いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
鎌倉幕府の成立後も平安時代は続く。平安時代の終わりは承久の乱。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
この後ろにさらに六〇名の随兵が続く。この六〇名は三〇名ずつに分かれ、源頼朝が仮屋に入った後は門の左右に控える。 左方が、足利七郎太郎、佐貫広義、大河戸広行、…
何度か記してきたが、一〇月二四日は勝長寿院の完成式典が執り行われる。吾妻鏡にはこの日に勝長寿院に詰めかけた者の名を全て記しているのでここで転記する。 式次第…
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源義経は自分で自分のことを政治的能力の乏しい人間であることを知っていたのか。 おそらく、兄よりは劣っているとは自覚していたであろうが、それなりの政治的能力を…
源義経は、自分が殺害されそうになったことを事前に予期していたのか。 結論から言うとその通りである。だからこそ、その前に源頼朝を討伐する院宣を発するよう後白河…
さらに二つ、考えなければならない視点がある。 一つは、源範頼は九州から京都経由で鎌倉へと戻ったが、源範頼一人が九州から鎌倉へと戻ったのではないという点である…
以下はその時系列である。 一〇月九日、土佐房昌俊が弟の三上家季ら八三騎の軍勢を率いて鎌倉を出発した。 一〇月一七日、土佐房昌俊らが京都に到着して源義経の京都…
文治元(一一八五)年一〇月六日、梶原景季が京都から鎌倉に戻り、源義経と一度目は源義経の体調不良を理由に面会できなかったこと、二度目は面会できたものの、そのと…
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ここで注目を集めることとなったのが、平家討伐軍の総大将である源範頼の立場である。源範頼が源頼朝ではなく源義経を、そして、その後ろにいる後白河法皇を選ぶ可能性…
文治二(一一八五)年九月二日に鎌倉を出発した梶原景季らが入洛したのは九月一二日のことである。梶原景季は源義経に対して面会を求めたが、源義経からの返答は現在の…
ただ、表面上は理想的な姿であっても、内面は炎が燃えたぎっていた。 何の炎か? 源義経討伐に、いや、後白河法皇との最終決戦に挑む覚悟の炎である。後鳥羽天皇はま…
京都、そして奈良において、大仏開眼という参加型イベントが多くの人を熱狂させていた頃、鎌倉では静かな、しかし、これから大きなうねりとなる動きが見られていた。 …
文治元(一一八五)年八月二八日、東大寺大仏開眼供養開催。 奈良に住む人、そして、大仏開眼供養のために奈良に詰めかけた人は式典の前から大仏の姿が目に映っていた…
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京都と鎌倉との間で、また、源義経と源頼朝との間で断絶が生まれつつある文治元(一一八五)年八月二七日、後白河法皇は主立った貴族の面々を引き連れて奈良へと向かっ…
平時忠も、平時忠の息子の平時実も、平家一門の人間ではあるが本質的には貴族である。戦場を目の当たりにしたのはその通りでも、戦場を居場所だと感じることは無く、こ…
後白河法皇は、そして朝廷は、大仏開眼というイベントを前面に掲げることで高揚感を煽った、と書けば格好良く見えるが、実際には世論の不満を逸らそうとした。平家滅亡…
文治元(一一八五)年八月時点で、京都が戦乱の災禍をまともに食らったことを忘れた京都人はいない。と同時に、京都だけが戦乱に巻き込まれたと考える京都人もいない。…
源義経を求める京都の声を源頼朝が知らなかったわけではない。源頼朝のもとには京都以外からの切実な声もまた届いていたのである。京都を無視するわけではないが、京都…
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文治元(一一八五)年八月一六日の夜、平家追討の恩賞として鎌倉方の武士に恩賞が与えられた。これは源頼朝の推薦に朝廷が応えた形である。 新田義重の子の山名義範、…
京都へと派遣していた中原久経と近藤国平の両名に対し、源頼朝が書状を届けたのは吾妻鏡によると腰越状の翌日のことであり、その返信が鎌倉に届いたのは元暦二(一一八…
源義経にしてみれば、自分の預かり知らないところで評価が勝手に向上し、鎌倉と京都との対立の中軸に置かれた末に、これまで積み上げてきたことの全てが勝手にリセット…
ところが、被害を京都内外にもたらしながら、平安京内を見渡すと、ところどころに全く無傷な場所もあった。地盤のおかげか、あるいは建物の耐震構造によるのか、あるい…
最初の記録は元暦二(一一八五)年六月二〇日に登場する。ただし、最初の記録そのものはよくある日常の光景であり、日記における記載も特筆すべきこととはなっていない…
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右改年之後富貴萬福 幸甚幸甚 令和五年 元日德薙 零己 おじいちゃんといっしょ 徳薙 零己[著] Amazon Kindleインデ…
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いかに一八名もの御家人を園城寺に派遣したとはいえ、中原広元らが園城寺を見捨てたのはその通りである。ただ、理由として掲げた財政問題については全くの言いがかりで…
源実朝が園城寺と手を結ぼうと考えたこと、中原広元ら鎌倉幕府の文人官僚が園城寺と距離を置こうと考えたこと、その双方とも理解できる話である。 まずは後者であるが…
近江国大津の神人たちは、黙っていたならば延暦寺からノルマ未達を責められることになるとわかっていた。だが、どうやってもノルマは達成できない。そこで、前もって園…
