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修ちゃんさんのプロフィール

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愛知県

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/sudare-m
ブログ紹介文
バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。
更新頻度(1年)

156回 / 365日(平均3.0回/週)

ブログ村参加:2010/04/02

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修ちゃんさん
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簾満月のバスの助手席
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簾満月のバスの助手席

修ちゃんさんの新着記事

1件〜30件

  • 馬喰橋の「もちや」 (東海道歩き旅・遠江の国)

    日坂から次の宿場・掛川までは、1里29丁(約7.1㎞)である。この辺りの旧道は、殆どが県道を歩くが、所々で離れ、また合流する等を繰り返しながら、元村橋で左の旧道に取り、成滝の集落を越え、逆川(塩井川)に架かる馬喰橋を渡る。普段は土橋が架かっていたが、あの弥次さん喜多さんがこの地に着いたとき、昨日の雨で橋が落ちていて、徒渡しを余儀なくされた。たまたまここで、京上りの犬市・猿市と言う二人の座頭に遭遇する。股引を取り、裾をまくり上げ、相方をおぶって渡ろうとする二人を目にすると、ちゃっかり座頭の背中に負ぶさり渡ろうとするも、途中で気付かれ川の中に落とされてしまう。橋を渡ると右側に、創業以来200年以上続くという「もちや」がある。代々掛川宿入口にあり、馬を引いて行き交う旅人を相手に茶店を営なみ、今日で8代目と言う老舗で、...馬喰橋の「もちや」(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 一里塚 (東海道歩き旅・遠江の国)

    事任(ことのまま)八幡宮の本宮は、東海道を挟んだ右側の本宮山の中にあり、両地は赤い橋で結ばれている。本宮までは271段の階段を登るらしく、とてもこれから上る元気は無い。同社は昔から「ことのままにかなう」と評判の神らしいので、街道筋から歩き旅の安全を切にお願いした。左200mほど奥に道の駅「掛川」がありそれを望んで暫く県道を淡々と歩く。掛川バイパスを越え、県道415号(旧国道1号線)の八坂橋の歩道橋の有る辺りに、日本橋から223.3㎞の地点を示す距離札がガードレールに掲げられていた。右にカーブする県道を外れ、左の旧道に入りそこから5分ほど歩くと、57番目の伊達方一里塚がある。江戸幕府は街道を整備する伝馬制を制定した後、江戸日本橋を起点に、主な街道の一里ごとに塚を築くよう命じている。旅人が行程の目安とし、休憩場所と...一里塚(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 事任八幡宮 (東海道歩き旅・遠江の国)

    派手な賑わいはないが落ち着きが有り、古の面影をそこかしこに感じる良い宿場町で有った。そんな日坂宿を後に、旧道を西に進み古宮と言う地にやってきた。中程に古民家があり、その前に「賜硯堂成瀬大域出生の地」の石柱が立っている。当地で生まれ42歳の折に上京し、書を学び、後に宮内省に奉職した書家で、ここが生家らしい。明治天皇に書を献上し、お褒めの言葉と古い硯を賜わったと言う。その硯と彼の書は、寄贈先の掛川市二の丸美術館に展示されている。更に進むと県道と合流する辺りの左側に、遠江の国の一宮「事任(ことのまま)八幡宮」(古くは己等乃麻知(ことのまち)神社と言い、誉田(こんだ)八幡宮とも呼ばれている)が深い森の中に鎮座していた。公式ホームページによると創建時期は不明らしいが、平安時代に書かれた枕草子や、鴨長明の「方丈記」などにも...事任八幡宮(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 宿場の備え(東海道歩き旅・遠江の国)

