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  • コスプレも

    コスプレも

  • 尺八だけでなく侍、刀も外国人と女性にブーム

    facebookで「Samuraiofthe21stcentury」というグループプライベートグループメンバー1.8万人尺八だけでなく侍、刀も外国人と女性にブーム

  • 尺八だけでなく侍も外国人に人気

    尺八だけでなく侍も外国人に人気

  • 偈箱の「明暗」とは

    虚無僧といえば、天蓋と尺八と、「明暗」と書いた「偈箱(げばこ)」の3点セットを持っているのが定番だ。ところが、不思議なことに、江戸時代の錦絵や浮世絵には、「明暗」と書いた偈箱は存在しない。たしかに、明治23年、虚無僧尺八愛好家によって、京都東福寺の塔頭善慧院内に「明暗教会」が設立され、戦前の虚無僧谷狂竹は偈箱に「大本山東福寺明暗教会」と書いていた。今でも、京都明暗寺の明暗教会会員はそう書いている人もいる。ところが谷狂竹の後を継ぐ西村虚空の門下は、現在明暗教会には所属していない。その流れの青木虚波夢氏は「不生不滅」と書いている。高橋空山門下の、私の慶応の先輩藤由越山氏は、偈箱に「桐の紋所」を描いている。高橋空山が「皇室の裏紋である桐紋が正しい」と称しているが、根拠は不明。浮世絵では出てこない。さて、「明暗」とだけ...偈箱の「明暗」とは

  • 偈箱に「明暗」と書くのは戦後

    虚無僧は、前に「明暗」と書いた偈箱(げばこ)を下げてここにいただいたお布施を入れるが、これは昭和30年代からのこと。映画で使われてからだ。不思議なことに、江戸時代の浮世絵など虚無僧の絵には偈箱は無い。頭陀袋なのだ。歌舞伎の助六は虚無僧だが偈箱は下げていない。江戸初期の虚無僧の絵では、天蓋もない。現在の天蓋は天保の頃。江戸中期以降らしい。そもそも虚無僧に定番のスタイルなんか無いようである。花嫁の内掛けのような、派手な女の着物を来ている伊達虚無僧の錦絵も多い。ちなみに私のスタイルは2パターン。白の着物に金襴の袈裟、錦の尺八袋に白の房、「明暗」と白字で書いた黒の偈箱。白足袋に手甲脚絆。スクリーンから抜け出たような美麗な装束。黒の擦り切れた着物に破れた天蓋、ぽろぼろになった袈裟、地味な偈箱、素足に下駄。と暮露(ぼろ)の...偈箱に「明暗」と書くのは戦後

  • 歌舞伎に登場する「虚無僧」

    歌舞伎十八番の『助六』は、正徳3年(1713)山村座で初演。助六は、黒の着流し、高下駄、腰に尺八を差し、虚無僧をイメージさせているが、天蓋は被っていない。1700年代の初期はまだ天蓋は無かった。正徳5年(1715年)、二代目市川團十郎が、中村座で『坂東一寿曾我(ばんどういちことぶきそが)』で、曾我五郎を演じた時、"虚無僧"に扮した場面があり、これが大当たりしたという。「編み笠」に「寿」の字がいれてあり、それは「越後屋」のマークで話題になったそうな。スポーツ選手がスポンサー企業のネームをつけて出場するようなものだ。「編み笠」となっているから、現行よりは浅い。翌年(1716)、中村座の『式例寿曾我(しきれいことぶき)』では、曾我の世界に助六がとりこまれ、助六=曾我五郎という設定が生まれた。そして、その扮装は現行に近...歌舞伎に登場する「虚無僧」

  • 尺八は長さに非ず

    「尺八はその長さが1尺8寸だから、尺八という」と誰もが信じている。中学の音楽の教科書にもそう書いてある。しかし、私は子供のころから疑問に感じていた。縦笛の名前をつけるのに、その長さを名前になんかするだろうか。常識的にありえない。お琴は6尺あるから「ろくしゃく」。三絃は「よんしゃく」、琵琶は「さんじゃく」。横笛は「いっしゃく」なんて名をつけるだろうか?古代の尺八は、1尺1~4寸で長さは不揃いである。1尺8寸の尺八は伝存していない。それなのに何故「1尺8寸」が名前になったのか。おかしい。結論を言えば、尺八のような縦笛は中国の唐代より以前から存在していた。1万年も前のヨーロッパの遺跡からは動物や鷲の足の骨に孔を空けた笛が出土している。脛の骨のことをラテン語で「Tuipaチュイパ」という。クラリネット等の縦笛はラテン語...尺八は長さに非ず

