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修ちゃんさんのプロフィール

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JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

ブログタイトル
簾満月のバスの助手席
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/sudare-m
ブログ紹介文
バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。
更新頻度(1年)

155回 / 365日(平均3.0回/週)

ブログ村参加:2010/04/02

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修ちゃんさんの新着記事

1件〜30件

  • 原尾島競馬場  (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    県道402号を越えると、線路跡は、現在市道に転用されているらしく、痕跡をどこにも見いだすことは出来ない。緩く曲がる道筋が、僅かに線路のカーブを思わす程度だ。付近には原尾島駅が有ったらしいが、その跡地は住宅地になっている。そこには当時の駅の遺構らしい石積みが、民家塀の基礎に転用されて少しだけ残されている。かつてこの右手付近には、原尾島競馬場が有った。岡山県下では、最初の競馬場が西大寺の吉井川右岸、現在向州公園の有る辺りにつくられた。元々県畜産共進会の余興として競馬が不定期で開催されていたもので、コースも短かったために廃止され、移転が決まった。その移転先がここで、昭和8(1933)年原尾島競馬場として開場した。『原尾島駅ではあるが、地元の人はこの駅を競馬場前と言っていた。だが駅舎は無かった。当時競馬開催日には、大変...原尾島競馬場(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 原尾島の世界初 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    廃線跡と交差する原尾島3丁目の交差点から、県道402号線を西方に400m程行くと、国道250号線原尾島の変則的な交差点に出る。実は、この交差点は、「日本初・世界初」のある物が実用化された記念すべき場所でもある。それは、今では町中の道路や駅のホーム、建物の床面等で当たり前のように目にするものだ。時は1960年台の半ば頃、岡山市のある実業家がある日とある交差点で、白い杖を持った目の不自由な人が道路を横断しようとする姿に遭遇した。通りには車が激しく行き交い、中々渡れない様子を見て以来、視覚障害者が安全に、単独歩行が可能な世の中の実現が何とか出来ないものか、と考えるようになったのだそうだ。それから2年の歳月と多額の私財を投入し、苦心の末考案したものが、日本でも世界でも初めてこの交差点に敷設された。しかし、当初は理解が乏...原尾島の世界初(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 県道・原尾島-番町線 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    駅跡を出て、店舗や住宅、事務所等が混在する、猥雑な町並を抜ける。線路跡の道は国富地区から原尾島地区に到り、県道402号「原尾島・番町線」を横断する。この道は、国道2号線(現250号線)の原尾島交差点と、国道53号線の番町交差点の間、2.3㎞を結ぶ全線片側2車線の都市計画道路である。県道を辿ると中区役所が有り、大型パチンコ店や飲食店、ショッピングモール、自動車販売店、銀行の支店、警察署などが立ち並ぶ広々として賑やかな町並を目にすることが出来る。そんな通りを一歩中に入ると、表の喧噪とは別世界で、戸建ての住宅に混じり、比較的大規模なマンションや共同住宅等が犇めき、市中心部に至近のベッドタウン的な様相を見せている。この県道は、戦後の市街地復興策の一環で、高度経済成長期に爆発的に増え続ける自動車に対応する為の道造りと位置...県道・原尾島-番町線(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 森下駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    およそ800m南下し、国道250号線に接する県道を横切ると旧山陽道に行き当たる。