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いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記− https://blog.goo.ne.jp/masunojun1

「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?

純野一益(戦国)
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2008/08/23

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  • 巻三の一 信長、於久地の戦いに臨むこと

    <初出:2008年の再掲です>巻三の一信長、於久地の戦いに臨むこと永禄五年(一五六二)初頭、織田上総介信長は三河の松平元康と対等同盟を組んだあと、周辺諸国に「あの国は戦費不足で身動き取れない」と思われないように、見栄えのよい軍を行なう必要があった。がしかし、「できれば今は軍はしたくない。するにしても戦費は最小限で抑え、秋口の米収穫時の相場形成により美濃侵攻に要する費用を稼いでおきたい」というのが信長の本音である。このとき、実働部隊の頭『柴田勝家』、諜報活動部隊の頭『丹羽長秀』、経済活動部隊の頭『松井友閑・木下藤吉郎』の活躍目覚しく、本当は美濃の斎藤家を内側から崩壊させる準備は整っており、「美濃侵攻を早く!」と進言されていたのだが、もとより慎重な信長は九割がた確実になるまで皆に「行け!」と命じない。調子に乗...巻三の一信長、於久地の戦いに臨むこと

  • 巻二の十四 泰安洋行のこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十四泰安洋行のこと丹羽五郎左衛門長秀が清洲の城門から松平元康一行を見送ると、軽い身震いがおきる。これはよくないことが起きる前兆である。「信長も元康も互いに一般的なことをしゃべりまくっただけで、もう少し具体的に注意しておいたほうがよかったか・・」という後悔がチラリと頭をよぎる。それは、「各地の農・水産・林業の従事者は仏教各派の檀家であることが多いので、税収調整のときは各宗派と打ち合わせ無茶な徴税・禁制は避けること」ということである。宗教家を相手に無茶をすると、七十四年前の加賀国守護富樫政親のように無残な最期を遂げるだろうことなど、ほぼ全国の武将が身にしみて知っていることである。ただ、五郎左衛門の悪い予感は、のちの「三河一向一揆」として現実のものとなることになるが・・・。松...巻二の十四泰安洋行のこと

  • 巻二の十三 信長・元康、同盟を結ぶこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十三信長・元康、同盟を結ぶこと信長の恫喝により、松平次郎三郎元康は(表向き)洗いざらいしゃべり始める。以下は元康の談である。*一度年少のころ(天文十七年(一五四七))、父広忠の舅戸田康光の裏切りにより熱田神宮預かりの身となったが、そのときのことは恨むどころか、織田信秀殿、三郎信長殿、加藤大宮司殿によくしてもらった覚えしかなく、大変感謝している・・・らしい*すでに知っての通り(と本人が言う)自分は「気のはやる」性格なので、桶狭間のときは多少の粗相があったかもしれない。申し訳ないとは思うが、起こしてしまったことは後に戻せないので、これからの付き合いで埋め合わせをしたい・・・らしい*桶狭間戦後、父広忠が岡崎城に蓄えて置いた財貨に手をつけないで駿府勢が撤退したため、細々と三河衆...巻二の十三信長・元康、同盟を結ぶこと

  • 巻二の十二 松平元康、全てを語ること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十二松平元康、全てを語ること「二郎三郎殿は『吾妻鏡』を読んでおられるとの事だが、あれは難しくはないか?」「多少難しくはあります。が、やはり佐殿(すけどの:源頼朝)の起こした鎌倉幕府がどのように平氏(北条氏)の政権に移行していったかがわかり、大変勉強になります。ところで上総介殿は『源平盛衰記』を読んでおられるとの事。だれが源平期最強と思われますか?」「うむ。政治的には平清盛・重盛父子、戦術的には平能登守教経殿、個別の戦闘では源大夫判官義経殿といったところか・・・」「確かに・・・」対話は突然始まった。互いに「何で儂の好きな書物を知っている?」と聞かないまま、間合いをはかった切り出し方である。信長は『皆紅に月出だしたる扇(地が真紅で銀の月が書いてある扇)』で紅潮した胸元をあお...巻二の十二松平元康、全てを語ること

  • 巻二の十一 松平元康、清洲に参上すること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十一松平元康、清洲に参上することとりあえず清洲城の障子を開け放った本殿下の様子をながめ、信長に呼ばれていた丹羽五郎左衛門長秀・柴田権六勝家・松井友閑・木下藤吉郎の四人は膝から崩れ落ちそうになった。あれほど「勘弁ならぬ不届き者につき、徹底的に詰問してやれ!」と言っていた信長本人が、目の前で松平元康とひしと抱き合い涙まで流している。「お会いしとうございました、三郎兄者!」「儂もじゃ、竹千代殿!」感動的な対面をしているのはこの二人だけで、回りの者たちは、口をあんぐりあけてその様子を見ている。永禄五年(一五六二)一月十四日、柴田勝家と水野信元の手配により鳴海城に宿泊した松平元康は、一月十五日の午前中出発し当日午後清洲城に到着していた。当初の予定では、「信長から呼ばれた全員が清洲...巻二の十一松平元康、清洲に参上すること

  • 巻二の十 松平元康の動きが読めないこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の十松平元康の動きが読めないこと織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が三河での松平次郎三郎元康の動きを心配するのには二つの理由があった。一つは「元康の祖父清康の頃からの、『松平家代々のけちでせっかちできまぐれで残忍な性格』が身に災いしなければよいが」という心配であった。松平元康の祖父清康と父広忠は、当時知られているとおり不運な死を遂げていた。祖父清康は天文四年(一五三五)十二月、織田信秀が手中にしていた西三河地区を奪還し尾張森山城まで進出したのだが、その陣中で家臣阿部大蔵の息子弥九郎に弑逆されている。世に言う『森山崩れ』である。当時は『不慮の事態』と思われたが、信秀が張り巡らせていた『風・鳥・草』の情報網によれば、どうも「はりきって勢いよく進軍するのはよいが家臣の一部をえこ...巻二の十松平元康の動きが読めないこと

