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石ころ(はてなBlog) https://bachan-no-1.hatenablog.com/

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。イエス・キリスト

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2025/05/26

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  • 神の豊かさを生きるための戒め(レビ記25章)

    神はモーセに、民が備えの地で豊かに生きるための戒めを与えられた。それは「豊かさを得たければ、寸暇を惜しんで働いて備えよ」と言うことではなく、「六年毎に一年間の静まる時を持て」と言う命令であった。不信仰と貪欲による貧しさからの守りのためである。 「イスラエルの子らに告げよ。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は主の安息を守らなければならない。六年間はあなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の刈り込みをして収穫をする。七年目は地の全き休みのための安息、主の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の刈り込みをしたりしてはならない。(2~4) 六年間働いて収穫を得たなら1年は…

  • 今日の歌(2025.05.29)

    薔薇散りて空は鈍色所在無し 菜を洗い鰆塩して夕を待つ 健やかなれば旨しと言わん にほんブログ村

  • 目には目を歯には歯を

    あわれみをかけてはならない。いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を。(申19: 21) 民の中から罪を取り除くために、罪の代償は同じものを差し出させよ、とある。故意に命を奪った者は命を求められ、目を傷つけた者は目を差し出すことを神は命じられた。それによってイスラエルの民を治めるためである。 神はご自分の愛するひとり子イエスの命を持って、罪のゆえに死に行く人類を滅びの死からあがなわれた。 それによって、イエスを信じるすべての人に無条件の救いが及んだのである。ご自身の定められた「いのちにはいのち」によるルールを適応されたのである。 聖なる神には、人が心の中で考えることに…

  • バリアフリー

    引っ越した家の室内は完全なバリアフリーで躓くものはない。ただ、門から玄関まで数段の階段がある。息子は「スロープにするか?」と聞いてくれたことがあったが止めた。注意深く階段を昇るほうが安全なことを知っているから。 50年前に建てた前の家は、当然トイレも和式であり、お風呂のリフォームをしたときも、日々強制的にスクワットを繰り返すことが、私に良いと思ったからそのままにした。わざわざ運動をするために、何処かに通う気などさらさら無いからである。 引っ越して二年経ったが私は和式トイレに自信があったので、出かけ先で和式を使用したとき、直ぐに立ち上げることが出来なくなっていたことに驚愕した。使わない筋肉が退化…

  • 祭司のつとめ

    キリスト者はみな神の祭司とされ、新しく生かされた霊をもって神に仕える者である。 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。(1ペテロ2:5) あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。(1ペテロ2:9) レビ記には身に欠陥の在る者は祭司となれないとある。キリスト者が神に仕える祭司とされているのは、自身の完全に拠ることではなく、イエス・キリストのあがないの完…

  • リビングウィル

    近い将来の備えとして自分の意思をはっきりと書き留め、子どもたちの負担を減らして置きたいと思った。また、苦痛を引き延ばすような延命治療によって、子や孫のための医療費を浪費したくもないから。 84歳まで生きてもう十分であり、むしろ思いのままに動けず、儘ならぬ体は重荷となり、また、世に見聞きすることのひとつ一つを、勝手に負担に思ってしんどいのである。その度に主に逃れて祈って事を忘れるようにしているけれど・・。 「何か重荷を負わせましたか」と言われたことがあった。「勘違いだったのか。座を汚していたのに過ぎなかったんだ」と自分の思い上がと知ったことがあったけれど・・、そういうものかもしれないが・・。テレ…

  • みこころ

    私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。(出エジプト33:16) キリスト者が神のみこころに叶う者であり、神の愛の中に在ることを世にどのように知らせるのか。それは、永遠のいのちの望みが、キリスト者の平安となって現れることに拠り、死におびえつつ瞬間を生きている世とは全く違う生き方となって現れることに拠る。永遠に変わることのないイエス・キリストの言葉を持つ特別な存在であることが、神の備えによって人生に現れることにある。 御国が来ます…

  • 今日の歌(2025.05.16.)

    儘ならぬ身を引きずりて生くる日に 聞くレクイエム近しきイエスよ 愛無きと棘持つ薔薇も香り立つ 1タラントを埋めず開けば にほんブログ村

  • 今日の歌(2025.05.15)

    五月晴れ庭に溢れる薔薇の香に 固きうなじを解かされ憩う 飛び出したジャガイモ一個収穫す ツルツルお肌少し青ざめ 五月晴れ三重三年目空広く 頂き物のワラビ煮ており にほんブログ村

  • サマリヤの女の伝道(ヨハネの福音書4章)

    (イエスは)ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。(3~4)一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。(7) 人目を避けて炎天下に水を汲みに来ている女は、イエスに差し上げる良いものは何も持っていなかった。女は訪れてくださったイエスに拠って育てられ、イエスの必要を満たすまでになる。それは時間をかけて学ぶことではなく霊に拠って悟ることである。 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人…

  • 老い

    5月5日 すべて人は生まれた日から死に向かって行く。そのスピードはそれぞれでも、永遠から見れば一瞬に過ぎ去る命である。 アダムが善悪知識の木の実を食べて以来、神の永遠から切り離された人の身体はわずかな間生きる命となった。しかしこのわずかな時の間に、神はキリストに拠って滅びの死から救おうと計画してくださった。 命のある間に福音を信じてキリストを受けいれた者は、死んで滅びる者ではなく、御許で永遠に生きるいのちの計画である。 このわずかな命の間は、想像もつかないほどに貴重な時間であり、創造主なる神の愛と憐みを経験するための時間なのである。神の御愛を知って応答する時、神はむざむざと愛する者を滅ぼしたり…

  • 祭壇

    神に捧げるための祭壇は、動物の血が幾重にもこびり付いて、血の匂いが充満していただろう。祭司であるアロンの子らの亜麻布は、動物を屠った血の色と、肉の匂いが染みついていただろう。それは生きようとする肉の力との戦いの場であり、肉を死に定める力仕事であったろう。 肉の力は生きようともがいて悲鳴をあげる。それゆえイエスは鞭で打たれ、人に打たれ、唾され、ののしられ、血まみれの背に十字架を担がされなければならなかった。それらは生きよとする人の肉の叫びである。 神の祭壇は、厳かでステンドグラスの光が差し込む静寂な佇まいにはなく、きよい乙女の祈りの場でもなく、肉と霊の命が激しくぶつかり合い、血と肉と汚物の匂いが…

  • 今日の歌(2025.05.02)

    新苗のバラほころびて胸躍る

  • 神から摂理を説かれたヨブの祝福

    キリストは人の罪を十字架にあがない、信じる者を十字架の血潮に洗いきよめて義とし、十字架のあがないを信じる者に神の子の身分を与えられた。 あがなってくださった罪は過去、現在、未来に至るすべての罪であり、ただ、キリストの十字架の御わざによってのみ、神の御前にキリスト者は聖であり義とされて、父なる神に受け入れられ、今、神の家族の交わりに居るのである。 それは死後のことではなく、イエス・キリストの十字架のあがないを告白して、感謝をもって礼拝した瞬間からのことであり、その関係は永遠である。 ヨブにある罪は、神にすべての裁きを委ねて安息なかったことである。神はヨブを罪に定めず神の摂理を彼に説き聞かせられた…

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