足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
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源実朝が従二位から正二位に昇叙したのは建暦三(一二一三)年二月二七日のこと。そして、その知らせが鎌倉に届いたのは三月六日になってからである。 大騒動が一段落…
そこで改めて泉親衡の乱を振り返ると、ここに世代間対立の芽が見て取れる。 和田義盛は源頼朝の挙兵のときから鎌倉方の一員として戦った実績を有している。すなわち、…
ただ、どんなに現在まで残る説話になり現在の地名の由来になるほどの人物であるとの評判が確立されようとも、そのことと、建暦三(一二一三)年時点の泉親衡が一三〇名…
捕縛された者は流罪となったが、首謀者と見做されている泉親衡は消息不明となっている。 泉親衡の消息が判明したのは建暦三(一二一三)年三月二日のこと。鎌倉の中心…
大願を果たすためと称して逃走する者がいる一方、源実朝の和歌趣味に頼ることで命乞いをする者も出た。 吾妻鏡によると、建暦三(一二一三)年二月二五日に、渋河兼守…
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以下が吾妻鏡に名の記されている者と、身柄を預かることとなった御家人である。 一村近村、信濃国の御家人。北条泰時が預かる。 籠山高成、信濃国の御家人。高山重親…
本来であれば源実朝の正二位昇叙は大々的な祝事として鎌倉幕府全体で騒ぎになるニュースであったのだが、鎌倉幕府はそこまでの騒ぎとはなっていない。無視したわけでは…
源実朝が従二位に昇叙したことについて朝廷の提示した理由は征夷大将軍としてのこれまでの実績を評価してものであるが、これは真実の全てでは無い。もう一つ忘れてはな…
建暦二(一二一二)年の吾妻鏡の記事を読むと、特に年の後半に、鎌倉に向けて雑多な訴えが起こされていることが読みとれる。 先に記した津料や河手の廃止の場合も、そ…
租税についてさらに加えて記すと、鎌倉幕府が租税管理のために守護と地頭を派遣していると同時に、鎌倉幕府が守護と地頭そのものを管理監督しているという構図も成り立…
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ここで後鳥羽上皇が独自の徴税を命じたとして、鎌倉幕府が従う可能性は低い。鎌倉幕府とは、朝廷に仕える貴族の一人である源実朝のもとに集った私的な組織であると同時…
先に、後鳥羽上皇が大内裏の復旧を目論んでいることは記した。と同時に、予算の問題でうまくいっていないことも記した。院にしても、朝廷にしても、潤沢な予算というわ…
鎌倉幕府の本質は東国武士の集合体である。流罪となって京都から流されてきた源頼朝が、東国の武士達が集まった勢力のトップに君臨しているというのが鎌倉幕府の図式で…
さて、先に源平こそが武士であり、その他の氏族は、それこそ隆盛極める藤原氏ですら、武士としてはカウントされることが乏しかったと記したが、藤原を姓とする武士がゼ…
源実朝という人は生涯に亘って京都に赴くことのなかった人である。もっと言えば、鎌倉とその周辺だけが源実朝の行動範囲である。それでいて日本全国に視点を向けていた…
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保元の乱までは源氏も平氏も朝廷の動員できる有力な武士であった。だが、平治の乱を迎えたときにはもう、清和源氏も、伊勢平氏も、朝廷の言いなりになる存在ではなくな…
その当時、京都の朝廷が問題視していたのが、比叡山延暦寺をはじめとする宗教勢力の有する武力である。彼らの武装デモは厄介きわまりない話であったが対処するには困難…
三浦義村や和田義盛といった三浦家の人物を京都大番役の管理監督に採用した経緯を見てくると、初期鎌倉幕府の本質が見えてくる。初期鎌倉幕府の本質を突き詰めると、こ…
ただ、前述のように法然はもう八〇歳になっていた。数え年であるから満年齢にすると七八歳であるが、それでもかなりの高齢だ。当時でも高齢なだけでなく現在の感覚でも…
正論を用いての話し合いは通じないが、正拳を用いての殴り合いは通じる。暴れ回ることを目的とする集団を抑え込むもっとも確実な方法は、暴れ回ろうとしている集団を力…
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貴族の時代である平安時代から武士の時代である鎌倉時代に移り変わったのは一瞬の出来事ではない。平安時代の草創期に登場した武士が少しずつ勢力を持つようになり、朝…
さて、建暦元(一二一一)年七月に京都から脱税疑惑を指摘され、北条時房のもとでの監禁生活となった惟宗孝尚が、一二月一日に軟禁解除となって釈放されたのは既に記し…
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足利義氏は別箇所で奮闘していたものの朝比奈義秀に見つかり、足利義氏は立ち向かえないと考えて逃亡を図るも、政所の前にある筋替橋のそばで朝比奈義秀に捕まりそうに…