  • 古代尺八は長さまちまち

    「尺八」の名称は、わが国では、すでに奈良時代の半ば(750年頃)、東大寺正倉院に8本の尺八が収蔵されており、その目録である『国家珍宝帳』に「尺八」と書かれている。この尺八は朝鮮半島の百済から「尺八」として伝来したものである。この正倉院の尺八は、長さがまちまちで1尺1寸~4寸であるから、その音程も音階もまちまちで、とても他の楽器との合奏には適さない。この最長のものが43.7cm。そして、法隆寺に伝来した尺八も44.2cmと近い。唐の時代の尺は「大尺」と「小尺」があって、「小尺」は「大尺の×0.8」なので、1尺8寸×0.8=1尺4寸。まさに、この正倉院の最長のものと法隆寺の尺八が、古代の小尺の「1尺8寸」となり、これこそが「尺八の基準管」だとされている。しかし、この音程は筒音で「G♭」、第3孔で「B」である。基音は...古代尺八は長さまちまち

  • 尺八のルーツがついに明らかに

    秦氏は「日本書紀」によれば、応神天皇の283年に弓月(ゆづき)の君が百済から127県の1万8670人を連れて日本に来たという。「弓月君」という名前は、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしい。まさに「大和」の語源だ。この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ山」という山がある。ハン(Khan)は、族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、「天の神」を示すと言う。「てんぐり」は「天狗」にも通じる。弓月国(Kung-Yueh)はキリスト教王国であった。天皇のことを「ミカド(帝)」と呼ぶが、これは「ミー・ガド(ガド族から出た者)」のことだと言う。ガド族の始祖「ガド」の長男の名前は「ニェポン」だった。まさに「ニッポン」。秦氏が定住した「太秦(ウズマサ)」は中国では「キ...尺八のルーツがついに明らかに

  • 馬王堆漢墓から出土した尺八

    1971年、湖南省長沙で発見された「馬王堆漢墓」は、女性の遺体が生けるが如き状態だったことで、世界を驚かせた。紀元前2世紀、前漢の初期のものとされる。その頃の日本は、まだ弥生時代だ。豊富な副葬品も、ほぼ完全の状態で出土した。その副葬品の中に楽器もあった。七弦琴、25弦の瑟(しつ、大きな琴)・22管の竽(う、大型の笙)・1組の竽律(竽を調音するための竹笛)。竽律は12本の竹笛で、その各々に漢初の十二律の名称が記されていた。そして、六孔の簫(しょう、尺八に似た縦笛)が二本。近代の中国には「尺八」が存在しないので、「洞簫」の「簫」と記されている。「笙」とは別。「笙」は何本もの細い竹を組み合わせて、ハーモニカのような舌がついたもの。「洞簫」は細く長く、唄口を内側に削る。「馬王堆」の縦笛は、「洞簫」より「尺八」に近い。敦...馬王堆漢墓から出土した尺八

  • 1尺8寸の尺八は古代に存在したか?

    上野堅實氏も西川秀利氏も「現在の1尺8寸(54cm)の尺八が古代から存在していた」と推定している。その根拠は、宇治平等院の「雲中供養菩薩像」に長短2本の縦笛があることだ。敦煌の壁画でも、長短二本で合奏している。考えられるのは「短笛」が9寸。長いのは倍の1尺8寸。つまり「壱越(いちこつ)=D(レ)」の音の1オクターブ違いの尺八なのだ。室町時代に書かれた『體源鈔(タイゲンショウ)』には「壱越(イチコツ)管」の採寸図が載っている。これは長さ9寸(27cm)。だが、9寸の尺八は短すぎて曲は吹けない。だから、「壱越(イチコツ)」=9寸(27cm)を基準管としてその倍の1尺8寸管が使われた。それで「“尺八”と名づけられた」という説もある。しかし、9寸~1尺4寸までの尺八は多く伝存するのに、それ以上長い尺八は現存していないこ...1尺8寸の尺八は古代に存在したか?

  • 尺八の元祖は「ネイ」か?

