本の魅力を発信していくためのブログです。 小説を中心に、様々な書籍を2000字で紹介します。 「このブログを見ていれば、最近の文学界隈まる分かり」、そんな風に思ってもらえるよう、頑張ります。
関西在住の会社員。黙々と本を読んでいます。
夏の読書について書こうと思った。夏で読書と言えば、矢張り読書感想文である。 読書感想文に苦労した記憶はない。元々日常的に本を読む習慣があるし、その感想を纏めるのも不得意ではなかった。だが別段、好きな課題という訳ではない。何より手間がかかる。それは恐らく、学校の先生にとっても同じなのだろう。生徒も先生も幸せにならない苦行である。しかも課題図書なるものまであるのだから、妙に縛られているようで、やる気が出ない。 この課題図書というのも、果たして本気で拵えられたものであるか疑問である。確か高校の頃の課題図書リストだったと思うが、湯本香機実さんの『夏の庭 The Friends』と紫式部の『源氏物語』が…
業務連絡である。ブログタイトルを変更した。「羊を逃がすということ」という題で、これからも本の感想なりなんなりを続けていこうと思う。 なんとなく村上春樹臭のするタイトルだが、勿論由来はある。実はかねてより、かっちょいいブログタイトルを探していたのだが、つい先日、念願かなって「読書亡羊」という四字熟語に行き会ったのだ。いわゆる故事成語で、「読書に熱中して大切な羊を逃がしてしまう」ことを言うのだそうだ。そのまま「読書亡羊」としても良かったのだけれど、同名のブログがごろごろと出て来たので、「羊を逃がすということ」とした。 私は夏目漱石が好きだ。作品だけでなく、そのペンネームも冴えていると思う。漱石の本…
自慢ではないが、私は家族と仲が悪い。本当に自慢するような話ではない。 特に関係が悪いのは両親だ。理由はいろいろある。もともと夫婦仲がよくなかったとか、母親が妙な宗教に嵌っているとか、父親が旧時代的な亭主関白であるとか、学費の件で揉めたとか。もう今となっては、これだという明確な理由を指し示すことさえ出来ない。私は両親が嫌いなのだ。そして私は家を出た。 癌になったのは私の祖母だ。それと叔父。二人揃って癌になった。祖母の方は手術と抗癌剤治療を終え、ある程度は回復したようだが、叔父は今まさに入院する手前である。ステージ4で、最早手術さえもできない。 母から連絡があり、家族写真を撮ろうということになった…
書店で本を買い求めるとき、「ジャケ買い」ならぬ「表紙買い」するのは、本読みとしての密かな楽しみである。前情報に踊らされず、パッとその場のインスピレーションで本を買う。結果として外れを引く経験を何度もしたが、不思議なもので慣れてくると自分に適した本というのが外観から分かるようになる。 「なめからな社会とその敵」は、少し前に私が地元の書店で眼にした本だ。海面と空のコントラストが印象的で、タイトルの「なめらか」とは異質なイメージでありながら、色や均一性にどことなく共通項を抱えるところが面白い。見たところによると、哲学書チックな香りがぷんぷんとする。こういう本を買って、本棚の肥やしにしてしまうことが多…
https://lookback-anime.com/ 先日、「ルックバック」という映画を見た。これがもう本当に素晴らしい作品で、劇場を去った後も暫く呆然としてしまう程だった。一時間足らずの映像でここまで心揺さぶられるとは思わなかった。まさしく傑作である。 このブログは、読書に纏わる記事を主としている。ブログを介して、少しでも本に興味を抱いてもらえばというのがそのコンセプトである。そういう観点から言えば、映画の話は本筋からそれた脇道という他ないのだけれど、思うところがあったので書いてみたい。何せこの映画、見た後で無性に何かに――例えば絵や、音楽や、小説や、勿論ブログのちょっとした記事なんかに―…
フランツ・カフカについて 私が初めてフランツ・カフカに触れたのは、高校時代の話である。当時軽音楽部に所属していた私は、自分のバンドメンバーのベース担当がカフカに似ていたので、興味を持ってかの「変身」に眼を通した。 もっとも、それまでもカフカ自体はぼんやりと知っていた。中島敦の「山月記」は教科書に載っていたし(中島敦はカフカに影響を受けたと言われている)、阿部公房の「砂の女」を読んだ際には後書きでその作品とカフカとの関連が指摘されていた。 とは言え、当時の私としては、「カフカは暗い作家」くらいの認識しか持ち合わせていなかった。後味の悪いものばかりを書いている、そういうイメージである。それは当たら…
村上春樹について その昔、シェイクスピアのある戯曲を読んだ時、そこに奇妙な違和感があることに気が付いた。前半と後半で、ある登場人物の立ち回りが違い過ぎたのだ。それも特に何の説明もなく。 恐らくは、シナリオの都合上その役割を変更せざるを得なかったのだろうが、文庫版の解説では、「……右に述べた心理や性格の不明確という事も、いわば論理的な観点に立ったものに過ぎない。その圧縮された詩的表現は、説明上の曖昧を超えて、読者や見物を統一した劇的発展の中に否応なく引きずりこんで行くのである」という風に表現されていた。(新潮文庫「マクベス」の福田恆存氏解説より)。 古臭い表現であるが、私は「霊感」という言葉を思…
比喩表現というのは、技巧的にはごくごく有り触れたものである。「○○のように」、「○○みたいに」という語句は日常的に発せられるものだし、例えばこの記事のタイトルも比喩になっている。とは言え良き比喩という話になると、少々首を捻りたくなる。 そもそも比喩とは何の為にあるのだろうか? 本来は「相手にとって未知の物事を伝える際に、イメージし易いよう類似の事柄を引き合いに出す」ことを指すのだろう。だが近頃は、むしろその表現様式こそが重宝されているのではないかと思わせられる。だらだら文章を書いていると、文末が「だった」や「だろう」のように連続してしまうことが多々ある。そこに適当な比喩を落とし込んでやることで…
「何の為に本を読むの?」 しばしばそう訊かれる。困った。私には本を読む理由などないからだ。それは「何の為に靴を履くのか?」とか「何の為にコーヒーを飲むのか?」といった質問と同じで、そもそも私の生活には読書が組み込まれている。今更盲腸のように切って捨ててしまうということは出来そうにない。 高校時代の話、塾の講師がこんなことを言っていた。「小説とは他者の人生を追体験する道具だ。だから沢山小説を読んだ方が良い」。私はこの言葉に違和感があった。 もし小説が追体験の道具なら、世の中に溢れる本は私の人生とは乖離した、非日常的な空想活劇ばかりになるのではないか? 確かに、世の中にはそういう本が多い。だが全て…
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