わたしの抱く石丸氏への印象は、「清々しい」という一語である。 議場にいて議員と向き合っているときは厳粛で、ピリピリした空気感を漂わせるし、たまに皮肉たっぷりなことも言うが、ふだんの石丸氏は笑顔を絶やさない素敵な人物だといえる。 ルソーも情緒豊かな人
ひきもり生活の改善と社会復帰を目指して、自分探しをしています。
かつて鬱病で引き篭もっていたオヤジの独白ノートです。時系列にそった自分史を書きあげ。今は適当に日々を生きている、オヤジの心の日記です。
子路曰衛君待子而爲政章 久しぶりに読み途中であった『論語』を開いた。 そして、孔子はやはり物事の道理がわかっている賢い人だなと感心した。 名が実にともなうことが大事。 名分を正すことが社会や政治を正すことになる、と。 そんなものかな? もっと効
誰を愛したらいいのか。誰を信じたらいいのか。われわれを欺かぬのは誰なのか。すべての事実、すべての言葉を親切にわれわれの尺度で測ってくれるのは誰なのか。われわれのことで誹謗の種を播かないのは誰なのあ。かいがいしくわれわれを慰めてくれるのは誰なのか。われわ
わたしは最初にいくつかの推論をあえて行い、いくつかの推測を示したが、それは問題を解決するためというよりも、問題点を明確にし、その真の姿を示すことを目的とするものである。同じ道を楽々ともっと遠くまで進める人もいるだろうが、最終的に解決できる人はいないだろ
5月に読んだ本の白眉はプーシキンの『オネーギン』。 いろいろな意味で素晴らしい一冊なのだが、他の人の感想を読んでみたりすると、案外と低く評価されているのには驚かされた。が、それは読解力や作品に対する予備知識の差なので致し方ないのだろう。 日本で言うと
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わたしの抱く石丸氏への印象は、「清々しい」という一語である。 議場にいて議員と向き合っているときは厳粛で、ピリピリした空気感を漂わせるし、たまに皮肉たっぷりなことも言うが、ふだんの石丸氏は笑顔を絶やさない素敵な人物だといえる。 ルソーも情緒豊かな人
三度目の読了である。 なぜ何度も読むかと訊かれたら、こう答える。 ①数回読まないと、全体像を俯瞰して見ることができないから。 ②『社会契約論』を読んで理解することも重要だが、その前提である本著をきちんと理解していなければ、『社会契約論』を誤読する恐れ
昔つくったプラモ。ただそれだけ。 携帯を変えたので、写真を撮ってみただけ。
ルソーは言った。 名誉というのは、他人に評価されるとか社会的に実績が認められることではない。 そうではなく、市民としてあるいは個人としての為すべき役割を果たすことである、と。 つまり、動画で言われている「誇り」というのは、そういうものであろう。
つぎにどのメディアに出演されるのかと楽しみにしていたら、予想を覆して「一月万冊」に出るとは! と正直驚いてしまった。 一月万冊の清水氏、本間氏、安冨氏は、石丸氏のことをよく調べもせずに適当なことを言っていたので、正直まったく期待していなかった(そう
(13:00くらいから) 否定的な部分だけ取り上げ、肯定的な部分は報道しない。 これがメディアの傾向性。 人間は危機管理的に否定的な情報に敏感なのは仕方ない面があるが、それだからこそ、メディアは意識して是々非々の報道をするべきであるのだ。でもそれが全般
具体的な政策の話はほとんどなし。 反自民、非小池という立場での批判だけという内容。 そして、ぼんやりして曖昧かつ抽象的な内容。出馬会見だから仕方ないといえば仕方ないが……。 時間も30分なので、足りていないと思えるが、参議院議員ゆえいろいろスケジュー
東京都知事選に出馬表明した石丸氏のXのポストが若干炎上していいるが、多くの人は誤解して彼を批判している。 この会見はメディアに向けた記者会見で、メディアの種類も限定しています。よって、第40条の出だしから該当しないという理解です。親切な方がいらっしゃるよ
広島・安芸高田市長が出馬表明 東京都知事選 Pay it forward の話もすれば漫画にある名言の話もする。 天動説から地動説の話には説得力がある。けど、すごく長い時間がかかる。人間は前の世代の慣習を受け継いでいくから。しかし、それでも種を蒔くしかない。蒔き
リルケにロダンを語った美しい文章がありますが、その中でリルケは、私の読み方が正しいならば、こういう意味のことを言っている。芸術家は、美について考えやしない、考えられぬものなど考える筈がない。「美」を作り出そうなどと考えている芸術家は、美学の影響を受けた