    尺八の元祖は、ペルシャの葦笛ネイ(ねい)だと言われている。それ以前、エジプトでは「セピ」と呼ばれていた。BC527年、工ンブトはペルシャ(イラン)に征服され、ペルシャでは「葦」を意味する「ナイ、ネイ」または「イネ」と呼ばれるようになり、中国に伝わって、竹で作られるようになったと。[礼言」[詩経」などには「伊耆の葦(イヤタ)」と書かれてある。現代でも、「ネイ」は、西アジア、中央アジア、北アフリカで吹奏されており、「ナーイ」とか「カサバ」とも呼ばれている。尺八や洞簫と違う点は、歌口を斜めに切っておらず、管の上端を下唇に置くか上歯に当て、送り込む空気の量と方向を舌で調節しながら吹奏する。そのため、斜めに構える。音質は、尺八に似ているが、尺八よりは「息(風)の音」が強く入る。それで、この「ネイ」と「尺八」は別種の系統と...尺八の元祖は「ネイ」か?

  • 中近東の縦笛「ネイ」

    Aさんがトルコの縦笛「ネイney」を持ってきてくれました。「ネイ(あるいはナーイnay)」とは「葦」のことですが、葦で作った「竪笛」も意味します。(トルコとイランでは「ネイ」、アラビアでは「ナーイ」)長さは50cm~90cm。発音原理は基本的に尺八と同じで、「尺八の元祖」と言われるのですが、歌口は何もなく、ただ切断してあるだけ。吹いて音を鳴らすのは尺八よりむずかしい。ネットで検索するとありました。「ネイの吹き方」。解説のように吹いても全く鳴りません。突然、音らしきものが出ました。でもすぐ元の黙阿弥。どうやったら出たのかもわかりません。そういう楽器です。「鳴らせるようになるまでの苦労は世界一難しい楽器」とのことです。しかし「吹き口に余計な仕掛けがない分、ちょっとした口の形や当てる角度で、多彩な音の変化が付けられる...中近東の縦笛「ネイ」

  • お客様は 神様 です

    フランス人はジョークがお好きのようで、中日新聞のパリ駐在員からの特派員便りにこんなのが載っていました。フランス人が考えたジョークです。それに私がアレンジしてみました。お釈迦様とイエス・キリストが一緒に日本に行かれた。二人で日本料理の店にはいり、お釈迦様がメニューを見ていると、店員がやってきて、「さかさまです」と云った。お釈迦さまは小声で「どうして私が“釈迦”とわかったのだろう?」とキリストに云われた。そして、店員の懇切丁寧なおもてなしに、キリスト様はいたく感激して、こう言われた。「どうして見ず知らずの私たちにそんなに親切にしてくれるのか?」と。すると店員は「イエス、イエス(はいはい)お客様は神様ですから」と笑顔で答えた。「どうして私がイエス・キリスト(神様)とわかったんだろう?」と聞くと、店員は「ただいま、おか...お客様は神様です

  • 田宮二郎の猟銃自殺は病死と診断!!

    『白い巨頭』2003年フジテレビ、唐沢寿明主演の再放送を見る。『白い巨頭』といえば田宮二郎。1978年のが強烈なインパクトがあった。1978年(昭和53年)12月28日。衝撃的なニュースが流れた。人気絶頂にあった田宮二郎が猟銃自殺。『白い巨頭』残り2話がまだ未放映だった。田宮二郎の自殺で、視聴率が12/30日は26.3%、最終回は31.4%と大幅にアップした。自殺の理由はいろいろ取沙汰されている。何年も前から躁鬱病で精神を病んでいた。M資金にひっかかって多額の債権取り立てで苦しみ、暴力団から脅され、精神に異常をきたしていたとか。9月17日から始まった後半の収録がでは、田宮は泣き崩れてばかりでセリフが頭に入らなくなっていた。妻やスタッフが必死に彼を励まし続け、共演者の協力もあって撮影は11月15日に無事終了。財前...田宮二郎の猟銃自殺は病死と診断!!

