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バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

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2010/04/02

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  • JR各社の言い分

    JR東日本が公表した利用者が少ないローカル線の区間別収支によると、1日1㎞当りの平均利用者(輸送密度)が2000人未満は35路線66区間で、2019年度は全て赤字だった。中でも低いのは、只見線(会津若松―小出135.2㎞)の会津若松と小出の間が271人である。北上線(北上―横手61.1㎞)も、北上と横手の間は306人等である。これらの路線の営業キロ数は、JR東日本の在来線の3分の1にあたる。合計の赤字額は年693億円で、100円の収入を得るのに15,000円以上の費用がかかる区間もあるというから驚きだ。釧網線(東釧路―網走166.2㎞)の東釧路と網走の間が372人と低い。名松線(松坂―伊勢奥津43.5㎞)の松坂と伊勢奥津の間は287人。予土線(北宇和島―若井76.3㎞)の北宇和島と若井の間で301人。肥薩...JR各社の言い分

  • 赤字ローカル線

    「赤字ローカル線」と言う言葉が、何時頃から使われ始めたのか定かには知らないが、昭和の中頃には、既に当時の国鉄で赤字ローカル線の対策が協議されている。ある報告によると昭和46年度に於いて地方交通線(187線,約11,000㎞),全線全てが赤字で1,598億円の損失を計上し、収支係数は収入100に対し経費298らしかった。これらの線区に付いては48年6月迄に地元との話し合いを行い、了解を得て、代替バス輸送について十分の措置を講じた上、24線区,162キロの廃止を行ってきたという。当時は、特定地方交通線として指定された「輸送密度4000人/日未満」の路線は、鉄道による輸送に代えてバス輸送を行うことが適当であるとされていたからだ。赤字のローカル線は、国鉄財政悪化の一因であるばかりか、輸送密度からみても鉄道の特性で...赤字ローカル線

  • コロナ禍の鉄道存続協議

    「普段は乗らないのに、鉄道の廃線議論が巻き上がると、廃止には猛反対する」こんな鉄道関係者のぼやき声が聞こえてきそうな昨今の情勢である。元々地方の人口減少等で堅調とは言い難かった鉄道の営業成績は、是までのコロナ禍の影響もあり極度に落ち込み各地で赤字ローカル線の廃止・存続の議論が巻き起こっている。そんな最中、国土交通省の有識者検討会は、利用者が低迷するローカル鉄道の再構築に関する提言を纏めた。それによると存続や廃止を前提とせず、『国は「特定線区再構築協議会」を設け事業者や自治体と対応協議する』『最長3年で鉄道の存続か、バスなどへの転換かの結論を出す』『対象は利用状況が危機的で複数自治体に跨る等広域調整が必要な線区』『国は地元合意を条件に国の認可無く運賃上げできる仕組みを創設する』『国は鉄道の新駅設置やバスの運...コロナ禍の鉄道存続協議

  • 故郷は懐かし (東海道歩き旅・尾張の国)

    頼りない記憶だが、確か五條橋の東詰に、銭湯があったと思う。まだ小学生低学年の頃、家には風呂が無かった。何日かに一回、円頓寺商店街を抜け、母親に連れられ行ったその頃の事を微かに覚えている。帰りには、何時も期待する楽しみがあった。そうそう叶えられる事はなかったが、それでも稀に実現したりもした。「父ちゃんには内緒だよ・・・」と、とある店に立寄って1本5円(と記憶している)の串カツを、何本か食べさせてくれた。何十年振りかに通りを歩くと、覚えのある屋号も幾つか目に付いた。折角なので記憶を頼りに、思い出深い串カツの店を探してみた。この辺りに確か純喫茶があり、その近くの筈だが見当たらない。そうそう、「エリーゼ」とか言ったか・・・あの喫茶店は。大方の見当は付けたものの、当時とは随分変ってしまっている。それでもどうにか、や...故郷は懐かし(東海道歩き旅・尾張の国)

  • なごやの味噌文化 (東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋と言えば味噌文化が知られている。先の総選挙でも、幾つかが上位にランクインした。「味噌」抜きで名古屋の食は語れない、と言われる程、名古屋と「味噌」は切っても切れないものだ。ぐつぐつと煮立った土鍋で食べる「味噌煮込みうどん」は、多くは八丁味噌をベースとしたつゆで、少しかみ応えのある固麺を煮込んだ鍋焼きうどんである。熱々を土鍋の蓋で冷ましながら食べるうどんは、つゆが良く絡み濃厚なコクのある味わいだ。かしわやネギ、シイタケ、餅などのトッピングとも相性が良く、後味もさっぱりとしている。冬に限らず夏場でも冷房の効いた店で、汗をかきながら啜るのが通と言う。とんかつに赤味噌仕立ての独特の「味噌だれ」を合せた「味噌カツ」も「なごやめし」の代表格の一つである。元々は「どて煮」のつゆに、串カツを付けて食べた屋台料理が始ま...なごやの味噌文化(東海道歩き旅・尾張の国)

  • なごやめし総選挙 (東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋には「なごやめし」と言われる食文化が、脈々と息づいている。今年の1月~3月、「一億人のなごやめし総選挙2022」が行われた。今回は28種類がエントリーされ、一人一回八品まで、これぞ「なごやめし」を選んで投票し、15.5万人程が、総数62.9万票を投じた。結果見事1位に輝いたのが、「ひつまぶし」である。鰻の蒲焼きを短冊状に細く切り、おひつに入れた熱々のご飯にもった「ひつまぶし」は、贅沢なごやめしの王道と言われている。最初はそのまま茶碗によそって、二杯目はネギや刻み海苔わさび等の薬味を添えて、最後はそれに出汁かお茶をかけて頂く。一杯で三度の異なった味が楽しめるのがウリだ。昔からの定番「きしめんは」9位、「えびフライ」が10位と健闘した。「きしめん」のルーツはキジ肉入の麺で、尾張藩祖以来の伝統料理だ。時代...なごやめし総選挙(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 三英傑 (東海道歩き旅・尾張の国)

    堀川に架かる五條橋の西詰から始まる「円頓寺商店街」は、300m程続き市道63号線(江川線)と交差する。ここで名古屋高速の高架を潜るとその先には「円頓寺本町」「西円頓寺」へと凡そ700m程の商店街が続いている。抜ければ名古屋の駅まで迄は700m、歩いて10分ほどの距離だ。商店街と市道江川線の交差点に、4体の像が据えられている。東側には織田信長と豊臣秀吉、西側には徳川家康と水戸黄門で、平成25(2013)年7月に町のシンボルとして設置されたそうだ。元気の無い商店街を活気付けようと、地元の不動産会社の経営者が、日本美術専門学校に製作を依頼した物だ。学生達が三ヶ月かけて作成した四体は、像の高さは1.0~1.5m、何れも強化プラスチック製だと言う。信長、秀吉、家康は共に愛知所縁の人物で、地元では、「郷土の三英傑」と...三英傑(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 開慶座 (東海道歩き旅・尾張の国)

    通りでは、記憶に残る屋号の店も二三見かけ、古い店構えに出会うと、当時の光景が何とは無く蘇ってくる。歓楽街でもあった、この名古屋で最大の盛り場には映画文化の最盛期、「あしべ館」「トヨトミ館」「双葉館」「円頓寺劇場」などの映画館があり、さらに寄席や芝居小屋もあったそうだ。しかしこれらの映画館がいつ開館し、いつまで営業を続けていたのか、どこに有ったのか、残念ながら殆ど覚えも無く記憶にも残っていない。そんな中、通りの中程にあった劇場、「開慶座(カイケイザ)」の事だけは強烈に覚えている。元々は明治の中頃に、名古屋では数少ない浪曲小屋として開館した由緒ある劇場である。当時は地方客や、堀川舟便の船頭などの娯楽施設として賑わったという。戦後浪曲人気が低迷すると、寄席や漫才、女剣劇の股旅物などを打ち、一時人気を博したものの...開慶座(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 円頓寺商店街 (東海道歩き旅・尾張の国)

    盛り場として賑わった円頓寺商店街も、堀川の川湊が無くなり、瀬戸電が栄町に乗り入れ「堀川駅」が廃止になり、1970年代には市電も廃止されると、徐々に賑わいは薄れていく。近年追い打ちをかけるように商店自体も高齢化や後継者難に見舞われ、気が付けばいつしかシャッター通りと化してしまった。一旦は廃れかけた商店街ではあるが、最近では再び注目が集まり甦りつつあるようだ。界隈は名古屋城も近く、堀川の歴史有る五条橋や中橋、旧街道の美濃路、四間道や数多くの社寺も鎮座している。そんな中に戦禍を逃れた町屋や蔵が幾らか残り、町並が江戸の面影を色濃く残すとして、レトロ感溢れるアーケードの商店街と合わせて知名度が次第に高まりつつあると言う。それに呼応するかのように商店街でも再開発が進み、有志による町おこしも行われている。近年になって、...円頓寺商店街(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 長久山円頓寺 (東海道歩き旅・尾張の国)

    堀川に架かる「五條橋」を渡るとその先に、西に向けて伸びる「円頓寺商店街」の、年季の入った古びた看板が見えてくる。丁度名古屋駅と名古屋城を結ぶ中間地点にあり、今なお昭和レトロを感じさせる懐かしい姿を留める商店街だ。元々は、清須から移った商人が住み着いた町と言われている。老舗も多く、明治に入ると更に多くの店舗が創業した。古くは「えんどんじ」と呼ばれていたが、今では「えんどうじ」が通り名となっている。通りは円頓寺筋と呼ばれる門前町である。東西に伸びる道は、その西方の円頓寺本町商店街、西円頓寺商店街へと続き、昔ながらのアーケードを構え、どこか懐かしい、ほっとする優しい顔を見せている。市内に有る「大須商店街」「瑞穂商店街」と並び、三大商店街の一つに数えられ、名古屋では最も古い商店街といわれている。そんな商店街の中程...長久山円頓寺(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 四間道 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「五条橋」は太鼓橋で、中央部分がかなり盛り上がり、上り下りの勾配がきつかったように記憶していた。西から橋を渡ると熱田台地への上り際に橋がある事になるが、今見ると意外に車道も歩道も平坦である。幼い頃の目線との違いかも知れないが、昭和60(1985)年に大改修が行われているので、その折に均されたのかとも思うが、真相は解らない。五條橋を渡ると、その西詰に川に沿って南北に通るのが、東海道・宮宿と中山道・垂井宿を結ぶ「美濃路」である。城下を抜ける、主要な街道の一つとされている。当時堀川と街道に挟まれた地には商家の表蔵が並び、この通りの西側には清須越しで清須から移り住んだ清須商人の店舗が建ち並んで、城下の物流を一手に担い大層賑わっていた。元禄13(1700)年この辺りで大火が発生し町屋18,983戸が焼失し、五条橋、...四間道(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 五条橋 (東海道歩き旅・尾張の国)

    堀川に架かる「景雲橋」の一つ下流に「五條橋」が架かっている。名古屋市の都市景観重要建築物の指定を受ける風情のある橋だ。かつてこの橋は、清洲城下を流れる五条川に架けられていた。慶長15(1610)年に行われた町ぐるみの「清洲越し」の折にここに移されたものである。元の橋の、欄干の擬宝珠には「慶長七年壬刀六月吉日」との銘があり、「清洲越し」の8年前に架けられたことが知られている。名古屋城下の整備に先立ち、家康の命により堀川が開削された。その当初に架けられた七つの橋の内の一つで、川には上流から五条橋、中橋、伝馬橋、納屋橋、日置橋、古渡橋、尾頭橋が架けられていた。橋は是まで幾度も改築を繰り返してきたが、明治34(1901)年にも架け替えられている。現在の橋は昭和13(1938)年に、木造の橋に似せて造られた鉄筋コン...五条橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 景雲橋(東海道歩き旅・尾張の国)

    何年ぶりかに、堀川に架かる「景雲橋」を訪ねてみた。故郷を出て半世紀以上、毎年訪れる墓参りでは、時々車で通り過ぎはするが、一度も寄る機会がなかった場所だ。ここは、多感な少年時代を過ごした懐かしい地である。お城を中心としたこの辺りは、いまでは整然と区画され、官公庁や企業の近代的なビルが建ち並び、所々には綺麗に整備された公園もある。以前はこの近くには大きな病院が有り、周辺の鬱そうとした森は昆虫の宝庫で有った。近くの堀川やお堀は格好の釣り場であった。城の北側の広大な練兵場の跡は、冒険心をくすぐる遊び場でもあった。明治44(1911)年、この「景雲橋」の近くに鉄道の駅が開かれた。「セトデン」と呼び親しまれた瀬戸電気鉄道の「堀川駅」である。すでに開通していた瀬戸と大曽根が延伸されたもので、線路は名古屋城三の丸の空堀の...景雲橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 人口の運河・堀川 (東海道歩き旅・尾張の国)

