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バスや鉄道のことそして生活のこと 遊びに旅行に暮らしに見たまま思ったままに。

JR営業線乗潰しの旅、四国歩き遍路の旅、東海道の歩き旅を中心に生活で毎日見たこと感じたことを投稿しています。

修ちゃん
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2010/04/02

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  • 草津宿本陣(東海道歩き旅・近江の国)

    京に向う東海道は「草津追分け」を左に曲がる。そこは会社・事務所、商店や食事処に、アパートやマンションが渾然と建ち並ぶ繁華な通りである。余広くない道ながら多くの車が行き交い、地元の人のみならず観光と思える人の群れも見られる賑やかな道だ。東海道の旧宿場町というよりは、華やかな商店街筋の様相である。「近江路や秋の草つはなのみして花咲くのべぞ何処ともなき覧富士記」公民館前に、「尭孝(ぎょうこう)法師歌碑」が立っている。「将軍のお供で、富士を見に行く途中、秋の近江路を草津まで来たが、草津とは名ばかり、草花が美しい野辺を想像していただけに心寂しい思いがする」との意味らしい。斜め先に「田中中七左衛門本陣」、別名「木屋本陣」(当主が材木商を営んでいた)が残り、草津宿本陣として有料で一般公開されている。敷地は4727平方メ...草津宿本陣(東海道歩き旅・近江の国)

  • 草津宿の追分け(東海道歩き旅・近江の国)

    東の見附から500m程、ゆるく下っていくとT字路に行きあたる。東海道はここを直角に左に曲り東に向かうが、右手に取り北方向に向かえば中山道に入りその起点である。江戸日本橋まで、中山道経由で128里30町7間(約505.9㎞)、東海道経由なら118里3町(約463.7㎞)の草津の追分けである。昔は京から東海道を下り草津宿に入ると、正面の草津川で行き止まる。中山道を行く旅人は、ここで川の土手を登り、板橋で川を越え、「京発守山泊り」と言われた次の宿場・守山を目指していた。川の土手の下に木製の道標が立っていて、「草津宿高札場」と書かれている。ここは嘗ての追分けの高札場であり、高札が復元されている。今日T字路の右に見えるトンネルは、「草津川トンネル」である。「中山道筋草津川ずい道」として、工事費7368円14銭9厘で...草津宿の追分け(東海道歩き旅・近江の国)

  • 草津宿(東海道歩き旅・近江の国)

    旧東海道は草津川渡り、堤防下の道に入り、東海道52番目草津の宿場町に入ってきた。旧道らしい趣のある通りで、左程古くはなさそうだが、平入りの格子のある町屋等が幾らか見受けられる。旧道沿いの家跡や家屋の玄関先には嘗ての家号「茶碗屋茶碗屋民蔵」「博労うおヤ弥七」「通り水屋平井屋孫八」「油屋油屋留八」「旅籠昆布屋徳右衛門」「材木商木屋忠蔵」などと書かれた札が掲げられているが、遺構は何も見ることが出来ない。東海道と中山道の追分けでもある草津宿は、「客舎、茶店多し」と言われていた。先程の草津川入口が東の見附でその先、東横町、西横町1丁目~6丁目、宮町と続き、西方の矢倉村との境の西の見附までの間、11町53間半(凡そ1.3㎞)に渡る町並だ。宿場としては、可成りの規模を誇っていたらしい。宿内の人口は2350人を越えている...草津宿(東海道歩き旅・近江の国)

  • 横町の道標、常夜灯(東海道歩き旅・近江の国)

    草津宿橋を渡り、旧草津川の堤防上に設けられたアスファルト道を進むと平地化した跡地公園で、更に進むと公園の有料駐車場に突当たる。前方には駅前に屹立する、大きなビルが何本も臨まれる。このまま公園内の遊歩道を進めば、草津の中心街、駅前に至るが、旧東海道は左に取りこの堤防を下りる。その左側の降り口に近い旧堤防上と思われるところに、「高野地蔵尊」の地蔵堂がある。傍らの石柱には「昭和10年」の日付が入れられているが、他に説明がないのでどんな曰くでこの地に残されたお堂なのかは分からない。何となく場所がそぐわない、唐突に置かれた祠のような感がする。その近くの少し高くなったところに横町の道標、火袋付きの大きな常夜灯が立っている。文化13(1816)年に建立されたものだ。土台の石柱には、「右金勝寺志がらき道」「左東海道いせ道...横町の道標、常夜灯(東海道歩き旅・近江の国)

  • 草津宿橋(東海道歩き旅・近江の国)

    国道1号線の手前で、左の堤防に上がり、国道と旧草津川を越える。国道上の東海道には、平成31(2019)年に真新しい「草津宿橋」が架けられている。嘗てこの下には、天井川を潜る国道の「草津川隧道」があった場所だ。昭和11(1936)年、堤防から10m程低い川床に、延長53.1m、高さ4.7m、幅9.5mの隧道が造られ、単線並列通行が行なわれていて、当時はまだトンネルの上には旧草津川が流れていた。その後の交通量の増加に伴い、昭和41(1966)年には道路の拡幅工事と共に、長さ56.0mの「第二草津川トンネル」が開通した。治水対策として天井川の解消が事業化され、新しい草津川放水路が掘られることになる。完成後旧草津川は廃川となり、川跡が平地化され、緑地や公園へ転用が進んだ。加えて「草津川隧道」は道路構造上の基準を満...草津宿橋(東海道歩き旅・近江の国)

  • 草津川(東海道歩き旅・近江の国)

    街道筋には、アパートやマンションも増え、草津市に入ってきた。余り広くはない旧道には行き交う車が増え、はや前方には中心市街地の高層ビルも見えている。左手は、廃川となった旧草津川の堤防だ。草津市を流れる草津川は、大津市南東部の鶏冠山(標高491m)西麓を源流として、琵琶湖に流れ下る淀川水系の一級河川である。江戸時代中期の頃より天井川が形成され始めたらしく、明治には川底に国道のトンネルが通されていることから、短期間の内に一気に形成されたものと考えられている。これまで見てきた天井川は、都で社寺の造営が急速に進み、大量の樹木を伐採したため、土砂の流出が進み、天井川化したとの説明を目にしてきた。しかし、草津川流域は元々風化した花崗岩地で、大雨の度に多量に土砂が流出したらしく、若干事情は異なるようだ。とは言え堤内地盤か...草津川(東海道歩き旅・近江の国)

  • 牛馬養生所跡 (東海道歩き旅・近江の国)

    鈴鹿峠(標高378m)を超えてからの近江路は、土山、水口、石部と宿を重ねる毎に標高が少しずつ下がり、この辺りが100m前後で有る。ここからは、草津宿を目指し、更に標高は下って行く。東海道は旧岡村で草津川に行く手を阻まれ右に折れ、この先は旧草津川に沿って進む。やや西北寄りに進路を変え、250m程で新幹線の高架を潜ると、道は緩やかな下りだ。「従是東膳所領」の領界石辺りで旧小柿村に入る。住宅地の前に「史跡牛馬養生所跡」の石碑が立っている。使役として使われなく成った牛馬が残酷に殺処分される様子を見かねた庄屋さんが、天保12(1841)年ここに、老牛馬が余生を過ごせる場所をつくったという。「この施設は和邇村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和邇村の牛上で老廃牛馬の打ちはぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛...牛馬養生所跡(東海道歩き旅・近江の国)

  • 立場・目川の里 (東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は金勝川(草津川の支流)に突き当り、右に曲がり、川に沿ってその先で左に曲がり込むと、目川の集落に入っていく。目川は「上り下り立場」で、旅の必需品を売る店が沢山軒を連ねていた。中でも「ひょうたん」は、酒やお茶・水を入れる容器として人気商品であった。地元農家の副業的な地場産業として、その需要は明治に入るまで続いたと言う。街道筋にも、目川のひょうたん直売所が有り、大小様々な形をした可愛らしいひょうたんが店先で売られていた。ひょうたんは、二つとして同じ形がないのが特長という。道辺に「(右方向)東海道(左方向)中郡街道」と刻まれた石の道標が立っている。東海道は右に折れるが、左に取れば金勝川に沿って、石部までは1里24町26間(約6.6㎞)だ。今日のの県道川辺―御園線の起点である。横には、川辺灰塚山古墳群の説明...立場・目川の里(東海道歩き旅・近江の国)

  • 川辺・善性寺 (東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は、鈎里(まがり)集落に入ってきた。上鈎池の西側土手下の公園に、「九代将軍足利義尚公鈎の陣所ゆかりの地」の大きな自然石の碑が建てられていた。周囲には、歌人だった義尚の何首かの和歌を刻んだ石碑も並んでいる。応仁の乱後、衰退気味の幕府権力を回復させようと、隣国近江で幕府の所領を横取りしていた六角高頼を討伐するため近江に出陣した。池の300m程西の永正寺付近(諸説有り)に布陣したが義尚は、この陣所で25歳の若さで病没した。上鈎から葉山川橋を渡り、川辺(かわづら)集落に入ってきた。葉山川は琵琶湖に注ぐ一級河川で、滋賀県には多い天井川の一つである。天井川は一度氾濫すると、周辺に唯ならぬ災害をもたらすため、治水対策で川床の掘り下げ、川幅の拡張等、河川改修工事が行なわれていた。その先に、慶安2(1649)年開基の...川辺・善性寺(東海道歩き旅・近江の国)

  • 手孕村の稲荷神社 (東海道歩き旅・近江の国)

    十字路の角に、鬱蒼とした森に赤い柵を巡らした稲荷神社が鎮座していた。境内の街道に面した場所には、石碑や石柱、手型のモニュメント等が所狭しと列を成している。ここは「厚進学校跡」地らしく、明治8年に創設されて以降の学校沿革が記され、傍らに往時を偲ぶ門柱が立てられている。更にその先には、「明治天皇手原御小休所」の石柱も見られる、その横に手の形をした「手孕ベンチ」が置かれて居る。『伝説が歌舞伎「源平布引滝」に・・・子供を守るため産んだのは手だけだと偽り助けた。(源平の戦いで有名な後の木曽義仲)子どもを守り育てるベンチ(物語は手原駅舎及びモニュメントを参照)』と刻まれている。嘗て村の何某が若妻を友人に預け旅に出たところ、その友人は「夜は女の腹の上に手を置きて守りしに、女孕みて十月と言うに、手一つ生みけり」との話が伝...手孕村の稲荷神社(東海道歩き旅・近江の国)

  • 手原の古い建物 (東海道歩き旅・近江の国)

    旧和中散本舗大角家住宅を背に市道(?県道)に出るとその合流地点に、ポケットパークが有った。この辺りは、信楽が近いせいか、タヌキの置物などが飾られている。園内に、栗東八景「積日の海道と城跡(新緑の日向山と和中散)」の看板が立っている。和中散屋敷の「大角氏庭園」は、小堀遠州作の池泉式庭園で、国の指定名勝となっている。日向山(222.9m)を借景とした庭の眺めは趣があり、平成の栗東八景の一つとされている。そこから少し行くと「東海道一里塚」の石碑が建ち、側には、「和中散の町六地蔵/東へ到石部の宿」等と彫られている。この先の名神高速道路へのアプローチ道を潜る当りから、街道は小野村から手原村に入っていくが、その少し手前に「五葉の松」と書かれた札が貼られていた。どの松のことか、良く分からなかった。その少し先の西巌寺の門...手原の古い建物(東海道歩き旅・近江の国)

  • 旧和中散本舗大角家住宅(東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は六地蔵村から梅木村に入る。旧家の残る長閑な旧道を、国宝六地蔵から160m程歩いて来た。すると左手に間口の広い豪華な商家の建物が見えてくる。屋根の上部は本瓦葺き、下部は棧瓦葺きの二段構えで、両端には防火用の卯建壁が上がる重厚な造りである。江戸時代に「和中散」を売る「ぜさいや」本舗の本家・是齋(ぜさい)として栄えた、重要文化財の「旧和中散本舗大角家住宅」だ。上り下り立場の六地蔵村に続く梅木村は、石部と草津の中間に位置し、間の宿として栄えていた。本家は参勤交代の大名達の小休息所となり、茶屋本陣も兼ねていた。当時「梅の木和中散」を名乗る店は、近隣に5軒ほどあったと言うが、その内今に残る一軒が当家である。そう言えば六地蔵近くでも、「東海道六地蔵村和中散屋ぜさい東店大角重蔵」の家号札を目にしている。東海道を行...旧和中散本舗大角家住宅(東海道歩き旅・近江の国)

