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クニの部屋 −北武蔵の風土記− https://blog.goo.ne.jp/kuni-furutone118/

北武蔵を中心とした歴史を紹介。地方のあまり知られていない城や古墳などを発掘します。

高鳥邦仁
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埼玉県
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埼玉県
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2006/06/13

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  • 「どうする家康」の武田勝頼のように、城攻めは内部から切り崩して攻略する?

    5月28日放送の大河ドラマ「どうする家康」は、岡崎城における内紛が描かれていました。すなわち、岡崎城陥落を目論見る武田勝頼が、同城の城兵を取り込み、内部からの切り崩しを図ります。徳川家から離反させるために密かに動いていたのは、武田家の忍びです。力攻めにするのではなく、徳川家家臣の不満をうまく突いて取り込み、内側を瓦解させて一気に叩く。この方が犠牲も少なく、家康の士気を挫くのにも有効です。忍びと言うと、黒づくめの恰好をした者たちがかなり特殊な術を使うイメージが強いかもしれませんが、情報収集や内部切り崩しを図り、味方に勝利をもたらすのも重要な仕事に数えられます。「どうする家康」が描いた岡崎城攻めは、一種の忍び合戦と見てもよいでしょう。同ドラマでは内部の切り崩しを図りましたが、実際に城に攻め入って敵を攪乱させる...「どうする家康」の武田勝頼のように、城攻めは内部から切り崩して攻略する?

  • 羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

    令和5年5月28日に開催される「羽生タイムスリップまち歩き」に参加される皆様、また残念ながら抽選から漏れてしまった皆様、このたびはご応募ありがとうございました。僭越ながら、当日は私髙鳥が講師を務めさせていただきます。一昨年、昨年に引き続くもので、羽生市観光協会による企画です。定員を大きく超える応募があったと聞いています。これも、羽生市観光協会の巧みな周知と、羽生在住・在勤の方々の意識が高いからかと思います。5月28日は、旧古利根川である会の川沿いに眠る歴史を探訪します。会の川は往古の境界線であり、戦国時代には羽生領と忍領を分ける境目でした。そのため、川に関する歴史や史跡が多い傾向があります。特に、上杉謙信が羽生城救援に駆け付けた逸話は、関東戦国史の中では比較的よく知られています。赤岩の渡しから武蔵国に入る...羽生タイムスリップまち歩き、利根川を挟んで上杉謙信と北条氏政が火花を散らした?

  • 40を過ぎてのギトギト系の食し方は?

    20代の頃は平気で食べられた脂たっぷりのラーメンも、40代も半ばになると遠慮の気持ちが働きます。食べられなくはない。でも、定期健診の数値にはね返ってくる。何も気にせず、平気の平左で暖簾をくぐっていた時代がまぶしく感じられます。本も似たことが言えるかもしれません。例えば自己啓発本。「一流」「本物」「本当の」「真の」「成功」といった言葉の頻度の高い本は、自ずと静かにページを閉じてしまいます。なぜならギラギラしているから。ラーメンで言えば、若者が好みそうな脂たっぷりのラーメンといったところでしょうか。「一流」や「本物」とは一体どういう状態のことを指すのでしょう。何をもってすれば「真」であり、「成功」なのでしょうか。この手の中には、それを年収アップや高級品の所持、はたまた「絶世の美女」と一緒にいることを「成功」と...40を過ぎてのギトギト系の食し方は?

  • 死の間際、 “武田信玄”が頼りとすべきとした武将は?

    大河ドラマ「どうする家康」で、阿部寛扮する武田信玄がこの世を去りました。魅力的に描かれていたため、信玄を失ったのはとても痛い。圧倒的強さで徳川家康を翻弄する信玄を目にすると、激戦を繰り広げた上杉謙信に自ずと想いがいきます。ドラマの中では名前は出ても、姿を見せることのない謙信。もはや話題に出ることもありませんが、不気味な存在感を放っています。信玄の宿敵は上杉謙信とよく言われます。両者の一騎討ちの逸話はあまりにも有名で、川中島にはその銅像も建っています。しのぎを削り、己の正義をもって干戈を交えた両者ですが、臨終の際にあった信玄が嫡男勝頼に遺言として伝えたのは、意外にも謙信を頼れというものでした。(前略)勝頼弓箭の取やう、輝虎と無事を仕り候へ、謙信はたけき武士なれバ、四郎わかき者にこめみする事有間敷候、其上申合...死の間際、“武田信玄”が頼りとすべきとした武将は?

