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  • 閉じ込められた部屋(69)

    真尋が一人暮らしを始めた際、 「何かあった時のために渡しておくね」 と真尋に言われて、美和は合鍵を一つ受け取っていた。 その時に、マンションの入り口のオートロックについても、その暗証番号を書いたメモを受け取っていた。確か合鍵は物入れの一番上の引き出しに入れ、そして暗証番号のメモは手帳に挟み込んでいたはず。 真尋が一人暮らしを始めて約二年が経っていたが、それまで美和は真尋の部屋に行ったことは一度もない。 真尋の部屋に行かなければならないような用事なんてなかったし、何か連絡する必要に迫られた場合はメッセージアプリや電話で済ませていた。そもそもとしてそのような場合すら、この2年間で数えるほどしかなか…

  • 閉じ込められた部屋(68)

    男は手元の手帳に何やら書き込んだ後に、また美和を見遣る。ひどく冷たい目だった。 「一点、確認させてください」 「・・・はい」 「お母様は、真尋さんの自殺未遂の理由について、何か心当たりはありますか?」 美和は男から視線を外して、足元を見る。そのまま視線を合わせていると心を見透かされてしまいそうな、そんな怖さを感じた。 真尋が自殺未遂をした理由。 美和には、14年前のあの夜のことしか思い当たることはなかった。 だけど、そのことを警察に告げるということは、真尋の、そして美和自身の罪を告白するということでもあった。 言えるわけがなかった。 「私も、真尋がなぜあのようなことをしたのか、分からないです・…

  • 閉じ込められた部屋(67)

    8 ピンポーン。 突然チャイムの音が鳴った。 「はい」 ドアの外に声をかけながら、美和はドアノブを握る。小さくドアを開けると、玄関先に50代くらいのスーツを着た一人の男性が立っていた。 真尋が入院してから一週間が経っていた。 依然として真尋は眠り続けていた。この一週間、美和は面会のために毎日病院に通っていた。そのチャイムが鳴ったのは、午後一時すぎの自宅で、美和がちょうど外出のための準備をしていた時だった。 「警察のものですが」 男はスーツの内ポケットから黒い手帳のようなものを取り出して、美和の前に差し出した。上下に開くようなタイプの手帳となっていて、下側に「警視庁」と刻まれた記章が取り付けられ…

  • 閉じ込められた部屋(66)

    美和は、サイドボードの上に置かれたバーバリウムを見つめていた。 ピンク色のバラが透明な液体の中に浮かんでいる。 そこに、窓から差し込む日差しが当たり、きらきらと光っていた。 そのバーバリウムは、昨日、病院からの帰りに美和がデパートで買ってきたものだった。そしてつい先ほど、真尋が眠るベッドの横の、サイドボードの上に置いたのだ。これ一つあるだけで、病室に色が生まれたように感じた。 4月10日の午前中の病室は、まるで時間が止まったかのように緩やかに時間が流れていた。 美和は、バーバリウムから、ベッドの上の真尋の顔に視線を移す。4月7日の夜に病院に運び込まれた真尋は、青白い顔のままその日も眠り続けてい…

  • 閉じ込められた部屋(65)

    美和の前に座る森田医師は、やはりひどく疲れた顔をしていた。 そもそも、もともとこのような顔なのだろうか。 森田医師の顔を見て、そのような場違いなことを美和は思った。 A03診察室。その小さな部屋の中で美和は森田医師と対面するようにして座っていた。 森田医師は徐に口を開く。 「看護師から聞きました。真尋さんがいつ目覚めるのかをお知りになりたいと」 「・・・はい」 美和は首を小さく縦に振った。 「一昨日、先生は、真尋は次の日には目覚めるでしょう、とおっしゃいました。ですが、今日になっても真尋は目覚めていません。この二日間、指一本動かしているのも見ていません」 森田医師は机の上の置かれたディスプレイ…

  • 閉じ込められた部屋(64)

