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コトバの試し斬り=(どうぶつ番外物語) https://blog.goo.ne.jp/s1504

斬新な切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設17年目に入りました。

自然と共生しながら、生きてきました。 ここでは4,000字(原稿用紙10枚)程度の短い作品を発表します。 <超短編シリーズ>として、発表中のものもありますが、むかし詩を書いていたこともあり、コトバに対する思い入れは人一倍つよいとおもいます。

正宗の妖刀
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2010/09/26

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  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(13)

    ほどなくサンドイッチが運ばれてきた。野菜と生ハムを薄めのフランスパンに挟んだ、オリジナル商品だった。レタスもトマトも新鮮だったし、幾重にも巻いて花弁に見立てたハムは、塩と洋がらしと空気の弾力を味方にして、食べる者を幸せな気分にした。カップが大きめだったせいか、残りのコーヒーがオリジナルサンドの味を引き立てた。ミナコさんも、たっぷりの紅茶で軽食の仕上げが出来、満足の表情を浮かべた。ミナコさんが支払いを済ませるのを待って、おれはレジ係も兼ねる先刻のウェイトレスに声をかけた。「いま出て行った男の人、どこかで見たような気がするんだけど、たしか将棋関係のかたですよね」「ええ、飛田四段です。最近、テレビにも出演しましたから、そこで観られたのでは・・」ウェイトレスは、誇らしげに言った。「ああ、そうだったんだ。ところで、...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(13)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(11は省略)(12)

    ミナコさんとの逢瀬は、週に一回のペースで実現した。日曜日に、ミナコさんの好きな盛り場で、人混みに紛れて待ち合わせることが多かった。梅の季節になって、湯島天神、六義園などの近場だけでなく、おれの希望で百草園まで足を伸ばしたりした。おれは、口にこそ出さなかったが、ミナコさんの住むマンションに近付けないことにストレスを感じていた。自分自身の心理的な抑制がそうさせるのだが、それが苛立ちとなっておれを苦しめた。同じように、週の半ばを避け続けるミナコさんの日程も、その理由が分かっているだけに余計に腹立たしく感じられた。おれが挑もうとしているものが、あの自動車内装会社の社長であることは、とうに分かっていたことだ。ただ、意地でも聞けないことがある。おれの知らないところで何が行われているのか。おれの眼裏には、薄ら笑いを浮か...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(11は省略)(12)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(10)

    おれたちは靖国通りから逸れて、坂の道を新宿御苑方向へ登っていった。途中大きな交差点を渡り、人気の少ない裏通りに足を踏み入れていた。中層のビルや医院、住宅、学校などが混在する街は、二つの大通りに挟まれてひっそりと静まっていた。街灯はあっても、建物に遮られて随所に影が生まれている。不穏な気配さえ感じられなくはない。おれの腕にかかる重さが増していた。坂を登って来て、ミナコさんも疲れたのだろう。おれは、それを気遣ってミナコさんの顔を覗きこんだ。ミナコさんも何か答えようとして、おれを見たようだ。わずかに後ろへ反った角度が、おれにそう思わせた。重心が揺れていた。おれは腕をほどいて、ミナコさんの背中に手を回した。ウールのコート越しに、意外と厚みのある肉の感触が伝わってきた。おれは、もう一度確かめるように真近の顔を見た。...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(10)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(9)

    駅の改札口から、会社帰りの男女がひっきりなしに吐き出されてくる。この界隈から帰っていく人びともいるわけだが、おれの目はこの駅に降り立つ者だけに向いている。女性の姿に意識が向かうのも、同じ理由だ。ミナコさんの面影に似た横顔を見つけてハッとし、いや、そんなに早く来られるはずがないと、はやる気持ちをたしなめる。その間にも人の流れはやまず、おれの注意力はつかの間散漫になる。ただぼんやりと駅頭の風景を眺めているのと、大差なかったに違いない。どれほど経ったときだろう、おれはコートに突っ込んだ左腕に何かが絡み付くのを感じた。肘よりやや上のあたり、腕と同時に脇腹をこすって差し込まれた柔らかい感触に、えもいわれぬ懐かしさを覚えて首を回した。「お待ちどうさま。寒かったでしょう?」ミナコさんが微笑んでいた。おれは、背後からの奇...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(9)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(8)

