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徒然なか話 https://blog.goo.ne.jp/np4626/

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話の書き綴りです!

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2009/09/19

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  • 年末のご挨拶

    今年も多くの皆様に、当ブログをご訪問いただきありがとうございました。心より御礼申しあげます。今年もまた新型コロナ感染拡大のニュースを聞きながら年を越すことになってしまいました。来るべき新年も、様々な障害はあろうとも、皆様方が息災にお過ごしになりますことを心よりお祈りいたします。来年も当ブログをよろしくお願い申しあげます。筆主敬白2022.11.25梅林天満宮巫女舞年末のご挨拶

  • 青春の光 高校水球!

    gooブログ「徒然なか話」とともに僕はもう一つ「済々黌水球部の記録」というブログをエキサイトブログでやっている。とは言ってもなかなか更新できていなくて、今ではほとんど休眠状態というのが実情なのだが。そんなブログにこれまで済々黌の先輩や後輩などからはお便りをいただくことがあったが、このほど他校の出身者から初めてメールをいただいた。それは昭和43年(1968)の福井国体水球3回戦で済々黌と対戦したという大阪茨木高校出身のTさんという方だった。ブログには当時、済々黌水球部の部長を務めておられた平田忠彦先生が残された記録や写真を載せており、茨木高と対戦した時の写真も含まれていたのでTさんも高校時代を懐かしく思い出されたのだろう。フォワードをつとめていたTさんも写っている。また、Tさんからは当時のチームメイトから送...青春の光高校水球!

  • 紫のしらべ(再掲)

    先日、熊本市現代美術館で見た「グレン・グールド写真による組曲」という写真集の話を書いたが、実は当日もう一つ心に残った写真集があった。それは岡田三郎助の図録だった。東京本社勤務時代、よく昼休みに訪れたブリヂストン美術館には岡田三郎助の作品も何点か展示されていたが、なかでも「婦人像(紫調べ)」に一番心惹かれた。以前このブログにも取り上げたことを思い出し、一部修正して再掲することにした。ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋)は2019年7月に「アーティゾン(ARTIZON)美術館」に改称して再オープンしたが、そのアーティゾン美術館の所蔵品の中で、好きな作品の一つがこの岡田三郎助の「婦人像(紫調べ)」だ。岡田は佐賀県出身で、明治から昭和にかけて活躍した洋画家である。女性像を得意としている。副題の「紫調べ」というの...紫のしらべ(再掲)

  • 今年も「敦盛」が強かった!

    YouTubeマイチャンネルの今年の最多再生回数動画は、昨年に引き続き「幸若舞敦盛」(12月27日現在33,953回)になることがほぼ確定した。2015年に初めてアップして数年の間、再生回数は毎月数回にとどまっていたことがウソのようだ。幸若舞は中世芸能の一つで、舞とはいえ単純な動作の繰り返しで、語りがとても重要な芸能。中でも最も人気の高い「敦盛」の字幕版を2017年にアップしたことが再生回数の大幅増加につながったと思われる。幸若舞の詞章を記した「舞の本」が公開されているのは大いに助かった。今日では福岡県みやま市瀬高町に唯一残る幸若舞は、毎年1月20日に大江天満神社幸若舞堂で奉納が行われる。大江幸若舞(大江天満神社幸若舞堂)▼2022年・2021年の最多再生回数動画「幸若舞敦盛」▼2020年最多再生回数動画...今年も「敦盛」が強かった!

  • ほうがく小噺

    今月5日は十八代目中村勘三郎の没後10年に当たる日だったのでテレビで追悼番組でもやってくれるかなと期待していたが、特に何もなかったようだ。大河ドラマ「元禄繚乱」総集編でも再放送してくれれば嬉しかったのだが。そんなことを考えていたら、本條秀美さんが出演された場面のことをふと思い出して、あの場面で演奏された曲は何だったのだろうと気になり始めた。このドラマの邦楽指導を務めたのは本條秀太郎さんだったので一門の方が何人か出演されていて本條秀美さんもその一人だった。出演シーンは勘三郎さん(当時は勘九郎)扮する大石内蔵助が京都伏見橦木町遊郭の笹屋で遊興する場面だ。芸妓に扮した本條秀美さんたちが何か演奏していたのだがどんな曲だったのか全く憶えていない。そこで本條秀美さんにおたずねしてみた。秀美さんによれば、演奏したのは既...ほうがく小噺

