中世大内氏の人々、ゆかりの地についてのサイトです。全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者の資格をもつミルが、公的機関の発信情報、信頼のおける書籍を参照に、自ら現地に赴いて書いています。
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三十一代・義隆の息子。陶ら家臣の叛乱により、義隆が命を落とした際、なおも逃亡しようと試みたが失敗。叛乱者に見つかって殺されたとされる。母親は小槻氏。死亡時わずかに七歳。
二十九代・政弘の三男とされる。父が帰依していた保寿寺の以参周省に師事。幼い頃から優れた漢詩文を作った逸話が知られている。のち、師匠を継いで保寿寺の住職となり、兄・義興と大内氏を支えた。
政弘の子。息子を国衙領目代とすることで、国衙のコントロールを図ろうと目論む父の意図により僧籍にあったが、還俗。家督を奪おうという企みが発覚して逃亡。大友氏を頼る。
義興の兄弟・髙弘は家督を奪おうという企みが発覚したため、九州に逃れ大友氏を頼っていた。その息子にあたると考えられている。大友毛利の合戦中に山口に侵攻。一瞬で鎮圧された。
藤原姓。大内氏配下に属して活躍したが、後に尼子氏にも属した。頭崎城主・興貞は父の弘保と不和で、そのために大内氏の攻撃を受けた。のち、義隆の「お気に入り」隆保が家督に。
義弘弟・満弘の遺児。父は義弘と内紛を起こしたが、幕府の介入で和睦するも、九州で戦死。盛見対弘茂、持世対持盛の家督争いで常に負けた側を応援。最期は逃亡して京都で自殺。
清和天皇の末裔という方々。周防国との関わりは先祖が配流されたから? 大内水軍に属して活躍したことがわかっているものの具体的事蹟は系図からはわからず。毛利家に仕えて存続。
義弘の子。叔父・盛見は家督継承者は亡兄・義弘の子と決めていたが、持世・持盛の兄弟どちらを当主に、と明確にしないまま戦死。幕府が決めた家督を持世から奪おうとして、敗死。
『意見封事十二箇条』の三善清行、鎌倉幕府の問注所執事となった京下りの輩三善康信などの末裔で太田と名乗った子孫。周防玖珂郡椙杜荘に移住し、大内氏配下に。後毛利家臣。
大内政弘 天に二物を与えられし者・雅な武家歌人にして応仁の乱最強の将
応仁の乱で上洛し、強大な軍事力で他を圧倒。帰国後は領国経営に専念。分国内の秩序を安定させ、山口には西の京と呼ばれるほどの雅な文化が花開いた。武家歌人としても著名。
右田氏からさらに分家した一族。名字の地は「陶」だが、二代弘政の時、都濃郡富田が本拠地に。代々優秀で忠義の臣を輩出し、大内家中で重きをなした。最後に謀叛人が出たが……。
藤原姓。系図については諸説あるが、鎌足まで遡れば同じこと。国司として赴任してきて、そのまま石見に土着した国兼を祖とする御神木家一族の嫡流。長らく大内氏に属した。
『萩藩諸家系図』には、清和源氏であること以外、その出自は不明と書かれている。厳島合戦で活躍した弘中隆包が圧倒的に有名だが、事蹟を残したのは彼だけではない。
桓武平氏三浦氏の庶流で、鎌倉時代からの名門。平子重経代、西国に移住。仁保を根拠地とした。大内氏家中でも重きをなしていたが、のちに毛利家に仕え、三浦姓に復した。
藤原姓。武士化した藤原氏の一類と思われ、源氏に仕えて安房国に所領を得た。その後、里見家、近江の蒲生家と主をかえ、在京中の義興に従って周防国に来たと考えられている。
桓武平氏千葉氏の庶流。先に安芸武田氏に仕え、仁保島を拠点とした警固衆だった。瀬戸内海の制海権を欲する勢力から重要視され、多くの加増を条件に味方となって活躍。叛乱者に与した後、最後は毛利家家臣となった。
十四代の子孫が「仁戸田」と名乗った一類と十七代の子・鰐石小太夫が仁戸田とも名乗った一類とがある。両者の関係は不明。謎だらけ。
十九代・弘成の子貞保を祖とする。系図上は数代で途絶え、事蹟なども不明。義興・義隆期に活躍したのは宗像氏出身で改姓した人たち。
十九代・弘成の子、弘房を祖とする一族。子孫は毛利家に仕えてその後も続いたが、毛利家臣となる直前の記録が曖昧で経緯は不明。
大内氏が史料に現われる直前期に分出した一族。それゆえにか、系図からはほとんど手がかりを得られない。子孫は毛利家臣として続いた。
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