〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
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(前日からの続き)私は、天の私と地の私と合体した時にとよくいいましたけれど、本当の自分自身というものを見たら、これはもう安心するより他しようがないんです。輝いてるから。皆輝いてますよ。輝いてますよといって皆にそれを見せてあげたいけれども、まだそこまで時が来てなかったから。カラッポになってニコニコしてる五井先生というものを通して、皆ここへゆけるんだな、ここを通して神様のみ許に行けるんだな、そばに行けるんだな、一緒なんだなということを勉強してほしい。そう思いましたよね。みんな私が引き連れて引き受けて、自信がなかったら出来ませんよ。神の子であるというそういう自信がなきゃあ、そんなことは喋べれない。五井先生そんなこと言ったってと思う。そういう想いもいっぱい受ける。だけども、私はまちがいのない神様の愛というものを知...神の子について(5)
(前日からの続き)この世に生きてる限りはやっぱりどこか皆人生苦労しますでしょう。また、苦労しなきゃ駄目なんだよ。苦労しないとねえやっぱり。すっといって良かった良かっためでたしめでたしだと、何の深い喜びも湧いてこないということになりましてね。あるいは、いろいろ悩みを持って来られたってね、その経験がなかったら分からないということになりましてねえ。この何とかという本の中に五井先生がこう書いてますから、それ読んで下さい、私は分かりませんなんてことになる。それじゃあ困るんですよ。確かにね、来られてどうしましょうと言われた時に、それは五井先生と呼んで下さるのはいいけどね、その人は五井先生よりも、あなた方の智恵を借りたい。まず目の前にいる生きているあなた方のそういう言葉を通して、何かすがりたい訳でしょ。ところがここに書...神の子について(4)
(前日からの続き)みんな、どこどこの出身とか、何歳であるとか、経験がどうであるとかいいますね。いいますけれども、そういうものは全然神様は頓着しない。みんな自分の流れから出てった子どもたちでしょ。みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人ですよね。皆そうです。そこをまちがうと大変です。あの人は経験が浅いから、そんなことはとてもできないだろうとかね。誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。そんなことは決めちゃあいけないんですよ。流れというものがあるでしょ。気の流れというものがね。その気の流れというものはね、時に乱暴なことしますよ。この人にやらせときゃまちがいないというものをね、何をまかりまちがったか、全然無神経な無責任なね、一見そう見える人に任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、仕事が滅茶苦茶になっちゃっ...神の子について(3)
(前日からの続き)神の子というものはね、皆が神の子になっちゃえば、迷いがないんですよ。迷う必要がないんです。だけども迷いますね。世の中に生きてる以上はね。ただ何度も言うようだけれども、肉体を持ってる我々自身を我々だと思ってしまうと、迷うんですよ。だから、迷ったり悩んだり悲しんだり寂しくなったり、いろんな事がありますよね。あるけれども、しかし、それが自分だと思う心をちょっと横に置いて、本当の自分はどこだろうと訪ね求める。それが祈るということなんですけれども、訪ね求めてずっと旅をして行くと、そこに神様がいらして、そうして、神様に愛されてる子どもである自分というものがでてくる。そして、その喜びで一杯になり祈りで一杯になってる時に、自分というものが消えて、光だけになって、そこにただある。あるいは、自分というものを...神の子について(2)
神様というもの、それから神の子というもの、これはもう切り離せない。聖書やお経なんか読んでも、仏子とか神の子とか書いてあって、何となく分かりにくいけれども、くだいて言えば、皆平等に誰一人として違うということなく、神様の子どもなんだということですね。その神様の子どもというのはどういうことかといいますと、神様から流れてくる絶えることのない生き通しの生命というものを受けて、働く生命なんだということですね。(つづく)神の子について(1)