  • 二様の石垣の新説

    今日、「熊本県公式YouTubeチャンネル"くまもとのちゃんねる"」を見ていたら、「その熊本城情報はもう古い?二様の石垣の新説・・・」という動画が目についた。ローカルタレントの慶徳二郎が現場に出向き熊本城総合事務所の下村哲生主幹から「二様の石垣の新説」について説明を受けていた。この新説と言うのは3年前の8月23日、熊日新聞に掲載されたのでこのブログでも取り上げたことがある。熊本城の竹の丸から本丸へ登る途中の見どころの一つ「二様の石垣」の築造年代は、これまでいわれてきた、傾斜が緩やかな手前の石垣が加藤時代、奥の急傾斜が細川時代と伝えられてきたが、最近の調査研究によれば石垣の特徴や史料の分析から、どちらも加藤時代に築造されたのではないかというものだった。そこで疑問。熊本県公式YouTubeチャンネルでその説が...二様の石垣の新説

  • 一期一会

    最近、なぜか「一期一会(いちごいちえ)」という言葉がよく頭に浮かぶ。「一期一会」とは、茶道の始祖である千利休の教えといわれ、「人との出会いや機会は二度と繰り返されることがなく一生で一度きりの出逢いだと思い誠意を尽くすべきである」という意味だそうである。これまでの人生を振り返ってみると多くの人との出逢いがあったが、一度きりの出逢いも数多い。近年の出来事を思い出すと、京陵中学校前の漱石句碑の前で出会った旅の老婦人。京町で筑後柳川への帰り道をたずねてきたスクーターのおじさん。泰勝寺跡(立田自然公園)で突然話しかけてきた謎のご婦人。番所の棚田で出逢った一人旅の若い女性。二の丸広場でなぜか僕にずっと付いて来た見知らぬ男の子等々、「あゝもっとこう言えばよかった」とか「もっと違う接し方があったのでは」などと後になって反...一期一会

  • クリスマスイヴのたわいもない話

    たまには上通の書店でも覗いてみようと歩いて出かけた。途中、坪井橋のたもとで信号待ちをしていると、セブンイレブンから出てきた綺麗なお姉さんが赤い可愛らしい自転車を手押ししながらとなりに並んだ。ダウンチューブに「chari」の文字が。熊本市がシェアサイクルの実証実験をやっているというニュースが記憶にあったので、これがそうかなと思い「これ、貸し出しのやつですか?」と声をかけた。「そうです!1分6円で借りられますので便利ですよ」と言いながら彼女は自転車にまたがり、信号が青になると颯爽と走り去った。(写真:熊本市のサイトより)書店で何か興味が湧くような本でもないかと見て回ったがこれといってなし。熊本市現代美術館へ移動し、美術関係の図書が豊富なギャラリーへ直行。興味をそそるような図書が並ぶ中、「グレン・グールド写真に...クリスマスイヴのたわいもない話

  • 年賀状の季節

    そろそろ年賀状を作ろうと思う。同世代の知人は「年賀状終い」を告知される方が増えた。自分はもうちょっと続けてみようと思う。かつては5、6人の方から年賀状の作成依頼があったものだが、それも今年はお一人だけとなった。パソコン指導に訪問していたS先生が亡くなられてもう11年経ったが、いまだにこの季節になると、S先生から年賀状作成依頼の電話がかかってきそうな気がする。当時80歳を超えておられたS先生が、毎年描かれる熊本城の水彩画をスキャンし、その画像を年賀はがきに貼り付けて仕上げるのが恒例となっていた。今年はどのアングルから熊本城を描かれたのだろうかと、先生から水彩画を預かる時はワクワクしたものだ。写真を使うのもいいが、絵の持つやわらかく深い味わいは写真では出せない。最後の3年間の作品を並べてみた。平成22年作平櫓...年賀状の季節

  • 今年忘れられない風景(3)~甥の結婚~

    今年7月の甥賢太の結婚式も思い出に残る風景となった。結婚式へ出席するのももう随分久しぶりだったし、しかもこれまであまり経験のないチャペルウェディングだったこともある。会場となったホテル日航熊本でのセレモニーでは、讃美歌もナマのオルガンやトランペットの演奏に女性の聖歌隊が雰囲気を盛り上げた。新型コロナ第7波のさなかで、感染防止策に最大限の神経を使いながらの結婚式は準備や進行も大変だったろう。讃美歌「いつくしみ深き」は文部省唱歌「星の界(ほしのよ)」としてよく知っている歌でもあり感動もひとしおだった。季節はクリスマス。「いつくしみ深き(WhatAFriendWeHaveInJesus)」を、パティ・ペイジの歌とニューオリンズ・ジャズ・ハウンズの演奏するジャズバージョンで聴いてみた。今年忘れられない風景(3)~甥の結婚~

