巻一の四 松平次郎三郎元康のこと
<初出:2007年の再掲です。>巻一の四松平次郎三郎元康のこと三河と尾張の境界争いについては、実はかなり深い因縁がある。応仁元年(一四六七)の応仁の乱発生の頃は、斯波氏が越前・尾張・遠江の三国守護を兼任していた。がしかし、文明四年(一四七一)五月、応仁の乱の最中、朝倉敏景(孝景)が西軍から東軍に寝返り将軍義政から越前守護に補任され、まず越前を失う。次に文明七年(一四七五)斯波義廉(西軍)が尾張の織田敏弘(西軍)を頼り尾張に下向したが、この後は名目上尾張守護だが実質上尾張は織田家が支配することとなる。最後に永正十四年(一五一七)管領家斯波義達が遠江引馬城(現在の浜松城)に籠城し今川氏親(義元の父)の攻撃に敗れ遠江を失う。といった次第で斯波家は三国を失い、三河地区は尾張織田方も駿河今川方も「自領である」と主張...巻一の四松平次郎三郎元康のこと
2025/01/26 00:00