藤原有家後の世を知らせがほにも篝火のこがれて過ぐる鵜飼舟哉藤原有家フジワラノアリイエ久寿二~建保四(1155-1216)藤原重家の3男。母は藤原家成の娘。従三位,大蔵卿となる。六条家の有力歌人で,和歌所寄人,「新古今和歌集」撰者のひとりにえらばれた。「千載和歌集」以下の勅撰集に67首がはいる。今日は水曜稽古届いたお菓子は練切の撫子と生麩まんじゅう夏らしい美味しかった写真はうちの猫ミーちゃん後の世を
藤原良経佐保姫の霞の袖の花の香も名残は尽きぬ春の暮かな【藤原良経】フジワラノヨシツネ[1169~1206]鎌倉初期の公卿・歌人・書家。九条兼実の子。摂政・従一位太政大臣となり、後京極殿と称される。歌を俊成に学び、定家の後援者でもあった。書では後京極流の祖。今日はお茶碗研究会薩摩焼のお勉強薩摩焼は、鹿児島県の陶磁器。竪野系、龍門司系、苗代川系、西餅田系、平佐系、種子島系など白薩摩は白もん黒薩摩は黒もんとも呼ばれた薩摩焼苗代川系(当初黒もん、現在は白もん)、龍門司系(黒もん中心)、竪野系(白もん中心)の3つの窯場があるとネットにあった名残は尽きぬ春の暮かな
公達に狐化たり宵の春蕪村もうすぐ風炉なのでその準備風炉釜は真形と筒釜風炉を二台眉ぶろと道安風炉それに奉書をひき底瓦を置いて灰を入れる五徳を置いて釜の高さ調整あとは灰形を作るのみだ四月もあと少し春宵価千金宵の春
曽根好忠山姫の染めてはさぼす衣かと見るまでにほふ岩つつじかな今日は茶事の水屋御弟子様のサカチカさんの茶事だまだ炉の季節だが風炉でのおもてなしにしたそうな風炉だと挨拶のあとすぐにお膳を出さないとならず忙しい汲み出しをお出しする頃ご飯に火をつけたお客様の席入挨拶が始まるガスコンロに掛けたご飯の蓋をそっとあけるとグツグツしてまだ水がたくさんある飯椀に一口盛るご飯に芯が残りまだちゃんと炊けてない状態汁椀は温めて青紅葉麩の種カラシをのせて準備完了蓋をして待っているがなかなかお話しが終わらない茶道口近くにより早めにお願いしますと手をぐるぐる回すでないとご飯が冷める味噌汁の種は暖めてあるので熱々の味噌汁を張るだけだようやく挨拶が済んだあとは集中集中常のように懐石を終えて初炭菓子で中立後座は濃茶後炭薄茶となってお開きスイ...岩つつじかな
藤原忠通うのはなのさかぬかきねはなけれどもなにながれたる玉川の里今日は昨日に続いて木曜稽古掛物は桜も藤も終わって卯の花の和歌の美麗な短冊和歌の意味は卯の花の咲いていない垣根はないが、やはり名高く聞こえたこの玉川の卯の花の里はいいものだ玉川は「美しく清らかな川」六玉川と言われている六つの玉川があるこの和歌もその一つ大阪摂津の玉川は→卯の花の名所。京都、井手の玉川は→山吹。志賀、野路の玉川は→萩。東京、調布の玉川は→川にさらす布。和歌山、高野の玉川は→旅人、氷。宮城、野田の玉川は→千鳥。この和歌を詠んだのは藤原忠通フジワラノタダミチ[1097~1164]平安後期の公卿忠実の長男別称、法性寺殿ホッショウジドノ摂政・関白父および弟頼長と対立し、保元の乱の原因となった書にすぐれ法性寺流の開祖漢詩集「法性寺関...卯の花の咲かぬ垣根
紀貫之人もなきやどに匂へる藤の花風にのみこそ乱るべらなれ今日は文の会いつものイタリアンで待合せおつまみにグラスワインパスタを二種類満足だ家に戻れば珈琲を飲んで一休みちっとお喋りのあとお持たせのロールケーキをカットし紅茶を沸かすあまおうが入っているが生クリームもカステラも甘くない甘くないにも程があるだろう淡白過ぎて勿体ないなんて食べてばかり伊勢物語を少しだけ音読声がかすれて出ない結局食べてばかりだった写真は都内の公園の藤棚友人の板子さんが撮ったきっと藤の花の香りもしたであろう藤の花の香りには、筋肉の緊張を和らげ疲れを癒し痛みを和らげ頭をスッキリさせる作用があるそうだ人もなき宿に匂へる藤の花
与謝野晶子春はただ盃にこそ注ぐべけれ智慧あり顔の木蓮の花昨日は木曜稽古椿はほぼ終了代わりに庭の野草が芽をだし始めた葉を広げ蕾を抱く芍薬その足元に小さな地エビネ紫蘭それにシャガ(射干)別名は胡蝶花あとフタリシズカ鳴子百合宝鐸草窓の外には黄エビネ見上げると木蓮も蕾がある木戸のもみじは葉柄を長々と伸ばし始めいま丁度花を咲かせてる一部はプロペラの種を持っているこのところは庭に降りるのが楽しみだ写真はイノさんが送ってくれた某有名庭園の藤見事智慧あり顔の木蓮の花
海棠の花のうつつや朧月其角今日は水曜稽古雨が降ったり止んだり暑かったり寒かったり春の気候は疲れるね稽古の花をまずは切り取りしばし流し水にしておくとよく水が上がる鳴子百合が可愛らしい炭手前は自在に手取釜もうひとつの炉は裏鏊釜ウラゴウガマの透木の扱い炭手前は初炭手前後炭手前に盆香合初炭所望後炭所望などそれに大炉吊り釜透木釜茶飯釜など色々炭手前は楽しい朧月