もしかしたら、この一連の流れは最初から仕組まれていたのかもしれない。 吾妻鏡によると、高僧を招くか否かの検討が行なわれたのは建保二(一二一四)年四月一八日の…
前年の和田合戦の影響で大倉御所が焼け落ちたために再建したこと、再建の後、一時避難していた中原広元の邸宅から戻る際の行列がまさに京都の貴族を思わせる壮麗さであ…
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鎌倉新仏教の開祖のうち、浄土宗を開いた法然は弾圧を受けたのに対し、臨済宗を開いた栄西は鎌倉幕府の庇護を受けたことは既に記した。 栄西といえば南宋に留学して禅…
本作ではこれまで何度か藤原定家を取り上げている。ただし、古典の教科書に登場する著名な歌人としての藤原定家ではなく、同時代を生きた貴族としての藤原定家である。…
時代は鎌倉幕府の時代となっている。 しかし、三〇年も遡れば時代はまだ平家の時代であり、この時代の人達にとっての源平合戦はついこの前のことである。源平合戦で実…
鎌倉幕府の情報網は想定以上に広がっていることを痛感したのは後鳥羽上皇や朝廷だけではない。京都における鎌倉幕府の勢力衰退を考えていた寺社勢力もまた、鎌倉幕府は…
この仕組みが存在していたところで鎌倉幕府が誕生し、国家財政が乏しい状態のまま、荘園領主や知行国主がかつての豊かさを失って、鎌倉幕府が豊かになっていったという…
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和田合戦は鎌倉で発生した事件であるが日本中を震撼させた事件でもある。 特に、源実朝が後鳥羽上皇に対し、鎌倉幕府として院や朝廷に背く意思がないと示さなければな…
そんなタイミングでやってきた名を残す絶好のチャンスである。 長沼宗政はいったん自宅に戻って支度をする時間も惜しいと、大倉御所から直接下野国へ向かったのである…
ただ、源実朝とその周辺の御家人達からなる豪奢な構図は、同じ鎌倉幕府の御家人であっても、源実朝に親しい一部の御家人と、そうでない大部分の御家人という格差を生み…
建暦三(一二一三)年八月二〇日、大倉御所の再建が完了し、源実朝が大倉御所へと戻ることとなった。吾妻鏡によると牛車を引く牛は用意できたものの肝心の牛車が用意で…
バリケードが築かれたならば、そのまま攻撃しようものなら簡単に打ち負かされてしまうことぐらいわかる。攻撃するならば状況を分析した上で計画的に行動しなければなら…
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土御門通親がこのことを理解していないわけではない。 とは言え、土御門通親の権威の源泉を辿ると、養女が土御門天皇の生母であるという一点に行き着く。 仮に後鳥羽…
後鳥羽上皇が和歌の世界にのめり込んでいることは既に記した通りであり、正治二(一二〇〇)年七月一五日に百首歌を企画したのも既に記した通りである。そして、このと…
それにしてもなぜ、後鳥羽上皇がいきなりクレームを入れてきたのか。 結論から言えば鎌倉幕府に対する反発であろう。後鳥羽上皇は院政を構築すること過去の院政と同様…
後鳥羽上皇の怒りを伝える六波羅からの書状が鎌倉に届いたのが七月二七日のことである。この知らせを受けた源頼家は佐々木経高の守護職を三ヶ国全てで罷免し、領地没収…
正治二(一二〇〇)年七月九日、京都で騒動が起こった。 佐々木兄弟の次男である佐々木経高が、淡路、阿波、土佐の三ヶ国の軍隊を京都に集めたことが後鳥羽上皇の怒り…
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宋銭を利用して比叡山延暦寺に対して圧力をかけることに成功した後鳥羽上皇は、和歌の世界への傾倒をさらに深めていった。史料の出典が藤原定家の日記なので和歌に関す…
後鳥羽上皇の正妻は、後鳥羽上皇の元から離れて暮らしている中宮任子、すなわち、九条兼実の娘である。 ただし、後鳥羽上皇は人生でただ一人の女性しか愛さなかったわ…
宋銭利用禁止は九条兼実が承諾した経済政策であり、九条兼実が失脚した後も継続する必要はない。しかし、後鳥羽院政が成立しても宋銭禁止は有効のままであり続けており…
源頼家の政治判断で最悪なものとして著名な出来事が起きたとされているのが、正治二(一二〇〇)年五月二八日の裁決である。所領をめぐる争いにおいて、係争中の地図の…
ただ、忘れてはならないのは、この出来事が吾妻鏡の記事であるという点である。吾妻鏡は鎌倉幕府の正式な歴史書である一方、編纂時の権力者である北条家を称揚するため…
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一三人の合議制が早々に九名へと減ったこと、そして人員の入れ替えをしていないこと、すなわち、永続的な組織体ではなく一時凌ぎ牽制の末の妥協でしかないことは、一三…
一三人の合議制のうち既に二名が命を落としており、かつ、誰かが後を埋めたわけではないので最大で一一名ということになる、はずであった。 この人数がさらに減る出来…
また、朝廷からの視点で捉えると、正治二(一二〇〇)年四月一日の人事は複数の意味が重なったものであることが読み取れる。 鎌倉では北条時政の国司就任が話題になっ…
しかし、正治二(一二〇〇)年四月一日の発表は今後の趨勢を大きく変更する内容であった。北条時政が従五位下の位階を獲得した上で遠江守に補任されたのである。北条時…
一三人の合議制が誕生した鎌倉幕府であるが、まず梶原景時が命を落とし、次いで三浦義澄もこの世の人ではなくなっていた。 一三人の合議制は明瞭な政治機構ではなく、…
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