  • 巻二の九 前田利家赦免されること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の九前田利家赦免されること永禄四年(一五六一)五月の森部の合戦のとき、織田信長から勘当されていた前田又左衛門利家が首二つ持って信長の陣に参上したが、信長は会わない。実は二年前の永禄二年(一五五九)、前田孫四郎利家が信長の同朋衆拾阿弥を切り捨て、信長の勘気を蒙り出仕差し止めとなっていたのであり、この軍で利家は名誉回復のため戦功をあげようとしていた。直近の桶狭間の合戦のときも利家は活躍はしたが、信長の勘気は解けていなかった。織田家はもともと越前丹生郡織田荘で織田剣神社の神官を代々つとめており、応永七年(一四00)越前守護斯波義重が尾張守護を兼ねたのに伴い伊勢入道常松(常昌)が同道し尾張へ入国したところから尾張織田家が始まっている。いわば「生粋の宗教の家系」であり、しかも熱田神...巻二の九前田利家赦免されること

  • 巻二の八 長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻すること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の八長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻すること永禄四年(一五六一)三月ごろ、関東方面から知らせが入る。「昨年末上杉憲政を擁して越後から関東に攻め下った長尾景虎は、厩橋城を奪回しそこで越年していたが、今年三月小田原城の北条氏康を攻囲した。その帰りに鶴岡八幡宮に参詣し、その社前で山内憲政から上杉の名跡と関東管領職を与えられ、また憲政から一字をもらい『上杉政虎』と名乗ることになった」とのことであった。こういった他地域の“熱い”知らせは、為政者がどう防ごうとしても山から河から海から、漂泊の人々が各地へ伝えていく。「関東管領職を預かるとは長尾景虎もすごい身分になったものだが、『長尾兄』もちと歴史の勉強が足りぬのではないかな?どうだ五郎左衛門!」長尾景虎は織田信長より四つ年上なので、信...巻二の八長尾景虎のこと、付信長美濃へ侵攻すること

  • 巻二の七 水野信元、清洲へ参上すること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の七水野信元、清洲へ参上すること今回の織田信長・丹羽長秀・柴田勝家三人の決定どおり、水野信元を仲介して松平元康と秘密裏に打合せを進める運びであったが、水野側から急遽「直接上総介殿にお会いして申上したいことがある」との連絡が入る。ちなみに水野信元は天文十二年(一五四三)七月父忠政の死により家督をついだ時から今川氏に背き織田信秀に服属していたし、その子信長とも天文二十三年(一五五四)駿河衆に小河城を攻められた時に救援要請したほどの間柄であり、自他共に「尾張の身方」と認めている。一方信元の弟(忠政の三男)の水野忠重は松平元康についており、三河・駿河との釣り合いを取っている。したがって今回の交渉も織田信長→丹羽長秀・柴田勝家→(水野信元→水野忠重)→松平元康という経路で進められ、...巻二の七水野信元、清洲へ参上すること

  • 巻二の六 信長、三河に出陣すること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の六信長、三河に出陣すること年明けて永禄四年(一五六一)、経済面では織田上総介信長・丹羽五郎左衛門長秀・柴田権六勝家の想定通りに事が運んでいる。また特段他国の軍勢が尾張に攻め込んで来ないのも想定どおりである。ただこれも想定どおりだが、『三河の無作法者』『三河の大たわけ』-松平二郎三郎元康(のちの徳川家康)がまたわけのわからない行動に出てきた。この時点で尾張側は三河地域について「自領に取り込んだ」ともなんとも主張していないのに、何と元康は広瀬・沓掛・挙母・梅ヶ坪・小河・寺部・刈谷を転戦し、あろうことか今川方の板倉重定を中島城から岡城へと攻め立てている。これらの情報は岩崎城の丹羽氏勝と東部方面管掌の柴田勝家が、中立的家柄水野家を含む『風・鳥・草』の織田流情報網で確認しているの...巻二の六信長、三河に出陣すること

  • 巻二の五 信長、人物評定をすること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の五信長、人物評定をすること取り急ぎ、周辺諸国で尾張に攻め込んで来るほどの事も無く、正直に言ってしまうとまずいが「織田信長も柴田勝家もかなり暇」といった状況である。ただあまり行動を起こさずにいると周辺諸国から「何をたくらんでいるのか」と勘ぐられるので、頻繁に美濃との国境木曽川方面や駿河との国境三河方面に偵察隊として赴くことにして、体裁をつけることにしている。長秀と同様、馬から自ら、はでに着飾り直垂・狩衣をつけて最前線で練り歩くのである。本音では「偵察隊として敵前に姿を見せるもののしばらく軍は避けたい」という微妙な空気である。信長としては大好きな『お鷹野』が、「しばらくは不謹慎と見られる」という理由から長秀に禁止されており、やや鬱々とした心境である。丹羽長秀は三人で打ち合わ...巻二の五信長、人物評定をすること

  • 巻二の四 『二寸殿(にきどの)』のこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の四『二寸殿(にきどの)』のこと丹羽長秀もできるだけのんびりと、できるだけ敵の目の届く木曽川に近い街路を、愛馬『二寸殿(にきどの)』にまたがって行く。金糸・銀糸の『狩衣』であでやかに着飾り、『二寸殿』も轡・貝鞍(螺鈿細工の鞍)・泥障(あおり)・鐙・腹帯(はるび)に鞦(しりがい)と皆具に仕立て、総体に金覆輪をほどこしてあり、目もくらむようなきらびやかさである。『二寸殿』もこれには上機嫌らしく、しきりに長秀の握る手綱を「ぐいっ、ぐいっ」と前に引っ張って鼻を鳴らし、「いいね、いいね」と主人に伝える。丹羽長秀が二寸殿にであったのはいまから三年ほど前の弘治三年(1557)年末、織田信長が舎弟勘十郎信行を誅殺した一件の直後であった。出合った時三歳の駒であったので現在は五歳ということに...巻二の四『二寸殿(にきどの)』のこと

  • 巻二の三 五郎左衛門、再び動き始めること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の三五郎左衛門、再び動き始めること桶狭間の戦後処理も一段落し、丹羽五郎左衛門長秀は織田上総介信長・柴田権六勝家と打ち合わせた任務を実行すべく準備に入る。状況に応じて柔軟に動けるように、三人はあまり杓子定規な業務分担はしていなかったが、実質上それぞれの特性が生きるよう、*織田信長:政治・経済・文化・軍事に関する最高意思決定、及び他国との連関の方向性指示*丹羽長秀:他国との連関を取次ぎ衆としてとりまとめ、及び諜報・謀略を含めた情報活動*柴田勝家:主に軍事活動の最前線と本城の間の兵站、本城からの戦略指示の実行と指導、及び優秀な軍兵の募集・訓練となりつつあった。特別な案件はその都度打ち合わせを行なうこととなる。丹羽長秀は予定通り、美濃方面の調略に取り掛かる。黒田城は、表向き城主和...巻二の三五郎左衛門、再び動き始めること