建暦三(一二一三)年五月二日の申刻、現在の時制に直すと午後四時頃、和田義盛がいきなり挙兵し、源実朝のいる大倉御所への襲撃を目的に動き始めた。 最初に和田義盛…
さらに、三浦兄弟は北条義時の側に立つと告げたことで、北条義時は御所に向かう時間を確保できただけでなく、御所に向かった後に源実朝を護衛しながら法華堂へと向かう…
この流れで重要なのは、別働隊となる三浦義村らである。三浦義村とその弟の三浦胤義は和田義盛の求めに応じて、御所の北門の制圧をすることについて起請文を記していた…
和田合戦は本来であれば、建暦三(一二一三)年五月三日に挙兵する予定であったのに、実際にスタートしたのは五月二日の夕方。横山時兼が軍勢を率いてやってきたのが五…
建暦三(一二一三)年四月二七日、源実朝がはじめて和田義盛謀反の噂に対する行動を見せた。この日、源実朝が宮内兵衛尉公氏を和田義盛の屋敷へと派遣した。謀反有無の…
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さらに、泉親衡の乱に関与して拿捕された和田義盛の二人の息子は助命できたが、甥の和田胤長は助命どころか後ろ手に縛られて和田義盛の前に付き出されたが、この待遇の…
ここで視点を北条義時に向けると、これはもう、穏やかな話ではなくなる。自分を敵とし、自分を武力で倒そうという勢力が誕生しているのだ。同じ権力争いであっても、選…
和田義盛の孫の和田朝盛が、父の追放に悲しむ六歳の幼女のために和田胤長を演じたことは既に記した。 ここで泉親衡の乱における和田一族を振り返ると、少なくとも三名…
鎌倉において泉親衡の乱の中心人物と扱われた和田胤長、すなわち和田義盛の甥は流罪となったが、一族もろとも流罪となったのではなく一人だけが流罪となっている。つま…
現在のカレンダーは、どんなに大雑把なものでも月、日、曜日がわかるようになっている。少し細かなカレンダーを見ると、日付だけでなく月の満ち欠けや旧暦の日付、そし…
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鎌倉で梶原景時弾劾が始まっていた頃、建久七年の政変から三年を経て、その際に地位や権力を失った者の名誉回復が始まってきていた。 名誉回復の目的としては、土御門…
その選択肢の最初に浮かんだのが三浦義村である。結城朝光はすぐに三浦義村の屋敷に向かって梶原景時の讒言によって自分が何かしらの処罰を受ける可能性があることを告…
視点を鎌倉に移すと、正治元(一一九九)年八月までゴタゴタはあったが、その後は平穏であるかのように映っていた。しかし、正治元(一一九九)年一〇月二五日に鎌倉で…
鎌倉でゴタゴタがあった頃、後鳥羽上皇は自身の二つの趣味界への傾倒を深めていた。 一つは和歌、もう一つは熊野詣。 どうやら正治元(一一九九)年八月頃から、後鳥…
その人物は、北条政子。 彼女は息子の不祥事を母として窘(たしな)めるため、二階堂行光を使者として源頼家に思いとどまるように示した。なお、ヒートアップしている…
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吾妻鏡は安達景盛の派遣以後の源頼家について、同意しがたい行動を書き記している。 安達景盛を三河国に派遣した隙に安達景盛の愛人を奪ったというのだ。 以前から源…
源頼朝によって京都と鎌倉との間の情報伝達が七日間まで短縮されたこともあり、正治元(一一九九)年六月二二日に京都で起こった大幅な人事刷新の情報は六月末までに届…
ただし、藤原氏内部の近衛家と九条家の争いはさらに悪化させている。摂政近衛基通の長男である近衛家実が二一歳の若さで右大臣に就任したのである。 内大臣九条良経が…
その頃京都では、ようやく源頼朝死去に伴う混乱が収束したばかりであった。 これでようやく落ち着きを取り戻し、しばらくは安泰であると誰もが考えた。 その安泰を後…
こうした源頼家の政治姿勢は、亡き父である源頼朝の政治姿勢を踏襲したものである。ただし、源頼朝が源平合戦の勝利者として、すなわち、源頼朝の行使できる武力でもっ…
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源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護とい…
一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。 本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけてい…
建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか? 吾…
武士である九名の本拠地を記すと、伊豆国が北条時政と江間義時の二名、相模国が三浦義澄、和田義盛、梶原景時、安達盛長の四名、武蔵国が比企能員、足立遠元の二名、常…
源頼家の起こした行動の前に、このときに選抜された一三名について記しておく必要がある。 一三名を吾妻鏡の順番に記すと以下の通りとなる。 北条時政、伊豆国守護兼…
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