  • 六地蔵 (東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は、林村に入り、その先上野村から、六地蔵村を抜けていく。旧街道らしく行き交う車は少なく静かで、何となく懐かしさを感じる家並みが続いている。所々で軒の低い白壁の民家を目にするが、門口には「甘酒屋」「人力屋」等と旧家号の書かれた小さな札が貼り付けてある。林の長徳寺・薬師如来堂の前に、栗太八景詩碑の内の一つ、「上野夜雨(かみののやう)」の碑がある。詩碑には「茅屋は寂寥なり上野の郷村前と村後には雨声長し陰晴定難し雲来りて去る是疑い今宵月光を尋ねん」と書かれている。すぐ横に古い領堺石が立っていて、「従是東膳所」と刻まれている。先に常夜灯と共に「新善光寺道」と刻まれた大きな石柱が立っている。ここから北に、草津線の線路を越えて300m程入った所にある、浄土宗鎮西派のお寺を案内する道標である。鎌倉時代中期、当地に住...六地蔵(東海道歩き旅・近江の国)

  • 伊勢落 (東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は名神高速道路の高架を潜ると、甲賀市から栗東市に入る。最初の集落を「伊勢落」と書いて読みもそのものズバリ、「いせおち」と読み、「生涯学習都市」を宣言したまちだ。古代当地には、東海道を下り伊勢へと向かう斎宮の禊場があったとの伝承があるが、これが地名の謂れでもないらし。何だか曰くありげな地名だが、その謂れは良く分からないらしく、混沌としている。集落の中程に「栗太八景伊勢落晴嵐」と書かれた石碑が建っていた。「梅痩せ柳疎にて柴扉鎖す簷外は半ば晴れ野草肥ゆ山色の末分の雲気は晴れ一声鳥啼き霧破りて飛ぶ寛延三年十二月素月作」と彫られている。これは、栗太八景詩碑の内の一つで、他にも松島秋月(大橋の慶崇寺)、金山暮雪(大橋の三輪神社境内)、上野夜雨(旧東海道筋林)、砥山夕照(北山の上池)、赤坂帰樵(小野の赤坂公園)、...伊勢落(東海道歩き旅・近江の国)

  • 石部の金吉 (東海道歩き旅・近江の国)

    石部を出るとやや北寄りに、右手奥に石部駅を見ながらゆるく曲がって西に向かう。嘗てこの辺りは「西縄手」と呼ばれ、松並木の続く道であったが、今松は何所にもなく、町名に往時を偲ぶだけだ。国道1号線を越える手前で左に折れるのが本街道「上道」で、直進するのは「下道」だ。ここは野洲川まで山塊が押し出したような狭隘の地である。度々の氾濫で道が荒れ、山側に迂回道がつくられ途中には、茶屋(五軒茶屋)も設けられた。しかし、上道は距離が倍となり評判が悪く、後には下道が整備され本街道と成った。今では、草津線と平行し進み、先で名神高速道路の高架を潜る。横を流れる宮川は、ホタルが飛び交うらしい。「江州石部宿の駅西の入口の山にあり、新道三軒茶屋(五軒茶屋)という村の山也、色白くやわらかにして塊をなす、刻めば白粉となる。真の石灰のごとし...石部の金吉(東海道歩き旅・近江の国)

  • 西の防御(東海道歩き旅・近江の国)

    宿場の両入口「見附」に土手を築くのは、宿内が見通せないようにする為である。街道を鍵曲がりにするのも、見通しを悪くするのが目的で、岡崎宿のような二十七曲がりは極端だが、宿場内を何度も曲げるのは決して珍しくは無かった。宿内の街道を横切る間道は、決して十字に交差せず、筋違いに通す。見附の土手や曲がりくねった道は、見通しを悪くすると同時に、大勢が一気になだれ込まないようにする工夫である。これらは何れも宿場を守る防御的機能で、何所の宿場でも大なり小なり考えられていた。石部には、享禄年間(1500年代)に建てられた石部城が有った。織田信長との戦いで敗れ落城し、その後廃城となったらしい。その名残なのか、西福寺、蓮乗寺、淨現寺、明清寺、真明寺等、街道筋には矢鱈と寺が多い。宿内の寺は、一朝有事には武者溜まりや戦術上の拠点と...西の防御(東海道歩き旅・近江の国)

  • 谷口長英堂 (東海道歩き旅・近江の国)

    安藤広重は、「東海道五十三次之内石部」として、「目川ノ里」の田楽茶屋「いせや」を描いている。左手に茶店を大きく置き、店先の賑わう様子や、街道を行き交う人々の姿を、後方には藍色に霞む琵琶湖を、その奥には薄墨色で比叡山を描いている。石部宿西端に再現された田楽茶屋では有るが、広重が画いた「目川ノ里」の「目川」は、石部宿よりは更に二里以上も西に離れた地域である。ここには「上り下り立場(休憩場所)」が有り、菜飯と田楽が名物で、「伊勢屋」という茶店があったそうだ。石部宿田楽茶屋の前をそのまま西に進めば、東見附近くの「吉姫神社」とは男神(下社)・女神(上社)対の関係にあたる「吉御子(よしみこ)神社」が鎮座している。東海道はそこには向かわず、ここで右に直角に曲がる。暫く行くと左側に「谷口長英堂」という和菓子屋が有った。大...谷口長英堂(東海道歩き旅・近江の国)

  • 田楽茶屋 (東海道歩き旅・近江の国)

    当地の街道名物は、「菜飯」や豆腐百珍の一種「田楽豆腐」で有った。「菜飯」とはダイコンやカブなどの葉を刻んだ青菜を混ぜて炊き込んだご飯である。また「田楽」とは串に刺した豆腐を焼いて、木の芽みそやゆずみそ、黄味みそ等をつけて頂くものだ。当時宿場には、これらを食べさす「京いせや」「こじまや」「元いせや」の三軒の代表的な茶店が有り「田楽茶屋」と呼ばれていた。そんな店が石部宿外れの西端に、平成14(2002)年になり再現された。旧石部町制百周年記念として、「歴史と文化を後世に伝え、旧東海道を歩く旅人や地域の人々の憩いの場となるように」との思いを込めた事業で有る。当時の茶屋とは比較も出来ないほど立派な木造平屋建てのお食事処として甦っている。加えて店内には、市内の名所や観光スポットを紹介するタッチパネル式観光情報ボック...田楽茶屋(東海道歩き旅・近江の国)

  • ポケットパーク(東海道歩き旅・近江の国)

    石部中央の交差点の角に、ポケットパークがあり、この辺りが嘗ての宿場の中心的な場所らしい。常夜灯風のモニュメントが有り、この辺りに「石部城跡」「高札場跡」「本陣跡」「安民米倉庫」「お半長右衛門」「問屋場跡」「常盤館跡」等の説明板が見える。「安民米倉庫」は、安民米(救済米)を収める倉庫のことだ。植え付け時には食べる米のない百姓に、米一俵を安民米として貸し付け、収穫時には年貢として五升を収める制度のことで、納められた米は教育費に充てられた。「お半長右衛門」と言うのは、若者に言い寄られ困惑する石部の町娘お半(13才)を、京都帯問屋の主、長右衛門(45才)が匿ったことから、二人は恋仲になり結ばれる。ところが長右衛門には妻がいて、その事を苦にしてお半は自殺、それを知った長右衛門も後追い心中を遂げたという、この宿に伝わ...ポケットパーク(東海道歩き旅・近江の国)

  • 石部宿(東海道歩き旅・近江の国)

    「京立ち石部泊まり」京・三条大橋かから大津の間は三里(11.8㎞)、大津から草津の間は三里半六丁(14.4㎞)ある。そして草津から石部までは、二里半十七丁(11.7㎞)、更に石部から水口までは三里半(13.7㎞)ある。当時の人は健脚を誇り、一日に10里(40㎞弱)は歩くと言われていて、京都を朝出発すると、石部には夕方陽が暮れるまでには到着することからこのように言われた。流石に更に水口までは無理で、江戸へ下る旅人の多くは、石部を最初の宿に選んでいた。近江国甲賀郡石部(いしべ)は「後ろの山をいそべの山といふ」と、江戸時代の旅案内にある事から、昔は「いそべ」とも呼ばれていた。宿の成立にも諸説有り、信長の統治下には近隣五か村が統合され、既に「石部町」が形成されていて、何時頃からか定かではないが、今日ではほぼ「いし...石部宿(東海道歩き旅・近江の国)

  • 東の見附(東海道歩き旅・近江の国)

    近江国石部宿は、現在の湖南市に有る。東の甲賀市との市境は国道1号線の泉西交差点辺りで、西は名神高速道路の通る辺りが栗東市との境である。この間10㎞余、旧東海道が市域を貫いている。その為同市では、旧街道を挟んで、道路境界から25mの範囲を「東海道沿道地区」と定め、景観造りに務めている。「百年先にも誇りをもって住み継ぐことのできる美しい景観」「宿場町に暮らす人々の“営み”と“おもてなし”が行きかう人々の心とも響き合う」そんな景観づくりが方針という。柑子袋集落で、南無妙法蓮華経の石柱を見て、上葦穂神社の参道入口を過ぎ、その先で広野川(落合川)を越えると、いよいよ石部宿の東入口見附で、橋から300m程西進した辺りに有ったという。説明によると道路の中央辺りまで迫り出した幅3m、高さ2m程の土塁が築かれ、木戸(所謂枡...東の見附(東海道歩き旅・近江の国)

  • うつくし松(東海道歩き旅・近江の国)

    頻りに「うつくし松」と書かれた案内板を目にするようになった。説明によると、「平松に自生する赤松の変種」らしく、「根から放射状に出て傘を開いたような美しい形の松で、大小二百本が群生している」という。大正10(1921)年、国の天然記念物に指定された松は、南900m程の美松山(227m)の麓にある。当地にいつ頃から見られたのか、その発端は分からないが、「松の葉細く、艶ありて、四時変せず蒼々たり」と言われる松が自生していた。江戸時代には観光名所として、東海道を行き交う旅人も、寄り道をして愛でたらしい。昭和天皇も自生地に御幸されたと伝えられている。松はこの場所にしか無く、「隣山は常の松にして、美松一本も無し」と言われ、他所に移し、鉢植え等にするとすぐに枯れてしまい、どういう訳か、ここでしか育たないらしい。松にはこ...うつくし松(東海道歩き旅・近江の国)

  • 消えた家棟川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

    針公民館の「きづな街道休憩所おやすみ処」を後に、再び街道に出て西に向けて歩を進める。相変わらず旧街道らしい趣のある家並みが続いている。暫く行くと左手に、近江の地酒「御代栄」で知られる北島酒造の白壁の建物が見えてきた。創業が文化2(1805)年、以来14代続く老舗の酒蔵である。嘗てこの辺りの東海道には、大沙川、由良谷川、家棟(やのむね)川の三川の天井川が有り、当時は土手をよじ登り、土橋か徒渡りで浅瀬を渡っていた。明治以降、人馬の円滑な通行の為、街道の整備が進められ、これらの川の下を潜る隧道が掘られた。それが先程潜り抜けてきた二本のトンネルで有る。三川目の家棟川隧道は、明治19(1886)年に築造されたトンネルで、由良川から西に800m程進んだ先にあった。これまでの二川と同型のアーチ型の隧道で、高さ3.64m...消えた家棟川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 針文五郎(東海道歩き旅・近江の国)

    由良谷川隧道を抜けると、「針川村」とも言われた「針村」集落に入って行く。暫く進むと、右手に「針公民館」があり、「ようこそきづな街道(東海道)へ」の看板が掛かっていた。建屋の前が「おやすみ処」となっていて、椅子が置かれ、今時分なのに、ご丁寧にも吸い殻入れまで用意している。施設は旧東海道に面している、三雲・妙感寺・吉永・夏見・針・ルモン甲西・中央・平松・柑子袋の9区で構成される「みくも学区まちづくり協議会」が整備したものだ。平成21年3月に設立されている。東は三雲西は柑子袋まで東西6㎞を、「きずな街道」と名付け、東海道を行き交う人と住人に、心優しいおもてなしのまちづくりをテーマに『きずな』を高める取り組みを進めているという。「おやすみ処」は、大沙川の隧道前有ったが、この先にも一カ所有り、トイレ等が整備されてい...針文五郎(東海道歩き旅・近江の国)

  • 由良谷川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

    天井川の大沙川を過ぎると東海道は、吉永から夏見の集落に入る。嘗ての夏見村は、立場の有ったところで、名物は春から秋にかけて売られる心太であったが今その面影は何所にも見ることが出来ない。旧街道筋らしく、平入りの家並みの続く落ち着いた静かな通りが西に延びている。暫く行くと江戸日本橋から115里地点の「夏見の一里塚跡」がある。左の塚には榎が、右の塚には松が植えられていたらしいが、明治以降の道路拡張や周辺の開発により悉く消滅した。今では道路に埋め込まれた30cm四方程の『夏見一里塚跡』碑で、住宅地に跡地を知るだけだ。大沙川からは1.5km程街道を進むと、前方に二つ目の天井川、由良谷川隧道が見えてくる。上には天井川の由良谷川が流れている。由良谷川は南部の竜王山に源を発し、曲流しながら北に向かい、野洲川に流れ込んでいる...由良谷川隧道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 大沙川の隧道(東海道歩き旅・近江の国)

