いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
住所
北区
出身
南区
ハンドル名
純野一益(戦国)さん
ブログタイトル
いいかよく聞け五郎左よ!−もうひとつの信長公記−
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/masunojun1
ブログ紹介文
「信長公記」と「源平盛衰記」の関連は?信長の忠臣『丹羽五郎左衛門長秀』の活躍は?細川藤孝の動きは?
自由文
-
更新頻度(1年)

267回 / 267日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2008/08/23

純野一益(戦国)さんの人気ランキング

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純野一益(戦国)さんのブログ記事

1件〜30件

  • 無辺(むへん)

    無辺(むへん)<現代仮名遣い>むへん石場寺栄螺坊に泊まっていた売僧。1580年3月信長との問答に窮し、「出羽羽黒の出身」と白状してしまい、頭を所々刈られて裸で縄を巻かれ安土を追放される。その後、「丑の時の秘法」と称して、子の生めない女や病弱の女に「臍くらへ」という破廉恥な儀式を行っていたことがわかり、探し出されて誅伐される。※すごい売僧(まいす)ですね!↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村無辺(むへん)

  • 武藤義興(むとうよしおき)

    武藤義興(むとうよしおき)<現代仮名遣い>むとうよしおき※下線部は信長公記以外の記事によります。出羽大宝寺。鶴岡市の大宝寺城主。1579年7月信長に、駿馬五匹・鷹十一足(うち一足白鷹)を進上する。1581年7月信長に、鷹と馬を進上する。翌日使いのものに小袖と巻物が送り遣わされる。1587年上杉景勝の重臣本荘繁男の二男を養子として上杉氏との連合を強化しようとするが、同年10月庄内に侵入した最上義光に攻められ自刃。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村武藤義興(むとうよしおき)

  • 武藤友益(むとうともます)

    武藤友益(むとうともます)<現代仮名遣い>むとうともます※下線部は信長公記以外の記事によります。上野。若狭武田氏の将。1538年稲葉館の伊崎堯為を討ち、近隣の土豪を従える。1570年織田信長の若狭侵攻に反抗。1570年4月信長が北陸朝倉攻めから京に戻ったあと、丹羽長秀・明智光秀を使いとして武藤友益のもとへ送り、母親を人質に取った上で構えを破却した。信長が若狭から退去するとまた反抗。1581年4月武田元明は、病死した逸見昌経の旧知分武藤有益・粟屋右京亮の跡三千石を信長から下される。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村武藤友益(むとうともます)

  • 武藤助(むとうすけ)

    武藤助(むとうすけ)<現代仮名遣い>むとうすけ不詳。1582年3月織田信長の信州入りに同行し、上諏訪の陣で信長を警護。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村武藤助(むとうすけ)

  • 武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)

    武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)<現代仮名遣い>むとうしゅんしゅう宗右衛門・惣左衛門・惣右衛門。若狭衆。のち信長の臣。1574年1月越前守護代前波長俊が府中富田長繁に攻められ自刃すると、敦賀まで差し向けられる。1575年8月岐阜を進発した信長軍は、敦賀では武藤のところに布陣。1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。1575年9月戦後敦賀郡の経営を任され、在地。1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口から小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。1578年6月信忠播磨攻めに参戦し、神吉城を攻撃。1578年11月信長の荒木成敗に参戦し、太田の北の山に要害造営を命じられる。太田取手の造営が終わると、伊丹まで進出。家臣の足軽が活躍し頸四つをとり、あまの信長の目にかける。伊丹近辺に放火し城勢の働きを押え、刀根山に布陣。1578...武藤舜秀(むとうしゅんしゅう)

  • 武藤五郎右衛門(むとうごらううゑもん)

    武藤五郎右衛門(むとうごらううゑもん)<現代仮名遣い>むとうごろうえもん不詳。1570年8~9月信長軍が野田・福島を攻撃中、9月浅井・朝倉軍が坂本に進撃。森三左衛門可成らが討ち死にしたが、武藤が宇佐山城を堅固に守備した。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村武藤五郎右衛門(むとうごらううゑもん)

  • 武藤氏定(むとううじさだ)

    武藤氏定(むとううじさだ)<現代仮名遣い>むとううじさだ刑部丞。不詳。1581年3月高天神城陥落の時、城勢として討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村武藤氏定(むとううじさだ)

  • 六鹿(むつしか)

    六鹿(むつしか)<現代仮名遣い>むつしか名は不明。おそらく織田孫三郎信光の将。1554年1月村木城攻めの時、西搦め手から外丸に一番乗り。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村六鹿(むつしか)

  • 聟(むこ)

    聟(むこ)<現代仮名遣い>むこ不詳。1582年2月信長から信忠の陣の様子を確かめるため、聟・犬の両人が信州へと送られる。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村聟(むこ)

