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簾満月のバスの助手席 https://sudareshuji.hatenablog.com/

バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 宗左の辻 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    京阪の枚方市駅を見通す駅前の通りを過ぎるが、この辺りが市の中心的な場所らしく随分と賑わっている。そこを過ぎ左に緩くカーブしながら町並を抜ける。と右手に「枚方橋跡」の案内があり、その親柱がここに残されていた。今は暗渠だが古くは安居川(中川)が流れ「枚方ノ橋」と呼ばれる土橋が架かっていた。 宿内には、出格子、虫籠窓、漆喰壁で袖卯建の上がった平入りの旧家が幾らか残されている。町屋は間口2間半から4間のものが多いらしく、3室の居室を縦1列に並べ、その片側に通り庭を配するのが基本形式で、カマヤ(炊事場)は裏手に設けるのが特徴という。 嘗て街道筋には旅籠屋や煮売屋の他、古道具屋、醤油屋、荒物屋など、様々な…

  • 枚方宿(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「マイカタちゃいます、ひらかたです。」「枚方の地名の由来はわかりませんが、奈良時代に成立した『日本書紀』には、「ひらかたゆ笛吹き上る近江のや毛野の稚子い笛吹き上る」という歌がみえます。(枚方市HP)」 枚方市は大阪府北東部、北河内地域に位置する市で、京都府と奈良県に接している。東の生駒山と西の淀川に挟まれ、人口は40万人弱、世帯数は凡20万世帯余だ。 戦後大規模な住宅団地が開発され現代では高層マンション等が増え、京阪神間の中核的なベッドタウンと位置付けられている。 豊臣秀吉が大阪の石山本願寺跡の上町台地北端に大阪城を築き、西側に城下町を開くと、京と大坂城を結ぶ新たな街道の整備が必要となった。更…

  • 町屋の鮒ミイラ (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    東見附を後に、カラー舗装に導かれ、枚方宿の中心部に向う。見附の300m程先が中心部となり、左側には京阪の枚方駅が有る。枚方宿は更に先に延びその長さ1.3㎞に及ぶ、可成り規模の大きな宿場であったようだ。 新町で最初に目にする平入り平屋建ての旧家は、「旧枚方宿問屋役人 小野平右衛門家(八幡屋)」の建物で、家業は豪農、醤油業を経営し村年寄りを兼ねていた。問屋は宿の業務を指揮監督する最高責任者で、村の庄屋が兼務していた。 説明によると当家には正徳6(1716)年建築の古図と鬼瓦があるが、現在の建物は間口8間(14.5m)、梁行六間(10.9m)もあり、居室は2列に6室が配されている。厨子二階、起屋根、…

  • 枚方宿東見附跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「天之川町」の旧道を抜け、天野川の土手の行き止まりを右折して、凡50m程で府道に出て左折、現在の鵲橋を渡る。嘗てこの川には木橋が架けられていたが明治に入ると京街道が国道格上げされた事により、架け替えられた。 更に昭和に入り旧道より少し下流に新国道が開通すると、木橋はコンクリート製に改修されている。現在の鋼鉄製の永代橋が完成するのは、平成8(1996)年3月の事だ。橋の袂には旧橋の親柱が保存、残されている。 広々とした近代橋を渡り終え、直ぐに左折するすると角に、「歴史街道」「←枚方宿東見附跡」の石碑が建っている。ここが宿場の東側の入口らしい。ベージュにカラー舗装された土手沿いの道が延びていて、そ…

  • 鵲(かささぎ)橋 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「これやこの 七夕つめの 恋渡る あまの川原の かささぎのはし」 天野川は、奈良県の生駒山地に水源をもつ一級河川で、交野から枚方を経て、枚方から700m程西で淀川に合流し、大阪湾に注いでいる。 民家の詰まった「天之川町」の旧道を350m程進むと、その天野川の土手に突き当たる。江戸時代ここには「鵲(かささぎ)橋」という、長さ17間、幅3間1尺の木橋(板橋)が架けられていた。 元文2(1737)年に発行された「岡新町村明細帳」や「河内名所図会」には「天川(あまのかわ)」の鵲橋が紹介されているが、本来幕府はこの川への架橋は禁じていたらしい。 ところが御三家の一つ、紀州家の参勤交代の折に限っては、仮橋…

  • 天之川町(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    京阪牧野駅の西側にある淀川河川敷の牧野パークゴルフ場は、その最南端が丁度御殿山駅の西辺りなる。両駅間は直線で2㎞程離れている。 プレーは行って帰ってだから、ゴルフも随分と歩く競技だと、改めて思い知らされる。 ゴルフをしなくなってもう三十数年経つだけに最近の状況は良く知らないが、近頃では乗用カートの利用も多いらしいから、昔ほどは歩かないのかも知れない。 御殿山駅から南に600m程進んで、旧「京阪国道」、今日の「府道13号京都守口線」とは磯島の交差点で別れるが、その角右手に「枚方なぎさ高校」が有った。枚方西高校と磯島西高校が再編により統合され、平成16(2002)年4月に誕生した普通科総合選択制の…

  • 御殿山あたり (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    黄金野一丁目で京阪本線の踏切を越え、旧道は三栗地区に入っていく。旧道沿いは住宅街で、多くは最近作られた今風の住宅や、多層階のマンション、集合住宅などが建ち並んでいる。そんな中に旧家の重厚な造りの日本家屋も若干見られるものの、左程古い建物ではなさそうだ。 浄土宗の・清傳寺を右に見て進むと、広い道と交差する三栗交差点でそれを越える。この道は現在では「府道13号京都守口線」と呼ばれているが、嘗ては「京阪国道」と呼ばれた幹線道路で、越えるとここには僅かばかり旧道が残されていた。その先牛丼店のところで先程越えてきた府道に合流すると、ここからは暫く交通量の多い道の歩道をひたすら歩く事になる。 左から京阪本…

