〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
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(前日からの続き)元来、祈り心というものは、無邪気な単純な明るいものなのですが、思想、哲学としてとらえられてしまっては、それは、あくまで人間の枠を出ることは出来ません。そこで、こうした現代に生きる人々にも、やさしく真理の奥義を説き、しかも、誰の心をも納得させて、本心開発へと導き、神の光の一筋としての本体を自覚させる祈りが、私の提唱する“世界人類が平和でありますように”という言葉にはじまる祈り言なのであります。この祈りには、よこしまな私の想い、下手な思想などというものの入るスキは全くありません。無私、無我にはじまり、宇宙神の奥の奥の心へとみちびきとけ込み入らせる祈りなのであります。そうして、没個性というのでは更になく、一人一人の人のこれらの何十生、何百生の思いグセは思いグセのままで、ありのままに、祈ることを...神の愛(6)
(前日からの続き)はじめは、やり場のないかなしみや、苦しみが、自己をとらえ、しばり、むしろ不自由ななかで、神に向かっての叫びを挙げるのでありますが、何にしろ、絶対の神に向けられる(人のまなざしが)ということが、光の源である神にとっては、むしろ、その一人一人の運命と愛念をおくりやすくなるわけで、この辺りが、痛み、苦しみ、苦労を、ただのがれたいともがき、神にむかって、恨みつらみをいう私ども人間の計算では、計ることのできない神のみ心なのであります。いつも説いておりますように、神というものは、絶対の愛でありまして、人間一人一人はその神の愛し児であり、神の分生命(わけいのち)なのでありますが、その人の生まれた環境、また、育ち方、それぞれによりまして、天から与えられた賜物とは別に、前に述べました、思いグセが、その人の...神の愛(5)
(前日からの続き)人間が霊止(ひと)であったところまで、私どもは帰らなければなりません。実際をいえば、本源の心は、あらわれようあらわれようとして、私どもに合図を送っているのですけれど、永年の思いグセがそれを押しとどめているといったかっこうなのであります。ここまできますと、神様と、人間の想念のいたちごっこに終わるのではないかとさえ思われるのですが、ここに至って真の宗教者、真の人間が、朗らかなかがやく神の愛を呼び覚ます源を与えられていることに、ほん然と気付くのであります。その源、その光とは、神への祈りに他なりません。(つづく)神の愛(4)
(前日からの続き)時代が移り、社会が発展を遂げる中で、人は、段々に、この自分をつらぬき突き動かしている神の愛を疑い、遂に神は死んだとまで言わしめたのでありましたが、神の愛、無限の愛というものは、そんな浅い思想や、ちっぽけな否定で、消え去るものではないのであります。肉体を持っていますと、生活に追われ、人間関係に疲れ、神の愛などというものに心を向けるには、あまりにも心がゆとりを持てなくなってしまうのですが、たとえ、この身と心がどんな状態におちいっても、さん然とかがやきを失わず、海のように深いみ心を持っているのが神の愛なのであります。(つづく)神の愛(3)
(前日からの続き)宗教家の中には、説教はしてもあの世は信じないという人々が存在しますが、人間の内外に、無限に働いてやまない神霊の援助、あるいは、神仏の加護による永世へのみちびきを、心に感じることがなければ、真に人をみちびき、人を救うということは不可能であります。私のいうそうした援助を、心に感ずるというのは単なる観念や、人間の弱い憧れではありません。人を愛し人を導き、更に、救いにまで及ぶためには、無私、無我の愛、言葉をかえていうなら、無限定の愛が土台とならなければなりません。どんなに愛に富み、誠実をつくしても、人が人を愛するという枠の中だけで、愛や祈りの実践─無限の実践─は出来るものではないのであります。そこに永遠者への眼というものを持たなければ、とうてい、人の力だけで、いわゆる愛や救いは成し遂げられるもの...神の愛(2)
宇宙の真理というのは、決して複雑なものではありません。縦横十字につらぬかれている神の愛を信じ、素直にその中に溶け込めばいいのです。しかし、肉体人間の想念が、なかなか光そのものである神の愛に溶け込ませにくくなっている。それだけ世の中が物中心になり、こころ=神様が忘れられた現代といえましょう。しかしながら、この世の中のすべての顕れは、実質、実体ではなく、我々人間の心の奥に眠らされている、光としての真性をよびさますなら、世の中は、そのまま真実霊界となり、神界となるのであります。(つづく)神の愛(1)
