鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。 名誉回復の目的としては、土御門…
源頼朝の手にした征夷大将軍の称号は武家のトップの称号ではない。天叢雲剣の新たな形代こそ征夷大将軍という称号であった。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
建久六(一一九五)年六月二五日、鎌倉幕府の面々が鎌倉へと出発した。 表向きの目的である東大寺再建供養への参列は果たしたが、真の目的である大姫入内は果たせなか…
鎌倉幕府の面々が上洛したのは、主目的は源頼朝の娘を入内させることであったものの、表向きは東大寺再建供養への参列である。東大寺再建供養が終わっても京都に留まり…
京都を発って四天王寺に向かい一泊二日で戻ってきた、それも、どんなに少なく見積もっても一万人を超える人数が一泊二日で戻ってきたとあって、京都内外に鎌倉幕府の実…
建久六(一一九五)年五月一八日、鎌倉幕府の一行は四天王寺へ向けて出発することを決めた。それも、鎌倉武士達にとっては珍しく、水路での移動であった。淀川に船を浮…
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先に、東大寺再建供養の場に大仏鋳造責任者となった宋人の陳和卿も、そして、東大寺復旧工事の総責任者である重源上人もいなかったことは記した。 陳和卿についてはそ…
娘を入内させることを目論む源頼朝にとって障壁となっていた九条兼実が障壁で無くなり、宣陽門院に協力したことで丹後局高階栄子のバックアップも得ることに成功したこ…
九条兼実にとっては、長講堂領荘園の権利確認そのものが政治的に痛い話であった。私有財産への侵害だけでも問題であるのに、後白河法皇の保有する資産の相続に口出しし…
源頼朝が狙っていたのは娘の入内である。 とは言え、仮に九条兼実が政治的ミスをやらかしていなかったならば、源頼朝は九条兼実との離反を考えはしなかったであろう。…
そのあたりの答えは建久六(一一九五)年四月一日の九条兼実の日記にある。九条兼実はこの日も源頼朝と面会したことは書いているが、そこにあるのはかつてのような友好…
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ただし、源頼朝にしてみれば高階栄子に対する接近は必ずしも最良とは言い切れない。高階栄子は九条兼実に対抗する勢力の中心である土御門通親こと源通親と親しく、この…
さて、その大前提となるのが大姫を後鳥羽天皇のもとに嫁がせることであるが、結論から言うと難航した。 入内といっても大姫が皇后や中宮に立后されることは難しい。そ…
源頼朝とて、京都の貴族達から向けられている視線を理解していないわけはない。とは言え、そのまま放置することを良しとするほど無神経ではない。 人間、脳内に作り上…
このことは源頼朝も当然ながら知っている。 式典の翌日である建久六(一一九五)年三月一三日、源頼朝は復旧工事に尽力した陳和卿への面会を求めたが、陳和卿はそれを…
僧兵と鎌倉武士との間で諍いが起こる寸前に至ってから時間が少し経過してから、後鳥羽天皇や九条兼実をはじめとする貴族達も大仏殿に到着し、未刻というから現在の時制…
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なお、先頭を務める和田義盛と、最後尾を務める梶原景時の両名は、儀仗兵を務める直前まで警備に専念しており、儀仗兵の列を作る直前になって警備から離れている。つま…
そして、源頼朝もこのときばかりはあくまでも一人の貴族として、すなわち、前権大納言として東大寺に参詣しており、周囲をかためる武士達が鎌倉幕府の御家人であるとい…
鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発したのと同じ建久六(一一九五)年三月一〇日、後鳥羽天皇が京都を出発して奈良に向かった。 陰陽道に従えば行幸の吉日ではないが…
建久六(一一九五)年三月一〇日、鎌倉幕府の一行が石清水八幡宮を出発し、奈良の東南院に到着。ここを鎌倉幕府の一行における奈良での滞在地とし、東大寺の落慶供養に…
なお、実際には辞表受理となっていないために現役の征夷大将軍であり続けているが、源頼朝自身は前年に征夷大将軍を辞したと考えていることもあってか、武士としての移…
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建久六(一一九五)年の正月に予定していた東大寺再建供養は三月へと延期になっており、正式な再建供養は三月一二日に開催することが決まった。 現在だと京都から奈良…
これらの史料に基づくと、二度目の上洛行は以下の通りとなる。 鎌倉幕府の一行が鎌倉を出発したのは、吾妻鏡によると建久六(一一九五)年二月一四日の、巳刻というか…
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鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。 名誉回復の目的としては、土御門…
その選択肢の最初に浮かんだのが三浦義村である。結城朝光はすぐに三浦義村の屋敷に向かって梶原景時の讒言によって自分が何かしらの処罰を受ける可能性があることを告…
視点を鎌倉に移すと、正治元(一一九九)年八月までゴタゴタはあったが、その後は平穏であるかのように映っていた。しかし、正治元(一一九九)年一〇月二五日に鎌倉で…