  • 前島街道の追分(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    旧道は左折して駅手前の踏切を越え、そのまま穂谷川に沿って220m程進み、右折して明治橋を渡って川の西側へ出て直ぐ左折、川に沿って南に向かう。 一方踏切を越え直ぐに右折して、牧野さくら橋を越えると右手が京阪牧野駅で、駅前はロータリーになっている。 駅前のロータリーは、近年再開発で整備されたものらしく、バス乗場になっている。京阪バスが乗り入れていて、枚方や摂南大学キャンパスに行くバスが出ているようだ。その駅前ロータリーの外れに明治39(1906)年の銘がある「前島街道」道標が立っていた。 これは京街道と高槻、西国街道を結ぶ前島街道への追分けに建つ道標である。牧野駅から西の淀川に向かうと、幅180間…

  • 牧野駅(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    左は鉄道の敷地とを隔てるフェンス、右は車道とを区別する安全柵に挟まれた府道の歩道は、街路樹もなく木陰のない単調な堤防の一本道である。道路を横断して河川敷への立ち寄りも出来ず、休憩するところすらない。いい加減辟易しかけた頃、ようやく「樋之上北」の交差点手前で淀川の堤と別れ「樋之上」の信号の先で斜め左の細い住宅街の道に入っていく。 これが本来の旧道らしいが、道は200m足らずで船橋川に突き当たる。左程大きな川ではなさそうで、護岸が整備され用水路化された川底に流れは僅かだ。嘗てはここに土橋でも架けられていたのであろうか?それとも徒で渡っていたのか?今は行き止まりで下流方向に迂回する。 右折して堤防を…

  • フェンスに囲まれた道(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    正面に「くずはモール」を見て、手前で右折してガードを潜る。行く手は淀川で、河川敷にはゴルフ場が広がり、プレーに訪れた人達のものか、沢山の車が駐められている。 丁度樟葉駅の裏側に回り込んだようで、左手にホームが見えている。ここからは京阪本線に沿って、ひたすらフェンスで囲われた堤防上の道を歩く事になる。 ところで、楠葉(樟葉)の「楠」も「樟」も、何れも「くすのき」の事である。「くすのき」を広辞苑で調べると『【樟・楠】(クスは「臭し」と同源か。「楠は南国から渡来した木の意」クスノキ科の常緑喬木。』とある。 町と「くすのき」には特別な関わりなさそうで、枚方市のシンボル木は「柳」らしい。HPによると「柳…

  • 「樟」と「楠」 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    「くずは」は、大阪市北端の枚方市に位置する、京阪樟葉駅周辺の地域の呼称だ。当地は「楠葉」や「樟葉」、「くずは」と表記されている。調べると町名は「楠葉」、京阪本線の駅名には「樟葉」が使われている。 警察署や交番、消防署、郵便局、公園等は「楠葉」で、小学校は「北小」「西小」「南小」共に「樟葉」と表記するが、中学校になると「楠葉西中」となる。中にはどっち付かずのひらがな表記もあり、駅前の商業施設は「くずはモール」、大規模開発された住宅団地は、「くずはローズタウン」、関西医科大学は「くずは病院」と言い、ゴルフ場も「くずはゴルフリンクス」だ。 この「くずは」は、古事記や日本書紀にも出てくる程古く、由緒あ…

  • 楠葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    枚方市の最北端、京都府八幡市の男山丘陵と淀川に挟まれたこの平地部は、嘗ては田んぼばかりの地であったらしい。 男山の多くが住宅団地として開発され、周辺地域が市街化区域へ編入されたのに合わせて、当地で土地区画整理事業が実施された。幹線道路が通され、この楠葉台場跡もその一環として史跡公園として整備された。 京都大阪の中間に位置しベッドタウンとして、京阪本線の沿線にあり、地域の交通利便性の向上と、歴史を活かした魅力ある市街地の形成を図ろうとする計画で、平成30(2018)年9月に竣工した。その記念の石碑が道脇に建てられている。 一般に旧道は、その後の宅地開発や道路の造成・拡幅・改修、川に沿う道なら河道…

  • 楠葉台場跡(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    府道の京都守口線を300m程行くと、左側に広大な緑地があり、隅に「楠葉台場跡(くずはだいばあと)」の案内板が立っていた。国指定史跡で、跡地を樟葉台場史跡跡公園として整備した場所だ。 台場とは江戸幕府が築造した大砲を備えた要塞のこと。説明によると、幕末期「開国を求める異国船が突如、大阪湾に現われたことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を遡ろうとする異国船からの防備」のため築かれたと言う。 場所は八幡市の男山の西に位置し、西側には淀川が流れている。当時の敷地は現代の公園から西にも拡がり、府道や京阪の軌道敷を越え、淀川の岸辺までをしめていた。「水堀を備えた西洋の築城方式である稜堡…

  • 摂津の国へ(東海道五十七次歩き旅・摂津国)