    慶長16(1611)年徳川家康は、木曽と木曽川を尾張藩の直轄地とした。木曽美林から切り出される材木を、筏を組んで木曽川を流し、伊勢湾を渡り宮から城下に運び、名古屋城の築城や新たに作られる城下町の建設用材に充てる目論見である。その前年福島正則に命じ、台地の西辺に運河を掘削した。全国20余りの大名にお手伝い普請を下命し、掘削人夫を出させ、人海戦術により同年の6月に一年足らずで完成させた。それが堀川である。熱田から城下まで、約4000間(7.2㎞)、幅12~48間(22~87m)、水深凡1間(1.8m)の運河か開通した。この運河、その当時の技術から推測すると、完全な零からの掘削ではなかったとの異説も有るようだ。その時代、城下には運河に転用できるほどの大きな自然の川は無かったが、何らかの川筋か用水をベースにしたと...人口の運河・堀川(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 閑所(カンショ)(東海道歩き旅・尾張の国)

    いままでの城下町はメインの通りをつくり、そこに向かい合うように町屋を並べていた。これだと町の賑わいは、このメインの通りだけに限られてしまう。家康の名古屋城下の整備では、これまでとは違う新たな試みがなされていた。家康の名古屋における町造りは、碁盤割りに通りをつくり、その各辺に家屋や長屋を並べ、それぞれを向かい合わせて間口を開かせ(全方向に間口を向け)た。こうすることでどの通りでも町屋同士が向かい合い、線ではなく面として活気ある町並みと成るように工夫がされていた。結果各町屋は間口が狭く、奥行きの長い構造となり、家と家の間には狭い路地が出来、その奥は袋小路となり奥庭のような空き地が出現した。丁度碁盤割り一ブロックの、対角線の交わる中心部分で、ここは「閑所(カンショ)」とも「会所」とも呼ばれる共有地となった。閑所...閑所(カンショ)(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 城下町・名古屋(東海道歩き旅・尾張の国)

    世に言う「清須越し」は、相当な規模で行われている。当時人口6万人を擁していた政治の中心地・清須から、町ごと全てが引っ越す大行事で、後に残ったのは行く当てのなかった農民だけだと言うから凄まじい。一方名古屋には、東西52町(5.7㎞)、南北55町(6.1㎞)の新しい町が誕生した。城郭を中心に身分格式による地域割りが行われ、ここに62万石の城下町が完成した。町人町は城の外堀を隔てた南側に作られ、その東・西・南の外側を武家地で囲い、さらにその外側に多くの寺院を配置したとされている。町割りされた通りの幅は三間であった。また宿場町・宮と城下町・名古屋を結ぶメインストリートの本町通りは、他の道路より広い五間幅で造られ、この通り沿いにも次々と人々が住み着き町人町が形成されたという。名古屋に進出する商人達にとって、この通り...城下町・名古屋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 清洲公園(東海道歩き旅・尾張の国)

    五条川に架かる朱い欄干の大手橋の少し先を、新幹線が轟音を残して走り去っていく。東海道本線を、長い編成の列車や貨物列車が、頻繁に行き交っている。日本の大動脈は、嘗ての「天下布武」の拠点淸洲城を、「本丸ゾーン」と「清洲古城跡公園」、「清須公園」の三カ所に完全に分断している。「本丸ゾーン」と五条川を挟んで向かい合うのが「清洲古城跡公園」で、JRの線路を潜った先が、大正10年に開園した「清洲公園」である。公園内には信長公を祀る小社があり、幕末の頃建てられた「清洲城跡顕彰碑」2基も残されている。芝生広場のある緑豊かな公園で、その中心には地元の篤志家から寄付された、27才の桶狭間出陣の勇姿を模した信長公像が建てられている。平成に入り地元の企業から濃姫像が寄付され、清洲城内に建てられていたが、信長一人では寂しかろうと、...清洲公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 清洲古城跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

    関西方面から東海道新幹線で東京方面に向かう時、列車が東海道本線と接し、車内では名古屋到着を告げる放送が始まらんとする頃、車窓左手に一瞬小さなお城が見える。しかし車窓はアッと言う間で、直ぐにキリンビールの工場に変わってしまい、うっかりしていると見逃してしまいそうだが、これが清洲(清須)城である。今日の淸洲城跡は、この清洲城のある本丸ゾーンと、五条川の対岸の「清洲古城跡公園」と、東海道本線と東海道新幹線により分断された北側の「清洲公園」の三つに分割されて広がっていてその中心を成すのが、車窓からも見える清洲城だ。江戸時代初期、清洲越しが行われ町は人口が激減し寂れ、農民だけの寒村となってしまった。城も解体され、名古屋城築城の建築資材に流用され、廃城となり何も無くなった。因みに名古屋城の西南角に残る隅櫓は、「清洲櫓...清洲古城跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

    信長の天下布武の礎となった清洲は、尾張の中心的な場所であるが、東海道筋からは北に大きく外れ、低湿地帯で水害が多かった。地の利の悪い清洲を、常々憂慮していた家康は、慶長17(1612)年、名古屋に新城を築くことを決意する。政情が不安定な時期で、西国の大名に対する備えとしての城である。この時期に敢て本拠を変えるのは、不便でもあったが、一方では信長・秀吉が活躍した場を払拭する思いが有ったとも言われている。完成を機に、清洲の町をまるごと名古屋に引っ越すことが決まった。世に「清洲越し」と言われるものだ。武家はもとより町人まで、家屋敷から家財道具一切合切を運び出させ、これに従う住民を優遇し、城下の中心に住まわせる算段である。神社仏閣から商店に至るまで引っ越した為、人口六万人を誇った清洲の町は、農民だけが残り一瞬で寂れ...淸洲越し(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 清洲(清須)城(東海道歩き旅・尾張の国)

    時はまさに戦国時代、若き日の織田信長は近世的な城をここに築いた。生まれ育った那古野城(諸説有り)から新城に移り住み、本拠と定め地名に因み「清洲城」とした。近くを流れる五条川を巧みに利用し、内堀・外堀を設け、城下町の外郭の要衝には土塁を巡らせていた。城を中心に武家屋敷や、町民町、寺社町が発展していたらしい。信長は、凡10年間ここを本拠地として活躍した。桶狭間の合戦では、僅か六騎の股肱の臣を従えただけで進軍し、今川氏を撃破した。天下統一を目指した信長であったが、本能寺の変で明智光秀の謀反にあい、敢えなく野望は断ち切られることになる。信長の死後、ここで城の相続が話し合われている。世に言う「清洲会議」では、信長の次男、織田信雄の相続に決まった。相続した信雄ではあったが、小田原征伐の折豊臣秀吉の怒りに触れ除封される...清洲(清須)城(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張の中枢・清洲(東海道歩き旅・尾張の国)

    「清須」は愛知県の北西部に位置する市で、名古屋の中心部からは北に数キロ程離れている。五條川流域の沖積平野に開けた町で、周辺は庄内川や新川の下流域に近い辺りに位置している。地形は平坦で山や丘など高所に乏しく、殆どが土砂の溜まった海抜10m未満の土地である。昔から大河は無いが、中小の川が多く流れ、相対的に海抜の低い低湿地帯である。是までも度々水害が発生した土地柄で、近年でも東海豪雨の折には新川の堤防が決壊し、大きな被害が発生している。地名は「キヨス」で、一般的には「清須」の字が多く見受けられる。一方古くから「清洲」と書かれることも多々有り、今でも混在している。平成の大合併では、近接する枇杷島町、清洲町、新川町が合併し(後に春日町を編入)、人口6.7万人余りの「キヨスシ」となった。漢字の表記は、「清須市」が用い...尾張の中枢・清洲(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張徳川家の大名道具(東海道歩き旅・尾張の国)

    時間に余裕のない事を承知で、「徳川園」を訪ねて見たが、予報通り天気が急変し生憎の本降りの雨と成ってしまった。足元も悪く、早々に園の散策を切り上げ、容赦なく降り続ける雨を避け、併設の「徳川美術館」にも立ち寄って見る。尾張徳川家は、愛知県西部一帯を支配し、石高は61万9500石だ。徳川御三家の筆頭と言われ、初代藩主は家康の第九子・義直である。御三家には重要な役割があった。将軍家に跡継ぎがいない時は、将軍の後継者を出す資格があったが、尾張徳川家にはついにその機会は巡っては来なかった。第7代藩主・宗春の時代には自由で放任的な政策がとられ、城下町に繁栄がもたらされ、「芸どころ名古屋」と呼ばれるきっかけに成った。時は第8大将軍・吉宗が進める質素倹約の時代で、それに反する宗春は後に、隠居謹慎を命じられることになる。こん...尾張徳川家の大名道具(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 尾張徳川家の別邸(東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋城の真東、三キロほど離れた東区徳川町に「徳川園」が有る。尾張藩二代藩主光友が、元禄8(1695)年、隠居所として自ら造営した、敷地面積約13万坪(44㏊)という広大な屋敷跡である。江戸幕府が大政奉還をした明治以降は、尾張徳川家の子孫の邸宅となっていたが、昭和の初め名古屋市に寄付されたのを期に改修整備され、「徳川園」として一般公開された。平成には大規模な改修も行われ、新しい日本庭園として生まれ変わった。舟を浮かべたという、大池を中心とした池泉回遊式の日本式庭園で、典型的な大名庭園だ。樹木や花木が豊富な園内は、四季折々様々な顔を見せ、格好の撮影スポットとしても知られ、特に結婚式の前撮りでの利用も多いという。高低差のある地形をそのまま生かして造られ、滝から渓谷に流れ落ちた清流が、海に見立てた池に流れる様を...尾張徳川家の別邸(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 水を呼ぶ鯱(東海道歩き旅・尾張の国)

    名古屋城と言えば、天守大屋根の上に輝く金の鯱が有名だ。築城当時は金の純度が80%で、純金にすると200㎏以上使われ、小判にすると17,975両分に相当するもので有った。その燦然と輝く様は、東海道や佐屋道、美濃街道を行く旅人、七里の渡しの舟上からも認められたという。名古屋城は、明治維新の廃城令を生き延びた。昭和5(1930)年には、城郭として初めて国宝に指定されている。しかし先の大戦で戦禍に遭い、昭和20(1945)年あえなく何もかもが焼失してしまう。幸い鯱の一部は焼け残り、残骸は戦後GHQが接収し、後大蔵省を経由して名古屋市に返還された。市はその残骸から金を取り出し、市民に見える形にしようと、市旗冠頭と茶釜に加工し保存した。戦後になり昭和34(1959)年、市民の気運も高まり天守は復元されることになった。...水を呼ぶ鯱(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 東海道の要塞(東海道歩き旅・尾張の国)

    那古野(なごの)には、古くから今川一族が築いた城が有った。天文年間には織田信長も居を構えていたが、清須に移った後、その跡を継いだ叔父の信光が死ぬと廃城になっている。この那古野こそ、現在の名古屋城の発祥の地である。大坂と江戸を結ぶ東海道の、防御を固める名古屋の築城は、巨大な軍事要塞を造る一大プロジェクトであった。公儀普請として、西国の二十大名にそのお手伝いが下命された。恐らく公金だけでは賄えず、お手伝い普請は、有力大名の力をそぎ落とす狙いも有ったようだ。守りの要の石垣は、丁場割図により細かく作業場が割りふられた。その石は、全国から集められた巨石を用いて築かれている。風雲は急を告げていたのであろか、工事は慶長15(1610)年6月から始まり、翌年の9月にはほぼ完成する突貫工事であった。慶長17(1612)年、...東海道の要塞(東海道歩き旅・尾張の国)

  • ルートの変遷(東海道歩き旅・尾張の国)

