臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
権現山の山頂にある祠は今にも崩れそうである。江戸期の地誌によると古い時代には磐座信仰(巨岩を御神体)をしたと思われる瑜伽祠があったようである。「此祠、備前児島に移すといひ伝ふ」とあり地誌編纂頃にはなくなって廃祠と記されている。倉敷市児島の瑜伽大権現(現在蓮台寺・由加神社)と古い時代に何らかの繋がりがあったのであろうか。権現山名は大権現から名付けられたようである。現在ある祠は近代に何を祀られたのかは定かでないが再興されたようである。しかし現在は画像のように崩壊寸前である。権現山登山-権現山祠
我が家の方では雪は無いからと天気の良い日の先日、大野地区と佐伯地区境にある権現山へ登山した。権現山の三角点は点名権現で標高は699.12mであるが「おおの自然観察の森」からの比高は250m位しかない。山道に入ると雪が残っており歩きづらく牛歩で登っていると途中2名の登山者とすれ違った。権現山登山
ウォーキング途中に昔懐かしい瓦焼きのコタツと上部のみの土製アンカが置かれていた。コタツは完形品で中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていた。以前に紹介した時には向うの田んぼが作られてカモが草取りをしていたが現在は耕作放棄地となっていた。懐かしい瓦焼きコタツが!
ウォーキング途中の民家納屋の軒下に昔懐かしいネコ車が置かれていた。下画像は親が曲がった木を使用して制作使用していたネコ車であったが邪魔になるので処分してしまった。昔の車は木製で外周に鉄板の輪が嵌めてあったが下画像のネコ車はゴム製のタイヤであった。ネコ車が!
現在行われている平良丘陵開発用地内にあった極楽寺道には石仏と里程碑の4丁・5丁・6丁・7丁・10丁・12丁碑があったがどのようになっているのであろうか。またどのようにされるのであろうか。埋もれていると思われる3丁・8丁・9丁・11丁碑が見つかればよいのであるが・・・旧極楽寺道の石仏・里程碑
星ケ城跡脇の登山道を下っていくと登山道の凹部に屏風岩・装束岩といわれる大岩があり、岩上に石造の大日如来像が安置されている。台座石には「無手堂本尊大日如来」と刻してあるので先日紹介した極楽寺文書の「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」に相当する石仏のようである。屏風状の岩には刻字がみられるが判読は出来ないような状態である。大日如来像にはかつて堂宇があったのを記憶しているが次第に朽ちて現状のようになった。極楽寺道つれづれ-屏風岩・大日如来
30丁碑を過ぎすぐに原方面からの登山道と出会いここからは緩やかな登山道となり、この登山道の左側尾根筋に中世の星ケ城跡がある。城跡は南北弓状の尾根上に郭群を配したもので、大永期ごろ(1521~28)に立野主膳が守居していたということ以外に城の歴史については定かでない。極楽寺道つれづれ-星ケ城跡
石塚木砲(下関戦争で配備された木砲-図録より)30丁碑の少し手前にかつて佐方方面からの登山道分岐があり旧平良村と旧佐方村の山境の石塚がみられる。石塚の先は石積みのある平坦地となっておりここは幕末期の芸藩の砲台跡である。後畑御台場の例からみるとここにも陣小屋や篝焚小屋などと木炮が設置されていたものと思われる。極楽寺道つれづれ-石塚・幕末砲台跡
27丁碑を過ぎてしばらく登っていると右側に三角点が設置されている。点名は極楽寺で標高は518.36mのようである。「広島を繞る山の研究」の絵図によるとかつてこの付近に近代戦争制限区域標石の呉要塞区域標石が設置されていたようである。このような標石は三角点位置に建立されているのが他所でみられるのである。極楽寺道つれづれ-三角点
先日紹介した26丁碑の脇に祀られている手無し観音で、極楽寺文書によると「大日堂一宇四尺四方山林坂中ニ有之但俗ニ手なし堂ト云」とあり、極楽寺境内にあったようであるがこの手無し観音との関係は定かでない。かつての木造手無し観音像が無くなり石仏が祀られていたが堂も朽ちてきたので平成17年(2005)に現在の堂に新築されたようである。極楽寺道つれづれ-手無し観音
江戸期の上平良村地誌絵図で高尾山の上に天狗石が表示されている。高尾山は高地性集落遺跡の高尾山遺跡があった所である。天狗石については何らかのいわれがあったのであろうが定かでない。先日紹介した極楽寺山23丁遺跡の近くに下画像の大きな岩がありこれが天狗石と呼ばれていたものであろうか。極楽寺道つれづれ-天狗石
