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JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。
八幡を抜ける東海道は、本来は木津川の堤防上(現在の府道13号) の道を西進するのが正しいようだ。 そんな堤防上の道の途中左側に、樹齢千年という楠の木の大木があっ たらしい。昔の街道は御幸橋北詰付近から、この楠の木の辺りまで真っ 直ぐな道で繋がっていたと言う。 とはいえ、当時は川もまだ幾つかに分流し、流れも定まってはいず、 このような巨大で堅固な堤防ではなかった筈だ。 僅かばかりの盛り土で、その上に街道が通され、それに沿って橋本の 町並みが続いていたのでは、などと当時の情景を思い描いてみる。 奥ノ町から西山本に入る辺りで府道13号から派生した道が一本、堤防 下に下りている。橋本の町に入ると大谷川…
八幡には三大偉人と称えられる人物がいる。 一人は石清水八幡宮の社僧・松花堂昭乗で、四つ切り箱の「松花堂弁当」 でも知られる人物で、当地には松花堂庭園もある。 二人目は発明王エジソンで、八幡の竹を世界に知らしめた恩人である。 三人目が世界で最も早く飛行原理を発明した二宮忠八だ。 彼は木津川の河川敷で飛行実験を計画した。 街道が奥ノ町に入ると途中に「二宮忠八飛行器工作所跡」の案内板が 立っていた。忠八は、慶應2(1866)年、愛媛県の八幡浜市で、商家の 四男として誕生している。 事業に失敗した父を12歳の時に亡くし、困窮した家計を助けるため、 様々な場所で働く傍ら、自らが考案した凧を売り、収入の足…
八幡科手の交差点をそのまま真っ直ぐに進むと京阪本線の「石清水八 幡宮」駅である。駅には男山にある八幡宮上院に向かうケーブル駅が併 設されていて、多くの参拝客はこれを利用するという。 しかし一の鳥居が立つ麓の「頓宮」から、二の鳥居を潜り、男山の登 山道を上るのが表参道で、これが正式な参詣道とされている。 八幡宮は、古は「男山八幡宮」とも呼ばれ、桂川、宇治川、木津川の 三川が合流し淀川となる地に鎮座し日本三大八幡宮の一つとされ、伊勢 神宮に次ぐ国家第二の宗廟と言われる。 八幡は京と難波を結び、天王山と対峙する交通の要衝地で、男山は平 安京の裏鬼門に当り、この八幡宮は都を守る神社として知られている。…
八幡(やわた)は、京都府の南部に位置する人口7万人ほどの小さな 市である。昔から北側には桂川、宇治川、木津川の三川が流れ、水害の 生じやすい低湿地で有ったが、近年川の付け替え工事、護岸堤防、背割 り堤防等の工事により対策がすすんだ。 三川はこの地で大きく湾曲し、市の西側で合流し、淀川と名を変えて 南に下っていく。このため八幡は三川合流の町としても知られている。 その川に架かる淀川御幸橋を渡り、背割り堤防にある「さくらであい 館」で小休止をし、更に木津川御幸橋を渡って坂を下る。 旧京阪国道八幡科手交差点の角に、ポケットパークが整備されている。 「茶文化薫るはちまんさんの門前町 八幡市へ ようこそ…
淀川御幸橋の上からも、見慣れない塔と黒瓦葺きの大きな建物がよく 見えていた。何だろうと訝かりながら橋を渡ると、宇治川と木津川との 中間、背割り堤の左側に「さくらであい館」と言う新しい施設が出来て いた。以前来た時には見られなかったものだ。 「宇治川・木津川・桂川が合流する三川合流地域の地域間交流や地域 振興、観光周遊の拠点として人・物・情報が出会う、活気あふれるスペ ース」(HPより)として、平成29(2017)年春にオープンした。 数ある淀川河川公園の内の一つで、地域のランドマークである。正確 には「淀川公園 背割堤サービスセンター さくらであい館」と言う。 年末年始以外は無休で、9時から1…
府道13号線(旧国道1号線)を左カーブで、宇治川に架かる淀川御 幸橋(266m)を渡る。何年か前、京都の羅城門跡を背に、東高野街道 を歩いてこの地までやって来た事があるが、その時もこの橋を渡った。 それ以来の再訪だ。 既に正面にはどっかと居座る男山(鳩ケ峰143m)が見えている。 中腹のこんもりと茂る木立の間には、「石清水八幡宮」の大屋根も認め られる。八幡の町はこの神社の門前町で、この男山の山頂には上院が、 麓に下院が鎮座している。 左側には、京滋バイパスの石清水大橋が、やや上りながら左カーブで 通されている。更にその奥少し低い位置を、京阪本線が宇治川を跨いで いて、時折電車がガードを渡る音…
予定よりも大幅に遅れたまま、淀宿跡と思われる地区を抜け、文相寺 の前で再び旧道に出て西を目指す。 この辺り城下町時代の寺町の名残か、近くに大専寺がありこの先には、 長円寺、東雲寺、心鏡寺、西岸寺などが甍を連ねていてそんな町中を抜 けていく。 やがて街道の右側には、京阪電鉄の淀車両基地が見えてくる。 敷地面積94,800㎡、車両収容能力は320両といい、同社の中では寝屋川 車庫に次ぐ規模の車両基地らしい。 旧街道沿いに展開する「京阪淀ロジスティクスヤード(物流倉庫?)」 の敷地も、元々は基地拡張用地らしい。 道筋から人家は乏しくなり、左に田畑を見て、右の金網フェンス越 しには車輌基地を見ながら進…
思わぬ遠回りを余儀なくされ、予定よりも1時間半ほども淀への到着 が遅れてしまった。 京阪本線の淀駅近くで、昔ながらの喫茶店を見つけ、常連らしい客た ちの紫煙にまみれながらようやく遅い昼食に有り付いて、早々に腹に流 し込み、再び旧街道を歩き始める。 京阪本線淀駅のガード下を抜け、伏見消防署の前で道なりに右カーブ し南に向う。郵便局の先の淀下津町の角を右折、住宅地に入り込み更に 100m程で左折、同じ距離を歩いて左折すると突き当りが文相寺でそこ を右折すると元来た道に戻る。 ガイド本や資料によっては、この辺りを淀宿の中心として表記してい るものが有ったが、通りは閑静な住宅地で、旧宿場町の面影はどこ…
京街道や鳥羽街道の結節点でもあり、川湊が開かれた淀の納所は京の 南の玄関口である。古くから軍事的な要衝で、室町時代には既に砦(城) が築かれていて、重要な場所との位置づけである。 本能寺の変後、山崎の戦いでは一時明智光秀側が砦として使用している。 秀吉の時代には、宇治川右岸に淀古城が築かれ淀殿(浅井茶々)が入 城している。更に徳川家康・秀忠の時代には、廃藩となった伏見藩に変 わり、山城国・淀藩が立藩され、松平定綱により宇治川と木津川の合流 地に淀新城が造られ、以後永井家、石川家、戸田家、松平家と藩主は代 変わりをしてきた。 享保年間に稲葉氏が10代目の城主になると以降幕末まで続く事になる。 稲…
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