    中世以降、東海道の吉田宿(現豊橋)以西のルートが度々変更されたのは、時代と共に生まれた信長・秀吉・家康に代表される尾張・三河の支配者の存在や、その支配地域の位置的な関係にもよるが、地勢的な要因も大きかったようだ。特に鈴鹿山脈の峠越ルートは度々変わっていて、これまでは美濃周りのルートも多用されている。急峻な鈴鹿峠を越えるより、比較的容易な関ヶ原を抜ける道が好まれていた。米原・関ヶ原は冬の積雪が多く、通行に困難を来す事もあるが、後のの東海道ルートに比べると二日ほど行程が短縮されるメリットは大きかったようだ。また峠越もさることながら、今より大きく北に入り込んだ伊勢湾をどうのり越えるかも問題であった。更に尾張と美濃の境付近に流れ込む暴れ川と言われた、木曽三川の下流域の状況は、当時の渡船や架橋の技術の事も有り、街道...ルートの変遷(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 年寄りの鉄旅トイレ事情

    またトイレの話で恐縮です。一昔前の国鉄なら、ホームの端にトイレの有る駅は結構あった。長距離、夜行、寝台等の列車の停車するホームには、洗面所とセットで設置されていた。近頃では、長距離列車が激減したこと、経費の問題や、車輌の設備が整った等で、ホームのそれは役割を終え姿を消している。肉体的な機能は歳と共に次第に衰えるが、最近はトイレが近くなった事を実感する。若い頃ならギリギリまで待ち、直前にホームで用を済ませば、例え車輌に無くても事たりた。降りるまで多少の我慢も出来たが、近頃では不本意ながら急を要す事も多く、乗車中のトイレ利用は欠かせなくなっている。それを思い水分補給を控える事は、年寄りには危険で、やはり自衛策としては乗車前に済ませることは当然だ。その上で乗車前にトイレのある車両の位置を確認し、出来るだけそこに...年寄りの鉄旅トイレ事情

  • 少し昔のJR四国のこと

    今回も、トイレの話で恐縮です。コロナ禍も有り、ここ数年JR四国の鉄道は利用する機会も無く、今では改善も進んでいるらしく迂闊なことは言えないが、以前は本州から乗り入れる特急等の優等列車を除くと、普通列車の車輌には殆どトイレは付いていなかった。少し前の話で、18キップで管内の路線を乗り潰していた頃のことだ。全国的にトイレ付きの車両が増え、トイレの改善が進められる中で、ここだけが取り残されているようだが、その理由は簡単で経費がかかるからである。又とりわけ地方では、学生の喫煙場所となることを嫌った措置でもあったようだ。確か土讃線の小歩危駅や、予土線の江川崎駅での列車行き違い、時間調整で長時間停車した時のことだったと思う。乗った車輌にはトイレ設備が無く、こんな時「列車にはトイレの設備が有りません。○分停車しますので...少し昔のJR四国のこと

  • 列車のトイレ事始め

    いきなりトイレの話で恐縮です。列車にトイレ付の客車が初めて連結されたのは、明治22年の事だそうだ。それまでは長距離を走る列車でもトイレの設備は無かったと言う。ある日時の政府高官が、列車の停車中に駅のトイレで用を足していた。すると列車が動き始め、気付いた高官はあわてて列車に飛び乗ろうとしたが失敗した。悲惨な事に足を踏み外し線路に転落、列車と接触して死亡すると言う事故が起きてしまった。この痛ましい事故がきっかけでトイレ付車両が導入されたという。しかし当初乗客はトイレは付いたものの運転中の使用はできないものと思い込み、列車が駅に停車すると一気に多くの乗客がトイレに殺到した。その結果列車が発車した後の線路上には、大変な量の落とし物が残されていたそうだ。その後多くの車輌にトイレの設備が普及したが、当時はタンクもなく...列車のトイレ事始め

  • あちてらす倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

    水島臨海鉄道の旅客取扱いの終着駅である「三菱自工前」駅まで行ったものの、昼間この時間帯には倉敷に折り返す便は設定されていない。駅周辺はまるで生活臭が感じられない工業地帯で、朝夕の通勤客以外では、物好きな鉄道ファンだけらしい。とはいえ、工場への出張者ぐらいは有るのでは、と思ってみたりもするが、電車の運行を満たすほどの需要は無いようだ。有っても多くは水島からタクシーを利用するのであろう。線路沿いの道をゆっくりと、水島港にも寄り道をしながら、1.2㎞の道を1時間程かけて戻り、水島駅から電車に乗り倉敷市駅に帰ってきた。折角なので駅の南口から、歩いて5分程の所にある、令和3(2021)年10月10日にオープンした「あちてらす倉敷」に立ち寄って見る。一帯の再開発により誕生した、複合商業施設で、南館と北館の二つの建物で...あちてらす倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島海上保安部 (水島臨海鉄道に乗る)

    正式には、「第六管区海上保安本部水島海上保安部」と言うらしい。主に中四国地方の瀬戸内海、並びに岡山、広島、山口(一部)、香川、愛媛を管轄の範疇とする「六管」に於いて、岡山県西部水域の内、笠岡市神島西端から倉敷市と玉野市の市境に到る間を担っている。主な任務は、海上に於ける犯罪捜査、法令違反の取り締まり、海難救助から海洋汚染の監視と調査と幅広い。対応する所属船艇は35m型巡視艇が、消防機能を有した「PC53りゅうおう」と「PC13みずなみ」があり、20m型巡視艇では、「CL69にいかぜ」と「CL53きびかぜ」を有している。(水島海上保安部HP)場所柄、中小型の艦艇が配備されている。水島港の取扱貨物量は中四国では最大級で、全国で10位にランキングされているが、入港隻数を見ると年間約3万隻の船舶が出入りし、この数...水島海上保安部(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島港 (水島臨海鉄道に乗る)

    岡山県が管理する水島港は、昭和37(1962)年に開港した。大規模な工業団地の造成と時を合せ、工事が進められての事である。高梁川の河口域を挟んだ西側の玉島地区(商業港)と、東側の水島地区(工業港)にかけての港湾が総称して水島港と呼ばれている。昭和35(1960)年には「重要港湾」としての指定を受けた。その後も浚渫など整備が進み、公共の岸壁も造られ、大型のタンカーや客船などが接岸できるようになった。国際競争力を支える拠点港湾として更に整備が進み、平成23(2011)年には「国際拠点港」となっている。(岡山県港湾課)港の取扱貨物量は年間8458万トンと言い、中四国では最大級で全国でも10位にランキングされる重要な港湾となっている。(岡山県産業振興課)因みに全国一位は名古屋港、二位は千葉港、三位は横浜港である。...水島港(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷貨物ターミナル駅 (水島臨海鉄道に乗る)

    嘗ては倉敷貨物ターミナル駅の先には、川崎製鉄への引き込み線が延び川鉄駅が有ったらしいが、昭和58(1983)年に廃止になっている。臨海工業地帯周辺の瀬戸内海では、航路整備が進み、10万トン級の貨物船の出入りが可能になり、多くの工場が海運に切り替えた影響らしい。車輌基地は産業道路(海岸通り)のフェンス越しに見ることが出来る。車輌のことは良く解らないが、旅客用はオリジナル車輌のMRT300形というのが一番多い。それ以外にも旧国鉄で活躍したキハ30・37・38形を数両保有している。冷房の無い車輌もあり季候の良いときだけ運行されるらしく、ファンにはこれが堪らないらしい。中でも貴重なのは旧国鉄のディーゼル気動車「キハ205」で、現存するのは全国でここだけと言う。この車輌は近年修復され、その貴重な車輌をエンジン起動状...倉敷貨物ターミナル駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島臨海工業地帯 (水島臨海鉄道に乗る)

    水島臨海鉄道水島線の旅客終着駅、三菱自工前駅までやってきた。同線の旅客営業はここまでだが、貨物専用の線路はこの先もまだ続いていて、1㎞ほど先の倉敷貨物ターミナル駅が終点だ。周辺は水島臨海工業地帯の一角である。嘗て支線や引込み線も多く敷設されていたが、今では殆どが廃線となり、その痕跡を至る所に留めている。戦前は漁業と干拓地農業を主とする農漁村であった水島地域に、大規模な工業団地が本格的に整備されたのは、第二次世界大戦中の事だ。空襲のリスクを低減するため、工場分散により三菱重工の航空機製作所岡山工場が進出して以降の事である。終戦の年の水島空襲では、この工場は壊滅的な被害を受けている。海を干拓し新田とする工事を始めたのは宇喜多秀家である。天正12(1584)年には高梁川河口に潮止め堤防築堤に成功した。干拓が進め...水島臨海工業地帯(水島臨海鉄道に乗る)

  • 三菱自工前駅 (水島臨海鉄道に乗る)

    水島駅を出て、国道430号線を跨いだ辺りで、港東線と分岐すると右に大きくカーブしながら進路を西に向ける。やがて視界が開け左手に水島港が見え、車窓からは海上保安庁水島保安部に所属する多くの艦艇を目にすることが出来る。線路は更に右に大きく曲がり、高度を次第に下げ地上に降りて行く。工場の側壁に沿っ行くと、左に廃止された西埠頭線の痕跡が見える。貨物専用線で、800m程先の西埠頭駅が終着であった。更にその先には周辺にある、三菱ガス化学や三菱石油などコンビナート各工場への引き込み線が通じていたが、平成28(2016)年に廃止された。水島からは2分ほどで、やがて終点の三菱自工前駅に到着する。広々と流れる産業道路(海岸通り)と、線路に挟まれた狭い場所に無理矢理押し込め、申し訳程度の駅のようで、単式1面1線の地上駅だ。ホー...三菱自工前駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島の町 (水島臨海鉄道に乗る)

    水島は倉敷市の南部に位置し、多くは明治以降に干拓や、港の浚渫で出た土砂で埋め立てて作られた平坦な地に開けた町だ。水島臨海工業地帯(水島コンビナート)の中核をなす地域である。戦前にはこの地域に軍需工場・水島航空機製作所が作られ、物資の輸送目的で鉄道が敷設された。戦後はそれに代わって三菱重工や三菱自動車が進出し、その後も工業用地の拡大に伴って多くの工場も立地し日本でも有数なコンビナートを形成した。巨大な臨海工業地帯では、昼夜の別なく操業が行われている。この夜も眠らない美しく輝くコンビナートは、近頃では「インスタ映」スポットとして知られていて、夜景を見に訪れるカップルも多いという。又夜景を船上から楽しむ「夜景クルージング」の船が児島観光港からも出ている。戦前から工業都市として栄え、今でも多くの工場が立地し、煌び...水島の町(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島駅(水島臨海鉄道に乗る)

    高架の路線を行く列車の前方には、モクモクと白い煙を吐き出す煙突が何本も見えている。水島コンビナートの一角を担う工場群である。常盤駅を出ると線路は分岐し複線となり僅か3分、倉敷市駅からは25分ほどで沿線最大の駅水島に到着だ。元々は、貨物専用の三菱自動車水島製作所の岡山工場駅として開業し、旅客輸送を始めると同時に水島駅と改名された。旅客用の島式ホーム1面2線の高架駅で、日中は委託駅員が常駐する。多くの旅客列車はここが終点で、折り返して倉敷市駅に向い、これより先に行くのは通勤客の居る朝夕が殆どで、日中は僅かに成る。是とは別にホームの前には、常盤駅を過ぎて分岐した貨物専用線が通り抜けている。線路はその先更に南に向け延び、幾つかの分岐を複雑に重ねながら、国道430号を跨ぐ辺りでは完全に分かれ直進する。その内の一本は...水島駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 望郷の駅(水島臨海鉄道に乗る)

    浦田駅を出て弥生駅に停車し、出発すれとすぐ栄駅に到着する。何所も駅間が、本当に近い。高架駅の車窓からは、駅前広場に据えられたモニュメントが見える。平成4(1992)年に、同線の連続立体交差事業の完成を記念して、「水と海と緑」をテーマに、著名な彫刻家8名により製作された作品群の一つだ。弥生駅と水島駅の間には、「くらしき緑と水のアート回遊」が整備されていて、この他にも7点ほどが高架橋に沿った側道に配置されている。栄駅は鉄道敷設のきっかけとなった旧三菱重工水島工場が出来た折、名古屋工場からの転勤者が多く、故郷名古屋の「栄町」を偲んで名付けられたそうだ。名古屋の栄町周辺には、テレビ塔や百メートル道路、地下街や都市公園があり、大型の文化芸術施設や老舗百貨店、ショッピング施設、高級クラブから赤ちょうちんの飲み屋までが...望郷の駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 沿線の車窓風景(水島臨海鉄道に乗る)