藤原定家春のおる花のにしきのたてぬきにみだれてあそぶ空のいとゆふいとゆふとは①春の晴れた日に、蜘蛛の子が糸に乗じて空を浮遊する現象。蜘蛛の糸が光を受けて流れ乱れるさまは、薄い絹織物にたとえられる。また、蜘蛛の糸が光の加減で見えたり見えなかったりするところから、あるかなきかのものにもたとえられる。遊糸(ゆうし)。《季・春》②春あるいは夏の晴れた日に、地面から立ちのぼる気。陽炎(かげろう)。③「いとゆうむすび(糸遊結)」の略。(コトバンクより)写真はうちの猫ミーちゃん写真を撮られるのが嫌い寝てるかと思ったら薄目あいてる空のいとゆふ
大伴四綱ヨツナ藤浪の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君大伴四綱オオトモノヨツナ奈良時代の官吏。天平(729-749)初年のころに大宰府防人司佑(さきもりのつかさのじょう)をつとめた。17年雅楽助(ががくのすけ)となり,正六位上をさずかった。「万葉集」に歌5首がおさめられている。名は四縄ともかく。今日は東京美術倶楽部の「和美の会」4月の今日13日と14日にひらかれる全国の有名茶道具商が集まっての展示即売会拝見するだけでとても勉強になるのだお道具屋さんがカタログを送ってくれたけど何も買わないのでいや買えないので手土産にお菓子を持っていった三階のお店の場所を確認し早足で行くがそのブースの椅子に年配の男性が座ってる確かに見たことある人だ「駄菓子ですが」と手渡したところが一軒店を間違えていた目指すは隣の店だっ...藤浪の
大伴家持うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば今日は木曜稽古蛭釘に自在を吊り手取釜を掛けるもう一つの炉には裏鏊釜(うらごうがま)で透木の扱いのお稽古炉の茶の湯もあとわずか裏鏊釜ウラゴウガマは天命作の鏊ヤキナベの底が見事であるところから考案されたと。鏊ヤキナベをさかさまにし、底に穴をあけ釜の口とし、これに別に作った底を後から取付け釜に仕立てたもの。とか宗旦好みは、釜の胴と底の部分に段があり、裏に左右に二つづつ計四つの賽の目の鐶付が付き、そこに鉄の舌のような形をした端立を差し込んで透木に掛けて使用。今使ってるこの裏鏊釜ウラゴウガマは黒豆さんから頂いたもの上記と同じようなのでどうやら宗旦好みらしい写真は我が家の紅葉先週からの雨で物凄いスピードで成長してる葉が伸びてきたなと思ったら紅...うらうらに照れる春日
源具親ミナモトノトモチカ難波潟かすまぬ波も霞みけりうつるもくもる朧月夜に源具親ミナモトノトモチカは鎌倉時代初期の公家・歌人。村上源氏俊房流、右京権大夫・源師光の次男。官位は従四位下・左近衛少将。小野宮少将と号す。新三十六歌仙の1人。今日は水曜稽古和歌色紙を掛ける筆者は中園季定ナカゾノノスエサダ1627-1686公卿。中園家の祖。高倉嗣良の末子。小倉実起の弟。従二位参議。貞享3年(1686)歿、60才。朧月夜に
潅仏や蔦の若葉もあゆみそめ千代女灌仏カンブツとは1仏像に香水(こうずい)を注ぎかけること。また、その仏像。浴仏。2「灌仏会(かんぶつえ)」の略。今日は灌仏会、花まつり月に一度、古筆の勉強会伊予切。大正13年に分割されるまで伊予松平家に伝わった為。『和漢朗詠集』を書写した粘葉装冊子本。伝称筆者を藤原行成(972〜1027)とするが、「高野切」第三種表に藍と紫の飛雲を漉き込み、表裏に雲母砂子を撒いた白鳥の子の料紙上下二帖の筆跡は三種に分かれて①伊予切の第一種上巻の前半(高野切第三の古筆と同筆)②伊予切の第二種「秋夜」の後半以降と下巻のはじめ十二頁まで③伊予切の第三種その他は後世の補写か難しいね写真は今日のランチ蔦の若葉もあゆみそめ
土岐二三火宅ともしらで火宅にふくめしは直に自在の鑵子なりけり土肥二三どひ・じさん生年:寛永16(1639)没年:享保17.1.6(1732.2.1)江戸前期の茶人。土岐二三とも。名は豊隆,通称孫兵衛。生没年には異説もある。三河吉田の牧野成貞に仕え,物頭役200石。茶,琵琶,香にすぐれ,伽羅の名香や銘「杜鵑」の琵琶を所持した。茶の湯は織田貞置に有楽流を学ぶ。元禄3(1690)年致仕して京都岡崎に隠棲。自在軒と号。近衛家煕,鷹司輔信らと交流,数寄者として知られた。(朝日日本歴史人物事典)今日は土曜日着物を着て銀座谷庄の茶会へそのあとは綱島のふくもとで食事会平和で満点の一日写真はお花見のような口取り火宅ともしらで