  • 巻二の二 信長、松井友閑から叱られること

    <初出:2007年の再掲です>巻二の二信長、松井友閑から叱られること一般的に、戦国時代というと『下克上』という言葉がすぐ出てくる。『下克上』というのは「下位のものが上位のものを凌駕すること」の意味であり、もともと中国の春秋戦国時代に使われていた言葉が日本に定着したものである。織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三人が生きているこの時代にも『下克上』という言葉は使われているが、三人とも「どれだけ勢力を伸ばしても『下克上』だけは避けよう」と申し合わせている。というのも中国古代の『下克上』という言葉は、もともと陰陽五行説の『相生説』『相剋説』に源を発していて、「下位の者が政権・王位を手にするのは天の決めた運命的なめぐり合わせによる」という意味を持っている。決して「下位の者が自由に上のものを討ち倒してよい」と言う意味で...巻二の二信長、松井友閑から叱られること

  • 巻二の一 巻二開始のこと

    <初出:2007年の再掲です>巻二の一巻二開始のこと桶狭間の戦いも終わり、結果として織田信長・丹羽長秀は命ながらえ、柴田勝家も駿河方岡部元信が鳴海城から退城したのでそろそろ清洲に戻ってきます。今川義元を討ち取ってしまったのは三人にとって予想外の事で、事前に「黒末川から東は駿河のもの」とする準備しかしていなかったので、軍に勝ったとはいえ戦後何をすべきか全く頭の中がまっ白の状態です。「まず何を真っ先にすべきか」三人で方針を決めるのが先決でしょう。尾張方からは「偶然に今川治部少輔義元殿を討ち取ってしまったが他意はない」として、『風・鳥・草』を使って近隣各国に告知しておいたので、世間から見ると織田家の道理は立っており、今川氏と同盟を結んでいる武田氏・北条氏もすぐに動いてくる気配はないようです。また大混乱の中、求心...巻二の一巻二開始のこと

  • 巻一の九 岡部元信、義元の首を持ち戻ること

    <初出:2007年の再掲です>巻一の九岡部元信、義元の首を持ち戻ること清洲城下での首実検が終わると、織田信長は「あとはよしなに」とだけ言い残して北やぐらの御座所に『源平盛衰記』を携えて籠もる。軍と戦後処理で疲れた体を休めるためである。丹羽長秀のほうはといえば、休む暇もないほどの実務が残っている。まずは、近国から集まってもらった各宗派の僧侶に対し、供養の度合いに応じお布施を渡す。当然そのときに「三河の誰ぞが軍の無作法をした」ことを各地で言いふらしてもらうよう依頼する。織田家は当時にしては珍しく現金決済が多かったので、僧侶たちは「喜んで」各地に言いふらすことになる。つぎに、軍のとき武具・防具の手配で世話になった桑名・熱田・三河・知多などの商人に、実費と手数料を支払う。これも近隣他国と異なり軍の勝ち負けに関わら...巻一の九岡部元信、義元の首を持ち戻ること

  • 巻一の八 信長、首実検を行なうこと

    <初出:2007年の再掲です>巻一の八信長、首実検を行なうこと永禄三年(一五六0)五月二十日朝、丹羽五郎左衛門長秀は冷たい水で顔を洗い、はれぼったい目を強引に開け、清洲城下での首実検の準備を続ける。昨夕織田信長と打ち合わせをした後、一睡もしないでこの日の朝を迎えていた。まずは昨夜のうち、訪問したばかりの黒田城に、「今回たまたま乱戦となり恐れ多くも駿河の太守義元殿の首級を獲ってしまった。駿河に対しては何の意趣もないので申し訳ないことをした」と使者を立てて伝え、京都方面への情報を操作する。和田新介定利からは了承した旨の返答が入ったので、おそらく近江の兄和田惟政から京都へこの旨確実に伝わるだろう。次に『飛び馬』を鳴海城に走らせ、岡部元信に今回討ち取った駿河衆・三河衆の姓名をわかる限り伝え、それぞれがどういう宗教...巻一の八信長、首実検を行なうこと

  • 巻一の七 五郎左衛門、信長をしかること

    <初出:2007年の再掲です>巻一の七五郎左衛門、信長をしかること「お疲れのところ申し訳ないが、殿、北やぐらまでお越しいただきたい」丹羽五郎左衛門長秀は、桶狭間から戻ってきた織田信長に休む間を与えず、いつもの清洲の居所へ導く。長秀から勝利を祝ってもらえると思っていた信長は、ただならぬ長秀の導きに血の気を失う。だいたいにおいて、長秀が良いことを言いたい場合は家臣がいる前で行なう。居所の北やぐらに連れて行かれるということは、信長に対して怒鳴り倒す前触れである。「こら、三郎!約束では三河方面の一部を駿河方に渡し、軽く手合わせして降参する予定であったろうが!それが何の因果で今川治部少輔義元殿の首級を獲ってきたのだ!お前も知ってのとおり、今川家とほぼ同盟関係にある北条家は、伊勢宗瑞殿が駿河に下ってきたときまでさかの...巻一の七五郎左衛門、信長をしかること

  • 巻一の六 信長桶狭間から戻ること、付大事になること

    <初出:2007年の再掲です>巻一の六信長桶狭間から戻ること、付大事になること永禄三年(一五六0)五月十九日午後、陽も傾きかけると『飛び馬』から断片的な知らせが入ってくるようになる。いわく「信長一行が桶狭間山に登ったまま戻ってこない」、いわく「信長一行は駿河の今川義元の軍を沓掛方面へ押し戻し清洲へ帰る途中である」、いわく「信長一行は桶狭間山に登ったが、駿河勢に押し戻されほうほうの体で戻ってきたところ」などなど。織田上総介信長本人の生存は確からしく、丹羽五郎左衛門長秀も「何かの手違いで駿河の太守今川治部少輔義元と交戦することになったらしいが、生きて帰れるのは幸甚。信長が戻り次第今後の三河地区の扱いをはやく決めねば。まずは鳴海城に籠もる駿河の岡部五郎兵衛元信殿との打合せをしなければ」と考えをめぐらし、心を落ち...巻一の六信長桶狭間から戻ること、付大事になること