    売春防止法の施行(昭和32年4月1日、公布は前年の5月24日)により、翌年赤線が廃止と成り嘗ての花街から賑わいの火が消えた。多くの娼妓や芸妓を抱えた八幡市橋本中ノ町の「橋本遊廓街」が最盛期の頃は、京阪線の橋本駅は夜が更けるほどに乗客が増え、終電ともなると大層な混雑を見せたと言われている。 旧遊廓の町並を後に、小金川の町を抜け府道の手前で左に折れ、京阪線の線路を越える。左奥が橋本駅で、かつて駅前には百人以上収容できる歌舞練場があったらしいが、廃止後は老朽が進み、近年駅前の再開発で解体し取り壊されたという。 広々とした道が右に大きくカーブすると左手に「八幡市橋本公民館」が建っている。八幡は京都・大…

  • 宇野 港と海の復権(玉野市電廃線跡を歩く)

    近年「海の復権」をテーマに、三年に一度、瀬戸内海の2つの港と12の島を会場に、現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」が開かれている。 今日ではテレビや雑誌等でも取り上げられ、広く海外にも知られるようになり、期間中のみならず、会期後も会場となった島などに多くの観光客が訪れる様になった。 港会場は宇野港と高松港周辺で、12の島というのは直島、 豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島と、春のみ開催の沙弥島、秋のみ開催の本島、高見島、粟島、伊吹島である。何れも岡山と香川の沖合、瀬戸内海に浮ぶ小島で、宇野港とはフェリーで結ばれている。 「美しい自然と人間が交錯し、交響してきた瀬戸内の島々に活力を取り戻し…

  • 瀬戸大橋の影響(玉野市電廃線跡を歩く)

    JR宇野線、宇高航路、宇野の町までを疲弊した姿に変えてしまった瀬戸大橋は、昭和63(1988)年4月10日に華々しく開通して以来、35年以上が経過した。 上部は瀬戸中央自動車道が、下部には本四備讃線(愛称:瀬戸大橋線)が走り、将来は新幹線の敷設を見据えた橋だ。 フェリーが1時間掛けていた海峡部は、新たに運行を始めたJR四国の快速マリンライナーなら僅か数分を要するだけだ。岡山と高松間は1時間余りに短縮された。 嘗て岡山市内から旭川を下っていた時代は、数時間を要していた。その後の国鉄宇野線と宇高連絡船の開通で所要時間が半減された。橋の開通はそれ以来の大革新となっていた。 橋が開通した初年度、鉄道利…

  • 宇野港界隈(玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電廃線跡を歩き終え、「すこやかセンター」に立ち寄り、そこから地域循環シーバス(運賃一律100円)に乗り、宇野駅前の一つ手前、旭橋通り停留所で降り、宇野港近くまで戻ってきた。 この辺りには昔四国に渡る折、フェリー待ちで何度も訪れている。当時は雑然とした町並で、その印象が残っていたが、今では大型の商業施設が立地し、海岸には小公園が造られ小綺麗な町並で、往時とは随分と変わってしまっている。 嘗て連絡船とフェリーが華やかなりし頃、専用駐車場に入りきらない乗船待ちの乗用車やトラックが、道路まで溢れかえっていた時代が有った。 掛けっぱなしのエンジン音で辺りは騒然とし、手持ち無沙汰の貨物輸送のドライバ…

  • 玉野市電の岡山延伸計画(玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電は、岡山方面への延長案も考えていたらしい。宇野を出て広潟、田井、十禅寺、大藪、後閑と辿り、この先進路を児島半島に取る。福浦、波知、八浜、見石、碁石、松尾、甲浦からは児島湖の締め切り堤防の上を通り、岡山港、藤田、福田、青江、奥田を経て岡山に到る全長22.2㎞の路線である。 地図を見ると良く分かるが、当時の宇野線は干拓される前の児島湾の海岸線をなぞるように、妹尾と八浜の間は「逆コの字」型に大きな弧を描くように線路が敷かれている。 玉野市電の岡山延伸計画は、児島半島経由で、児島湾の締め切り堤防上を真っ直ぐ北上しょうとする直線的なもので、宇野線よりも大幅な時間短縮が期待されていた。 一方、玉野…

  • すこやかセンター(玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電には終着駅・玉遊園地前から先更なる延伸計画、渋川方面への案があった。この先奥玉、志池(玉原)、和田、日比小学校前、日比、波峠、日比製錬所前に各駅を設け、渋川海岸に到るルートだ。全長11.6㎞を、凡そ25分で結ぼうと言う計画である。 沿線には造船と並んで玉野市の有力な企業である、明治26(1893)年創業の日比製錬所(現在の日比製煉株式会社)が有り、終点の渋川には県下有数な渋川海水浴場が有る。 この瀬戸内海に沿った地域は当時から国鉄の空白地帯で、将来的には下津井を経て、倉敷に近い水島方面までの延長が考えられていた。 終着駅の名前の由来となった北山児童遊園地を後に50m程進むと県道とは別れ…

  • 終点・玉遊園地前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    玉野市電の走る「玉野」の地名は、玉比咩神社の巨大な「立岩」が、玉のようであったため「玉石」と名付けられた。これが由来となったとの説も有るらしい。嘗て海の入り江に屹立していた御神体は、今では直接触れることが出来、パワースポットとしても知られている。 相変わらず線路跡は駐車場になっているが、滅多に車の出入りも無く歩くには安心だ。玉比神咩社前駅から300m程の所に、神社前駅とは同日開業した「玉小学校前駅」が有った。小学校は右手に見えるが、駅がどの辺りに有ったのか、周辺が余りにも変りすぎ今となっては特定出来ないらしい。距離的にはお堂の辺りかと思うが、それらしき痕跡は何もない。 この先から廃線跡の駐車場…