    「きずな街道休憩所」で暫し身体を休め、猿飛佐助の実在説を知り何とはなく納得し、再び街道に戻る。とすぐ目の前に、立派で頑丈そうなトンネルが現われた。地元では、「吉永のマンポ」と呼び親しまれている、「大沙(おおすな)川の隧道」である。長さ16.4mしかないトンネルの先は明るく出口が開け、向こう側を見通す事が出来る。入口は高さ4.6m、幅4.4m、意匠を凝らした半円のアーチ型で、内部の壁は花崗岩の切石積みで造られている。この短いトンネル上には、大沙川が流れているが、所謂天井川である。説明によると、「奈良時代に石山寺や奈良の仏教寺院の造営が頻りに行なわれると、この辺りの木々が手当たり次第に切り倒されて禿げ山に成ってしまい、大雨の度に土砂が流れ、川底が上がり天井川になった」。「その後東海道が通じたが筋と交差している...大沙川の隧道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 猿飛佐助(東海道歩き旅・近江の国)

    右手にはほぼJR草津線が併走し、その向こう側を野洲川が流れている。反対側は、吉永山など標高数百メートルほどの山並みが続き、間近まで迫っていて旧街道はそれらに挟まれた地をやや頭を北に向けながら進路は西に向けて延びている。旧道らしく広くは無い道幅で、曲がりくねった道が続いている。吉永地区に入るとこの辺りでは至る所で「猿飛佐助のふるさと三雲城址」の幟旗を目にするようになる。道路脇に「吉見神社」の石柱があり、その先右側には、「きずな街道休憩所」があった。三雲城址に登る観光客向けの、休憩時兼駐車場の様な施設だ。壁に貼られた説明によると猿飛佐助は講談や立川文庫の小説、ゲームなどに登場し、真田幸村に仕え、真田十勇士の一人として活躍した。大坂夏の陣で徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ち延びたとされる。架空の忍者との説が...猿飛佐助(東海道歩き旅・近江の国)

  • きずな街道(東海道歩き旅・近江の国)

    旧東海道は嘗ての伊賀領に入り、三雲駅前三叉路の、「微妙大師萬里小路藤房卿墓所」の石碑を見る。民家の建て込む余広くも無い通りを更に行くと、民家の前に立派な自然石の「明治天皇聖跡」が立っている。天皇は大政奉還以後、各地を行幸され、当地では湖南三山の国宝二寺等を廻られたらしく、その行幸記念碑である。その先で、「あらかわ砂川也かりはし廿間ばかり」と言われた荒川を渡る。勿論今は立派のコンクリート橋が架けられている。その道路脇にも「藤房卿墓所」案内の古い石柱が建っていて、寺はここを左に折れ、荒川を遡ったところにあるらしく、駅からは2.4㎞ほどだ。旧街道がJR線を越えるとその踏切脇、右側に広場があり、「きずな街道歴史探訪・史跡巡りマップ」と書かれた看板が見える。「横田の渡し常夜灯」、「天保義民の碑」や、ここから南に50...きずな街道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 国道橋は命がけ(東海道歩き旅・近江の国)

    横田の渡し場跡に橋は無く、今は少し下流に昭和27(1951)年の国道1号線の開通で架けられた橋がある。500m程川に沿って歩き、国道の泉西交差点に迂回し、そこで甲賀市から湖南市に入る。暫く国道を歩き、朝国の交差点で左折し、橋を渡り野洲川を越える。これが失敗であった。先の交差点で歩道橋を渡り、それで国道を越え、更に横断歩道を渡れば橋の下流側には安全な「横田橋側道橋」が設けられていた。それに気付かず、そのまま橋に入り込んでしまったのだが、そこに歩行者の歩道はなく、白線で区切られた僅かな路側帯があるのみで、とても人が歩ける幅はない。後ろから来る車が、直ぐ脇を可成りのスピードで追い越していく。今更向こう側に渡りも出来ず、可成り急ぎ足で、這々の体で橋を渡る。渡り終えたら、本来ならここで左に折れ、横田の渡しの三雲側の...国道橋は命がけ(東海道歩き旅・近江の国)

  • 横田の渡し(東海道歩き旅・近江の国)

    その先で県道を越えると、野洲川の堤防に突き当る。そこが「東海道十三渡し」の一つ、「横田の渡し場」跡である。伊勢参宮や東国に向かう旅人に取っては通り道で、このため古くから交通の要地とされたところである。この辺りの野洲川は杣川や泉川との合流地点で、川岸まで山が迫り、川幅が狭くなっているため水流も激しい。流れの中には巨岩も見え、道中では川の難所に数えられていた。古くは室町時代の寛正2(1461)年には、「横田河橋」の名が見え、京都の寺により橋賃が徴収されていた。江戸時代になると、東海道の要衝として幕府道中奉行の支配下に置かれ、渡し舟や渡し賃の制度が整えられた。3月から9月の増水期は四艘で船渡しを行ない、地元の泉村が公役を請け負って賃銭の徴収を行ない、それ以外の渇水期に限り、土橋を架けての通行を許していた。明治に...横田の渡し(東海道歩き旅・近江の国)

  • 日吉神社御旅所 (東海道歩き旅・近江の国)

    「泉村いづみ縄手松並木あり立場なり白菊と云う銘酒有」ここ泉村も北脇に続く、松並木が美しい畷と言われた地である。残念ながら今日松並木は消滅してしまった。それでも旧立場(旅人の休憩する場所)の村らしく、趣のある平入りの家並みが残されている。町並から察するに、公民館を中心に泉福寺と淨品寺が建つ辺りまでが、嘗ての立場では、と思ってみたりもする。真っ直ぐに伸びていた旧道は、この先で野洲川に向かって緩く左に曲がっていく。泉集落を抜けると道は、二手に分かれるが、東海道は左に取り、泉川に行き当たる。その手前で旧道は再び二つに分かれるが、これも左にとって進む。直ぐに舞込橋でそれを渡る。泉川は右手この先で野洲川に合流する小さな川である。橋を渡ると道路脇に、「日吉神社御旅所」の石柱が建っていた。「日吉神社」の所在を調べると、J...日吉神社御旅所(東海道歩き旅・近江の国)

  • 泉村 「五重相伝」(東海道歩き旅・近江の国)

    田圃の中の直線道を歩き北脇の集落に入ると、中之町の交差点角に、「料亭米新楼」の看板を掲げた建物が有る。以前は料亭らしく、今は仕出し・宅配弁当屋さんのようだ。嘗ての茅葺き屋根を、瓦に葺き替えたような、堂々とした大屋根を持つ建物で、奥にも棟が見える。説明によるとここには水口脇本陣の建物の一部が、移築されていると言う。先に進むと左手に柏木小学校があり、向かい側の公民館の敷地にモニュメント化した火の見櫓が再現されていた。北脇縄手は手入れの行き届いた美しい松並木が続いていたらしいが、今日松は殆どが伐採されていて、この学校前に二三見られるだけだ。その先の泉地区まで来ると、集落は道路の南側に集まっていて、反対の北側は広々と開けた田圃や畑になっている。そんな畑中に「五重相伝」と書かれた立札と吹き流しを目にするようになる。...泉村「五重相伝」(東海道歩き旅・近江の国)

  • 北脇縄手(東海道歩き旅・近江の国)

    蔵元「美冨久酒造」の酒蔵横から北に延びる参道があり、奥には柏木神社が鎮座している。創建が白鳳期という古社で、古くから「若宮八幡宮」と称し、柏木荘近隣16ケ村の総鎮守として崇められてきた。水口城の築城以降は、歴代城主の守護神・祈願所として崇め、明治4(1871)年に現社名に改められ、地元では「わかみやさん」と呼ばれ、親しまれているという。趣のある家並みを見せる街道も、この辺り迄で来ると民家は途切れ途切れになる。道の両側は視界が開け、遙か彼方が見通せるようになり、広大な田畑の広がりの中、街道は一直線に西に向かって延びている。右手の奥に見える、大小の建物の帯状の連なりは、国道1号線が通り、沿道が商店などで開けているからだ。その奥の小高い緑の固まりが水口丘陵であろうか。また左手には野洲川が流れているはずだが、ここ...北脇縄手(東海道歩き旅・近江の国)

  • 林口一里塚と西の見附(東海道歩き旅・近江の国)

    百軒長屋跡辺りにも、平入り町屋の美しい町並が残されている。この辺りまで来ると、新たに出来た武家町を避けて迂回した鍵の手も終わりが近づいてきて、やがて行く手に、「天照大御神」をお祀りする五十鈴神社の森が見えてくる。藤原時代の長寛2(1164)年に設けられた「御厨」制度により御厨田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」として称え奉ったのがその創始だ。「五十鈴神社」と改称するのは、明治4(1871)年とされている。(神社由緒書)街道に面した境内の一画に、113番目の林口一里塚跡がある。元々はこれよりやや南方に有ったが、郭内の整備で街道が付け替えられたのを機にこの場所に移されたものという。今は一本の石柱と、説明板があるのみだ。そこを出ると西林口で、ここは石橋から移された西の見附...林口一里塚と西の見附(東海道歩き旅・近江の国)

  • 百軒長屋跡 (東海道歩き旅・近江の国)

    東海道は新しく出来た水口の城下を避け、お城の北側を、右折、左折、左折、右折、左折、右折と鍵の手に目まぐるしく曲がる道に入る。三河国の岡崎城下ほどではないが、結構な数の曲がり角である。これらの町並に三筋町の様な賑わいは見られないが、その道幅は往時のままのようで、武家地に近い地らしく、家並みにも何とはない落ち着きと懐かしさが感じられる。小坂町の曲がり角に、江戸時代から知られた大石が置かれている。力石とも水口石とも呼ばれる由緒ある石らしいが、謂れを知らなければただの石にしか見えない。説明によると、江戸の絵師・国芳により錦絵の題材にも取り上げられたらしい。その先、北邸町には、下級武士達が住んだ百軒長屋跡が有った。お城の武家地にあり、百軒(約180m)の棟割長屋には、下級武士達が住んでいたという。棟割長屋と言うのは...百軒長屋跡(東海道歩き旅・近江の国)

  • 新しい水口城(東海道歩き旅・近江の国)

    寛永11(1634)年、京に上洛する三代将軍・家光の宿館として、小堀遠州らが参集し水口御茶屋が築かれ、後に天守閣を持たない居館式城郭・水口城(別名碧水城)となる。更に天和2(1682)年、加藤明友が入城すると水口藩が成立する。因みに加藤氏は「諦観の間」詰めの外様大名で、石高は甲賀・蒲生地区を中心に2.5万石で、水口や日野など重要な地方都市を治めている。水口藩の成立と同時に、新たな城下町も整備される事になり、町の中心は東から西に移るのだが、宿場町は三筋町を中心に残され、依然として繁華な町並をこれまで維持してきた。この辺り一帯は武家地となり、藩士以外の通行が厳しく取り締まられることになる。城の東端に当たるこの地には、「天王口御門」が設けられ、藩士以外が武家地に入る事を厳しく禁じていた。このため東海道は、ここで...新しい水口城(東海道歩き旅・近江の国)

  • 甲賀市ひと・まち街道交流館(東海道歩き旅・近江の国)

    水口宿場の京口御門を出て石橋を渡り、近江鉄道の踏切を越えると、嘗ての東海道は真っ直ぐに西進していたが、後に街道は鍵の手に曲がるように付け替えられた。この左側一体が新たな水口城内と成り、そこを避ける措置である。その角の右側に「甲賀市ひと・まち街道交流館」と言う施設がある。水口宿を中心とした市の歴史・文化や観光情報を発信するほか、特産品等の紹介や講演会・イベントの開催などが行なわれている。宿場を散策する訪問客の憩いの場として、地元自治振興会の交流の場、さらに観光ボランティアガイドの拠点として活用され、特産品の紹介、販売などもされている。実はこの日土山宿を出る辺りから、どうしたわけか持参したデジタルカメラのバッテリー残量が激減し、思うように写真が撮れなかった。カメラを休ませ、だましだまし沿線の風景をカメラに収め...甲賀市ひと・まち街道交流館(東海道歩き旅・近江の国)

  • 京口御門と石橋(東海道歩き旅・近江の国)