宮島サービスエリア脇から極楽寺道を少し登った所に展望所があり、以前は宮島サービスエリアが俯瞰できていたのであるが樹木が伸びて見えづらくなっている。遠くの宮島を遠望すると右端の高い山が岩船岳・御床山で若い頃にここから先の羊歯藪を藪漕ぎして探査したことがある。現在はルートが出来て厳島聴測照射所跡を訪れる人がいるようである。極楽寺道つれづれ
前日まではウォーキングの延長で20丁碑までと翌日は26丁碑まで登っていたが、一昨日は登山支度をして極楽寺山に牛歩で初登山して初参りをした。前日からつづいての里程碑は27丁、29丁、30丁、34丁、35丁、36丁、37丁碑で極楽寺に至る。平日であったが20数人くらいの登山者に出会った。極楽寺初登山・初参り
ど根性松速谷神社道分岐碑22丁碑23丁遺跡24丁碑26丁碑・手無し観音翌日もウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の26丁碑まで登った。20丁碑を過ぎてから道脇にあるど根性松はまだ元気であった。速谷神社道分岐碑から高尾山遺跡脇を通るが現在通行不能である。23丁遺跡は昭和59年(1984)頃に土石流ケ所から弥生式土器を採集したものである。26丁碑の脇には手無し観音が祀られており、ここからの眺望は素晴らしい。極楽寺道②
極楽寺参道脇の山中に画像のような何らかの環境調査をした器具とみられる残骸が放置されていた。残骸器具には「総合科学部基礎科学研究自然環境研究」と記されていた。環境調査の後は放置⁉
ウォーキングのコースを変えて宮島サービスエリア脇から極楽寺参道の20丁碑まで登った。山陽自動車道より下道の極楽寺参道廿日市道は時折り紹介している平良丘陵開発のために掘削中であり里程碑などはどのようになっているのだろうか。極楽寺参道に
津田地区にある教覚寺の鐘楼門で珍しい草葺(茅葺)屋根の鐘楼門である。この鐘楼門は宝永3年(1706)に建立されたようである。棟飾りで棟の上に馬乗り型にX型に乗っている部材は民家では「カラスオドシ」「ホテギ」「ウマノリ」「ウマキ」等々、その上の横木は「カラスオドリ」「ホテ」「オトシ」「マキワラ」等々と呼ばれていたようである。(中国地方の民家)教覚寺の鐘楼門
左側への脇道が山代街道の名残り道江戸期、津田の町の中心地であった十王堂市は津和野街道筋で山代街道の分岐点でもあり、御制札所で高札が立てられていた。また、疫病や災害、悪戯者などが村に入らないようにと中心地に祀られた十王堂もあったが近代の県道拡幅のために西福寺脇に移設されている。十王堂市
寒入りしている一昨日、田んぼの寒起こしをした。今年の田んぼの初仕事をしたので田の神に遭いに行った。当地方では田の神信仰はみられないが他地方から移された田の神が小瀬川沿いにみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神があるカフェテラス北山でスパイシーで味わい深いカシミールカレーを・・・田んぼの寒起こし
先日、孫が成人式を迎え記念品に木工の町に因んだ杓子をデザインした木製のスマホスタンドを頂いたようである。子供たちの成人式の頃は携帯電話もなく公衆電話用のテレホンカードを貰っていたのである。当ブログ主が成人式の頃はほとんどの家に電話はなかった時代であった。成人式記念品の移り変わり
平良丘陵開発の進捗状況を時折り紹介しているが、上側の三画像は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の現状で、下側の二画像は藤掛陸橋付近からみた現状である。平良丘陵開発の今
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体が立ち上がっていた。市道中央線沿いで堂垣内広池山線の予定地内にある住宅2軒の取壊し工事が始まっていた。市道堂垣内広池山線工事の今
本年は辰年なので市域で龍のついた滝を紹介しよう。滝はこの時期に紹介するものではないが・・・別名が咬龍(こうりゅう)の滝といわれる瀬戸の滝が吉和地区の瀬戸谷にある。上段と下段の滝があり若い頃に滝上から瀬戸谷を遡ってウシロヤマ谷の源流域から十方山道に至ったことが思い出される。辰年に因んで⑦
応龍山洞雲寺龍文寺本年は辰年なので市域また関連の龍のついた寺院を紹介しよう。以前に何度も紹介している洞雲寺の山号は応龍山と称されている。洞雲寺は厳島神主で桜尾城に居た藤原教親が周南市長穂にある龍文寺の金岡用兼を招いて開山しているのである。辰年に因んで⑥