(前日からの続き)我々の生命だって、ずっと生き通しだというのは観念論じゃないんです。本当にずっと我々は抱かれてゆくんですけど、それはこの神様というふるさとをもってればこそね、我々はそういうものを実感することができる。あたたかいんですよね。とてもあたたかい。ちょうど私の母の絶対の信頼のようなね、そういうあたたかさですね。それがあるから、それを自分の体の中に貫いて見ちゃったから、私は本当の私に出会っちゃったから、だから、私はあなた方に自信をもってね、間違いのない世界が神様という世界があって、大きな愛があって、それによって我々が生きているんだということを語りつぐことができる。これは間違いのない事実ですね。それは五井昌久だけにあるんじゃない。皆の中にあるんですよね。そういう信仰は、五井先生だけで五井先生ならではだ...我らのふるさと(3)
(前日からの続き)ところで、私たちは、生まれていろんな所をふるさとにもっているんだけれど、で、ふるさとを離れて過ごしている人もたくさんいるんだけれども、私のふるさとは何かというと神ですねえ。神への郷愁という本を書いたけれどもね、これはもう変わることのないふるさとですね。神様というのはね、これはもうとてつもなく大きな愛でしょう。で、その愛というのは高くて、そうしてもう何ともいえない安心感、ここへ帰っていけば間違いないですよ。絶対に間違えっこないんです。だから、私たちは安心して文句も言えるし、恨み言も言える。とにかく神様なんだから。しかし、我々はそこへ帰るということだけではなくって、そこへ出発点にしてね。そこがふるさとなんだということ、我々は神のふるさと人なんでね。原稿にも書いたけどさ。そのふるさと人である我...我らのふるさと(2)
この間はお盆でね(講話会当時)。たくさんの人がふるさとへ向かって、ひかり(当時)や飛行機などを使って大移動をしましたよね。毎年毎年あれをやるんだね。何故、ふるさとへ向かって人間は帰るのかなあと思うけれどもね。なつかしいんですよね。やっぱり、自分の生まれたところ、育ったところ、そして、自分を快く迎えてくれるところ、飾りがとれるところ、それがふるさとでしょうねえ。私も、新潟と東京と両方ふるさとをもちましたけどね。どっちもいいですね。私は、私の生きていた時はねえ、母の中にやっぱりふるさとを見てましたね。小っちゃい母でしたけどね。いつもニコニコして、私のすることに絶対の信頼をおいてくれてね。あれは有り難かったねえ。あれがなかったら、私は修行出来なかったんじゃないだろうかしら。そう思いますよね。他の人が、五井さんど...我らのふるさと(1)
(前日からの続き)今、白光真宏会が、あなた方は神の子ですと言ってるけど、それは、あなた方の中にある神様の深い生命というもの、それを用いていただく時には遠慮しちゃあいけないということです。それをどう用いて下さるかは向こうが決めることであって、我々はそこへ導いて下さるままに、祈って進んでゆけばいいんです。ただだまって座っていても構わないんです。任せてしまえば、向こうがきっちりして下さるんだから。ただ、我々の中に、性格というものがあるでしょ、気持ちというものがありますよ。だから、そんな私なんかとか思うけれども、そうじゃない。毎日毎日投げ出して祈ってるんだから、カラッポになる修行をしているんだから、ある時に、ものすごい大役がくるかもしれない。ある時に、ものすごい辛いことがくるかもしれない。いいことも悪いことも来ま...心と本心(8)
(前日からの続き)生きるということにしたって死ぬということにしたって時があってね。我々のこの肉体人間の情から言えばとてもやりきれないいろんな出来事だって、それはやはり選びの時なんですね。向こう側からすれば選びの時なんです。そうして皆のことを考えてる。そういう時が与えられる時はね。だから、ああこれは神様が与えて下すったものなんだなと考えることですねえ。それを目指して、世界平和の祈りというものがあり、皆さんの統一というものがあり、印というものがある。皆離れてるもんじゃないんですよ。あなた方の祈り心が深くなって、自分を深く省みて、自分の中に、そうだ神様からの宝物を私たちはいただいているんだなと、そう思える心になった時に、そう思える心が一瞬間きたら、これはもう大変なことですね。で、それをずっと続けていって下されば...心と本心(7)
(前日からの続き)神様というものが我々のためにいて下すってね、神様というものから我々は分かれてきた分生命、分霊で、そうして、我々が我々の分に応じて、あるいはそれ以上の働きを、神様の力によって愛念によってさせていただくんだということね。本心と心というものは分かれてるものじゃないんですよ。本心からずっと光明が出ましてね、我々の肉体も想いも、想いを出してる心も浄めていくんです。祈りがそれを浄めていくんですよ。だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、南無阿弥陀仏の中に、いろんな祈りの中に溶け込んで、そうして最後には、自分自身が役に立つも立たないも、とにかく神様の光になって無になって動いていく時に、この世の中というのは光明波動になっていく訳ですね。だから、役に立たない生命なんていうのはこの世の中に一つもないんです。...心と本心(6)