    水口は東海道50番目の宿場町と、水口岡山城の城下町、両方の顔を併せもつ町で、名物や名産の土産もあり、大いに賑わったと言う。旅籠の数は多い方であったが、遊女はいずそのせいか、宿泊は余り振るわなかった。その変わり「女の声にてわやわやいう」と伝えられる客引きの留め女の勢力が強かった。「物をいわせよといえども、女どもは耳にも聞き入れず、無理に家のうちにひきこむ」ほどで、旅人がやり込められている。位置的には石部・土山両宿の間にはさまれていて、「京立ち石部泊まり」の言葉が示すように、京を朝立ちした東下りの旅人の多くが最初の宿とするのは「石部宿」である。石部からは三里半(13.7㎞)の道程で、余程の健脚でもないとここまでは辿り着けないし、土山からも二里半七丁(10.6㎞)有り、鈴鹿超えの旅人は土山泊まりが多かったようだ...京口御門と石橋(東海道歩き旅・近江の国)

  • 本道はまん中?(東海道歩き旅・近江の国)

    町並は、夷町から番町、平町と続き、ここには人足会所(にんそくかいしょ)跡が有った。人足会所とは、伝馬の定めに於いて、宿駅間の継ぎ立てに従事する人足を雇うための事務手続きをする役場のことだ。今ならさしずめハローワークである。寛永期には平町に設置され、元禄期には平町の会所が廃止され、東伝馬を併合した問屋場が大池町東端に新たな問屋場として設けられ、会所は街道の北側に配置された(説明板による)と言う。東西の見附の間が2.5㎞もあり、三筋町を形成する宿内には、見応えの有る旧商家や土蔵造りの家、町屋等が軒の低い平入りで多く遺されていて、どこを歩いても当時の面影を色濃く残している。柳町には軒下に「いまむら呉服店」の看板を掲げた、伝統的な平入りの町屋があった。町並の中には、旧町名を示す石柱が立てられ、又案内板も豊富に整備...本道はまん中?(東海道歩き旅・近江の国)

  • 街道一の人止場(東海道歩き旅・近江の国)

    古城山の南に「三筋町」という特徴的な宿場町が形成された水口宿は、「街道一の人止場(ひととめば)」と言われ、留め女による客引きが頻りに行われていた。広重の絵で広く知られるようになった名物の「かんぴょう」や泥鰌汁も名物で、泥鰌は周囲の田畑で豊富に獲れたらしい。更に今では廃れてしまったが「水口細工」などの土産も豊富で、大いに賑わったと伝えられている。大池町には、問屋場跡が有る。江戸時代、伝馬の定めで宿駅(宿場)には人足や馬を定められた数だけ揃える義務があった。揃わない場合近隣の村がその不足を補う「助郷」と言う定めもあった。問屋場は、公用で旅をする役人などの荷物を次の宿場まで運ぶ、継ぎ立てを差配する場所でその役人は宿場の有力者が務めていた。その前にあるのが文政年間から続く「菓匠一味屋」である。代表する銘菓は、「水...街道一の人止場(東海道歩き旅・近江の国)

  • 三筋の街道(東海道歩き旅・近江の国)

    水口宿の宿内は、三筋の通りで構成されている。片町、松原町を経て作坂町に到る間の左側に、脇本陣と本陣跡があり、その先が東の高札場で、札の辻と呼ばれていた。東海道はその西端で二つに分岐する。三本に分かれた道はおよそ800mあり、通りには旧町名を書いた石柱も立てられている。右の通りを北裏通りと言い、町人町らしく、水口神社の祭礼で引き回される曳山の山倉を幾つか目にすることが出来る。商店街らしい賑わいの残る左側が本道と思われるが、地元の人は、「何れも東海道、どちらを通っても宜しい」と言う。少し行った旅籠町でも街道は二つに分岐する。左の道は南裏通りと言い、寺町の様相で、円福寺、善徳寺、蓮華寺、西連寺等多くの寺院が甍を連ねていて、宿場町であり城下町でもある町の東の備えを構成している。通り東端南側には伝馬会所が有り、この...三筋の街道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 水口宿(東海道歩き旅・近江の国)

    山川の橋を渡ると田町で、ここには東海道が定められた慶長年間以降、家が建ち始めたと言う。続くのが東の見附があった片町で、天和2(1682)年には枡形に柵が設けられ、潜れば水口の宿場町ですぐに国道307号線を越える。この辺りを「牛ヶ渕」と呼び、関が原合戦の三ヶ月前、慶長5(1600)年6月、上杉討伐の途中にあった家康を暗殺しようとした場所た。どこかに石碑があったらしいが、残念ながら見落としてしまった。石部宿に宿を取った家康に、時の水口城主・長束正家は鉄砲100挺を献上し、「城外の牛が淵に新築した茶室で昼食を共にしましょう」と誘ったそうだ。ところがその夜、「茶室には、岩壁の下の『牛が淵』に落ちる仕掛けが有る」との密告があった。家康はあわててその夜、「女輿」に乗り、水口城下を通らず間道を通って土山方面に出て難を逃...水口宿(東海道歩き旅・近江の国)

  • 城下町・水口(東海道歩き旅・近江の国)

    水口は東海道の宿場町であるが、元々は城下町である。甲賀で最大の独立丘陵である古城山に、天正13(1585)年、豊臣秀吉が家臣・中村一氏に命じ築かせたのが水口岡山城だ。近江国を広範囲に見渡す眺望から秀吉の甲賀支配の拠点とされた城で、東国制覇の足掛かりとして重要な位置付けがされていた。後に入城した長束正家が、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗れたため、廃城になった。戦後徳川の直轄地となり、東海道の宿駅に指定されるも、嘗ての城跡は忘れ去られ荒廃し、当時の建造物は全て失われたてしまった。幸い石垣等の遺構は残されているらしく、今では「しろやま」と呼ばれ親しまれている。麓からは登山道も整備され山頂までは約820mで、15分もあれば登れるらしい。慶長年間に東海道の宿場として定められたものの、当初は宿泊施設も少なく、度々通行した...城下町・水口(東海道歩き旅・近江の国)

  • 近江国甲賀郡水口(東海道歩き旅・近江の国)

    江戸日本橋より数えて百十二里目、今在家の一里塚をみて、土山宿から二里半七丁、今の距離でおよそ10.6㎞、水口宿に入ってきた。古くは近江国甲賀郡にあり、伊勢に通じる街道の要衝として開け、室町時代には既に宿場が形成されていたという。水口宿は、今日で言う滋賀県甲賀市の中心部である。甲賀市は、「滋賀県の南東部に位置し、県土の約12%の面積を有する市で、人口は凡そ9万人、大阪・名古屋から100㎞圏内にあり近畿圏と中部圏をつなぐ広域交流拠点に位置している。気候は四季を通じて穏やかである。」(甲賀市公式HPより)町中を東西に、国道307号線(彦根市外町交差点~枚方市池之宮北交差点111.6㎞)が貫いている。近年になって更に北側に新国道1号線が開通したため、変更になった。それと交差するように近江鉄道本線(米原駅~貴生川駅...近江国甲賀郡水口(東海道歩き旅・近江の国)

  • 道中のろうそく (東海道歩き旅・近江の国)

    国道1号線の大野西交差点を横断し、接する県道549号線に入り、直ぐに右手の坂を上り旧道に入る。道は甲賀市土山から既に甲賀市水口町の今郷に入っている。嘗ての今在家村は明治21(1879)年に小里村と合併し、今郷(いまごう)になった。旧道に入ると直ぐに、浄土宗の浄土寺があった。その近くに「東海道今在家村生掛ろうそぅ蝋燭屋」の家号を掲げた立派な民家があった。繁昌していたのであろうか、随分と豪華な家構えである。街灯の乏しい当時、原則は日の出から日の入りまでで、漆黒の闇夜は歩けたものでは無く、治安上からも夜歩きはしないのが鉄則であった。それでも万一に備え、街道を行き交う旅人にとっては、ろうそくと携帯用提灯、火打ち石は道中の必需品であった。因みに現在のろうそくは、パラフィン(石油系)を主原料に大量生産される、所謂「洋...道中のろうそく(東海道歩き旅・近江の国)

  • 金沢のお土産文化

    餅と言っても正月の雑煮餅や鏡餅だけではなく、季節毎にも様々な餅がある。ひし餅、ぼた餅、さくら餅、かしわ餅、月見餅、おはぎ等だが、この他にもその地方特有の「○○餅」等と言って、名物・土産として今日まで伝えられているものも有る。日本人は古くは奈良時代から、様々な縁起物としての餅と親しんできた。総務省の家計調査によれば、「餅」の年間支出額及び量では、金沢市、富山市、福井市の北陸三県の主要都市が上位にランクインしている。これらの地方のお土産で言えば真っ先に「羽二重餅」が思い浮かぶが、どうやらこれだけではなく、根強い餅文化が根付いているらしい。金沢市は調査488品目の内、「餅」を始め「菓子類」、「ケーキ」、「チョコレート」、「アイスクリーム・シャーベット」に加え、大福餅などの「羊羹・饅頭を除いた他の和生菓子」、「カ...金沢のお土産文化

  • 雑煮とおもち

    「三日喰う雑煮で知れる飯の恩」朝の遅い正月三が日は、どの家庭もおせち料理と雑煮が続く。一般的に餅の入った汁物が雑煮と呼ばれ、主に正月などハレの日に食べられる。雑煮の餅は代表的なのは四角い切り餅や丸い餅、中には餡入りの餅もあり、汁に入れる前に焼くか焼かないのかの別もあるが、そもそも餅を入れない雑煮もある。「雑煮は本名を烹雑(ほうぞう)というなり。五臓を保養するの意」と言われ、中に入れる具材も鶏肉や鴨肉、魚介・野菜類など地域毎に特徴が有り様々だ。昆布や鰹節、煮干しやスルメなどで出汁を取り、これらの具材を入れ、つゆに仕立てて、あつものとして頂く事になる。澄ましなら塩味や白醤油、濃口や薄口の醤油等が使われる。また味噌仕立ても、米味噌や麦味噌、赤味噌や白味噌、それらの合わせ味噌等実に様々なバリエーションがある。しか...雑煮とおもち

  • 正月の元日

    「元日は目が覚めてから日が暮れる」正月の元日(がんじつ)は年・月・日の三つの元(はじめ)の意から、「三元」とも言われたが元日(がんにち)の呼称が一般に使われてきた。ここからの三日間を特別に「正月三が日(しょうがつさんがにち)」と言い慣わすが、これは今も昔も変わらない。儒学者・貝原益軒は「元日はすべての物事の初めであるから、気分を一新する」事を勧めたと言う。新年を心新たに迎えるに当り、私達は大晦日まで忙しく立ち働いて、除夜の鐘が聞こえだす頃やっと就寝に着く。その為、元日の朝は、何処の家も目覚めが遅い。初日が昇り、熊野のお使い烏の初声で、女達が起き出し朝餉の用意を始めるが、男達が起きるのは更に遅く、支度が調った頃だ。朝寝坊をするお正月の最初の仕事は、まず水を汲む事である。初めて汲む水を「若水」と言い、昔は井戸...正月の元日

  • 今宿村 いな川の清水(東海道歩き旅・近江の国)

    旧道を抜け、大野の交差点で国道1号線を越える。正面に「若王寺」の寺標が立ち、この奥突当りに浄土宗の『布引山医王院若王寺』があった。ここからは鐘楼、山門や境内の大杉が見えている。元々は天台宗の寺院で、御本尊は薬師如来である。天正年間に兵火で全焼し、その後仮堂が造られ、承応2年(1653)に浄土宗に改宗した。その後万治元年(1658)に本堂が再建されている。旧東海道は暫く国道を歩き、バス停の所から右の旧道に入り込む。旧徳原村で、左手の国道は一段低い所を通り、その更に南側が野洲川の広大な河川敷である。間の宿・大野の家並みはこの辺りまで続いていたらしい。若王寺から凡1.7㎞で、国道1号線の大野西交差点に合流する。その角に、「東海道今宿」の大きな蹟碑と、石灯籠が建っていた。嘗ての今宿村は、「しょうちゅうの名産也」と...今宿村いな川の清水(東海道歩き旅・近江の国)

  • 間の宿・大野(東海道歩き旅・近江の国)

    宿場と宿場の間にあって、休憩が取れる集落を間の宿と言った。小規模な茶店だけの場合は立場といったが、ここ大野は可成り大きな間の宿で、買い物の出来る商店なども存在した。当時幕府は宿場以外での宿泊を認めてはいなかったが、是は建前で、実際には大きな間の宿は、正式な宿場と変わらぬ施設を有していた。ここは松尾川の渡し場を控え、旅籠が充実し宿泊も出来たようだ。土山と水口のほぼ中間地点にあり、「ひょうたん屋」「指物屋」等と、商店であろうか、家号の札が幾つかの家の軒下に貼られている。他にも宿泊できる旅籠も数軒有ったらしく、「旅籠丸屋」「旅籠井筒屋」「旅籠篤居屋」「旅籠日野屋」「旅籠森田屋」「旅籠柏屋」等と、旅籠の跡地を示す石標が建てられている。明治天皇東幸の折に、当地の小幡屋で小休止されたとの記録が残され、「聖蹟碑」の建つ...間の宿・大野(東海道歩き旅・近江の国)