ここで線路跡は大きくU字カーブし旧道上を北上する。暫く行くと右手にバスの車庫が見えてくるが、ここが「森下」駅の跡地である。ここは先行開業した長岡から、更に延伸した当時の終着駅だ。当初の計画では、このまま旧山陽道に沿って南下し、市内の門田屋敷に向かい市内電車や、翌年開通が予定されていた三蟠軽便鉄道(桜橋~三蟠)などとの接続を目指していた。用地の買収や資金繰りなどの問題も多く、現行ルートの後楽園終点に落ち着いたようだ。この不自然な大きなU字カーブが、その延伸計画の挫折を物語っている。ところでこの旧山陽道だが、岡山を開府した宇喜多直家時代より以前には、今の中心市街地を大きく外れた北の方を通り抜けていた。直家はそれを南下させ、城の近くを通す...森下駅(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 廃線跡を歩く (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    廃止になった西大寺鉄道の廃線跡を、歩いて辿ってみる。ここ「夢二郷土美術館・本館」と「カフェ」が建ち並ぶ前の道は、何か曰く有りそうに僅かに緩い曲線を描いている。実はこれが昭和37(1962)年廃止となった鉄道の「後楽園」駅であったことを窺い知る唯一の手掛かりである。道に沿って奥に進むと駅跡は来客用の駐車場に成っている。更にその先を見れば民家や事務所の建物が行く手を塞いでいる。いきなりの迂回である。この辺り市中心部の廃線跡は殆どが民有地として転売されているらしく、線路の痕跡は殆ど残されてはいない。それどころか線路跡を特定するのさえ難しいと聞いていたが、全くその通りだ。大方の見当を付け、先ほどの駐車場の裏側と思える辺りにやって来た。ここには数少ない痕跡が僅かに残されていると言うから捜してみる。やっと見つけたものは民家...廃線跡を歩く(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 後楽園駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    観音と長岡駅間で営業を始めた「西大寺軌道」が、「西大寺鉄道」と社名を変えたその翌年、路線は森下駅から延伸され、後楽園の正門前に10番目の駅が出来た。開業からは4年後の大正4(1915)年の事だ。これにより11.4㎞の非電化全線単線、軌道幅3フィートの軽便鉄道が全通した。後楽園駅が開業する少し前の明治45(1912)年に、岡山市内では岡山電気軌道の内山下線が岡山駅前から内山下分岐(現・城下辺り)までの間で開通していた。西大寺鉄道の当時の駅は、旭川に架かる鶴見橋を渡った直ぐの河畔に有った。当初はここから更に延伸し、岡山市内を走るこれらの路面電車との接続も目指していたようだ。市内への乗り入れも目論んだが、それには旭川に架橋が必要である。その頃の鶴見橋は粗末な仮橋のような木橋で、鉄道を通すだけの強度は持ち合わせてはなく...後楽園駅(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 夢二郷土美術館 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    日本三名園の一つ「岡山後楽園」の北側、旭川の支流・東派川に架かる蓬莱橋を渡ると正面に、玄関前に柳の木が植えられた、何やらメルヘンチックな建物が見えてくる。三角屋根の上には風見鶏が立ち、赤い煉瓦造りと白のなまこ壁で装われた和洋折衷の建物で、入り口には蒲鉾型のドームが被せられ、なんとも言えない魅力的な風情を醸し出している。ここは岡山県出身の画家・竹久夢二の生誕百年を記念して開館した、「夢二郷土美術館本館」である。館内には、夢二の描いた絵や版画、スケッチ、掛け軸や屏風などを始めデザインした本の表紙などが展示されている。すぐ隣には、展示室やカフェ、ミュージアムショップを併設したおしゃれな外観の「artcafe夢二」も建っている。夢二は明治17(1884)年に、邑久郡本荘村(現瀬戸内市)で生まれ、本名を茂次郎と言い当地で...夢二郷土美術館(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 西大寺鉄道の廃止 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    山陽鉄道(現山陽本線)と接続する、長岡と西大寺間を先行開通させたのは、言うまでも無く観音院を参拝する観光客の輸送目的である。