  • “牧野富太郎”のようなタイプは分類できる?

    NHKの連続テレビ小説「らんまん」では、主人公の“牧野富太郎”がついに東京大学へ行きましたね。小学校中退の富太郎が東大の研究室に出入りするようになり、のちに講師を務めるようになる。東大の懐の深さを感じるとともに、今後同大学とひと悶着あることは周知のとおりです。ドラマに登場する助教授は、現時点では権威主義者として描かれています。すなわち、試験に合格もしておらず、入試すら受けたことのない富太郎に対し、能力があり、豊富な標本を手にしていたとしても一切認めようとしない。彼の目に映る富太郎は、「植物学者」でもなければ「学徒」でもなく、市井の「趣味人」なのでしょう。富太郎はそうした評価に悩んでいたようには思えませんが、社会的には逆風だったはずです。収入面でも正規ルートとは異なりますし、やがては研究室の出入りを禁じられ...“牧野富太郎”のようなタイプは分類できる?

  • 上杉謙信が羽生城へ“忍び”の指示をした? ―『戦国の城攻めと忍び』刊行のお知らせ―

    休職していた頃、多くの方にご迷惑をおかけしました。飛ばした仕事の中で、心に残っている1つに戦国の忍びに関するセミナーがあります。令和3年、埼玉県立嵐山史跡の博物館で開催された「実相忍びの者」に関連し、「戦国の忍びを考える―武蔵国での戦いをめぐって―」と題するセミナーが開かれました。企画者である学芸員の岩田明広氏からお声がかかり、羽生城に宛てた上杉謙信書状の中に忍びとみられる存在を切り口に、天正2年(1574)における同城の歴史的意義や忍びについて言及するという機会を与えられたものです。拙著『古利根川奇譚』(まつやま書房)を執筆していた頃から考えていたものとリンクしていたため、改めてそれを整理して、想いの丈をお話しするつもりでした。が、心房細動を起こし、そのまま心も不調をきたして休職。セミナーの仕事を飛ばし...上杉謙信が羽生城へ“忍び”の指示をした?―『戦国の城攻めと忍び』刊行のお知らせ―

  • 武田信玄の駿河進攻における今川家の士気は? ―薩埵山合戦―

    武田信玄が駿河の今川領へ進攻したのは、永禄11年(1568)のことだった。武田氏と今川氏は同盟国だったが、この進攻によって同盟は決裂したことによる。併せて同盟国だった北条氏も武田氏と縁を切り、これまで敵対していた上杉謙信と手を組むという離れ技へ動いていく。武田信玄による駿河進攻の理由は、今川氏真が密かに謙信と通じているというものだった。永禄3年(1560)、桶狭間で織田信長により父義元を討ち取られたあとの氏真はパッとしない。「倍返し」とは言わずとも、信長に一矢報いることができず、武田信玄に本拠地を追われ、かつて今川家の人質だった徳川家康からも攻撃を受けるからだろう。のちに、信長の前で蹴鞠を披露することもよく知られている。武田信玄の進攻を受けた氏真は、何の抵抗もせず敗走したのかといえばそうではない。薩埵山(...武田信玄の駿河進攻における今川家の士気は?―薩埵山合戦―

  • 三方ヶ原合戦後、武田信玄から非難された武将は?