  • 堀切川の掘り割り(東海道歩き旅・近江の国)

    右手の生徳山長泉寺は、門前が児童遊園地に開放されている。浄土宗の寺で、ご本尊は阿弥陀如来で、境内には子安延命地蔵尊があり、信仰されている。市場村の外れ大日川の手前の一里塚跡は、市場の一里塚跡で、江戸日本橋より数えて百十一里目だが遺構は何も残されてはいない更にその先の橋の手前に「大日川掘り割り」の石標が建っている。大日川橋を渡れば旧大野村で川がその境で、この辺りが土山と水口宿の中間になるらしい。頓宮山を源に、大野村や市場村を流れ野洲川に注ぐ大日川は、一度大雨が降ると川幅が広がり、流域の水害被害が甚しかった。その為江戸時代初期、大野村は市場村との境に堤を築いた。が今度は市場村が重大な水害を受けることになる。堪らず村では城主の許可を取り付け、頓宮村より総延長504間、川幅四間の排水路掘削工事に着手し、市場村民の...堀切川の掘り割り(東海道歩き旅・近江の国)

  • 斎王の里 頓宮(東海道歩き旅・近江の国)

    松尾川の渡し場跡も、川を挟んで町並や街道が所々に当時の面影を残している。川を渡ると松尾村で、嘗て立場が有り、僅かな上り坂、灰俵坂の名残も有るらしい。渡った先には、垂水斎王頓宮跡がある。頓宮跡に向かうには、旧道を川まで突き当り、その後同じ道を引き返して白川橋を渡り、再び北の旧道に向け、大きく迂回しなければならず、流石に今は余力が無い。悪いことにここに来て持参したデジカメのバッテリーの消耗が激しく、何時電池切れを起こしてもおかしくない状況で、先を急がねば成らない。橋を渡った国道交差点に「頓宮」との表示があり、角に小公園がある。一画に「斎王の里頓宮」と刻まれた自然石の石標が置かれて居る。その横にはこれまた自然石を積み上げた大きな石灯籠も据えられていた。この辺りを「頓宮(とんぐう)村」とい、「垂水斎王頓宮跡」があ...斎王の里頓宮(東海道歩き旅・近江の国)

  • 御代参街道道標 (東海道歩き旅・近江の国)

    国道の脇、右手の小路口に古い道標が二基建っている。向って左の道標は、天明8年(1788)の建立で「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれ、高野の世継ぎ観音(永源寺)への案内である。ここから笹尾峠を越え鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川宿手前の小幡までの十里余りの脇往還が伸びていた。右の道標は、文化4(1807)年の建立で、「右北国たが街道ひの八まんみち」と刻まれている。日野、八幡又多賀大社や北国街道への道を示しここが追分けで有った。説明によると、寛永17(1640)年、三代将軍家光の乳母春日局が将軍の名代として多賀大社に参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣した際に、この往還は整備拡張された。皇室には祖先神として敬う天照大神が祀られている伊勢神宮と多賀大社へ詣でる習わしがあったが、多くは代参の使者が定期的に訪れた...御代参街道道標(東海道歩き旅・近江の国)

  • 大黒屋 控え本陣と大黒橋 (東海道歩き旅・近江の国)

    土山公民館から100m程、一の松通りの十字路を越すと大黒屋公園だ。「大黒屋本陣跡」の石標があり、本陣の跡地が公園に成っている。土山宿の豪商立岡家が営む「大黒屋」は、「堤家本陣」が衰退すると控本陣として指定され代替えとして使われていたそうだ。ここには、「大黒屋本陣跡」と並んで、「問屋場跡」、「高札場跡」の石標もある。園内奥には、明治天皇聖蹟碑がある。その先は、やや右に曲がりながら吉川を大黒橋で渡る。来見橋と同様の瓦葺白壁土塀風の欄干を持った橋だ。川幅は左程広くはなく、元々は土橋が架かっていたが、大黒屋本陣を勤める立岡長兵衛が石橋に架けなおしたという。鈴鹿馬子唄の歌詞やそれに因む画が貼られている。「鈴鹿山には霞がかゝる可愛いゝ娘にや目がかかる」「坂は照るてる鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」土山は、当時は幕府直轄...大黒屋控え本陣と大黒橋(東海道歩き旅・近江の国)

  • 土山宿の本陣(東海道歩き旅・近江の国)

    江戸時代、東海道を旅する大名や幕府公用人、勅使、公家などが泊まったとされる本陣は、土地の有力者が務めていた。ここにも、中町(南土山村)の「堤家」と、吉川町(北土山村)の「土山家」の二軒の本陣が有った。「堤家本陣」は家号を「二階屋」と呼び、代々堤忠左衛門を名乗った。門構えと玄関を持つ建坪は196坪と伝えられている。もう一方の「土山家本陣」は、三代将軍家光が上洛する折に設けられた、敷地建坪325坪を誇る重厚な構えの遺構が今日に残されている。初代土山家は甲賀武士土山鹿之助の末裔で、土山喜左衛門を名乗り、代々引き継いだ家督は十代に及び、明治初期の本陣制度廃止迄続きその役割を終えた。敷地内の奥に明治天皇聖蹟碑がある。明治元(1868)年、明治天皇は行幸の際本陣で一泊され、十七歳の誕生日を迎えられた。天皇即位最初の誕...土山宿の本陣(東海道歩き旅・近江の国)

  • 東海道伝馬館(東海道歩き旅・近江の国)

    今日土山宿は北土山と南土山にほぼ町名が統一されているが、当時の宿の中心は、旧中町から旧吉川町辺りである。森鴎外が一泊した「旅籠平野屋跡」の辺りが宿場の中心的な場所だ。平野屋の先の左側に、築200年、江戸中期の両替商の建物を改造した、民芸茶房うかい屋があり、地域の人の手作り陶器等を展示販売している。和風の喫茶コーナーでは、ぜんざいが評判らしく、また嘗て名物だった夕霧そばの復活を試みた鴨南蛮は、現代の土山名物という。「万屋跡」「はた屋跡」等、旅籠の跡地を示す石標が続き、その先右手に「問屋場跡・成道学校跡」の石標も建っている。土山宿の問屋場は、ここ中町と吉川町の二カ所に設けられていたが、明治の世になると廃止され、成道学校が創立された。その場所の奥まった所に、「東海道伝馬館」がある。江戸時代の農家の建物を移築した...東海道伝馬館(東海道歩き旅・近江の国)

  • 森鴎外ゆかりの地(東海道歩き旅・近江の国)

    来見橋を渡ると左手に、南土山の鎮守・白山神社が鎮座している。速須佐之尊、天照大御神、豊受大御神を祭神とする古社らしい。本殿は寛文5(1665)年に火災により延焼し、文久3(1863)年に現在の場所に造営された。毎年七月の第三日曜日に行われる「花奪い行事」土山祇園祭花傘神事は滋賀県選択の無形民俗文化財に成っている。南土山に「井筒屋跡」の石標があり、森鴎外の祖父・森白仙終焉の地と刻まれている。白仙は石見国・津和野藩亀井家の典医で、文久元(1861)年参勤交代に随行して、帰国の際病を得て当地を訪れたがここで急に息を引き取り、南土山の臨済宗東福寺派・常明寺に埋葬された。国元には遺髪が送り届けられたが、鴎外が生まれたのはその翌年という。続いて「旅籠木綿屋跡」石標があり、向いには「旅籠平野屋跡」の石標がある。明治33...森鴎外ゆかりの地(東海道歩き旅・近江の国)

  • 来見川の来見橋(東海道歩き旅・近江の国)

    土山宿の家並みの玄関先には、「旅籠鳥居本屋」「たば古屋」、お六櫛商「三日月屋」などと書かれた、旧屋号の札が掲げられている。その先には祠があり、白化粧された二体の地蔵尊が安置されている。更に右手に旅籠大槌屋跡の石標が続くが、建屋はなく奥行きの深い跡地だけが残されている。次いで右手に東海道一里塚跡石標が見えてくる。江戸日本橋から数えて百十里目の土山の一里塚跡で、塚木は榎が植えられていた。高さ凡2.4m、周囲凡12m程の塚であったらしいが、今は完全に失われ何も残ってはいない。宿場はいつの間にか、北土山から南土山に入ってきた。街道筋には弁柄塗りの「岩田屋」、「油屋」の表札や、「旅籠阿波屋」、「旅籠寿し屋」、「旅籠木屋」、「旅籠海老屋」等の跡地を示す石標等が次々と現われ、往時の街道の賑わいを今に伝えている。「旅籠山...来見川の来見橋(東海道歩き旅・近江の国)

  • お六櫛(東海道歩き旅・近江の国)

    「吹け波(ば)ふけ櫛を買いたり秋乃風」伊丹生れの俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫(おにつら)と言われた上島鬼貫の句碑だ。貞享3(1686)年秋、東海道の旅の途中、ここに立ち寄り「お六櫛」を買い求め、鈴鹿峠に向った時詠んだ句だと言う。碑の近くに扇屋伝承文化館があり、本家櫛所の看板を掲げているが、「お六櫛」を商う商家だったらしい。中山道は妻籠宿の旅籠の娘・お六は、持病の頭痛を治したいと、旅人の教え通り御嶽大権現に願掛けをした。すると「ミネバリという木で櫛を造り、朝夕これで髪を梳かせば治る」とのお告げを聞いた。お六は早速言われたとおりにすると、たちまち病は治ってしまった。以後櫛は「お六櫛」と呼ばれ、木曽の名産品として作られるようになった。「お六櫛」は、享保年間以降になると、中山道の薮原宿などで、旅の土産として売られる...お六櫛(東海道歩き旅・近江の国)

  • 右京都へ十五里(東海道歩き旅・近江の国)

    土山宿は、東海道49番目の宿場で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、北土山と南土山で構成され、長さは二十二町五十五間(約2.5km)にも及んだ。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると宿内家数は351軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠は44軒あった。宿場は昔ながらの古い家も多く、重厚な黒瓦葺切り妻造り、連子格子の町屋風の家屋が、平入りで立ち並んでいる。軒瓦の上には鳩や鯉などの細工瓦も飾られている。余り広くない通りに面し、粋な板塀を巡らし見越しの松の屋敷等も有り、宿場町らしい見応えのある静かな佇まいを見せている。明治23(1890)年2月、関西本線の前身の関西鉄道が三雲と柘植駅間で先行開業した。南の平安時代初期の東海道のルートである、加太越え道をなぞるように敷設されたのである。同年12月に...右京都へ十五里(東海道歩き旅・近江の国)

  • 土山宿(東海道歩き旅・近江の国)

    平安時代初期の東海道は土山の南方、杣川(そまがわ)沿いに東進し柘植を通っていた。その先で加太峠を越える所謂、加太越え道である。その後の仁和2(886)年に、鈴鹿峠を越えて伊勢に向かう阿須波道(あすはみち)が開かれた。これにより土山にも街道が通り、やがて宿場が設けられることになる。「土山といへ共山なし昔此所の郡主の姓也」こう言われるように、鈴鹿山脈の西麓ではあるが、土山には土山という山はない。地名は中世、土山氏がこの地を治めた事に由来している。土山氏は甲賀の地侍、53家の一つで、これらは後に甲賀流忍術の中心となる家柄である。前宿・坂下からはその距離凡そ二里半(9.8㎞)、難所「鈴鹿峠」を越えた宿場だけに、その規模は相当なものであった。また宿場の西には、北国多賀街道(御代参街道)の追分けもあり、多くの旅人で賑...土山宿(東海道歩き旅・近江の国)

  • 道の駅・あいの土山 (東海道歩き旅・近江の国)

    「道の駅」は、道路管理者や全国の自治体が整備・設置して、国土交通省に登録されたもので、今日全国には1198カ所あると言う。その歴史は比較的新しく、実験的な施設として山口や岐阜に設けられたのは平成3(1991)年の事で、その後全国展開され一気に広まった。高速道路で24時間利用が可能なサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)のいわば一般道路版としてその制度が創設されている。ただ「道の駅」には、単に休憩施設に留まらず、その地域の情報発信の場、利用者と地域の交流の場としての機能が盛り込まれていることに大きな違いがある。その為「道の駅」では、農産水産物など地元の特産品が販売されることが多い。加えて、地域の特性や周辺の観光地の情報発信なども頻りに行なわれることもある。変わり種としては、温泉や宿泊施設、公園、展...道の駅・あいの土山(東海道歩き旅・近江の国)

  • 春の雨(東海道歩き旅・近江の国)