  • 向駿河(むかひするが)

    向駿河(むかひするが)<現代仮名遣い>むかいするが不詳。1575年8月信長越前攻撃の時、朝倉景健は下間頼照・下間頼俊・専修寺の頸を切り、信長のもとへ持参したが、赦免されず向駿河に切り捨てられた。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村向駿河(むかひするが)

  • 六笠彦三郎(むかさひこさぶらう)

    六笠彦三郎(むかさひこさぶらう)<現代仮名遣い>むかさひこさぶろう不詳。1581年3月高天神城陥落の時、城勢として討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村六笠彦三郎(むかさひこさぶらう)

  • 三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]

    三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]<現代仮名遣い>みよしよしつぐ※下線部は信長公記以外の記事によります。1570年8~9月の野田・福島の戦いで信長が退却した後、信長方として若江城を守備。1572年4月畠山昭高に反発し、昭高の臣安見新七郎の守る交野城に向けて取手を築くも、信長軍に攻められ退却。若江城に篭城する。1572年8月石山本願寺と組み、摂津中島の細川昭元を攻撃。1573年3月将軍義昭から義輝弑逆の罪を許され入京。再度信長に背反。1573年7月真木島の戦いに敗れ秀吉に連行されてきた将軍義昭を若江城で保護。1573年11月城中の家老衆多羅尾右近・池田丹後守・野間左吉が背反し、城中一の重臣金山駿河を殺害のうえ、信長方佐久間信盛を呼び入れる。天主まで追い詰められた義継は女房・子息を刺し殺した後、腹十文字に掻き切っ...三好義継(みよしよしつぐ)[2/2]

  • 三好義継(みよしよしつぐ)[1/2]

    三好義継(みよしよしつぐ)[1/2]<現代仮名遣い>みよしよしつぐ※記事量が多いので2回に分けての投稿です。※下線部は信長公記以外の記事によります。左京大夫。三好修理大夫長慶は、1563年8月子息義興が病死した後、一族の十河(そがは)一存の子重存を養子とする。1564年7月4日長慶が亡くなると、三好三人衆の後見を得て三好家当主となり、河内飯森城主となる。1565年5月将軍義輝から偏諱を受け、名を義重と改め左京大夫に補任。のち、義継。1565年5月将軍義輝を弑逆。またキリスト教宣教師を京都から追放。1566年9月足利義栄(義昭の叔父義維の子)が阿波から畿内へ上陸。1567年10月足利義栄を奉じた筒井順慶と三好三人衆(三好長逸・政康・岩成友通)、松永久秀を多聞城に追い込む。久秀、奈良東大寺に三好三人衆を破り、大仏殿...三好義継(みよしよしつぐ)[1/2]

  • 三好康長(みよしやすなが)

    三好康長(みよしやすなが)<現代仮名遣い>みよしやすなが※下線部は信長公記以外の記事によります。山城守・笑岩。三好元長の弟。長秀の子。長慶の死後三好三人衆らとともに活躍する。1562年5月三好長慶に従い、畠山高政を河内国教興寺に破る。1568年信長・義昭入洛の戦いのとき、高屋城から四国へ逃亡。1569年1月阿波から上陸し三人衆とともに将軍義昭を六条本国寺に襲うも敗れる。1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に篭城し信長に反抗。1574年再び高屋城に籠もり信長に反抗。1575年4月籠城中の高屋城を信長軍に攻められる。その後香西越後らの新堀城落城を耳にし、松井夕閑を通じて降参し信長から赦免される。1575年7月入洛してきた信長のもとへ出仕。1575年10月上洛した信長に、大坂方赦免の使いをつとめる。1576年4...三好康長(みよしやすなが)

  • 三好政康(みよしまさやす)

    三好政康(みよしまさやす)<現代仮名遣い>みよしまさやす※下線部は信長公記以外の記事によります。下野守。三好三人衆の一人。頼澄の子。1562年5月三好長慶に従い、畠山高政を河内国教興寺に破る。1564年長慶の病死により三人衆として義継を後見する。1565年松永久秀らと将軍義輝を弑逆。同年政康は久秀と対立し、足利義栄を擁して河内・大和国で交戦。1566年7月入京し庶政にあたる。1567年奈良で久秀と同盟した義継と戦う。1568年信長・義昭入洛の戦いで、木津城を捨てて阿波へ逃亡。その後信長の岐阜への帰路を襲うが失敗。1569年1月六条合戦を引き起こす。1573年信長の侵攻に破れ逃亡。のち秀吉・秀頼に仕え、1615年5月大坂夏の陣で討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村三好政康(みよしまさやす)

  • 三好政勝(みよしまさかつ)

