以下、読書メーターに投稿した感想。 第一部はグレートヘンの悲劇が描れる。物語のあらすじは複雑ではないが、そこにある思想や暗喩を読みとるにはそれなりの思索力がいる。とはいえ、そこは訳注が非常に役立つ。主題は、生命を対象化する(=知識の獲得)ではなく、生
ひきもり生活の改善と社会復帰を目指して、自分探しをしています。
かつて鬱病で引き篭もっていたオヤジの独白ノートです。時系列にそった自分史を書きあげ。今は適当に日々を生きている、オヤジの心の日記です。
カント哲学における「統制的理念」はどうようにして生まれるのか? 多分、こう考えればしっくりするのだろう。 純粋理性の範囲における理性が正しく働くためには、基本的には自我の範疇に限定されている必要がある。 言い換えるなら、純粋理性における「構成的理念
まあ、まずは動画を再生して欲しい。 宮台真司氏の加速主義をはじめて知ったときは結構な衝撃を受けたが、成田さんは、それよりもさらにラディカルで、話を聞いて思わず爆笑してしまった。 でも、彼が言ってることは本質を突いていると思う。 日本における加速主
安冨さんの思想は、もう少しまともな方向に進むかと思っていたが、どうもそうはならないようだ。 一月万冊自体、随分と見なくなったが、時折、興味を惹くサムネがあると、なんとなく見ていた。 しかし、三浦瑠麗氏とその夫の件をとりあげ、愚痴と文句と批判ばかりやっ
さて、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』についての記事を書いたのだから、当然、彼の三批判書で触れていない『判断力批判』について、触れずにおくわけにはいかないだろう。 では、『判断力批判』のざっくりとした内容はといえば、こうなる。 基本的に芸
カントの『純粋理性批判』のざっくりとした内容は、すこし前に『「真善美」と「美利善」』という記事にしてみた。 したがって、次には『実践理性批判』を考える必要がある。 さてここで、復習がてらに『純粋理性批判』を見直しておくと、簡単に言うなら、純粋理性(以下
知らなかったなぁ……。 ミュージカル『キャッツ』の物語と楽曲の「メモリー」が、こんなに素晴らしかったとは。 「メモリー」を歌うのは、老娼婦。 猫生のほとんどは、彼女にとって辛く悲しく、苦しいものばかりだった。 しかし、そうした沢山の辛い思い出のな
哲学の世界には、カントが提示した「真善美」という概念がある。 そして、この概念から思索を行うことは、「人間は、いかに生きるべきか?」という回答への早道といえるだろう。 カント哲学に曰く、「真」とは―― その人がもつ認識形式、認識範囲によって捉えられ
使ってみた率直な感想は、「辞書よりかなり便利な辞書的なもの」という感じ。 大学の論文を書くのに、ChatGPTはアリか? なしか? で、世界各国で規制の動きが見られているが、はっきり言ってこのような肯定/否定の二元論に陥ることが、まず馬鹿げていると思う。
libenter homines id quod volunt credunt
カエサルの『ガリア戦記』にある、有名な一節だ。 訳としては塩野七生による「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」が有名だが、これは意訳であって、逐語訳なら國原吉之介による「願わしいもの
言葉の自動機械となったバカな人たちが、成田悠輔氏の「集団自決」発言を批判し炎上したが、彼がその言葉にこめた真意は明快である。 ようするに、人間という存在も生物である以上は、アポトーシスから逃れられないのである。 したがって、人間の作る社会もまたア
1「それで、作業の進捗具合に異常はないはね?」 ティエラはそう言いながら、同僚であるアーデの顔を覗きこんだ。「もちろん、ぬかりはないは。慣れた作業なんだから。少々力を使うのが珠に傷というところだけど」 アーデの作業着から伸びた二の腕の上
昨年12月は4冊と、昔に比べれば非常に少ない読了数。だが、量より質の読書を目指しているので、まったく不安感はない。 読了したタイトルからしても、流し読みできるものとはいえないので、満足している。 特に、山口一郎『現象学ことはじめ』の再読は、ゆっくり反
脱構築といえばデリダ、デリダといえば脱構築というくらいに両者は切り離せないものとされている。しかし、脱構築の手法の源泉を哲学に取り入れたのは、デリダが脱構築で批判したフッサールのほうが先である。フッサールは発生的現象学(どのようにして意識が発生するのか
共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうち至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが、世に謂う国、或は国的共同体なのである。 ふつう、「人間は本性上ポリス的動物である」と語ら