(前日からの続き)もう何十回も言ったことだけども、我々の心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心というものがある。そして、先程申しましたけどね、毎日毎日の生活の中でいろいろな座がある。その座に座らせていただいている。喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。あるいは、孤独の座にも座るんです。そうして、そういうところへ座らせていただきながら、私たちは、神様の大きな愛の座、本心の座、光の座、神様の座に招かれて、そこへ進んでゆく訳ですね。それは何も向こうへ行って修行しなくったって、毎日毎日がそうなんですよ。この世と向こうは続いているんだからね。この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が意識しようとしまいとね、その座が進んでゆくかどうか、転落するかしないか、毎日毎日の想い...心と本心(5)
(前日からの続き)いつも申しますように、信仰というのは、例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいはお寺に行って、神様とか仏様に祈って、その祈る姿だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、音楽家は音楽家で、大工さんは大工さんで、一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、無になって一つのことを成し遂げる。その中に神様がいらっしゃる。その中で神様が働くんです。自分をなくした時に神様というものが現われてくる。愛念というものは現われてくる。その愛念というものが現出して、そうして、本当に今度は神様の愛に洗われる。我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬新しくなってゆくんですね。そういうことが本当は生きるということなんです。そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり毎日死んでゆく人がある、重病の床にふしてる人がある、事故にあっ...心と本心(4)
(前日からの続き)向こうへ霊界移行するでしょう。霊界移行したばかりの人たちというのはね、やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。早く死んじゃって、(残してきた)子どもが小さいのにとか、ありますでしょ。そうすると、向こうは素直というのを貫いて修行するんですよ。さっき申しましたね。神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、そういうものをとっ払っちゃってあなた方を愛してるんだということを申しましたね。だから、そこのところを深く信じる。難しいけれども深く信じる。任せてしまう。それを向こうへ行ってもやるんです。座禅したりね、いろいろありますよ。いろんな修行の仕方があるけれども、あなた方にもさせたけれどもね。だけど、それは何のためか。すっきり自分の生命が神様の方に抱きとられているということを喜ぶための修行なんで...心と本心(3)
(前日からの続き)我々は、本当はいろいろな座にいるんです。それは、特に統一しなくてもね。日常の世界の中でもね。例えば、遊びに行ったり食事をしたりとか、そういう信仰のことを離れても、その時その時いろんな座にいるんですね。それはどういうことかというと、やっぱり気持ちのいい人と会えば自然に心が和んでね、言葉もやわらかになって、いろんな話も弾みますでしょ。そういう時には心が喜んでくるんですねえ。そうして、いろいろな煩いを一時忘れて、子どものように素直になって、その時には、私たちは素直という座にいますね。そういう自覚をもたなくても、そういうところへ導いて下さるのが守護霊さんであり守護神さんですね。我々の生命とか生き方とかいうものは、もちろんこの世の中においても向こうに行っても努力が必要ですが、しかし、知らず知らずの...心と本心(2)