    鉄は熱いうちに打てという。ここぞというときに事を起こす。「次」があるとは限らない。この好機を逃してはならない。そんなとき、事を起こさぬ人がいる。例えば戦国期の朝倉義景。いや、義景には義景の理由があったのだろうが、武田信玄はそう考えなかったらしい。元亀3年(1572)12月28日付に朝倉義景に宛てた書状の中に、「不可過御分別」と非難めいて綴っている(「伊能文書」)。よく思慮すること、これ以上のことはない、と。武田信玄が三方ヶ原で徳川家康勢を打ち破ったのは元亀3年12月22日のこと。織田信長の軍勢も援軍に駆け付けていたが少数だった。武田勢を追撃する形で出陣した徳川・織田勢は、三方ヶ原で逆に迎え討たれることになる。徳川・織田勢は敗走を余儀なくされ、家康は九死に一生を得たことはよく知られる。信玄が遠州へ出馬したの...三方ヶ原合戦後、武田信玄から非難された武将は?

  • 5月13日は羽生市の「ムジナモ講演会」の開催日です

    本日5月13日は、羽生市文化ホールで「ムジナモ講演会」が開催されます。講師は村上哲明氏。牧野標本館管理者で東京都立大学の教授です。ムジナモ自生地がある埼玉県羽生市において、NHK連続テレビ小説「らんまん」の制作・放送を記念しての講演会です。(ドラマでは、牧野博士がいよいよ東京に出てきましたね)本日は「ムジナモと牧野富太郎の植物標本」という演題で、7月22日には練馬区立牧野記念庭園の学芸員・田中純子氏を講師にお招きし、「日本のムジナモ発見者!牧野富太郎の植物研究と生涯」と題するムジナモ講演会を予定しています。田中学芸員は、5月10日放送の「英雄たちの選択」(NHKBSプレミアム)でゲストで出演されていたのを目にした方も多いのではないでしょうか。令和5年は巨星・牧野富太郎を通して、日本各地が花らんまんに彩られ...5月13日は羽生市の「ムジナモ講演会」の開催日です

  • “伏線”と“回収”は日常にある? ―拙論文のお知らせ―

    日常にも複数の伏線がある気がします。ふと目に留まったメモ書き。普段使わないノートを開いたときのことです。それは、昨年書いた論文に関するメモ書きでした。少しだけ懐かしいような、今頃出てきたような、そんな感覚を覚えます。その日の夜、自宅に帰ると「埼玉史談」(埼玉県郷土文化会)の最新号が届いていました。「あ、これか」と、思ったのは、日中のメモ書きと関係する論文が掲載された号だったからです。事前に査読を受け、掲載される連絡は受けていました。ただ、いつ発行されるのかは把握しておらず、最終校正からしばらく経っていました。いわば、日中のメモ書きは伏線。届いた「埼玉史談」は伏線の回収です。普段の日常生活の中でも、伏線と回収は意外と多くあるのかもしれません。気付かないだけで、何かの事象は未來のどこかにつながっている。現在が...“伏線”と“回収”は日常にある?―拙論文のお知らせ―

  • 三船山合戦で父を亡くした幼女の行く末は?

    合戦で父を亡くした幼女がいた。その名を“福”という。永禄10年(1567)における三船山合戦で、北条方に属した“賀藤源左衛門尉”という者が討死する。その娘が福だった。里見義弘率いる軍勢に敗北したとはいえ、北条氏政は源左衛門の「忠節」を賞賛する。同時に、父を失った福を不憫に思ったのだろうか。あるいは政治的な力が働いたのかもしれない。源左衛門の甥である“賀藤源二郎(源次郎)”に対し、賀藤家を断絶させないよう取り計らうのである。(前略)然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上相当之者、妻一跡可相続候、其間者源次郎可有手代者也(後略)すなわち、源左衛門の跡目に福を継がせようにも、あまりにも幼い。そのため、福が成人して婿をとったときに相続させることとする。それまでは、賀藤家は源二郎に任せるというものだった。か...三船山合戦で父を亡くした幼女の行く末は?