この間には競合するバス路線もなく、鉄道は旅客の輸送量も多く経営は安定していた。特に毎年二月に開催される「はだか祭」は書き入れ時で、所有車両を総動員し夜通しピストン輸送でお客を捌いたことで、年間収入の大半をこの運賃で稼ぎ出したと言う。古い写真(岡山今昔写真集2012年10月樹林社)を見ると、小さな蒸気機関車に何両もの客車を連結し走る姿が残されている。デッキにまで人が溢れ、車室に入り切れなかった一部の乗客の姿が屋根の上にまで見える。当時の路線には、トンネルが無かったのでこのような事も出来たらしい。当初には、金岡~沖田~花畑に到る当時の上道郡一円を循環する路線計画も有ったようだが、これは後に免許...西大寺鉄道の廃止(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 軽便鉄道の開通 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    高瀬舟による吉井川の舟運、北前船による瀬戸内海航路の拠点として栄えた西大寺は、山陽鉄道敷設時には、舟運の衰退を懸念して、鉄道が通る事に異を唱えていた。その為、鉄道路線とも切り離され、後々陸上交通では大きく後れを取る事となった。国内各地で「軽便鉄道」ブームが起こる中、挽回策として鉄道建設の機運が高まるのは、明治も終わりに近づいた頃だ。周辺に立地し始めた繊維関係工場の荷物輸送として、また天下の奇祭・はだか祭で知られる西大寺会陽の見物客の輸送を担う鉄道として、大きな期待が掛けられた。明治44(1911)年12月29日、町の中心西大寺観音院の門前通りの先に、待望の観音駅(後の西大寺市)が開業し、ここから山陽本線(当時は山陽鉄道)と接続する長岡駅までの間、5.5㎞を結ぶ路線が先行開業したのだ。軽便鉄道・西大寺軌道(後の西...軽便鉄道の開通(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 西大寺市 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    古代より県下の河川では、小さな海舟がある程度のところまで遡っていたが、中世に入ると急流を上下するに適した独特の構造を持った舟が現われ、かなり上流まで遡るようになった。これが「高瀬舟」で、記録によると吉井川では標高88mの津山まで、旭川では159mの勝山、高梁川では65mの高梁辺りまで通じていたと考えられる。(「岡山の交通」昭和47年5月日本文教出版)岡山市東部に位置する西大寺(旧西大寺市)は、吉井川の河口に開けた町だ。吉井川は、上流の美作との間で舟運が開け、この地区の流域にも幾つもの川湊が有った。また古くから金岡荘と言われる荘園で、舟運の拠点・金岡湊が有り、西大寺観音院の門前町としても栄えていた。上流から高瀬舟により運ばれ、集積された物資は、これらの川湊で陸揚げされ、或はここを中継拠点として北前船に積み替えられ...西大寺市(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 軽便鉄道 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    「軽便(けいべん)」線路の内側の最短距離を「軌間」、或は「ゲージ」と言うが、この鉄道は914mm(3フィート)で、俗に「軽便(けいべん)」と言われた。嘗て岡山にはこの鉄道が走り、市民からは親しみと愛情を込めて、「けえべん」と呼ばれていた。明治時代富国強兵を目指す政府により、鉄道国有法が公布されると、私設鉄道の施設出願が激減し、地域開発の推進が後退する結果となった。慌てた政府は、それを補完する目的も有り、かなり規制を緩めた「軽便鉄道法」を公布する事になる。これにより国内各地では、俄に「軽便鉄道」ブームが起きたと言う。ここ岡山の西大寺地区地に、鉄道建設の機運が高まるのは、やや遅れた明治も終わりに近づいた頃だ。世の中が、日清・日露の戦勝景気に湧き、地方経済の開発機運が高まり、鉄道の有用性が伝えられる中、この軽便鉄道法...軽便鉄道(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 軌間(ゲージ)(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