  • 玉比咩神社前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    雑誌等では、「川の中を走る電車」等と紹介される事も有ったらしい。玉の町中を流れる白砂川は、大聖寺駅辺りで海に注いでいて、玉野市電は大聖寺前駅を過ぎるとこの川に沿って玉駅に向かっている。 玉駅から玉遊園地前駅まで路線が延伸される事になったが、周辺は既に市街地が形成されて線路を敷くスペースの確保が出来なかったようだ。結局、川の上に橋脚を建て、線路はその上に敷かれることになった。 玉駅から僅か430mで玉比咩(たまひめ)神社前駅に到着する。昭和35(1960)年8月3日の開業で、文字通り神社の真ん前の駅である。当時の駅は神社前の交差点、国道430号線を跨ぐ横断歩道橋の手前にあったと言う。 玉比咩神社…

  • 繁華街の玄関 (玉野市電廃線跡を歩く)

    その後玉野市電になると、慢性赤字の経営を改善するため二度にわたり路線を延長してきた。最初は終点だった三井造船所前駅(当初は玉駅)から商店街のある玉橋(当初は玉駅)の区間である。 延伸された鉄道は、三井造船場前駅を出ると、大きく右にカーブして進路を北に向け、終着駅・玉橋駅(開業すると直ぐに玉駅に駅名変更)に向かっていた。当時の駅は、現在両備バス・玉橋のバス停があり、玉商店街のイベント広場に成っている場所にあったらしい。 二度目は玉駅(計画時は玉橋駅)から更に先の玉遊園地前駅の区間で、これはさらに先まで延伸する計画の布石だったと思われる。 新たな終点までは、軌道を敷く場所がなかったのか、白砂川に沿…

  • 企業城下町 (玉野市電廃線跡を歩く)

    大聖寺駅を出た列車は白砂川橋梁で白砂川を渡るが、今日の専用道路の橋脚は、列車が走っていた当時のものがそのまま使われているそうだ。ここから線路跡は造船所と白砂川に挟まれた場所を、開業当初の終着駅に向かっていく。 川越しの右側、道路沿いに見えるのが玉野市の「総合体育館と児童館」である。ここは造船所創業時に、工場と供に建設された玉社宅が有った場所で、廃止になった跡地に、昭和58(1983)年に建てられた施設である。 左前方には、企業立病院として大正8(1919)年に設立された玉野三井病院が見えている。近年宇野地区に拠点を置く玉野市民病院と経営統合し、「地方独立行政法人 玉野医療センター」となっている…

  • 大聖寺前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    藤井海岸駅の向こうに、大仙山トンネルが見えている。 大仙山(104.0m)の僅かばかりの山裾に、やっとの思いで穿いたよう なトンネルだ。沿線では三つ目で、一番短くて全長は60mであるから、 これくらいなら切り通しでも良かったのにと思えてくる。 馬蹄形の入口を入ると、出口の方が明るく見えていて、歩いていても すぐに出てしまう。出て振り返ると、その口は補修されたのか四角くな っていて、入り口は丸なのに出口は四角、不思議なトンネルである。 抜けるといきなり目の前に、異様な光景が展開する。 赤い壁の建物。その奥に厳めしい護岸壁。その上に建つ巨大な黒瓦の 建物。更にそれに覆い被さるように聳える赤白に塗り…

  • 藤井海岸駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    鉄道廃線跡は、玉野市民病院前駅を出て古塩浜信号場にやって来る。 玉遊園地行きの電車は左の行違い線に入り一旦停車、宇野駅行きの電車 を待ち、ここでタブレットを交換し行違う。 再び動き始めた電車は、やや上り勾配に成りながら正面に見える小さ な山・中山(60.2m)に向かう。 暫く進むと、右側に宇野保育園と宇野小学校があり、その先で中山ト ンネルに入る。 長さは157m、沿線では二つ目のトンネルで、二番目に長いトンネルだ。 緩く左カーブしながらトンネルを抜け、次の藤井海岸駅を目指す。 駅は古塩浜信号所から700m程離れている。 併走してきた道路は直進し、線路は右にカーブするが、その分かれて行 く辺り…

  • 古塩浜信号所 (玉野市電廃線跡を歩く)

    大正6(1917)年、児島郡日比町の玉地区に三井物産造船部(三井 造船の前身)が創業し、工場建設に合わせ、玉、和田地区に社宅が建 設された。その後も工場拡張に伴い、奥玉、深井、渋川、利生にも社 宅が造られ、玉地区の人口は急増したが、造船業は昭和50年代に入る と深刻な不況に陥っている。 一方宇野地区は、明治末期の宇野線の開通、宇野港の開港、宇高連絡 船の就航以来、本州と四国を結ぶ玄関口として足元を固め、着実な発展 を遂げている。備南鉄道から玉野市電に引き継がれたとは言え、こうし た背景の中鉄道は、二大地区を結ぶ市民の足として期待されてきた。 ところが鉄道が開通した時代、街の中心は既に玉地区から…

  • 宇野地区の中心地 (玉野市電廃線跡を歩く)

    天狗山トンネルを抜け標高を下げながら100m程行くと、左側にベン チが置かれた休憩スペースがあった。 起点から1400m地点に置かれ、昭和34(1959)年6月15日に開業し た西小浦駅跡である。玉野高校前駅からは440mしか離れていない。 剪定されているので木の種類は分からないが、線路跡は並木道だ。 廃線跡の両側には住宅が建ち並び、線路跡との間には生活道路が通され、 それに挟まれるように延びている。 途中で町中を貫く国道30号線を越えるが、この辺りが宇野地区の中 心市街地に近く、大型の商業施設や市役所などが立地している。 左に向かえば800m程で、宇野駅前、宇野港前の港エリアだ。 国道を越え…