  • 江戸時代の貨幣価値

    テレビドラマといえば最近ではほとんどBS放送の旧作時代劇しか見ていません。「鬼平犯科帳」「剣客商売」「夜桜お染」などのシリーズを楽しんでいます。時代劇を見ていて気になるのが、物の値段がよくわからないことです。よく、茶店でお茶と団子でひと休みした旅人が「おやじ、ここに置いとくぜ」と銭をバンコの上に置いて出て行く場面がありますが、いったいいくら払ったのか、現代のお金に換算するといくらになるのかが気になります。江戸時代の貨幣価値を現代の金額に換算した資料はたくさんありますし、ネット上にも多くの解説がありますが、それぞれ微妙に違っていたりしてよくわからないというのが正直なところです。落語「時そば」などでお馴染みの屋台蕎麦をとってみても、「二八蕎麦」といわれたように十六文という安価な蕎麦の代名詞となっていたようです...江戸時代の貨幣価値

  • 寒ッ!阿蘇も雪景色

    昨日今日と寒い寒い!熊本市の気温も最低は氷点下、最高も7℃くらいまでしか上がらなかった。昨夜は早々に床に就き、首だけ出しテレビ鑑賞して夜を過ごした。見逃せない番組が二つあった。一つはEテレの「クラシック音楽館」。N響が井上道義の指揮で伊福部昭の「シンフォニア・タプカーラ」を演奏するという。この曲は実は3年ほど前、筝奏者の佐藤亜美さんからいただいたCDに収められていて二十五絃筝四重奏では何度か聞いていた。しかし、オーケストラで聞くとまた別の音楽世界が展開する。伊福部の原体験であるアイヌ民族の古謡や舞踊が目に浮かぶような気がした。明日は伊福部の曲で最も好きな「琵琶行」を聴こう。その後はいよいよフランスvsアルゼンチンのW杯決勝だ。前半は予想に反してアルゼンチンが一方的に攻めまくる。1点目のPKはしかたないとし...寒ッ!阿蘇も雪景色

  • 雁木坂のはなし。

    「津々堂のたわごと日録」さんが「雁木坂(がんぎざか)」(熊本市中央区)の話題をブログに取り上げておられた。熊本地震ですっかり景観が変わってしまってから散歩でもあまり行かなくなっていたことを思い出し、随分久しぶりに雁木坂を歩いてみた。現在の雁木坂熊本地震前の雁木坂今さら見映えが悪くなったことを嘆いても仕様がなく、安全性が増したことを喜ぶべきなのだろう。この坂は歴史のある坂で、石の標柱には次のように記されている。――雁木坂は内坪井から中坂を通って本妙寺へ通じる唯一の参道であった。坂は石段で作られ梯子坂ともいう。頓写会の夜は雁木坂も軋む程賑ったという。――また、熊本市発行の「城下町みてある記」には次のように紹介されている。――雁木坂とは、急な坂に横木を雁木(階段)のように埋め込んだので付いた名前です。中坂から京...雁木坂のはなし。

  • 今年忘れられない風景(2)~雨のくまもと花博~

    3月19日から始まった全国都市緑化くまもとフェア「くまもと花とみどりの博覧会」は5月22日までの二ヶ月余、「街なかエリア」「水辺エリア」「まち山エリア」の三つのエリアに分かれて開催された。「くまもと花博」2日目の3月20日、「街なかエリア」の花畑広場会場を見に行った。あいにく小雨そぼ降る天気に見物客もまばらな中、美しい花々が雨のしずくを湛えながら健気に咲いていた。そぼ降る雨の中、熊本城もかすんで見える。しずくを湛えながら健気に咲く花々「くまもと花博」開催に合わせ、城彩苑わくわく座では舞踊団花童&はつ喜による創作舞踊公演が行われた。今年忘れられない風景(2)~雨のくまもと花博~