  • 巻一の五 清洲に入る知らせのこと

    <初出:2007年の再掲です。>巻一の五清洲に入る知らせのこと急に降り出した雨を旧守護所跡の下津(おりつ)でしのぐ。黒田城行きは正式な訪問であったので、衣装は直垂(ひたたれ)に風折烏帽子(かざおりえぼし)の裾を短めにしたもの、腰には無銘であるが関の刀工に鍛えさせた業物を佩いていた。「こんなりっぱな装束・刀が雨にぬれては大変な修繕費用がかかる」と、雨が小ぶりになるまで愛馬『二寸殿(にきどの)』といっしょに休みを取る。今回尾張東部は柴田権六勝家の担当で、岩崎城方面まで出て三河勢が乱入しないかどうか警戒している。その柴田からの『飛び馬』も清洲からの『飛び馬』も半時に一度に間延びしているが、「どしゃ降りのせいであろう」と五郎左衛門はあまり気に留めない。雨が上がると「あっ、そうだった」と信長からの言付けを思い出し、...巻一の五清洲に入る知らせのこと

  • 巻一の四 松平次郎三郎元康のこと

    <初出:2007年の再掲です。>巻一の四松平次郎三郎元康のこと三河と尾張の境界争いについては、実はかなり深い因縁がある。応仁元年(一四六七)の応仁の乱発生の頃は、斯波氏が越前・尾張・遠江の三国守護を兼任していた。がしかし、文明四年(一四七一)五月、応仁の乱の最中、朝倉敏景(孝景)が西軍から東軍に寝返り将軍義政から越前守護に補任され、まず越前を失う。次に文明七年(一四七五)斯波義廉(西軍)が尾張の織田敏弘(西軍)を頼り尾張に下向したが、この後は名目上尾張守護だが実質上尾張は織田家が支配することとなる。最後に永正十四年(一五一七)管領家斯波義達が遠江引馬城(現在の浜松城)に籠城し今川氏親(義元の父)の攻撃に敗れ遠江を失う。といった次第で斯波家は三国を失い、三河地区は尾張織田方も駿河今川方も「自領である」と主張...巻一の四松平次郎三郎元康のこと

  • 巻一の三 五郎左つらつら考えること

    <初出:2007年の再掲です。>巻一の三五郎左、つらつら考えること黒田城を出発して半時(一時間)ほどたったころ、愛馬『二寸殿(にきどの)』にのった丹羽五郎左衛門長秀は丁度尾張一宮のそばを通りかかる。ここでひとまず休憩することにして、和田定利が「上総介信長殿へ」と手渡したみやげ物の中身をあらためると、はたして信長の大好物の『真桑瓜の塩漬け』が入っている。美濃名産の手土産である。「こういう心配りが一流と二流の差であろう」と感じ入り、「自分が尊敬する他国の武将と会うときも、和田のようにみやげ物選びには力を入れよう」と自戒する。二日酔いを治すため内緒で少しだけ『真桑瓜の塩漬け』を頂いたが・・・さらに境内の湧き水を「ゴクリ」と飲み、頭をすっきりさせて、これまでの尾張を取り巻く状況をつらつらと思い起こして見る。*八年...巻一の三五郎左つらつら考えること

  • 巻一の二 五郎左黒田から清洲へ戻ること

    <初出:2007年の再掲です。>巻一の二五郎左、黒田から清洲へ戻ること美濃との国境近くにある尾張黒田城を内密に訪れていた丹羽五郎左衛門長秀は、早朝卯の刻(六時ごろ)城主の和田新介定利に暇乞いをした。昨夜の酒がかなり残っているのかまぶたがはれ上がっていたため、お互い目を見合わせて「ぷっ」と吹き出してしまった。笑いを抑え、儀礼的に会釈した後、和田の臣下が出しておいてくれた愛馬「二寸殿(にきどの)」にまたがり、おおよそ六里(二十三km)離れた清洲へと向かう。「二寸殿」も主人の頭の痛そうな顔色を見て、ゆるりゆるりとなるべくゆれないように進んでいく。木曽川からの生ぬるい風が背中を押す。梅雨のこの季節に木曽川からこのような風が吹けば、雨が降るのは確実だ。ただこの分であれば、遅くとも未の刻(十三時ごろ)には清洲に戻れそ...巻一の二五郎左黒田から清洲へ戻ること

  • 巻一の一 物語開始のこと

    2025年度は、まずは連続読み物『いいかよく聞け、五郎左よ!』を再掲してまいります。<初出:2007年の再掲です。>巻一の一物語開始のことこの物語の主人公は、丹羽五郎左衛門長秀です。長秀は天文四年(一五三五)誕生(幼名:万千代)。父長政の代から尾張国守護斯波家の家臣でした。天文十九年(一五五0)頃から織田信長に仕えることになりますが、実はこの前年(一五四九)あたり、斎藤道三の女「濃姫」の信長への輿入れがあったり、捕虜として預かっていた松平竹千代(のちの徳川家康)が今川軍に奪還されたりと大変な事件が連続して起こります。この時機織田家の長老は平手中務丞政秀が務めていましたが、長秀は冷静に着実に政秀の政治手腕を身につけていきます。次の主要人物は織田三郎信長です。信長は天文三年(一五三四)誕生(幼名:吉法師)なの...巻一の一物語開始のこと

  • 天正453年が始まった!

    あけましておめでとうございます。仕事の都合で2024年は、なんとか週一回の記事アップをキープできました。2025年もこのペースで行きたいと思います。よろしくお願いいたします!今年は干支でいえば:乙きのと巳みの年令和でいえば:令和07年平成でいえば:平成37年昭和でいえば:昭和100年西暦でいえば:西暦2025年そして、信長公の時代の元号でいえば天正453年でもあります!信長公の物語を現時点でお願いするならば、⇒木梨憲武に笑顔爽やかな信長公を⇒阿部寛に戦国経済の鬼丹羽五郎左衛門長秀を⇒佐藤浩市に剛腕で泣き虫の柴田権六勝家をやっていただきましょう!↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>天正453年が始まった!