読んだ冊数は少ないが、学んだことの多かった月だった。 例えば現代が「反哲学」の時代であることとか。 サーンキヤ哲学が、意外なほど現象学の考え方に近いとか。 だけれども、そういうことを簡単に解説するのに無理がある状態。 解説しようと思えば出来るように
映画『ディストピア パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)』
なかなか心揺さぶられる映画に出会うのはむずかしいのだが、出会ったので紹介しておきたい。 『ディストピア パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)』 2022年12月2日(金) 23:59まで無料配信中。 いわゆるゾンビ映画なので、期待しないで観たのだが、大
現象学は共通了解や合意形成のための哲学であると、つぶやいてきたが、これは非常に雑ないいかたである。なぜなら、現象学における共通了解や合意形成は、実は無意識的な部分でなされてこそ意味をなすからだ。いわゆる用語における「受動的総合」がそれである。しかしこの
アリストテレスの『政治学』を読みはじめた。初めのほうで、彼は奴隷制を肯定している。が、これには理由がある。議論するにあたっての前提条件というものがあるからだ。で、彼の据えた条件は自然はすべて合目的性を持つというもの。だから、その前提にそって合理的に判断
見ていて何ともいえない気持ちになった。 最終的には自分の力に頼るしかない。 自然の掟の厳しさも感じたけど、それにめげずになんど滑り落ちても、登ることを諦めない子グマちゃん! 手足が短くて、まだ丸っこい子グマが、ズルズルと落ちてるのが溜まらなく可愛
「哲学する感動―自分を知るための哲学入門」 さすがは竹田青嗣さん。 めっちゃ解りやすい説明! わたしは、彼の思想に強い共鳴をするばかりだ。 ついでに、「現象学研究会」のHPもリンクしておこう。
竹田青嗣さんと苫野一徳さんの対談が素晴らしいのリンクしておく。 長いけどね。 「自由」になるための哲学~ヘーゲルから社会構想まで~ 最近は真面目に記事を書く気にならないくらい、世間に辟易しているので、こんな記事が増えるかもしれない。 わたしが語る
10月の読書メーター読んだ本の数:6読んだページ数:1937ナイス数:721リルケ詩抄 (岩波文庫)の感想『リルケ詩抄』と銘うたれているが、実質は訳者「茅野蕭々選詩集」といっていい。選詩の中心軸にはリルケが求め、また茅野が求めた「物自体」への憧れ、あるいはまた神との邂
ひろゆき氏のツイートで炎上した件で、宮台さんがツイッターで紹介していた動画。 実に宮台さんらしい冷静でまともな視座の提示だと思う。 リベラルの反対運動が非常に暴力的であることは、ひろゆき氏と話していた山城博治氏で、検索すればそういう事実はゴロゴロ出て
この件についての意見、感想、批評などを、ひととおり見てみたが、本当に日本と日本人というのは残念だなと感じた。 そしてそうした意見のほとんどは、政治は「結果責任」という論理。 どんな政策をしたかが大事であって、暴言という暴力は、ある程度は擁護すべきでは
さて、一月万冊についての批判がつづくが、次は法律に関する安冨さんの発言。 彼女は「近代法は、中世神学が基盤にある」とざっくり言ったが、これもまた認識が雑すぎるて、ミスリードになりかねないという話。 なぜなら、法律の根源を探ると、プラトン『国家』『法律
この動画のタイトルはこう。 「マルチは違法では無い?れいわ新選組山本太郎氏が仮想通貨詐欺問題の宮城氏の離党届を受理。この騒動に日本の政治の地獄を見た」 で、問題になるのは清水氏が自分勝手にジュビリーエ-スの事件を「詐欺」と認定しているということ
安冨さんの言わんとしてることは理解できなくもないが、結局どうすればいいかは何も言ってない。 言うなれば清水氏の意見に引っ張られて、曖昧模糊としたことを言ってるだけ。 というか清水氏の言ってることの次元が低すぎて、お話にならない。 例えば、刑法199条
ほんと、日本人て「責任」という言葉の意味を取り違えてる人が多いし、極端な白黒思考をして、他人を裁いて快楽に浸る人ばかりだなと、つくづく辟易する。 マルチ商法をやったような人は議員になる資格はないとか、どうしてそこまで極端な思考になるのか、わたしには全
9月はなかなか充実した読書ができた。 なによりも、ソローの『森の生活』が素晴らしかった。だが、それへの感想などとても語り尽くせないし、ソローの言わんとしていることを伝えることも困難なのが辛いのである。 とにかく読んで欲しいとは言えるが、それでソローが訴