  • 今年忘れられない風景(1)~御衣黄桜~

    今年もいくつかの忘れられない風景があるが、中でも白眉といってもさしつかえないと思うのが4月18日に見た御衣黄桜(ぎょいこうざくら)である。御衣黄桜はこれまでも毎年のように見ているが、今年、熊本城三の丸の漆畑で見た御衣黄桜は特に美しかった。「萌黄(もえぎ)」とも呼ばれる御衣黄の色合いはいつ見ても爽やかで心が洗われる思いがする。御衣黄の名前の由来は、平安時代の貴族の着物の色「萌黄(もえぎ)」に似ているからだという。「萌黄」を辞書で調べると「襲 (かさね) の色目の名。」とある。服飾関係のサイトで調べてみると、十二単(じゅうにひとえ)の構成は、「唐衣(からぎぬ)・表着(うはぎ)・打衣(うちぎぬ)・五衣(いつつぎぬ)・単衣(ひとえ)・長袴(ながばかま)・裳(も)からなる」とあり、そのうち「表着」に「萌黄」色を使う...今年忘れられない風景(1)~御衣黄桜~

  • 観光バスと「阿蘇の恋歌」

    今日は「観光バスの日」だそうだ。そういえば、朝、車を起動した時カーナビがそう言っていたような。大正14年のこの日、東京乗合自動車により日本初の定期観光バスが運行されたのだそうだ。僕が小中高時代を過ごした昭和30年代、高度経済成長期の始まりとともに観光バス旅行がブームになった。当時、熊本城の西出丸は駐車場になっていて、観光バスが行幸坂を登って次から次に入って来る光景をよく憶えている。そして観光バスといえばバスガイドさん。バスガイドさんといえば観光ガイドのまにまに披露される歌が乗客の愉しみだった。多くの観光客が熊本を代表する観光地阿蘇を訪れ、バスガイドさんが歌う「阿蘇の恋歌」を耳にするようになった。「阿蘇の恋歌」は阿蘇旅行の思い出の歌として広く知られるようになった。ところが、経済成長とともにマイカーが普及する...観光バスと「阿蘇の恋歌」

  • 殺生石の伝説は生きていた

    ネットニュースに「"殺生石"にイノシシ8頭死骸」という読売新聞の記事が載っていた。殺生石のある那須湯本一帯は地中から硫化水素などの有毒な火山ガスが噴出する地域として知られており、イノシシたちもガスを吸ったのではないかと推測されているという。まさに「九尾の狐と殺生石」の伝説は今日も生きていたわけだ。今から40年近く前、那須で勤務していた頃、那須湯本にあった会社保養所を度々訪れたが、地元出身の管理人さんから飲酒後に温泉に入る時は特に注意するように言われていた。風呂場の床で寝込んでしまった人が硫化水素を吸って亡くなったこともあるという。会社保養所から殺生石はほど近く何度も訪れたが、科学的知識がなかった昔の人々は不思議な魔力として怖れたに違いないと思ったものだ。殺生石「九尾の狐と殺生石」の伝説は能の題材にもなって...殺生石の伝説は生きていた

  • セント・ルイス・ブルース

    今日のBSプレミアム「プレミアムアーカイブスハイビジョンスペシャル世紀を刻んだ歌2~セント・ルイス・ブルース~」は感動的だった。初回放送は2002年だそうだから20年前になるが僕は初見だった。アメリカのアラバマ州で生まれた黒人のW・C・ハンディが、無一文でセントルイスの橋の下に野宿していた頃、施しを受けた黒人娼婦のひと言から発想してこの歌が誕生したこと。この歌を世界に広めたのは、1917年に始まった第1次世界大戦に参戦したアメリカ軍の「ハーレム・ヘル・ファイターズ」と呼ばれた黒人部隊が楽団を編成し、戦地で「セント・ルイス・ブルース」を演奏したことがきっかけだったこと。その後、ドイツにナチスが台頭するとジャズは「敵性音楽」として徹底的に弾圧されたこと。さらに第2次世界大戦後の冷戦時代に入るとソ連のスターリン...セント・ルイス・ブルース

  • 冬の散歩道

    秋から冬への移ろいの中、わが街を散策してみた。なぜか、サイモン&ガーファンクルの「冬の散歩道」が思い出されたが、あの歌のような「AHazyShadeofWinter(かすんだ冬の陰)」というわけでもなく、日差しもあってわりと暖かく気持のよい散歩だった。往生院の紅葉落葉に埋もれた庭石(往生院)「JIN-仁-」の時代の蘭方医・奥山静叔の墓(往生院)百体目の放牛石仏と紅葉(往生院)藤田嗣治(レオナール・フジタ)画伯の旧居跡の碑(稗田町)わが母校・熊大附中京町本丁漱石記念緑道の漱石句碑京町柳川の大銀杏サイモン&ガーファンクル「冬の散歩道」冬の散歩道