  • 沙門(しゃもん)

    沙門(しゃもん)<現代仮名遣い>しゃもん出家して仏道を納める人。桑門(さうもん<読み:そうもん>)とも。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>沙門(しゃもん)

  • 沙弥尼(しゃみに)

    沙弥尼(しゃみに)<現代仮名遣い>しゃみに十戒を受けてから比丘尼となるまでの女子の僧。修行の未熟な初心の僧。大姉?(五戒)/優婆夷(十戒)/沙弥尼(具足戒)/比丘尼(菩薩戒)/菩薩⇒仏。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>沙弥尼(しゃみに)

  • 沙弥(しゃみ)

    沙弥(しゃみ)<現代仮名遣い>しゃみ仏門に入って剃髪し、十戒を受けてから比丘となるまでの男子の僧。修行の未熟な初心の僧。居士(五戒)/優婆塞(十戒)/沙弥(具足戒)/比丘(菩薩戒)/菩薩→仏。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>沙弥(しゃみ)

  • 瀉瓶嫡弟(しゃびゃうちゃくてい)

    瀉瓶嫡弟(しゃびゃうちゃくてい)<現代仮名遣い>しゃびょうちゃくてい直接の法弟。「瀉瓶」とは、瓶の水を移しかえるように、師から弟子に奥儀をくまなく伝授すること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>瀉瓶嫡弟(しゃびゃうちゃくてい)

  • 舎那(しゃな)

    舎那(しゃな)<現代仮名遣い>しゃな盧舎那仏、光明遍照の意。真言では大日如来と称する。天台では用字を区別し、「遮那」を法身「舎那」を報身と説き、釈迦の応身に対せしめる。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>舎那(しゃな)

  • 社司(しゃし)

    社司(しゃし)<現代仮名遣い>しゃし神社に仕える神主・神官・神職のこと。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>社司(しゃし)

  • 硨磲(しゃこ)

    硨磲(しゃこ)<現代仮名遣い>しゃこ七宝の一つ。シャコ貝の貝がら。厚く、内面は白色でつやがあり、みがいて装飾用とする。七宝:金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・瑪瑙・赤珠(あかだま)をいう。経典により諸説あり、かわりに珊瑚・玫瑰(まいかい:薔薇のように赤い石)・琥珀などを加える場合もある。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>硨磲(しゃこ)

  • 錫杖(しゃくぢゃう)

    錫杖(しゃくぢゃう)<現代仮名遣い>しゃくじょう1)僧の持つ杖。上端を金属で造り、そこに小環を飾り、動かすと音が出る。僧の遊行には必ずこれを用いる。2)錫杖を振って唱える声明のこと。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>錫杖(しゃくぢゃう)

  • 釈尊の非滅(しゃくそんのひめつ)

    釈尊の非滅(しゃくそんのひめつ)<現代仮名遣い>しゃくそんのひめつ衆生に示す方便としては釈迦は入滅を示したもので、真実の滅ではないという意味で非滅という。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>釈尊の非滅(しゃくそんのひめつ)

  • 赤青童子(しゃくしゃうどうじ)

    赤青童子(しゃくしゃうどうじ)<現代仮名遣い>しゃくしょうどうじ金剛童子の身色を赤または青に現わしたもの。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>赤青童子(しゃくしゃうどうじ)

  • 娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうわう)

    娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうわう)<現代仮名遣い>しゃかつらりゅうおう八大龍王の一つ。海にすみ雨をつかさどる。厳島明神はその二女とされる。八大龍王:「法華経」に説く、仏法を守る八龍王。雨と海を司る。・「難陀」(なんだ)・「跋難陀」(ばつなんだ)・「娑竭羅」(しゃかつら)・「和修吉」(わしゅきつ)・「徳叉迦」(とくしゃか)・「阿那婆達多」(あなばだった)・「摩那斯」(まなし)・「優鉢羅」(うはつら)↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>娑竭羅龍王(しゃかつらりゅうわう)

  • 釈迦堂衆(しゃかだうじゅ)

    釈迦堂衆(しゃかだうじゅ)<現代仮名遣い>しゃかどうじゅ釈迦堂専属の堂衆。釈迦堂は、最澄本願の三尺の金色釈迦像を安置する堂。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>釈迦堂衆(しゃかだうじゅ)

  • 丈六(じゃうろく)

    丈六(じゃうろく)<現代仮名遣い>じょうろく一丈六尺(4.8m)。仏像の定尺。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>丈六(じゃうろく)

  • 常楽会の内梵(じゃうらくゑのないぼん)

    常楽会の内梵(じゃうらくゑのないぼん)<現代仮名遣い>じょうらくえのないぼん興福寺で行なう涅槃会を常楽会と称し、この会に内梵音という曲を奏する。この曲は弥勒のいる都卒天から伝来したという。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>常楽会の内梵(じゃうらくゑのないぼん)

  • 常楽会(じゃうらくゑ)

    常楽会(じゃうらくゑ)<現代仮名遣い>じょうらくえ興福寺・四天王寺・金剛峰寺などで行なわれる涅槃会。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>常楽会(じゃうらくゑ)

  • 常楽我浄の観(じゃうらくがじゃうのくゎん)

    常楽我浄の観(じゃうらくがじゃうのくゎん)<現代仮名遣い>じょうらくがじょうのかん常-常住不変、楽-苦しみを離れての安楽、我-自在無碍、浄-三惑ことごとく浄き、との意で、涅槃の四徳をあらわすという。「観」は心に深く思念すること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>常楽我浄の観(じゃうらくがじゃうのくゎん)

  • 声聞(しゃうもん)

    声聞(しゃうもん)<現代仮名遣い>しょうもん仏の教えを学び「四諦の理」を観じて修行し、「阿羅漢」になるのを目的とする行者。真理を悟っているが、まだ菩薩には達せず、「小乗」の徒とされる。「声聞」→「縁覚」→「菩薩」↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>声聞(しゃうもん)

  • 正法(しゃうほふ)

    正法(しゃうほふ)<現代仮名遣い>しょうほう釈迦の教えが正しく行なわれ、「教」「行」「証」のそなわる時代。釈迦入滅後五百年あるいは千年。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>正法(しゃうほふ)

  • 正念(しゃうねん)

    正念(しゃうねん)<現代仮名遣い>しょうねんひたすらに正法を思念すること。悟りに到達するための実践徳目「八正道」の一つ。八正道(はっしゃうだう)⇒悟りに至るための八種の基本的な実践徳目。慧(正見・正思惟)、戒(正語・正業・正命)、定(正念・正定)、正精進。八正道を整理したものを「戒・慧・定の三学」という。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>正念(しゃうねん)

  • 浄土の三部経(じゃうどのさんぶきゃう)

    浄土の三部経(じゃうどのさんぶきゃう)<現代仮名遣い>じょうどのさんぶきょう無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>浄土の三部経(じゃうどのさんぶきゃう)