鎌倉でゴタゴタがあった頃、後鳥羽上皇は自身の二つの趣味界への傾倒を深めていた。 一つは和歌、もう一つは熊野詣。 どうやら正治元(一一九九)年八月頃から、後鳥…
その人物は、北条政子。 彼女は息子の不祥事を母として窘(たしな)めるため、二階堂行光を使者として源頼家に思いとどまるように示した。なお、ヒートアップしている…
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吾妻鏡は安達景盛の派遣以後の源頼家について、同意しがたい行動を書き記している。 安達景盛を三河国に派遣した隙に安達景盛の愛人を奪ったというのだ。 以前から源…
源頼朝によって京都と鎌倉との間の情報伝達が七日間まで短縮されたこともあり、正治元(一一九九)年六月二二日に京都で起こった大幅な人事刷新の情報は六月末までに届…
ただし、藤原氏内部の近衛家と九条家の争いはさらに悪化させている。摂政近衛基通の長男である近衛家実が二一歳の若さで右大臣に就任したのである。 内大臣九条良経が…
その頃京都では、ようやく源頼朝死去に伴う混乱が収束したばかりであった。 これでようやく落ち着きを取り戻し、しばらくは安泰であると誰もが考えた。 その安泰を後…
こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもっ…
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源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護とい…
一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。 本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけてい…
建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか? 吾…
武士である九名の本拠地を記すと、伊豆国が北条時政と江間義時の二名、相模国が三浦義澄、和田義盛、梶原景時、安達盛長の四名、武蔵国が比企能員、足立遠元の二名、常…
源頼家の起こした行動の前に、このときに選抜された一三名について記しておく必要がある。 一三名を吾妻鏡の順番に記すと以下の通りとなる。 北条時政、伊豆国守護兼…
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文治四(一一八八)年の秋を迎えたが、平泉からはこれといったアクションは起こっていない。 奥州藤原氏のもとにいる源義経を差し出すように命じる宣旨が平泉に届いて…
では、源頼朝は自分の娘を本当に後鳥羽天皇のもとに入内させようとしていたのか? 源頼朝の長女である大姫はもともと木曾義仲の息子である源義高と結婚する予定であっ…
文治四(一一八八)年九月一二日、九条兼実が本格的に政務に復帰した。 息子を亡くした父の哀しみは誰もが理解できることであったが、時代はもう、藤原氏という巨大氏…
平和の達成と書くと壮大な理想の実現のように感じるが、実際のところは武力で犯罪を押さえつけることである。犯罪者ではないごく普通の一般人にとっては特に何の問題も…
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源頼朝が殺生禁止を名目に軍事行動を止めたことは平泉の藤原泰衡のもとにも届いている。当然ながら、それで鎌倉との間の軍事衝突は永遠に回避できると考えるわけはない…
政治家としての評価はただ一つ、庶民生活が以前と比べてどれだけ良くなったかだけで決まる。これはどんな時代であってもどんな世界であっても例外はない。 庶民生活の…
そんな最中の文治四(一一八八)年四月一三日、後白河法皇が院御所としていた六条殿が火災に遭った。後白河法皇は一時的に白河押小路を法皇御所とすることとして六条殿…
鎌倉方と後白河法皇との奇妙な絡み合いは、相互の利益を得るための妥協の産物であったと捉えることができる。後白河法皇は鎌倉方に対抗しうる存在として源義経に目を向…
摂政九条兼実不在の間も、朝廷は最低限の政務を取り仕切ることが可能とはなっていた。ただし、それは九条兼実の望んだ形での政務遂行ではなく、従来の後白河院政に鎌倉…
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本来なら源義経追討の宣旨は摂政九条兼実が主導して発給するところであった。実際、文治四(一一八八)年二月一四日に発給した宣旨については摂政九条兼実が主導してい…
源義経が奥州平泉にいることは周知の事実になっていたが、京都に住む人の中にはもっと別の場所、具体的には京都にもっと違い場所にいるはずという思いもあったようで、…
九条兼実はさらに鎌倉方の影響縮小を図る道を選んだ。 鎌倉方における地方統治の要となっている地頭について、朝廷の名で鎌倉に対処を求めたのである。 文治四(一一…
九条兼実は鎌倉方の力を利用して後白河院を牽制しつつ、院政前の時代を取り戻そうとしていた。しかし、全てが鎌倉方の言いなりというわけではなく、九条兼実は源頼朝の…
平泉で藤原秀衡が亡くなってからおよそ半月、畠山重忠の釈放から一ヶ月以上を経た文治三(一一八七)年一一月一五日の夜、鎌倉で騒動が起こった。 畠山重忠に謀叛の疑…
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