  • 黒織部沓茶碗

    今日のお昼、TKUテレビ熊本で放送された「開運!なんでも鑑定団」を見ていたら、桃山時代の志野焼と織部焼合せて8点に1千万円の値がついた。なかでも「黒織部沓茶碗」は200万円の鑑定。放送を見ながら4年前に八代の松浜軒(松井家御茶屋)ギャラリーで見た「黒織部沓茶碗」を思い出した。僕は茶の湯の経験もないし、骨董品の趣味も持ち合わせていないが、八代市立博物館に行った帰り、ついでに近くの松浜軒に立ち寄り、邸内を見て廻った後、ギャラリーを覗いてみた。ギャラリー内を見まわすと、なぜか真っ先に目についた茶碗があった。その茶碗に近付くと、入口に立っていた係員の女性がすっと寄って来て「黒織部です」とひと言。「黒織部」という名前は聞いたことはあったが、現物を見るのは初めてだった。何か一種独特のオーラを感じた。古田織部については...黒織部沓茶碗

  • 金売吉次の伝説と吉次峠

    今日の玉名からの帰りはいつもの河内経由とは趣向を変えて、久しぶりに吉次峠を越えた。吉次往還沿いもだいぶ観光地として整備が進んだようだ。半高山の頂上に車を停め、有明海方向や田原坂方向や阿蘇山方向などを眺めてひと時を過ごした。吉次峠が田原坂や横平山とともに西南戦争の最激戦地であることはいろんなメディアで知られているが、そもそもなぜ吉次峠と呼ばれるようになったのかが興味深い。吉次峠の名の由来は、金売吉次と呼ばれた金商人が、ここで盗賊に遭い殺害されたという言い伝えからその名がついたといわれている。金売吉次は、室町時代に成立した「義経記」などの物語に登場する伝説上の人物。平安時代後期、奥州の金と京の物品を交易し、莫大な財を築いたことや、牛若丸(源義経)を奥州の藤原秀衡のもとへ連れて行き、源氏の経済的支援者となったと...金売吉次の伝説と吉次峠

  • 往く秋を惜しみつゝ

    ▼本妙寺参道熊本地震で被災した本妙寺仁王門の修復工事は終わったものの、石段下のバイパストンネル工事が来年3月まで続くため、仁王門は未だくぐれず、紅葉の見ごろというのに参拝者は少ない。▼旧細川刑部邸コロナの水際対策が緩和されたためか、インバウンドは確実に増えている。熊本城域を歩くと中国語(台湾系?)の会話を聞くことが多くなった。▼熊本城宇土櫓櫓を鉄骨の素屋根を組み立てて覆う工事が始まり、その基礎工事中。素屋根組み立てが終わる来年秋ごろから宇土櫓の姿は見られなくなる。櫓の解体工事完了は2025年末の予定で、宇土櫓が再びその姿を現すのは約10年後という。往く秋を惜しみつゝ

  • 熊本城と能「白田村」

    文化庁は日本の文化芸術の振興を図り、その魅力を発信するため、能楽協会とともに、“能楽を通した日本の再発見”をコンセプトとしたデジタルコンテンツ「能楽を旅する」の企画として、「日本の名城×能楽」をテーマとした特設サイトを公開している。その中には「熊本城×能楽」も含まれているが、近く能楽の映像として喜多流の能「白田村」が公開される。「白田村」は物語は「田村」と同じだが、シテである坂上田村麻呂の神格化を一層際立たせるため、白を基調とした装束にするという喜多流特有の小書き(特別演出)なのだそうだ。「田村」はこれまで何度も見た能で馴染みもあり、個人的にはわが父の思い出の曲でもあるので、「白田村」のイメージがどう変わるのか楽しみだ。上の画像をクリックすると「能楽を旅する」のサイトへジャンプします。わが父が幼い頃、思い...熊本城と能「白田村」

  • 四海波からの~阿蘇神社

    RKK熊本放送で再放送中の「水戸黄門」は今日、第1部の最終話「水戸の白梅」を放送した。黄門様は東野英治郎、格さんは横内正、助さんは杉良太郎という初期メンバー。話は全国漫遊から水戸に帰った御老公一行、御老公は大日本史の編纂に勤しむ。助さんは城代家老の引退騒動に巻き込まれたりしながら、格さんは城代家老の娘との婚礼が行われる。助さんは「四海波」の謡で祝う、といった内容。「四海波」というのは謡曲「高砂」の一節で、天下泰平を言祝ぐ詞章なので婚姻や祝賀の席で謡われることが多い。一般的には「四海波」の少し後に謡われる「高砂やこの浦船に帆を上げて」の方が婚礼などでお馴染みだが、こちらは阿蘇神社の神主友成一行の道中を謡っていて特に言祝ぎの詞章ではない。ところで阿蘇神社といえば、来年末にシンボルである楼門の再建完成を待つのみ...四海波からの~阿蘇神社