    日坂宿の西の外れにも、秋葉の常夜灯が建っていた。この宿場では度々火災の発生があることから、昔から根強い秋葉の火防信仰があり、当時は宿内の三カ所に常夜灯が建てられていたと言う。幕府は江戸防備の観点から、街道筋には様々な施策を講じていた。主要な街道の要所には関所を設け、通行人を改めていた。街道筋の主要な大河には橋を架けず、舟で渡ることさえも禁じ、あえて手間のかかる人足渡しを行っていた。宿場の出入口である見附には、大木戸(宿場の出入り口を示す観音開きの大きな戸)を設け、出入りの出来る時間を定めて、その宿場内以外の場所での宿泊も原則禁じていた。その場所にはそんなことを高札に書き留めた高札を掲げていた。また宿内の道路は、火災時の延焼防止の観点からやや広めの道路を通していた。しかしそんな道も決して直線とはせず、敢て曲げ、曲...宿場の備え(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 問屋場 (東海道歩き旅・遠江の国)

    日坂宿を西に進むと問屋場跡が有る。幕府などの公の文書や品物などを、次の宿場に取り次ぐ業務を飛脚と言い、その仕事を担うのが問屋でそれを司る役所を問屋場と言った。また幕府公用の旅行者や大名などが利用する人馬を用意して、必要に応じて次の宿場まで運ぶ重要な役割も担っていた。その為幕府は交通量の増加に伴い、寛永年間の記録によると、一宿につき人足100人、馬100匹の設置を義務付け組織化していた。慶長6(1601)年以来、幕府により定められた所謂「伝馬制」である。大きな宿場では複数の問屋場が置かれていたところもあるらしいが、ここ日坂の宿場には一カ所置かれ、問屋、年寄り、請払、帳附、馬指、人足割、人足割下役などがその業務に当たっていたと言う。昔から街道筋に一定間隔で置かれた場所を「駅」と言い、そこで文や品物、人などを引き継い...問屋場(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 大旅籠 (東海道歩き旅・遠江の国)

    宿場の西外れ近くには、江戸末期に建てられたという問屋場・藤文とかえで屋(旅篭?)の建物が残されている。江戸末期から明治の始めにかけて造られた建物だ。藤文は間口が五間、奥行き4間で、総畳数は38畳であった。一方かえで屋は間口二間半、奥行き四間半、総畳数は16畳だという。更に街道を西に向かうとその先に、同年代に建てられた萬屋が有り、間口4間半、総畳み数39畳の旅籠は、主に庶民が利用したと言う。復元修理時の調査では、二階部分は4間あり、食事の提供が無かった宿と考えられている。その向かい側に建つ川坂屋は、宿場の最も西に建つ旅籠だ。当時の面影を良く残した間口6間、奥行き十三間、総畳数64.5畳堂々たるの建物で、この時代には禁制材であった檜が使われていると言う。江戸から棟梁を招いて造られた建物で、品格もあることから、主に上...大旅籠(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 日坂(にっさか)の宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

    東海道三大難所の一つと言われる「小夜の中山」を下ると、厳しかった峠道とは違って、そこは穏やかな家並みを見せる東海道25番目の日坂(にっさか)の宿場である。元々は西坂とも新坂とも言われ、小夜の中山の西の登り口に開けた宿場町で、東の見附を抜ければ直ぐに急坂が待ち構えていたのであろう。宿場の東見附から西見附までの間はおよそ6町半(700m)と言い、本陣、脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠の数は33軒、宿内の人口は750人と云うからさほど大きな宿場ではなさそうだが、取り決め通り、伝馬100疋、伝馬人足100人は置かれていたと言う。難所を控えた宿場にしては些か規模が小さいようにも思われる。峠越を控えた旅人が英気を養い、下り終えた旅人が安堵の休息をしたであろう割には、旅籠の数が少ないような気もする。大井川が川留めともなると、この宿...日坂(にっさか)の宿(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 常夜灯 (東海道歩き旅・遠江の国)