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。友田地区にある龍王神社であるが由緒などは不明、祭神は龍神のようである。友田地区にはもう一カ所に龍王祠があったが石清水八幡社に合祀されているようである。辰年に因んで⑤
本年は辰年なので市域でみかけた龍のついた神社を紹介しよう。地御前地区の扇新開堤防上に祀られている龍宮神社であるが由緒については定かでない。一説には漁業者の守り神で扇新開を築造する時に多くの貝が犠牲になったので霊を祀ったという。旧暦の2月9日に貝祭りが行われているようである。辰年に因んで④
本年は辰年なので市域でみかけた龍に関係するものを紹介しよう。例年なら極楽寺に初登山して初参りをするのであるが風邪のため登ることが出来なかった。極楽寺本堂の天井には龍の絵が描かれているのである。中画像は昭和56年(1981)に撮影したもので、下画像は同年に赤外線テレビカメラで撮影されたものである。(保存科学研究会会報VOL.2より)辰年に因んで③
本年は辰年なので市域でみかけた龍文に関係するものを紹介しよう。津田八幡神社の向拝部分の虹梁の上部中央に龍の彫刻が施されている。辰年に因んで②
本年は辰年なので市域でみかけた龍文様の蔵飾りを紹介します。上画像は吉和地区にあった蔵飾りであったが残念ながら消滅している。龍は水を呼ぶ生き物とされていることから、火事などで焼失しないように願って龍の字が表されたものが多くみられる。辰年に因んで
例年の如く元日には三寺社参りを行っている。速谷神社には早朝の歳旦祭に参詣しており、菩提寺の西蓮寺と近くの長い石段のある八幡神社に参詣した。古記録によると江戸期の西連寺は速田神社(速谷神社)の供僧寺十二坊の内別当職を務めたようである。三寺社参り
新年あけましておめでとうございます。今年も宜敷くお願い致します。早朝6時薄暗い中、速谷神社歳旦祭に初参り致し鳥居越しの初日の出を・・・今年も元気で当ブログが継続できますようにと・・・あけましておめでとうございます
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臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池水持4畝拾弐歩水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。河ノ原溜め池
長野川取水口川末川取水口上平良大原地区の大原井手(仮称)は長野川から取水しているが、渇水期には水量が少ないので川末川から取水して井手のバイパス(井手名不明)を経て長野川に流入している。かつて大原井手セキの時には、原地区の井手のバイパス関係者に届け物をしていたということである。中世には森宗を所有していた桂元澄と下流の厳島社領大原御衣領の用水懸りを巡る紛争が記されており、古くから大原地区は用水不足気味であったようである。井手のバイパス
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水路を清掃した。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが、水田を作らなくなった人達も参加しての久しぶりの顔合わせとなった。かつて井手の修理に掛かった費用は田んぼの面積按分で負担していたとのことである。江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこの井手がどれに相当するのか定かでない。井手セキ(堰き)
藤掛交差点脇の七尾陸橋歩道脇の街路樹に数多くの小さな蕾が付いている樹木があったが、当ブログ主は初めてみるようなものであった。Googleレンズで検索するとカナメモチという樹木のようである。カナメモチ⁇
平良丘陵開発地内で稼働していた掘削ブルトザーや運搬ダンプカーなどが、大型連休のために広場に勢揃いしていた。山が掘削されて左側向うにはアーバンビュー渚の高層マンションが良く見えるようになった。また、五日市港には大きな船が停泊しているのがみられた。造成機器が勢揃い
峰高陸橋付近からの平良丘陵開発地の遠望で、昨日紹介した工事ケ所が画像右端に見える部分である。後方高い山が中世の星ケ城跡で右側の低く見える山に極楽寺がある。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋でその手前には市道の平良佐方線の七尾陸橋がみられる。カメラ位置のすぐ下にはJR山陽本線が走っている。平良丘陵開発地遠望