ソローは森の生活を通して「Nature」から何を得たのだろうか。その一点を読み取れるか否かで本著に対するイメージは二分することだろう。「Nature」の意味はふつう自然とされるが、英語ではもっと広い意味がある、自然力、本質、そして、人知が及ばない力(働き)といった
H・D・ソロー『森の生活』「より高き法則(Higher Laws)」より
すべての人間は純粋に自分自身のやり方に従って自分が崇拝する神のための神殿、それは自分の肉体と称せられているが、その神殿の建造者なのである。そういうことをせずに大理石を槌で打つだけで事を逃れることは出来ないのである。われわれすべての者は彫刻家であり、画家
H・D・ソロー『森の生活』「村(The Village)」より
どんな人間も眠りや放心状態のいずれから目醒めるにしろ、そのたびに羅針盤の示す方角をじっくりと、あらためて、確かめねばならぬ。迷ってみてはじめて、言葉を換えれば、世界を見失ってみてはじめて、われわれは自分というものを見つけ始める。一体自分たちがどこにいる
アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はない。 比較的、良く知られている一節であろう。 しかし、この節には背景があるので、ブッダ
サーンキャ哲学の概略は掴めたのだが、インド哲学を学ぶにあって避けられない問いに直面している。輪廻、である。サーンキャ哲学にある輪廻はおおよそ仏教にある輪廻観と相似しているのだが、自性が保存される魂の存在の点で、意見がわかれているのだ。当然、仏教は魂の存
文献学で、ヨーガとはかくかくしかじかのものと、しっかり定義されているのは『カタ・ウパニシャッド』であるそうだ。ということで、該当部分を再読してみた。最も明瞭なのは第二編にある以下の部分。「五つの知覚器官が意とともにその活動を停止し、覚知もまた動かざる時
とにかく素晴らしい動画。 なのだが、内容に納得できると、現在の世界が向かっている、相対主義と反哲学という方向性に絶望感が強まる面がある。 ルソー、カント、フッサール。なぜこの流れが哲学の正当な流れだと理解されないのか。 現代における哲学の入門書は
西さんも、説明に苦労してるなァ……。それはそうだろうなァ……。 まず、すべては主観(意識)であるということを説明して納得してもらうだけで、大変な時間と粘り強い対話が必要なのだから(動画でも、そこまで説明するのに、1時間以上を要している)。 で、
憐れみはという共通感情――普遍性――は、どこから生まれてくるのか?
人類に普遍性はあるのか? という問いを最近、随分まじめに考えている。 そして、山口一郎『現象学ことはじめ』から大きなヒントを得た。 まずは、その部分を引用したい。 フッサールは、乳幼児が喃語を発すると、母親がそれをまねるということを指摘して、それを
8月は、随分と真面目に戦争関係の本を読み、いろいろと考えたひと月だった。 白眉は『沖縄戦―民衆の眼でとらえる「戦争」』であった。 反戦運動と呼ばれるものが、皮相的なものにならず、人間とはなにか? という根源性に視点が向くことが大事であると再確認もでき
暗黙知については、埋め込んだ動画を見てもらうしかない。 要約するなら、ある種の知は、暗黙知という「作動」を通して、身体性によって得るものであるから、そのような知(体験・経験による知=ア・ポステリオリの知)は、主観的であり、個人的であり、他者と共感しあ
いい言葉だな。 しかし合意を形成するためには、絶対的に他者の存在が不可欠だということでもある。 そして、そこにこそ、そわれわれ人間が人間として生きる意味や目的があるのだろう。 長かった。実に長かった。 この結論にたどり着くまでの道は。 そもそも、
何にって、最近の日本人の文章力の低さにだ。 そもそも、文章の書き方がわかっておらず、思ったことをそのまま話すように書いているから、とにかく意味がわかりづらい。そして繋がりも良くなくて、結論として何がいいたいのかもわからない。 そういう悪文だらけなのだ
【白井聡 ニッポンの正体】~明治維新77年・戦後77年~ コミックで考える「日本のいちばん長い日」「沖縄戦」「原爆ドーム」
もしも、他人の痛みを自分の痛みとして感受できる想像力がともなわないならば、まかりまちがって、ゲームの論理で戦史をもてあそぶことになりかねない。一般の戦史研究家や軍事評論家とわれわれ平和教育にたずさわる者の立場の相違はこの点にある。 平和教育が教師
最近のネットを中心とする言論空間を見ていると、辟易しかない。 旧統一教会と政治家の繋がりを批判している人たちを見ると、その辟易は最高潮に達する。 批判も当然必要だ。 しかし、猫も杓子も批判、批判、批判という今の言論空間のありようは異常だと思う。 日
2022.7.10.参院選――既得権を守ることしか考えていない大企業と官僚と政治家の癒着というシステムをぶち壊せ!