    金谷坂、菊川坂、小夜の中山を上り下りして、ようやく最後の「七曲がりの急坂」を10分ほどかけて慎重に下ると、突然目の前が開け、国道1号線の高架道路が見えてくる。その下を大きく迂回しながら潜れば、長く続いた急坂もようやく平坦道に戻り、やがて次の宿場・日坂である。宿場の入り口に常夜灯が立っている。常夜灯とは、街道等で夜道の安全のため、ローソクや菜種油を燃やし、一晩中灯りとして灯しておく石柱や、自然石・加工石を組み合わせた灯籠等のことで、東海道の街道筋では是までに何基も見てきた。街道の施設的なもので道中や追分けに、又集落の中、宿場の出入口、特定の神社の参詣道等に設けられていて、かなりな年代物が残されている事もある。それらは土地の篤志家や、神社への信仰心から建立されるもので、多くは燃料も含めての寄進であったそうだ。東海道...常夜灯(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 七曲がりの急坂 (東海道歩き旅・遠江の国)

    「小夜の中山」を日坂に向けて下る途中の大松の集落の辺りには、幅が3mほどもある舗装された道なのに、国道1号線に通じる新道との分岐部に「1.5㎞車両通行不可」の注意札が立てられていた。訝かしく思いながらここまで来たが、その理由がこれで解った。茶畑が尽き、街道筋に人家(と言っても廃屋も有るようだ)が見える辺りから、道幅は急に狭くなり、かなりの勾配で下る道が見えてきた。この辺りを沓掛と言うらしい。この地名は峠の急な坂道に取りかかったところで、草鞋や馬の沓を山の神に捧げ旅の安全を祈願した慣習から起こったと云われているが、その急坂がこの先に待ち構えていた。「七曲がりの急坂」と言われる坂である。国土地理院の提供する地図で調べてみると、僅か50mほどの間に110mから91mまで標高を下げている。その先では多少緩やかとはいえ、...七曲がりの急坂(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 茶畑 (東海道歩き旅・遠江の国)(2020/09/09 投稿予定)

    久延寺を過ぎると日坂に下る道はなだらかで、通る車も少なく快適で、人と出会うことも殆ど無く、ただひたすら先を目指し歩くのみだ。広々とした台地は、相変わらず一面の茶畑で、時折肌をなぜる涼風がほてった身体に気持ち良い。遠くに望む山並みの中に「茶」の字が描かれた、標高532mの粟が岳の斜面の文字が見えている。茶処だから茶の木だと思っていたが、これでは遠目では判別し辛いらしく、元々は松で描かれていたそうだ。その松が松食い虫にやられ、変わって今では約1000本のヒノキが植えられているという。日本一の茶処、静岡県の茶畑の面積は全国のおよそ31%(令和元年)、生産量(生茶葉)は39%(平成30年)を占めている。(静岡県公式HP)古くから茶の栽培が盛んな当地を、全国一に押し上げたのは明治維新になって職を失った武士たちが、未開の地...茶畑(東海道歩き旅・遠江の国)(2020/09/09投稿予定)

  • もう一つの伝説 (東海道歩き旅・遠江の国)

    「小夜の中山」の旧東海道筋に、馬頭観音の石碑が建っている。この地には古くから「蛇身鳥退治」の伝説が残されていて、この地は蛇身鳥退治に来た京の公家・三位の良政卿が乗ってきた愛馬が死に、葬った場所らしい。その昔菊川の里に、狩り好きな男が妻と二人の子供の四人で暮らしていた。有る雪の降る日に大きな熊を仕留め、近寄って見ると、何とそこには血を流す息子の姿が。息子は父の狩りを止めさせようと、熊の毛皮を被り山に入っていたのだ。息子の変わり果てた姿を目の当たりにした妻は、狂ったように泣き叫び、家を飛び出しそのまま菊川の淵に身を投げてしまった。それからというもの、この付近では夜な夜な奇妙な声を出して鳴く、頭は鳥、身体は蛇、羽根は刃物を持つという怪鳥が現れた。この怪鳥を退治したのが京からやってきた公家の良政であった。その後良政はこ...もう一つの伝説(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 歌枕と歌碑 (東海道歩き旅・遠江の国)

