鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければなら…
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鎌倉でクーデタが起こったという知らせは鎌倉でも唐突なニュースであったが、京都ではさらに衝撃的なニュースであった。 なぜか? これはクーデタというものの宿命で…
和田合戦の後始末は戦乱から二ヶ月を経ても完了していない。 完了していないのは当然で、反逆軍に加勢した者の中には戦場で討ち取られた者だけでなく、戦場からの脱出…
大倉御所は治承四(一一八〇)年に源頼朝が鎌倉入りして以降、源頼朝の住まいであると同時に鎌倉方の根拠地となっており、鎌倉幕府草創後は鎌倉幕府の所在地となった。…
建暦三(一二一三)年六月二五日、備後国、現在の広島県から広沢実高が鎌倉へ戻ってきた。和田合戦から遠く離れた地で、その余波が広沢実高の身に押し寄せたからである…
北条義時と中原広元の両名から京都在中の御家人に対して書状が発せられたのが建暦三(一二一三)年五月九日。この書状は後鳥羽上皇の目にも止まり、後鳥羽上皇から源実…
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さて、ここでもう一度、泉親衡の乱から和田合戦に至る流れを、別の角度から振り返ってみると別の側面が見えてくる。 まず、反逆軍として和田義盛とともに戦った武士達…
さて、何度も繰り返しているが、この時代の情報伝達網は鎌倉と京都の間が片道七日往復半月である。つまり、建暦三(一二一三)年五月二日にはじまり三日に終わりを迎え…
建暦三(一二一三)年五月七日、今回の和田合戦での報償の打ち合わせが始まった。反逆軍の面々の保有していた所領を幕府軍の一員として戦い、戦功を残した者に配ること…
建暦三(一二一三)年五月四日、和田常盛と横山時兼は甲斐国大菩薩峠で自ら命を絶ったとの知らせが届いたと同時に、この二人の首も鎌倉に届けられた。この二人を含め、…
建暦三(一二一三)年五月三日の寅刻、現在の時制にして午前四時頃、和田義盛らとともに反逆軍に加わる予定であった横山時兼が、娘婿の波多野盛通や甥の横山五郎らを引…
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足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。 最初に和田義盛…
さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう…
この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していた…
和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五…
建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の…
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さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の…
ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選…
和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。 ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名…
鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つま…
現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そし…
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源実朝が従二位から正二位に昇叙したのは建暦三(一二一三)年二月二七日のこと。そして、その知らせが鎌倉に届いたのは三月六日になってからである。 大騒動が一段落…
そこで改めて泉親衡の乱を振り返ると、ここに世代間対立の芽が見て取れる。 和田義盛は源頼朝の挙兵のときから鎌倉方の一員として戦った実績を有している。すなわち、…
ただ、どんなに現在まで残る説話になり現在の地名の由来になるほどの人物であるとの評判が確立されようとも、そのことと、建暦三(一二一三)年時点の泉親衡が一三〇名…
捕縛された者は流罪となったが、首謀者と見做されている泉親衡は消息不明となっている。 泉親衡の消息が判明したのは建暦三(一二一三)年三月二日のこと。鎌倉の中心…
大願を果たすためと称して逃走する者がいる一方、源実朝の和歌趣味に頼ることで命乞いをする者も出た。 吾妻鏡によると、建暦三(一二一三)年二月二五日に、渋河兼守…
