九州に多い牟田(むた)と同じ語ではなかろうか。長門風土記の阿武郡椿郷東分村松本船津組字無田ヶ原の条に「「小畑へ行く道なり、家二軒あり、むたヶ原、ぬたヶ原・うたヶ原とも唱え、文字定かならず」とある。ま...
関東平野の丘陵と丘陵の間、いわゆる窪またはヤツという地形の処を、田畑に開いた場合に一つの特色がある。・常磐線の利根川附近などは、そう言った風の田畑が丘の根方まで、ずっと境なしに続いている。・浦和辺では、地が低く沼がちで水の多いためか、丘と田畑との境には溝があって、丘の裾(すそ)から湧(わ)く清水が直接流れこまぬよう、やや温かくなってから田へ落すようにしてある。これらの溝を流れる水は相当の量となって川に...
「ダイ」という地名は大きく分けて三種類ある。1) ○〇台:高台などと云うように、文字通りに物の台などと似寄っているからの名であろう。2) ○〇代:河内・和泉その他畿内の国々では、上代(かみだい)、下代(しもだい)、東代、西代など、耕地の一区域をシロと言ったのが元かも知れぬ。3) ○〇岱:岩手・青森・秋田の諸県で多く使われ、堆、平の字を当てている例もある。またこのタイはサワ(沢)に対して使われている。これはア...
朝日という地名が朝日をよく受ける特徴からできたことは地形だけからでも疑いがない。これに対するカクノのカクは、あるいは「隠れる」などの語と縁のある陰地の義ではあるまいか。関東・東北に多い角間(かくま)または鹿熊など書く地名も、これと同事由かも知れぬ。川の隈だからとは説明しにくいカクマもずいぶんある。もっとも山の北または西に当る日影に乏しい処は、東国ではアテラというのが普通である。大和・伊勢でこれをオン...
「潟」カタ、ガタという地名は太平洋岸にも愛知潟(あゆちがた)・平潟などの古い例はあるが、まずは日本海海岸に特有なものである。川口の砂浜がすでに必ずしもその川の搬出した物でないとすれば、もちろんさしたる川の流れて出ぬ海岸にも、砂嘴はできるはずである。汀(みぎわ)の屈折した静かな入江、ないしは海沿いの低地の地先に、砂の堤がおいおい高くなって来ると、それから内側はすなわち潟である。荒浪が幾度となくこれを毀(...
大森停車場の上の八景坂はどう考えてみても八景一覧の地とは思われぬ。近年たびたびの土工などのためにやがて地形も不明になろうから、今の間にあの地名の何を意味するかを確かめておこう。大森の八景坂は、岡の上(ハナワ)の村里から浜辺へ下りて行く坂のことで、風流という物を知らぬ人の附けた名だろう。ハッケまたはハケは東国一般に岡の端の部分を表示する普通名詞である。武蔵には特にこれから出た地名が多い。甲武線の附近...
武隈(たけくま)の塙(はなわ)の松は有名なる奥州の歌名所で、古来人のもてはやす所である。武隈という地名の起原は、一説には阿武隈(あぶくま)の阿の字が脱落したのだろうとあるが、阿武隈や武隈の名はともに中国以西に多い久万(くま)もしくは何隈という地のごとく、水流の屈曲している地形を意味する普通名詞であろう。塙の字は多分は和製の合意文字で、土の高い処がすなわちハナワであることを証している。(圷:アクツはこれの...
・土居(ドイ):堺などの置土をドイ、ドエなどとという所は多くあり、土手を言う言葉と思う。この土の堤防で囲まれた屋敷などが昔はドイと呼ばれたとしても、土居は決して近世にいわゆるドイをもって取り囲むことを要せず、単に武家の屋敷を指してそう呼ばれたりしたようである。この土居の地名の多く存している中国・四国の村々に入り、その地形を審(つまびら)かにしつつ昔からの生活を考えたら、多くの面白い事実が発見せられる...
・根岸(ねぎし):山の根岸の義としか考えられないが、関東から奥羽へかけて数多い地名であり、何故この地名がはなはだ多く発生したか?第一には村が高い処から下りて来る傾向である。そのため、根岸という村は、根岸に家を作って開発するのが便利であった土地が新田となった時代にできたものと見てもよろしい。(比較的新しい時代にできた)第二には荘園が小さく分裂し、多くの小名が各自館を構えて兵備を事とする際、家来と農夫...