    無断欠勤をニ週間続けたころ、自動車内装会社から解雇通知と給料が送られてきた。わずかだが、社内規程による一時金が付加されていた。現金書留の封筒の中に、ミナコさんからのメッセージが忍び込ませてあった。<落ち着いたら、顔をみせてね。電話してからよ>おれが逃げ帰ったあと、どんな顛末になったのか。少なくとも、おれが訪問したことだけはミナコさんに伝わっているようだった。社長の追及に、ミナコさんはどう答えたのだろう。急には状況が飲み込めず、混乱したのではないか。それなのに、怒りもせずに気配りをしてくれる。一方おれときたら、ミナコさんのやさしさに応えることもできず、ただひとり蹲っているだけだった。ミナコさんに顔向けできない状況は、あの日以来凍結されたままだった。おれは、机の引き出しを開けて、封筒を取り出してみた。<落ち着...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(8)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(7)

    昼休みの早指し将棋に、おれの出番が多くなった。ゴトウさんが、おれのことを実力以上に吹聴するものだから、社員はおろか社長まで様子を見に来るようになった。何日か前のこと、横に立った長身の男の圧迫感に耐えられず、おれは身じろぎしながら振り仰いだ。その瞬間、薄ら笑いを浮かべた社長の視線が、おれからゆっくりと放れていった。理由は分からないが、おれは嫌われているなと直感した。おれの何かが癇に障ったのだろう、少なくとも好かれていないことは確かだと思った。おれは、将棋に熱中できなくなった。この日ありもしない用事をこしらえて、対戦を休んだのはそのせいだ。事情を心得た助っ人が、ゴトウさんの相手を務めることになった。「じゃあ、一丁揉んでもらいますか」気を利かすタイプの古参社員がいるのだった。やれやれと安堵の思いに浸りながら、昼...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(7)

  • 紙上『大喜利』(30)

    〇「ご隠居、大谷翔平が36号を打ったらしいですよ」「昨日は三振食らってベンチでヘルメットを叩きつけていたというので心配してたんだ」〇「ネビン監督が心配いらないと言っていましたがその通りだったですね」「バカ言うんじゃないよ、あの弾丸ライナーは怒りの一発だ」〇「え?何に怒っているんですか」「拝金主義のオーナーが自分をもっと高く売ろうとしてトレードを辞めたらしいからだ」〇「ところでご隠居、錦木は優勝どころか終盤4連敗で終えましたね」「トホホ、連敗を怖れているという本人の言葉が現実になったのかいな。神様が聞いていたらしい」〇「ご隠居のいう相撲の理想形はどうなったんですかね」「もろ差しを狙う取り口が研究されて脇を固められ、強引に巻き替えようとして墓穴を掘ったな」〇「メンタルに問題があるんじゃないですか。来場所三役に...紙上『大喜利』(30)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(6)

    ヨシモトは、まだインドにいるのだろうか。地球が回る音を聴くことはできたのだろうか。彼が去って、もう五年は経ったはずだ。その間、おれは転職を繰り返し、そのたびに薄汚れていったような気がする。ヨシモトが身近にいれば、おれの生き方も少しは変わっていたかもしれない。大学の道場の片隅で、彼とともに瞑想し、「あ、うん」の呼吸で宇宙と一体になることができたのだから。「あ、え、い、お、う~」心と身体を一つにして声を発し、吐き切って空になった受容体に、宇宙からのエネルギーを引き入れる。反らした上体を戻しながら、広げた両手を閉じて天を押し上げる。その所作の後、「う~ん」と身を屈めつつ祈りのポーズをとって、一つのサイクルが完了するのだ。一連の型が、空手や柔術とは異なった発想から編み出されたものであることを、おれは繰り返す動きの...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(6)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(5)

    この密かな儀式のような瞬間を、もうどれほど繰り返してきたことだろう。食欲と性欲が渾然となって意識される、至福の一刻を。おれは、おれだけに与えられた豊饒の感覚を崇めて、大それた発見でもしたかのように陶酔していた。白菜がみせる裸身の美しさに、たったひとり美を見出すことのできる自分の感性に、自負を抱いていたということだ。しかし、いつまでも悦びに浸ってはいられなかった。空腹にせかされ、アルミ鍋と食材を抱えて共同炊事場に急いだ。炊事場には誰もいなかった。三つあるガス台は、どれも長年使い込んだ色と形状をしていた。ときどき家主夫人がやってきて、噴きこぼしや錆を拭き取っていくのだが、黒くこびりついた炭化物の層は、厚くなることはあっても、鉄の地肌が見えるまで掻き落とすことなどできるはずはなかった。朝のうちに誰かが使ったのだ...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(5)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(4)