    結局、その日に真尋が目を覚ますことはなかった。 夕方に一度病室を訪れた森田医師は、 「明日まで様子を見てみましょう」 と美和に一言告げた後、病室を出ていった。 N大学附属病院では面会時間は18時までと決められている。17時半が訪れると、美和は、いまだに眠り続けてる真尋に 「真尋・・・、明日も来るね」 と声をかけてからその病室を後にした。 美和はその日は埼玉県の自宅に戻った。 疲れ果てた体を引きずるようにして電車を乗り継ぎ、ようやく自分の家の前にたどり着く。 「ただいま」 家の中には誰にもいないと分かっていても、いつもの習慣で小さく声に出してからドアを開けた。来ていた春物のコートをハンガーにかけ…

  • 閉じ込められた部屋(63)

    401号室の前に着く。 ドアの横の入院患者の表記を見ると、「佐藤真尋」しか書かれていない。 真尋一人の部屋だろうか。 念の為、ドアを一度ノックしてみる。 中からは何の返事も返ってこない。 美和は、 「失礼します」 と小さな声で言ってから、そのドアを開けた。 部屋には四つのベッドがあって、三つのベッドの上には誰も寝ていない。窓際のベッドの一つに、真尋が昨日の夜見た姿のままで寝ていた。 窓からは、白いカーテンの隙間を縫うようにして春の穏やかな日差しが部屋の中に差し込んでいた。 美和は音を立てず、真尋が寝るベッドに近づく。 真尋の顔を見るのが怖かった。昨日見た、死人のような青白い顔がどうしても記憶の…

  • 閉じ込められた部屋(62)

    その日は夜も遅いということもあって、病院に近くのホテルを紹介してもらって美和はそこに宿泊することにした。 次の日も、朝から真尋の面会に病院に訪れようと考えていた。 病院の受付でホテルの電話番号を聞く。 美和が自分の携帯電話でホテルに電話をかけると、 「はい、Aホテルです」 という若い女性従業員の声が受話器から聞こえた。 「一人なのですが、これから行っても泊まることはできますか」 と尋ねると、その電話先の女性は、何かを確認するような間を少しとった後に、 「おひとりさまですね。はい、大丈夫です」 と答えた。 病院の受付で地図を見せてもらいホテルまでの道順を確認すると、病院から1キロくらいの距離に位…

  • 閉じ込められた部屋(61)

    「真尋の手に触れても大丈夫ですか?」 「はい。大丈夫です。ぜひ、手を握ってあげてください」 看護師は事務的な口調で答える。 美和はベッドの上に投げ出された真尋の右手に触れる。そしてそのままその手を強く握った。真尋の右手は氷のように冷たかった。 「なんで・・・、なんでこんなことに・・・」 美和の言葉は、誰にも受け止められることもなく空気の中に霧散していく。 美和は看護師を振り返った。 「真尋はどのような具合なのでしょうか」 「そのことについてなのですが、先生が真尋さんのお母様にお話ししたいことがあるとのことです。診察室まで来てもらってもいいですか?」 「・・・わかりました」 美和は真尋の右手から…

  • 閉じ込められた部屋(60)

    7 白い看護服を着た一人の若い女性が待合室に小走りで歩いてきた。 「佐藤真尋さんのお母様はいらっしゃいますか?」 「はい、私です」 美和は右手を小さく上げて、立ち上がった。 少し遅れて真由美も立ち上がる。 「あの、私は、これで失礼します・・・」 「え?」 美和は、真由美を振り返る。 真尋を発見した時の様子を美和に話したことで自分の義務を果たしたというかのように、真由美は、 「私は、家に帰ろうと思います」 と言葉を重ねた。 待合室に掛けられた時計は午後23時を回っていた。 「もう遅い時間だけど、電車は大丈夫?」 「病院に、タクシーを呼んでもらおうと思います」 「そう・・・」 美和は両手で、真由美…

  • 閉じ込められた部屋(59)

    真由美は、真尋を発見したときの状況をぽつり、ぽつりと呟くように話した。 美和は途中で話を遮ることもなく、黙って真由美の話を聞いていた。そして真由美が話し終えると、真由美に向かって丁寧に頭を下げたあとに、 「真尋を助けていただき、ありがとうございました」 と口にした。真由美は少し困った表情を顔に浮かべ、 「いえ」 と小さく首を横に振った。 二人の間に沈黙が訪れた。 人気のない夜の病院の待合室で、もう言葉を発する者は誰もいなかった。美和は真由美と並んで、その待合室のソファーの上に座っていた。座りながら、真由美の話の中に出てきた真尋のことをずっと考えていた。どうしても気になる点があった。 「真尋・・…