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)各地の厳島神社⑰-弘化台厳島神社
上画像のような平良丘陵開発が行われる予定地の山々を山陽自動車道宮島サービスエリア下り線の展望所先端部からパンニング俯瞰。4枚目画像の海の向こう遠くにG7広島サミットで各国首脳が訪れた宮島が見られる。平良丘陵開発予定地俯瞰
平良丘陵開発地域への市道堂垣内広池山線のルートで可愛川の東側部分(下画像赤丸ケ所)では道路の一部が築造されていた。上画像の山方面に道路が向かうと以前紹介した旧石州街道がある所に向かう。中画像の可愛川には橋が架けられて向うの国道433号線の陽光台南交差点に接続するようになる。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
ウォーキング途中の畑の隅に珍しい磁器製の酒樽が置かれており、酒樽には「廿日市丸亀支店正宗第六号」とあった。丸亀支店とあるのはかつての家納喜酒造創業者である丸亀小六に関係があるものとみられるのである。丸亀小六は大正7年(1918)に丸亀商店、大正9年(1920)に家納喜酒造を創業している。下画像には丸亀酒場とあり丸亀支店・丸亀酒場は丸亀商店創業以前のものであろうか。「正宗」磁器製酒樽
平良丘陵開発予定地内の広池地区をウォーキングしていると道端にピラカンサの花が咲いていた。秋には赤い実がびっしりとなっているのを車での通りがかりに何年も見ていたのであるが、花が咲いているのは歩いていて初めて気が付いた。ここは開発予定地内であり赤い実がなるまでには取り除かれてしまうのではなかろうか。ピラカンサの花
本日から広島サミットが開催される。以前訪れた北海道洞爺湖畔には平成20年(2008)7月に開催された洞爺湖サミットを記念した洞爺湖サミット記念館が設けられていた。記念館内には各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が保存展示してあった。洞爺湖サミット記念館
大竹市小方の旧西国街道の苦ノ坂峠手前に残されている逓信省時代の装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡で、ケーブル心線による電話回線は通話能力が減衰するために装荷線輪をケーブル亘長1830m毎に設置したようで、「ケーブルハット」はこの装荷線輪装置を収納していた所のようである。以前に紹介した畑口橋交差点近くにあるレトロな逓信省看板は苦ノ坂の「ケーブルハット」と同じ長距離電話ケーブル関連の施設のようで、これらから長距離電話ケーブルは旧西国街道沿いに設置されたようである。(資料-東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要より)装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡
今ではあまり見ることが無い閂(かんぬき)が昨日紹介した木野厳島神社境内にある神輿庫でみられた。倉庫や物置などの大きな開口部の両開き戸や折畳み戸などの施錠のための横棒を閂というが、現在はシャッターなどが設けられて見かけることが殆どないのである。閂(かんぬき)
木野集落の後背山斜面に建立されている厳島神社で旧称は氏野大明神と称されていたようである。江戸期の地誌には「氏野社とあり瀛津姫命を祭る、境内に末社五宇あり」とある。現在一段高い所に摂社・末社の恵比須神社・天満宮・祇園神社・稲荷神社・金比羅神社・人丸神社が祀られている。各地の厳島神社⑯-木野厳島神社
小瀬川(木野川)沿いの木野集落にある木野小学校跡で平成23年(2011)3月に廃校となったようで、学校跡には体育館が残されており隣接して木野集会所が建てられている。集会所脇には昭和14年(1939)2月11日に寄付建立された二宮金次郎像と昭和51年(1976)に建立された創立百周年記念碑「創造」が残されている。小瀬川沿いぶらり-木野小学校跡
昨日紹介した宗玄寺の少し上流側の小瀬川(木野川)沿いに比較的新しい校舎の乙瀬小学校跡があった。狭い前庭には昭和62年(1987)3月に建立された開校百周年記念の乙女像が残されていた。この学校は平成13年(2001)に小瀬小学校に統合され休校していたが平成26年(2014)に廃校となったようである。小瀬川沿いぶらり-乙瀬小学校跡