    「坂は照るてる鈴鹿はくもるあいの土山雨が降る」歌川広重の画く道中図「東海道五十三次(保永堂版)」では、宿場・土山の図「春の雨」として、雨の中、橋を渡る大名行列を画いている。一行は田村川に架かる田村橋を渡り、正面に田村神社の杜を見て、合羽を着た一団が雨の中悄然と頭を垂れながら、宿場に向かい歩く姿を克明に画いている。広重はこの強く降る春の雨を、垂直線と斜線を二版に分けて刷り込むことで、激しさを強調した。珍しい低い欄干付きの橋の下は、雨により水嵩が増し、荒々しく流れ下る川も画かれている。仮橋の時代は大雨ともなると、橋渡りは禁止され徒渡りを余儀なくされると、溺れ死ぬものが多数出たという言い伝えも残るそんな暴れ川の様子をも窺わせている。土山は馬子唄で唄われる通り、伊勢の海から吹き上げてくる風が、鈴鹿山脈を越えると雨...春の雨(東海道歩き旅・近江の国)

  • 田村川の田村橋(東海道歩き旅・近江の国)

    街道の廻りには田園風景が広がり、真っ直ぐに伸びる長閑な畷道の先に、緑濃い豊かな森が見えてきた。行く手に、自動車通行止めの標識が現われると、突き当りに真新しい木橋が見える。森は田村神社で、橋は田村川を渡る海道橋(旧田村橋)、その先が神社の境内である。田村川は、鈴鹿山の分水嶺、宮指路岳(くしろだけ)山麓に源を発し、南西に流れ下り南土山の白川で野洲川の左岸に合流する一級河川で有る。「かりはし、水増ばかち渡り」嘗て街道筋の田村川に橋は無く、徒渡りであった。しかし大水が出る度に溺れ死ぬ旅人が出る有様で、また度々の川留めは旅人や宿場の関係者を苦しめていた。このため幕府の許可を得て、安永4(1775)年、土山宿の人達が中心となって東海道の道筋を変え、田村川に橋を架けた。板橋の永代橋、田村橋は、巾2間1尺5寸(約4.1m...田村川の田村橋(東海道歩き旅・近江の国)

  • 猪鼻村と蟹ヶ坂(東海道歩き旅・近江の国)

    「猪鼻村上り下り立場なり。坂有り。花坂は上り成り。此所よもぎもちをうる。」本来の旧道は猪鼻交差点を右折し、その先のY字路を右に進み、若宮神社の社標を見て左折する。道は直ぐに国道に戻るが、左手に「東海道猪鼻村」の碑がある。猪鼻の地名は、鈴鹿の山から下りてくる猪を除ける垣根があった所に由来している。村は五十戸程の集落で、立場として賑わい、草餅や強飯が名物だったという。山中村を下った街道は、猪鼻交差点辺りからやや上りに転じる。この辺りの標高は、284.9mで、旧道と接する辺りでサミットの295.5mを迎え、その先は少しずつ下り、今では大した坂では無い。当時は、この上りを花坂、下りは蟹ヶ坂と呼んだ。国道脇の椎の木を目印に、そこから右の側道、本来の道に入り込む。右手の森は、白川神社の末社・榎島神社で、この木は樹齢約...猪鼻村と蟹ヶ坂(東海道歩き旅・近江の国)

  • 山中一里塚公園(東海道歩き旅・近江の国)

    その先には、旧道に延びる集落の上を、新名神高速道の巨大な高架橋が高く跨いでいる。潜るという感覚も無い程高い高い橋の下を抜けると、国道1号線に突き当たる。国道の手前左に広場が有り、「第二名神滋賀県起工の地」碑とモニュメントが建っている。平成7(1995)年に、滋賀県下で最初の工事が、この地で着工されたのを記念する碑である。右は江戸日本橋より数えて百九里目の一里塚跡「山中一里塚公園」だ。園内には「櫟野(いちの)観音道(大原道)道」の石標が残されている。嘗てこの辺りは、東海道と旧神村(甲賀町神)や旧櫟野村(甲賀町櫟野)方面に向かう南西に延びる大原道の追分けが有った所らしい。「湖国甲賀の三大仏巡り」で知られる櫟野の櫟野寺への参詣道であったが、度重なる道路の改修や拡幅で失われ、道標はこの地に移され保存されたものだ。...山中一里塚公園(東海道歩き旅・近江の国)

  • 僅かに残る旧道(東海道歩き旅・近江の国)

    鈴鹿峠を下る旧東海道は、国道1号線の開通と同時にほぼ消滅した。山は削り谷は埋められ、均された道路は片側2車線の広々としたものだ。嘗ての峠道の厳しさは失われ、車は快適になったが、国道歩きには往時の姿を忍ぶ術もない。それでも「十楽寺」から500m程下った所に、僅かばかり旧道が残されていた。横断歩道も無いので、車の通行の隙を縫って向こう側に渡り、その旧道に入り込む。暫く行くと左側に、立派な和風建物のトイレが整備され、小さな公園風の緑地があった。その前の小高い土盛りの上には「鈴鹿馬子唄碑」が立ち、脇の植栽の中に「東海道鈴鹿山中碑」が、更にその奥には石灯籠が建っている。立場か何か、謂れのある場所かと思ったが、説明は無く真相は分からないが、園内にはベンチも置かれ、木陰も出来ているので、休憩するには丁度良い。「歴史の道...僅かに残る旧道(東海道歩き旅・近江の国)

  • 国道1号線(東海道歩き旅・近江の国)

    国道1号線は旧東海道を前身とする路線で、東京都中央区の日本橋から、大阪市北区の梅田新道交差点に到る総延長730㎞に及ぶ道路である。「一級国道1号線」として制定されたのは、昭和27(1952)年の事で、昭和40(1965)年に現行法下の「一般国道1号線」となった。道路の整備は、明治の新政府が発足すると整備計画が策定されている。嘗ては主要な幹線道路であった国道1号線も、昭和40(1965)年に名神高速道路が全線開通(小牧IC~西宮IC)したことで、交通量は激減する。更に旧東海道のルートに沿った、新名神高速道路(三重県四日市~兵庫県神戸市北区)が暫時開通するにつれ、そのダメージは決定的なものとなった。峠から2㎞程下ると、左側に「十楽寺」がある。嘗ては「山中千日村の常念仏寺」と呼ばれた、浄土宗総本山知恩院の直轄末...国道1号線(東海道歩き旅・近江の国)

  • 忍びの里 伊賀と甲賀(東海道歩き旅・近江の国)

    「甲賀」といえば、忍者の里として知られている。忍術を駆使して活躍した特殊技能集団で、数々の伝説が今日まで語り継がれている。乱世の時代、共に競い合ったのが「伊賀」で、両地方は今では「忍びの里伊賀・甲賀」として日本遺産に認定されている。この地方には、こうした忍者の屋敷ではと言われる、古くからの館タイプの城館跡が数多く残されていると言う。城といっても石垣はなく、土を盛り上げ、一辺50m程の土塁で四方を囲んだだけの館跡で、両地方で800カ所余が確認されているらしい。甲賀市甲賀町隠岐には「甲賀の里忍術村」が有り、志能備神社、忍術博物館、からくり屋敷、手裏剣道場等の施設が点在していると言う。又、同市甲南町竜法師には、「甲賀流忍術屋敷」がある。中世の頃活躍した甲賀忍者53家の筆頭格にあたる望月出雲守の屋敷として約300...忍びの里伊賀と甲賀(東海道歩き旅・近江の国)

  • 甲賀市(東海道歩き旅・近江の国)

    国道に設けられた、僅かばかりの幅の歩道を歩く東海道は、滋賀県甲賀市に入って来た。古くから東海道五十三次の49番・土山と、50番・水口の宿場町として栄えてきた。現在でも東海道が姿を変えた国道1号、新名神高速道路が町中を貫く交通の要衝だ。鉄道網もJR草津線を始め、貴生川駅からは近江鉄道本線と信楽高原鉄道線が運行している。甲賀市は、滋賀県の南東部に位置する市で、市域は東西に長く、三重県と京都府に境を接している。甲賀郡の7町(水口町・土山町・甲賀町・甲南町・信楽町・甲西町・石部町)が合併して新市が発足した。世帯数は凡そ3.7万で、人口は凡8.9万人である。東部は鈴鹿山脈等があり標高が高く、西部に向かうほどに下がっていく。日本六古窯(瀬戸、常滑、越前、丹波、備前)の一つ、信楽焼の産地として良く知られ、窯業が主要な産...甲賀市(東海道歩き旅・近江の国)

  • 万人講常夜燈(東海道歩き旅・近江の国)

    鈴鹿の「峠の茶屋」では、甘酒を啜りながら、東下り旅人は、この先の厳しい下り坂に思いを馳せ、一方京に上る人々は、早難所を越えた安堵の心持ちで寛いでいた。そんな茶店も、今に残る痕跡は何も無く、わずかに石垣の様な遺構を見るのみである。杉林を抜けた未舗装の街道は開放的で明るく、両側に土山茶の茶畑が広がる中を下りながら250m程進む。すると丁度国道の鈴鹿トンネル出口付近真上辺りに、大きな石灯籠が立っていて、その横には休憩所があった。これは「万人講の常夜燈」と言われるもので、金毘羅参りの講中が、道中の安全を祈願して、今から300年近くも前の江戸時代に建立したものである。説明板によると灯籠は、重さ38トン、高さ5m44㎝あると言う。地元山中村の高幡山(773m)天ケ谷より、霊験によって見いだされた「神石」と呼ばれる自然...万人講常夜燈(東海道歩き旅・近江の国)

  • 峠の立場(東海道歩き旅・近江の国)

    旧東海道の関宿から鈴鹿峠までは、平成8(1996)年11月、文化庁の「歴史の道100選」に選定された。道や標識が整備され、ハイキングコースとしても知られる様になった。峠越の「八丁二十七曲り」の厳しい石段と石畳の道を上り詰めると、街道はやや荒れてはいるが、杉林の中の平坦道に転じ、木漏れ日の中を峠目指して伸びている。やがて道幅がやや広がり、鏡石への分岐道が現われ更に少し進むと、茶畑の中に並ぶ道標が見えてくるが、そこが標高380mの鈴鹿峠だ。現在の幹線道路・国道1号線は、関の沓掛集落を過ぎる辺りで上下は別ルートとなり、急勾配を避けるように大きく迂回しながら、峠を目指しその20m程低い地点を二本のトンネルで抜けている。旧東海道は、そのトンネルの上を越えていた。東海道は、いよいよ近江の国(滋賀県)へと入ってきた。こ...峠の立場(東海道歩き旅・近江の国)

  • 鈴鹿越え(東海道歩き旅・近江の国)

    東海道で峠越え「難所」といえば、真っ先に思い浮かぶのが箱根峠だ。小田原と三島宿の間にあり、途中に箱根宿や関所を有する、東坂四里・西坂四里の峠越は、天下の険と言われる街道最大の「難所」である。その先も由比と興津宿の間の薩田峠、丸子と岡部宿の間の宇都ノ谷峠と「難所」が続く。更に、島田宿を出て「越すに越されぬ」大井川を越えて、金谷坂の上り下り、それに続く小夜の中山を越え日坂に到る間は、間に金谷宿が有るとは言え、川と峠越えの連続する「難所」中の「難所」であった。遠江の国も掛川宿に入ると道程はほぼ平坦で、それは三河から尾張、伊勢の国の庄野宿辺りまで続き、平穏な道中を続ける事が出来る。次の亀山宿を出る辺りで、進路が西向きに変わると道は徐々に高度を稼ぐようになるが、行く手を阻むのは鈴鹿山脈である。其処には西の難所、鈴鹿...鈴鹿越え(東海道歩き旅・近江の国)