これも何度も話をしたことですけれどもね。心というものと本心というものは、これは違うんですね。元々から言ってしまうと、本心というものがあなた方の本来の姿。光り輝く姿なんです。どうもね、言葉というものは不自由でねえ、本心というとその本心というイメージが湧いてくるでしょう。自分のイメージに訴えてその像をつくっちゃうからねえ。それで、どうにもしょうがなくなっちゃって把われちゃうんだけれども、なるだけそれをくだいて言おうと思うとね。つまり、光明があるところですね。神様の光が渦巻いているところですよ。それが本心ですね。それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、どこともなくスポッとおさまってる、それが本心ですね。その本心というものは、いつも私が申しますように、全く迷いのない姿。言葉...心と本心(1)
(前日からの続き)壇上からこうやって見てますとねえ、この世の中のいろんな有様が分かる訳ですよ。そして、あなた方の一人一人の気持ちの動きも分かるわけ。だから、一人一人の中へ本当は降りていって、そうして、辛いね苦しいねと言ってあげたいですよね。本当にそうだよね。そうだけれども、そこにとどまっちゃあ、肉体人間のこの限界のところだけに終っちゃうんですね。我々の生命というのは、何度も言うけれど、本当は明るいもんだから、そこを見つめた人間が言うんだから、これは間違いないですよ。私が全部引き受けたんだから、私の方へいろんな煩いをみんな投げてくれればいいんです。ただ焦ったら駄目なんだね。私も本当に気短かで、悟る前も悟った後もあんまりいい人間ではなかったけどさ、やっぱり焦るんですよ。でも、焦ったら本当に神様が光を出しにくく...神の愛念について(7)
(前日からの続き)我々は、肉体の我々を我々だと思っている以上は限界がありますよ。体力にだって気力にだってね限界がある。肉体というものはいつか脱がなきゃいけない。百年生きる人は少ない訳でしょ。その百年の間たとえ生きたとしても、生き生きと毎日喜び深くなんて、そんなことはなかなかできにくい訳ですよ。そうじゃなくて、肉体におもきを置くんじゃなくてね。私の生命をつき動かしているものは神様なんだ、神様の愛なんだ。私の深いところは神様がみんなご存知なんだ。だから、今は私は辛いけれども、何だか分からない程辛いけれども、しかし、神様が全部抱きとって、祈って、明るい方へ導いて下さるんだというそこだけ信じることができればね、そういうことを思って、あるいは念じて祈ることができればですね、そうしたらもうこれは明るい方へ生命の大元の...神の愛念について(6)
(前日からの続き)何度も言うけれども、やっぱり毎日のこと、煩いとか何だとかやって過ごしてゆくと、とてもそんなこと思えないでしょ。だから、その思えないなあ、とてもそうじゃあないなあというのを、もう死ぬまでね、何百回何千回思ったって構わない。そうは思えない、そこまでは私はいかない、そこまでは俺はそんなとてもじゃないけど、五井先生が言うようなところまでいかないと思って構わないから、とに角、祈りの中へ入っちゃいなさいよ。入っちゃったら後は、守護霊さん守護神さんや私だとか皆で、洗ってきれいにして、そうして、また明日やっていく力をこっちから与えてあげるんだからね。ただ、私がするんだと思えば苦しくってしょうがないんです。それはさせていただくということなんです。そのさせていただくというのが皆間違うのはね、いい事をさせてい...神の愛念について(5)
(前日からの続き)ところが、やっぱり人間というのは弱いでしょう。斉藤さんが、おれがおれがというそのがを取ってと書いたでしょ。そのが(我)を取ってというけども、なかなか我というものはなくならないんですよ。だから、世界平和の祈りがある。その我をもって、すいません任せ切れない私ですけれども、どうぞ世界平和の祈りの中で、祈りのエレベーターの中で、五井先生の柏手によって口笛によって、あるいは霊団の皆さんの光によって、神様の愛によって、そうして、この我を少しでも少なくして下さい、消して下さいと言って祈る。その時には、少なくして欲しいと想って祈っていても、こっちから見ていれば、もう空っぽになってるんです皆さんは。だけども、皆私なんてとか私なんかが祈ったってとか、そういう想いがしみついちゃってるからね、だからできないんで...神の愛念について(4)