小瀬川(木野川)沿いの岩国市乙瀬地区にある護念山宗玄寺の本堂に架けられている喚鐘で、銘文によると宝永3年(1706)8月2日に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。山田貞能の鋳造作品は梵鐘・喚鐘など14口の鋳造をしたことが判明している。以前に、何時の時代のことかは不明であるが当寺の梵鐘を近くの小瀬川河原で鋳造したとの話を聞いたことがある。小瀬川沿いぶらり-宗玄寺の喚鐘
神楽殿の大注連縄で出雲大社のHPによると長さ13.6メートル、重さ5.2トンとあり日本最大級の注連縄といわれている。かつて訪れた福岡県福津市にある宮地嶽神社の大注連縄(下画像)はHPによると「当神社の注連縄は直径2.6m、長さ11m、重さ3トンの日本一の大注連縄で当社のシンボルである」とある。出雲路ぶらり-出雲大社③
かつて拝殿の西側には上画像のような、神社建築の社殿が建ち並んだ境内に異彩を放った斬新な鉄筋コンクリート造の庁舎があったが現在は下画像の木造庁舎が建てられていた。旧庁舎は著名な建築家菊竹清訓氏が設計したものであるが、老朽化や耐震問題などのために建替えとなったようである。出雲路ぶらり-出雲大社②
洞雲寺本堂脇の池の中にある小祠で古くは鎮守堂と記されており、寺院の土地、境内、建物の護り神として当寺と関わりの深い厳島神社を分祀して祀ったものとみられる。江戸期の辛未紀行(文化8年-1811)に「鎮守厳島社、寺ノ左ニ有、弘安四年寄附ノ鰐口・・・」、洞雲寺誌に「鎮守堂、ひわだ葺」とあり、現在は小祠であるが江戸期には桧皮葺の堂で向拝に鰐口が吊るされていたようである。この鰐口は願主が海田庄中金屋とあるので現在の奥海田で鋳造活動をしていた中金屋が寄進したようである。洞雲寺-境内社厳島神社
昨日は「とおーんじ」の日だった。廿日市駅裏にある洞雲寺の花まつりの日であるが「とおーんじ」といっても分かる人は少ないであろう。洞雲寺の縁日は「とおーんじ」で極楽寺の縁日は「かんのんさん」、小中学生の頃は授業が早く終わっていたので小銭をにぎって行っていたものだ。かつて洞雲寺の縁日(花祭り)には山陽本線脇の参道入口から鐘楼門前までずらりと露店が並んでおり植木露店が多いのが特徴的であった。現在は門前マルシェが開催されておりかつて植木露店や一般露店がずらりと並んで賑わっていた頃を彷彿とさせる。とお-んじ
石見路から急遽コースを変えて何年ぶりであろうか久しぶりに出雲大社へ参詣のため訪れた。お参りをする八足門手前の石段下には過去に行われた発掘調査で出土した巨大な本殿跡の柱根元部分を表したマークがみられる。下画像は平成12年(2000)4月29日付の読売新聞一面で、トップ記事に巨大な柱根元部分の出土を報じている切り抜きである。出雲路ぶらり-出雲大社
上画像は大田市駅跨線橋の渡り通路の小屋組みで見たことが無いような鋼材の組み合わせの小屋組みである。下画像は江津駅跨線橋の小屋組みであり山形鋼を組み合わせてリベット接合したもので、昭和期中頃まで採用されていた工法である。大田市駅は大正4年(1915)に開業、江津駅は大正9年(1920)の開業であり、年数の隔たりは少ないのに小屋組み形状が異なっているのは昨日ふれたように大田市駅跨線橋が他所から移築されたのではないかと思われるのである。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋②
大田市駅跨線橋江津駅跨線橋JR大田市駅の跨線橋で階段登り口両側の柱や渡り廊下の柱が珍しい鋳鉄製柱で造られている。登り口の柱脚部分には「MAKERSKOBE1890」とあり明治23年(1890)に鋳造されたようであるが、当駅は大正4年(1915)に開業しているので他所から移築されたものであろうか。看板表示には帝国鉄道庁神戸工場で製造されたとあるが、帝国鉄道庁は1907年に設置されている。下段画像は以前に訪れて紹介したことがある江津駅の跨線橋で階段登り口の柱脚正面に「鉄道院」側面に「明治四十五年横河橋渠製」と鋳造文字が見られる。それ以前の英字鋳造文字のある大田市駅跨線橋柱は外国で製造されたものかも知れない。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋
島根県はアナゴの漁獲量日本一でその半分は大田市で水揚げされているようであり、久しぶりに穴子料理を食べに大田市に向かった。GW期間中メニューとなっていたが穴子丼と連れ添いは穴子天丼を食した。大雑把な配膳であったが瀬戸内ではみられないようなボリュームたっぷりの穴子料理を堪能したのである。出雲路ぶらり-大アナゴ