権力者が定期的に選ばれるようになると、政治は必然的に利害関係者による運営という形をとる。すなわち、政治生活(つまり政治権力への参加)にとくに関心をもつ比較的少数の人たちが、自由勧誘という方法で部下を調達し、自分や子分を候補者に立て、資金を集め、票集めに
日本の子どもの7人に一人が貧困というデータがある。 貧困、すなわち餓えほど人間性を奪うものはない。 大人が餓えることも悲しいことだが、自分がなぜ餓えなければならないのかを的確に、あるいは政治的に分析できない子どもが、理由もわからずに餓えに苛まれること
ぶっちゃけ、安冨さんの「戦略的投票」を訴えたツィートと炎上で、安冨さんに対する熱が一気に醒めた! 戦略的投票とは、自分が好きな党に投票するのではなく、自分が嫌いな党であっても、与党に対抗するために、当選しそうな野党候補に投票するというようなこと。 別
先月は、読んだ冊数こそ少なかったが、充実した読書だった。 最大の収穫は、J.S.ミルの『自由論』。とにかく、この一冊から非常な感銘を受けたのである。 自由にも様々なものがあるが、なかでも表現の自由がどれほど重要であるかを再認識できたことがよかった。自由が
独りになって瞑想し、眠っていた集中力を自分の奥から発見する必要があるのだ。この集中によって、初めて自分が全身で今ここを生きることを実現できるからだ。 そうなった自分こそ、ようやくにして人を愛することができる。というのも、保障になしに行動することこそが愛
THE WORLD IS TOO MUCH WITH US.
THE WORLD IS TOO MUCH WITH US.by William Wordsworth.The world is too much with us; late and soon,Getting and spending, we lay waste our powers;—Little we see in Nature that is ours;We have given our hearts away, a sordid boon!This Sea that bares h
I WANDERED LONELY AS A CLOUD William Wordsworth
I wandered lonely as a cloudThat floats on high o'er vales and hills,When all at once I saw a crowd,A host, of golden daffodils;Beside the lake, beneath the trees,Fluttering and dancing in the breeze.孤独な雲のように彷徨って谷や丘を遥々(ようよう
THE TAMING OF THE SHREW William Shakspeare #04
I want to cotinue wher we left off.前回からの続きをはじめよう。If you play it, it will automatically start around 3 minutes and 26 seconds.再生すれば、自動的に3分26秒あたりからはじまる。Horns winded. Enter a Lord from hunting, with his train角笛
とても素晴らしい著作。読んでいない人は読んでおくといい一冊。 とくに民主主義や自由に興味のあるひとは、必読といえる普及の名著といえる。 以下に読書メーターに投稿した感想を引用しておく。 我々の自由をもっとも阻害するのはなにか? という問いに論究して
今日は雨です。東京は梅雨入りしたそうで、雨のせいなのか、今日は気分がのらず、英語の勉強する元気がないので、グーグル翻訳を試してみることにしてみた。でもって、試してみて思ったのは、けっこうちゃんと訳してくれるんだという驚きだった。 ただ、問題がないわけで
THE TAMING OF THE SHREW William Shakspeare #03
さて、ではmain part(本編)に入ろう。INDUCTION, SCENE I. Before an alehouse on a heath.Enter Hostess and SLY導入部、場面1、平坦な荒地(ヒース)にある居酒屋の前女給仕とスライが入ってくる。 新潮版(以下、福田訳と記す)は、もっと丁寧な説明文になって
THE TAMING OF THE SHREW William Shakespeare #02
さて、つぎはCharactorsについてだ。 どうもDramaやMovieの場合、CharactorsよりCastというほうが耳慣れた感じがあるが、textによって記されているので、Charactorsになるのだろう。他にもPresenterやPerfomerといういい方もあって、それぞれOfficialな使い方があるのだ
THE TAMING OF THE SHREW William Shakespeare #01
いつまで続くかわからないが、ちょっと真面目に英語の勉強をはじめてみる。 題材はウイリアム・シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』だ。ということで、さっそくはじめよう。 まずは題号にある、意味のわからない単語の意味を調べた。 taming [テイミング] とshrew [