「堀之内」という地名は非常に数多くあり、堀からすぐに中世以降の城の堀を考えるが、そこに村が起こっていることを考えれば、「城址」と考えるのは早計であろう。多くの堀ノ内の地名のある場所で「城址」の説明がされているが、地名となったのはもっと古い頃ではないかと思える。中古の武家は通例砦の中には住まず、戦時の防禦地は険阻の山の上にあって、平時は平地に今の大地主のようにして住んでいた。堀之内の堀はその屋敷を取...
・東北六県に地名としてまた普通名詞として最も広く行わるるタテ(館)という地名は、漢字が「館」であるので武士の居宅を想像するが、館は国訓タチであってタテではない。しかも奥州のタテは古くは「楯」の字も用いられて始めからタテである。・代表的に実物をもって示しているのが、常陸真壁(まかべ)郡下館(しもだて)の町(現茨城県下館市)である。また北足立郡志木(しき)の町(現埼玉県志木市)も、古くは「館村」と呼ばれてお...
垣内(かいと)問題は、郷土研究で必ず研究すべき課題であったが、必ずしもこれと云った説に接していない。これはそれだけ込み入った事柄である。垣内は文字のごとく垣の内でいわゆる土豪の囲い込んだ地域を意味する。しかし、これがその後いろいろな村の属地の義に転んじたり、切り開いた新部落をよぶようになった。東京近郊で村附の山野を開いた一区をサンヤ(山谷、三屋などと書く)というのと同じであろう。・『三州志』などに...
・山居(サンキョ):家族が増えて、遠い原野の開墾に着手し、別な居を構える「散居」が元の言葉か?関東から奥羽にかけての地名にサンキョというものが多くある。「散居」「参居」「三居」「山居」などと書く。文字のごとく山中の住居の義かと思っていたが、不思議に平地にも往々にこの名がある。たとえば羽後酒田港で有名な米穀倉庫の所在地なども確か山居であった。市街から少し離れ最上(もがみ)川の川口に臨んだ水郷である。房...
・イナカ=田舎 とはどの範囲を表しているのだろうか?イは居であって、イナカは民居の中ではないかと思う。 田舎という語の最も古く顕われたのは『日本書紀』垂仁天皇の二年、意富加羅(おおから)国王の子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の伝説である。その中の黄牛(あめうし)に田器を負わせて田舎に将往(い)かんとすとあって、田舎の二字をいつの頃よりかイナカと訓ませている。昔は今でいう田舎それ自身の中において、特に田舎...
常陸国風土記の勉強会と称して鹿島郡を案内した。摂社である沼尾神社、坂戸神社、跡宮などを案内して、大船津の一の鳥居を経由して鹿島神宮へ向かった。鹿島神宮も文化庁から認可になった7年計画大修理の最中であり、奥宮、拝殿などの修理と祈祷殿・社務所などの建設もようやく今年春に終わり、見違えるほどきれいになった。現在は入口の楼門修理中であり、朱色の楼門はすっかり白い布で覆われて見ることはできなかった。これも...
常陸国風土記の香島郡の冒頭に「天の大神、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、惣べて香島の天(あめ)の大神と称ふ」と書かれています。また、信太郡の条でも、「榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗ることが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。」と書かれています。香島の大神=鹿...
鹿島神宮にはよく人が訪れていますが、すぐ近くの鹿島城があった場所は観光客はあまり足を向けません。ここのは大きな城跡公園があり、桜の名所でもあるので、地元の方は良く知っておられるのだと思います。鹿島神宮から入口の鳥居「二の鳥居」と大船津にある「一の鳥居」とをつなぐ位置にあります。実際はこの神宮も城跡も高台にあるので、この城跡は一の鳥居側からは山の上にあります。以前に訪れた時は国道沿いのこの城山の麓...
昨年の常陸国風土記の勉強会から来週鹿島地方を巡ろうと計画している。そこで銚子に行くときに途中で何か所かを再訪問してみた。ここは鹿島神宮の一の鳥居のある「大船津」。やはり大きな赤い鳥居が水の中にあるのは神々しい。今は隣に橋が3本架かっている。鉄道の橋。国道が2本。一番手前が古くなり新しい橋を架けたが、まだ使用されている。この大船津は古代からきっと様々な歴史を持って居た場所だと思う。対岸は潮来地方だが...