  • 成等正覚(じゃうとうしゃうがく)

    成等正覚(じゃうとうしゃうがく)<現代仮名遣い>じょうとうしょうがく「等正覚」(仏の号の一)を成就する。即ち仏になること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>成等正覚(じゃうとうしゃうがく)

  • 聖道の修行(しゃうだうのしゅぎゃう)

    聖道の修行(しゃうだうのしゅぎゃう)<現代仮名遣い>しょうどうのしゅぎょう諸善を修行し聖果を悟る道。他力の浄土門に対する自力の聖道門。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>聖道の修行(しゃうだうのしゅぎゃう)

  • 浄刹(じゃうせつ)

    浄刹(じゃうせつ)<現代仮名遣い>じょうせつ極楽浄土。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>浄刹(じゃうせつ)

  • 生身の仏(しゃうじんのほとけ)

    生身の仏(しゃうじんのほとけ)<現代仮名遣い>しょうじんのほとけ現身のまま菩提を得て如来となった僧。生き仏。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生身の仏(しゃうじんのほとけ)

  • 生身の医王(しゃうじんのいわう)

    生身の医王(しゃうじんのいわう)<現代仮名遣い>しょうじんのいおう叡山東塔の一乗止観院(延暦寺の本堂)にある、本尊の薬師如来。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生身の医王(しゃうじんのいわう)

  • 生死を離る(しゃうじをはなる)

    生死を離る(しゃうじをはなる)<現代仮名遣い>しょうじをはなる菩提を得て仏となること。「生死によって生じる煩悩の一切から脱却し悟りを開く」という意味。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生死を離る(しゃうじをはなる)

  • 上乗(じゃうじょう)

    上乗(じゃうじょう)<現代仮名遣い>じょうじょう天台摩訶止観の教義のすぐれた事をよい乗り物にたとえていう。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>上乗(じゃうじょう)

  • 生者必滅(しゃうじゃひつめつ)

    生者必滅(しゃうじゃひつめつ)<現代仮名遣い>しょうじゃひつめつ生まれた者は必ず死ぬ。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生者必滅(しゃうじゃひつめつ)

  • 生死の妄染(しゃうじのまうぜん)

    生死の妄染(しゃうじのまうぜん)<現代仮名遣い>しょうじのもうぜん衆生が虚妄不実、染汚不浄である故に生死流転すること。一切生死の法。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生死の妄染(しゃうじのまうぜん)

  • 成実論(じゃうじつろん)

    成実論(じゃうじつろん)<現代仮名遣い>じょうじつろん印度の仏教学者訶梨跋摩の著作で鳩摩羅什が漢訳した。部派仏教の論書で一切皆空を説き、これによって中国で成実宗が成立した。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>成実論(じゃうじつろん)

  • 成実宗(じゃうじつしゅう)

    成実宗(じゃうじつしゅう)<現代仮名遣い>じょうじつしゅう南都六宗・日本八宗・中国十三宗の一つ。訶梨跋摩の成実論に基づいて「空」の思想を説く宗派。日本では三論宗の付属の宗派として、学僧の間に研究された。⇒関連:倶舎宗↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>成実宗(じゃうじつしゅう)

  • 生死断絶の観門(しゃうじだんぜつのくゎんもん)

    生死断絶の観門(しゃうじだんぜつのくゎんもん)<現代仮名遣い>しょうじだんぜつのかんもん生死流転の境から離れるべき教法。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>生死断絶の観門(しゃうじだんぜつのくゎんもん)

  • 正寺司・権寺司(しゃうじし・ごんじし)

    正寺司・権寺司(しゃうじし・ごんじし)<現代仮名遣い>しょうじし・ごんじし「寺司」は寺院管理の任にあたるもの。“正”は正、“権”は副を示す。<使用例>正剣・権剣など。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>正寺司・権寺司(しゃうじし・ごんじし)

  • 上座(じゃうざ)

    上座(じゃうざ)<現代仮名遣い>じょうざ三綱の一つ。三綱:①寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「上座」「寺主」「都維那」②寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「寺主」「知事」「維那」③寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「上座」「維那」「典座」↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>上座(じゃうざ)

  • 荘厳(しゃうごん)

    荘厳(しゃうごん)<現代仮名遣い>しょうごん信仰の表現として寺院・仏像などを飾ること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>荘厳(しゃうごん)

  • 常見(じゃうけん)

    常見(じゃうけん)<現代仮名遣い>じょうけん1)人も世界も常住不滅であると妄信する誤った見解。2)生物はこの世では死ぬけれども来世ではまた生き、生死相次いで終わることがないという見方。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>常見(じゃうけん)

  • 聖観世音(しゃうくゎんぜおん)

    聖観世音(しゃうくゎんぜおん)<現代仮名遣い>しょうかんぜおん六観音の一つ。変化しない本来の観音。宝冠の中に阿弥陀の化仏をつけ、多く手に蓮華を持つ。六道の中で餓鬼道に当てられる。六観音:六道の一つ一つに割り当てられた観世音菩薩。・天道→如意輪観世音・人間道→准胝観世音(じゅんでいくゎんぜおん)・修羅道→十一面観世音・畜生道→馬頭観世音・餓鬼道→聖観世音・地獄道→千手観世音↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>聖観世音(しゃうくゎんぜおん)

  • 浄行持律(じゃうぎゃうぢりつ)

    浄行持律(じゃうぎゃうぢりつ)<現代仮名遣い>じょうぎょうじりつ心身清浄を保って修行し、戒律を厳しく守ること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>浄行持律(じゃうぎゃうぢりつ)

  • 常行荘厳(じゃうぎゃうしゃうごん)

    常行荘厳(じゃうぎゃうしゃうごん)<現代仮名遣い>じょうぎょうしょうごん念仏三昧の修行をし、仏前を飾って信仰心を表現すること。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>常行荘厳(じゃうぎゃうしゃうごん)

  • 正覚(しゃうがく)

    正覚(しゃうがく)<現代仮名遣い>しょうがく邪念を断って悟りを得ること。最も正しい悟り。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>正覚(しゃうがく)

  • 上綱(じゃうがう)

    上綱(じゃうがう)<現代仮名遣い>じょうごう「三綱」の上位の者。上座にあたる。三綱①:寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「上座」「寺主」「都維那」三綱②:寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「寺主」「知事」「維那」三綱③:寺院の中の衆僧を統率し、寺務を司る三人の役僧。「上座」「維那」「典座」↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>上綱(じゃうがう)