  • 岩付城主“太田氏資”の死は予期せぬものだったか? ―三船山合戦―

    千葉県の海へ行く途中、君津市を通る。三舟山は君津市と富津市をまたがった山だ。父を追放して岩付城主となった太田氏資が戦死した場所でもある。戦国乱世とはいえ、江戸湾向こうの上総国で討死することなど想像したことがあっただろうか。三船山の合戦は永禄10年(1567)に里見氏と後北条氏が衝突した戦いである。佐貫城(千葉県富津市)攻めに向かった北条氏政に太田氏資も参陣する。氏資は上杉謙信に従属する父資正を同7年に追放し、北条方の国衆として岩付城主となったばかりだった。対する里見義弘は、三船山の着陣した北条勢を黙って見過ごすわけにはいかない。三船山に向けて出陣した。数年前、第二次国府台合戦で後北条氏に大敗を喫したことは義弘の記憶に苦々しく残っていた。その合戦には太田資正の姿もあった。上杉方に属す資正は、里見氏とともに後...岩付城主“太田氏資”の死は予期せぬものだったか?―三船山合戦―

  • 文化的な場における“上杉謙信”と“織田信長”の態度は?

    永禄4年(1561)、長尾景虎(上杉謙信)は上杉憲政を報じて関東へ出陣し、鶴岡八幡宮において関東管領職を譲渡された。上杉の名跡を継ぎ、政虎と改名したのはよく知られている。関東の地域的領主たちの多くは景虎に従属したが、忠節によるものではなかった。従属の態度を示しても、内心は苦々しく思っている者も少なくなかったようである。新田次郎の『武田信玄林の巻』では、その役を忍城主成田長泰(康)に負わせている。鶴岡八幡宮での能の会における長泰の内心が描き出されており、次のように描写されている。(ばかばかしい、いったい、わかってああいうことをやっているのか)成田長康は思った。(能が)わかる筈がない、あんなばかげたことが、面白い筈がない。面白くもないのに感じ入ったような恰好をして見せるのは、いかにも、自分たちが、こういう、京...文化的な場における“上杉謙信”と“織田信長”の態度は?

  • 豊臣秀吉の軍勢に挑む北条氏勝の覚悟と悲哀は? ―山中城―

    中学時代の同級生のT君は伊豆が好きで、月に1、2回は行っているという。伊豆を舞台にした映画を観たのがきっかけらしいが、心療内科を受けている彼にとって治療の一環になっているのかもしれない。いつも通っている道に城跡を示す看板があるという。そこに何と書かれているのか思い出せず、消息を絶った同級生のようにモヤモヤしていたが、伊豆へ向かったT君からのメールで「山中城」ということが判明した。なるほど、言わずと知れた国指定の史跡である。特徴ある障子堀が現存していることがよく知られていて、その堀見たさに子どもがまだ小さいときに足を運んだのを覚えている。4月も1ヶ月を過ぎたというのに、妙に気持ちが落ち込むことがある。心とは別のところでクスリが増えた。血液と心は案外つながっているのかもしれない。すぐに伊豆へ行けそうもないから...豊臣秀吉の軍勢に挑む北条氏勝の覚悟と悲哀は?―山中城―

  • 棟札から読む織田信長の進攻を受けた社の一例

    江戸期に作成された地誌を読むと、戦国期の動乱によって荒廃した神社仏閣を改めて創建した、という記事をよく見かける。中興開基・開山者としてその名を刻む人物や僧侶がいて、歴代住職墓碑の中にひときわ立派な石塔が建っていたりする。戦国期における敵軍の進攻はすさまじく、乱妨狼藉が横行したという。家の焼失や金品の強奪のほか、田畑の作物は悉く刈り取られた。捕らわれた女性たちは売り飛ばされ、老人や子どもも容赦なくなで斬りにされた。乱妨狼藉は神社仏閣も例外ではなく、灰燼に帰すことも珍しくなかった。例えば、上洛の途にあった織田信長の軍勢は、永禄11年(1568)に近江国蒲生郡に押し入った。9月17日、同郡の醫師社への乱妨狼藉が行われたらしい。民家及び僧侶の住む家屋に火がかけられると、たちまち炎上する。その炎にあおられて、醫師社...棟札から読む織田信長の進攻を受けた社の一例

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