写真は加藤義清春花の乱れ心に似ぬものや梢ににほふ春の夜の月加藤義清カトウヨシキヨ元治元年(1864)~昭和16年(1941)享年78歳歌人・御歌所寄人。名古屋生。号は蕉陰・鏡迺舎。菊間平八郎の五男、加藤安彦孫娘婿。従五位・勲五等に叙せられる。著書に『火筒のひびき』『渡るに安き安城の』等がある。以前にアップしたものコピーしたもの昨日は木曜稽古今日は半年に一度のガンの検査異常は無しです手術してから十年経ちましたね今までのように検査は半年でなくてもという先生いえいえ私目心配性なので今後もお願いいたしますはいではそうしましょう春の夜の月
江戸人は上野をさして春の山子規今日は月に一度の小熊の花月廻り炭と濃茶付花月午前と午後の斑それぞれ一回ずつ《廻り炭之式》無学宗衍ムガクソウエン江戸後期の臨済宗の僧。大徳寺三百七十八世。無学は字、宗衍は諱、把不住軒と号する。玉林院の龍門宗禹の法を嗣ぎ、のち明和4年大徳寺に出世。後桜町天皇より至聖大妙禅師の勅号を賜る。寛政3年(1791)寂、71才。その無学の廻り炭の偈頌ゲジュは端的底看聻タンテキテイニミヨニイ炭をつぐことの極意どうやって炭を置けば最も火がおこりやすく無駄がないか湯の沸く時間みかたや置き方を修練する一人一人の炭のつぎ方を拝見してその風情や変化を学ぶもの無理なはさみかたをして炉壇を傷つけたり次の人が炭をあげるのに困るような置き方をしては極意とは言えない炉の時のみの廻り炭思ったより時間がかから...江戸人は上野をさして
春水や四条五条の橋の下蕪村今日は読売カルチャー高山右近タカヤマウコン安土桃山時代の武将。キリシタン大名。名は長房、重友、友祥(ともなが)。右近は呼び名。洗礼名ジュスト。織田信長、豊臣秀吉の臣として戦功があり、高槻・明石に封じられた。禁教後マニラに追放され客死。茶人としてもすぐれ、利休門下七哲の一人。天文二一~元和元年(1552~1615)キリシタン大名とは室町から江戸にかけ、当時のカトリックの教徒となった大名。九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、近畿の高山右近、小西行長等がいる利休七哲と前田利長(加賀の肥前)、蒲生氏郷、細川忠興(三斎)、古田織部、牧村兵部、高山南坊(右近)、芝山監物の七人これは千宗旦(利休の孫)が話したもの。その後、七人のうち前田利長を外し、瀬田掃部に入替えられている。写真の椿は羽衣四条五条の橋の下
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藤原有家後の世を知らせがほにも篝火のこがれて過ぐる鵜飼舟哉藤原有家フジワラノアリイエ久寿二~建保四(1155-1216)藤原重家の3男。母は藤原家成の娘。従三位,大蔵卿となる。六条家の有力歌人で,和歌所寄人,「新古今和歌集」撰者のひとりにえらばれた。「千載和歌集」以下の勅撰集に67首がはいる。今日は水曜稽古届いたお菓子は練切の撫子と生麩まんじゅう夏らしい美味しかった写真はうちの猫ミーちゃん後の世を
樋口一葉飛鳥川あすは知らねど水色に今日はにほへるあぢさゐの花昨日の話し昨日は土曜日銀座の古美術店の茶会があると先生からのお誘いあり12時の席入夏向きの設え狭いが茶の雰囲気はたっぷりだ使われた道具は手にとって拝見したその後もう一軒目の茶道具店のお茶会茶道具の拝見箱も回ってくる私の他は皆さんそれぞれお買い求めなさってご満悦何か欲しかったけど家の道具の山をみるとくじけたあすは知らねど水色に
明易きみずに大魚の行き来かな龍之介茶道具にも色々あるが棚は実に嵩張る特にわが家ては紹鴎棚の収納に困ってる前に紫兎先生から譲って頂き炉の季節に使ったが日常に使えず階段下の納戸に入れたり障子の後ろの廊下に置いたり出すのも大変仕舞うのももっと大変差し上げるからと言ってもお弟子様やお友達快い返事はない紹鴎棚はちょっとした家具和室においても違和感無い炉開きや初釜に相応しい塗師は茶平一斎だし良いものですよ勧めるがなかなかこの棚は二年前の茶会で使ったあと桐の箪笥のような外箱に入ったまま四畳半の隅にずっと置いてあるその上には座布団やら紙袋お習字の紙などなど山積みになっている酷い状態だダメもとで若いお友達のシモちゃんに声をかけると欲しいと言う返事気の変わらない内に早くとりに来てと思っていたら金曜日行きますとライン今日の午後...明易きアケヤスキ
紫陽花に雫あつめて朝日かな千代女今日は小熊の会七事式の稽古「花月」「且座」「廻り炭」「廻り花」「茶カブキ」「一二三」「員茶」今日は「且座」のお稽古花・炭・聞香・濃茶・薄茶の順且座之式は、臨済宗の宗祖臨済義玄の語録「臨済録」の「且座喫茶」からとられた雫あつめて朝日かな