人間は本来、霊であり、光そのものなのです。宇宙神の奥の奥から流れてくる愛によって、私たちは日々瞬々を生かされているものなのです。だから、この心が、どんなにかなしんでも、寂しがっても、本体の、光につつまれた光そのものの自分は、かがやいているんだと思うことが、神様とともにいることであり、いつの間にか、神様の深い深い愛にいだかれることになり、その時、私たちは、本当に無邪気に、神様のふところでやすらがせていただくことになるのです。すべて自分がやるんじゃない。神様がさせて下さる。我々は、唯、神のみふところの深さをおもって、どんな時にもやすらいでいればいい。涙がながれる、ながれるままでいいのです。淋しくて淋しくてたまらない、そのままの孤独なたましいを、ありのままで、世界平和の祈りの中に放り込む時、私たちの本体は光りか...天地をつらぬくもの
(前日からの続き)さて、そこで一旦我々の眼から覆わされた救い救われ(この世的には、災難・苦難・突然死など理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に必要な時期を選んで現われて参りますが、人間の眼からはこれがそういうものだとわかるのに、時間がかかるようになっておりますので、十分にこの世の波と闘う用意もでき、またその備えとして先回申しました「拠り所」、道というものが準備されているわけなのです。光に変えるための生命の修行といっても、目に見えないこれらのものを肉体をまとった人間がただちに行じ、行うにはこの世の構造は何段階にも分かれているわけで、また、そうでなくては新しく生まれてくる生命、また、この世を去って三界に新たに生命を吹き込む人々を、送ることはとてもできないのであります。このための道であり、生命であり、これを支える...道(9)
(前日からの続き)この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に終わったとしても、霊界、神界では悲しむ必要は全くありません。なぜなら、本来の命に帰り働くために仮にこの世での死が用意されたにすぎないのであります。このように救い、救われというものは、神様の側から平等に配分されたものなのでありますが、現実世界の人間にはそれがみえない。もっと申しますと、一時みえなくさせられているわけです。それは、人が味わうべき愛別離苦、あるいは歓喜といったものを十分に味わって、そこで自らの中に起きる感情の波を経験し生きていくことが是非とも必要なことだからです。この波の中に、真の救い、救われというものも実は入っているわけですが、一気に生命の歓喜というふうに真っ直ぐいかないのは、初めからそこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な修...道(8)
(前日からの続き)生命の流れにはさまざまな支流があります。大河と定められて、どんなに細くても悠々と豊かに流れていく流れもあれば、流れを途中でせき止められて、遂に一本の草にすら生命の輝きを送れなくなったものまで、実にさまざまです。しかし、どの河も生命の本源という同じ源から発したことは間違いのない事実なのです。本源は枯渇することがありません。一旦は生命の河の流れをせき止められたかのようにみえても、その実、源の源である「生命」は輝きを失うことはないのです。そしてこれは、理不尽なこの世での最期を遂げるべく定められた人々の災難にもいえることなのです。(つづく)道(7)
(前日からの続き)救われ、救いというものは、神様からみれば、全く公平に与えられるものですが、その現われ方はむしろ、人間の考える「救い」とは全く逆の形になる─そういう人たちもおります。こういうことは、生涯がいよいよ終わりという時に現われてくる時もあれば、一生のいくつかの時期の中に救いようのない事柄、やり切れないものが盛り込まれたりするわけです。たとえば、生涯の終わりということで言いますとそれは、我々人間の死に方、死に様、ということになるわけですが、よく不慮の事故で死ぬとか、まじめで誠実な人なのにとんでもない災難に遭って死ぬとかいう死に方があります。これなどは、神界の悟った高い魂を持った霊たちが降りてくるということと同時に、何生、何十生かけて生き徹した本来の命の完成を目ざすことを目ざして、そういう去り方をする...道(6)