  • 「青天を衝け」渋沢栄一

    NHK大河ドラマ「麒麟が来る」が、あわただしく終わって、感想も書けないままに、今日2月14日から「青天を衝け」が始まった。日本資本主義の父といわれた渋沢栄一のドラマ。電力、水道、銀行など500社もの創設に関わった偉大な人物という割には、いままで注目されてこなかった。福沢諭吉に代わって新一万円札の顔になるのだが、「誰?それ」という人が多いとか。私の家に渋沢栄一の書があった。「青淵(せいえん)」という号が渋沢栄一だと子供の頃から聞いていたので、渋沢栄一には関心があった。深谷の生家も虚無僧で訪ねた。深谷の駅には「渋沢栄一の展示室」もあった。深谷駅渋沢栄一記念館千代田生命本社の隣りに渋沢栄一の子孫の方が住んでおられ、訪ねたこともあった。白髪の総髪ですごく品のいい風格のある方でした。保険の営業であるお宅を訪ねた時、玄関に...「青天を衝け」渋沢栄一

  • 紅花の産地だった「長南町」

    「長南(ちょうなん)町」のガイドブックに「紅花と言えば山形ですが、紅花の原産地はここ長南町で、室町時代に武田に攻められ、敗れた長南一族が山形に逃れて、紅花を山形に伝えた」とありました。ネットで見ると「長南」姓は山形に多く、「全国長南会」という組織が「長南氏」の歴史について詳しく調べています。1456古河公方の命で武田信長、長南に侵入。長南修理介常春(23)降伏。1459長南氏義、千葉氏に抗す1476長南氏、出羽最上の清水氏に召し抱えらるこの時「紅花」を山形に持ち込んだのでしょうか。随分昔のことです。しかし、山形での紅花の栽培が盛んになり、「国産品」として出荷されるようになるのは、江戸時代の後半のようです。私の推測ですが、小田原北条氏滅亡後、信濃高遠の保科正光がこの地を支配しており、10年後、大阪の陣以後、高遠に...紅花の産地だった「長南町」

  • 岩村田藩の山室氏

    母方の「山室」氏の出自は「千葉県の山室」と突き止めたところ、親戚から「佐久市の岩村田藩の重臣に山室がおり、一族ではないか」と手紙が届いた。早速ネットで検索してみれば、「岩村田藩の重臣山室尚高の4女」で、明治時代にいち早くロシア正教会に入信し、石版画でイコンや人物画を描いて有名となった「山室政子(結婚して岡村)」がいた。また同じく岩村田の出身で、詩人で児童文学の「山室静(しずか)(男性)。1906年(明治39年)-2000年(平成12年)」がいる。では「岩村田藩」とは?。ネットで調べてみると、江戸時代にできた小藩でした。内藤氏の一族「正友」が、初め500石から出発し、武蔵・上野・常陸・上総・下総など各地に分散して領地をもらい、1万5千石にまで出世した。はじめ、武蔵国赤沼藩主となり、さらに元禄16年(1703年)佐...岩村田藩の山室氏

  • 上杉の時にも山室氏が

    ネットで検索していたら、長野市松代にも「山室氏の城、霞城」があることがわかった。こちらの山室氏は、「天正10年(1582)に織田方の森長可から知行を安堵され、その後、越後の上杉景勝に属した。そして、上杉景勝が会津移封となった時、山室氏も会津に移り、1,050石の知行を得た」という。会津は、鎌倉時代は三浦一族の「芦名氏」が支配し、伊達正宗に滅ぼされ、秀吉の命で蒲生氏郷がはいり、さらに上杉景勝。その上杉の家臣にも山室氏がいたことになります。しかも1050石とは大身。その上杉は、関が原の時、家康に敵対し、改易、山形県の米沢に移封となります。そして四国松山から加藤嘉明。そして保科と、次々と領主が変わります。そして、私の母方の山室氏は千葉から高遠を経て会津に来た。おっと、その前、鎌倉から室町にかけて会津を支配した最初の領...上杉の時にも山室氏が

  • 母方「山室」家のルーツ ③

    私は、子供の頃、毎年夏休みには、母の実家、会津の山室重遠伯父の家に遊びに行き、伯父から尺八の手ほどきを受けました。母の二番目の伯父「山室信朗」は、千葉大医学部を出て、千葉の国立療養所の医師を務めていました。その信朗伯父も尺八を吹いていましたので、私は、夏休み以外は土日に、千葉の伯父の家に行って、尺八を習ったのです。その伯父が言っていました。「千葉県には山室姓が多い。どうやら、山室は千葉の出のようだ」と。しかし、千葉の山室が、どうやって長野県の高遠に移ったのかが、わからず長年の疑問でした。会津藩祖・保科正之は、徳川2代将軍秀忠が、お女中に手をつけて生ませた子で、正室「お江」の嫉妬を怖れて、高遠の保科家に匿われて成長しました。「お江」が亡くなり、3代将軍・家光の代になってから、「兄弟」の対面をし、「弟ならば、東北の...母方「山室」家のルーツ③