    古くは「さやの中山」とも言われた東海道の難所「小夜の中山」の通過は、当時の旅人の心を掴み、感慨を深くするものらしい。ここは昔から歌枕として知られた憧れの地で、数々の古歌に詠われた名所でもあった。「甲斐が峯ははや雪しろし神無月しぐれてこゆるさやの中山」遙かな甲斐国の、白根の峰々ははや雪で白いであろうか、神無月(10月)の時雨の中さやの中山を超えている。(蓮生法師)「ふるさとに聞きしあらしの声もせず忘れね人をさやの中山」この地の山風の音は、都で聞く風とは似ても似つかない。遠く旅先にいるのだから、都の人のことなど忘れてしまえ。(藤原家隆)「東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん」東国への道中、都を離れて遙か遠くこの地に来たが、はっきりとも見えない、遠い旅の空の下で、生涯を終えるのだろうか。(壬生忠岑)「...歌枕と歌碑(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 小夜の中山公園 (東海道歩き旅・遠江の国)

    久延寺に伝わる悲しい「夜泣石」伝説に纏わる子育飴の店の前には、小夜の中山峠の平坦地に作られた「小夜の中山公園」があり、展望台に向かう遊歩道が整備されている。台地の上で見晴らしの良い公園らしく、30分もあれば一回り出来るらしいが、ゆっくりと立ち寄る間もなく入口を見るだけである。「年たけてまた越ゆべきと思ひきや命なりけりさよの中山」西行法師の大きな歌碑が街道沿いの道路に沿った地に建てられている。有名な西行研究家の揮毫らしく、小夜の中山を語る歌枕として、象徴的な歌となっている。平安時代末期の歌人でもある西行法師は、東大寺の大仏殿再建の為、奥州の藤原秀衡に砂金を勧進しょうとの旅の途中にこの「小夜の中山」峠を越えた。時に西行は69歳で、二度目の峠越えとなり、若き30歳の頃を偲び、長生きを喜び読んだものだという。「小夜の中...小夜の中山公園(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 夜泣石伝説と子育飴 (東海道歩き旅・遠江の国)

    『その昔、お石という女性が当地に有った丸石の近くで、俄にお腹が痛くなった。丁度その時通りかかった男が介抱してくれるのだが、男はこの付近を荒らす山賊である。お石が懐にお金を持っていると知ると殺してしまった。このとき不思議なことに妊娠していたお石の傷口から男の子が生まれた。そしてお石の霊魂は、そばにあった丸い石に乗り移り、夜ごとに石は泣くようになった。寺の和尚が読経してその石を慰め、泣いていた子を引き取って飴で育てたという。成長した男の子は、大和国で刀研ぎ師の弟子となった。ある日、刃こぼれを研ぎにきた男にその原因を問うと、十数年前の凶行を聞かされ敵と知り、名乗りを上げて見事母の敵を討ったと言う。』「小夜の中山」の久延寺の建つこの辺りには、こんな悲しい「夜泣石伝説」が残されていた。「峠上り立場あめのもち名物売り」寺の...夜泣石伝説と子育飴(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 佐夜の中山・久延寺 (東海道歩き旅・遠江の国)

    「小夜の中山」最後の急坂、青木坂を上り詰めると、右に古刹が見えてくる。「高野山真言宗・佐夜中山・久延(きゅうえん)寺」である。山門で猫が、人が近づくのも厭わずのんびりと睡眠をむさぼっていた。創建は古く、奈良時代に行基が開基したと伝わる名刹だが、一時は無住で荒れるに任せた時期もあったらしいがその後再興されている。御本尊は聖観世音菩薩で、地元では「子育ての観音さま」と称され親しまれている。掛川城の城主となった山内一豊が、関ヶ原から会津攻めに向かう徳川家康を接待するために、境内に茶室や観音堂を建立したと言う故事が伝わる寺である。境内のお茶屋亭跡がその名残で、ここで煎茶を供したらしく、その礼に家康が植えたとされる五葉の松も境内には残されている。広重が描く東海道五十三次の「日坂左夜ノ中山」では、ことさら誇張された小夜の中...佐夜の中山・久延寺(東海道歩き旅・遠江の国)