昨日銚子に向かう途中で、神栖市にいるコウノトリの巣を見てきました。コウノトリは渡り鳥だから冬場から春先に入るものだと思い込んでいましたが、日本で過ごす番がいるのですね。場所は利根川に架かる有料の「かもめ大橋」のすこし上流側の神栖市波崎の国道124号線の旧道沿い。ここに巣の塔が設置され、親鳥と四の雛がいるようです。昨年は二羽の雛が育ち、今年は四羽が確認されているようです。周りは余り人家はありません...
先週木曜日に東京の小石川後楽園に行ってきました。大学時代の研究室の同期を中心とした集まり(飲み会)で、この庭園内にある「涵徳亭」の日本間を予約して8名程が集まりました。私の居る「石岡」は同じ水戸藩の支藩の常陸府中藩でしたので、この庭園の東側の小石川植物園に近いところに藩邸がありました。ただ、播磨守を拝命していましたので「播磨屋敷、播磨様」と呼ばれていましたので、今は桜の名所である「はりま坂」あた...
本日が、この事務所(石岡市国府)での「ふるさと風の会」会合も今日が最後となりました。感謝を込めてきれいなお花を頂きました。色々ありましたが風の会はこの5月で満18年が経過しました。来月からは「まちかど情報センター」さんの場所を月2回の会合場所として、また会報「ふるさと風」の印刷場所としてお借りして再出発します。この事務所も10年以上使ってきましたが、オーナーさんの事情で今月いっぱいで引き渡しするこ...
以下は2013年11月の「ふるさと”風”」に投稿した記事です。2013年9月19日にJR函館線でおきた脱線事故の後に書いたもの。10年後の昨年9月19日にNHKでこの事故を教訓とした現在の安全確保の取り組みという内容の報告がありました (NHKの記事 ⇒ こちら)事故は無くなるのかさて、最近の事故ニュースではJR北海道の貨物列車脱線事故がある。そして事故直後のJR北海道の説明が波紋を投げかけている。レールは常に列車の遠心力など...
これは「ふるさと”風”」の機関紙に書いた文章であるが、時々思い出したくなることがあり、こちらに「備忘録」として残しておきます。以下は2014年8月の「ふるさと風」機関誌の記事です。今から10年ほど前にも世界の日本も、かかわらずあまり変わっていないように思われます。ダブルスタンダード 今年の夏はエルニーニョの発生で北日本は冷夏だと騒いでいたが、何の事は無い梅雨明けと共に物凄い暑さに襲われている。体力が無くなっ...
潮来もあやめ祭り(5/17~6/16)も先週末から始まっていますが、外は雨。何か余り元気もなさそうですが・・・・この時期に合わせて長勝寺の仏像の開帳されているかとも思い、古刹長勝寺へ。檀家の方でしょうか法事らしい人の姿も散見。でも本堂は開いておりませんでした。本堂前の菩提樹の木もまた蕾もほとんど見られません。いつもより遅いのかしら・・・・。新緑はまぶしいくらい。この自準亭で詠んだ芭蕉たちの俳句碑、説明版...
ゴールデンウィークの中、4月末日は一応世の中は平日で銀行などもやっている。私も仕事で銚子に出掛け、途中で潮来に立ち寄りました。途中、田植は終わっているところも多く、道路工事もなく車もスイスイでした。ただ途中で立ち寄った銀行はいつもより人がいっぱいいましたね。潮来では4/20~4/29まで藤まつりが行われていました。アヤメが有名ですが、その前に少しでも観光客を呼び込もうとしているようです。江戸後期に書かれ...
文化14年(1817年)五月廿六 晴 板久俵屋泊 百五十文廿七 晴 卯上刻(朝5時~6時)出船 二百六十四文 未下刻(午後2~3時)銚子に入 蠶濱蠶社法花新田砂山の下に有 吉野屋に泊 喜平次と云 熊兎孔雀鵞其外品々有廿八 晴 桂丸に入廿九 晴 桂丸季峰と濱一覧す ・・・桂丸、李峰は一茶の俳友 観世音飯沼円福寺と云坂東廿七番此下濱飯貝根町千軒有と云 太田屋仕出屋に入中食わん食わん喜太郎と云者来 仙侯の舟に大竿 ...