与謝野晶子六月は酒を注ぐや香を撒くや春にまさりて心ときめく三井記念美術館展示室1にあった黒楽茶碗重要文化財「俊寛」シュンカン俊寛は平安時代の僧侶。僧都。康治2(1143)~治承3(1179)祖父は大納言源雅俊。父は仁和寺法印寛雅。後白河院の信任を得た。藤原成親,師光らは俊寛の鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘に会合して平氏打倒のための相談をしたが(→鹿ヶ谷事件),多田行綱の密告によって発覚し,治承1(1177)年6月逮捕されて共謀者藤原成経,平康頼らとともに薩摩鬼界ヶ島に流された。翌年中宮御産の大赦により,成経と康頼は京都に召還されたが,俊寛は許されずに島に残された。俊寛は能の曲名でもある。四番目物。五番立の能の神,男,女,狂,鬼の狂にあたる。中宮の安産祈願のため,大赦を伝える赦免使(ワキ)が鬼界ヶ島へ下る島では...六月は酒を注ぐや
与謝野晶子円山の杉のみどりの蔭に吹く真葛が原の六月のかぜ今日から六月六月朔日ツイタチは鮎の日、気象記念日、牛乳の日、矯正歯科月間の日、景観の日、国際親の日、総務の日、チューインガムの日、電波の日、バリ舞踊の日、防災用品点検の日、リードオルガンの日一年は早い半年はすぐくるひと月はまばたき一日はもちろん一生は六月のかぜ
五月雨や色帋シキシへぎたる壁の跡芭蕉今日は東京大丸のサバティーニでいつものメンバーとランチその後は三井記念美術館へ展覧会は茶の湯の美学利休・織部・遠州の茶道具6月16日まで○展示室1・黒大棗千利休在判桃山時代○展示室4・紹鴎黒大棗秀次室町時代○千利休在判の茶道具・黒中棗追銘影法師利休在判宗旦極書(桃山)・黒中棗金砂文字入利休直書、隨流斎直書在判・町棗千利休在判また・伝盛阿弥造の一文字椀展示室6・利休形茶器十二桃山時代、江戸初期の棗は四百年を経てもなお形良く艶があり美しい棗写真はランチの前菜五月雨や
今日は木曜稽古を休んで村雨庵四十五周年記念食事会村雨庵の茶道教室をひらき今年の三月で四十五周年五年毎に茶会をひらいていたがもう茶会はしないから美味しいものでも皆で食べよう場所はいつもの綱島のふくもとかつては村雨庵にお稽古に来ていたお二人にお世話になり美味しいお料理と美味しいお酒まずふくもとさんからの見事なご挨拶に思わず落涙幹事の森金さんのスムーズ司会慣れてる乾杯の挨拶は今年米寿の数先生生き方も立派挨拶も立派です初めの一杯で真っ赤なお顔のアイテラ氏はじめからお開きまで休まずお喋り話すこと沢山あるんだ写真はお店の床に掛かってた一行徳は孤コならず必有隣ヒツユウリン(論語)徳は孤ならず、必ず隣あり徳のある人には、必ず理解者や協力者が現れる、ということ。徳のあるなしに関わらず理解者や協力者、楽しい仲間と一緒にお茶を...徳不孤必有隣
杜若にたりやにたり水の影芭蕉今日はお茶碗研究会高取、上野アガノ、八代、小代焼先月は薩摩、その前は唐津を勉強した九州は今月で終了来月は萩焼だ高取焼は黒田長政が招いた朝鮮陶工八山(高取八蔵)が永満寺・宅間に窯を築いたのに始まる黒田藩の御用窯だが窯場は時代で変わる古高取と言われる永満寺・宅間窯、内ヶ磯(うちがそ)窯、山田窯内ヶ磯は織部好遠州高取は白旗山窯で焼かれた上野アガノ焼は細川忠興が文禄・慶長の役で招いた朝鮮陶工尊楷ソンカイ(上野喜蔵)が釜の口窯に窯を築いたのに始まり細川家、小笠原家の藩窯として栄える九州のこの辺りの焼物はとても好きな焼物だがその歴史というと私には難しい一度も行ったことが無い土地勘がないからなのか難しい水の影
みじか夜の闇より出て大ゐ河蕪村土曜日の茶事の花茶事の花はその日の朝の花溜めから集中して花を選ぶ亭主の真剣な顔も茶事ならでよく入ったら傍らでみても安堵するみじか夜の
三井寺や日は午ゴにせまる若楓与謝蕪村今日はお弟子様の茶事の水屋へ初風炉の正午茶事挨拶のあとは懐石定石どおりに終わり四つ椀が戻る初炭手前があるのでそのあいだに道具を洗い片付けた焦らずともよく気分が良い懐石の箸洗いは何にしますか一汁三菜のあと改めて八寸を持ちだし千鳥の盃となるがその前に箸を洗い、口中を清める主客献酬のための「箸洗い」中身は使用した材料の一部梅肉のへいだもの海藻類の一片種子の核など箸にかかるかかからぬ程度のものをごく少量お湯仕立てと言われるくらい薄味の清し汁にする箸洗い小吸い物は美味しくしては良くないと習った今日の箸洗は水前寺海苔蕗→三月~春花山椒→四月つくし→春篠竹→春山葵の芽、花、葉→春海藤花→四月独活ウド→三月~五月ちぎり梅→二月、六月茗荷→初夏青梅→六月鱧の笛(ハモの浮き袋)針生姜→...三井寺や日は午ゴにせまる
池五月雨晴れやらぬ池の□のいぶせさも濁るに見ゆる五月雨のころ宣長□は読めないいぶせさ→鬱陶しい本居宣長モトオリノリナガ享保15年5月7日(1730.6.21)~享和元年9月29日(1801.11.5)18世紀最大の日本古典研究家。伊勢国松坂の人。木綿商の家に生まれるが、医者となる。医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、また現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。(本居宣長記念館のホームページより)晴れやらぬ