  • 聖応(しゃうおう)

    聖応(しゃうおう)<現代仮名遣い>しょうおう仏陀の感応。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>聖応(しゃうおう)

  • 正・像・末(しゃう・ざう・まつ)

    正・像・末(しゃう・ざう・まつ)<現代仮名遣い>しょう・ぞう・まつ正法とは釈迦入滅後、「教」「行」「証」のそなわる時代。像法とは、「証」果を失い、「教」「行」の保たれる時代。末法とは、「行」「証」が失われ、遺「教」のみとなる時代。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>正・像・末(しゃう・ざう・まつ)

  • 四慢(しまん)

    四慢(しまん)<現代仮名遣い>しまん慢(まん)とはサンスクリット語のMāna(マーナ)に由来し、仏教が教える煩悩のひとつである。(byWikipedia)増上・卑下・我・邪の四つがある。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<徳川家康の目器/『大徳川展』のカタログより>四慢(しまん)

  • 死魔(しま)

    死魔(しま)<現代仮名遣い>しま四魔の一つ。死の為に仏道を修行することができないとして、「死」を魔にたとえていう。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>死魔(しま)

  • 四魔(しま)

    四魔(しま)<現代仮名遣い>しま衆生に苦悩を与える四種の魔。煩悩魔、陰魔、死魔、天魔。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>四魔(しま)

  • 塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)

    塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)<現代仮名遣い>しおがまのだいみょうじん宮城県塩釜市にある塩釜神社。海上守護・豊漁・安全の神。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)

  • 十王(じふわう)

    十王(じふわう)<現代仮名遣い>じゅうおう閻魔庁にいる十王で、死者の裁判を行なう。秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王。死者を七日づつ交替で尋問する。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>十王(じふわう)

  • 十羅刹女(じふらせつにょ)

    十羅刹女(じふらせつにょ)<現代仮名遣い>じゅうらせつにょ法華経「陀羅尼品」において、法華経の誦持者の守護・除患を誓った十人の羅刹女。藍婆・毘藍婆・曲歯・華歯・黒歯・多髪・無厭足・持瓔珞・皐諦・奪一切衆生精気。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十羅刹女(じふらせつにょ)

  • 十楽(じふらく)

    十楽(じふらく)<現代仮名遣い>じゅうらく極楽浄土の十の楽しみ。聖衆来迎・蓮華初開・身相神通・五妙境界・快楽無限・引接結縁・聖衆倶会・見仏聞法・随心供仏・増進仏道。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十楽(じふらく)

  • 十問挙疑(じふもんこぎ)

    十問挙疑(じふもんこぎ)<現代仮名遣い>じゅうもんこぎ仏法論における論題。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十問挙疑(じふもんこぎ)

  • 十念(じふねん)

    十念(じふねん)<現代仮名遣い>じゅうねん「南無阿弥陀仏」を十返唱えること。相違なく唱えることを「十念成就」という。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十念(じふねん)

  • 天正452年が始まった!

    あけましておめでとうございます。仕事の都合で2023年は、なんとか週一回以上のペースで記事をアップしてまいりました。2024年もこのペースで行きたいと思います。よろしくお願いいたします!今年は干支でいえば:甲きのえ辰たつの年令和でいえば:令和06年平成でいえば:平成36年昭和でいえば:昭和99年西暦でいえば:西暦2024年そして、信長公の時代の元号でいえば天正452年でもあります!信長公を演じる役者のなかでは、いまだに高橋幸治が最高と純野は信じております。天正452年が始まった!

  • 十二の願王(じふにのぐゎんわう)

    十二の願王(じふにのぐゎんわう)<現代仮名遣い>じゅうにのがんおう→十二神将薬師如来に奉仕する十二神将。宮毘羅(くびら)・伐折羅(ばさら)・迷企羅(めきら)・安底羅(あんちら)・頞儞羅(あねら)・珊底羅(さんちら)・因達羅(いんだら)・波夷羅(はいら)・摩虎羅(まごら)・真達羅(しんだら)・招杜羅(しゃどら)・毘羯羅(びがら)。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十二の願王(じふにのぐゎんわう)

  • 塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)

    塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)<現代仮名遣い>しおがまのだいみょうじん宮城県塩釜市にある塩釜神社。海上守護・豊漁・安全の神。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>塩竈大明神(しほがまのだいみゃうじん)

  • 十二天(じふにてん)

    十二天(じふにてん)<現代仮名遣い>じゅうにてん八方位に守護天を配する。東-帝釈天、南東-火天、南-焔摩天、南西-羅刹天、西-水天、北西-風天、北ー毘沙門天、北東ー伊舎那天、これを八天という。上-梵天、下-地天を加えて十天、さらに日天・月天を加えて十二天という。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十二天(じふにてん)

  • 十二神将の像(じふにしんしゃうのざう)

    十二神将の像(じふにしんしゃうのざう)<現在仮名遣い>じゅうにしんしょうのぞう延暦寺に祀られる、十二神将の像。寛仁の入道大相国(藤原)道長の造立になる。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十二神将の像(じふにしんしゃうのざう)

  • 十二神将(じふにしんしゃう)

    十二神将(じふにしんしゃう)<現代仮名遣い>じゅうにしんしょう薬師如来に奉仕する十二神将。宮毘羅(くびら)・伐折羅(ばさら)・迷企羅(めきら)・安底羅(あんちら)・頞儞羅(あねら)・珊底羅(さんちら)・因達羅(いんだら)・波夷羅(はいら)・摩虎羅(まごら)・真達羅(しんだら)・招杜羅(しゃどら)・毘羯羅(びがら)。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<長崎“ハウステンボス”のポーセリンミュージアム>十二神将(じふにしんしゃう)

  • 十二光仏(じふにくゎうぶつ)

    十二光仏(じふにくゎうぶつ)<現代仮名遣い>じゅうにこうぶつ阿弥陀仏の別称。阿弥陀仏の光明の功徳を十二種に分かって名づけたもの。「無量光仏」「無辺光仏」「無礙光仏」「無対光仏」「焰王光仏」「清浄光仏」「歓喜光仏」「智慧光仏」「不断光仏」「難思光仏」「無称光仏」「超日月光仏」。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十二光仏(じふにくゎうぶつ)

  • 十二因縁(じふにいんゑん)