    鉄道の多くは、二本のレールによって線路が構成されている。その線路の内側の最短距離を「軌間」、或は「ゲージ」と呼び、鉄道会社により各種の幅が採用されている。世界的に一番多いのが、「軌間1435mm(4フィート、8.5インチ)」で、半数以上が採用していることからこれを「標準軌」と呼んでいる。日本の新幹線は、「標準軌」を採用している。走らせる車輌の重心が同じ高さなら、線路幅が広い方が横方向の力に対してより安全で、列車の場合は高速になるほどその影響は大きくなる。高速走行を売りにする新幹線には、「標準軌」が適しているらしい。一方嘗ての国鉄や現在のJR在来線、私鉄の東武、西武、名鉄、南海等では、1067mmと軌間が少し狭いものが採用されている。この「標準軌」を中心に、より広い軌間を有するのが「広軌」、逆に狭いものは「狭軌」...軌間(ゲージ)(西大寺鉄道廃線跡を歩く)

  • 西大寺鉄道への乗換え (岡山市内路面電車・番町線)

    昭和9(1934)年の室戸台風は、岡山にも大きな被害をもたらした。「岡山後楽園」の園内は水没し、建物類にも大きな被害が出たが、順次江戸時代の絵図面を基に復旧が進められた。復旧に当り園の西側を流れる旭川も、大規模な浚渫工事が行われた。同時に防災の為、東側に新たな支流(東派川)が掘られ、園地は完全な中州にある公園となった。昭和14(1939)年の事で、対岸に向け「逢来橋」も架けられている。路面電車・番町線が開通した当時は、支流(東派川)はまだ無く地続きである。従って、旭川に架かる「鶴見橋」を渡り、右に取ると「岡山後楽園」の入口に到るが、その川を渡った左岸には、番町線の開通より6年前の大正4(1915)年に延伸開業した「西大寺鉄道」の「後楽園駅」が建っていた。江戸時代には、吉井川から瀬戸内海にかけた水運で、大いに栄え...西大寺鉄道への乗換え(岡山市内路面電車・番町線)

  • 岡山市内の路面電車 (岡山市内路面電車・番町線)

    岡山の路面電車の開通を支えたのは、地元の篤志家を初め、多くは神戸の資本家や実業家であった。明治39(1906)年130名余りの発起人により「岡山電気軌道」が設立されたが、当時その中の岡山関係者は1割程度しかいなかったらしい。当時の本社と車庫は、上之町1丁目、現在のオリエント美術館のある辺りに置かれた。当初の車輌は12両による運行で、運賃は4銭であったと伝えられている。その後大正時代末期には、本社と車庫が旭東線の終点の東山に移された。路線名も東山線と変更になり、これでようやく現在の形が整った。その後の路面電車は、市民の気軽な足として、ピークと言われる昭和30年代には、65の都市で活躍をし、総延長は1497㎞と言われている。しかし今日では、18都市19路線と減り、その距離も237㎞余りと桁違いに短くなった。岡電の実...岡山市内の路面電車(岡山市内路面電車・番町線)

  • 新鶴見橋の完成 (岡山市内路面電車・番町線)

    路面電車は、室戸台風の水害や、岡山空襲による架線柱全焼失と言う被害からも力強く復旧し、戦後の復興事業に貢献を果たしてきた。戦後経済の復興は、「石炭」、「水力発電の電力」、そし「鉄道」により成されたと言われている。路面電車も多くの都市で路線が拡充され、人々の移動手段として重宝されて来た。しかし、東京オリンピックを契機に道路網の整備が進むと、日本経済の牽引は自動車が担う事がより顕著となり、加えて電車の大敵、バス事業者の乱立と路線網の急伸があった。自動車や路線バスの増加を見越し、既存の道路が拡幅され、新道の計画が相次ぐと、路面電車の存続には懐疑的な声が高くなった。道路整備よりも、車の普及速度が上回る時代で有る。至る所で道路が渋滞し、路面電車も巻き込まれ思うように走れない。それどころか、邪魔者扱されるようになる。岡山市...新鶴見橋の完成(岡山市内路面電車・番町線)

  • 番町線の終点 (岡山市内路面電車・番町線)