    西富井駅で国道1号線を越えると、凡そ800mで福井駅に到着する。駅の少し手前の線路脇には、倉敷中央高等学校が立地している。この駅が出来るまで生徒の通学は、西富井駅を利用していたらしい。国道越えもあり、より近くて安全便利な最寄り駅として、平成に入り開業したのがこの駅で、この路線では比較的新しい駅である。福井駅辺りで一旦地上に降りた水島臨海鉄道水島線は、浦田駅を過ぎると再び高架の上を走るようになり、やがて弥生駅に到着する。水島工業団地向けの自動車など、交通量の増加に伴い、平成4(1992)年に高架化された区間である。周辺は大規模な住宅団地、マンションやアパートが立ち並ぶ、倉敷や水島地域のベットタウンとしても発展をする地域だ。商店やスーパー、小さな工場や事務所なども多く、賑やかな家並みが車窓を流れるなか、時折田...沿線の車窓風景(水島臨海鉄道に乗る)

  • インスタ映え(水島臨海鉄道に乗る)

    近頃やたら「インスタ映え」と言う言葉を耳にする。昔流に分かり易く言えば、撮影に最適な場所、或は物のようだが、若干これとはニュアンスが違い、これに加えそこで撮られた写真を共有し共感し評価し合う様、とでも言うのか、スマートフォンのSNSアプリ等に投稿された見栄えの良い写真のことらしい。2017年には、日本の新語・流行語大賞の年間大賞にも選ばれるなど、広く世間に知れ渡り、もはや社会現象ともなっている。しかしブームとなったことで、一部には撮影による迷惑行為や、犯罪紛いの行為などが問題視されることもあるようだ。何れにしても他人に迷惑をかけないで写真を楽しむことが大原則である。水島臨海鉄道水島線は、球場前駅を出ると線路の高度を少しずつ上げ、やがて市街地を見下ろす高架の上を行く。沿線途中の左側には、嘗てこの地に立地して...インスタ映え(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷市営球場 (水島臨海鉄道に乗る)

    倉敷運動公園にある倉敷市営球場は、戦後まもない昭和24(1949)年にオープンした。両翼93m、中堅121m、収容人数1.5万人は、当時中国地方最大の球場と言われていた。調べてみるとそのこけら落としは、東急フライヤーズVs大阪タイガースのプロ野球公式戦が行われ、収容人員の倍以上の観衆が集まったと伝えられている。ちなみに東急フライヤーズは、戦後間もない昭和21(1946)年にセネターズとして誕生、その後東映フライヤーズ、日拓ホーム・フライヤーズ等、幾多の変遷を経て本拠地を北海道に移した日本ハム・ファイターズの前身である。また大阪タイガースは、昭和9(1934)年に阪神電気鉄道を親会社に、甲子園球場を本拠地として、設立された球団で今の阪神タイガースだ。その後もメジャーリーグが来日した折や、プロ野球の試合が行わ...倉敷市営球場(水島臨海鉄道に乗る)

  • 球場前駅 (水島臨海鉄道に乗る)

    距離にして2㎞、時間にして僅か4分ほどで球場前駅に到着だ。駅は倉敷運動公園の、文字通り軟式野球場のバックネット裏に隣接して設けられている。駅舎も無く、小さな屋根の下に待合用のベンチが置かれただけのホームはやたらと長く、一面一線の簡素な無人駅である。水島本線の線路は、倉敷運動公園を横切るように敷設されている。運動公園は市内のやや西寄りに有り、戦後間もなくから整備された。正面ゲートは駅とは反対側、市内を貫く国道429号線に面した南側にあるので、駅付近が東の入口となっている。ホームの右手には武道館、弓道場やテニスコート、幼児プールがある。左手に軟式野球広場が広がり、その奥にはサッカー場を兼ねた公認全天候型トラックを有する陸上競技場が設けられていて、何れもナイター設備が整えられている。更にウエイトリフティング場、...球場前駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 臨海鉄道 (水島臨海鉄道に乗る)

    「臨海鉄道」と言うのは、主に臨海部の工業地帯に於いて運行される鉄道である。その主なものは、貨物専用或いか或は貨物中心の運輸が目的だ。今日全国には、「八戸」「仙台」「福島」「鹿島」「京葉」「神奈川」「名古屋」「衣浦」と「水島」の9社の「臨海鉄道」が有る。その内の2社は旅客取扱いも行っていて、西日本ではこの水島が唯一で、もう一社は、茨城県の鹿島臨海鉄道である。水島臨海鉄道線水島本線は、倉敷市駅を出ると市中心部のマンションや住宅等の住宅街の中を、山陽本線や伯備線と並走する。暫く行くと大きく北に進路を変える伯備線とはお別れで、このあたりで線路は複雑にJR線と絡み合い、接続されて直接山陽本線に乗り入れる。元々水島の軍需工場への物資輸送が目的であった路線は、今でも同地区への貨物輸送の為重要な役割を担い、倉敷駅の構内に...臨海鉄道(水島臨海鉄道に乗る)

  • お雛列車(水島臨海鉄道に乗る)

    水島臨海鉄道の倉敷市駅の待合室掲示板に、「お雛列車」の運行案内ポスターが貼られていた。倉敷・水島地域で行われる雛巡りのイベントに合わせ、その期間中に運行されるようで、毎年行われているらしい。折角なので何本かの列車を見送って、1時間ほど待てばやってくるこの気動車に乗ってみることにする。路線は僅か11キロ余りで生活色が強いだけに、観光での利用は余りないようだ。ここには良くある一日フリーの乗車券や、観光目的の割引券などの販売はされていない。自動発券機で終点の三菱自工前までの乗車券を購入(350円)し、切符を自動改札機に通す。改札を出てホームに立つと、正面にはJR倉敷駅の何本ものホームが見えている。明るい日差しが降り注ぐなか、上り下りの列車が頻繁に行きかい、活況を見せている。一方この一面一線の行き止まり駅のホーム...お雛列車(水島臨海鉄道に乗る)

  • 水島臨海鉄道水島本線(水島臨海鉄道に乗る)

    水島臨海鉄道の水島本線は、JR倉敷駅に隣接した倉敷市駅から、同市南部の水島地区にある三菱自工前駅までで、全線非電化の単線である。営業距離は11.2Km、この間では旅客営業も行ない所要時間は25分ほどと言う短い路線だ。旅客を扱う駅は10駅あり、そのほとんどが無人駅で、そのほかにも貨物駅が1駅ある。どの駅間もかなり短く市内電車並で、長いところでも倉敷市駅から次の球場前駅間の2㎞が最長で短い所では400m程しか離れていず、ホームから先の駅が見通せるほどだ。三菱自工前駅から先は貨物専用の路線で、800m先の倉敷貨物ターミナル駅が終着であるが、線路は更にその先の川崎製鉄まで続いている。又、水島から分岐し東水島駅に向かう、貨物専用の港東線を3.6㎞ほど有している。嘗ては専売公社倉敷工場への引き込み線が途中にあったらし...水島臨海鉄道水島本線(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷市駅(水島臨海鉄道に乗る)

    JR山陽本線の倉敷駅は、水島臨海鉄道水島本線との接続駅である。とは言え、ホームは直結されていないので一旦JRの駅を出る事になる。南口を出ると、大きな花時計を見下ろす、ペデストリアンデッキが広がっていて、そこを通り南西側に降りる。飲み屋や食事処の立ち並ぶ、狭い通路を進むとその先に水島臨海鉄道の倉敷市駅はある。「水島臨海鉄道のりば」と大書きされた看板が掲げられた鉄骨三階建ての建物だ。結構大きな駅を構えているように見えるが、実は駅はその一階部分だけで、ビルの上階は全てが駐輪場になっている。駅舎に入ると左手は待合となっていて椅子が置かれ飲料水などの自動販売機がある。正面に駅務室があり、ここには駅員が駐在している。その横には自動発券機と改札口があり、ごくありふれた普通の駅風景だ。ここ倉敷もそうだが、JRの駅とそれに...倉敷市駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷みらい公園(水島臨海鉄道に乗る)

    都市型テーマパーク「倉敷チボリ公園」は僅か11年の短命で閉園した。開園直後には東京ディズニーランドに次ぐ入園者数を誇り、輝かしい時期もあったが、年々に来場者は減退し、終には開園当初の半分にも満たない状況になった。立て直し策も検討されたが、肝心なデンマークのチボリ社と運営会社の間で、運営契約が更新できず「チボリ」の名称使用が出来なくなったことが致命的となった。様々な対案が飛び交ったと記憶しているが、どれも具体化出来ないまま撤退が決まった。多くの遊具などは解体され、現在その跡地は平成23(2011)年11月、「倉敷みらい公園」として再開発されオープンした。JR倉敷駅からは、北口のペデストリアンデッキと直結している。倉敷用水の流れに沿って、幅22m往復約600mの緑道が整備され、加えて広々とした芝生広場から成る...倉敷みらい公園(水島臨海鉄道に乗る)

  • 旧倉敷チボリ公園(水島臨海鉄道に乗る)

    一方北口には、メルヘンチックで北欧風な雰囲気が漂っている。アウトレット等の商業施設もあるが、南口とは対照的に長閑な佇まいだ。それは嘗て、都市型テーマパーク「倉敷チボリ公園」が立地していた名残の数々が、今なお残されているからである。アトラクション20、土産処13,レストラン14等で構成され、主にファミリー向けとも言われた公園は、滞在型観光の拠点として大きな期待がかけられ平成9(1997)年に開園した。「倉敷美観地区」が周遊型観光地と言われ、その短い滞在時間をこことセットにする事で引き延ばしたいとの思惑である。敷いては、泊まり客を増やそうとの意気込みが、当時の関係者にはあった。開園当初は、年間三百万人近い入場者を誇ったが、その後年々減少し、数々の立て直し策が行われるものの改善する事は無かった。終には百万人を大...旧倉敷チボリ公園(水島臨海鉄道に乗る)

  • JR倉敷駅(水島臨海鉄道に乗る)

    昭和56(1981)年、三代目として竣工したJR倉敷駅舎は、町の玄関のシンボルと言われ、地上8階建てのビル(高さ42m)であった。ホテルや商業施設が入り、夏には屋上にビアガーデン等も開かれ、盛況を見せていた。その駅ビルの3階から上部分が減築解体され、2階建て駅ビルに生まれ変わったのは平成27(2015)年3月の事である。竣工に合わせ構内には、商業施設である「さんすて倉敷」がオープンし、再び駅ビルに賑わいが戻ってきた。駅は単式ホーム1面1線と島式ホーム2面4線を持つ地上駅で、駅舎は南北連絡通路である橋上に設けられている。山陽本線の途中駅であり、また伯備線の起点駅でもある。隣接したところに、水島臨海鉄道も乗り入れている。利用客は岡山駅に次いで多く、観光で訪れる客が多いのも特徴だ。残念なことに、ここには新幹線の...JR倉敷駅(水島臨海鉄道に乗る)

  • 倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

    岡山県の南部に位置し、県下最大の政令指定都市・岡山市に隣接する倉敷市は、人口48万人余りで、県下第二位を誇る都市である。中国地方では広島市、岡山市に続く、第三位の人口を擁する町でもある。市域は主に四つの地域に分けられ、その中心が倉敷残りは水島、児島、玉島の三地区で、何れも過去に編入合併により繰り入れられた町だ。倉敷の人口が20万人余り、残りはその三地区でほぼ三分されている。水島は、倉敷から車で20分ほど、高梁川河口域近くに位置している。明治以降、干拓で埋め立てられた新しい地に、コンビナートで代表される重工業地帯が広がっている。始まりは第二次世界大戦中のことで、瀬戸内海に臨む総面積約2500㏊の広大な地に、220を越える事業所が集積され、全国でも有数な工業地帯が形成された。児島は嘗て「吉備の穴海」と言う瀬戸...倉敷(水島臨海鉄道に乗る)

  • 宮の渡し公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「この海に草鞋捨てん笠しぐれ」熱田の地を度々訪れた松尾芭蕉は門人達と、七里の渡しからあゆち潟(「愛知」の地名の語源とされている伊勢湾の干潟)を舟で遊び、幾つかの俳句を残している。七里の渡し場跡は、「宮の渡し公園」として整備されている。今日の姿からは、当時の海岸線を想像することは全く難しい。辺りはすっかり埋め立てられ、海は後退し、運河のような水際はコンクリート壁で固められ、その間近まで民家やマンションの建て並ぶ賑やかな町になっている。寛永2(1625)年に建てられた常夜灯は、その後風水害で破損した。その後位置を少しずらし再建されたが、それも火事で焼失何時しか荒廃した。今目にするものは、昭和30年に復元・再建されたものだ。この常夜灯に火が灯ると、翌日まで舟は出る事が無かったと言う。再現された鐘楼が建っている。...宮の渡し公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 七里の渡し賃 (東海道歩き旅・尾張の国)