(前日からの続き)いつも申しますように、信仰というのは、例えば、キリスト教なら礼拝堂へ行き、あるいはお寺に行って、神様とか仏様に祈って、その祈る姿だけが信仰じゃない。芸術家は芸術家で、音楽家は音楽家で、大工さんは大工さんで、一所懸命に何か一つのことに打ち込んで、無になって一つのことを成し遂げる。その中に神様がいらっしゃる。その中で神様が働くんです。自分をなくした時に神様というものが現われてくる。愛念というものは現われてくる。その愛念というものが現出して、そうして、本当に今度は神様の愛に洗われる。我々の生命というものは、毎日毎日毎瞬毎瞬新しくなってゆくんですね。そういうことが本当は生きるということなんです。そんなこと言ってもね、五井先生、やっぱり毎日死んでゆく人がある、重病の床にふしてる人がある、事故にあっ...神の愛念について(3)
(前日からの続き)今、何でもって生きていったらいいか分からないというような生きにくい世の中ですよね。不安がある、いろんなことが起こってくる。事故はあるし、災害はあるし、今年みたいに天候が不順じゃあとか言ってるけれども、実際に毎日毎日、今もどこかで大雨が降り雷が鳴って、雷に打たれて死ぬ人だってある。雨に流されて家がどっかへいっちゃう人もある。つぶれて下敷きになってけがをする人やなくなっちゃう人がある。そういう不浄の世の中というもの、これを見ていると、何を頼りにして何をよりどころにして生きていったらいいか分からないという不安がつきあげてくる。というのがこの世の中の本当のところであります。で、そういうところをふまえて、私は何を申し上げるかというと、我々というものは、常に神様の愛によって生きているのであるというこ...神の愛念について(2)
神の愛念についてということでありますが、いつも申しておりますように、神様の愛念というものは、これは絶えることなく、ゆるしの大河ともいうべき大生命の根元から流れてきているものであります。そして、神様の愛念というものは、我々人間のこの肉体や想いや、我だとか何だとか、余分なものがいろいろくっついてはいるけれども、しかし、その中を貫いて流れている。つまり、神様の愛念というものは、離れて何か遠くにあるものではなくて、自分の中に絶えず息づいている、生命そのものなんだということをまずここで覚えておかないと、我々は大変な間違いをすることになってゆく。(つづく)神の愛念について(1)
(前日からの続き)その生命というものは、どんなに豊かであることか。これは分からないほど豊かなんですよね。言葉なんかでは言いつくせないでしょう。量とか質の問題じゃない。存在そのものが愛なんだから、その愛に抱きとられて、そこから出てきた生命というものが我々自身だとすれば、我々というのはすごい宝物をもっていただいてこの世の中に出てきてる訳ですよ。だから、その宝物をもってながら、もちきれませんすいませんということは、やっぱりこれは傲慢不遜になる訳です。いただいたものなんだから、それをどう使うかは神様の方でお決めになるんだから、そこですっきりと神様にお任せをしてね、そうして、どう使っていただくかはわかりませんけれども、日々私どもはつとめてまいりますというつもりで、世界人類が平和でありますようにとやっていきますとね、...五井先生と呼んで下さい(7)
(前日からの続き)神様の御心というものは深くて暖かくって本当はやわらかい。北風と太陽の話じゃないけど、北風が吹いたって旅人の衣はずっと寒いから脱ぎっ放しにできない、むしろ、どんな風が吹いてもしがみついたでしょう。だけど、太陽の場合はポカポカ照ったから、サーッと脱いじゃったね。あれと一緒なんです。どんなものもゆるしてね、どんなものも溶かす。それが太陽ね、それが神様の愛なんですよ。そういうふるさとをあなた方はもってるわけ、自分の中にね。それを日常の慌しい中ではね、ここにふるさとがあると思えたってなかなか思えないから、だから、祈るわけでしょ。で、祈りの中でね日々瞬々の想いの掃除をしてもらって、そうして、そのひびきにのって統一してもらってねえ、もらってというのは、私があなた方にしてもらうんですよ。あなた方が五井先...五井先生と呼んで下さい(6)
(前日からの続き)さっき〇〇さんが言ってましたね、雑念がどんどん出るけど大丈夫だろうかと。大丈夫です。自分の中の雑念というものはそんなに気にする必要はありません。出させとけばいいんです。そういうものもこっち側はもうよく知ってますしね。前も話したかわからないけれども、法然さんという偉いお坊さんが、ある信者さんに聞かれたでしょう。南無阿弥陀仏と言うんだけれども、南無阿弥陀仏と言えば言うほど雑念が出てきて困ると。法然さんが偉い人でねえ。あんたもそうか、わしもだという話があったよね。あれと一緒なんですよ。統一会に来てね、眠ってもいいいんです。本心のところで霊体は聞いていますからね。肉体は疲れるから眠っちゃってもいいんですよ。そこをねびしっとして、絶対にお話だからお祈りだから、まっすぐに背筋を伸ばしてと、そんなもん...五井先生と呼んで下さい(5)