    番町線の線路は「後楽園口」を出ると城下筋に突き当り、それを左に折れ西進する。この角の最初の電停が「憲兵隊前」だ。大日本帝国陸軍憲兵分隊が各県に配置されたのは、明治20年代のことだ。古い地図を見ると、今日就実学園高等学校の第一体育館が建つ辺りに、「憲兵隊岡山分隊」の建物が記されている。就実高校の前身、「私立岡山実科女学校」は、明治37(1904)年にこの地で設立された。その7年後には「就実高等女学校」と、校名の変更を行い、戦後になると中学校も開設される。憲兵分隊は第二次大戦後には解体され、それに伴いこの電停は「就実学園前」となった。次が終点の「七番町口」、後の「番町」である。前の電停からは200m程離れた、今日の岡山中央小学校の西端前辺りと思われるところだ。開業当時、ここには弘西小学校が有った。妙応寺境内に前身の...番町線の終点(岡山市内路面電車・番町線)

  • 鶴見橋(岡山市内路面電車・番町線)

    廃止された「番町線」の次の電停「後楽園口」は、現在の弓之町東付近に有った。ここは文字通り「岡山後楽園」の入口に一番近く、最寄り駅である。岡山後楽園を訪れる客は、ここで路面電車を降り、旭川の堤防に向け緩く上る道を辿ることになる。この道が現在の後楽園通りだ。坂を登ると途中左手に、黒い焼き杉の外壁に、白い虫籠窓が映える和風の建物が見えてくる。明治期に建てられた「旧福岡醤油」(地上2階地下1階建)で、戦災で焼失を免れた数少ない建物の一つだ。廃業後暫く放置されたままであったが、近年「福岡醤油ギャラリー」に生まれ変わっている。その先で旭川に架かる橋を渡ると、正面に「岡山後楽園」の森が見えてくる。後楽園が築園された当初は、ここには藩士が御用で利用するだけの簡単な仮橋が架けられていた。元々藩主は、園を利用する場合、お城から旭川...鶴見橋(岡山市内路面電車・番町線)

  • 天神山の守り神  (岡山市内路面電車・番町線)

    番町線沿線のその西側一帯は、小高い丘で有る。嘗て天神社が有り天満山と言ったが、江戸時代には天神山と呼ばれるようになった。現在、「土光敏夫先生記念苑」や「オリエント美術館」、「県立美術館」が建つ辺りである。天神山は、東から北を回り西側にかけて、円弧状の堀で囲われていた。これが城の中堀で、この内側には三重の内堀が、外側には外堀が掘られ、岡山城は五重の堀に囲また堅固な城であった。この堀は明治14(1881)年に埋め立てられている。現在「土光敏夫先生記念苑」と言う公園で、石垣の遺構が残っている。公園の南方が天神山の南裾に当たる部分で、「オリエント美術館」の西隣には、赤い鳥居の建つ「甚九郎稲荷」の小さな祠がある。祭神は白狐で、今でもこの町内の守り神になっているという。由来書きによると『宇喜多家再興の為岡山に潜入した佐久間...天神山の守り神(岡山市内路面電車・番町線)

  • 城下筋 (岡山市内路面電車・番町線)

    今日、路面電車・番町線が走った痕跡は、どこにも無く、何も残されてはいない。岡山駅前から直進し、城下で左折すると、中央に緑豊かな緑地帯を有する、片側2車線の「城下筋」と呼ばれる大通りに出る。「岡山カルチャーゾーン」を貫くメインストリートであるが、その昔は道の中央に路面電車の単線軌道が敷かれていた。通りを北進すると、「岡山オリエント美術館」が見えてくる。昭和54(1979)年に、「県会議事堂」「東警察署」の有った跡地に建てられたものだ。番町線の最寄りで言えば、「石関町」ではと思われる。次の「出石町(県庁前)」には、かつて県庁があったが、戦災で焼失し跡地には、昭和62(1987)年に開館した「県立美術館」がその偉容を誇り建っている。隣には、昭和37(1962)年に「天神山文化プラザ」の前身、「県総合文化センター」が開...城下筋(岡山市内路面電車・番町線)