  • もう一息 (東海道歩き旅・遠江の国)

    東海道の難所「小夜の中山」の茶畑を行くアスファルト道は、緩やかな上り下りをくりかえしながらも、圧倒的に上り勾配の方が多く、確実に高所に向けて長く延びている。多少息も上がり気味で、踏み出す一歩一歩は、スローモーションのように頗る鈍いが、周りの茶畑の濃い緑と青い空だけは相変わらず美しく、それが唯一の慰めである。道中にはコンビニも食事処も無く、休憩するような場所も何も無い。休むなら歩を止めて、しばし路傍に腰を下ろすより仕方が無い。ペットボトルの予備を、予め金谷の町中で調達していて正解であった。今道ばたに屈みながら、既にその2本目に口を付けている。「もうすこしだ。その坂を上がれば寺がある。」覚束ない足取りで急坂を上ってくる姿に、見るに見かねたのか、途中の茶畑で作業中の男性が手を休めながら、軽トラに手をかけたまま声をかけ...もう一息(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 第三の難所 (東海道歩き旅・遠江の国)

    金谷坂、菊川坂の石畳道に続いて上り下りを繰り返す小夜の中山は、昔から箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所として知られたところだ。今は見わたす限りの茶畑が広がる明るい地だが、当時はまだまだ荒廃した山中で、深い木立が生い茂り、あるいは草深い地で、民家とてない寂しい地であったと思われる。テレビドラマや映画、芝居等なら、お決まりのようにこうした場所では夜盗・盗賊・山賊・追い剥ぎ・ごまの蠅などと遭遇し、難儀を強いられ、時には命までも奪われてしまう。そんな筋書きを思い浮かべれば、昔の「難所」はただ単に、地勢の厳しさだけのことでは無かったように思えてくる。ドラマとしては何も起こらなければ成り立たないから仕方ないが、しかし実際のところは随分と誇張された話で、勿論皆無ではあり得ないであろうが、江戸時代の治安は今思うほど悪くは無かったよ...第三の難所(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 小夜の中山 (東海道歩き旅・遠江の国)

    「年たけてまたこゆべきと思ひきや命なりけりさよの中山」西行法師の詩である。『年老いた今こうして、再びこの峠を越えるとは思ってもみなかった。二度も越えられるのも命があったからなのだ・・・』『かつてここを通ったのは30歳の頃だったなぁ・・・』東大寺再建の勧進の道中で、奥州平泉に向かう69歳の西行は、老いた身体を鼓舞しながら2度目となる峠越を感慨深く体験する。「小夜の中山」とは、なんとも心地良い優雅な響きのある地名である。昔からここを旅した西行法師や松尾芭蕉、橘為仲等の文人墨客も、多くの歌や句を残している。しかし、その地名から受ける穏やかな印象とは裏腹に、ここには想像も出来ないほどの厳しい峠道が待ち構えている。急坂に挑む出発地の金谷宿の標高は100mほどだ。そこから金谷坂を上り茶畑の中の諏訪原城跡辺りで標高220mの...小夜の中山(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 間の宿・菊川 (東海道歩き旅・遠江の国)

    菊川に架かる高麗橋を渡ると間の宿・菊川の宿内である。間の宿は宿場間が長い場合の中間地辺りに開かれるのが普通であるが、ここ菊川は、金谷宿と日坂宿の間が一里二十四丁(およそ6.5Km)しかないのに置かれている。それはこの間には金谷坂や菊川坂があり、更にその先には箱根、鈴鹿に次ぐ東海道三大難所の一つとも言われる小夜の中山が控えているからである。間の宿では、旅人や人足が休憩の便宜を図るだけで、宿泊することは原則禁止されていた。また茶店で提供する料理も豪華なものは禁じられていてそこから旅人を慰める料理として大根葉入りの「なめし田楽」が考案された。当時は名物として提供する茶店が建ち並んでいたと言うが、今は提供する店はなく、郷土料理として伝わるのみである。街道の中程に「間の宿菊川の里会館」が有り、駐車場の脇に菊石が置かれ、二...間の宿・菊川(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 菊川坂の石畳 (東海道歩き旅・遠江の国)