  • 母方「山室」家のルーツ ②

    「母方の山室家は、信州高遠の出、高遠には山室川という川もある」と、子供の頃から聞かされていました。一昨年、高遠から山室川の上流まで、虚無僧で行ってきました。途中に町営の山室温(鉱)泉というのもありました。「山室」という地名は、町村合併で消えてしまったようです。高遠には「山室」姓の家は一軒もなく、「山室川」の由来についても訪ね歩きましたが、知っている人はいませんでした。会津藩家老の「北原」家は、高遠の出で、「北原」姓は高遠にも多くいるとのこと。「北原」家は、会津藩の家老として重用されたのに、山室はなぜ、100石止まりだったのか。しかも山室は、郭外の「新横町」に住まわされていました。なぜ「新横丁」と「新」がつくのか疑問に思っていました。高遠にも「横町」という町名が有ったのです。このことは、会津との関連を感じさせます...母方「山室」家のルーツ②

  • 母方「山室」家のルーツ①

    私の父方も母方も、先祖は会津藩士でした。父方の「牧原」は、家光の弟の「保科正之」が、信州高遠から山形を経て、会津藩主となって以降、紀州徳川家の支藩「新宮」から、会津藩に召抱えられ、「側用人500石」まで出世しました。一方、母方の「山室」は、「信州高遠以来の家臣」でありながら、なぜか「外様」扱いで、住居は郭外(外堀の外)、100石止まりでした。ずっと不思議に思っていたのですが、偶然にも、その謎が解けたのです。父の墓は、千葉県の房総半島の真ん中「長南町」の町営墓地「笠森霊園」にありました。(今は墓じまいをして、成田の方に移しました)近くにある「笠森観音堂」は高い櫓(やぐら)を組んだ独特の建物で、江戸時代の浮世絵にも描かれており有名です。棟木の墨書銘により、「文禄年間(1592年-1595年)の再建。天正18年(15...母方「山室」家のルーツ①

  • 多劫姫と保科正貞の不思議な縁

    多劫姫(たけひめ、天文22年(1553年)-元和4年(1618年))は、久松俊勝の娘。母は於大の方で、松平広忠に嫁ぎ竹千代(後の徳川家康)を生んだが、離縁させられて久松俊勝に再嫁した。つまり、多劫姫は家康の異父妹となる。多劫姫は、最初、桜井松平家の松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく忠正が亡くなったため、忠正の弟の松平忠吉と再婚し、信吉と忠頼の二人の子をもうける。桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は家広、その後は忠頼が継ぐが、忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、この松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。一時浪人となっていた。さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室となるのであるのであ...多劫姫と保科正貞の不思議な縁

  • 多劫姫のつづき

    家康の異父同母の妹「多劫姫」は、保科正直との間に保科正貞、北条氏重、大涼院(黒田長政継室)、清元院(安部信盛室)、貞松院(小出吉英室)、高運院(加藤明成室)の二男四女を儲け、元和年(1618年)、死去した。長男保科正直は保科本家として房総飯野藩一万石で残る。次男氏重は、小田原北条氏の一族北条氏勝の養子となって北条家を再興する。男子なく絶家するが、その娘が生んだ子が「大岡越前守忠相」。末娘は加藤明成の室。これも驚き。保科正之が会津に移封されたとき、会津の前藩主は「加藤明成」である。加藤明成は、伊予松山から会津40万石の太守となった加藤嘉明の子。ちなみに、加藤嘉明は三河の出、諸国流浪の末秀吉に仕え、加藤清正とともに賤ケ岳七本槍の一人として名を馳せた。加藤清正とは同姓だが、別家。その子明成は家老「堀主水」の出奔という...多劫姫のつづき