    東海道では唯一の海路で、宮宿と桑名宿を結ぶのが七里の渡しである。渡し賃は、時代によりかなりの変遷があるが、細かく定められていた。それによると将軍や公家など高貴な身分の人は無賃、幕府などの公用旅行者は賃銭が定めにより決められていた。一般庶民は、幕府公用者の凡三倍であったそうだ。江戸時代の一般的な通貨に、「両」「分」「朱」という金銀貨単位が有り、更にその下に銅貨としての「文」があった。一両が四分、一分が四朱だから一両は十六朱となり、更に一両は四千文とされていたから、言い換えると一分は千文、一朱は二百五十文になる。更に銀貨としての「匁」が有り、金一両は銀六十匁とされていた。当時は銀相場が立っていて、これらは日常的に変化していたという。(「大江戸生活事情」石川英輔1997年講談社)当時の通貨がややこしい四進法であ...七里の渡し賃(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 七里の渡し (東海道歩き旅・尾張の国)

    慶長6(1601)年江戸に幕府が開かれると、家康は江戸と京都の情報伝達の迅速化を目指した。伝馬の定めにより、「道筋」を定め、「宿」を整備し、宿に馬36疋を置き運輸伝達に責任を持つことを命じている。この折発した『伝馬定・伝馬朱印状は写しを含めかなり確認できるが、(中略)桑名宛の伝馬定には「上口者四日市、下ハ宮へ船路之事」と明記されている』(「中世の東海道を行く」榎原雅治2008年・中央公論新社)ので、これにより熱田の宮から四日市までの舟渡しが東海道の正式なルートとして定められた事が解る。その後七里の渡しは宮宿と桑名宿を結ぶ東海道で唯一の海路となった。距離が凡七里有りこう呼ばれているが、実際の航路は、潮の干満により大きく異なり、干潮による外回りのコースを取ると距離は十里にも及んだと言う。標準的な所要時間は4時...七里の渡し(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 宮(熱田)宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「此の宿大に繁花なり家並みも美々しく遊女も海道第一にして少しく江戸の風まねぶ」精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、ここから宮宿に入る。この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場の発展はこの神社に負うところが大きい。その為熱田宿とも呼ばれる宮宿は熱田神宮の門前町で、宿場町でもあり、七里の渡しを控えた湊町でもあった。当時は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、人口は10,000人を越す東海道でも最大規模の町であった。伝馬町の通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家が立ち並びその間に、本陣・脇本陣や問屋場が入り交じり、賑やかに連なっていた。伝馬町の西の外れは三叉路である。ここを右に取れば熱田神宮前を経由し、名古屋城下へは1里半の道程だ。又途中今日の金山辺りから西に...宮(熱田)宿(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 白い町 (東海道歩き旅・尾張の国)

    旧東海道は古い道標の立つ三叉路で、その先を国道に遮られている。地図で確認すると左に曲がれば真っ直ぐに七里の渡し跡に向かう道があるようだが、片側5車線もある国道247号線を斜めに横切ることになる。ここは無難に右に回り国道に出て、神宮南歩道橋を渡り向こうに越える。橋の上からは右手に、二町余り先の熱田神宮の濃い緑の森が望まれる。尾張名古屋の城下町は、「ここから北に五十町なり」と言われている。当時も町並みは、神宮前を経て熱田台地(名古屋台地)の北端に築かれた名古屋城下まで続いていたと言う。名古屋は先の大戦で戦災を受け、市域の1/4が焦土と化し跡形もなく燃えて消滅してしまった。当時人口は60万人足らずであったが、将来の200万人を目標に据え、いち早く先進的な都市計画で復興を図ることになる。その基盤となったのが防災目...白い町(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 古い道標 (東海道歩き旅・尾張の国)

    裁断橋を越えると旧東海道のその先は、行き当たりでT字路だ。目の前の南北に流れる国道247号線に遮られ、旧道が消滅しているのだ。ここは宮宿の伝馬町から左折して神戸町への通りで、その先の七里の渡しの湊を目指す中心的な場所であったが、今その面影は全く何もない。そのT字路に寛政2(1790)年に建てられた、東海道と各方面に向かう追分けを示す道標が残されている。東は今来た東海道で江戸に向かい、南に取れば「京いせ七里の渡し」で、北に向かえば、「なごやきそ道」「みの道」「さやつしま道」である。尾張名古屋城下に向かう美濃街道は、名古屋の先岐阜県の垂井宿まで行けばそこから中山道が分かれている。木曽を抜け江戸に向かうか、京迄は関ヶ原を抜けるルートが出来ていた。佐屋・津島道はここから暫く北上し途中金山辺りから西に進路を変え、佐...古い道標(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 裁断橋(東海道歩き旅・尾張の国)

    熱田伝馬町の姥堂に「裁断橋跡」の案内板が建てられている。小田原の陣に参戦し、陣中で病死した堀尾金助とその母の逸話に所縁の地である。説明によると「十八歳のわが子を亡くした母親は、菩提を弔うため、この地の橋の架け替えを行った。そして三十三回忌にあたり、再び橋の架け替えを発願した。しかしその願いも叶わぬまま、母親は亡くなってしまったが、その養子が意志を引き継ぎ、新たな橋を完成させた。」その橋の擬宝珠には、子を思う母の心情が刻まれていたと言う。「ほりをきん助と申す十八になりたる子をたたせてより、またふためとも見ざるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける成り、ははの身にはらくるいともなり、そくしんじやうぶつし給へ。」「後のよの又のちまで、此のかきつけを見る人は、念仏申給へや。」と続き、この仮名書き銘文は多くの人々...裁断橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 朝生(東海道歩き旅・伊勢の国)

    元禄文化の頃、公家や武家等が茶の湯の折、抹茶などと共に味わう和菓子を「上菓子(じょうがし)」と呼んだが、それには白砂糖や純度の高い氷砂糖が贅沢に使われていた。献上品としても使われ、上等な菓子との意を込めて、こう呼ばれていた。砂糖は南蛮文化と一緒に伝えられたものだが、当初は主に中国から輸入されていたようで、白砂糖の中でも最上級純白品を「三盆白」と言い「唐三盆」と呼ばれていた。当時はまだまだ高級品で、上菓子以外での使用は禁じられていた。吉宗の時代になって享保の改革では、国内でも砂糖の生産を奨励した。当時サトウキビは南西諸島で栽培され、黒砂糖の生産が一般的であった。その栽培を全国に広め、技術的な革新も有り、やがては国産初の白砂糖の商品化に成功した。「唐三盆」に対して、この国産品は「和三盆」と呼ばれることになる。...朝生(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • Canal Resort (東海道歩き旅・尾張の国)

    「都会に出現した心も体も悦ぶ究極の楽園」今日の予定は宮宿まで歩き、その後は市バスで名古屋駅前まで移動する。そこから無料シャトルバスに乗り、中川区玉川町にある「CanalResort(キャナル・リゾート)」に向かう。温泉に入り、着替えをして、食事を済ませ、それからお城近辺を少しぶらついてから宿に入る予定である。ナトリウム塩化物泉、泉温48.8℃の天然温泉が楽しめる施設で、効能は筋肉痛にはもってこいだという。館内には食事ゾーンも有り、和食を始め軽食やアジアンメニューの店等が揃っている。何よりも入泉料が700円(平日、休日は800円)と安いのが良い。ここまで歩いて来たご褒美で、頭の中はもうこの事で一杯だ。笠寺観音の境内には、宮本武蔵の供養碑や、芭蕉の句碑なども有る。東海道沿いには、玉照姫の像が安置されたゆかりの...CanalResort(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 笠寺観音縁起 (東海道歩き旅・尾張の国)

    天林山・笠覆寺(笠寺)の縁起は、このように書かれている。「ある日、呼続の浜に一本の木が打ち上がった。その木は夜になると不思議な光を放つことから、村人は霊木として恐れたと言う。そんな折僧・善光上人は夢のお告げを受け、霊木を削り、十一面観世音菩薩とし、堂を造り本尊として安置した。それが小松寺である。」建立から百数十年の時が過ぎ、寺は何時しか荒廃する。そんな折鳴海に一人の娘が住んでいた。その謂れが続けて書かれている。「ある雨の日ずぶ濡れになった観音様を見て可哀想に思った娘は、自分が被っていた笠をとり、観音様にかぶせた。後日鳴海を訪れ、このことを知った中将・藤原兼平公がその優しい心に引かれ、妻として迎えることになった。この妻は「玉照姫」と呼ばれるようになった。」この縁により夫婦は荒れていた「小松寺」にお堂を建て、...笠寺観音縁起(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 笠寺観音 (東海道歩き旅・尾張の国)

    街道はやがて笠寺の門前町に入って行く。ここまで来れば、宮の宿まではあと一里余りを残す事となる。この辺りを古くは笠寺村と言い、上り下り立場(旅人が休憩する場所)が有ったところだ。「笠寺の一里塚」から400m程行くと街道の先に緑濃い森の中に建つ、山門(仁王門)が見えてくる。街道を折れ池に架かる石の太鼓橋を渡る。余り広くは無い池には亀が沢山飼われていて(?・棲んでいて)、社務所では餌が販売されている。池の水を汚さないための措置だと言う。仁王門を潜ると正面が本堂である。江戸時代に建てられたもので、市の文化財の指定を受けている。笠寺は、正式には「天林山笠覆(りゅうふく)寺」という真言宗智山派のお寺で、天平8(736)年の開基という古刹は、小松寺と称していた。寺は一時荒廃するが、紆余曲折が有り鎌倉時代には諸堂や塔が建...笠寺観音(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 笠寺一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

    恐らく正面には、伊勢湾の大海原が広がっていたのであろう。東海道は鳴海の中心部を出ると、作町で直ぐに北に向けて進路を変える。嘗ての伊勢湾は深くこの辺りまで入り込んでいて、東海道の行く手を塞いでいた。ここから先宮宿までは、1里半6町(約6.5㎞)の湾岸に沿った道が北に向け伸びていた。後に陸路をとる東海道も、中世の頃は是よりもより海に近い干潟を通っていたらしく、潮位によっては更に短縮したシーョトカット道であった。今日では、そんな街道のどこからも伊勢湾の海を見ることは出来ない。すっかり住宅等で埋まり、海までは直線距離でも数キロも離れている。北に向けて進んできた東海道は、松ヶ根台に突き当たる三王山辺りで、西寄りに進路を変え天白川に架かる天白橋を越える。嘗ては田畠橋と呼ばれる廿七間の板橋が掛けられていたという。橋の上...笠寺一里塚(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 文人墨客が愛した鳴海潟 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「此所、古は海近く鳴海潟を見渡して往来して、塩の満ちる時は右の方上野という野を行き通いけるとぞ。浜辺を宵月の浜、又は呼続の浜とも言う。夜寒里、星崎、松風の里、皆並びて浦伝いなる、」(東海木曽両道道中懐宝図鑑)中世の頃の鳴海一帯は、これより更に北まで深く伊勢湾が入り込み、海に面した湊町として開け、鳴海も宮も潮待ちの宿と呼ばれていた。又古くから数々の歌にも歌われた、風光明媚な鳴海潟が知られていた。昔から伊勢湾は、潮の干満の差が大きい事が知られていて、干潮時にはそこに広大な干潟が形成される。中世の東海道は、潮の干満を見定めて人も馬も干潟を渡っていたようだ。干潟を歩くには、干満の時刻を知る必要があり、旅人は鳴海や宮の宿で情報を得て潮待ちなどをしていたようだ。その頃はまだまだ庶民の多くが行き来をする時代でも無く、旅...文人墨客が愛した鳴海潟(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 鳴海宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