『スッタニパータ(「ブッダの言葉」中村元訳)』を読んだのは、2018年の6月ごろ。 今から、4年ほど前のことになる。 そのとき、非常に難解でありかつ、印象に残ったのは、第3巻12章「二種の観察」だった。 最近気になって該当の章をもう一度読みなおしたのが、そう
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』「知性について」「物自体と現象との対立についての二三の考察」「汎神論について」
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』に収録されている各篇の胆についての覚書き。 その3:「知性について」はタイトル作だけあって、全35章にわたる。 だが、内容はそれほど難しくないので、覚書としての引用のみにとどめたい。 生命は周知のように一種の
読んでいて気づいたことの備忘録。 命題)アリストテレスの「四原因説」と仏教の「四諦」は似ている。 大前提)もしアリストテレスが華厳経にある「因果律の否認」を知っていたら、『形而上学』で立証される「神=不動の動者」という結論は違ったものになったのではな
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』「論理学と弁証法の余論」
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』に収録されている各篇の胆についての覚書き。 その2:「論理学と弁証法の余論」は全5章の短いものだが、内容はかなり濃い。 というのは、カントが提言した「分析判断」「総合判断」、さらに「ア・プリオリ(先験的)な総合
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』「哲学とその方法について」
ショーペンハウエル『知性について 他四篇』に収録されている各篇の胆についての覚書き。 その1:「哲学とその方法について」の胆は、全21章あるうちの第18章にあると言っていいだろう。 すなわち―― われわれの先人思想家たちがすでに見出していたことを、彼ら
2017年、羽賀翔一さんによる漫画化で一躍ベストセラーになった著作の初出版。解説にかえて「回想」として記された丸山真男の言にもあるように、この岩波版をよむ意味は、初版の記述をそのまま味わえるという点にある。なので、そういう志のある向きは、是非この岩波版を手
5月の読書でもっとも感じいったのは、やはりアリストテレス『形而上学(上)』であった。 現代では、必ずしも正しいといえなくはなったが、彼が提示した、矛盾律(同一律)、排中律、三段論法といったものが、後世いくばかりともいえない巨大な影響を人類に残したという
この動画は切り抜き動画にあたる。 もとは、岐阜県、富山県にまたがる「雲ノ平(くものだいら)山荘」で行われたトークイベントの約2時間の内容のうち、宮台さんが話しているある一部分だけを切り抜いたものとなる。 時間のある人は全編を見る方がいいのだが、時間の
読書メーターで起こった問題は読書メーターで解決する。 しかも、なるべく当事者間で。周囲にはなるべく迷惑にならないように。 どうも、そういうことを理解できない輩がいたので仕方なく、こんな記事を書いているのだ。 わたしの基本スタンスはそういうことなのだが
アリストテレスの『形而上学(下)』を読み進めていて疑問に思った。 古典ギリシャ語の文法には「中動態」があるのに、なぜアリストテレスは、命題の論証にあたって、能動・受動という対比しか認めず、論証において「どちらともいえない」や「どちらでもある」という結論
新約聖書『ヤコブの手紙』『ユダの手紙』『テモテへの手紙1、2』『テトスへの手紙』『ペトロの手紙2』
各書は書き手によって受ける印象が随分と変わってくる。 しかし言葉というのは、書かれている内容の伝達さえしっかり行われるのであれば、表現の巧緻は問題にならない。だが、文書というのはそのようにはならないのは面白いものである。 同じことを伝えるにしても、著
本書、手紙1、2、3の背景について詳しく述べることは割愛したい。 興味のある人は、wikiを見るなり、ネット検索していただければと思う。 ということで、以降はわたしが感銘を受けた場所の抜き書きという形で、残るいくつかの「書」について語っていきたい。 しか
随分と真面目に読み進めていた「新約」だったが、ある時期、キリスト教教義の根底に「生贄思想」があることに気づいて、読むのをやめていた。 無論、ここでいう生贄思想というのは「イエス(人の子)の磔刑」のことである。 つまり、キリスト教思想の根底に、生贄思想
No War !! 愛人の欠点を美徳と思わないほどの者は、愛しているとは言えない。 ひとりの人を愛する心は、どんな人も憎むことができません。 (ゲーテ) これがイエスの言う愛だ。 人々は彼に奇跡を望んだ。 しかし、彼はただ万人を、極悪人をも、愛する
似たような言葉だが、真面目に考えてみると違う。 「調和」と「秩序」はそんな言葉だと思う。 辞書的に言うならこうなるのだろう。 調和とは――二つ以上、あるいは全体に均整がとれている状態。 言うなれば、どの瞬間を切り取ってみても、均整がとれていると考え