素晴らしい動画だ。 能登半島地震のときにも、ボランティアで現地に入った人を叩いたりといったことがあった。 そもそも、人を叩くというのは、相手を自分の思い通りに支配したい、あるいは自己承認を得たいという自分勝手で傲慢な優越感なのだ。 すごく昔に、寄
本著は非常に優れた著作といえる。 しかし、残念な点もいくつかある。それは、著者のフラーがイギリス人であることから、英米から見た視点でしか語られていない点である。より斜めに見るなら本著の主目的は、政治の目的を理解せず、戦争の目的は勝利であると勘違いした、
現代の国民国家の礎を、ほとんど一人で作り上げたといって過言はないナポレオン史だけに、読み応え十分であった(上下巻で1200ページ)。 ナポレオンといえば戦争という印象だが、むしろそこより、ホッブスが『リヴァイアサン』で述べた、「万人の万人に対する闘争」とい
第四幕と第五幕のあらすじが必要な向きは wiki をどうぞ。 さて、「第四幕・第五幕」について考察するまえに、『ファウスト』の主命題をもういちど確認しておきたい。それは、ゲーテ自身の言葉にある、以下の内容といっていいだろう。 合一しているものを二分し、二
ほんの少し前、読書メーターでこのタイトルに関する会話をした。 だけれども、残念なことに「あなたの理解、間違ってるんじゃない」というような返事をされて、酷くがっかりした。 ちょっと昔であれば、「いや、そういうんじゃなくて、説明したかったのはこういうこと
「第三幕」は、ゲーテの残した言葉によると、「主要な仕事の頂点」を描いたものとされている。 ゆえに、「第三幕」はゲーテが残した真髄が結晶化した部分といえるのだそうだ。 さてでは、彼はこの「第三幕」で、何を語っているのだろうか? しかし、これに簡単に答え
「第二幕」のあらすじは、以下の通りである。 古代ギリシャ世界の「原初」である、混沌のその向こうにある「母たち(無)」へと赴き、絶世の美男美女パーリスとへーレナを皇帝のために連れてきたファウストではあった。だが、彼は「母たち」へ行ったときに使った、金の鍵(
さて、「第二部 第一幕」である。 が、その前に「第一部」と「第二部」の関係性を再度かえりみて、『ファウスト』全体の構造を見ておきたい。 「第一部」は「幕」構成がない。ということは、『ファウスト』が二部構成であるとするなら、第一部は「序幕」ということ
「第一部」は一般庶民、いわゆる平民の世界を描いたものだが、「第二部」は、がらりと変わり、王侯貴族たちの世界が描かれてゆく。 しかし、その前に、ファウストが「グレートヘンの悲劇」からうけた傷を、自然のもつ力で癒される「風趣のある土地」の場面が描かれる。
以下、読書メーターに投稿した感想。 第一部はグレートヘンの悲劇が描れる。物語のあらすじは複雑ではないが、そこにある思想や暗喩を読みとるにはそれなりの思索力がいる。とはいえ、そこは訳注が非常に役立つ。主題は、生命を対象化する(=知識の獲得)ではなく、生
そしてテレビは“戦争”を煽った。 動画中にある「オデッサ騒乱」のあたりは、必見であろう。 「妊婦が殺された」と事実と異なる言説がネット上で独り歩きし、そうした嘘が沢山の人の憎悪をかきたて、戦地に向かわせてしまった……。 かたや、民族や言葉の違いを超
結局、あらゆる苦や不幸の原因は、人間がものごとや出来事を「因果関係」で思考し認識していることにある。 線的思考が危険であるから回帰的思考が望ましいのではい。 それ以前に、ものごとを因果律で見ていることによって、間違ったものの見方をしているのである。
安冨さんの思想というのは、とにかく極端でステレオタイプなんだと最近、はっきり認識した。そしてわたしはそういう思想を気持ち悪く思うようになった。 ・自力を否定し他力だけを肯定する。 ・直接的アプローチを否定して間接的アプローチだけを肯定する。 ・政治
無明とは、そもそも人間存在は「無常・苦・非我・不浄」だということを知らない状態をいう。 さらに、無明である状態でありながら、人間存在は本来、「常・楽・我・浄」であると勘違いしている「四転倒」の状態も無明である。 あるいはまた、無明を破る悟りの道がある
そもそもの原因はウクライナのだらし無い政治にあると思うのだが、とにかくも日本のメディアはロシア、プーチンを悪だとする偏向報道しかしない。 マイダン革命のような死者がでる暴力革命が起こってしまう政治的堕落があったことなど、もはや誰も顧みていない。ウクラ