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以下が吾妻鏡に名の記されている者と、身柄を預かることとなった御家人である。 一村近村、信濃国の御家人。北条泰時が預かる。 籠山高成、信濃国の御家人。高山重親…
本来であれば源実朝の正二位昇叙は大々的な祝事として鎌倉幕府全体で騒ぎになるニュースであったのだが、鎌倉幕府はそこまでの騒ぎとはなっていない。無視したわけでは…
源実朝が従二位に昇叙したことについて朝廷の提示した理由は征夷大将軍としてのこれまでの実績を評価してものであるが、これは真実の全てでは無い。もう一つ忘れてはな…
建暦二(一二一二)年の吾妻鏡の記事を読むと、特に年の後半に、鎌倉に向けて雑多な訴えが起こされていることが読みとれる。 先に記した津料や河手の廃止の場合も、そ…
租税についてさらに加えて記すと、鎌倉幕府が租税管理のために守護と地頭を派遣していると同時に、鎌倉幕府が守護と地頭そのものを管理監督しているという構図も成り立…
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ここで後鳥羽上皇が独自の徴税を命じたとして、鎌倉幕府が従う可能性は低い。鎌倉幕府とは、朝廷に仕える貴族の一人である源実朝のもとに集った私的な組織であると同時…
先に、後鳥羽上皇が大内裏の復旧を目論んでいることは記した。と同時に、予算の問題でうまくいっていないことも記した。院にしても、朝廷にしても、潤沢な予算というわ…
鎌倉幕府の本質は東国武士の集合体である。流罪となって京都から流されてきた源頼朝が、東国の武士達が集まった勢力のトップに君臨しているというのが鎌倉幕府の図式で…
さて、先に源平こそが武士であり、その他の氏族は、それこそ隆盛極める藤原氏ですら、武士としてはカウントされることが乏しかったと記したが、藤原を姓とする武士がゼ…
源実朝という人は生涯に亘って京都に赴くことのなかった人である。もっと言えば、鎌倉とその周辺だけが源実朝の行動範囲である。それでいて日本全国に視点を向けていた…
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保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくな…
その当時、京都の朝廷が問題視していたのが、比叡山延暦寺をはじめとする宗教勢力の有する武力である。彼らの武装デモは厄介きわまりない話であったが対処するには困難…
三浦義村や和田義盛といった三浦家の人物を京都大番役の管理監督に採用した経緯を見てくると、初期鎌倉幕府の本質が見えてくる。初期鎌倉幕府の本質を突き詰めると、こ…
ただ、前述のように法然はもう八〇歳になっていた。数え年であるから満年齢にすると七八歳であるが、それでもかなりの高齢だ。当時でも高齢なだけでなく現在の感覚でも…
正論を用いての話し合いは通じないが、正拳を用いての殴り合いは通じる。暴れ回ることを目的とする集団を抑え込むもっとも確実な方法は、暴れ回ろうとしている集団を力…
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貴族の時代である平安時代から武士の時代である鎌倉時代に移り変わったのは一瞬の出来事ではない。平安時代の草創期に登場した武士が少しずつ勢力を持つようになり、朝…
さて、建暦元(一二一一)年七月に京都から脱税疑惑を指摘され、北条時房のもとでの監禁生活となった惟宗孝尚が、一二月一日に軟禁解除となって釈放されたのは既に記し…
その予算はどこにもなかった。 予算がないために平安京の復興どころか日々の生活をいかに再建するかに汲々とする状態であった。そのときの日本で潤沢な資産を持ってい…
三善康信は不吉な例を列挙することで後鳥羽上皇の求めた大内裏復興を暗に否定した。 大内裏復興という野望は、推し進める後鳥羽上皇の意見も、暗に否定する三善康信も…
平安京は本来、北端中央に大内裏、その中心に内裏があるという都市計画のもとで建設された都市である。しかし、建暦元(一二一一)年時点の大内裏はかつて内裏があった…
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さて、栄西が著した喫茶養生記は現在まで伝わる名著であるが、鎌倉ではほぼ同タイミングで現在まで伝わる名著の著者が姿を見せている。 その人物が鎌倉に来た理由は源…
僧侶としての成功者である栄西であるが、同時に、現在で言う数多くのビジネス書を発行する作家のような存在でもあった。確認できる範囲では、密教について問答形式での…
鎌倉時代の特色の一つとして歴史の教科書に取り上げられることの多い鎌倉新仏教。大学入試で日本史を選択したならば、あるいは高校入試で社会科を学んだならば、以下に…
ここで話を源実朝に戻すと、源実朝は自分のことを独自の政治権力であるとは、ましてや朝廷から独立した勢力であるとは考えていなかった。父の事績を追いかけ、父と兄の…
建暦元(一二一一)年六月二六日、東海道に新しい宿駅を設置する件について、過去に何度も決裁されているにもかかわらず未だに実行されていないことについて、源実朝か…