杜若にたりやにたり水の影芭蕉火曜日出かけるつもりだった三井記念美術館の「茶の湯の美学」利休織部遠州の茶道具2024/4/18(木)〜6/16(日)10:00〜17:00桃山時代から江戸時代初期、茶の湯界をリードした、千利休・古田織部・小堀遠州の美意識を、三井家伝来の茶道具のなかから探ります。千利休の「わび・さびの美」、古田織部の「破格の美」、小堀遠州の「綺麗さび」、3人の美意識を以上のようにとらえ、書画、茶碗・茶入・花入・水指・釡・茶杓など、各人の美意識から生まれた茶道具の名品・優品を多数展示いたします。と美術館のホームページにあったが夏用の着物の裾上げなどしてたら時間がかかり過ぎて出かけるのはやめた残りの時間は昼寝とおやつ水の影
草の雨祭の車過てのち蕪村今日は月曜日巻さんが灰型の勉強にみえた私は灰型が苦手風炉の時はどうしても嫌だと避けるわけにはいかずやむを得ず眉風炉と道庵風炉の二文字をつくり続けてる私のお茶の先生は灰型大好きいつまでもやっていたいそう仰っていたが無理まず灰を細かい篩でこすこれが案外重要だ台所のお料理のザルなどでは目が荒く灰匙で押してもサラサラ壊れてしまうから必須前の谷以前習ったときは左から中央へ三匙で仕上げ次右から中央へこれまで三匙もう触らないと習ったがそれは案外難しいカルチャーでご指導受けた先生は同じ場所だったら何度でも灰匙を引いていいとのことだ内容は先生によって色々自分に合ったようになさるべく私は時間を短縮するを優先し多少整っていないのには目をつぶる几帳面かズボラ器用かどうかは十分関係あるだろうが治らないものは...草の雨
サリーちゃんのパパが豆腐を買うぜい佐理、東風、行成三跡小野東風894~966野席藤原佐理944~998佐跡藤原行成972~1027権跡894遣唐使廃止その100年前は794ウグイス平安京894から50年経ち佐理が生まれる行成は道長の亡くなった同じ日に亡くなった写真の扇子は住吉物語絵巻三跡
源氏物語・花散里橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ土曜日は何かと用事が入って行けなかったが今日は朝日カルチャーの崩し字入門いつもより教室が広い与えられたレジメを読み下しあとから一文字ずつ分解説明をうけるのだそのときはなるほどと思うのだが「亭」の文字でテだとおもったら「帝」の文字のテだった橘タチバナの
橘曙覧タチバナアケミ(幕末の歌人)明日よりは夏の暑さもあらひこしなごみわたれり瀬々の川かぜ今日は東京美術倶楽部での日本陶磁協会の茶会濃茶は当代随一の数寄者・潮田洋一郎氏五名ずつの回しのみ薄茶が二席官休庵の宗屋宗匠と陶磁協会の席また特別観覧の部屋筋切が正面に掛かっていた筋切って何伝承筆者は藤原佐理だが研究で藤原行成の曽孫にあたる藤原定実(活躍期、1077~1119年)と言われている定実は『元永本古今和歌集』(東京国立博物館蔵)『巻子本古今和歌集序』(大倉集古館蔵)『西本願寺本三十六人家集』の「貫之集上」(西本願寺蔵)の筆者筋切ってなにもとは古今集を書いた二冊の粘葉装デッチョウソウ粘葉装は糊綴じなので糊をはずして紙の表裏をはがすと(相剥ぎアイヘギ)2枚になり表の銀泥で天地に界線(筋)があるのを筋切裏の篩...日本陶磁協会の茶会
昨日は水曜稽古だがブログも書けずねてしまった木曜稽古松波資之のほととぎすの和歌を掛ける湖遠郭公遊山から崎のまつとはなしにほととぎすききつるばかりうれしきはなし松波資之マツナミスケユキ1831*-1906幕末-明治時代の歌人。天保元年12月19日生まれ。安芸広島の商人岡田集介の次男。京都徳大寺家につかえ,のち北面の武士松波家の養子となる。香川景樹にまなび,景樹没後はその子の景恒をたすけて東塢塾を主宰。維新後は皇太后宮の内舎人ウドネリ,雑掌をつとめた。明治39年9月13日死去。77歳。通称は直三郎,大学大允。号は遊山,随所。歌集に「花仙堂家集」。(日本人名大辞典ヨリ)唐崎というと近江八景の「唐崎夜雨」を思い浮かべる唐崎は『万葉集』の「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」『蜻蛉日記』では都人が唐...唐崎夜雨