直観とは何ぞや!? ということを一体何年考え続けてきただろう。でも、ようやく納得できる答えに到達した! 直観とは瞑想などで得られるものではない。そうではなく、地道な学びを積み上げていき、それがある量にまで達すると起る「閃き」のようなものなのだと確信できた
アリストテレス渾身の一行。「ものの定義はそのものの本質の説明方式であるということ(『形而上学(上)』第七巻 第五章」。何を言ってるかわからないと言われそうだが、仕方ない。前後の文脈やそれまで語られてきたことを知っていると「うおお!」と唸るばかりに感動するの
矛盾律、同一律、排中律は、アリストテレスが提示した言語表現によって「同じ(真)である」ことを論証するときの3つの基本的な格律をさして言う。 しかし、これが案外と難しいので、理解を深めるために、自分なりにまとめてみようというのが、今回の記事になる。 で
カント『純粋理性批判』における白眉といわれる、アンチノミー(二律背反)についてつぶやいてみる。理解してしまえば案外あたりまえのことを言っていると思えるのだが、無論、そうなれるまでは非常に大変である。そもそもアンチノミーとはどういうことか? ここから考え
わたしも、これまで「会話」と「対話」の語義の違いについては、あまり真剣に考えてこなかった。 でも、個々人がもつ語義の違いからおこる理解の齟齬ということを考えると、「会話」と「対話」の語義の違いを把握しておくことは、案外重要だと思う。 それというのも、
アリストテレスの『形而上学(上)』を読んでいる。 かなりのスローペースなのだが、その理由は読んだことに関して、ついつい思索してしまうからだ。 で、そうした思索が一通り体系化できてきたので、備忘録として少し纏めておこうかと。 四原因説――。 まずは、こ
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以下、読書メーターに投稿した感想。 第一部はグレートヘンの悲劇が描れる。物語のあらすじは複雑ではないが、そこにある思想や暗喩を読みとるにはそれなりの思索力がいる。とはいえ、そこは訳注が非常に役立つ。主題は、生命を対象化する(=知識の獲得)ではなく、生
すべては虚しい。 自分が学び得たことを 惜しげなく与えようとしても 嫌われるのが人世だから。 言葉は虚しい。 発された表面だけをおい 奥に秘められた心を 見つめられないから。 思考は虚しい。 光か影かだけに スポットをあて そこしか照らし出
「舞台の前曲」は、本編に入る前に、「戯曲(Drama)」の果たすべき役割や社会的意味を提示した章といっていい。 その構造はゲーテの特徴といえる三位一体的であり、「座長」「道化師」「座付詩人」の会話となっている。 それぞれ「座長=快楽主義」「道化師=実利(な
ゲーテ『ファウスト』全編の個人的考察を行っていこうかと。 (最後までできる自信は毛頭ないけれど……) まずは「献(ささ)ぐることば」から。 この「献ぐることば」は、ゲーテが『ファウスト』を書きはじめてから長い中断の時期をへて、シラーの勧めがあって再
いやあ、面白かった! と、またしても小学生なみの感想から記事をはじめてしまったが、本当に面白かったのだから仕方がない。 それはさておき、本作の原題は「Much Ado About Nothing」である。 お気づきの方はお気づきだろうが、韻が踏まれているので、タイトル
読んだ順番とは逆になってしまったが、「読書メーター」に投稿した感想をエントリーしておく。 たぶん3回めの読了。本著を手に入れたのは25歳くらいのこと。当時、シュワイツァーのことは辺境医療の先駆者くらいの知識しかなかったが、読んでたいへん感動した記憶が鮮明
以下は「読書メーター」に投稿した感想。 だが、少しばかり加筆もある。 理想と現実の乖離に悩み、目に映るものすべてを見下して批難し、ときに誹謗中傷してしまう心理は、多くの人がある時期に経験するものだ。かつまた、メタ認知力のある人なら、何にでも怒りを吐
ぶっ飛んだ作品で面白かった。 ものごとの感想を訊かれたとき「面白かった」と答えるのは、愚の骨頂だというのは知っている。しかし、本当に面白かったときには、なんの邪気も作為もなく「面白かった」という小学生のような感想になるのが人間なのだと思う。 『じゃじ
とにかく素晴らしかった。 こういう作品を読むと、文学っていいなと、つくづく思う。 とはいえ、「近代の孤独」に習い性な人や、近現代が大好きだったり、実利主義だったり、物事の表面しか見ない人たちからしたら、まったく意味不明の著作なのだろう。 その辺が、
哲学者・納富信留さん曰く「『ゴルギアス』はプラトン著作の入門書として最適」。 確かに読み終えて、氏の言うことに納得できた。 哲学というものが、どういうものかがよく理解できたからだ。 ぼくたちの無教養はそれほどのひどい状態に至っているのだよ。 さて、
「大東亜戦争」と表現のSNS修正 陸自部隊の活動紹介「誤解を招いた」 つらつらと記事に寄せられたコメントの半分くらいに目を通したのだが、まともなことを言ってる人が一人もいなかった。日本人は駄目だなと、かなり絶望させられた。 じゃあ、お前はどう思ったんだ?