    夜中に、一度目が覚めた。おれは押入れを出て、廊下の突き当たりにある共同トイレに向かった。トイレと背中合わせに設置された炊事場も、明かりを落として静まり返っている。こうして水場を一箇所にまとめた作りは、住人の感情さえ斟酌しなければ合理的なのかもしれなかった。ともあれ、おれが通ってきた廊下を挟んで左右に五部屋ずつ並んだ三畳間は、どの部屋も電気が消えていた。最近引っ越していった一部屋を除いて、すべて入居者がいるはずなのに、眠りの底で死にかけているのか、呼吸の気配さえ伝わってこなかった。おれは、小用便器に勢いよく放尿した。体を保温していた小水が失われたことで、急に寒さを覚えた。ぶるっと身震いしながら、便器の上部にある金属のボタンを押した。水が薄い膜となって、湾曲した陶器の肌を流れ落ちた。レンコンの断面のようなろ過...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(4)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(3)

    その夜、おれは大塚駅南口のジンギスカン料理店で、ビール一本と慣れない日本酒を飲んだ。お銚子にして二本の二級酒は、あまりうまいとは思えなかった。それでも、目の前で湯気まじりの煙を上げはじめた羊肉をほおばりながら、久しぶりの脂の味を酒で流し込んだ。どんな境遇に置かれても、その場その時の悦びはあるものだ。おれは、まだ熱をもったまま食道を下り、胃のなかに落ちていく咀嚼物を、おれの細胞が先を争って迎え入れるのを感じていた。皿いっぱいに盛られたキャベツの甘さが、マトンの味をいっそう引き立てた。燗酒、肉、キャベツ、大盛り飯、それに特製のタレがからんで、つかの間の宴を堪能させてくれた。ビールと酒が、これまでに無い酔いをもたらした。おれの足運びが怪しくなっているのを、自分でも確かめることができた。飲食店街が途切れ、西巣鴨方...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(3)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(2)

    喫茶店での会話は、戦勝祝いのように沸騰した。おれは、いきり立つ若者たちの言葉を、ボックス席の底で他人ごとのように聞き流していた。おれの頭の中に、労働基準監督署の存在が浮かんだ。どれほどの力を与えてくれるものか見当もつかなかったが、諦めの思いの中で微かに点滅しはじめた希望のようなものを、若者たちに示した。反応は、予想を超えた。おれは、おれを称える若者たちの言葉に心をくすぐられたが、一方で醒めた思いが胸の中の火を覆うのにも気が付いていた。それまでの経験から、社会というものが一筋縄ではいかないことを実感していたからだろう。安易に期待を抱くことの怖さを反芻していた。「まやかしの社名を騙った社員募集です」「おれたちは被害をうけました」と、口々に申し立てたところで、どれほどの罪を問えるものか。翌日、おれたちは出社して...思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(2)

  • 思い出の連載小説『<オレ>という獣への鎮魂湖』(1)

    夏草の生い茂ったなだらかな丘のふもとに、いつの時代のものか、発かれた石棺が陽に曝されているのを見たことがある。型枠のように草根を支えた石室の奥に、濃い暗闇が潜んでいた。伊豆の下田から石廊崎に向かうバスの中であった。丘は一筋に延びる舗装道路を境にして、二つの盛り上がる量感となり、前部の座席にいたおれを呼び寄せるように輝いていた。変わりやすいこのあたりの天候が、一刻の驟雨の後にもたらした雨上がりの風景である。おれは急速に近付く歓喜にも似た興奮の中で、ゆるやかに落ち込む二つの曲線が、極まった感情で語り合いぶつかり合う濃密な一線上を通過した。飛鳥の野で、いくらかの入場料を払って石舞台を見たのは、いつのことだったか。ほかにも天皇の御陵に近い畑中で、評判の高い貴族の石棺を見たが、それらはあまりにもあからさま過ぎて、お...思い出の連載小説『<オレ>という獣への鎮魂湖』(1)

  • 思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(はじめに)