    有松と共に、「絞り」で知られた鳴海宿の東の入口が平部町である。その角に、立派な常夜灯が残されている。文化3(1806)年に設置され、旅人や宿内の安全、火災厄除けなどを秋葉神社に祈願したものだ。鳴海町は昭和38(1963)年、名古屋市との合併で緑区鳴海町となり、町役場は緑区役所となった。そこには問屋場が有ったと言うが、今は無骨な役所があるだけで痕跡は何も無い。宿場は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠68軒、戸数は847軒という。人口も3,600人余りと伝えられているので小さな宿場ではなかったようだ。町並の長さも、凡そ半里に及ぶほどの宿場であった。当時は何所の宿場もそうであったように、人口比で見るとこの宿場も女性の方が多かった。名鉄鳴海駅に至る道路の角の本町に、松尾芭蕉ゆかりの誓願寺が有り、この辺りに本陣を務めた家...鳴海宿(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 鎌研一里塚 (東海道歩き旅・尾張の国)

    池鯉鮒と東海道40番目の宿場・鳴海の宿間は二里半十二町(11.1㎞)だが、間の宿の有松まで来れば残りは一里弱(およそ3㎞)と近くなる。元々が山間の僻地で、藩の振興策により開かれた町並の賑わいは、絞りを商う十余軒が中心で、土産を買い求める客も多かったと言う。箱根東坂の中頃にある畑宿も間の宿とされた町で、ここには名産の寄せ木細工がある。行き交う旅人に土産を売る状況は、有松の絞り染めと同様である。しかし畑宿にはもう一つの顔があり、江戸を控えて不審者が入り込まないように、監視の役割が課されていたらしい。徳川御三家の尾張名古屋の城下町も近い有松の役割はどうだったのか。尾張藩との繋がりの強い土地柄だけに、もしやと思ってみたりもする。興味深いところだが、そこの所は良く分からない。町を抜け暫くすると名古屋高速第二環状道路...鎌研一里塚(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 絞り商の屋敷 (東海道歩き旅・尾張の国)

    有松は天明の大火で、悉く茅葺きの町屋を焼失する災難に見舞われた。その後藩の援助を受けた復興に際して、建物は火災に強い防火を考慮した建物に建て替えられた。屋根は桟瓦葺きとし、壁は漆喰等を塗り込んだ塗籠造りに改め、隣屋と接する屋根には延焼防止の卯建を設けて町の再建を果たす事になる。その代表的な建築物が、県指定文化財の服部邸(井桁屋)で、母屋の二階は黒漆喰の塗り籠め造りで虫籠窓をはめ、屋根には瓦葺きの立派な卯建を上げている。隣接する蔵は土蔵造りで、白漆喰の塗り籠め、腰回りは海鼠壁である。江戸時代末期から明治元年までに建てられたものらしく、当時の姿を留める有松を代表する建物群だという。岡家住宅は、名古屋市指定の有形文化財である。一階は連子格子と海鼠壁、二階は虫籠窓の塗り籠め造りの建物で、江戸時代末期に建てられたも...絞り商の屋敷(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 有松絞り (東海道歩き旅・尾張の国)

    間の宿・有町は、400年近い伝統の「有松絞り」で知られる町だ。絞りとは木綿を糸で括って、多くは藍で染め、その括り方により様々な模様を描く技法である。全国一の「絞り染め」の産地とされ、昭和50(1975)年には、国の伝統的工芸品に指定されている。また令和元年には、「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地~藍染が風に揺れる町有松~」として、文化庁より「日本遺産」に認定されている。東海道の通り道とは言え、元々この辺りは人家も乏しく耕地の少ない地で、尾張藩は治安の維持も有り、諸役を免除する条件でこの地への移住を奨励し、産業の開発を進めたと言う。しかし移り住んだものの、開発の乏しい地では、農業だけでは生きては行けず、副業として工夫されたのが、この絞り染めであった。ヒントは、名古屋城築城の折、手伝い普請の豊後の人たちの着衣...有松絞り(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 間の宿・有松 (東海道歩き旅・尾張の国)

    間の宿とは、宿場間の距離が長い場合や、峠越え、川越えなど難所に臨む地などに便宜上設けられた休憩の場である。従って宿とは言え、この地で宿泊は許されてはいなかった。知立から鳴海の間が2里半12丁(およそ11㎞)もあり、有松に間の宿が開かれた。桶狭間の合戦の折、信長が軍勢を整えたとされる大将ケ根(たいしょうがね)の交差点で国道を離れ、旧道に入り込む。藍染川に架かる松の根橋を渡ると、落ち着いた平入りの町並が現われる。名鉄有松駅の南を抜ける旧東海道筋は、駅を中心に東西800m程の間の電柱が地中化され、車も一方通行に規制された通りと成っている。「鳴海より一里ばかり東にあり。細き木綿を風流に絞りて、紅藍に染めて商うなり。この市店十余軒あり。」言われた有松村は、次の鳴海村と共に、「絞り」が知られた土地柄だ。安藤広重の東海...間の宿・有松(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 古戦場の亡霊 (東海道歩き旅・尾張の国)

    田楽狭間で勝利の宴を開いた今川義元は、豪雨の中信長の急襲を受け、敢えなく敗退し首を掻かれてしまう。義元の首級は信長に届けられ、首実検されるも、後に駿河に返された。一方首のない胴体は、今川の家来により駿河に連れて帰える事にる。しかし時期的にも想像以上に腐敗が早く、仕方なく途中、今の豊川市辺りで葬られたという。その後、この古戦場の周辺には、夜な夜な白い衣を着た兵士の亡霊が、辺りを走り回るとの噂が立つ様になる。そこで嘉永6(1853)年に尾張藩士が塚を築き、地蔵尊を建立し手厚い法要を催すと、霊は収まり現れなくなったと言う。「桶狭間古戦場伝説地」には、「義元の墓」と言われる石塔が有る。明治に入って直ぐの頃、地元の篤志家が墓として建てたものらしい。しかし、ここに義元の遺体は埋葬されてはいない。「義元の墓」には遺体の...古戦場の亡霊(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 桶狭間の合戦 (東海道歩き旅・尾張の国)

    時は戦乱の時代で有る。全国の大名達は国の統一を目指し、しのぎを削っていた。勢力を得て常に近隣地へ侵攻し、領土を拡大し、やがては天下国家の支配をと虎視眈々と狙い野望をメラメラと燃やしていた。永禄3(1560)年、満を持して上洛を目指す駿河の今川義元は、遠江・三河の兵、二万五千の大軍を率いて尾張に攻め込んできた。5月19日朝、五千の兵で沓掛城を出た義元は、大高城に向けて進軍した。早朝この知らせを聞いた尾張の織田信長は、僅か六騎で清須城を出る。途中、熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願を行う頃には、ようやく追いついた家臣で1000人ほどになっていた。尾張方の先方隊300騎は、早くも善照寺砦から出陣し、当日昼頃今川軍と刃を交えるものの、多勢に無勢で勝負は明らか、今川軍の一方的な勝利に終わる。田楽狭間(ここから南西1キロほど...桶狭間の合戦(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 桶狭間史跡公園 (東海道歩き旅・尾張の国)

    旧東海道は、名鉄「中京競馬場前駅」の手前で国道に合流する。ガードを抜けて暫く行くと、「桶狭間古戦場100m」や、「桶狭間古戦場まつり」の開催を告げる案内板が見えてくる。この駅が有名な古戦場巡りの最寄り駅にもなっているようだ。折角の機会である。街道を外れるとは言え、これぐらいなら足が痛くても寄れそうなので、案内板に従いそこを左折し、坂道を100m程上って行く。すると左手に緑も濃い森が現われ、入口に「史跡桶狭間古戦場跡」の石碑が建つ史跡公園があった。歴史の重要な転換点となった「桶狭間の合戦」が行われたとされる場所で、「国指定史跡桶狭間古戦場伝説地」である。今川義元はここで織田信長に襲われ、戦死したと伝えら、その弔いが古くからここでは行われてきた。田楽狭間、或は舘狭間とも呼ばれた地である。しかし古戦場がどこであ...桶狭間史跡公園(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 中京競馬場前駅(東海道歩き旅・尾張の国)

    境橋を渡り国道1号線を歩き、名鉄名古屋本線の「中京競馬場前駅」にやってきた。名古屋市の東に隣接する豊明市に国営の競馬場(今日の中京競馬場)が開設されたのは、昭和28(1953)年8月のことだ。第一回の国営競馬も、この年に開催されている。その開業に先立つ一ヶ月前、名古屋市の南の端に、その最寄り駅として名鉄・名古屋本線の新駅が開業している。駅を出ると競馬場入口までは屋根付きの遊歩道が設けられているようで、徒歩10分ほどかかるそうだ。この地は桶狭間と言われる所で、かつてこの駅の近くには、愛知電気鉄道の「桶狭間駅」が存在した。名鉄の社史によるとこの駅の開業は、昭和6(1931)年で、どういう訳かその僅か三年後には廃止されている。愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併し、今日の名古屋鉄道と言う社名に変更する一年前の事だ。桶狭...中京競馬場前駅(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 境川の継ぎ橋 (東海道歩き旅・尾張の国)

    「うち渡す尾張の国の境橋これやにかわの継ぎ目なるらん」境川に架かる境橋を渡ると、丁度ここが三河と尾張の国境に当たる。渡り終えると橋詰めに小さな緑地ある。そこに中に、藤原朝臣光広のこの歌碑と説明板が立っていた。それによると「東海道に伝馬制が設けられて程無い頃、両国の立ち会いの下この川に橋が架けられた」とある。「川の中州を挟んで東側には土橋が、西側には板橋が架けられた。橋は度々洪水で流され修復を重ねたが、やがて継ぎ橋は一本の橋となり、明治に入ると欄干付きの橋に改修された」と言う。幕府は江戸の治安維持の目的で、河川に橋を架けることを厳しく制限していた。その為、貴人や高官が往来するような場合、臨時に舟橋が渡されることもあったようだ。とは言え架橋の禁止は、戦略的に重要な大河に限っての事らしい。旧街道を実際に歩いてい...境川の継ぎ橋(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 旅の持ち物 (東海道歩き旅・尾張の国)

    ところで、昔の旅人は何を持って歩いていたのか。テレビや映画の世界では、小さな振り分け荷物や、風呂敷で包んだ柳行李を肩にした画をよく見かける。安藤広重の東海道五十三次の絵でも、描かれている旅人の荷物は驚く程少なくて小さい。修験者などが比較的大きな笈(山伏の12種類の正式道具の一つ)を背負っている程度だ。今ほど物が豊富ではない時代で、当然と言えば当然だが、余りにも少ないようにも思う。ある本によると「財布、小銭入れ、道中差し、矢立、扇子、針糸、懐中鏡、鬢付け油、提灯、蝋燭、火打ち石、印判、鼻紙、薬入れ印籠、着替えなどが旅の必需品」と書かれている。修験者の笈が大きいのは、仏像・仏具や経典をも入れて持ち歩くらしいからこれは特別である。庶民の旅は、小銭入れや矢立、薬入れなどは腰に付ける場合が多く、道中差し(実際の刀ではなく...旅の持ち物(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 旅の宿 (東海道歩き旅・尾張の国)

    宿場町と言うだけに、そこには必ず多くの旅篭や木賃宿があった。少ない宿場で二三十軒位、大きいと言われた宮宿には、何と二四八軒もの旅篭があった。全てが何時も満室ではなかろうが、当時は思う以上に、庶民も旅を楽しんでいたのであろう。宿は今日のように一軒で大人数を収容できないので、軒数が多いのも当たり前かも知れないが、それでもこれだけの需要があった事には改めて驚かされる。当時の旅は早立ちが基本で、日の出と共に歩き出し、陽が落ちる前には目的の宿場に到着し、宿を捜すのが大原則であったようだ。宿場に着くと旅人は、名産名物に思いを馳せ、飯盛り女、茶汲み女に仄かな期待を抱き、客引きの留め女に袖を引かれ、やり取りを楽しみながら宿を選んでいた。今日旧街道を歩いてみると、これほど多く存在していた旅篭が、意外なほど残されていないことに驚か...旅の宿(東海道歩き旅・尾張の国)

  • 国境伝説(JR乗り潰し・本四備讃線)

    本四備讃線の瀬戸大橋は、最初のつり橋「下津井瀬戸大橋」を渡るとすぐに岡山県境を超え、香川県に入る。意外に思えるが、ここに架かる各大橋のほとんどが香川県に属している。そんな国境には、こんな面白い言い伝えが残されている。昔から、何時の時代でもその国の境は、争いの種に成っていた。川でも有れば判りやすいし、堅い地面の上なら棒切れで線を引き、柵を回らし、或は土塁を築き「ここから内は我が領土なり」と、宣言すれば言った者勝ちで、時に戦を仕掛け力ずくでそれを押し出したりもする。備前と讃岐の国は、瀬戸内海を挟んで向かい合っていて、昔からその境は曖昧模糊として生臭く、きな臭い話が付きまとっていた。土の上なら兎も角、これが海の上ともなると中々線引きは難しく、その境は明確に判別できず、何れのものなのかも判らず一向に埒が明かない。「そろ...国境伝説(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 由加さん(JR乗り潰し・本四備讃線)