(前日からの続き)一体、救いとか、救われの範囲、というのはこれは、人間の側から出ていることです。神様というのは、本来、枠のないもので、救うということについても、誰を救って誰を救わないという方ではないわけです。ですから、神様側からすると、救いの対象は無限大、救われ方は無限定ということなんです。この救われ方ですが、お金持ちになってそれでよかったという価値感、それだけが幸福だと思っている人は、お金持ちになるということ自体で、もう救われたと思うのかもしれませんし、また、それは一面で幸福なことかもわかりませんけれども、神様の側から見た救い方、あるいは救われ方というものは、単なる事実、実際に、一つのことが起こったとか、状況とか、それだけを指しているのではありません。なぜ人を救うのかというと、それは、人間が本来一人一人...道(5)
(前日からの続き)我々にとって絶対必要なものは、つまり、目に見える事実と同じ程、あるいはそれ以上の価値を持つということをこれらの人々を通して、私どもは知らされるわけなのであります。さて、そろそろ話を展開していきましょうね。いいですか、私の方をよく見て、よく見てったってここには五井先生しかいないじゃないかなんていう人がいたら、その人も唯物論者の一人かも知れないね。まあ、冗談はさておいて、必要ですからもう一度だけくり返しますと、我々人というのは、何も目の前にある物や会っている人や、事実、私ははじめにこれらの人々が信じられる最大のものは自分自身だと申しましたけれども、しかし、たとえば、空気や水や、そういう生きていく上にこれを失ったらどうにもならないものは、事実以上として認めているわけですね。そうしなければ生きて...道(4)
(前日からの続き)えー、先日、道ということでお話しを致しまして、多少、内容が混み入るものですから、途中で結論的なことを申し上げて確か終わりにしたんですけれども、何を省いたかといいますとね、もっとも私の話は省いているようにみえて全部いっているんですが─。それはともかく、この間、結論の中にすでに含まれていると思いましたのでいわなかったこと─それは人間、我々人間の救われ方ということについてであります。世の中には宗教なんかに頼らなくても十分自分の気持ちだけでやってゆけるという、いわゆる宗教を毛嫌いする人たちをはじめとして、沢山のいろいろな立場で生きている人たちがおります。で、この中には無神論者と呼ばれる人たちもいるのであります。この無神論者の人たちは目に見えるもの、第一には自己ですね、自分自身を先ず信じる。これは...道(3)
(前日からの続き)神様というのは、遠い遠い所にいるのではなくて、みんなの眼にはみえないけども、もう光になって、充満しているわけ。みなさん一人一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃるわけです。イエスが、みんな一人一人が神の宮なんだということを言っていましょう?ね、あれと同じなんです。けれども、イエスも申しましたように、現代という時代は、まことにやっかいなことに、「しるし」を求める時代ですよね。御免状なんてね。で、あまり「寄り道」をしますと、こんがらがってはいけませんから、手短かにいいますと、この道というのは、わたしどもが真理の階段を上るための一つの姿として、あらわれとしてあるのであります。つまり、どんな「道」も、それが華道であっても茶道であっても、そこに加わるということは、大神様が、守護霊守護神が、働かれて、...道(2)
道というのは、いろいろな種類がありますね。一本道、三さろ、人生の別れ道なんてね、別れの一本杉という歌がありましたけども、一本ということでいえば、あれも一本で立ってるわけね。で、杉の元々はというと、生命でしょ。わたくしがいつもいっている波動、光ですよね。で、いつもいっておりますように、人間というのは、この世にも、人間界にも、幽界にも霊界にも、神界にも、自分というものが存在しているわけですね。そうして、それぞれが波動でできている。そうすると、元々が光である我々、神の分御霊(わけみたま)である我々に、何も「道」なんぞというややっこしいものは、なくてもいいように思う、ねえ。車が走るから、車道があるでしょう。運転席をおりて歩けば、今度は歩道ですわね、まあ、これは、今、皮相的な説明をしたわけで、たとえば、習い事にして...道(1)