(前日からの続き)まあ、バカ話みたいにしゃべってますけど、やっぱりねえ、生命の流れをね、滞らせないようにしておかないとね。これはしんどいですよ。辛いんです。本当にね。今しんどいという大阪弁を使ったけれどね、あれは心労なんですね。あれは心疲れるんです。心労ですね。だから、しんどいという言葉はね、あれは実際、心の憂さという言葉があるけれども、本当に心が疲れて疲れて大変だという言葉ですがね。ですけど、ずっと申してますように、本心というものは、心が疲れているように見えても、本当に疲れをしらない。疲れを知らないどころか、神様の側から光というものを受けとってね、そして、あなた方の中のそういう想いとか悩みとかいうものを軽く軽くして、光の方へ引っ張ろうとしている。そういうものが同時にあなた方の奥に深くにあるのですからね。...五井先生と呼んで下さい(4)
(前日からの続き)人に対する時というのはね、私の経験によればと、それを出しちゃうと相手が悲しむね。六十七十八十生きて来た人がね、私はこう生きて来たと言いたくなるのもよく分かるけれども、悩んで苦しんで切羽詰まって来る人というのは、それどころじゃないんですよ。その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、とにかくただ単純に慰めて欲しい。そこから悲しみをとって欲しい。軽くして欲しいんです、まず。医者のね、頭痛がするから頓服下さいというのと同じなんです。頓服あげといてね、熱下げて頭痛とって、頭痛とった後にね、何で頭痛くなったかというの一緒に考えましょうよというゆとりを、そこから導き出すんですよ。頭痛とらないでね、説教したってしょうがないの。だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、ある人はおなかが痛いといってとんで来...五井先生と呼んで下さい(3)
(前日からの続き)会館でやってた最初の頃に、皆熱心でしたよ。皆くい入るように話を聞いてくれてね、最初の白光の人たちは。今の人たちが駄目だというんじゃないですよ。本当にくい入るように聞いてくれたけれども、あんまり深い話をし過ぎるとくたびれちゃってね、みんな。とっても私はできないわとかね、思っちゃうから。だから、ある時は魚屋のおっさんになったりさ、ある時は八百屋になったり、それから、本当に落語家じゃないかというくらい軽口とばして、そうして、ふーっと気がついたら神様のことを考えていたというふうにもっていく。これ方便なんですね。で、その時々によっていろんな話し方をする。さっきの私と今の私と違うのかといったら、違わないんですよ。全然違わない。だけども、とにかく機をみてね、人をみてね。人をみて法を説けというでしょ。あ...五井先生と呼んで下さい(2)
私は落語家じゃないかなあと言われた時が随分生きている時にあるんですね。それは、話の中に冗談とかね軽口とか。やっぱり法話というものはね、わかりやすくやさしい言葉で言って、5つ6つの子どもにも分かるような話し言葉でないと、本当に深い言葉というものは入っていかない。深い真理というものも入っていかない。で、こうしなきゃならん、こうした方がいいということは分かっていてもね、人間というものはそんなにできるもんじゃないんです。簡単にできるのなら、五井先生はいらないの。釈迦やキリスト、その人たちでも救いきれない、今のこの世の中の複雑ないろんな要素があるでしょ。釈迦やキリストだけでもとうてい駄目というところにもってきて、深淵な言葉だけじゃね駄目なんです。だから、本質論も必要だけれども、本質論と同時に、具体的にやっぱり、寂し...五井先生と呼んで下さい(1)
(前日からの続き)例えば、いろいろな問題が・・・。皆様方の集会や支部や、あるいは、全国を巡講なさる場合に、いろいろな問題が皆様方のところへ山積みのようにくると思います。その時に、こんな大きな問題は今まで私は経験したことがない。そんなことは私の手にあまる。そういう想いに皆把われると思います。それは把われて当然でございます。けれども、事の本質は、本当に大事なつかまなければならないことは、いろいろな起こってきている現象というものは二つあって、一つは、今私が申しました、皆様のそれぞれの想いによってつくられていく世界が現象になっていく。前にも申しましたように、天変地異というものは、皆様の業想念というものが、ある時ある一定の限度を越えて破れて、そして、また、ある調和を取り戻そうとする時に、大水になったり、大地震になっ...光満ちた世界(6)