    この金比羅往来の脇道の途中には、備前第一の霊場「由加さん」が鎮座している。人々は先ずここに立寄りお参りをし、災難から身を守り、道中の交通安全をお願いする。その後田の口湊から瀬戸内海を渡り「金比羅さん」に向かうのである。ここ備前地域では、特に「由加さん」と讃岐の「金刀比さん」との「両参り」が、300年以上も前から知られている。両者とも海の神様でもあり、漁業関係者の信仰も篤いという。両社に参ればより多くのご利益が頂けると、この「両参り」の風習も瞬く間に広まった。ここは標高274mの由加山(正式には瑜伽山)の丘陵地で、「由加山蓮台寺」と「由加神社本宮」が境内を接して建っていて、この寺と神社は「由加さん」と総称されている。是まで2000年以上の歴史を秘めた神仏混淆の霊地として、深い信仰を集めてきて、こうした背景により、...由加さん(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 金比羅往来(JR乗り潰し・本四備讃線)

    「お伊勢参り」の後、「金比羅さん」に詣でる「両参り」のルートとしての金毘羅往来は江戸中期の頃整備された。大阪を経由して瀬戸内海を渡り、四国の丸亀に上陸する海上のルートと、西国街道を西進し岡山に到り、そこから四国を目指す陸上ルートの二通りが知られていた。岡山の城下からは、栄町(現在の表町)を起点に、吉備津回りと大元回りの二ルートが有り、是は早島で合流し、その先で茶屋町に到る。この茶屋町は、休憩場所のお茶屋が有った事が地名の由来となっている。更に藤戸を経て峠を越えると、道は再び分かれるがそのまま南下して下津井湊に到るのが本来の金毘羅往来である。藤戸の先で分かれるもう一つの道は、やや南東に進路を変え、途中由加山に立ち寄り田の口湊に到るルートだ。この道は「由加さん」と「金比羅さん」の「両参り」のルートとして知られていた...金比羅往来(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 両参りの流行 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    江戸時代、一生に一度の念願が叶い「お伊勢さん」にお参りする。折角だからその後、ついでに奈良や京都に立ち寄り古い都を見物する。更に足を延ばし本願の四国の「金比羅さん」にお参りする。これは、当時の人々にとっては、夢であり大きな願でもあった。この風習を「両参り」と言って、大層の流行を見た時期があった。ただ「お伊勢さん」の後に立寄るのは、何も「金比羅さん」だけとは限らなかったようだ。例えば帰路を東海道にとるなら近江の「多賀大社」や、尾張の「熱田神宮」にお参りする。西国街道なら「由加さん」や更に足を延ばし「出雲大社」など、中山道に向うなら信濃の「善光寺」に立寄る等だ。あの十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で描かれる、弥次さん北さんも旅の主たる目的は「お伊勢参り」である。東海道で珍道中を繰返し、途中の社寺には見向きもしなかった...両参りの流行(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • お伊勢参り (JR乗り潰し・本四備讃線)

    江戸時代の庶民にとっては、誰もが一生に一度はお参りしたいのが、「お伊勢さん」である。当時は、毎日40㎞程を、自分の足で歩き続ける旅である。行程は1ケ月程度で、長くなると3ケ月も掛けてと言うのが当たり前にあったらしい。この間の旅費は馬鹿にはならず、おいそれとは賄えない庶民にとっては夢のような話しでもあった。そんな夢のような話しを現実にしたのが、「伊勢講」という組織だ。隣組等でチーム(講)を組んで、貧しい中からお金を出し合い積立て、毎年代表者をクジ等で決め、お参りして貰い、残りの人は代参をお願いするという仕組みだ。この「伊勢講」、既に室町時代には結成された記録があるらしい。そんな伊勢参りは、参拝を世話する神職「伊勢御師」に委ねられる。まず二見浦での禊ぎから始まり、その後伊勢に赴き外宮へ、続いて内宮を参拝し、両宮の参...お伊勢参り(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • おかやま旬の魚総選挙(JR乗り潰し・本四備讃線)

    岡山県は瀬戸内海に面している。地図を見ると玉野市沖合に浮かぶ直島諸島や小豆島を初めとした島々は、殆どが対岸の香川県に属し、瀬戸内海上に引かれた県境は、より岡山側沿岸近くにある。そのせいなのか、岡山県の漁業は振るわず、「海面漁業」・「海面養殖業」での産出額は、海のない県を除けば全国でも最下位クラスの35位である。「海面漁業」の漁獲量で見ても更に低く39位だ。県内生産の内訳は、牡蠣や海苔等の養殖、「海面養殖業」が圧倒的で全体の84%を占めている。海で魚や貝をとる「海面漁業」は僅かに15%程度で、残りは鮒や鮎、鰻をとる「内面漁業」と、鱒類や鰻などの「内面養殖業」だ。しかし「内面漁業」を見れば、割合は少ないが生産状況(漁獲量)は、鮒は全国1位、鰻が2位を誇り、県下に吉井川・旭川・高梁川の三大河川を有するだけに天然物が多...おかやま旬の魚総選挙(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 名物に美味いもの有り (JR乗り潰し・本四備讃線)

    下津井沖で獲れる「下津井タコ」は、当地の知られた名物である。代表的なお土産が「干しタコ」であるがその他にも、町中にはタコ料理自慢の宿泊施設や、リーズナブルに味わえる食事処、老舗のやや高級感のある専門店等が揃っていて、懐具合に応じて選べるのが嬉しい。タコは低カロリーでタウリンが豊富、コレステロールを下げる効果もあるらしい。刺身、蒸しダコ、甘辛煮、てんぷら、タコ飯、タコしゃぶ、干しタコなどなど、豊富なメニューが楽しめる。更にB級グルメで言えば、「たこ塩焼きそば」は、当地の名物だ。また、下津井名物で忘れてはならないものに、「磯乃羊羹」がある。下津井地区では、ただ一つの和菓子屋「磯乃羊羹本舗田中花正堂」が作る羊羹だ。店の創業は明治43(1910)年と言う老舗で、構える店舗は築200年以上らしい。風味豊かな国産の青のりと...名物に美味いもの有り(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 下津井のタコ (JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸大橋の足元には、田の浦港、吹上港、下津井港などの多くの魚港が点在する。それらは小さな漁港で、防波堤に守られて、小型の漁船が犇めくように係留されている。この雑然とした景観も、瀬戸大橋を借景として眺めれば、それはそれで美しく、観光を構成する資源の一つにもなっている。漁港からは、瀬戸内海の漁場は近く、季節毎に新鮮な様々な魚介類が水揚げされる。漁場が目の前にあれば、大きな漁船は必要なく、小型の方が、小回りが利いて良いそうだ。ただ県の漁業は、魚種それぞれの漁獲量は極めて少なく、その分種類が豊富な事が知られている。所謂「少量多種」で、これが最大の特徴だ。この小さの港と、小さな漁船の群れは、県の漁業の実態を象徴的に物語っているようだ。ここ下津井沖では「下津井タコ」が特に知られている。タコは年中水揚げされるが、漁の最盛期は...下津井のタコ(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 町並保存地区 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    下津井は児島半島南端の古くからの港町である。昔から、北前船を初めとする諸国の商船や、参勤交代の西国大名の船、金毘羅往来の船などが発着する「風待ち、塩待ちの湊」として栄えた。蝦夷地で捕獲されたニシンは、ニシン油をとるため絞られ、不要になったその絞り粕が当地に肥料として持ち込まれていたのだ。古くからの湊ではあるが、穏やかな良港として本格的に栄えるのは、江戸時代も中期以降の事らしい。この頃になると町にはニシン蔵を擁した商家や廻船問屋が建ち、人々も集まり、遊郭が軒を並べる繁栄を見るようになる。今でもその町並保存地区には、重厚な本瓦葺平入りで、海鼠壁や漆漆喰塗りの建物が比較的多く残り、町屋や商家、遊郭等が軒を並べた古の面影を色濃く見せていて、県の町並み保存地区に指定されている。そんな町並みで目に付くのは、いくつかの共同井...町並保存地区(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • まだかな橋と遊郭 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    下津井港の近くに、「まだかな橋」跡の石碑が建っている。嘗てここには、湊に渡る橋が架けられていた。瀬戸大橋の工事に伴って湾岸道路の建設の為、海は埋め立てられ陸続きとなり、橋は無くなり道路に変貌した。目の前の道路は、この橋跡の前でほぼ直角に左折、海に突き出た祇園神社の小山を回り込むように迂回している。「昔はこの道路のところは海で、家を出ると目の前が浜だった。本当はこの道、真っ直ぐトンネルで西に抜く計画だったが、祇園社の下は掘れなかった」「むかし下津井回船問屋には、昔の橋の写真が残されている。子供の頃には遊郭が五軒程有った。昭和の中頃まで一軒だけ残っていた」写真を撮っていると、この橋の前に住むお年寄りが、話しかけてきた。下津井には昔から「下津井節」という良く知られた民謡があり、北前船が持ち込んだと言われている。「下津...まだかな橋と遊郭(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 橋のライトアップ (JR乗り潰し・本四備讃線)

    国内には自然公園法に基づいて、国が指定している国立公園が32カ所あると言う。その内の一つ、瀬戸内海国立公園は、昭和9年に誕生した。九州の雲仙、霧島と共に、日本で最初の国立公園となった。その範囲は瀬戸内海に面した、1府10県にまたがり、広さは90万haを超える国内では最も広い国立公園である。東の紀淡海峡から西の関門海峡までの広い海域と、そこに点在する島々、それらを遠望できる陸地の景勝地などから構成されている。鷲羽山もそんな景勝地の一つである。海上から遠望すると鷲が翼を広げたように見えることからこう呼ばれるようになった。山頂付近にはレストハウスや展望台、ビジターハウス等が有る。ここからは眼下に、瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島の島々、その間を縫うように進む大小の船舶が手に取るように見える。幾つも連なる吊り橋の橋脚や、斜張橋...橋のライトアップ(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 瀬戸大橋と言う橋は無い(JR乗り潰し・本四備讃線)

    本四備讃線は児島を出るとやがて右から瀬戸中央自動車道が寄り添い、その先で上下に重なるようにしてそのまま鷲羽山トンネルに突入する。このトンネルは、上段が高速道路用、下段が鉄道用でそれぞれが上り下り2本有るので、口を正面から見ると、丁度メガネを上下に並べたように四つ目状に見える珍しい形をしている。トンネル内の轟音が途切れ車窓に陽光が戻ればそこはもう瀬戸大橋だ。と言ってもここに瀬戸大橋と言う名の橋は無い。瀬戸内海に浮かぶ、大小5つの島を総延長9.4Kmの6つの橋で結んでいて、その総称を瀬戸大橋と呼び、各橋にはそれぞれ名前が付けられている。最初に渡るのが吊り橋の「下津井瀬戸大橋」で、暫く進んで県境を超え香川県に入る。次が「櫃石島高架橋」で、美しい姿が特徴的な斜張橋の「櫃石島橋」と「岩黒島橋」が「岩黒島高架橋」を挟んで続...瀬戸大橋と言う橋は無い(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 瀬戸大橋架橋記念館 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    昭和60(1988)3月20日、瀬戸大橋完成を記念して、児島駅前を中心に「瀬戸大橋架橋記念博覧会・岡山博‘88」が華々しく行われた。本四備讃線の茶屋町と児島間の先行開業は、これ目当ての客を輸送するものであった。対岸の香川県・番の州会場と、同時開催である。しかし海辺で大橋の袂にあって、会場内の瀬戸大橋タワーから瀬戸大橋の景観を望める香川会場に比べると、内陸の岡山会場からは橋の雄姿は見えず、この差なのか、入場者数は目標数には届かず、最終的には赤字を出して終わった。当時、両会場に足を運んだが、岡山会場の見劣り感は否めなかった。そんな博覧会の中心的な施設が、「瀬戸大橋架橋記念館」で、駅から900mほど離れた場所に建てられた。館内では巨大な天井画や、世界各国の橋の写真や模型が展示され、コンピューターを使った子供向けのクイ...瀬戸大橋架橋記念館(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • ジーンズ一色の町 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    「味野商店街」の空き店舗に、地場のジーンズメーカー等の販売店を誘致し集積させ、観光客を呼び込もうとする「児島ジーンズストリート構想」は、着実に成果を出し始めている。商店街の400mほどの通りとその周辺には、ジーンズメーカーの直売場や工房・ギャラリーなど新しい店舗などが軒を連ねる様になった。そんな中、ジーンズ目的で集まる客を目当てにしたおしゃれなカフェや食事処等も増え始めた。こうしてシャッター通りは、今までとは一味違った店舗が混在する、賑やかな通りへと生まれ変わり始め、今ではその数も30軒を超えると言う。このエリアに近づくと、ビルの壁面に飾られた巨大なジーンズの看板にまず驚かされる。通りには商店街名物のアーチ・アーケイドに代りに、ジーンズが吊るされていて、まるで洗濯をしたジーンズを干しているように見える。自販機も...ジーンズ一色の町(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 児島のジーンズ (JR乗り潰し・本四備讃線)