宵々の雨に音なし杜若蕪村今日はエフ先生の研究会雨が凄い音を立てて降ってる最近は早起きなので五時に起きて朝は六時に食事お昼までの時間が長いから10時のおやつ九時半に珈琲とミニ羊羮食べたおやつは八つ刻ヤツドキ午後の2時から4時に食べる間食午前中だとなんというのか朝のおやつは「モーニングティー」または「リトルランチ」、午後のおやつは「アフタヌーンティー」とオーストラリアでは呼ばれるとのこと、ネットで見た江戸時代、日本人の食事は朝と夜の1日2回だった。途中でお腹が空く。そこで中食(ちゅうじき)、あるいは間食(かんじき)、小昼(こびる)と呼ばれる間食をやつどきに取るようになった。それがおやつの起源。とネットで見た。さあ出かけないと宵々の雨に音なし
ラルースの言葉を愛すわたくしはあらゆる風に載りて種蒔く今日は日帰りで北上へ朝早く新幹線着いたらタクシーで詩歌文学館一回りしてタクシーで北上駅お昼を食べて新幹線四時には家に着いたが疲れた年だねあらゆる風に載りて
古今集・よみ人知らず忘れ草たねとらましを逢ふことのいとかく難きものと知りせば今日は雨が降ったり止んだり梅雨の最中ゆえ雨はつきものだようやく庭の半化粧が葉を白くし始めた友人のハイさんがこの半化粧を欲しいというのこころなりけり今日のお茶のお稽古のあとに寄るとのこと日陰で背の伸びた半化粧を四五本紙に来るんで差し上げた茶の流儀は宗偏流とのこと・千宗旦の子弟である山田宗偏(1627~1708)がはじめた流派宗偏は宗旦四天王の一人。腕の立つ職工として茶杓、茶碗などを手がけ、宗旦の厚い信頼を得た。宗旦は祖父利休の没後、経済的にどんなに苦しい状況にあっても大名仕えはせず、ひたすら質素に徹するい「侘び詫び」の生活を押し通した。宗旦の苦しい時代を支えたのが愛弟子の山田宗偏。宗旦の侘び詫びの精神に深く共鳴した小笠原家全権大使と...忘れ草
樋口一葉飛鳥川あすは知らねど水色に今日はにほへるあぢさゐの花今日は水曜稽古花溜には額紫陽花が盛りだくさん大ゴミの和ダンスを出すのに朝早くヘルパーさん2名見えて外まで出してくれた丁寧に大切に出したのに大ゴミ収集の車の後ろにボコボコ投入れるとバリバリ壊しサッと出発したあっけないもの長年使った箪笥は姿を消してしまった掛けものは涌蓮涌蓮読みはようれんとネットには出ていたが私はゆれん又はゆうれんだと思っていた江戸中期の真宗高田派の僧。伊勢黒田生。浄光寺誓海の弟。諱は慧亮エリョウ、字アザナは達空タックウ、嵯峨居士と号する。初め江戸桜田の澄泉寺に住むが、のち京都に上り、冷泉為村に和歌を学ぶ。安永3年(1774)寂、享年未詳。今日はにほへるあぢさゐの花
相模見渡せば松のみどりにうちかさねこ紫なる岸の藤波今日は火曜日お習字のお稽古森金先生とお習字予定は予定針切は相模集・重之の子の僧の集相模と、重之の子の僧、藤原行成筆と伝えられる。相模集と重之の子の僧の集の二集を1冊の綴葉本として書写されたもの。書写本の筆跡が細くシャープなところから、『針切』と称されている。歌のみが書写された相模集の部分と、詞書コトバガキを設けてリズミカルな出入りを配した重之の子の僧の集の部分とが有る。どちらも流麗な線で書かれているが、相模の部分はやや右に流れる傾向が有り、重之の子の僧の部分はこれに比して行をやや垂直に執り、墨継と相まってすらりとした美しさをより強調して凛とした強さも醸し出している。「針切相模集」は現在十一葉三十六首知られているが、後に一葉四首も『針切』として加えられて...小紫なる岸の藤浪
橘俊綱タチバナノトシツナつれづれと音たえせぬは五月雨の軒のあやめの雫なりけり橘俊綱タチバナノトシツナ1028-1094平安中期-後期の官吏,歌人。長元元年生まれ。藤原頼通の子。丹波,播磨などの国守。正四位上,修理大夫,近江守。永承5年(1050)「橘俊綱家歌合」伏見の自邸で歌会をひらいた。「後拾遺和歌集」などの勅撰集に12首みえる。造園に通じ,「作庭記」の作者ともされる。寛治8年7月14日死去。67歳。通称は伏見修理大夫。今日は茶会へ名古屋の有楽苑如庵結の会の茶会朝8時10分品川発の新幹線で名鉄に乗換犬山に11時ころ着いたマイクロバスで行く小雨の有楽苑濃茶席は如庵と正伝庵薄茶は別棟の元庵それからバスで奥村邸にてフランス料理ワインで乾杯音たえせぬは五月雨の
古泉千樫さみだれのあめふりけぶり朝あやし白き海鳥庭に来て居り今日は朝日カルチャー白河切シラカワキレ『後撰和歌集』の断簡。伝称筆者は西行(1118~1190)平安後期から鎌倉初期の緩急抑揚の変化にとんだ筆運から、江戸時代に筆者を西行と鑑定され、名筆の一つとして鑑賞されてきた。太い線と細い線が交錯した緩急のある運筆で、連綿は長い。伝本の少ない古本系統『後撰和歌集』の平安後期の書写になる古写本として国文学上にも価値がある(ウィキペディアヨリ)写真は駅前の建物の解体現場隠しもせずいいのかしらちょっと見てはいけないような景色だけど誰も興味を示していない五月雨の雨降りけぶる朝怪し