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この時代にビジネスとしての旅館などない。旅行客は誰かの家に泊めてもらうか、寺院などに泊めてもらうか、野宿するかである。なお、このあたりは現在よりも鷹揚であっ…
建暦元(一二一一)年六月になると不穏な記事が増えてくる。 六月二日に源実朝が急病で倒れたのだ。 もともと源実朝は天然痘に罹患した過去がある。これは天然痘に限…
なお、この裁決からおよそ一ヶ月後の建暦元(一二一一)年五月一〇に、源実朝は、現代人からすると穏当あるいは当然と感じる、しかし、この時代では考えられない指令を…
現在に生きる我々の改元とは、新たな天皇となったと同時に元号が変わることを意味し、それ以外に元号が変わることはないという一世一元の制が共通認識となっているが、…
吾妻鏡には、後鳥羽上皇から特権の放棄を命じられたことの記録など存在しない。 しかし、承元五(一二一一)年一月時点で鎌倉幕府は、征夷大将軍に付随していた天叢雲…
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さて、改めて承元五(一二一一)年元日時点の公卿補任を眺めると、源実朝の位置付けの意外なまでの低さも感じる。 源実朝が職務としている征夷大将軍が三種の神器の一…
まず、議政官の面々、すなわち左大臣から参議までの人数はもともと二十名でも多いとされてきたのに、承元五(一二一一)年元日時点で実に左大臣から参議末席まで二十九…
こうした後鳥羽上皇の動きを鎌倉はどのように捉えていたのか? 吾妻鏡に従うと、何の前触れもなくいきなり、承元四(一二一〇)年一二月五日の記録として、先月二五日…
また、天皇の朝儀や行幸では以前から「剣が先、璽が後」、すなわち、三種の神器のうち天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を先、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を後…
少なくとも承元四(一二一〇)年一一月時点で源実朝のもとに男児が生まれたという知らせは届いていない以上、源実朝の身に何かが起こったら、その瞬間に三種の神器の一…
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さて、後鳥羽天皇、土御門天皇と、三種の神器が揃わない状態での即位が続いていた。平家滅亡時、三種の神器の一つである天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が壇ノ浦に…
ただ、他者に対して厳しい態度を取ることがないのだ。選挙のある現在では、他者を激しく糾弾した上で自らを強く主張することも当選のための方法の一つであるが、それが…
それにしても後鳥羽上皇はどうして観測気球を打ち上げたのか。そして鎌倉幕府はどうして観測気球に対して迅速に対処したのか? 院政というものは、退位した天皇が上皇…
承元四(一二一〇)年後半の吾妻鏡の記載は、源実朝があまり政務に携わっていないかのような記し方をしている。しかし、記録をよく読むと、源実朝は合格点をつけて良い…
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鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
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宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…
一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、…
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式子内親王は、現存する和歌こそ少ないものの歌人としても有名であり、藤原定家との関係も深いものがあったことがわかる。治承五(一一八一)年には既に式子内親王のも…
梶原景時が粛正されたという知らせを受けたとき、後鳥羽上皇が護摩炊祈祷を執り行ったという記録がある。これを以て梶原景時が後鳥羽上皇とつながりがあった、あるいは…
俗に、源頼家が鎌倉幕府第二代将軍ということになっている。 後から歴史を振り返ると正しい認識となるが、正治二(一二〇〇)年二月時点では正しくない。どういうこと…
愚管抄によると、寿永元(一一八二)年八月に、後に源頼家と名乗ることとなる男児が誕生した際に、源頼朝は梶原景時の妻を男児の乳母にしたとある。このあたりは吾妻鏡…
梶原景時は石橋山の戦いまで平家の一員として源頼朝を討伐する側にいたのである。筆者は源平合戦時に梶原景時を源頼朝が平家の側に送り込んでいたスパイとし、そして実…
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正治二(一二〇〇)年二月二二日、中原広元と三善康信の両名によって、梶原景時の鎌倉からの逃亡と上洛未遂が後鳥羽上皇のもとに伝わったこと、この知らせを受けた後鳥…