  • 番町線の環状化計画(岡山市内路面電車・番町線)

    「万町」は、岡山駅北方の構内線路敷きから、現在の新幹線の高架下(現在の岩田町と奉還町が隣接する)一帯らしい。嘗ては旧山陽道(西国街道)の「万町口」と呼ばれ、城下では最大級の柱間3.3mの惣門と番小屋、常夜灯が立ち、城下町の西入口とされた場所である。この辺りには明治31(1898)年に、中国鉄道により開通した津山線の岡山市駅が有った。鉄道は後に国鉄津山線となるが、開業の6年後には国鉄岡山駅まで延伸し、乗り入れている。番町線が後楽園口まで開業した当時は、既に岡山市駅は存在していないが、番町線の環状化計画はかなり早い段階で立てられており、この駅との接続も考慮しての経由地で有ったようだ。創業当初の計画では、番町線の環状化は番町から西進、山陽鉄道の線路に突き当たり南に折れ、線路伝いに岡山駅に到る。ほかにも、内山下支線を京...番町線の環状化計画(岡山市内路面電車・番町線)

  • 番町線の廃止 (岡山市内路面電車・番町線)

    社債20万円を公募して、開業に到った番町線の当初計画は、この先「万町」を経由して岡山駅に戻る環状化である。しかし、軌道敷は「番町」の電停の先で途切れたままの、取敢えずの先行開業で有った。それでも沿線には、官公庁や学校等も多く立地し、まずまずの滑り出しのようだ。しかし路線が短く収益も思うに任せず、加えて資金も集まらず、環状化の計画は中々進まなかった。資金難で計画が日の目を見ない内にやがて大きな災厄を迎える事になる。岡山市街地は、第二次大戦の空襲で殆どが焼き尽くされてしまったのだ。沿線の架線柱はほぼ全焼した。天神山地区に立地する各施設も例外ではなく焼け落ちてしまった。その為戦後になると各施設は、新天地を求め、各々が移転・再建されることとなり当地からは去って行き、結果路面電車の需要は激減した。加えて戦後の市街地復興の...番町線の廃止(岡山市内路面電車・番町線)

  • 番町線の電停 (岡山市内路面電車・番町線)

    新しく開通した、番町線の電停(路面電車の停留所)は、「御城下」を出ると「石関町」、「出石町」、「弓之町」と続き、この先で進路を西に変え、「憲兵隊前」から「七番町口」に到り終点となる。城下からは、僅か900m余りの新線であった。天神山には県庁が有り、電停も当初の「出石町」から後に「県庁前」に変更された。その県庁は、昭和20(1945)年6月の岡山空襲で、焼夷弾を受けて焼失した。戦後に成り岡山城近くの現在地に移転再建されるのは、昭和32(1957)年の事で、これは47都道府県の中では最も遅い再建で、請け負ったのは竹中工務店である。これにより「県庁前」電停は、今度は「岡山神社前」と呼ばれた。県庁跡地には後に、岡山県総合文化センター、今日の天神山文化プラザが建てられている。設計したのは、新県庁舎も手がけた建築家・前川國...番町線の電停(岡山市内路面電車・番町線)

  • 天神山辺り (岡山市内路面電車・番町線)

    今日の城下筋に番町線の路面電車が走り出したのは、大正10(1921)年の事だ。内山下分岐(現城下交差点辺り)を折れ後楽園の森を右に見て北上する。電停は、「石関町」、「出石町」と続くが、今日のオリエント美術館や県立美術館、岡山神社のある辺りらしい。当時ここには、「岡山県農工銀行」(後の日本勧業銀行)のビルや、岡山電気軌道(岡電)の本社が有り車庫もつくられた。この辺りは岡山市の中心地域で、有力な個人商店も立地していたらしい。余談に成るが、近くには、石造り三階建ての建物が威容を誇る「本郷金物店」が有った。昭和の時代大映の映画やテレビのドラマ等で活躍したスター・本郷巧次郎の実家である。天神山は、昔から岡山平野に聳え立つ三つの丘の一つで、丁度この辺り一帯の地域を指す。ここは当時の官庁街、文教地区で、県庁や県会議事堂、裁判...天神山辺り(岡山市内路面電車・番町線)