    昭和という時代を懐かしむつもりは無い。ただ、昭和を生きてきて、その影響を受けたことは事実である。わたしは、齢をかさねるごとに、自分が通り抜けてきた時代を振り返ってみる。青春時代、壮年時代、どの一日を切り取ってみても、いま老年期を生きる自分とどこかでつながっている。その意味で、自分という存在は、時代の鏡である。だが、時代は自分だけの鏡では無い。<おれ>という主人公を鏡にして、昭和を通り過ぎた多くの市井の人びとをも描きたい。そこに<時代>さえあれば、虚実織り交ぜた人間模様が主人公の周りで動き出すはずだ。懐かしむだけの時代は、古くなるが、そこに生きる人びとのいる時代は、いつまでも新しい。そのことを信じて、この物語を始めたい。(続く)(2006/02/08より再掲)思い出の連載小説『<おれ>という獣への鎮魂歌』(はじめに)

  • 紙上『大喜利』〈29〉

    〇「おい、おい、錦木が初日から6連勝でただ一人勝ちっぱなしだぞ」「大関昇進候補の豊将龍、大栄将、若元春らの関脇陣は3人とも平幕の錦木に敗れて足踏みしていますね」〇「NHKも先場所から15連勝とか言い出して、やっと錦木にスポットライトが当たったな」「ご隠居の言う通り腰の構えがいいですね、相手はじたばたして腰が浮き投げられたり押し出されたり・・・・」〇「解説陣はもっと評価すべきだろ、あれこそ相撲の理想形だと。今の関脇は皆なまくらだから錦木に追い越されるぞ」「ご隠居すごい鼻息ですね、錦木が大関になったら脱帽しますよ紙上『大喜利』〈29〉

  • ポエム368 『見張りガラス』

    家の近くの樹の枝にとまってこっちの動向を窺う見張りガラス家庭ゴミの出し方に抜かりがあると仲間を呼んでたちまちワルサをする一番の狙いめはプラスチックゴミの日だマヨネーズのチューブが入っていないか袋をつつく食べ残しのポテトが入ったプラ容器も大歓迎不発の日が多くても成功体験が優先する見張りガラスは勤勉だ朝から晩まで頭上でカアー月~金までゴミの種類に関係なく見おろして抜かりがないか注意を怠らないいやいや土日でも休みなし庭畑に食べ物が捨ててないか睨みを利かすおまえら休日出勤が当たり前なのかまるで昭和のサラリーマンみたいだなあの人たちのおかげで日本は敗戦から立ち直ったみんな正社員になって会社一筋の生活だったそうか見張りガラスは縄張りを死守しているのか仲間の中でも頭抜けた存在だもんな時には食べ物を掃き清める人間にブラフ...ポエム368『見張りガラス』

  • 紙上『大喜利』(28)

    〇「おい、錦木が横綱照ノ富士を投げ飛ばして2連章だぞ」」「ご隠居、先場所から11連勝ですね、大器晩成を絵に描いたような力士ですよ」〇「けれん味のない四つ相撲だけど相手は下から押し上げられるから腰が浮いちゃうんだ」「この調子だと大関・横綱まで望めるんじゃないですか」〇「藤井藤井聡太7冠王がいよいよ8冠王になるぞ」「ご隠居は早くも発汗王ですからね」紙上『大喜利』(28)

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(10)最終回

    もしかしたら、ラカンは自分の存在を掴みあぐねているのだろうか。幼い時の記憶をたぐり寄せ、己が人間なのか、犬なのか、それとも風のように転げまわり、吹き荒ぶものなのか、見極めきれずに呆然と日を送っているのかもしれない。そんなことを考え始めると、桂木だって、自分がどんな存在なのか、不安になる。両親はすでになく、兄弟もいないし、妻との間に子供を授からなかったし、その妻とも離婚している。ある時期、天蓋孤独に憧れ、それを望んだことが、現在の身の上を引き寄せたのかもしれない。夢の中で、絶顛にさらされ、上空を舞う禿鷹に怯えて呻いたのは、独りよがりな生き方に対する罰だったのだと、承知している。「ご主人、ラカンの散歩を、わたしに任せてくれませんか」突然の決意が、桂木の口を衝いて出た。呆れたように彼を見つめる主人の頬に、緊張が...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(10)最終回