北原白秋枇杷の木に黄なる枇杷の實かがやくとわれ驚きて飛びくつがへる今日は食事会いつもは綱島のふくもとだったが満員で予約がとれなかったいつもの四人のうち2名は6月が誕生日ではでは帝国ホテルで誕生会をしようと今日は帝国ホテルのレ・セゾンその写真コースのあとはロビーの喫茶店で紅茶一日を楽しんだ珈琲をお代わりした黄なる枇杷の實かがやくと
藤原俊成夏もなほ心はつきぬ紫陽花の四ひらの露に月もすみけり今日は木曜稽古昨日は森金さんが今日はアイテラ氏が紫陽花を持ってきてくれた水屋の花溜めはかさ張るアジサイだらけだホンアジサイ、額紫陽花水揚げを良くすれば生き生きと華やぐ万葉集にも歌われているそうな写真の掛けものは呉浚明ゴシュンメイの山水または五十嵐浚明イガラシシュンメイ元禄13年(1700年)-天明元年8月10日(1781年9月27日))は江戸時代中期の新潟の絵師、漢詩人。本姓は藤原、修姓は呉。諱は安信、後に浚明。字は方篤、後に方徳。号は思明、孤峰、穆翁、竹軒。江戸で狩野良信栄信に狩野派、京都で竹内式部に経学を学び、宇野明霞・片山北海・池大雅等と親交した。いつまでも見て飽きない好きな絵師だ夏もなほ心はつきぬ紫陽花の
北原白秋色硝子暮れてなまめく町の湯の窓の下なるどくだみの花今日は水曜稽古掛けものは須川信行須川信行スガワノブユキ天保10年10月25日~大正6年(1917年)11月13日)江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人。『明治天皇御集』の編纂委員を務)(ウィキペディアヨリ)窓の下なるどくだみの花
五月雨に隠れぬものや瀬田の橋芭蕉もうすぐ梅雨入りになるようだ今日は火曜日村雨庵ではお習字の日森金先生は10時にお出まし新入会の生徒さんサヨさんは荻窪からヨツさんはとても遠方からお越しだでも私は読売カルチャーへ茶話指月集のお勉強お習字はお休み今日は瀬田の唐橋の擬宝珠ギボシのお話千利休が言う「瀬田の唐橋の擬宝珠の中に見事な形のものが2つあるが、見分けられる人はいないものか?」とすると織部が急に席を立ち、夕方に戻ってきた。「早馬で瀬田に参りました。2つの擬宝珠は東と西のこれではありませんか?」と利休をはじめ一座の者は、織部の執心の凄まじさに感心した。(久須見疎安の茶話指月集ヨリ)というあたり夕方雨が降りだした写真は大谷尊由の自画賛隠れぬものや瀬田の橋
樋口一葉おもふ事いはねば知らじ口なしの花のいろよきもとのこころも今日はエマ先生のお茶事へ天気も良い茶事日和今回で伺うのは三回目今月から一重の着物紫卯先生に頂いた紫色の着物正午茶事本懐石に初炭菓子で中立ち後座は手付籠にマツモトセンノウ縞アシに半化粧お心入れのお道具で楽しかった写真は5/30に行った「ふくもと」で撮った実も付いてる山梔子クチナシの花言はねば知らじ口なしの
短夜や浪うち際の捨篝カガリら蕪村今夜は満月今日はお弟子様の秋さんちで茶事の稽古料理を作りそのあと客と水屋にわかれるそして茶事を始める向付鯛のかさねもり、山葵、山芋、茗荷、加減酢みそ汁菖蒲の生麩、袱紗味噌煮物椀鱈、豆腐、蛇の目瓜焼物イサキの幽庵焼預け鉢ゆば、小芋、獅子唐の炊き合わせ進肴青瓜と胡瓜ささみの三杯酢小吸物くこ八寸煮アワビ枝豆香のもの沢庵、新生姜、奈良漬菓子水無月秋さんが昨日懐石用に買った材料を写真にとり、ラインで送ってくる。それを見ながら考えた献立煮物椀の鱈は冬の方が相応しいけどまあ仕方ないか初心者組だけど味はなかなか良かった頑張ったね写真は道端のパンジー短夜や
藤原定家玉鉾の道ゆき人のことづても絶えて程ふる五月雨のそら通りすがりの人にあの人がいつも託す手紙が私のところに来なくなってずいぶん経つわね仕方なく見上げる梅雨の空は灰色だわ玉鉾タマボコ「たまほこ」とも①玉で飾ったほこ。また、ほこの美称。②道の枕詞「この程はしるもしらぬも玉鉾の行きかふ袖は花の香ぞする」〈新古今・春下〉今日は朝日カルチャー崩し字の講座社中の森金さんとサカチカさんも参加帰りは三人でそごうの鳩居堂へ森金さんはお茶事の案内を巻紙にしたためるのに用紙が足りなくなったのでと買いにきた六月、七月、八月分のお手紙分一気に書くそうだが凄いエネルギーがいるサカチカさんも巻紙と封筒私は封筒とお線香みたいなお香を2種類写真は地下のお鮨屋で三人遅いお昼玉鉾タマボコの
六月の山のゆふべに雨晴れぬ木の間にかなし日のながれたる一年の半分早くも六月はアジサイが咲き蛍が飛ぶイメージお菓子の水無月を食べて晦日には茅の輪をくぐる夏越の祓いは「水無月の夏越祓ナゴシノハラエをする人は千歳の命のぶというなり」台風と梅雨前線の影響で外は強い雨風の音がする自然は脅威だ写真は秋さんが送ってくれた写真飼っている猫チミだ可愛いね六月の山のゆふべに雨晴れぬ