  • 閉じ込められた部屋(58)

    彼女の部屋はワンルームでした。 玄関から入って右手側にキッチンがあり、左手側に浴室のドアが見えました。そして玄関の正面には、ちょっとした廊下の向こうに、厚手のカーテンが引かれた窓が目に入りました。 その窓の厚手のテーテンが夕方の外界とこの部屋を完全に分断していて、そのカーテンの隙間から差し込む夕陽だけがその部屋に微かな光を投げかけていました。 「真尋、中に入るね」 私は薄暗い部屋の奥に一言声をかけてから、靴を脱ぎました。 そして部屋に上がると、ゆっくりと玄関前の廊下を進みました。 薄暗い中に、彼女の部屋が徐々に見えてきました。 6畳の部屋の中央にはマットが敷かれていて、その上にローテーブルと、…

  • 閉じ込められた部屋(57)

    エレベーターで11階に上がると、真尋さんの部屋の前に向かいました。 そして私はドアの前に立ち、ドアの横に設けられていたチャイムのボタンを押しました。 ピンポーンという音が、部屋の中で響いているのが聞こえました。 彼女がドアを開けて、 「あれ、真由美、どうしたの?」 そんな言葉とともに、私を不思議そうに見てくる姿を期待していました。ですが、インターフォンから声が聞こえてくることはなかったし、ドアの奥からは物音一つ聞こえてきませんでした。 もう一度チャイムを押しました。やはり中からは何の物音も聞こえてくることはありませんでした。 “もしかしたら、真尋は何か急用があって実家に帰っているのだろうか。だ…

  • 閉じ込められた部屋(56)

    その日は16時までびっしりと講義が入っていました。 その間、真尋さんから返信が来ていないかと何度もスマホを確認していました。だけど、彼女からの返信は一通も来ていなかったし、そもそも私が朝に送ったメッセージには、「未読」の表示がそのまま変わらず付いていました。 彼女から返事が来ないことについて午前中は特に重くは考えていなかったのですが、その頃には “さすがにこれはおかしい” と思い始めました。 “もしかして、部屋で倒れているのではないのか” そう考えると、もう居ても立っても居られないような気持ちに襲われました。 その日は夕方からバトミントンサークルの練習が入っていたのですが、サークル仲間に、 「…

  • 閉じ込められた部屋(55)

    次の日、つまり、今日です。 私は朝から大学の講義がありました。真尋さんも私と一緒にその講義をとっていました。彼女は私とは違って、朝が早かった。いつも私が来る前に席についていて、私が教室に入ると、 「真由美」 と私に向かって小さく手を振ってくれました。私はそんな彼女を見て、そばに駆け寄り、そして彼女の横の席に座っていたのです。 だから今日も、彼女のその笑顔を予想して教室に入りました。だけど、私がその教室に入っても彼女の声は聞こえてきませんでした。 “あれ、おかしいな” 教室の入り口に立って、教室に視線を巡らせました。席は学生で半分くらい埋まっていたのですが、彼女の姿はありませんでした。 その時の…

  • 閉じ込められた部屋(54)

    美和は、以前、真尋の口から真由美という名の大学の友人がいるという話を聞いたことがあったことを思い出した。 真尋から学校の友人の話が出ることは珍しかったので、その名前を覚えていた。 「同じバトミントンサークルに入っている子で、真由美って子がいて」 真尋は、楽しげにその真由美という子のことを話した。そのように楽しげに何かを語る真尋の姿を見たのも久しぶりだった。そのことも美和の記憶の中に“真由美”の名前を刻み込むきっかけになっていた。 「真尋と同じサークルに入っている、真由美さん?」 美和のこの言葉に、真由美は少し表情を和らげて、 「はい。そうです。真尋さんと仲良くさせてもらっています」 と言葉を返…

  • 閉じ込められた部屋(53)

    美和がN大学附属病院に着いたのは、夜22時半を回っていた。 12階建ての建物は、夜の街に立ちつくす巨人のように美和の前に立っていた。もう夜も遅くなっており、その窓の半分以上はすでに灯りが消されている。 その建物の入り口に「N大学附属病院」という看板が掲示されているのを確認し、美和は玄関から中に入る。すでに診察時間は過ぎているのか、夜の病院の待合室は人もまばらだった。 自分は、どこに向かえばいいのだろう。 とりあえず受付で聞いてみるしかない。 そう思い、美和は受付で事務作業をしていた女性職員に、 「すみません」 と声をかける。 「はい。何でしょうか」 「先ほど、この病院から、私の娘が緊急搬送され…