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(9)全10回

    <二間半、二尺仕舞い、九本継ぎ>の名品は、下手な洋画などより気品があって、桂木の書斎の壁によく似合った。友人を呼ぶでもなく、家族が来るでもない桂木一人だけの城は、几帳面な性格そのままに整理が行き届いていて、実に居心地がよかった。そろそろ初夏の気配が色濃くなっている。風に運ばれてくる緑の匂いに、植物の旺盛な営みが感じられる。あまりにもあからさまな生命の活動を、桂木は好んでいなかったが、散歩をするようになってから徐々に馴染んできた。釣り竿を求めてから、十日ほどが過ぎている。その間、桂木は『ヘラ鮒釣具』の店に通じる散歩道をそれとなく避けていたのだが、この日、久しぶりに通ってみた。意外なことに、ラカンはいなかった。たまたま運動のために引き出されているのか、それならラカンのために好ましいと思った。このあたり、犬の散...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(9)全10回

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(8)全10回

    翌日、桂木は郵便局で貯金を下ろして『ヘラ鮒釣具』の店を訪れた。買取りを約束した以上、一日でも引き延ばすのが嫌なのだ。桂木は、そうした性格にしばしば苦しめられてきたのだが、何歳になっても直るものではなかった。己に厳しい分、他人に対しても容赦はしない。カルチャースクールの生徒が遅刻して入ってくると、急に場面設定して、遅刻したサラリーマンと上司の役で演技をさせる。シナリオの勉強に来ているのだから、アドリブで生きた会話をしなさいと理屈は通っているのだが、教室の中に、少しずつ苛めの気分が伝播するのは否めなかった。「ご主人、桂木ですが」用意してきた名刺を差し出した。「おや、ずいぶん早い時間に・・」「約束ですから、釣り竿を頂きに参りました」「いやあ、そんなに急がなくても、竿は取っておきますのに」主人は驚いた顔をした。そ...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(8)全10回

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(7)全10回

    この家の主人が、また笑った。「こいつはね、子犬のときはタケチヨと呼ばれていたんですよ。ところが三歳のころ、散歩中急に道路に飛び出して、リードを握っていたわたしの友人を引きずったものだから、運悪くトラックに接触して死んでしまったんです。はずみというのは恐ろしいですな。犬の方はこの通り無傷で、神妙な顔で家に戻ってきたんですが、奥さんが許しませんわな」しばらくの間、ヒトゴロシと罵って虐待したという。「すごい話ですね」「どちらも憐れでしょう」「それで、ご主人が引き取ったんですか」奥さんは、本当はタケチヨをかわいがっていたのだが、主人を殺す結果となった行為を許すわけにいかず、板ばさみの苦しみからノイローゼに陥った。「成犬になってから飼い主が変わるのって、大変なことなんでしょう」主人は深くうなずいた。「犬にもストレス...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(7)全10回

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(6)全10回

    桂木は、父親の転勤で三度転校している。東北を振り出しに、関東、中部と移り住み、東京の大学に合格して初めて親元を離れた。その間、少年期を過ごし、最も心を許せる友人ができたのは、仙台の頃だった。ずっと官舎暮らしで、父親の姿を見るのは朝だけというような生活だったから、友達と共有する時間が宝物のような価値を持っていた。アベちゃん、タカオ、モトムラ、ヨシキくん、次々と眼裏に浮かぶ同級生の顔が、みな彼に微笑みかけてきた。(そういえば、親父と釣りに行ったことがあった)と、桂木は思った。正確には、父親と、父親の部下と三人で、澄川というところへイワナを釣りに行ったのだ。長い時間、記憶の底に沈んでいた情景が、鮮やかに甦ってくる。稀な出来事だったから、余計に印象深く心に刻まれていたのだろう。その日、小学生だった桂木は朝早く起こ...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(6)全10回

  • 思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(5)全10回

    「どんなご用ですか」男がめんどうくさそうに言った。「・・実はヘラ鮒釣具という看板が掛かっていたものですから、どんなものをお作りになっているのかと、ちょっと興味を持ちまして」犬と主人の双方に気を取られながら、桂木は答えた。落ち着いた振りをしても、あわてた名残が声に残っていて、桂木を見る男の口辺に微かな笑みが広がった。「やたら興味を持たれても、どうしたらいいかわかりませんな。お客さんなら、竿が欲しいとか、浮子が欲しいとか、目的のものがあるでしょう。それなら応対のしようもありますが、単に興味を持ったと言われても、おいそれとはお答えしかねますな」桂木は、何年かぶりに赤面した。己のうろたえぶりが、信じられないほどだった。彼自身が他人に対して高飛車な態度に出ることはあっても、逆の立場に置かれたことなどなかったからだ。...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(5)全10回

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