今朝、奇妙な夢を見た。 バスタオルを巻いただけの華奢な少女が身売りするという夢だ。 少女は管理人らしき人にいわれるままに振る舞っていた。 そして、彼女は身売りするために上り道になった杣道を歩いてゆく。 両手には管理人から渡された透明なグラスを胸に抱
安冨さん、一月万冊で「ラッセルのパラドックス」を何度ももちだして繰り返し説明していたが、あの動画を見て氏の伝えたいことを理解できた人が、どれくらいいるのだろうかと考えてみると、なんだか切ない気持ちになった。 なぜなら、ほとんどの人はラッセルのパラドッ
帽子を脱ぎ捨て、靴も蹴り脱いじまえよ。どうせどこにも行けやしないんだから。街をぶらついて、お前のブルースを歌うんだ。どうせどこにも行けやしないんだから。お前はいつだっていい友達さ。だけど、お前はいつも「さようなら」と言う。そんなお前が満足するのは
さて、もう少し安冨さんの論理を批判しておこう(笑) そもそも氏は、線形的思考は危険で、回帰的思考のほうが優れていると言っているが、その件はすでに「輪廻」的な苦しみを生むとして批判しておいた。 というよりも、氏がもうひとつ上げている曼荼羅的思考から見
安冨さんの言う「リデル・ハートの間接的アプローチ」を政治や社会問題に応用できるという理論には無理がありすぎると思う。 なぜなら、戦争と政治社会問題への対応法の前提が、そもそも異なるからだ。 戦争は基本どんな暴力も可とするが、政治社会問題はどんな暴力も
しるしはたえず生じている。生きていることは、語りかけられていることであり、われわれはただこのしるしに立ち向かい、これに耳を傾けることだけが必要である。しかしこの冒険はわれわれにとって非常に危険なものである。音のない雷は、われわれに破滅の威嚇をなずごとく
安冨さんの思想、マジで終わってるな。 線形思考は危険なので、回帰的思考をしながら、回転の法則を変えることを勧めているが、その回帰的思考というのは、仏教的に見れば「輪廻」であり、いうなれば無限地獄への門に招待しているということに気づいていないのだから……
日本人というか、日本で捉えられているロジカルというものは物凄く勘違いされ、しかもビジネスのためのツールという感覚である場合がほとんどだと思う。 つまり、多くのというよりもほとんどの日本人は、論理的であるということがどういうことかを、間違って解釈している
カント哲学における「統制的理念」はどうようにして生まれるのか? 多分、こう考えればしっくりするのだろう。 純粋理性の範囲における理性が正しく働くためには、基本的には自我の範疇に限定されている必要がある。 言い換えるなら、純粋理性における「構成的理念
まあ、まずは動画を再生して欲しい。 宮台真司氏の加速主義をはじめて知ったときは結構な衝撃を受けたが、成田さんは、それよりもさらにラディカルで、話を聞いて思わず爆笑してしまった。 でも、彼が言ってることは本質を突いていると思う。 日本における加速主
安冨さんの思想は、もう少しまともな方向に進むかと思っていたが、どうもそうはならないようだ。 一月万冊自体、随分と見なくなったが、時折、興味を惹くサムネがあると、なんとなく見ていた。 しかし、三浦瑠麗氏とその夫の件をとりあげ、愚痴と文句と批判ばかりやっ
さて、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』についての記事を書いたのだから、当然、彼の三批判書で触れていない『判断力批判』について、触れずにおくわけにはいかないだろう。 では、『判断力批判』のざっくりとした内容はといえば、こうなる。 基本的に芸
カントの『純粋理性批判』のざっくりとした内容は、すこし前に『「真善美」と「美利善」』という記事にしてみた。 したがって、次には『実践理性批判』を考える必要がある。 さてここで、復習がてらに『純粋理性批判』を見直しておくと、簡単に言うなら、純粋理性(以下
知らなかったなぁ……。 ミュージカル『キャッツ』の物語と楽曲の「メモリー」が、こんなに素晴らしかったとは。 「メモリー」を歌うのは、老娼婦。 猫生のほとんどは、彼女にとって辛く悲しく、苦しいものばかりだった。 しかし、そうした沢山の辛い思い出のな
哲学の世界には、カントが提示した「真善美」という概念がある。 そして、この概念から思索を行うことは、「人間は、いかに生きるべきか?」という回答への早道といえるだろう。 カント哲学に曰く、「真」とは―― その人がもつ認識形式、認識範囲によって捉えられ