  • 閉じ込められた部屋(52)

    N大学附属病院から、美和に突然の連絡があったのは4月7日の夜9時過ぎだった。 美和は一人の夕食を済ませ、食器を洗って後片付けをしていた。 そのとき居間の机の上に置いていた携帯電話が突然震え出した。机に振動が伝わり、ガーガーと大きな音を立てる。美和は食器洗いを中断して、手を拭いてから居間に向かう。携帯電話を手に取ると、電話がかかってきていた。 美和の携帯に電話がかかってくることは珍しかったし、携帯電話のディスプレイに見知らぬ番号が表示されている。 “こんな時間に誰だろう” と訝しく思いながら電話に出る。 「こちら、N大学附属病院です。佐藤美和さんの電話で合っていますでしょうか」 受話器から、若い…

  • 閉じ込められた部屋(51)

    美和は持ってきたバッグを開き、その中から一つの包みを取り出した。 昨日この病室を訪れた際に、この部屋の殺風景さがひどく気になっていた。 何か気分を変えてくれるようなものをこの部屋に置きたいと思った。ただし、真尋が入院しているN大学附属病院では生花のお見舞い品は禁止されている。先ほど面会の受付をした警備室の横にも、目立つように赤字で、 「感染症予防のため、当院では生花のお見舞い品は禁止となっております」 という表示がなされている。それを見て美和は、生花が駄目なら、何がいいだろうかと考えた。とりあえずまずは店に行ってみてそこで色々と見てみることにした。そして昨日の面会の帰りにそのまま駅前のデパート…

  • 閉じ込められた部屋(50)

    6 佐藤美和は、建物の正面玄関から中に入ると、待合室を真っ直ぐに抜けて警備室に向かった。 平日午前中の待合室では、順番待ちをしている高齢者が数人、座席に座っていた。その座席の前では大型のモニターが設置されていて、それぞれの受付での順番待ちの状況が表示されている。彼らは、その表示を黙って見つめていた。 美和は彼らの間をすり抜けるようにして歩いていく。 待合室を抜けて少し行くとT字路にぶつかった。その角に「警備室」という右側への矢印付きの案内板が張り出されている。その案内板を見ることもなく美和は右側に曲がる。この場所に来るのは三度目になるので、すでに道順は覚えていた。 東京都B区にある、N大学附属…

  • 閉じ込められた部屋(49)

    水は徐々に、そして確実に真尋の体を沈めていく。 そして水が真尋の首のところまできた時に、真尋の中で一つの魔物が顔を覗かせ始めた。それは必死になって真尋自身が押さえつけていたものだった。その正体を見るのが怖くて怖くてたまらなくて、だから必死になって目を逸らそうとしてきたものだった。その魔物の名前は“死”といった。 水は首を徐々に上がっていく。 首が濡れる感覚で、それが一つの冷徹な現実として真尋は感じざるを得なかった。 そして“死”というものが、本当にリアルな現実として、とうとう真尋の前に姿を現したのだ。その現実を認識した途端、狂いそうになるくらいの恐怖を感じた。 口先でいくら、 「私も父親を殺し…

  • 閉じ込められた部屋(48)

    真尋は木片を持った右手を開き、その木片を手放した。 もう真尋の中に、その木片を持ち上げる力は残っていなかった。 それは、その“バルブ”を回すことを諦めた瞬間だった。 木片は水の上に浮き上がり、水流に押し出されるように真尋から離れていく。その様子を立ち尽くしたまま見送る。“放水口”から放出される水の勢いは全く弱まることはなく、真尋の顔に飛沫を飛ばしながら流れ落ちてくる。 真尋は最後の力を振り絞るようにして水の中で重たい体を懸命に動かし、その“放水口”から離れて先ほどまでいたドアの前に戻る。そして背中をドアにつけるようにして立った。 少しでもその“放水口”から離れたかった。水の中とはいえ、何かにも…