読み人知らず五月まつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする今日は木曜稽古籠ひさごの花入に美央柳ビョウヤナギを入れた別名は美女柳ビジョヤナギまた美容柳ビヨウヤナギ金線海棠キンセンカイドウ弟切草(おとぎりそう)科「葉っぱがうすめの品種」と「葉っぱが厚めの品種」があるうちのは薄めだ写真は花橘の香をかげば
藤原定家釣船にはかなくあかす旅人のうき寝すずしきなつのみじか夜今日は水曜稽古朝のうちは雨が降っていたがまもなく上がった今日五月の晦日ミソカ五月三十一日は業平が富士見の日伊勢物語東下りは始め三河の八橋カキツバタを読み込む折句唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふつぎは駿河の国宇津の山を越える時知りあいの修行者にあう駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけりそして五月の晦日ツゴモリには富士の麓フモトを通るのだ旧暦だと6月半ばから7月比叡の山を二十ばかり重ね上げたような高い高い山山頂には白く雪がまだ残る時知らぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむそしてなほ行き行きて武蔵の国と下つ総の国との中の隅田川の渡し舟に乗る名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと...うき寝すずしき夏の短夜
大伴家持鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこのやど今日は食事会つやつやの胡麻豆腐一緒の倍さまとカラシ様は掛け汁も飲んでいた確かに美味しいけど五月の八寸色々チマキ凄く美味し煮物椀はハモとじゅんさい美しいお造り揚げ物加茂茄子の揚げ煮と伊勢牛焼物イサキの塩焼とこごみの天麩羅下ろし胡瓜ご飯はトウモロコシ青豆ご飯に干し海老なめこのみそ汁と香の物お菓子は金団美味しいものを食べて辛いことは忘れよう古しと人は思へれど
時鳥花橘の宿かれて空にや草の枕ゆふらん京極為兼キョウゴクタメカネ京極為兼きょうごく-ためかね1254-1332鎌倉時代の公卿,歌人。建長6年生まれ。京極為教の子。持明院統の伏見天皇に信任され,京極派をひきいて歌壇で活躍。一時佐渡に流される。のち権大納言。正二位。二条為世との論争にかち,「玉葉和歌集」撰者となる。晩年土佐に流され,元徳4=元弘2年3月21日河内で死去した。79歳。「続拾遺和歌集」以下の勅撰集に132首はいっている。今日はお弟子様のお茶事何回がお茶事に伺った先生より「こんどはお茶事に呼んでほしい」とのお言葉今わが家では茶事をすることはできないまずは茶事をやりとげる、気力がないのだそこで毎月茶事を披いているお弟子様の所へ横流しわたし目はお弟子様の用意した懐石をただ茶事の順番に熱くしたり冷たくし...花橘の宿かれて
与謝野晶子むらさきと白と菖蒲は池に居ぬこころ解けたるまじらひもせで今日は文の会いつものイタリアンでランチ土曜日は予約しないと席はないグラスワインとおつまみパスタを二種類ランチなのでサラダが付くお腹はちょうど良い家に戻って夏みかんとカステラ珈琲2杯和菓子ひとつお薄二服おしゃべり止まず文の会の伊勢物語を読むはほんの少しだけ読んだむらさきと白と菖蒲
小侍従コジジュウ和歌・歌人151待つ宵のふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは(新古1191)こじじゅう【小侍従】平安末期の女流歌人。女房三十六歌仙のひとり。石清水八幡宮別当紀光清の娘。二条天皇、のち高倉天皇に仕えた。平家物語の月見の章に、藤原実定との和歌の贈答により「待宵まつよいの小侍従」とよばれた挿話がある。家集「小侍従集」。生没年未詳。写真は旧芝離宮恩賜庭園令和5年5月24日(水)~5月27日(土)18時30分~21時30分(最終入園21時)ライトアップイベントを開催とテレビで放映された幻想的だ小侍従コジジュウ
杜若にたりやにたり水の影芭蕉今日は木曜稽古でもなぜか今日はお弟子様が少ない午前に二名午後は二名そして夜は一名二ヵ所で点前をするので、わりと早く終わってしまう。まあのんびりして、気楽だ今月で月次ツキナミの茶会が終了した必ず覚えなければならない点前もない茶会があれば道具を調べておかないと席中での挨拶はできないが茶会がなくなったので覚えなければならないこともないからリラックスそれは私も同じ次の道具を考えなくてもよいし使った道具の片付けも不要リラックス中だし次に頑張ればよいことにしようにたりやにたり水の影