  • 「お富-於大-多劫」 母娘三代

    【華陽院・お富・お満とも】竹千代(後の徳川家康)が、今川への人質として駿府にあった頃、陰日向(かげひなた)になって面倒をみてくれた人がいた。家康の母「於大」の生母「華陽院・お富」。つまり家康の祖母。この「華陽院・お富」の生涯も、戦国の倣いとはいえ波乱万丈。はじめ、刈谷城主「水野忠政」に嫁いで「水野忠重」や「於大」ら3男1女を生む。ところが、「松平清康」(家康の祖父)が横恋慕して、奪い取る。講和の条件として譲り受けたとも。その「清康」が24歳で家臣に殺されると、その後は、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐といった諸豪族に次々に嫁ぐが、いずれも夫に先立たれている。その後、駿河の「今川義元」を頼って駿府に入り、尼となって、孫の「竹千代」の世話をする。【於大の方】「松平広忠」との間の子が「徳川家康」「久松俊勝」との間に三男三...「お富-於大-多劫」母娘三代

  • 保科栄姫と多劫姫

    保科栄姫(えいひめ1585年~1635年)は保科正直の娘。母は徳川家康の11歳したの妹多劫姫。多劫姫(たけ)の母は、徳川家康の母於大の方。要するに、栄姫は徳川家康の姪にあたる。また、栄姫は名奉行・大岡越前の大叔母にもなる。関ヶ原の直前、保科栄姫(16歳)は、中津12万石の黒田官兵衛の子黒田長政(33歳)に嫁ぐこととなった。豊臣秀吉が亡くなった後、黒田家との絆を強くしたいと言う徳川家康の意向で、栄姫は化粧料として豊後国玖珠郡内に1,000石を賜っている。黒田長政(33歳)は、栄姫を正室に迎える前に、蜂須賀正勝の娘糸を正室としていた。15年つれ添っていたが男子無く、糸を離縁して、継室に栄姫(16歳)を迎えた。黒田家としても、徳川の世に生き延びる手段であった。また会津保科家とも絆を強くした。関ヶ原の戦いでは、大坂天満...保科栄姫と多劫姫

  • 家康の義妹「多劫(たけ)姫」とは

    「多劫姫」(たけひめ)とは?母は於大の方。於大は、初め「松平広忠」に嫁ぎ「竹千代(後の徳川家康)」を生んだが、離縁させられて「久松俊勝」に再嫁した。そして生んだのが多劫姫。多劫姫は家康の異父妹となる。多劫姫は、最初、桜井松平家の松平忠正の室となり、家広を生んだが、まもなく忠正が亡くなったため、その弟の松平忠吉と再婚し、信吉と忠頼の二人の子をもうける。桜井松平家は、三河一向一揆では家康に敵対し、後、許されて家康に属するが、代々短命で、忠正の後は弟の忠吉が、忠吉の後は広家。その後は忠頼が継ぐが、忠頼も27歳で旗本の喧嘩の仲裁にはいって殺される。実は我が家の先祖は、浜松の城主だった松平忠頼の家臣だったが、忠頼の落命でお家断絶。その後浜松の藩主となった水野重仲に召抱えられた。さて、多劫姫は、忠吉の死後、保科正直の室とな...家康の義妹「多劫(たけ)姫」とは

  • 会津藩祖保科正之と見性院(詳細)

    武田信玄の次女で穴山梅雪夫人「見性院」は、家康により、江戸城田安門内の北の丸、比丘尼屋敷に住居を与えられ、武蔵国大牧(おおまき)村(さいたま市緑区)に3百石を与えられていた。さて、徳川2代将軍秀忠は、信長の妹お市の娘で年上の正室「お江」に頭が上がらぬ恐妻家だった。それが、乳母の下女に手をつけ、懐妊させてしまう。その下女の名は「志津(静)」。父は、神尾栄加といい、北条氏直の家臣であった。氏直は小田原北条氏の最後の当主。母は武田信玄の娘「黄梅院」。天正10年6月4日の本能寺の変後、信濃・甲斐の領有をめぐって家康と対峙し、8月、家康の娘「督(ごう)」を妻に迎えることで和睦する。それから8年後の天正18年。北条氏は秀吉に攻められて滅亡する。ところが、「氏直」は家康の娘婿であったため、命を助けられ、高野山に幽閉されるが、...会津藩祖保科正之と見性院(詳細)