  • 菱川吉衛(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    身分は岡山県平民で菱川合名会社代表社員、生まれは弘化元(1844)年九月十五日の江戸末期、岡山城下磨屋町に生まれ、明治、大正に活躍、昭和初めに没。この人物、名を「菱川吉衛(きちえ)」と言う。鉄道敷設に情熱を傾け、大正13(1924)年、岡山臨港鉄道の開設の免許を申請している。岡山駅を起点に鹿田(後に都市計画で路線が付け替えられ大元駅)、二日市、七日市を経て、御津郡福浜村に至る約8.9㎞の宇野線蒸気鉄道計画だ。合わせて福浜港の水深を整備し、千トン級の船舶が横付け出来るよう拡幅、港と市街地を最短距離の鉄道で結ぶ計画だ。菱川の申請書を受けた県知事は、水陸の連携は重要だが、三蟠鉄道の経営に甚大な影響を与えることを憂慮し申請を却下した。又、三蟠鉄道の社長も旭川の対岸に鉄道ができると、両者の競争が激しくなり、自社の存...菱川吉衛(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 三蟠鉄道資料館(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    市内中心部に近い國清寺門前から、三蟠軽便鉄道の廃線跡を辿ろうと歩いて来た。しかし開業から100年を越え、廃線からも90年を過ぎた今、開発の著しい旭東や岡南地区で、当時の痕跡を見付けるのは最早困難と思い知らされた。所々に僅かながら、それらしき形状の道路を見ることはあっても、廃線跡との確証が取れない。川岸に橋台跡らしきものを見付けても同様だ。駅跡も、距離から割り出してこの辺りと推測するだけである。今や「幻の鉄道」と言われる鉄道である、痕跡の見極めなど尚更だ。今日唯一と言って良い遺構として残るのは、当時の三蟠駅舎である。一時期、バスの待合所に利用されていたらしいが、今は釣具店に変わり、傍らに三蟠鉄道資料館を併設し残されている。元々は、桜橋駅舎として使われていたもので、廃線と同時にここに移築され、二代目終着駅とな...三蟠鉄道資料館(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 三蟠駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    起点の国清寺駅から四哩五分(7.2㎞)、三番工区の干拓地に開かれた三蟠港に接続する地に鉄道の終着駅・三蟠駅が設けられた。駅の付近の干潟では潮干狩りが楽しめたという。対岸の福島等の地区が干拓されるのは昭和に入ってからの事で、当時はまだ遠浅の海が広がっていたようだ。又高島公園・高島神社が備前八景の一つとして案内されている。「月はなほ松の梢に高嶋の波の玉にも影を宿して」池田綱政が詠んだ「高嶋秋月」の詩である。今日の旧駅の周辺は、内山工業、ヤンマー農機製造会社、岡山生コンクリート会社等の工場が立地し、それを取り巻くように住宅も沢山建ち並んでいる。恐らくこれらによって当時の面影は消え、変ってしまったのであろう。三蟠駅では汽車の到着と連絡して、各方面へ連絡船が運航されていた。目前の対岸、児島半島飽浦には旅客と貨物を混...三蟠駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 濱中駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    宮道駅は、沖田神社の最寄り駅として大いに賑わった。昔の人は健脚で、往復すれば5㎞以上の道程を歩いて参拝に訪れていた。沿線でも駅の営業成績はトップクラスで、それを支えたのが参拝客であるが、ここには海水浴客も多く訪れていた。海水浴場は駅の西二丁の距離に有り「旭川の浅瀬で、水底は砂白く水清く、婦人子供の水浴に好適場」と紹介されている。鉄道会社は目の前の宮道海水浴場の運営をし、食料販売店を開店する傍ら、三蟠駅構内の空き地に水族館を開館する等多角経営を行っていた。鉄道の線路は、沖新田の田畑の中を直線的に敷かれ、起伏の少ない平坦な路線であった。当時途中に大きな村落はなかったが、今では干拓地を思わす広大な田畑が一部残るものの、用地開発も進み、新しい住宅や工場等も立地して、線路跡の特定はますます困難となっている。特に整備...濱中駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 宮道駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    三蟠鉄道の各駅では、駅周辺の観光案内として寺社や史蹟が多く紹介されている。起点より二哩七分(4.4㎞)、当時の上道郡三蟠村に設けられた「宮道駅」も例外ではない。国道2号線岡山バイパスを潜り、宮道のバス停が有る辺りが丁度その距離で、この辺りに駅が有ったのではと推測する。この駅は、神社の参道への最寄り駅であった。ここでは、駅より東二十五丁(凡そ2.7㎞)の、「縣社沖田神社」が案内されている。干拓地に開かれた直線道が延びていて、百間川に突き当たる少し手前に社は鎮座している。岡山藩主・池田綱政の命により藩郡代・津田永忠が奉行となり、凡そ2000町歩が干拓され、新田として開発されたのが沖新田である。当時の沖新田六ケ村の総鎮守・産土神として、綱政の命により「沖田神社」が、元禄7(1694)年建立された。当初は福島にあ...宮道駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • ばななかすてら(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    下平井を出た三蟠鉄道は、少しずつ進路を旭川に寄せながら南進し、次の宮道を目指す。この辺りも線路跡を辿る事は極めて困難で、その痕跡すら解らない。今ではその途中を、国道2号線岡山バイパスの高架に遮られているので尚更である。ここで迂回を余儀なくさせられたことを幸いに、バイパス道路の前にある「ばななかすてら」の「福岡製菓所」に立ち寄って見た。そこは工場直売店で、少し前までは焼きたて、アツアツの「ばななかすてら」が食べられるとあって、これが人気を呼んでいた。嘗てバナナは高級品であった。日本に初めて輸入されたのは、明治36(1903)年、台湾からやって来た。今でこそスーパーやコンビニで簡単に手に入るが、当時は高価な憧れの食べ物で、貧乏人の口にはおいそれとは入らず、唯一例外は土産で貰うか、病気をした時位であった。バナナ...ばななかすてら(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 下平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    鉄道はその先で緩く左カーブしながら、眼鏡店辺りで一旦県道に接した後、直ぐに右カーブで離れていく。その先は完全に住宅地で、線路跡を辿る事は不可能だ。住宅地の中を、ウロウロキョロキョロと廃線の痕跡を探して歩くことは、不審者に間違えられ兼ねず流石に不味い。国清寺より二哩一分(3.3㎞)に下平井駅があった。場所的にはベビー用品店の南側住宅地辺りと思われるが、確証はない。開業当初はここが平井駅で、先の上屋敷駅が「上平井」に改称されたと同時に、「下平井」となった。駅の観光案内には対岸の濱野にある、「法華寺の一宇老松」が紹介されていた。鉄道が開通した大正期、旭川に架かる橋は城下の京橋のみで、その下流には何も無かった。まだ桜橋が無かった頃、対岸へは少し上流の湊と船頭町を結ぶ舟渡しあり、明治の初め頃まで行なわれていた。この...下平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 上平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    県道45号岡山玉野線(通称「産業道路」)の倉安川交差点を西に渡ると、その南西角に当時の路盤が一部残され、復元されたレールと貨車が展示されている。そばには駅名標を模した説明書や、岡山市が設置した「岡山歴史散歩」の案内板がある。三蟠鉄道の営業距離は7㎞余りと短く、多くの車輌を必要としなかったのか、所有機関車は僅か3両だという。その他に貨車や客車を所有していたが、多くは貨客混合列車での運行が行なわれていたらしい。この貨車が当時使われていた物なのかは知らないが、おもちゃの様な小さなトロッコである。廃線跡はほんの僅かなもので、その先は県道沿いに建ち並ぶ大型店舗の中で、痕跡は消えている。県道を外れ、その西側の堤防道路に出て南に進むと、眼鏡店とスーパーの境辺りの用水路に、橋台跡が残されているのがわかる。残念なことに説明...上平井駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 世界かんがい施設遺産・倉安川(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    湊駅を出た鉄道は、その先の上平井駅に向かう。倉安川の鉄橋を渡ると、すぐ南の県道倉安川交差点で県道を離れその西側に入り込む。県道沿いに大型のスーパー、ホームセンターが立ち並ぶ地域である。倉安川は江戸時代に開削された人工の運河で、東部の吉井川と中央部の旭川を総延長約20kmで結んでいる。岡山藩主・池田光政が、延宝7(1679)年に、郡代・津田永忠に命じて掘削に当たらせた。工事の詳細は未だ明らかではないが、僅か1年で終えた事から、何らかの既存の川を利用したとも言われている。その竣工は、スエズ運河やパナマ運河よりも早い時期である。この頃藩では干拓工事が頻りに進められ各地に新田が開発されていた。結果、田畑を潤す水の不足は深刻で、安定した確保が必要であった。また当時は、児島を廻る瀬戸内海経由で年貢米輸送が行なわれてい...世界かんがい施設遺産・倉安川(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 湊駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    荒神社をかすめて南に向かう鉄道は、何となく線路跡と覚しき形態を残す市道を進み、その先で再び県道45号に合流する。更に県道を進むと左手に浄土真宗の専光寺が有り倉安川北交差点に到る。丁度この辺りが、国清寺駅より一哩(1.6㎞)の地点で、ここに湊駅が有ったらしい。その交差点の北東角に、復元された駅名標示板がある。三蟠鉄道湊駅跡と薄く書かれているが、ここが駅の有った場所と言うのではなく、専光寺の辺りとも、新道元町のバス停辺りとも言われ、どこにあったのか今では特定は難しいらしい。太古の時代は、瀬戸内海が深く入り込んだ吉備の穴海の一部で、この地には湊が有り、神功皇后による三韓征伐の折船を繫いだと伝えられている。当時は「春の湊」と呼ばれていたが、後々には干拓で埋めたてられ、新田開発がされると春を省き、ただ単に湊と呼ぶよ...湊駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 桜橋駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    旭東町交差点で県道45号線はやや左に曲がるが、鉄道は逆の右方向に進路を取る。角のコンビニの駐車場を斜めに横切り、その南の住宅街へと入っていく。コンビニの東側、南に向かう狭い一車線の通りを行くと荒神社があり、当初はこの辺りで南から来た線路が西に大きくカーブして終着の桜橋駅に向かっていたらしい。そこには、岡山ガス会社への引き込み線が有り、燃料となる石炭を運んでいた。北側には鐘淵紡績岡山工場も有り燃料を運んでいたらしいが、専用の引き込み線が有ったかは良く解らない。因みに岡山ガスは今でも当地に本社と工場を構えているが、カネボウの跡地は住宅団地に変わっている。国が後押しする軽便鉄道敷設は全国でブームとなっていた。そんな中、大正4(1915)年8月に開通した「三蟠鉄道」は、その後京橋に近い国清寺まで延伸され、路面電車...桜橋駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 網浜駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    始発駅の国清寺から南に向けて歩き始めると、やや東に曲がって県道45号線に合流し、暫く県道を進むと旭東町の交差点に到る。駅から「零哩五分」の地点である。湊と桜橋間が廃止され、国清寺まで延伸された折に開設された網浜駅がここら辺りにあった。「哩」はマイルと読み、1哩=1760ヤード=1.609㎞だ。従ってこの駅までの距離は0.8㎞となり、今日の東山プールの辺りに駅が有った事になる。当時の駅周辺の観光案内では、東八丁に「芭蕉天神」があり、又網浜は備前八景の一つとされ、藩主の池田光政公が旭川の岸辺に遊び、詩を読まれたところと伝えられている。東に八丁(0.9㎞程)は、今日の門田本町であるが、「芭蕉天神」が何所なのか、良く解らなかった。又、この備前八景は、「網濱夕照」「湊村清嵐」「平井落雁」「濱野夜雨」「常山暮雪」「上...網浜駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 国清寺駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    市内中心部への乗り入れが出来ず、旭川の船運に料金でも見劣りのした三蟠鉄道は、昭和6(1931)年6月、僅か16年弱の短命で廃線に追い込まれてしまい、この突然の廃線は余りにもあっけなかった。その為か、今日では「幻の鉄道」等と呼ばれている。鉄道会社は、都市計画道路として鉄道用地を売却し、鉄道が廃止されると直ちに、三蟠自動車(株)を設立し、市中心部の内山下と三蟠の間でバスの定期運行を始めることになる。この会社は後に岡山バスとの合併を経て、今日の両備バスに合併吸収されている。鉄道時代、国清寺駅には駅舎が建ち、鉄道会社の本社があった。行き止まりの駅の前には東西に流れる通りが有り、道を隔てた西方には、臨済宗妙心寺派の禅寺・萬歳山国清寺の甍が聳えていた。駅前の通りの西側には、路面電車旭東線の門田屋敷駅が有り、寺域の北側...国清寺駅(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 客離れが進む三蟠鉄道(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    大正4(1915)年8月、三蟠と桜橋間で開通した三蟠鉄道の経営は順調で、乗客は年間10万人超となるなど、生活の足として重宝される事になる。開通から8年の後には、途中の湊駅から桜橋駅までの間に分岐を設け、旭川に架かる小橋東詰の国清寺門前まで延伸開業し、念願の路面電車・中納言駅との接続を果たす。開通時は濱中、宮道、上屋敷、平井、湊の各駅が有り、その先が終点の桜橋であった。後に国清寺まで延伸され、湊と桜橋間は廃止となる。大正12(1923)年2月、終点と湊の間の網濱に駅が出来、これにより港と中心部近くに到る路線距離7.25kmの全線が開通した。当時は1日11往復(12往復と書かれた書物も有る)の運転であった。明治24(1891)に、三石と岡山間で山陽鉄道が営業を始める。明治37(1904)年には、中国鉄道の津山...客離れが進む三蟠鉄道(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 絡み合う交通機関(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    文禄年間宇喜多秀家は山陽道を城下に通し、初めて旭川に橋を架けた。それが京橋で、当初は板橋であった。街道がこの城下経由に変更されると、川湊も有る京橋周辺は商いの中心となり、水陸交通の要衝として栄える事になる。その後京橋は、何度も架け替えが行なわれている。明治に入り旧街道は官道(国道)2号線と成り、人車の通行の多い幹線道路となった。大正時代に入ると板橋は、ようやく鉄筋コンクリート製の永代橋に架け替えられることになる。しかし時代と共に車が増え橋と道は交通のボトルネックとなって行く。対策として橋が拡幅・補強されたのは、三蟠鉄道が延伸開業したのと同じ年である。橋が強固となると路面電車の通行も可能になり、岡山電気軌道内山下線が延伸され、西大寺町~東山の旭東線の営業運転も始まった。当初三蟠港から桜橋間で開業していた三蟠...絡み合う交通機関(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 軽便鉄道の開通(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    江戸期の干拓地に造られた三蟠港は、四国連絡などの要港として繁栄していたが、宇野港(玉野市)が開港し、宇高連絡船が運航を始めるとその機能が低下、港は衰退する。そこで地番沈下を防ぎ、港周辺の活性化の為鉄道インフラが検討された。国が軽便鉄道敷設法を制定した当時は、全国で軽便鉄道の開設がブームとなっていた。そうした背景が有り、当地にも大正3(1914)年2月「三蟠鉄道株式会社」が設立された。三蟠港から岡山中心部に近い桜橋(さくらばし)の間に線路を敷設、旅客や貨物を運ぶ混合列車を走らせる、これが「三蟠軽便鉄道」の開業で、大正4(1915)年8月のことであった。旭川右岸の浜野には、明治40(1907)年に岡山製紙が立地した。当時、桜橋駅近くには、岡山瓦斯会社や鐘淵紡績岡山工場もあった。又京橋上流の津島には、陸軍第17...軽便鉄道の開通(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 三蟠港の衰退 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    昭和の時代、岡山市内中心部を流れ下る旭川の右岸近くには、岡山臨港鉄道が走っていた。国鉄宇野線の大元駅を起点に、南部に出来た岡山港近くの岡山港駅まで8.1㎞の路線である。名前の通り貨物輸送で収入の7割を稼ぎ出し、旅客輸送はおまけのような鉄道であった。沿線の倉庫や工場には、専用側線が引かれ、物資の輸送に供されていたが、時代と共に自動車が普及すると、長大編成の貨車が道路と交差する踏切では、慢性的な交通渋滞を引き起こし問題視されるようになる。加えて貨物輸送も、小回りのきくトラック輸送への切り替えが急速に進み、ついには昭和59(1984)年には廃線に追いやられた。一方旭川の左岸はと言うと、河口付近には三蟠港が有り、海の交通の要衝となっていた。江戸末期から昭和40年代頃まで、四国連絡の船便はこの市南部の干拓地に造られ...三蟠港の衰退(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 重要港湾・三蟠港 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    岡山平野の耕地面積の凡そ7割は、干拓により新たに生み出された地と言われている。江戸時代に岡山藩主・池田綱政の命により、津田永忠が干拓した沖新田もその一つだ。凡そ12㎞に及ぶ廻り堤を築き、内陸部を干拓する丁場は、9つに分けて工事が進められた。それぞれの工区で競わせ、早期に完工する事を狙ったものと伝えられている。九つの丁場の名残は今も、沖新田周辺の九蟠港や六番川、或は四番川、三蟠港等、数字の入った名で知ることが出来る。その一つ三蟠港は、江戸時代末期に誕生した港である。岡山城下の京橋港の外港として発達し、ここで船を乗り継いで四国に向かう連絡船が出ていて、牛窓や下津井と並ぶ主要な港湾と位置付けられていた。特に宇高連絡線が開通する以前は、ここが高松に渡る主要港でも有った。三蟠港当時の波止場は、今は無く巨大な防波堤の...重要港湾・三蟠港(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 旭川の船運(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    京橋の架かる旭川の、嘗ての舟運の航行最上流地は、八束村の上長田と伝えられている。現在の真庭市で鳥取県境に近い蒜山高原の一角、標高は400mを超える地だ。往時は源流域も近い上流まで、高瀬舟による舟運が行われていた。水深1丈3尺5寸(凡そ4m)程あった江戸期の旭川は、要所の福島、牟佐(何れも岡山市内)や福渡(建部町)等には舟番所が置かれ、千石船も頻りに行き交っていた。その旭川の主要な内港が、岡山城下の京橋港で、その下流河口に近い三蟠港がその外港であった。明治30(1897)年には四国の讃岐鉄道が高松と丸亀間で営業を開始、これを機に三蟠港と高松港を結ぶ海上37㎞の定期航路が開設される。岡山から瀬戸内海を隔てた高松までは、乗り換え時間を含めても4~6時間で連絡が可能となった。ところが旭川の川底には年々土砂が堆積し...旭川の船運(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 寺と街道 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    西国街道沿いに立地する國清寺は、池田藩の保護もあり、広大な敷地に壮大な伽藍を構える繁栄を見るが、時代が江戸から明治に変ると、寺の北側を通る街道は国道2号線となり、やがて寺領を削り国道は拡幅される事になる。更に昭和に入ると大戦が起こり、岡山空襲では、伽藍の悉くを焼失してしまう。幸い御本尊の南無釈迦尼佛は奇跡的に焼失を免れたものの、今日に残った建物は山門と鐘撞堂、大愚堂(座禅堂)位で有った。追い打ちをかけるように、戦後の都市計画等で敷地は大幅に縮小を余儀なくされた。路面電車の走る通りは、国道となったものの、旭川に架かる小橋、中橋、京橋がボトルネックとなり交通渋滞に悩まされ、新たな付け替えが検討されることになる。東山の東照宮から西に向かう通りを拡幅し新国道とし、旭川にも新橋をかける計画だ。それにより南側の寺領も...寺と街道(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 國清寺 (三蟠鉄道廃線跡を歩く)