  • 閉じ込められた部屋(47)

    手に持ったキャンパスをドアノブに叩きつけているうちに、そのキャンパスの四辺を囲うように取り付けられていた木枠が外れかかってきた。それらは釘で固定されているわけではなく、接着剤のようなもので絵に固定されていた。 真尋はドアノブに絵を叩きつけるのをやめて、その浮き上がった木枠に指をかける。そして思い切り絵から剥がした。木片は思ったよりも簡単にはがれた。右手で木片を持ってみる。それは五十センチくらいの長さをもった木片だった。 木片を取り外した絵はその場で投げ捨てた。そして再び“放水口”の下にすり足で歩み寄る。足首が完全に埋まるくらいまで水位が高くなっており、ひどく歩きづらい。 ”放水口”の下にたどり…

  • 閉じ込められた部屋(46)

    何とかして、この水を止める方法は無いのか。 真尋は水の中で足を擦るようにして、一歩、一歩、その“放水口”に近づく。 そして改めて上を見上げて天井のパネルの奥を見つめた。そこに何か水を止める手段が隠されていないか、そこに望みをかける。 開いたパネルの奥の空間に設けられた金属製の“放水口”。そこから迸るように流れ落ちる水の飛沫に隠れるように、その“放水口”の横に小さな円形のものが見えた気がした。 もしかしたら、あれはバルブなのではないのか。 それを回すことによって水を止めることができるのではないのか。 だけど、それは天井の更に奥の空間に設置されていて、どう頑張ってみても真尋の手が届く位置にはなかっ…

  • 閉じ込められた部屋(45)

    真尋はドアノブを握り、自分の体を引っ張り上げるようにして何とか立ち上がる。 服が水を含んでいて鉛のように重かった。その間も、天井から流れ落ちる水からは目を離すことはできなかった。その“放水口”から流れ落ちる水の勢いは、弱まることを知らなかった。 真尋は、必死になって今の状況を頭の中で整理しようとする。 天井のパネルの一つが突然開き、その奥に隠されていた“放水口”から突然水が放水されている。現象としては単純だった。だけどその現象の裏に隠されている意味を理解することができなかった。なぜこのような状況の中に自分がいるのか。その答えの引っ掛かりすら見つけ出すことができなかった。真尋はただ黙って、その水…

  • 閉じ込められた部屋(44)

    ぽた・・・。 「え?」 真尋は、自分の頬に何かが落ちてきたような感触を感じて、小さな声を挙げた。慌てて右手でその頬を触る。そして右手を目の前に持っていき、よく見ると、何かで濡れているかのように、部屋の電灯の光を反射して鈍く光っていた。水だろうか。 ぽた・・・。 まただ。 真尋は上を見上げる。 天井の開いたパネルの奥では、薄暗い闇の中で金属製の筒状の何かがゆらゆらと浮かんでいるように見えていた。そこから落ちてきたのだろうか。真尋はその筒の真下で、右手の手のひらを上にして広げる。 ぽた・・・、ぽた・・・。 手のひらが濡れていく。 明らかにその筒の中から水がこぼれ落ちてきているようだった。 ぽた・・…

  • 閉じ込められた部屋(43)

    突然開いた天井のパネルの奥に隠されていた、金属製の筒状の何か。 真尋は、過去に似たようなものを見た記憶があることに気づいた。 確か通っていた小学校の校舎の中だった。 必死になって思い出そうとする。 教室の前の廊下。 その廊下をまっすぐ行った先の突き当たり。 そこにその金属製の何かが設置されていた。その何かは、いつもは扉で隠されている。だけど、一度だけその扉が開くのを見たことがある。その上にはそれを説明するプレートが張り出されていた。そしてそのプレートには、“放水口”という文字が印刷されていた。 そうだ・・・、“放水口”だ・・・。 廊下の突き当たりに黄土色の金属製の箱が取り付けられていて、その箱…

  • 閉じ込められた部屋(42)