  • 路面電車の開通 (岡山市内路面電車・番町線)

    日本で最初の路面電車が実用化され、営業を始めたのは京都市である。明治28(1895)年に、琵琶湖疎水で発電する電力を引いて、七条停車場前から伏見下油掛の間に開通した。遅れること17年、岡山にも待望の路面電車が、岡山電気軌道(岡電)により開通した。明治45(1912)年5月に内山下(うちさんげ)線の岡山駅前~内山下分岐(現在の城下交差点辺り)間(910m)である。同時に内山下支線の内山下分岐~後楽園口間(448m)も営業を始め、更に大正10(1921)年には、内山下分岐から後楽園口の路線は番町まで延伸され、番町線が開通した。一方その後内山下線は、西大寺町まで延伸され、今日の東山線の一部が開通した。その2年後には、西大寺町から旭東地域の東山に至る路線が旭東線として開通し、今日の東山線が全通した。これは旭川に架かる京...路面電車の開通(岡山市内路面電車・番町線)

  • 晴れの国の根拠 (岡山市内路面電車・番町線)

    岡山県のキャッチコピーは、「晴れの国岡山」である。その根拠は「日の降水量1ミリ未満の日数」が276.8日で、全国一多いというもので、平成元(1989)年から使われている。加えて、「晴れの日が多い」「瀬戸内の温暖な気候で災害が少ない」「緑豊かな自然」、「おいしいものが沢山ある」など、観光客誘引の施策には必ず用いられるフレーズが幾つもある。ところがキャッチコピーの根拠として、比較に使われてきた気象データの平年値が、近々全国的に変更される事となった。気象庁の発表によれば、今年の5月19日からは、現行1981~2010年が10年分ずれて、1991~2020年の30年間の数値に変更されるのだそうだ。そこで気になるのが、その根拠が揺らぎはしないか?と言うことだ。県関係者の中では根拠が変動するのでは、と危惧する者もいるとか、...晴れの国の根拠(岡山市内路面電車・番町線)

  • 観光資源 (岡山市内路面電車・番町線)

    岡山には、観光資源が乏しいと、自虐的に語られることがある。県内には全国的に知名度も高い、サワラや牡蠣、白桃やマスカットなど、海の幸も、山の幸も豊富で多彩、どれも美味しい物が沢山有る。しかし、観光的な施設で言えば、大型の滞在型施設や大規模な遊園地・観光地が少なく、全国的には知名度も低く人気がないかららしい。観光客は来岡しても、多くは宿泊せず早々に立ち去ってしまうとよく言われている。有る統計調査によると、7割以上が日帰りの観光客らしい。だが県内には、倉敷美観地区を初め、鷲羽山や瀬戸内海、瀬戸大橋の景観、西の軽井沢・蒜山高原や、鄙びた美作三湯(湯の郷・奥津・湯原の各温泉郷)、桜の名所・津山の城址公園、新庄宿や旧出雲街道沿いの各宿場町の古い町並み、桃太郎伝説の浪漫溢れる吉備路、巨大な古墳群等など、決して資源が乏しいわけ...観光資源(岡山市内路面電車・番町線)

  • 岡山カルチャーゾーン  (岡山市内路面電車・番町線)