    菊川坂は、江戸は文政年間の助郷制度により、近隣12か村に割り当てられ、助郷役の人々により敷設された380間(約690m)の石畳道である。助郷とは、幕府が宿場周辺の村落に課した労働課役のことである。徴発された農民たちには迷惑この上なく、その負担は相当なものであったようだ。嘗ては林の中の薄暗い中を下る坂も、昭和の高度経済成長期に開発が進み、木々は切り倒され、道が整備されるなどで僅か161mを残すのみとなっていた。その後平成の発掘調査では、アスファルト舗装の下に埋まった道が見つかり、調査の結果この道は江戸時代後期に敷設されたものと確認されている。当地では東海道400年祭りにあたり、先人の助郷制度に因み、「石畳菊川坂助郷伝説」と銘打ち、平成の助郷事業が行われた。町内外から集まった500名を越える人々の手で、往時の石畳道...菊川坂の石畳(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 諏訪の原城 (東海道歩き旅・遠江の国)

    牧之原台地一面に広がる茶畑の路は、見た目も美しく気持ちが良い。淹れ立てのお茶の香りが、今にも匂ってきそうな気さえする。当地には余程の丸い石がたい積しているのか道普請に使われるだけでは無く、茶畑の土壌を支える石垣や道路の土留め、民家の庭先でも、至る所に丸石が使われている。暫く行くと、国指定史跡・諏訪の原城跡が右側に見えてくる。武田勝頼が標高218mの地に遠州攻略の拠点として築かせた城で、城内に諏訪大明神を祀ったことから、「諏訪原城」と言われるようになった。天正年間に徳川軍に攻められ落城後は牧野原城と改名したが、武田氏が滅亡した後は廃城となり荒れ果てていた。跡地は戦国時代史の過程を理解する上で重要な遺跡とされている。しかし広大な城跡には空堀や井戸跡が残されていると言うが、草原と鬱そうと木の茂る森に変貌し、案内板の城...諏訪の原城(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 牧ノ原台地の茶畑 (東海道歩き旅・遠江の国)

    山石の敷き詰められた坂を上り詰めるとそこは初倉山だ。石畳道が途切れたところで行幸道路に出て南東方向に辿ると、一帯は牧之原台地と言われる平坦地で、東京ドーム1,100個分に相当する広大な茶畑が広がっている。江戸幕府が倒れ明治維新を迎え、川越制度が廃止され職を失った川越人足や、武士の立場を奪われた幕臣などが当時は荒廃地であったこの地に入植し開拓を行った。結果広大な開墾地は、それらの開拓者に払い下げられた。ここには今でもその子孫が何人か住み着いて、茶業を営んでいると言う。そう言えば街道一の大親分と言われた清水の次郎長も、維新間もない頃、任侠道から足を洗い、子分や囚人などを引き連れて富士の裾野の開墾をしている。当時この遠江や駿河国には、まだまだ未開の原野が多かったのであろう。この地に茶が植えられたのは、水はけは良いが石...牧ノ原台地の茶畑(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 金谷坂の石畳 (東海道歩き旅・遠江の国)