  • 天狗山トンネル (玉野市電廃線跡を歩く)

    線路跡は玉野市築港の静かな住宅地の中を、左にカーブしながら続い ている。前方に同線では最初の、「天狗山トンネル」の馬蹄形の入口が 見えてきた。 宇野港の背後に聳える天狗山(162.0m)の南裾辺りに穿たれたトン ネルで、玉野高校前駅からは僅かに上り、標高も若干上がって4m程の 場所にある。 トンネルの長さは179mあり、玉野市電に3つあったトンネルの中で は最長だ。入口上部に、錆びついて赤茶け僅かに残る金属片が見られる が、電車時代の架線を支えたパーツのようだ。 鉄道は経営の合理化、燃費の低減を狙って途中から電車をやめ、気動 車に変更されているが、その折にも撤去されず残されたものらしい。 右側…

  • 玉野高校前駅 (玉野市電廃線跡を歩く)

    「この道は市民の健康増進を図るため造られたジョギングロードです。 コルクを混入させた柔らかい材料で鋪装されている。」 入口付近に古びて文字が消えかかり、辛うじて判読できる利用者に呼び かける看板が立てられていた。 県道22号を越える横断歩道橋を下りた辺りから自転車・歩行者専用道 路が始まった。しかしここまで歩いてきたが、普通の路面のようで、特 別な柔らかさなど感じられない。 年月を経て、堅く固まってしまったのかも知れない。 その赤く舗装された道を、左の宇野中学校のフェンスに沿って歩いて行く。 学校を過ぎ、道路を越えて小さな川を渡ると、その先右側に傾斜のあ る道路が見えてくる。ここが二つ目の駅、…

  • 廃線跡を歩く(玉野市電廃線跡を歩く)

    「玉野市電」が廃線になると、市は廃線跡の自転車・歩行者専用道路 化を決めた。半年後には工事に着手し2年後には工事が完了し、廃線跡 の多くが再利用されることになった。 その廃線跡を、国鉄駅に乗り入れていた起点の宇野駅から、終点の玉 遊園地前に向かい、辿り歩いてみる。 始発の宇野駅は、現在の宇野駅前交番付近とも、駐車場前の電話ボッ クス辺りに有ったとも言われている。 JR宇野駅の周辺は、連絡船の廃止や、宇野線の衰退により広大なヤー ドは不用に成り、一帯は駅の縮小を含めた大規模な再開発工事が行なわ れていて、その場所を定かに特定することは出来なくなった。 鉄道は、後には国鉄のホームに乗り入れたらしい…

  • 宇野線の凋落(玉野市電廃線跡を歩く)

    昭和63(1988)年、瀬戸内海を跨ぐ瀬戸大橋の児島・坂出ルートが 全線開通する。橋の上部が瀬戸中央自動車道で、下部に鉄道が通る併用 橋となり鉄道部分は将来の新幹線開業を見据えスペースが確保された。 これにより倉敷市の茶屋町と対岸の宇多津町の宇多津駅を結ぶ、本四 備讃線(31.0㎞)が瀬戸大橋線の愛称で華々しく開通した。 四国・高松との間に、快速・マリンライナーが頻発され、凡そ1時間で 結ぶ事になる。更に松山行き「しおかぜ」、高知行き「南風」、徳島行き 「うずしお」等の昼行特急列車や、夜行寝台特急の「サンライズ瀬戸」等 も運行された。反面大橋を渡る普通列車は運行されることは無かった。 一方、永…

  • 玉野市電の誕生(玉野市電廃線跡を歩く)

    「備南電気鉄道株式会社」から「備南電気鉄道」の譲渡を受けた玉野 市は昭和31(1956)年3月24日「玉野市営電気鉄道」を発足させ、これ まで通り鉄道の継続運行に乗り出した。 市民からは「玉野市電」と呼ばれたが、「市電」と言っても所謂路面 電車ではなく、れっきとした地方鉄道法に基づく総延長4.7㎞の鉄道線だ。 住民のニーズを満たせず乗客が増やせなかった前時代を教訓に、市は 積極的に乗客を増やすべく、次々と新駅を開業させている。 玉野保健所前、大聖寺前、西小浦、広潟などだ。 路線は前の会社時代に玉から玉橋間0.2㎞が延伸されていたが、その 後も玉遊園地までの1.0㎞を延伸させ終点までを14分で結…

  • 備南電気鉄道の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

    宇野線が開通し、宇野港が開かれ、国鉄の宇高航路に加え民間の貨物 フェリーも運行した。更には宇高国道フェリーの開通等で益々の繁栄を 見た、港町・宇野地域の交通を語る上で欠かせない鉄道がある。 昭和28(1953)年に「備南電気鉄道株式会社」が、宇野駅から玉駅 間で開業させた「備南電気鉄道」の存在である 宇野港が立地する玉野市の玉地区(当時は児島郡日比町玉)には、三 井物産・造船部が大正時代から立地していた。昭和に入ると、三井造船 株式会社(後に三井E&S造船)と商号を変え、太平洋戦争中には、海軍 の各種軍用艦の建造に携わっていて、国鉄宇野駅からは工場に向けて専 用の引込線が引かれていた。 その後…

  • 宇野港 栄華の時代(玉野市電廃線跡を歩く)