  • 家光の側室「お振の方」の出自はなんと

    3代将軍「徳川家光」の側室で「千代姫」を生んだ「お振(ふり)の方」とは。(尚「千代姫」は尾張藩主「徳川光友」の正室となる)。なんと石田三成の曾孫(ひまご)だったとは、驚き。「お振の方」は「春日の局」の養女として、大奥に上がり、女嫌いだった家光の最初のお手付き(側室)となります。「お振」の父は、旧会津藩主「蒲生家」の家臣「岡吉右衛門」。その「吉右衛門」の母(お振の祖母)が石田三成の娘でした。「お振」の母は、会津藩の家臣「町野幸和」と「祖心尼」との娘「おたあ」。「祖心尼」は「春日局」の義理の姪にあたり、局に請われて大奥に入り、ナンバー2として大奥を掌握していました。家光の生母「お江」は、信長の妹お市の娘ですから「織田と浅井」の血を引きます。「春日の局」は「明智光秀」の従兄弟で重臣だった「斉藤利三」の娘。「斉藤利三」...家光の側室「お振の方」の出自はなんと

  • 北原雅長の墓が浜松に

    突然見知らぬ方から電話。会津若松の森川様。民謡尺八をされているという。私の事を人づてに聞いて、電話をかけてみたとのこと。しばし、会津の事で歓談する。その中で、会津藩筆頭家老北原采女(雅長)の話が出た。ついでにネットで検索してみたら、なんと北原雅長の墓が浜松にあるとのこと。それも、先日ブログに書いた築山御前の墓がある西来院。築山御前は、松平元信(後の徳川家康)のpedz正室で、長男信康、長女亀姫を生んだ。同盟関係にあった織田信長から謀反の疑いをかけられ、天正七年(1579)、長男信康とともに殺された。行年三十八。築山御前の墓(法名:清池院殿潭月秋天大禅定法尼)その西来院になぜ会津藩筆頭家老「北原雅長」の墓が?北原雅長は、天保十三年(1842)会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれた。(兄は神保修理。鳥羽伏見の役で...北原雅長の墓が浜松に

  • 2月4日 73歳になりました。

    2月4日は、大石内蔵助以下赤穂浪士切腹の日。そして私の誕生日。73歳になりやした。自分でも信じられない。私が生まれたのは昭和23年(1948)年の2月4日。立春の日でしたが、福島県の会津若松市で生まれたので、大雪でした。ところで、今年2021年の立春は2月3日とか。3日が立春になるのは1897(明治30)年以来124年ぶりとのこと。立春は、国立天文台の観測で「太陽黄経が315度になった瞬間が属する日」。それが、今年は2月3日の夜中の23時59分。あと1分で2月4日。ちなみに1984(昭和59)年の立春は2月5日でした。そうでした。この年、私の誕生日に節分の豆まきをやった記憶がある。私の知っている人の多くが73歳で亡くなっている。そろそろお迎えがくる覚悟をしておく歳。残された時間は少ない。最後に何をしておくべきか...2月4日73歳になりました。

  • 2月2日が節分!?

    2021年の今年は、2月2日が「節分」とかや。コロナ禍で各神社の豆まきも自粛。コンビ二で豆まき用の豆を買って、ひとりぼりぼり。なんで豆を撒くのかって?「鬼滅(きめつ)」でなくて「魔滅(まめつ)」。つまり「魔を滅す=魔滅(まめ)」に由来するとか。単なる語呂合わせだけでなく、豆には「毒(鬼)を殺し、痛みを止める効果がある」と信じられていたからとも。たしかに、大豆の栄養価は高いからか。さて新潟県旧川西町高倉(現十日町市高倉)に伝わる民話昔々、ある村に貧しい百姓のおじいさんとおばあさんが住んでいました。今日は節分だというのに、豆一粒買うお金もありません。そこで二人は着物を質に入れて、豆を買うことにしました。こうしてやっと買った豆。「毎年、鬼は外、福は内と豆を撒いても福の神様は来られなかった。いっそのこと逆に鬼は内、福は...2月2日が節分!?

  • あまびえ

    「甘エビ」ではなく「あまびえ」。コロナ禍で一躍有名になった疫病退散の守護神。時は弘化三年(1847)。江戸幕府崩壊の20年前。肥後の国(熊本県)の海中に毎夜光る物が出、役人が行って調べたところ、図のような者が現れ「当年より6か年の間、諸国に疫病がはやる。私の姿を写し、人々に見せたまえ」と言って海中に入った。その写しが江戸に送られた。とこちらは、私が敬愛する「森村典永」さんの作品。彼女は、「アマビエ」が話題になる前に、いち早くこの絵を描いて私に教えてくれました。あまびえ