    金谷坂の、旧石畳路の復元機運が盛り上がったのは、平成の世に入ってからである。旧金谷町民による「平成の道普請」と銘打った一人一石運動は、600名余りの町民により430m程の道を蘇らすことが出来た。今日目にする石畳路である。しかし鏡のように平らな路面に慣れ親しんだ現代の旅人の足の裏にとって、丸い石の道はなんとも歩き難いものだ。比較的大きな平らな面で揃えられているとは言え、半端無い凹凸感と、石の隙間の存在は絶えず足下を危うくさせる。一瞬でも足下から視線を外そうものなら、ぐらついてたちまち捻挫の危険に襲われそうな不安があり、一時も気が抜けない。ここは上りの苦しさはあるが、歩きやすさから言えば、下るよりは遙かに安全なのかも知れない。坂の途中には赤い幟旗の立ち並ぶ「すべらず地蔵尊」がある。路に敷き詰められた丸い石は川石に比...金谷坂の石畳(東海道歩き旅・遠江の国)

  • あおねば (東海道歩き旅・遠江の国)

    「金谷坂は上りの坂路にして峻(さか)し。(中略)大井川の流れを見下ろし富士山など遙かに見えて風景の佳境なり」と言われた通り、金谷の宿を見通す眺めは素晴らしかったようだ。しかし足元は「あおねば」と呼ばれる粘土層が多く露出する地で、雨でも降れば、「膝まで埋まるぬかるみ」と形容されるほどの悪路・難路であった。当時は難路の解消策として、例えば箱根峠の東坂や西坂では、山に自生する箱根竹を刈り取り、束にして敷き詰めていたようだ。また神奈川宿に近い生麦の村では、貴人が通ると、近辺の麦を刈り取りぬかるむ道に敷き詰めていた(これが地名発祥説とも言われている)。しかしこうした道は、耐久性には乏しく度々やり替えることとなり、その労力や資金も馬鹿にはならず悩みの種であったらしい。その為東海道が整備されるに当り、箱根には近くから切り出し...あおねば(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 石畳茶屋 (東海道歩き旅・遠江の国)

    「旧東海道石畳道入口」の看板に導かれかなりの急坂を暫く上ると、石畳道が見えてきた。その登り口右手には、趣のある門構えの「石畳茶屋」がある。十年ほど前になるだろうか、初めて訪れた時には石段を登り、門を潜ったその先には、和風の木造建築が建ち、庭先に赤毛氈を敷いた縁台を並べたそば屋で、広い板敷きの内部には囲炉裏が切られていた様に記憶していたが、すっかり様変わりしている。和風の瓦葺きの、真新しい建物が建っていた。「meguri石畳茶屋」と言う、島田市産の肉や卵、野菜を使った料理や、季節の果物を使ったお菓子を提供するレストランで、聞けばオープンしてまだ間がないという。丁度昼時でもあり、この先峠越え道が続くので喰いそびれてもいけないと、休憩がてら立ち寄ってみた。一面のガラス戸で囲われた明るい室内は、広い板敷きの間で、大きな...石畳茶屋(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 金谷大橋 (東海道歩き旅・遠江の国)

    不動橋は、金谷宿西の入口(宿場の京方の見附)に当り、ここには「金谷大橋」と呼ばれる橋が架けられていた。長さ6間(約10m)幅2間半(約4.5m)の土橋である。土橋というのは、橋桁の上に丸太を組み、上に小枝並べて凹凸を均し、表面に土を乗せつき固めて造られた橋で、三年ごとに修理や架け替えが行われていた。この地は川越しの難所・大井川と、金谷坂から小夜の中山にかけて上り下りする街道でも名うての峠越え道の中間に位置する所で、当時は休み所や一善飯屋が建ち並んでいたという。峠を下り終え宿場入りする旅人は一休みし、大名は身なりと隊列を整え、これから峠越をする者には鋭気を養う場所となっていた。その先には道銭場(今で言う有料道路の料金所)が有ったらしく、通行人から銭を取っていたようだ。橋の修繕費なのか、坂の石畳の維持費なのか、どこ...金谷大橋(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 金谷宿 (東海道歩き旅・遠江の国)