    国鉄の「宇高連絡航路」の盛況を受けて、昭和36(1961)年には、 民間の旅客フェリー「宇高国道フェリー」が新たに参入する。 この時児島湾の干拓事業は既に竣工し、岡山市と香川県の高松市を結 ぶ「一級国道30号線」は開通していて、フェリーが瀬戸内海の海上部を 担う事で、岡山市内から高松市内まで自動車での移動が可能となった。 フェリーは24時間運航で、「昼も夜も19分ごと、待たずに乗れる」 がキャッチコピーで、最盛時は68往復/24時間であった。 就航する各船も豪華さを競い、テレビの搭載は当たり前、デッキに 噴水の装飾を施し、船内にはエスカレーターを導入したり、中には浴 室を備えた船まで現われた。…

  • 宇高連絡船(玉野市電廃線跡を歩く)

    岡山県の宇野と香川県の高松を結ぶ「宇高連絡船」は、海上11.3海里 (21.0㎞)の鉄道連絡船である。明治42(1909)年に港が開港、翌年 宇野線が開通すると時を同じくして運航を始めている。 以来長年に渡り、本州と四国を結ぶ大動脈として機能してきた。 宇野港は昭和5(1930)年2月7日に、県下では初めて「開港場」に指 定された。これは、通商・貿易の為に外国船に開放される港の事で、同 年の7月に中国大連間に定期航路が開設され「照國丸」が就航している。 戦後の復員兵や引き揚げ者などの運搬では大活躍したが、次第に衰退 し後に撤退している。 一方宇高航路は順調で、当初は玉藻丸や児島丸が他の航路から…

  • 鉄道開通の恩恵(玉野市電廃線跡を歩く)

    宇野新線が出来、宇野から高松間に宇高航路が開通すると、大幅に時 間が短縮され、利用者の利便は格段に向上した。 しかし嘗ては、この間の移動に数時間も要する大変な時代が有った。 岡山に鉄道の駅が出来たものの、当時四国に渡る港は旭川左岸の三蟠 で、鉄道との繋がりは無く、何度も乗り継ぎを余儀なくされていた。 要衝の地が新興の駅前に移りつつ有るとは言え、当時市内の交通の結 節点は、まだまだ旧城下町の京橋である。 駅で降りた人々は、まず駅前で人力車を仕立てることになる。 京橋までは凡そ2.3㎞、歩けば30分余りかかるが、一人7銭の人力車な ら半分ほどの時間で着いた。ここからは、旭川の船便に乗換える。 京橋…

  • 宇野の築港(玉野市電廃線跡を歩く)

    瀬戸内海に面した宇野村は、江戸時代から開かれた古浜、広潟、新浜 等の塩田地帯で、明治に入ってからも新たに甲浦に塩田が造成される程 の盛況であった。 時代が江戸から明治に入ると、政府は富国強兵策を進める上で、官営 製鉄所の建設を推進すべく、全国で好適地を捜していて、広大な塩田の 広がる当地も着目されていた。 そんな中、政府や官営製鉄所、軍の高官、県知事などが相次いで宇野 を視察した。彼らは挙って、「東には神戸・大阪が、西には馬関(今の 下関)が、更に北は山陰、南は四国が控えている事から、陸路でも海路 でも交通の結節点で、ここに湊を築けば内海無比の良港として、新たな 交通の要衝になる」と賞賛した。…

  • 宇野線の開通(玉野市電廃線跡を歩く)

    鉄道の黎明期岡山に最初の鉄道の駅が出来たのは、明治24(1891) 年3月18日の事である。国鉄山陽本線の前身である山陽鉄道が、岡山 駅と三石駅間で旅客・貨物の取扱営業を開始し、その半年後には福山 まで延伸・開通している。 当初は貨客車輌の混成七両編成で、一日に上り下り合わせて15本程 の列車が運行されていたという。岡山と倉敷間の運賃は、下等が10銭、 中等はその2倍、上等に到っては3倍であった。 米一升(1.5㎏)が、7銭3厘の時代で有る。現在の運賃は330円だ。 山陽鉄道は、後の宇野線の前身となる岡山と宇野間の申請をするが、 何れも日清・日露戦争の勃発で、世情不安や資金難もあり計画は頓挫し…

  • 樟葉の町へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    嘗てこの橋本地区の東側は、石清水八幡宮の鎮座する男山(鳩ケ峰) から続く山系で、山中には僅かに八幡宮に続く獣道しかなく、鬱蒼とし た森や竹林が広がっていたという。特に竹林は美しく、「竹取物語」の モデルはこの地では・・・とも言われているくらいだ。 発明王として知られるトーマス・エジソンも、白熱電球のフィラメン トに世界各地から取り寄せた竹を試したが、最後に八幡の竹を使用し実 験に成功したとの話は有名だ。 八幡の駅前にはエジソン通りが有り、胸像が立ち、男山や町中にも関 連の記念碑が多く見られる。 ここ木津川、宇治川、桂川の三川合流地帯は低湿地帯で、昔から水害 の多い所で有る。そんな八幡に隣接した…

  • 遊廓跡の存続(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    「橋本遊廓街」が最盛期の頃は、駅前に百人以上収容できる歌舞練場 があったらしい。遊郭のシンボル、町を象徴する建物であったらしいが、 駅前の再開発で解体され跡形もなく取り壊されたという。 遊廓の客、練場の観客等で、立地の良い橋本駅は利用客も順調で大い に恩恵を受けていたらしい。 加えて淀の競馬場の存在、枚方大橋の開 通(昭和5年)等は鉄道の営業成績に大きく寄与したと言われている。 客は関西圏が中心で多くは大阪府下の住民で8割を占めていたらしい。 駅の客は、夜が深まるほどに増え、「終電は遊郭帰りの客で大変な込 みようだった」と言われている。 また対岸の阪急電鉄(当時は新京阪鉄道)や国鉄を利用し、橋…