    市内電車を「城下」で降り、東に向け烏城道を緩やかに上れば旭川畔の石山公園に出る。岡山城の本丸が有ったのがこの石山で、所謂「丸の内」で、周辺には城の遺構である石垣なども残されている。右手には、「岡山市民会館」があり、その奥に「岡山城」を、左手正面の旭川の緩やかな流れ越しには「岡山後楽園」の深緑の森が見える。近くには、能装束コレクションで知られる「林原美術館」や、「県庁」、「県立図書館」等が立地している。川沿いの遊歩道を北に辿り、鶴見橋を渡り直進すれば後楽園の入口で、正門前には県の文化財を中心に展示する「県立博物館」がある。鶴見橋を渡り、左にとって逢来橋を渡ると目の前に大正ロマンあふれる竹下夢二所縁の「夢二郷土美術館」が見えてくる。再び城下の電停に戻り、コンサートホール「岡山シンフォニービル」の円筒形の建物を見て、...岡山カルチャーゾーン(岡山市内路面電車・番町線)

  • 御城下 (岡山市内路面電車・番町線)

    路面電車・東山線は、岡山駅前から5分ほどで「城下」に到着する。この辺りは石山と呼ばれた小高い丘の裾にあたる場所で、嘗てはそのものズバリ、「御城下」と呼ばれた電停で、一時「表町入口」と呼ばれた時期もあった。岡山城や岡山後楽園には一番近い最寄り駅で、何れも歩いて10分ほどの距離である。旭川の河口部に開けた岡山平野には、岡山・石山・天神山という三つの丘が聳えていた。16世紀頃には、この石山には国人の金光氏が城を築き本拠としていた。しかし当時この辺りは、まだ貧しい農家が散在するだけの辺鄙で寂しい地であったらしい。後に、備中国への勢力の拡大を目指す宇喜多直家は、本拠を沼城から石山に移すこととなる。ところがこの時代は、家臣達の領地への執着が強く、城下への集住は進まなかったと言う。城下町の本格的な建設は、直家の子の秀家の時代...御城下(岡山市内路面電車・番町線)

  • 旧内山下線 (岡山市内路面電車・番町線)

    昭和初期の頃の岡山市街地図を見ると、駅前から城下に至る間の路面電車には、電停(電車の停留所)が今以上に多く有った事が解る。駅前を出ると次は、「取引所前」の電停が有ったが、距離にして200mにも満たない場所である。現在、商業施設「ICOTNICOT」が建つ反対側辺りと思われる地に、「米取引所」が有ったからだ。この次が「西川」、現在の「西川緑道公園」である。市内を南北に流れる西川は、元々は江戸・慶長年間に開削された農業用水である。緑豊かな都市環境の創出をテーマに、昭和49年から10年近い歳月を重ね、総延長2.4㎞の「市街地の中の緑の回廊」、緑道公園として整備された。現在の東山線は、「西川緑道公園」を出ると、次は「城下」である。この間は直線で、1㎞に満たない距離であるが、当時はここに、「野田屋町」、「柳川」、「中山下...旧内山下線(岡山市内路面電車・番町線)

  • 岡山電気軌道・路面電車(岡山市内路面電車・番町線)

    JR岡山駅に降り立つと、真っ直ぐ東に向け、市のメインストリート「桃太郎大通り」が延びていて、この広い通りの真ん中を、路面電車が走っている。明治45(1912)年の内山下線の初運行以来既に100年を越えた、地元では「岡電(オカデン)」と呼び親しまれている市内電車で、市内に二系統運行している。岡山駅前を出ると直ぐに西川緑道公園、更に次が柳川の大きな交差点で、ここで線路は東向きと南向きに分岐する。そのまま直進し終点の東山に至る路線が東山線(3.0㎞)、南に進路を変え清輝橋に至るのが清輝橋線(2.1㎞)で、何れも始点は岡山駅前である。嘗ては多くの町中で見かけた路面電車、所謂チンチン電車も、モータリゼーションの影響で、多くの市内からその姿を消す、或は路線が縮小される等してから既に久しい。今日では全国的にも珍しい存在で、運...岡山電気軌道・路面電車(岡山市内路面電車・番町線)

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