  • 晩秋の岩戸の里

    先日、玉名からの帰りいつものように河内町を経由して河内川沿いに山越えをして帰ったが、実は途中の「鼓ヶ滝」を過ぎた辺りで右折し、雲厳禅寺方向へ進む場合と、真っすぐ鳥越峠を目指す場合とその日の気分でルートを使い分けている。先日はしばらく行っていなかった雲厳禅寺方向に右折することにした。岩戸観音のある霊巌洞はまた次の機会に行くことにして雲厳禅寺でお参りを済ませると早々に、みかん畑が続く農道を登る。上を走る「通称パイロットロード」に出る辺りに絶景ポイントがある。岩戸山を背景にして雲厳禅寺の大銀杏が見え、岩戸の里の小さな集落が一望できる。平安時代の閨秀歌人檜垣が最晩年を過ごした「山下庵」があった辺りの木立ちや野仏を眺めていると、謡曲「檜垣」の冒頭の一節を思い出す。しかし、所々記憶が抜け落ちていてとびとびにしか出て来...晩秋の岩戸の里

  • 坪井川の汚濁と川の歴史

    今日は家内と玄米を搗きに高平のスーパーへ行った。帰りは途中で僕だけ車を降り、坪井川沿いに歩いて帰った。先日、新聞で坪井川の汚濁問題が報じられていたのが気になっていて、川の状態を観察しながら帰ろうと思った。汚濁の原因は上流の鶴羽田町にある県の熊本北部浄化センターの処理技術の問題のようだ。観察しながら歩いているとたしかに落差のある箇所で泡立ちが見られる。しかし今日見た高平から寺原の区間の見た目はほとんど綺麗な流れで、所々で下の写真のようにマガモが泳いでいた。思えば今から60年ほど前、まだ木橋だった永康橋を渡って高校通学していたが、橋の上から澄んだ水の中に川魚が群れをなして泳いでいる光景を眺めたものだ。汚濁問題が解決し、昔の清流が戻る日を楽しみにしたい。今日歩いた区間の終点である寺原は明治から昭和初期にかけて熊...坪井川の汚濁と川の歴史

  • 漱石の家

    二日遅れの朔日詣りに藤崎八旛宮へ行った。帰りは参道から横道に入り、北千反畑町の「夏目漱石第六旧居」前を通った。ここは熊本市が買い取ったらしいが、その後何の動きもない。さらに内坪井の「夏目漱石第五旧居」の前を通る。ここは熊本地震で被災したが、建物の修復は終わり、現在内装工事が行われており、今年度中(~2023年3月)にはすべての復旧工事が終わる予定だそうだ。漱石は五高教師として明治29年4月に熊本にやって来て、明治33年7月、文部省の命を受けて英国留学のために熊本を離れるまで4年3ヶ月熊本に滞在した。その間、転居を繰り返し、旧居は6ヶ所にわたる。そのうち第一旧居の「光琳寺の家」、第二旧居の「合羽町の家」、第四旧居の「井川渕の家」は現在残っていないが、第三旧居、第五旧居、第六旧居の3ヶ所が残っているのはとても...漱石の家

  • 五足の靴とおてもやん

    先日、県立図書館に行った時、いつものように江津湖畔を散策した。加勢川沿いに歩いていくと図書館の南側に「旧砂取細川邸庭園」がある。肥後熊本藩10代藩主・細川斉護公の正室・顕光院の隠居屋敷跡である。ここはその後変遷を重ね、「五足の靴」に登場する「勢舞水楼(せんすいろう)」、料亭「江津花壇」、井関農機保養所「江津荘」(わが父が利用したことがあるらしい)などと変遷した。「五足の靴」というのは、明治40年7月から8月にかけて、歌人与謝野寛が、まだ学生だった木下杢太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を引き連れ、九州を中心に各地を旅した時の紀行文「五足の靴」のことである。その中で江津湖の屋形船で涼を楽しむくだりがある。そこに二人の芸妓がやって来て民謡「おてもやん」を披露するのだが、この二人が当時「土手券」と呼ばれてい...五足の靴とおてもやん

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