  • 艶やかな町並(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    思わず、「おぉ~っ」と、声が漏れてしまう。 大谷川を渡り橋本の町に入り、郵便局を過ぎ突き当りを右に折れ、直ぐ に左折すると、何とも華やかで艶やかな町並が目に飛び込んできた。 これまで東海道に残された数多くの町並を見てきたが、このようなも のは初めてだ。ここは昭和の名残を残す平入り二階建ての妓楼が軒を連 ねる「橋本遊廓街」の跡である。多くの建物は昭和初期のものらしい。 玄関には一般とは異なった意匠を極め、格子が嵌り、壁には装飾が施 され、中には欄間を嵌めたところも有り、何よりもカラフルである。 通りに面した二階は全面が窓で、中には手摺を廻したいわゆる郭造りと 言われる建物もある。 京都と大阪の中…

  • 旧道の要塞 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    明治43(1910)年、山裾を削って京阪鉄道が開通すると同時に橋本 にも駅が設けられた。 すると山は、その後も少しずつ削られ後退し住宅が増えていったという。 日本の高度経済成長期には大規模な住宅団地の造成も行なわれ、京阪 神のベッドタウンとして人口も倍増し鉄道利用者も大幅に増えたらしい。 地図で確認すると、淀川の東側の丘陵地には、迷路のように道路が張 り巡らされ、広大な住宅地が拡がっていて、道路で区分けされた敷地に は団地の集合住宅棟や個人住宅が整然と建ち並んでいる。 それは県境を越えて、隣の大阪府枚方市楠葉にまで広がっている。 京阪線の線路に近いところに、「かもしか児童公園」というのが有る。…

  • 橋本の渡し (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    僧・行基によって淀川右岸の山崎と、左岸の橋本との間に架けられた 「山崎橋」も洪水で度々流され、ついには元禄年間に架けられた橋が流 れると再架橋されることはなかった。しかしこれでは有名な天王山を控 えた要衝の地としての役割を果たすことが出来ない。 そこで橋に変わり「橋本の渡し」と呼ばれる渡し舟が通うようになる。 西国街道・山崎宿と東海道間の宿・橋本を連絡する渡しは、二つの幹線 道路の重要な結節の役割を果たす事になった。 山崎側の渡し場は、現在の水無瀬川の河口辺りに有ったらしい。 天王山と八幡の男山に挟まれた淀川は、山崎狭隘部と呼ばれる川幅が 狭められた地域である。この地形を利用して嘗てこの付近に…

  • 山崎橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    その昔の神亀2(725)年、僧・行基はこの地に「山崎橋」と呼ばれ る橋を架けた。今日その場所に同名の橋は存在しないが、日本三古橋の 一つと言われた橋である。因みに三古橋の残り二橋は、宇治橋と瀬田の 唐橋で、何れも後継橋が現在まで残されている。 宇治橋は、大化2(646)年、大和国・元興寺の僧・道登(どうと) により宇治川に架けられた橋である。これまでに古今和歌集や源氏物語 等の文学作品にも登場する、宇治を象徴する橋とされている。 橋の袂には紫式部の像があり撮影スポットになっている。 瀬田の唐橋は瀬田川に架かる橋で、1000年以上前から存在が知られ、 「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、…

  • 堤防下の古い町(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    八幡を抜ける東海道は、本来は木津川の堤防上(現在の府道13号) の道を西進するのが正しいようだ。 そんな堤防上の道の途中左側に、樹齢千年という楠の木の大木があっ たらしい。昔の街道は御幸橋北詰付近から、この楠の木の辺りまで真っ 直ぐな道で繋がっていたと言う。 とはいえ、当時は川もまだ幾つかに分流し、流れも定まってはいず、 このような巨大で堅固な堤防ではなかった筈だ。 僅かばかりの盛り土で、その上に街道が通され、それに沿って橋本の 町並みが続いていたのでは、などと当時の情景を思い描いてみる。 奥ノ町から西山本に入る辺りで府道13号から派生した道が一本、堤防 下に下りている。橋本の町に入ると大谷川…

  • 二宮忠八 所縁の地(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    八幡には三大偉人と称えられる人物がいる。 一人は石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗で、四つ切り箱の「松花堂弁当」 でも知られる人物で、当地には松花堂庭園もある。 二人目は発明王エジソンで、八幡の竹を世界に知らしめた恩人である。 三人目が世界で最も早く飛行原理を発明した二宮忠八だ。 彼は木津川の河川敷で飛行実験を計画した。 街道が奥ノ町に入ると途中に「二宮忠八飛行器工作所跡」の案内板が 立っていた。忠八は、慶應2(1866)年、愛媛県の八幡浜市で、商家の 四男として誕生している。 事業に失敗した父を12歳の時に亡くし、困窮した家計を助けるため、 様々な場所で働く傍ら、自らが考案した凧を売り、収入の足…