現象学がたどり着いた場がどんなかを説明するのは、なかなか難しい。 しかし、以下の引用を読めば、何となく理解できる人はいるのかもしれない。 歴史学的に見て、それ自体において最初のものは、われわれの現在である。われわれはいつもすでにわれわれの現在の世界
ララァ「ひとつの文明のはじまりから終わりまで、せいぜい1万年と少し。人が作ったものだって10万年も経てば塵も残さずに消えるわ。100億の時を数える宇宙で、わたしたちがいくつめの世界を生きていると思って。それは無限につづく螺旋階段のようなもの。果てない円を廻り
奇妙な夢を見た。 それは、自分と女の子が身体をぴったり寄せ合わせて歩いている場面からはじまった。 というより、起きた時の記憶によれば、そこがはじまりだったとしか言えない。 視点は三人称視点、すなわち、自分とその子が歩いているのが見えていた感じ。 で
否定的であることは、無に通ずる。 われわれはただ(中略) 黙々と正しい道を歩みつづけ、 他人は他人で勝手に歩かせておこう。 それが一番いいことさ (ゲーテ) 世の中、詭弁に溢れていて、ほとほと嫌気がさしている。 しまいには、聖書や仏典にある言葉
この命題に答えるためには、まず、ありのままの定義が必要である。 見たものをみたまま受け入れるなら、それはありのままと言えるかもしれない。 また、われわれの視覚と意識には制限があるとするなら、われわれは事物をありのままに見れているとは言えない。 しかし
生活とは、たえず〈世界確信のうちに生きる〉ということである。〈目覚めて生きている〉とは世界に対して目覚めているということであり、たえず現実的に、世界と世界のうちに(、、、、)生きている自分自身とを「意識している」ということであり、世界の存在確実性を真に
客観的諸科学、特に精密科学がどれほどその明証的な理論的ならびに実証的の成果を力として、それだけが唯一の真の方法の場であり、究極的な真理の宝庫であるとみずからを評価しようとも、それらの諸科学は一般的かつ厳密に言って、学問ではない。すなわち究極的な基礎から
「コギト・エルゴ・スム」、いわゆるコギト。日本語では「我思う、ゆえに我あり」という自我意識に対する命題の解は、現在でも根本的な真実ということで、多くのひとに知られている。 しかし、この「コギト」に重大な誤謬があることを知る人は、案外少ないのだろう。 ま
タイトルにした問いは、古今東西にわたって人類が長年考えてき問いである。 古代ギリシャを尋ねれば、デルポイの信託に「汝自身を知れ(グノーティ・セァウトン)」という言葉にぶつかる。 16世紀に生きたモンテーニュが長大な『エセー』を書いた動機は「私は何を知る
カント哲学における「統制的理念」はどうようにして生まれるのか? 多分、こう考えればしっくりするのだろう。 純粋理性の範囲における理性が正しく働くためには、基本的には自我の範疇に限定されている必要がある。 言い換えるなら、純粋理性における「構成的理念
まあ、まずは動画を再生して欲しい。 宮台真司氏の加速主義をはじめて知ったときは結構な衝撃を受けたが、成田さんは、それよりもさらにラディカルで、話を聞いて思わず爆笑してしまった。 でも、彼が言ってることは本質を突いていると思う。 日本における加速主
安冨さんの思想は、もう少しまともな方向に進むかと思っていたが、どうもそうはならないようだ。 一月万冊自体、随分と見なくなったが、時折、興味を惹くサムネがあると、なんとなく見ていた。 しかし、三浦瑠麗氏とその夫の件をとりあげ、愚痴と文句と批判ばかりやっ
さて、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』についての記事を書いたのだから、当然、彼の三批判書で触れていない『判断力批判』について、触れずにおくわけにはいかないだろう。 では、『判断力批判』のざっくりとした内容はといえば、こうなる。 基本的に芸
カントの『純粋理性批判』のざっくりとした内容は、すこし前に『「真善美」と「美利善」』という記事にしてみた。 したがって、次には『実践理性批判』を考える必要がある。 さてここで、復習がてらに『純粋理性批判』を見直しておくと、簡単に言うなら、純粋理性(以下