    三好政勝(みよしまさかつ)<現代仮名遣い>みよしまさかつ※下線部は信長公記以外の記事によります。為三。三好政長の子。1544年細川晴元の勧めで家督を継ぐ。1549年6月三好長慶に父政長を討ち取られ、摂津榎並城から退去。のち長く丹波宇津を根城に三好長慶と対戦。1564年7月長慶の死後、三好三人衆と和解。1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に篭城し信長に反抗するも、途中で離反し8月天王寺の信長の元へ参上。→摂津国豊島郡で所領を下される。1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、将軍山を守備。→のち秀吉に仕え、続いて徳川家康に仕える。1600年会津征伐に参加し、戦後河内国讃良・河内・錦部三郡の内二千二十石余を与えられた。その後大坂の陣にも加わり、1631年12月死去。↓ランキングに参加中。クリック応援よろ...三好政勝(みよしまさかつ)

  • 三好長慶(みよしながよし)[3/3]

    三好長慶(みよしながよし)[3/3]<現代仮名遣い>みよしながよし※下線部は信長公記以外の記事によります。1558年7月長慶、京の地子銭を取り立てる。1558年11月佐々木六角義賢の斡旋により、義輝と三好長慶の講和なる。長慶、義輝に京都を明け渡す。1559年5月長慶、河内に出兵。1559年6月長慶、尼崎に出陣。河内の安見宗房攻めの為、淡路から安宅冬康が来援。松永久秀も、河内十七ヶ所に出陣。1559年8月長慶、高屋城・飯盛山城を攻め落とす。長慶、安見宗房を破り、畠山高政を河内に戻す。細川氏綱を淀城に入れ山城・丹波の守護とし、将軍義輝を牽制。1559年末松永久秀、奈良に進軍。1560年6月長慶が河内に永禄二年(1559)戻してやった畠山高政、再び安見宗房と和睦した為、長慶激怒。長慶、河内十七ヶ所に出陣。1560年1...三好長慶(みよしながよし)[3/3]

  • 三好長慶(みよしながよし)[2/3]

    三好長慶(みよしながよし)[2/3]<現代仮名遣い>みよしながよし※下線部は信長公記以外の記事によります。1548年7月長慶、畿内を制し入京。1551年7月細川晴元の武将三好政勝・香西氏らが、丹波から京都に入り相国寺に布陣。長慶の武将松永久秀、これを攻撃し敗走させる。1552年1月足利義輝、六角義賢の調停で三好長慶と和睦し、長慶は御供衆となる。義輝は細川晴元の子昭元と共に近江より上洛。晴元は薙髪し若狭武田氏の元へ出奔。細川氏の家督は氏綱が継ぐ。1552年2月細川氏綱・三好長慶ら入洛して幕府に出仕。同日氏綱管領職につく。1552年6月長慶、細川昭元を摂津越水城に入城させる。同年若狭に逃げ込んでいた細川晴元の兵が京に攻めあがる。1553年長慶と将軍義輝の講和が破れる。1553年8月長慶、京都に侵入し、足利義輝を霊山...三好長慶(みよしながよし)[2/3]

  • 三好長慶(みよしながよし)[1/3]

    三好長慶(みよしながよし)[1/3]<現代仮名遣い>みよしながよし※下線部は信長公記以外の記事によります。※記事量が多いので3回に分けての投稿です。修理大夫。信長公記では登場せず。本文中「修理大夫」と出てくるのは嗣子義継のこと。三好氏は元々阿波守護家細川氏の被官。父元長は、畿内の細川家・将軍家・三好家内の複雑な権力闘争をすり抜け足利義維を擁して堺に上陸し入京せず堺幕府と呼ばれる。1532年6月父元長が細川晴元に討たれ、10歳で家督を継ぐ。1533年阿波国芝生城から大坂に向かい本願寺と細川晴元との講和を仲介する。これにより1534年10月長慶は、木沢長政の斡旋で晴元の内衆(被官)となり幕府に出仕。1539年三好長慶、幕府御料所河内十七ヶ所を要求するも許されず。細川晴元打倒の兵をあげる。長慶は摂津国島上まで進出して...三好長慶(みよしながよし)[1/3]

  • 三好長逸(みよしながゆき)

    三好長逸(みよしながゆき)<現代仮名遣い>みよしながゆき※下線部は信長公記以外の記事によります。日向守。三好三人衆の一人。長則の子。早くから三好長慶に従って畿内で活躍。1549年芥川城の芥川氏援助のため東摂津に移動。1554年播磨に出陣し美嚢郡を攻略。1555年9月摂津国の一軍を任され、丹波国多紀郡八上城の波多野晴通を攻めるが失敗し、和議する。1558年以降山城国飯岡城主となり、山城南半国を支配した。1564年7月長慶の病死で猶子義継の後見人となり、三好一族の最長老として三好三人衆の筆頭となる。1565年5月松永久秀らと謀議して将軍義輝を弑逆。しかし同年11月久秀と決裂して足利義栄を擁し、河内・大和国各地で戦う。1566年7月入京し庶政を裁決する。1567年義継が離反し久秀と同盟したため、これと奈良で戦う。15...三好長逸(みよしながゆき)