生命の流れというのは、この世のながれもあれば、霊界、神界の流れもあるわけです。霊界神界の流れは、微風水動(みふうすいどう)という言葉があるように、流れるという意識もなにもないところで悠々と流れているわけです。つまり、生命の本体というのは、極めてさりげなく、悠々としたもので、こういう悠々とした生命を、肉にまとっている人間は、本来は、感謝感激の筈なんだけれど、肉の波動は荒いから、なかなか、微風水動というわけにはいかないわけです。夫婦げんかも兄弟げんかもあるわけ。全く人の想いというのはやっかいなもので、なかなか、微風水動─つまり、風は動くともなく動き、水はそれに従って流れるというような神界天界の流れにはなってゆきにくいわけ。ここに、すこうしずつでも近付いてゆくには、肉の身をまとってあらわれてくるさまざまな怒りや...生命(いのち)の流れ
ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にはあらず-というのは、今、中学、高校の教科書にも載っている有名な言葉ですが、これが、大勢の子どもにも、大人にも目新しく毎年毎年見せられているというのは実は、深い神様の方の神はからいがあるわけなんですね、で、このことを話す前に、一寸考えてみますと、たとえば、人と人が会うということでも、時間を決めて会うということもあるけれども、その前の段階では、必ず、会いたいという思いが湧くとか、会わされるとか、お互いがお互いを呼んでいるわけで、気になっていたら、手紙が来たとか、電話がかかってきたとかいうのは、光を交換しているわけです。元々、人間というのは光ですからね、ここから見てると、うちは闇の夫婦だというような顔をしている人もいるけれども、みんな、人間神の子、光の子なんですよ。そこ...いのちは一瞬一瞬変化をしている
〇求める心純な心求める心人を愛し神を愛して真理を求める心(以上詩編、昭和61年7月8日自宅にて)真理を求める心
〇じねんほうに自然法爾ありのままのすがたそれが神じねんほうに
〇吐く息も吐く息も吸う息も神様からの贈り物何一つ神様をはなれたものはないみんな神様からの贈り物
〇皆皆天界の住人〇みんな神様の前に人間のいのちはみんな一つですみんな光の結集なのですみんな光の結集
〇私のいのちは神様のいのち神から流れてくる愛に生かされている私は子ども私は神の愛に生かされている
日々瞬々を愛に生きよう神様に生かされている生命たとえとらわれても想いを放せば愛の光が私たちをとりまくのだすなおにすなおに祈ってゆこう日々瞬々を
〇無(3)無は人間の真性神界への道光の一筋である私たちが宇宙神のみこころに入り切る事実そのもの無は人間の真性神界への道
〇無(2)この世の中にいきていてとらわれをなくすというのは大変なことですそれじゃあみんなあきらめてとらわれているかというとやっぱりとらわれたくない自由な心にあこがれている独占欲、執着心家族への愛でさえもすぎれば他人よりももっとのっぴきならないものを生み出すことになるとらわれることの不自由さを知っているから自由を求めて人は生きるのです枠をとっ払ってとっ払って払った払ったその奥にさん然とかがやいているのが無の世界無とは一人一人のたましいの自由の代名詞私たちはそこを目ざして毎日祈りつづけるのです無の世界を目ざす
〇無(1)無というのはむなしいことではありませんすべてが零になるということでもありませんこだわりをなくした心自由な心を指すのです人間は本来自由なのです無とは自由な心を指す
〇一人一人の心から流れてくるしらべに私は毎日耳をかたむけている泣き顔の人黙り込む老人からっぽになった私の心にしらべが流れ込みその人の心を抱く光の私かしわ手を打ち口笛を吹いて光明を送り込む私がいるこころが光でいっぱいになるとしらべはおのずからやさしくなりいつか光そのものとなって神の世界のきざはしをのぼりはじめる人間の心に眠っている光をよびさます私は神のしもべ私はかしわ手と口笛で光明を送りこむ
〇私のふるさとは神光の世界思い放たれて全てがかがやいているところ人は誰もそこに帰るのだふるさとは神
やさしいやさしいこころのひびきをどうかあなたのものにして下さい人は無限にやさしくなってゆけるものなのです人間をつくった神の愛が無限定の愛念をもって私たちを今もみまもっているからですやさしくやさしく愛深い人であって下さいやさしいこころのひびきを出して下さい
私の口笛私のかしわ手はあなたをあなたのふるさとである神のもとに帰らせる私は神の愛の道案内道にまよった時はいつでも私をよびなさい私はいつでもどこにいてもあなたをあなたのふるさとである神の愛のなかに帰らせてあげる私は神の愛の道案内
