近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
文治二(一一八六)年六月になると、京都では源義経が潜伏している場所について様々な風聞が飛び交い、その都度、鎌倉方の軍勢による捜索を受けるという光景が展開され…
鎌倉までやってきた静御前が、四月上旬に鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露したことは既に述べた通りである。 この時代の流行の最先端である白拍子が鎌倉にいることは鎌倉…
相変わらず源頼朝は、京都とその周辺で何が起こっているのかの情報を、当時としては最速の、しかし、現在の感覚ではかなりのタイムラグを経た状態で獲得している。 役…
源義経の行方は未だわからずにいる。文治二(一一八六)年五月六日には京中で源義経捜索が始まったが、それでも見つからずにいる。 文治二(一一八六)年五月一〇日、…
既に述べたように、後白河法皇が本当に建礼門院のもとを訪れたのかどうかは、実のところはわからない。しかし、この頃の後白河法皇はまさに政治家としての命運がつきつ…
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四番目に修羅道。戦いに勝って勢力を盛り返してきて希望の光が見えていたのに、一ノ谷の戦いで敗れたあとは悪夢にうなされ続けた。明けても暮れても戦いの鬨の声が聞こ…
信じられないのは建物だけではない。いかに有力者であった人でも出家したからには一人の僧侶であるため、建礼門院が僧侶としての日常を過ごしていること自体はおかしく…
これを後白河法皇の側から捉えるとどうなるか? 絶望である。 源平合戦の敗者は平家であるが、後白河法皇もまた、敗者に列せられることとなったのだ。 平家物語の終…
源頼朝からの指令は、源義経と源行家の両名の捜索だけにとどまらなくなっていた。あくまでも一人の貴族として同じく貴族である同僚に対して苦言を呈するという体裁であ…
文治二(一一八六)年四月一三日、北条時政、鎌倉に到着。なお、このときに北条時政は京都に北条時定をはじめとする三五名の武士を残している。彼らの武士の筆頭に挙げ…
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静御前は妊娠しているとは言え、出産日付から逆算すると、この頃の静御前は妊娠五ヶ月から七ヶ月の安定期にあったことが推測できる。 さすがにこの時代の医学知識でも…
静御前の二度目の尋問が執り行われたのが文治二(一一八六)年三月二二日のことである。ただし、源義経の動静に関する新たな証言を得ることはできなかった。相変わらず…
そして三番目の出来事、日付としては逆転するが、文治二(一一八六)年三月一二日の右大臣九条兼実の摂政就任である。 源頼朝は九条兼実を摂政とするために、対立した…
静御前の一度目の尋問と二度目の尋問との間に、三つの出来事が起こった。 一つは文治二(一一八六)年三月九日に飛び込んできた知らせである。武田信義が亡くなったと…
文治二(一一八六)年三月六日、源頼朝が鶴岡八幡宮に静御前を召喚して源義経の行方を尋問した。京都の最先端の流行を体現している人物がやってきたとあって鶴岡八幡宮…
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あのときも卯年の三月一一日だった。あれから十二支が一周した。今の小学生にとっては東日本大震災も歴史で習う過去の話だろう。今の大学生の多くが阪神淡路大震災を実体…
後白河法皇の巻き返しの始まりとも言える文治二(一一八六)年三月一日、鎌倉では静御前と、静御前の母である磯禅師の二人が鎌倉に到着し、源頼朝の雑色である安達清常…
文治二(一一八六)年二月末には、宣旨とは別に後白河法皇の裁決が降っている。なお、吾妻鏡によると、裁決のあったのが二月二八日で、裁決に北条時政が従ったのが三月…
行方不明となっている源義経の捜索はまだ続いていた。 文治二(一一八六)年二月一八日には源義経が大和国の多武峰(とうのみね)に潜伏しているという噂が流れた。多…
九条兼実の摂政就任は時間の問題となっていた。外堀が一つ、また一つと埋められていったのである。 文治二(一一八六)年二月一四日、蔵人頭の藤原兼忠が九条兼実のも…
九条兼実は自分が摂政として推されていることをどう考えていたのか。 嬉しさはあるが、同時に強烈なプレッシャーに襲われてもいた。無理もない。過去の摂関政治と違い…
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源頼朝は一条能保を通じて藤原摂関家への工作も図った。既に内覧の権利を得ている右大臣九条兼実を正式に摂政にすることを図ったのだ。 九条兼実が源頼朝に近い人物で…
文治二(一一八六)年一月二八日、左馬頭一条能保を北条時政の後任として京都に送り込むことが決まった。名目は、源平合戦期に鎌倉まで逃れてきた一条能保とその家族が…
京都に派遣された北条時政は源頼朝の課されたノルマを果たしていたし、源頼朝の期待をある程度は応えていた。だが、期待の全てに応えていたわけではない。 源頼朝の提…
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近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければなら…
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鎌倉でクーデタが起こったという知らせは鎌倉でも唐突なニュースであったが、京都ではさらに衝撃的なニュースであった。 なぜか? これはクーデタというものの宿命で…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…
一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、…
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式子内親王は、現存する和歌こそ少ないものの歌人としても有名であり、藤原定家との関係も深いものがあったことがわかる。治承五(一一八一)年には既に式子内親王のも…