  • 三好三人衆(みよしさんにんしゅう)

    三好三人衆(みよしさんにんしゅう)<現代仮名遣い>みよしさんにんしゅう三好修理大夫長慶の武将。三好日向守長逸・三好下野守政康・岩成主税助友通の三人。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村三好三人衆(みよしさんにんしゅう)

  • 宮居眼左衛門(みやゐがんざゑもん)

    宮居眼左衛門(みやゐがんざゑもん)<現代仮名遣い>みやいがんざえもん相撲取り。1570年2月常楽寺の相撲に出場。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮居眼左衛門(みやゐがんざゑもん)

  • 宮脇又兵衛(みやわきまたべゑ)

    宮脇又兵衛(みやわきまたべゑ)<現代仮名遣い>みやわきまたべえ不詳。伊丹城の足軽大将。1579年10月滝川一益は佐治新介を使いとして伊丹城を調略し、中西新八郎を身方にひきつける。すると、足軽大将の星野・山脇勘左衛門・隠岐・宮脇又兵衛が謀叛を起こし、上臈塚へ滝川の軍勢を入れ、数多く切り捨てる。1580年6月中西新八郎・星野左衛門・宮脇又兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門の五人は、池田恒興の与力となるよう指示が下る。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮脇又兵衛(みやわきまたべゑ)

  • 宮本兵大夫(みやもとへいたいふ)

    宮本兵大夫(みやもとへいたいふ)<現代仮名遣い>みやもとへいだゆう雑賀衆。1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、土橋平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源三大夫・宮本兵大夫・嶋本左衛門大夫・栗村二郎大夫七人の連署で、「大坂攻めに助力する」旨誓紙を書き信長に赦免された。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮本兵大夫(みやもとへいたいふ)

  • 宮部継潤(みやべけいじゅん)

    宮部継潤(みやべけいじゅん)<現代仮名遣い>みやべけいじゅん※下線部は信長公記以外の記事によります。善祥坊。近江宮部の住人。天文年間1532~1555年比叡山の僧となるが、のち浅井長政に仕える。浅井氏の守将として織田信長に対抗するが、1571年秀吉の誘いに応じ信長に降伏。三千石を領した。1572年信長浅井攻めの時、信長方として宮部の取手に入る。1581年10月鳥取城を攻め落とした羽柴秀吉は、宮部継潤を城代としていれておく。1587年九州征伐に従軍。日向高城で島津家久の率いる大軍を撃退。また、のち豊後の太閤蔵入地の代官をつとめる。1594年伏見城の普請工事を分担。1596年隠居して家督を子長熙に譲る。晩年は秀吉の御咄衆の一人に加えられ、1599年3月死去。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!に...宮部継潤(みやべけいじゅん)

  • 宮西遊左衛門(みやにしゆざゑもん)

    宮西遊左衛門(みやにしゆざゑもん)<現代仮名遣い>みやにしゆざえもん不詳。1576年1月開始の安土城建築で、銀細工を受け持つ。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮西遊左衛門(みやにしゆざゑもん)

  • 宮田彦次郎(みやたひこじらう)

    宮田彦次郎(みやたひこじらう)<現代仮名遣い>みやたひこじろう不詳。1582年6月本能寺の変で討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮田彦次郎(みやたひこじらう)

  • 宮崎二郎七(みやざきじらうしち)

    宮崎二郎七(みやざきじらうしち)<現代仮名遣い>みやざきじろしち不詳。1576年7月住吉方面の信長方が西国の水軍に壊滅させられた後、住吉浜の城番をつとめる。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮崎二郎七(みやざきじらうしち)

  • 宮崎鎌大夫(みやざきかまたいふ)

    宮崎鎌大夫(みやざきかまたいふ)<現代仮名遣い>みやざきかまだゆう不詳。大和の住人。1576年7月西国から大坂兵粮入れにきた能島・来島・児玉・粟屋・乃美連合軍の大船八百艘に対し、三百艘の連合艦隊を組んだが、ほうろく・火矢で攻め立てられ討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮崎鎌大夫(みやざきかまたいふ)

  • 宮崎鹿目介(みやざきかのめのすけ)

    宮崎鹿目介(みやざきかのめのすけ)<現代仮名遣い>みやざきかのめのすけ不詳。1576年7月西国から大坂兵粮入れにきた能島・来島・児玉・粟屋・乃美連合軍の大船八百艘に対し、三百艘の連合艦隊を組んだが、ほうろく・火矢で攻め立てられ討ち死に。↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!にほんブログ村宮崎鹿目介(みやざきかのめのすけ)