  • 棺桶足りずに酒樽で

    幕末に大流行したコレラ(ころり)。死者を弔うための火葬場への列。棺桶が足りずに酒樽にいれて。想像を絶する悲惨さ。江戸幕府の崩壊も、疱瘡やコレラの大流行が一因となったとも。小塚が原の焼き場に向かう棺桶の列。小塚が原の向こうに「新吉原」が見える「八月の半ば、荼毘にふすため、小塚が原の焼き場に行ったところ、人足が言うには“日に六百人ほども残る”と。この様子では、骨上げは九月の2、3日頃になってしまう。(早くしてもらうには)金子はいくら出せばいいか」と。地獄の沙汰も金次第棺桶足りずに酒樽で

  • コロリと死ぬコレラ

    コロリと死ぬほど死亡率の高いコレラ1862年(文久2年)に大流行し、全国で56万人もの患者を出したといわれるコレラ。「ころり、コロリと死ぬからコロリ」と呼ばれ、「虎烈刺」「虎列拉」「虎列刺」「虎狼狸」などの漢字が当てられた。急激な症状の悪化、下痢の症状が“1日に千里を走るという虎”を連想させたからとか。「虎」と「狼」と「狸」が合体したコロリの妖怪。明治時代の錦絵で、画面左、衛生隊の隊員たちが西洋渡来の消毒液を噴射している。これは「通神鳥(つかみどり)」という怪鳥。頭は火葬場の人、首は僧侶、尻尾は薬屋。つまりコロリで大もうけ(つかみどり)した職業の人々。現代も、マスクとワクチンでボロ儲け。それ以外にも、コロナ禍で、生活に苦しむ人々を尻目に大儲けしている人も。あなたはどっち?コロリと死ぬコレラ

  • 名言格言ランキング

    仕事において実感できる名言・格言ランキング(gooランキング)仕事において実感できる名言・格言ランキング第1位は、織田信長のことば「仕事は自分で探して、創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは、雑兵だ」たしかに、秀吉は命じられた仕事以上の手柄をむ立てて出世した。織田家の重臣だった佐久間信盛はその地位に甘んじていて、本願寺攻めを果たさず、信長から追放された。でも「雑兵でいい」と思っている人には、“馬の耳に念仏”か。雑兵のまま出世できないでいる人が現実には大半。9分9厘。ところで、この織田信長の名言について検索してみても、その出典がわからない。ランキングがどのように調査されたのかも不明。一休の遺言「気にしない、気にしない、平気へいき、なんとかなるさ」というのも、さかんに言われているが出典は不明。そんな遺言など存...名言格言ランキング

  • 信康と築山殿は信長が殺せと命じたのか

    NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、家康が信長の命によって、長男信康と正室築山殿を殺したことになっている。家康はそのことで信長に恨みを抱いていたと。一般にもそのように言われてきたが、どうやら事実は違うようだ。結論からいえば、信長は殺せとは命じていない。処置は家康に任せるとのことで、家康自身の判断で二人を殺害した。家康の正室瀬名?は、関口氏の娘で母は今川義元の妹?。家康が駿府の今川義元の下に人質となっていた時に結婚した。ところが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元が討たれ、元康(のちの家康)は松平の本城岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)家康が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、瀬名の父母は共に自害した。瀬名は、石川数正の尽力で、駿府から長男信康と亀姫を連れて岡崎に移った。し...信康と築山殿は信長が殺せと命じたのか

  • 『麒麟が来る』いよいよ本能寺の変

    NHK大河ドラマ『麒麟が来る』。いよいよ「本能寺の変」へ。今までにないストーリー展開に戸惑う視聴者。「面白い、なるほど」と合点する声と「史実と異なる、でたらめ」との非難の声も。光秀は何故信長を討たねばならなかったのか、それなりの大義名分を一つひとつ積み重ねてきた。信長の残虐性、将軍や天皇まで蹴落とし専制君主になろうとする傲慢ぶり。六角、浅井、朝倉、武田、長曾我部、毛利と周囲皆敵、身内の離反、裏切りに切れまくる信長。今までの信長像は、ひとつひとつ困難に対峙し、それをクリヤァして上り詰める天才的英雄だったが、今回の信長は重圧にもがき苦しむ狂気の沙汰として描かれている。今までにない視点だ。信長ファンからは「もう話がメチャクチャ」と非難囂々の由。明智光秀はなぜ信長を討ったのか。今までのドラマで語られた私怨説は、みな江戸...『麒麟が来る』いよいよ本能寺の変

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