    レトロな昭和の香りのする「味野商店街」を、何とか以前の活気ある町にしょうとの取り組みが始まった。地場のジーンズメーカー等の販売店を、通りの空き店舗に誘致し、集積させようとの試みである。国産ジーンズ発祥の地の認知とPRに務め、合わせて商店街の活性化を図ろうとする「児島ジーンズストリート構想」で、2009年頃の事だ。構想から十数年を経た今、ゆっくりながらまだ進化を続けている。通りには、未だに空き店舗やシャッターを閉めたままのところもあるが、一時はさびれてしまった商店街の通りも、近頃では観光客も多く、ジーンズで見事に蘇り、構想は着実に成果が見え始めている。児島のジーンズは、繊維の町・児島の伝統的な産業の流れとは違い、戦後新しく持ち込まれたものだ。それはアメリカの中古ジーンズをモデルに、国産化を図ったもので、今から50...児島のジーンズ(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 繊維の町・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸内海に面した児島は、明治時代から繊維の町として栄え、岡山県下ではアパレル製品の産地として知られたところである。今でも関連する企業が多く立地している。元々ここは海に浮かぶ小島で、江戸時代から行われた干拓により地続きに成り、新田が造成され広げられた地であった。しかし塩分の多い土はコメ造りには適さないことから、変って塩気に強い綿花の栽培がおこなわれる様になったという。当時からこの近辺には人口が多く、労働力が豊富にあったため、綿花を栽培し、糸を紡ぎ、機を織った。それが今日の主要な産業に成長した歴史を秘めている。大正時代に入り県外から大手の企業が進出するようになると、いち早く生活様式変化に目を付け、足袋や学生服・作業服への製造に舵を切った。学校や企業のユニフォーム、作業着、スポーツウエア、介護ウエア、子供服など、多岐...繊維の町・児島(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • ジーンズステーション・児島 (JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸大橋線を行く「快速マリンライナー」は、茶屋町を出ると高架になった複線を高速で走行し、次の児島に停まる。ここは本州と四国を結ぶ同線の本州側の起点駅で、寝台特急の「サンライズ瀬戸」、四国連絡特急の「しおかぜ」「南風」「うずしお」を始め、「快速」等全ての列車が停車する。島式ホーム2面に4線を有する高架駅で、JR西日本が管轄する有人駅でもある。又、JR西日本とJR四国の会社境界駅で、ここで旅客列車の乗務員は交代する。この先の瀬戸大橋を渡るのは、特急と快速のみで、普通列車の設定は無く、岡山方面からの普通列車は全てこの駅で折り返す。駅の開業は新しく瀬戸大橋の共用開始を見越した昭和60(1988)3月20日のことだ。宇野線の茶屋町から分岐する本四備讃線が、当駅までの間で先行開業した折りである。そして同年の4月10日、待ち...ジーンズステーション・児島(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • トンネル区間(JR乗り潰し・本四備讃線)

    瀬戸大橋線の歴史は新しい。嘗ての本州と四国を連絡する基幹ルートは、岡山と宇野を結ぶ宇野線と、そこから瀬戸内海を横断して高松に連絡船で渡る宇高航路であった。瀬戸大橋線はそれに変る大動脈として期待を持って開通が待たれていた。長年の地元の悲願である瀬戸大橋の開通を見据え、昭和63(1988)年3月に、同線の茶屋町から分岐して児島までの間、12.9㎞の本四備讃線が先行開業する。そして着工から9年半余を経て、大橋の共用が開始されると同年の4月、宇多津迄の全線31.0㎞が営業を開始する。宇野線は岡山を出ると左カーブしながら築堤を登り、市街地を高架で通り抜け、次の大元を過ぎる辺りで地上に降り、暫くは住宅と農地の混在する長閑な岡山市南部を駆け抜ける。再び高架に上がるのは、茶屋町の手前からである。茶屋町を出ると最初の駅が植松で、...トンネル区間(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 修験道本庁・五流尊龍院(JR乗り潰し・本四備讃線)

    奈良時代この地には「十二社権現・熊野神社」と修験道の寺院が一体となった神仏習合の「新熊野権現」があり広く信仰されていた。修験道・役小角の五人の弟子は、それぞれ尊龍院、大法院。建徳院。報恩院、伝法院という五流の寺院を創建し尊龍院を中心に繁栄していたが、平安時代以降は急速に衰退した。その後も相次いだ戦乱の戦禍が追い打ちをかけ、多くの寺院の伽藍は焼失した。そして明治の神仏分離令で十二社権現は「熊野神社」となり、修験道が禁止され、分離された「五流尊龍院」は天台宗の寺院となった。更に先の大戦後には、天台宗から独立し「日本修験道本庁」となり、修験道が再興され今日に到っている。周辺は、樹木が鬱蒼と茂った森で、白壁の参道に沿って入口を入ると、左が茅葺屋根の御庵室(庫裏)である。その前には良く手入れされた庭園が広がり、特に紅葉の...修験道本庁・五流尊龍院(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 熊野神社 十二社権現(JR乗り潰し・本四備讃線)

    植松駅から南に2㎞ほどのところに、「日本第一熊野神社十二社権現」が鎮座している。「熊野神社」は、修験道の始祖・役小角(エンノオズヌ)とその弟子たちがこの地(倉敷市林)に開いた神社である。紀州熊野の十二社権現のご祭神の勧請を受け、熊野三山の熊野本宮大社から日本一の認証を受けている。役小角は役行者とも呼ばれた伝説的な人物で、奈良大和の葛城山を中心に修験道を開くものの、世間を惑わすとして弾圧され、罪に問われ伊豆に流罪となっている。その折同罪を恐れた弟子達は、淡路など瀬戸内海に逃れ、当地の児島に辿り着いたものの飲み水にも困る有様であった。一同はこの窮状を天に祈願したところ、海水は真水に変ったという。これが上陸した地、水島の地名の由来と言われている。(諸説あり)その後白髪の翁に誘われ、倉敷市林の辺りに導かれ、そこに築いた...熊野神社十二社権現(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 先陣庵(JR乗り潰し・本四備讃線)

    「先陣庵」に向かう道すがら、集落の近くで石碑を見付けた。道路脇に建つ大きな自然石の正面に、「源平藤戸合戦沖ケ市激戦地の碑」と刻まれている。この石碑、倉敷観光コンベンションビューローや藤戸史跡保存会が出す「藤戸周辺の史跡めぐり」の地図では紹介されていない。どうやら地元の郷土史家が、歴史を後世に伝えんと平成に入り建てたものらしく、沖ケ市と言うのが、この辺りの旧地名のようだ。佐々木盛綱の上陸地で、ここで源平両軍が正面衝突し、激しい戦いが夕暮れまで続いたが源氏方の勝利に終わり、平家は這々の体で屋島へと逃げ落ちた。そこから北に200mほど坂を上ると、西明院という真言宗善通寺派の寺があり、その登り切った正面の高台に、「先陣庵」がある。その右の山を少し上ったところには、「金毘羅大権現」も祀られている。寺は広い境内の正面に本堂...先陣庵(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 藤戸の史跡巡り(JR乗り潰し・本四備讃線)

    藤戸の「乗出岩」は、盛綱が騎馬で海に乗り出したとされる場所だ。昔はこの辺りまで、海が入り込んでいたのだ。途中少し高くなった浅瀬「鞭木」の辺りで一旦人馬を休ませ、持っていた鞭を水底にさすと、やがてその木は大木に成長した。それがこの地名の謂れだと言われている。再び対岸を目指し、現在の種松山のふもと「先陣庵」辺りに上陸した。当時は、騎馬で海を渡るなど不可能と考えられていた時代である。自信に満ちた盛綱の後ろ姿に、源氏方3万の兵も続々と続く事になる。これにより、布陣する平家軍との間で激しい争いが繰り広げられた。後にこの行為を、源氏方の総大将・源頼朝は先例無き事と激賞した。恩賞として備前の国・児島の領有を許し、地頭とする恩賞を与えている。知行地を得た一族郎党は当地に移り住み、以後権勢を奮ったという。藤戸寺から倉敷川を渡った...藤戸の史跡巡り(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 供養の藤戸まんじゅう(JR乗り潰し・本四備讃線)

    倉敷川の袂、藤戸寺の門前近くに、倉敷銘菓「藤戸まんじゅう」本店の重厚な構えの店が建っている。店の前には、旧藤戸町の「道路元標」を示す石柱が残されている。恐らく店の前の細い道が従来の旧道で、寺の境内がここまで広がっていたのであろうか、今は直ぐ近くに新道が通されている。その昔、源平の争いが終わり、藤戸の合戦で功を上げた佐々木盛綱が地頭として当地に着任した。手始めに戦で荒廃した藤戸寺の復興をはかると同時に、自らが口封じのため殺害した若き漁師や、犠牲になった兵士の回向を行った。供養は藤戸寺で盛大に行われ、その折、近くの民家からは饅頭が供えられた。当初の事は記録もなく良く解からないが、今の物とは形も味も違うお餅に近い物であったらしい。それを起源とするのが、この「藤戸まんじゅう」とされている。この饅頭屋の創業は寿永3(11...供養の藤戸まんじゅう(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 補陀落山藤戸寺(JR乗り潰し・本四備讃線)

    佐々木盛綱は、源平藤戸合戦の折、この辺りがまだ海であったころ海峡の浅瀬を騎馬で渡り、その先陣の功を立てた。平家の滅亡後それにより、鎌倉幕府から恩賞として備前国・児島を受領して地頭職に就いた。着任した盛綱は、土地の有力者などに服従を求め、誓紙を差し出させたと伝えられている。知行地を得た一族は、その後もこの児島に土着し権勢を奮った。結果備前地域がその後も、東国武士との関わりが深く残るようになる。盛綱はまず、合戦で荒廃した地元の「藤戸寺」の修復に着手した。この寺は、天平年間に行基菩薩が、仏法を広めるため児島を巡行した際、藤戸の海より浮かび出た千手観音を本尊として奉安したのが始まりだ。正式には、「補陀落山千手院藤戸寺」という高野山真言宗の古刹である。さらに盛綱は、源平合戦の両軍の戦死者、自身が殺害した哀れな漁師たちの為...補陀落山藤戸寺(JR乗り潰し・本四備讃線)

  • 佐々木憎けりゃ笹まで憎し(JR乗り潰し・本四備讃線)

    褒美と引き換えに、藤戸海峡の浅瀬の存在を地元の漁師から聞き出したのは、源氏方の武将・佐々木盛綱であった。浦の漁師が、深いところはあるが、平家の陣地まで浅瀬で渡れるルートの存在を教えたのだ。ところが盛綱は、この事が敵方に漏れるのを恐れ、あろうことか口封じの為この漁師を殺害してしまう。当時の武士は、戦で手柄を立て、功名を成し、恩賞として土地を得るのが目的である。その為には何としても先陣を切りたい。こうした事から、血を血で洗う戦場での盛綱の立場なら、敵方や名も無い民を欺すことなど不名誉とはされていなかったのである。亡き者にされた漁師には、年老いた母がいた。息子の無残な最後を知らされた老母は、嘆き悲しみ、「佐々木憎けりゃ笹まで憎し」と、付近の山の笹を全部抜いてしまった。以後その山には笹が生えなくなってしまったと言う。(...佐々木憎けりゃ笹まで憎し(JR乗り潰し・本四備讃線)

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