    萬歳山國清寺(ばんざいさんこくせいじ)は、臨済宗妙心寺派の禅寺である。慶長14(1609)年、姫路城主・池田輝政の嫡子である池田利隆が建立した。利隆は、後に岡山藩主となる池田光政の父親に当たる人物である。当時の岡山藩下には、天台宗や真言宗等の密教系寺院や、日蓮宗のお寺が多く建立されていて、そんな地に臨済宗を招いたことは注目されたという。創建当初は「法源寺」と称していたが、その後「竜峰寺」と改称、現在の「國清寺」になるのは、寛永9(1632)年の事だ。池田光政が、国替えにより姫路から岡山に転じた年である。祖父輝政の法名「國清寺殿」による改称で輝政と父利隆の菩提寺とした。旭川を背にした寺は、東西81間(145.8m)、南北73間(131.4m)の堀と塀に囲まれ、4,500坪余りの敷地に伽藍を構え、池田家の繁栄...國清寺(三蟠鉄道廃線跡を歩く)

  • 鈴鹿峠 (東海道歩き旅・伊勢の国)

    京・大坂と関東を結ぶ東海道は、様々なルートの変遷を重ねて来た。とは言え、吉田宿(今日の豊橋)から東は早くからほぼ確定したルートがあり安定していたが、西のルートは時代と共に大きく変化している。取り分け尾張や三河国では、信長、秀吉、家康など、時の統治者の出身地や支配地なども街道のルート決めには大きく影響していた。しかし、それ以上に大きな要因は、当時の尾張地方の地勢が影響した。伊勢湾の海岸線は今よりも可成り深く入り込み随分北寄りであった。美濃との境には木曽三川が流れ下っていたが、当時は流れも定まらない暴れ川である。これを如何に越すかも問題で、可成り上流に迂回していたようだ。或は伊勢国から船便で直接三河国に渡る等の対応がとられている。更に難題は、鈴鹿山脈をどう越えるかで或る。山越えとし鞍掛峠、八風峠、千草峠、鈴鹿...鈴鹿峠(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • 八丁二十七曲(東海道歩き旅・伊勢の国)

    「なにおふ鈴鹿山は、八丁二十七曲がりにして道狭くして険し。清水所々に湧きて云々」鈴鹿峠(378m)を越える初めての道は、既に平安時代の仁和2年(886年)に開通している。官道は「阿須波(あすは)道」と呼ばれていた。芭蕉句碑の或る小公園の背後から再び厳しい山道を登ると、直ぐの所に「馬の水飲み鉢」があった。鈴鹿の山では所々で清水が湧き出ていて、こうして街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていたらしい。これは関町教育委員会により、平成4年(1992)年に復元されたものだ。鈴鹿峠の案内板には、平安時代の今昔物語集の話しとして逸話も紹介されている。「水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を、呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえた」という話などだ。東...八丁二十七曲(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • 鈴鹿の芭蕉句碑 (東海道歩き旅・伊勢の国)

    片山神社の前右手に、東海道鈴鹿峠を指す道案内板が見えている。すでに途轍もない急坂である。案内板の後ろにも急な細道が見え、これがどうやら本来の古道らしいが、道を塞ぐように案内板が建つところを見ると廃道となっているようだ。「八町二十七曲」の始まりは石垣で固められた九十九折りの急坂で、たちまち息が上がる。所々往時の者と思われる、石畳も敷き詰められ、既に苔むし古色を見せている。箱根の東坂や金谷坂は、川の丸石が多用されていて歩き辛かったが、ここは平らな石が多く比較的歩きやすい。これなら鈴鹿馬子唄を口ずさみ、馬を引いて歩く事も出来そうだ。前方に国道1号線の高架橋が見えてくると、旧道の様子が一変する。高架を潜る辺りからは、道路の開通で旧道が失われ、付け替えとして作られた階段道が延々と続き、コンクリート壁に付けられた道も...鈴鹿の芭蕉句碑(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • 片山神社 (東海道歩き旅・伊勢の国)

    国道を離れ右の旧道へと入り込むと、片山神社の大きな石柱や、嘗ての宿場町・古町跡等を見る辺りでは、心なし道の勾配も増してきた。この先は片山神社への参道を経て、いよいよ「八丁二十七曲がり」と言われた西の難所、鈴鹿峠越えの道が待っている。杉林の細道となった旧街道は、山道らしい装いに変わってきた。日差しが遮られ、落ち葉の積み重なった道には、黒い影がまだら模様を描いている。国道を行き交う車の喧噪もここまでは届かず、辺りは静寂に包まれている。聞こえるのは、鈴鹿川のせせらぎ、時折の小鳥の鳴き声と、落ち枝を踏み折る微かな靴音のみだ。宿場を出てから車どころか、誰一人と会ってはいない。やがて旧道は、片山神社の鳥居前に出る。説明によると、延喜式内社で、元は三子山をご神体として祭祀されていたが、火災により当所に遷されたとある。昔...片山神社(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • 古町 (東海道歩き旅・伊勢の国)

    鈴鹿峠に向かう本来の旧道の入口は、とうとう見付けられなかった。そのまま国道に出て600m程歩くと前方に片山神社の参道が見えてきた。するとその少し前に、右側の山から国道脇に降りてくる石段があった。そこには道標も有り、直進すれば片山神社まで0.2㎞、山に入ればバス停坂下まで1.1㎞と書かれているので、距離的にもこれが本来の旧道のようだ。岩屋観音前から本来の旧道に入れば、山裾を経て、どうやらここに下りてくるらしい。しかし10段ほど登る石段の先を覗うと、雑草が生い茂り、樹木が生い茂ったトンネル状態で、とても歩ける環境には無いようだ。関駅の案内所で貰った「東海道ぶらいマップ」にも、「岩屋観音から片山神社入口までは国道1号線の側道を通ります」と書かれていた。どうやら旧道は廃れていて、国道を歩いてきたのが正解のようだ。...古町(東海道歩き旅・伊勢の国)

  • 本来の旧道 (東海道歩き旅・伊勢の国)

    大名行列を横切った子供の身代わりとなった「身代わり地蔵」の小さな祠、金蔵院跡を見て進むと、やがて旧道は中橋を渡り国道に接する。その少し手前に「岩屋観音(清滝の観音)」が有る。高さ18mの巨岩に掘られた岩窟に、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されているという。「岩屋観音」が有る辺りが凡1㎞続いた坂下宿の、西の出口にあたる場所だ。この先のルートを国土地理院の地図を確認すると、宿出口が国道に接する手前に、右に入る道らしい筋が「鎖線」で描かれていて、どうやらこれが本来の旧道らしい。ところがこの道が歩けるのか・・・となると、確たる証しが無い。調べてみると或る本には、「杉林の中、せせらぎの音を聞きながら行くと片山神社がある」と簡単に書かれている。又「国道を600m程歩き、片山神社の参道を入る。杉木立...本来の旧道(東海道歩き旅・伊勢の国)

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