文化14年(1817年)5月十九 晴 田口に入 三韓人十四人来 未刻雷雨廿 晴 白老と馬橋に入廿一 晴 布川に入廿二 晴 龍が崎より女化原を通り土浦に出 稲市村近江屋彌五右衛門泊廿三 晴 高濱本間松江に入 氏神畵馬 しどけなく振袖ひたす杜若 禿が露を書習ひ 男茶屋 西光寺に親鸞上人爪書書御正作堂有 小川今出屋惣八泊廿四 晴 本間に入廿五 晴 小川より四里馬にて送らる化蘇根稲荷社有季尺氏...
さて、文化14年(1817年)4月半ばに江戸橋下から房総木更津へ舟でやってきた小林一茶は4月末には一旦君津辺りに戻りましたが、5月には再び、南房総市や鋸山の南の方から富津辺りを行き来しています。門人たちがあちこちにいたのでしょう。一茶にとっては生活の糧を得るのも目的の一つだったと思われます。その日記の記事を読んでいて、気になる箇所を見つけました。五月一 晴 本織に入 ・・・南房総市本織?二 晴三 晴 勝...
小林一茶は故郷信濃(柏原)に戻り、居を構えた後も、江戸から房総方面の俳諧仲間の所を訪ね、俳句を教え旅費や生活費の稼ぎをしていました。そんな中で生まれたばかりの長男を亡くした後に、やってきた俳諧行脚ともいえる房総・常陸国の旅が文化14年(1817年)前半にありました。一茶の7番日記に記載されている日記の内容から読んでみたいと思います。前回、信濃と江戸との往復に旅程などを述べましたので、今回は房総への旅で...
芭蕉の鹿島紀行を巡るとして6回に分けて記事を書いてきました。そこにもう一つ記事を追加しておきます。それは小林一茶が同じように鹿島へも訪れていることです。一茶が鹿島へやってきたのは文化十四年(1817)の五月(旧暦)末です。芭蕉が鹿島に来たのは「貞享四年(1687)八月の中秋の名月」ですから一茶は130年後になります。芭蕉の生まれは寛永21年(正保元年、1644年)伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)です。一方一...
松尾芭蕉が深川から舟で千住へ出て、そこから奥の細道に出立したのは元禄2年(1689年)3月27日(旧暦)です。この2年前の貞享四年(1687)八月の中秋の名月の前日に鹿島に月見に出掛けたことになります。芭蕉は伊賀上野に生まれ、29歳の寛文12年(1672)年に江戸日本橋小田原町に移り住みました。場所は、現在の中央区日本橋室町1丁目から本町1丁目にかけた地域です。芭蕉(桃青)の家の正確な位置は不明ですが、ここに延宝八年...
「鹿島紀行」を巡って」も前回記事から大分日にちが経ってしまいました。今回は鹿島紀行の最後に書かれている 帰路自準の家に宿ス (自準亭:潮来の本間道悦亭) 塒(ねぐら)せよわらほす宿の友すヾめ 主人(自準:道悦) あきをこめたるくねの指杉(さしすぎ) 客(芭蕉) 月見んと汐引のぼる船とめて 曾良 (貞享四年(1687)八月二十五日)という部分の検証です。芭蕉たち3人(芭蕉、宗波、曾良)は、仏頂和尚...
潮来で、桜を見るのに毎年のように立ち寄っている源頼朝由来の古刹長勝寺さんに立ち寄りました。桜に丁度良いかと思ったのですが、既に散り初め、少し遅かったようです。ただ、今回ここに来たのは芭蕉の句碑を確認するためですので、桜は二の次です。鹿島紀行(鹿島詣)の時に、潮来の自準亭(本間道悦宅)で詠んだという句の句碑です。前にも何度も見ていたのですが、説明看板が泣く、石碑もよく読めずにあまりよく調べてもいな...
昨日は「ふるさと風の会」会報の印刷日 会報205号を今日各所に配りに行きました。あっという間に桜が咲き、もう満開の所があちこちに・・・・・季節が戸惑い、春の来たのを忘れてしまったのかと思っていたが、どっこい忘れなかったようです。今年も春がやってきました。下青柳から奥へ。のどかですね。山は本当に笑っていました。つくばの採石場隣の「金嶽神社」へ飴玉幽霊伝説のある「頭白上人」の建立したと伝えられる立派な...