いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
年が変わって文治二(一一八六)年一月五日、文覚が平高清を伴って京都に入ったという記録がある。平高清が鎌倉まで護送されたことは間違いないのだが、文覚の奔走によ…
文治元(一一八五)年一二月一七日、源頼朝のいわゆる「天下の草創」の奏上を受け入れ、貴族の大規模な罷免が実施された。 高階泰経、大蔵卿を罷免。併せて伊豆国へ配…
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平忠房が自分で自分のことを平家統合のシンボルと考えたのは、記録にはほとんどと言っていいほど名を残していなくても、少なくとも武士としての活躍は見せていたからで…
源頼朝からの「天下の草創」の要求が朝廷に伝えられてから二日後の文治元(一一八五)年一二月八日、京都と鎌倉の双方で、源頼朝のもとに引き渡された人がいた。 まず…
まず、後鳥羽天皇への奏上は以下の一〇名に限るとした。右大臣九条兼実、内大臣徳大寺実定、権大納言三条実房、権大納言中御門宗家、権大納言中山忠親、権中納言藤原実…
時代は鎌倉の源頼朝のものとなった。誰もがこの事実を認めざるを得なくなり、源氏に逆らった者だけでなく、源氏であっても源頼朝に逆らうことが危険なこととなった。時…
鎌倉幕府成立年を一一八五年とする人の根拠となっているのは、この、文治元(一一八五)年一一月二八日に源頼朝が獲得した守護地頭の設置の権利である。ただ、鎌倉幕府…
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北条時政の京都入洛の翌日である文治元(一一八五)年一一月二五日、朝廷は新たな宣旨を出した。 源義経と源行家の両名を捜索するよう従二位源頼朝に命令を出したので…
文治元(一一八五)年一一月二四日、京都はついにそのときを迎えた。 源頼朝の義父として北条時政が上洛したのである。 ただ、上洛した兵力に京都市民の多くは戸惑っ…
行方不明となっていた源義経の動静に対して、吾妻鏡が初めて記録として残すのは文治元(一一八五)年一一月一七日のことである。行方不明になってから一二日を経てよう…
吾妻鏡の記載に従えば、文治元(一一八五)年一一月一五日に院別当の高階泰経が鎌倉に到着したとある。いかに急いでも一一月一一日に京都を出発した使者が一一月一五日…
北条時政は自分達の軍勢が京都に向かっていることについての書状を先行して京都に送り届けた。 この書状を知った後白河法皇は、源頼朝が京都に派遣した先遣隊だけでも…
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何度でも記すが、この時代の通信情報事情では京都と鎌倉との間にはタイムラグがある。タイムラグを限界まで減らそうと駿河国黄瀬川まで軍勢を進めた源頼朝であっても、…
源頼朝の派遣した先遣隊が京都に到着して間もなく、摂津国から急報が届いた。 源義経の軍勢が壊滅寸前まで陥ったのだ。 京都を出発した源義経らの一行は、船を手に入…
文治元(一一八五)年一一月三日の辰刻とあるから現在の時制に直すと午前八時頃、源義経が京都から逃亡したのだ。いや、源義経だけではない。堀景光、佐藤忠信、伊勢義…
いかに源頼朝の情報収集能力が優れていようと、電話もネットも無い時代に京都で起こっていることを鎌倉にいたままリアルタイムで把握できるわけはない。 文治元(一一…
源頼朝が刺客を、あるいは軍勢を京都に送り込む理由は、公的には自分自身に対する討伐の宣旨が発せられたことへの対抗措置であるが、その真相は源頼朝に刃向かうことを…
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一方、マイナス視点もある。源義経とともに行動する者の中に厄介な人物が二人いるのだ。 一人は源行家、もう一人は平時実である。二人とも源義経を頼ると言うより利用…
源頼朝が自分を殺そうと刺客を差し向けたことを期に源頼朝追討の宣旨を出してもらうことに成功した源義経であるが、自分が操ることのできる軍勢の少なさに絶望し、現実…
まず、式典指導僧である僧侶の公顕に、錦の被り物五枚、綾織りの被り物五〇〇枚、綾の反物二〇〇反、長絹二〇〇疋、染絹二〇〇反、藍染めの布二〇〇反、紺色の布二〇〇…
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いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。 まずは後者であるが…
近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければなら…
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土御門通親がこのことを理解していないわけではない。 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。 仮に後鳥羽…
後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このと…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…
一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、…
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