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〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
〇不安や恐怖にとらえられたら、平和の祈りをして、守護霊様、守護神様をよびなさい。そして、それでもおさまらなかったら、私を呼んで下さい。空に雲がうかんでいる。しかし、空は、雲をうかばせているというおもいもないし、雲は空にうかんでいるという気持ちもないだろう。全託とは、こういうことなんだよ。全託というもの
〇自分を空っぽにすると、そのまま光が入ってくる。空っぽというのは、いいかえれば無であり、空なのです。空になると光が入ってくる
〇私もあなたもいのちの元は一つ。みんな神さまの子なんです。みんな神の子
〇祈りとおもいとはちがう。しかし、おもいを祈りにたかめて、神様のみこころのなかに、いつか入り切るようになるのが、人間の本来の相(すがた)なんだ。おもいを祈りにたかめること
〇心をただしく保つこと、それには世界平和の祈りのなかに、すべてを投げ込んでしまうといいね。守護霊、守護神が助けて下さる。心をただしく保つには
〇何が善で、何が悪かと人は考える。けれど本当は善も悪もない。光にみちているのがこの世界なのです。この世界は光にみちている
〇神様ごめんなさい、といっぺんいえばいい。くよくよ思っているのは、いのちの流れをとどこおらせる。くよくよ思わない
〇私は光と光を結ぶために来たんだよ。光と光を結ぶために
〇人はいろいろと迷うものだ。けれど、本当のことをいえば、迷っているその奥に、こゆるぎもしない自分がいる。それが本心であり、それが本当の自分なんだ。本心はこゆるぎもしない
〇光一元、光一元、私のからだは光一元そう思えばいい。私のからだは光一元
〇素直な人。ただ、いい人を目ざすのではない。はじめは、善意にあふれた思いやりの深い人というのでも、段々、そこにつよさとたくましさを加えて、内のいのちが光りかがやくようになる。そこまでを神様は考えていらっしゃるし、私はそれを手伝っている。つよさとたくましさを加えて
〇神に不可能はない。ただ愛念を送る方法を、一人一人の器にしたがってかえているだけである。神に不可能はない
〇神のしらべはいつも流れて、光に溶け込んでいる。神のしらべは光の中に
〇自然は神と調和し、人と調和するすがたをあらわしたものである。皆様、明けましておめでとうございます本年もどうぞよろしくお願いいたします自然というもの
〇生かされているということはありがたい。生かされていることに感謝
〇 神々の助けがいつも及んでいる。いつも神々が…
〇こころを鎮めれば、消えてゆく姿がみえる。こころを鎮めれば
〇愛を入れなさい。 〇 身もこころも神にゆだねなさい。身もこころも神に
〇沈思黙考というのは大事なことだ。沈思黙考を
〇想いを遊ばせるようにすると、ゆとりが出てきて、いつの間にかとらわれの少なくなっている自分に、気付くようになる。皆さま、いつもありがとうございます。都合により本日をもちまして、しばらくブログを休ませていただきます。想いを遊ばせるように
〇不安や恐怖にとらえられたら、平和の祈りをして、守護霊様、守護神様をよびなさい。そして、それでもおさまらなかったら、私を呼んで下さい。空に雲がうかんでいる。しかし、空は、雲をうかばせているというおもいもないし、雲は空にうかんでいるという気持ちもないだろう。全託とは、こういうことなんだよ。全託というもの
〇自分を空っぽにすると、そのまま光が入ってくる。空っぽというのは、いいかえれば無であり、空なのです。空になると光が入ってくる
〇私もあなたもいのちの元は一つ。みんな神さまの子なんです。みんな神の子
〇祈りとおもいとはちがう。しかし、おもいを祈りにたかめて、神様のみこころのなかに、いつか入り切るようになるのが、人間の本来の相(すがた)なんだ。おもいを祈りにたかめること
〇心をただしく保つこと、それには世界平和の祈りのなかに、すべてを投げ込んでしまうといいね。守護霊、守護神が助けて下さる。心をただしく保つには
〇何が善で、何が悪かと人は考える。けれど本当は善も悪もない。光にみちているのがこの世界なのです。この世界は光にみちている
〇神様ごめんなさい、といっぺんいえばいい。くよくよ思っているのは、いのちの流れをとどこおらせる。くよくよ思わない
〇私は光と光を結ぶために来たんだよ。光と光を結ぶために
〇人はいろいろと迷うものだ。けれど、本当のことをいえば、迷っているその奥に、こゆるぎもしない自分がいる。それが本心であり、それが本当の自分なんだ。本心はこゆるぎもしない