知らなかったなぁ……。 ミュージカル『キャッツ』の物語と楽曲の「メモリー」が、こんなに素晴らしかったとは。 「メモリー」を歌うのは、老娼婦。 猫生のほとんどは、彼女にとって辛く悲しく、苦しいものばかりだった。 しかし、そうした沢山の辛い思い出のな
哲学の世界には、カントが提示した「真善美」という概念がある。 そして、この概念から思索を行うことは、「人間は、いかに生きるべきか?」という回答への早道といえるだろう。 カント哲学に曰く、「真」とは―― その人がもつ認識形式、認識範囲によって捉えられ
使ってみた率直な感想は、「辞書よりかなり便利な辞書的なもの」という感じ。 大学の論文を書くのに、ChatGPTはアリか? なしか? で、世界各国で規制の動きが見られているが、はっきり言ってこのような肯定/否定の二元論に陥ることが、まず馬鹿げていると思う。
カエサルの『ガリア戦記』にある、有名な一節だ。 訳としては塩野七生による「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」が有名だが、これは意訳であって、逐語訳なら國原吉之介による「願わしいもの
言葉の自動機械となったバカな人たちが、成田悠輔氏の「集団自決」発言を批判し炎上したが、彼がその言葉にこめた真意は明快である。 ようするに、人間という存在も生物である以上は、アポトーシスから逃れられないのである。 したがって、人間の作る社会もまたア
1「それで、作業の進捗具合に異常はないはね?」 ティエラはそう言いながら、同僚であるアーデの顔を覗きこんだ。「もちろん、ぬかりはないは。慣れた作業なんだから。少々力を使うのが珠に傷というところだけど」 アーデの作業着から伸びた二の腕の上
昨年12月は4冊と、昔に比べれば非常に少ない読了数。だが、量より質の読書を目指しているので、まったく不安感はない。 読了したタイトルからしても、流し読みできるものとはいえないので、満足している。 特に、山口一郎『現象学ことはじめ』の再読は、ゆっくり反
脱構築といえばデリダ、デリダといえば脱構築というくらいに両者は切り離せないものとされている。しかし、脱構築の手法の源泉を哲学に取り入れたのは、デリダが脱構築で批判したフッサールのほうが先である。フッサールは発生的現象学(どのようにして意識が発生するのか
共同体は、〔その他の共同体にくらべて〕最も熱心に善きものを、しかも凡ての善きもののうち至高のものを目指していることは明らかである。そしてその至高のものというのが、世に謂う国、或は国的共同体なのである。 ふつう、「人間は本性上ポリス的動物である」と語ら
読んだ冊数は少ないが、学んだことの多かった月だった。 例えば現代が「反哲学」の時代であることとか。 サーンキヤ哲学が、意外なほど現象学の考え方に近いとか。 だけれども、そういうことを簡単に解説するのに無理がある状態。 解説しようと思えば出来るように
なかなか心揺さぶられる映画に出会うのはむずかしいのだが、出会ったので紹介しておきたい。 『ディストピア パンドラの少女(The Girl with All the Gifts)』 2022年12月2日(金) 23:59まで無料配信中。 いわゆるゾンビ映画なので、期待しないで観たのだが、大
現象学は共通了解や合意形成のための哲学であると、つぶやいてきたが、これは非常に雑ないいかたである。なぜなら、現象学における共通了解や合意形成は、実は無意識的な部分でなされてこそ意味をなすからだ。いわゆる用語における「受動的総合」がそれである。しかしこの
アリストテレスの『政治学』を読みはじめた。初めのほうで、彼は奴隷制を肯定している。が、これには理由がある。議論するにあたっての前提条件というものがあるからだ。で、彼の据えた条件は自然はすべて合目的性を持つというもの。だから、その前提にそって合理的に判断
見ていて何ともいえない気持ちになった。 最終的には自分の力に頼るしかない。 自然の掟の厳しさも感じたけど、それにめげずになんど滑り落ちても、登ることを諦めない子グマちゃん! 手足が短くて、まだ丸っこい子グマが、ズルズルと落ちてるのが溜まらなく可愛
「哲学する感動―自分を知るための哲学入門」 さすがは竹田青嗣さん。 めっちゃ解りやすい説明! わたしは、彼の思想に強い共鳴をするばかりだ。 ついでに、「現象学研究会」のHPもリンクしておこう。