    十二因縁(じふにいんゑん)<現代仮名遣い>じゅうにいんねん過去・現在・未来の人間の生まれ変わりの様子を、十二の因果関係として説明するもの。「無明」「行」「識」「名色」「六処」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十二因縁(じふにいんゑん)

  • 十天(じふてん)

    十天(じふてん)<現代仮名遣い>じゅうてん/じゅってん八方位に守護天を配する。東-帝釈天、南東-火天、南-焔摩天、南西-羅刹天、西-水天、北西-風天、北ー毘沙門天、北東ー伊舎那天、これを八天という。上-梵天、下-地天を加えて十天、さらに日天・月天を加えて十二天という。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十天(じふてん)

  • 十重禁(じふぢゅうきん)

    十重禁(じふぢゅうきん)<現代仮名遣い>じゅうじゅうきん十種の重罪(十悪)を犯さぬことを誓う戒。十悪⇒身・口・意の三業による十種の罪悪。殺生(せっしゃう)・偸盗(ちゅうたう)・邪淫(じゃいん)・妄語(まうご)・綺語(きご)・悪口(あくく)・両舌(りゃうぜつ)・貪欲(どんよく)・瞋意(しんい)・愚痴(ぐち)。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十重禁(じふぢゅうきん)

  • 十地の階級(じふぢのかいきゅう)

    十地の階級(じふぢのかいきゅう)<現代仮名遣い>じゅうじのかいきゅう大乗仏教では菩薩の修業の段階を五十二位に分けるが、その四十一位から五十位までを十地という。四十一位を歓喜地、五十位を法霊地という。最高位は妙覚。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十地の階級(じふぢのかいきゅう)

  • 十乗の風(じふじょうのかぜ)

    十乗の風(じふじょうのかぜ)<現代仮名遣い>じゅうじょうのかぜ迷妄を吹き払う十種の観法。観不思議・真正発菩提心・善巧安心・破法適・識塞通・道品調適・対治助開・知次位・能安忍・無法愛。十乗観法ともいう。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十乗の風(じふじょうのかぜ)

  • 十乗(じふじょう)

    十乗(じふじょう)<現代仮名遣い>じゅうじょう涅槃に入るための十種の観法。観不思議・真正発菩提心・善巧安心・破法適・識塞通・道品調適・対治助開・知次位・能安忍・無法愛。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十乗(じふじょう)

  • 十三大会(じふさんだいゑ)

    十三大会(じふさんだいゑ)<現代仮名遣い>じゅうさんだいえ一切衆生の本徳である胎蔵界曼荼羅の十三院。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十三大会(じふさんだいゑ)

  • 十一面観世音(じふいちめんくゎんぜおん)

    十一面観世音(じふいちめんくゎんぜおん)<現代仮名遣い>じゅういちめんかんぜおん六観音の一つ。多くは頭上に十一の小面をいただく。すなわち前に菩薩面三・左に瞋怒面三・右に牙上出面三・後ろに大笑面一をつけて「十地」を表わし、頭頂の仏面は「仏果」を表わす。これは衆生の十一品の無明を断ち、仏果を開かせる意味という。六道では、修羅道に当てられる。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十一面観世音(じふいちめんくゎんぜおん)

  • 十悪の風(じふあくのかぜ)

    十悪の風(じふあくのかぜ)<現代仮名遣い>じゅうあくのかぜ平重衡が大仏を焼いた焰の風を、仏の戒める十の大罪にたとえる。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<JR岐阜駅前の黄金の信長公像>十悪の風(じふあくのかぜ)

  • 十悪(じふあく)

    十悪(じふあく)<現代仮名遣い>じゅうあく身・口・意の三業による十種の罪悪。殺生(せっしゃう)・偸盗(ちゅうたう)・邪淫(じゃいん)・妄語(まうご)・綺語(きご)・悪口(あくく)・両舌(りゃうぜつ)・貪欲(どんよく)・瞋意(しんい)・愚痴(ぐち)。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>十悪(じふあく)

  • 指南(しなん)

    指南(しなん)<現代仮名遣い>しなん仏が衆生を教え導くこと。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>指南(しなん)

  • 四天王(してんわう)

    四天王(してんわう)<現代仮名遣い>してんのう帝釈天の外来の臣で須弥山の中腹に住む。東方-持国天王南方-増長天王西方-広目天王北方-多聞天王(毘沙門天)↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>四天王(してんわう)

  • 寺諜(じてふ)

    寺諜(じてふ)<現代仮名遣い>じちょう寺院で発行する書簡・文書↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>寺諜(じてふ)

  • 四手(しで)

    四手(しで)<現代仮名遣い>しでしめなわ・たまぐしにつけて垂らすもの。古くは「木綿」(ゆう)後には紙をつかった。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>四手(しで)

  • 七宝(しっぽう)

    七宝(しっぽう)<現代仮名遣い>しっぽう仏教用語。七種の宝物。金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ)・瑪瑙・赤珠(あかだま)をいう。経典により諸説あり、かわりに珊瑚・玫瑰(まいかい)・琥珀などを加える場合もある。↓ランキングに参加中。ぽちっとお願いしますにほんブログ村<震災前の熊本城を西側駐車場から>七宝(しっぽう)

  • JR水道橋駅東口交差点から都立工芸高校側にわたった左奥に讃岐金刀比羅宮東京分社がありました!〔付:お昼は『水道橋麺通団』でおいしい讃岐うどんをどうぞ!〕

    JR水道橋駅東口交差点から都立工芸高校側にわたって左の一本目の角を右折し、宝生能楽堂の角を左に曲がると讃岐金刀比羅宮東京分社がありました!海運関係の守り神なので、よろしかったらどうぞ!**純野のつぶやき**となりに『こんぴら会館』がありまして、そのすぐ先の角に、名著“恐るべき讃岐うどん”で讃岐うどんブームを巻き起こした香川の田尾教授が絡んだ、『水道橋麺通団』がありました!来たのは7年半ぶりで大変ご無沙汰いたしました!コロナに負けず生き残るとは根性のある店です!さっきお昼を食べたばっかりなので今日は無理だけど、今度は香川で一緒に生活していた家族を連れて来なければ・・10年近く香川にいた純野が東京に戻って7年半前にお邪魔した時、現地並の美味しさでビックリしたのを思い出しました!自信をもってお勧めします!JR水道橋駅東口交差点から都立工芸高校側にわたった左奥に讃岐金刀比羅宮東京分社がありました!〔付:お昼は『水道橋麺通団』でおいしい讃岐うどんをどうぞ!〕

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