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〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
〇不安や恐怖にとらえられたら、平和の祈りをして、守護霊様、守護神様をよびなさい。そして、それでもおさまらなかったら、私を呼んで下さい。空に雲がうかんでいる。しかし、空は、雲をうかばせているというおもいもないし、雲は空にうかんでいるという気持ちもないだろう。全託とは、こういうことなんだよ。全託というもの
〇自分を空っぽにすると、そのまま光が入ってくる。空っぽというのは、いいかえれば無であり、空なのです。空になると光が入ってくる
〇私もあなたもいのちの元は一つ。みんな神さまの子なんです。みんな神の子
〇祈りとおもいとはちがう。しかし、おもいを祈りにたかめて、神様のみこころのなかに、いつか入り切るようになるのが、人間の本来の相(すがた)なんだ。おもいを祈りにたかめること
〇心をただしく保つこと、それには世界平和の祈りのなかに、すべてを投げ込んでしまうといいね。守護霊、守護神が助けて下さる。心をただしく保つには
〇何が善で、何が悪かと人は考える。けれど本当は善も悪もない。光にみちているのがこの世界なのです。この世界は光にみちている
〇神様ごめんなさい、といっぺんいえばいい。くよくよ思っているのは、いのちの流れをとどこおらせる。くよくよ思わない
〇私は光と光を結ぶために来たんだよ。光と光を結ぶために
〇人はいろいろと迷うものだ。けれど、本当のことをいえば、迷っているその奥に、こゆるぎもしない自分がいる。それが本心であり、それが本当の自分なんだ。本心はこゆるぎもしない
〇光一元、光一元、私のからだは光一元そう思えばいい。私のからだは光一元
〇素直な人。ただ、いい人を目ざすのではない。はじめは、善意にあふれた思いやりの深い人というのでも、段々、そこにつよさとたくましさを加えて、内のいのちが光りかがやくようになる。そこまでを神様は考えていらっしゃるし、私はそれを手伝っている。つよさとたくましさを加えて
〇神に不可能はない。ただ愛念を送る方法を、一人一人の器にしたがってかえているだけである。神に不可能はない
〇神のしらべはいつも流れて、光に溶け込んでいる。神のしらべは光の中に
〇自然は神と調和し、人と調和するすがたをあらわしたものである。皆様、明けましておめでとうございます本年もどうぞよろしくお願いいたします自然というもの
〇生かされているということはありがたい。生かされていることに感謝
〇 神々の助けがいつも及んでいる。いつも神々が…
〇こころを鎮めれば、消えてゆく姿がみえる。こころを鎮めれば
〇愛を入れなさい。 〇 身もこころも神にゆだねなさい。身もこころも神に
〇沈思黙考というのは大事なことだ。沈思黙考を
〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
〇不安や恐怖にとらえられたら、平和の祈りをして、守護霊様、守護神様をよびなさい。そして、それでもおさまらなかったら、私を呼んで下さい。空に雲がうかんでいる。しかし、空は、雲をうかばせているというおもいもないし、雲は空にうかんでいるという気持ちもないだろう。全託とは、こういうことなんだよ。全託というもの
〇自分を空っぽにすると、そのまま光が入ってくる。空っぽというのは、いいかえれば無であり、空なのです。空になると光が入ってくる
〇私もあなたもいのちの元は一つ。みんな神さまの子なんです。みんな神の子
〇祈りとおもいとはちがう。しかし、おもいを祈りにたかめて、神様のみこころのなかに、いつか入り切るようになるのが、人間の本来の相(すがた)なんだ。おもいを祈りにたかめること
〇心をただしく保つこと、それには世界平和の祈りのなかに、すべてを投げ込んでしまうといいね。守護霊、守護神が助けて下さる。心をただしく保つには
〇何が善で、何が悪かと人は考える。けれど本当は善も悪もない。光にみちているのがこの世界なのです。この世界は光にみちている
〇神様ごめんなさい、といっぺんいえばいい。くよくよ思っているのは、いのちの流れをとどこおらせる。くよくよ思わない
〇私は光と光を結ぶために来たんだよ。光と光を結ぶために
〇人はいろいろと迷うものだ。けれど、本当のことをいえば、迷っているその奥に、こゆるぎもしない自分がいる。それが本心であり、それが本当の自分なんだ。本心はこゆるぎもしない