  • 石清水八幡宮 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    八幡科手の交差点をそのまま真っ直ぐに進むと京阪本線の「石清水八 幡宮」駅である。駅には男山にある八幡宮上院に向かうケーブル駅が併 設されていて、多くの参拝客はこれを利用するという。 しかし一の鳥居が立つ麓の「頓宮」から、二の鳥居を潜り、男山の登 山道を上るのが表参道で、これが正式な参詣道とされている。 八幡宮は、古は「男山八幡宮」とも呼ばれ、桂川、宇治川、木津川の 三川が合流し淀川となる地に鎮座し日本三大八幡宮の一つとされ、伊勢 神宮に次ぐ国家第二の宗廟と言われる。 八幡は京と難波を結び、天王山と対峙する交通の要衝地で、男山は平 安京の裏鬼門に当り、この八幡宮は都を守る神社として知られている。…

  • はちまんさんの門前町 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    八幡(やわた)は、京都府の南部に位置する人口7万人ほどの小さな 市である。昔から北側には桂川、宇治川、木津川の三川が流れ、水害の 生じやすい低湿地で有ったが、近年川の付け替え工事、護岸堤防、背割 り堤防等の工事により対策がすすんだ。 三川はこの地で大きく湾曲し、市の西側で合流し、淀川と名を変えて 南に下っていく。このため八幡は三川合流の町としても知られている。 その川に架かる淀川御幸橋を渡り、背割り堤防にある「さくらであい 館」で小休止をし、更に木津川御幸橋を渡って坂を下る。 旧京阪国道八幡科手交差点の角に、ポケットパークが整備されている。 「茶文化薫るはちまんさんの門前町 八幡市へ ようこそ…

  • さくらであい館 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    淀川御幸橋の上からも、見慣れない塔と黒瓦葺きの大きな建物がよく 見えていた。何だろうと訝かりながら橋を渡ると、宇治川と木津川との 中間、背割り堤の左側に「さくらであい館」と言う新しい施設が出来て いた。以前来た時には見られなかったものだ。 「宇治川・木津川・桂川が合流する三川合流地域の地域間交流や地域 振興、観光周遊の拠点として人・物・情報が出会う、活気あふれるスペ ース」(HPより)として、平成29(2017)年春にオープンした。 数ある淀川河川公園の内の一つで、地域のランドマークである。正確 には「淀川公園 背割堤サービスセンター さくらであい館」と言う。 年末年始以外は無休で、9時から1…

  • 御幸橋 (東海道五十七次歩き旅・山城国)

    府道13号線(旧国道1号線)を左カーブで、宇治川に架かる淀川御 幸橋(266m)を渡る。何年か前、京都の羅城門跡を背に、東高野街道 を歩いてこの地までやって来た事があるが、その時もこの橋を渡った。 それ以来の再訪だ。 既に正面にはどっかと居座る男山(鳩ケ峰143m)が見えている。 中腹のこんもりと茂る木立の間には、「石清水八幡宮」の大屋根も認め られる。八幡の町はこの神社の門前町で、この男山の山頂には上院が、 麓に下院が鎮座している。 左側には、京滋バイパスの石清水大橋が、やや上りながら左カーブで 通されている。更にその奥少し低い位置を、京阪本線が宇治川を跨いで いて、時折電車がガードを渡る音…

  • 三川合流地帯へ(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    予定よりも大幅に遅れたまま、淀宿跡と思われる地区を抜け、文相寺 の前で再び旧道に出て西を目指す。 この辺り城下町時代の寺町の名残か、近くに大専寺がありこの先には、 長円寺、東雲寺、心鏡寺、西岸寺などが甍を連ねていてそんな町中を抜 けていく。 やがて街道の右側には、京阪電鉄の淀車両基地が見えてくる。 敷地面積94,800㎡、車両収容能力は320両といい、同社の中では寝屋川 車庫に次ぐ規模の車両基地らしい。 旧街道沿いに展開する「京阪淀ロジスティクスヤード(物流倉庫?)」 の敷地も、元々は基地拡張用地らしい。 道筋から人家は乏しくなり、左に田畑を見て、右の金網フェンス越 しには車輌基地を見ながら進…

  • 平行する二つの街道(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    思わぬ遠回りを余儀なくされ、予定よりも1時間半ほども淀への到着 が遅れてしまった。 京阪本線の淀駅近くで、昔ながらの喫茶店を見つけ、常連らしい客た ちの紫煙にまみれながらようやく遅い昼食に有り付いて、早々に腹に流 し込み、再び旧街道を歩き始める。 京阪本線淀駅のガード下を抜け、伏見消防署の前で道なりに右カーブ し南に向う。郵便局の先の淀下津町の角を右折、住宅地に入り込み更に 100m程で左折、同じ距離を歩いて左折すると突き当りが文相寺でそこ を右折すると元来た道に戻る。 ガイド本や資料によっては、この辺りを淀宿の中心として表記してい るものが有ったが、通りは閑静な住宅地で、旧宿場町の面影はどこ…

  • 山城国・淀藩(東海道五十七次歩き旅・山城国)

    京街道や鳥羽街道の結節点でもあり、川湊が開かれた淀の納所は京の 南の玄関口である。古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城) が築かれていて、重要な場所との位置づけである。 本能寺の変後、山崎の戦いでは一時明智光秀側が砦として使用している。 秀吉の時代には、宇治川右岸に淀古城が築かれ淀殿(浅井茶々)が入 城している。更に徳川家康・秀忠の時代には、廃藩となった伏見藩に変 わり、山城国・淀藩が立藩され、松平定綱により宇治川と木津川の合流 地に淀新城が造られ、以後永井家、石川家、戸田家、松平家と藩主は代 変わりをしてきた。 享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると以降幕末まで続く事になる。 稲…

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