    東海道24番目の宿場町・金谷宿は往還橋を渡った辺りから始まる。行く手正面に見える牧ノ原台地に向け緩やかに上り始める道で、予期せぬ川留めに備えるためか、当時本陣は3軒、脇本陣も1軒あった。宿内の人口は4,000人余りで、家数も対岸の島田よりは少ないが、旅籠の数は島田宿をしのぐ51軒もあった。川を無事渡り終えた旅人は、旅籠や茶店で寛ぎ、箱根の山の「山祝い」と同様、「川祝い」で無事を喜び合ったと言うからその需要を見込んでいたのであろう。佐塚本陣は建坪263坪あり、玄関付きの門の屋根には一対の鯱が飾られ、「鯱のご門」と呼ばれる豪華なものであったらしい。徳川御三家の尾張藩や紀州藩の定宿であった一番本陣・柏屋も同じような規模を誇っていたが、嘉永年間に起きた東海大地震のため壊滅し、本陣を廃業したと言う。他にも問屋場跡などが有...金谷宿(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 南アルプスアプトライン(東海道歩き旅・遠江の国)

    大井川鐵道のオフィシャルガイドブックによると、始発駅金谷の標高は93m、途中の千頭は200m程高い299mで、更に終点の井川ともなると標高686mまで上っていく。その勾配も20‰や25‰区間は当たり前、最大90‰の区間も有り正に山岳鉄道である。井川線は、途中の千頭で乗り継ぐことになる。赤いトロッコ列車は、大井川上流部の奥大井に向かう路線で、「南アルプスアプトライン」の別名を持っている。沿線には14の駅が有るが、殆どが無人駅で、しかも周辺には人家どころか駅に行く道路すらない所も有り、秘境駅ばかりだ。中でも圧巻は、アプトいちしろ駅と長島ダム駅の間(1.5㎞)である。日本で唯一のアプト式鉄道が採用されている区間で、勾配90‰(1000mの間に90m上ること)だ。それは通常のレールの間に専用のラックレールを敷設し、坂道...南アルプスアプトライン(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 大井川鐵道 (東海道歩き旅・遠江の国)

    ボォーッボォーッ島田と金谷を結ぶ大井川橋を渡り終える頃、どこからともなく聞こえてくる汽笛が、24番目の宿場入りを歓迎するかのように鳴っていた。その吹鳴は秋葉神社の先で渡った踏切で最大となる。踏切から左を見ると、大井川鐵道の新金谷駅があり、ホームには白い煙を勢いよく噴き上げる蒸気機関車(SL)が停車していた。先ほどから何度も歓迎の汽笛を鳴らしているのは、この大井川鐵道の機関車らしい。同鐵道は大井川上流の森林資源の輸送と電源開発の目的で、大正末期に設立されている。今では東海道本線の金谷駅に接続し、そこから千頭(39.5㎞)を結ぶ大井川本線と、千頭と井川(25.5㎞)を結ぶ井川線を運行している。同鐵道にはC10、C11、C12、C56や9600形等の蒸気機関車が動態保存され年間300日以上の定期運行をしているのは日本...大井川鐵道(東海道歩き旅・遠江の国)

  • 義人・仲田源蔵 (東海道歩き旅・遠江の国)

    島田宿の川越遺跡が見事に復元されていたのに比べると、対岸の金谷宿は些か寂しい。史跡らしい物は何も無く僅かに土手下に残る水神様と、民家の玄関先に掛けられた番宿を書いた表札で、往時を偲ぶのみである。渡し場跡の小公園に没後120年を記念した「義人仲田源蔵」の石造が建てられている。説明によると翁は当地の醤油屋の三代目として生まれ、その後川越人夫総代を務めた。明治維新の頃川越え制度の廃止と共に、職を追われた1,300人の川越え人夫の為に、当時荒れ地であった牧ノ原台地の開墾に従事させるよう時の政府を動かした人物だと言う。台地の開墾により人夫の入植が可能となり、茶園が開かれ、今日でも当時の子孫たち17軒が茶業を営むなど、大茶園の礎を築いた人物である。私財を投じた翁と牧の原の茶園との関りは、地元でもあまり知られていないらしく、...義人・仲田源蔵(東海道歩き旅・遠江の国)

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