    その時だった。 ガタン。 突然、大きな音が部屋に響いた。 真尋はその音に驚き、一度大きく体を震わせる。 「何? 何の音?」 思わず声を挙げていた。 音は頭上から聞こえた気がした。視線を上に上げる。 天井は50センチ四方くらいの四角いパネルが敷き詰められたような意匠になっている。真尋が立つ位置から少し離れたところにある天井の隅で、その中の一つが揺れていた。そのパネルは回転式の扉のようになっていたようで、完全に開かれていて、壁に設けられた蝶番を中心にして行ったり来たりを繰り返している。そのパネルが開いた時の音のようだった。 真尋はしばらく固まったままその揺れる扉を見つめていた。 この扉は、なぜ突然…

  • 閉じ込められた部屋(41)

    真尋は、自分の目の前の壁に描き殴られた“全て、お前がやったんだ”という文字を隠すように、手に持った絵を再び壁に掛け直した。これ以上、その文字を見ていられなかった。 部屋は、耳が痛いくらいの静寂に満たされていた。 その静寂の中で、真尋の心の中で蘇った過去の記憶、そしてその過去の記憶が一緒に引き連れていた、心が壊れそうなくらいの悲しみと絶望が少しずつ引いていく。 真尋は冷静に、今の自分の状況を考え始めていた。 ふと、真尋は重要なことを今更ながら気づいた。 この絵には、なぜ、私の過去が描かれているのか・・・。 真尋自身すら失っていた自分の過去の記憶だった。 当然、その自分の記憶について他の誰かに話し…

  • 閉じ込められた部屋(40)

    真尋が“父が存在しなかった世界”に逃げ込んでいた中で、一方では母は、“夫が失踪した世界”を一人で息を潜めるようにして生きていた。 あの夜、母が手にして家を出たスーツケース。あのスーツケースをどこに捨ててきたのか、そして今どこにあるのか、真尋は知らない。だけど母は、あのスーツケースがいつ発見されるかに怯えながら毎日を送っていたのだと思う。あのスーツケースが発見されないことをひたすら祈りながら、今日という日を生き続けていたのと思う。 その日々は、母にとってどのような意味を持つものだったのだろうか。 “父が存在しなかった世界”を一人で生きてきた真尋には、想像することすらできなかった。 あの日を境に、…

  • 閉じ込められた部屋(39)

    母はその捜索願の中で、父は前日の土曜日に出かけたまま帰ってこない、と記載した。そして、財布などの貴重品やパスポートなどを持ち出して父は家を出た、とも記載した。 そう記載すれば父はあたかも家出をしたかのように装うことができたし、大人の行方不明者、特に事件性がない家出を疑われる行方不明者は「一般家出人」として扱われて、警察が特別に捜索に乗り出してくることはない、ということを裏で計算していた。 家に帰った母は、何か警察の捜査が入った時に自分の娘である真尋と口裏をあわせる必要があると思ったのか、提出した捜索願について詳細に真尋に説明した。 「いい、あなたの父親は、土曜日の午後に一人で出かけたの。そして…

  • 閉じ込められた部屋(38)

    5 閉じ込められた部屋の中。 壁に乱暴に掻き殴られた“全て、お前がやったんだ”という血のように赤い文字を前にして、真尋は呆然と立ち尽くしていた。 真尋は全てを思い出していた。 そうだ・・・。 全て、私がやったんだ・・・。 あの夜・・・。 私は、自分の父親を殺したんだ・・・。 真尋は後退りするように右足を一歩後ろに引く。 その時、右足に何かがぶつかった。真尋が視線を下に落とすと、先ほど床に落としてしまった絵が足元にあった。 その絵を手に取る。そして改めてその絵を見る。 絵に描かれているベッドに横たわる一人の男。そのベッドの脇に立つ、感情を失った一人の少女。 真尋はその少女の姿をなぞるように、右手…

  • 閉じ込められた部屋(37)

    母は真尋の両肩から手を離すと、すっと立ち上がった。 黙って寝室を出ていく。寝室の外で、何かを取り出しているような音が聞こえる。しばらくして、母は寝室に戻ってきた。その手にはスーツケースを持っていた。父が出張に行く際に時々使用していたものだ。押し入れの奥から取り出してきたのだろう。 母はそのスーツケースをベッドのすぐ横で開いた。 そしてベッドに近寄り、もう動かなくなった父の両脇に自分の両手を差し入れて、抱き抱えるようにして体を起こした。 真尋はその様子を黙って見つめていた。 母は感情を失ったかのように無表情で作業を続けていた。 この世界にはあまりにも辛いことが多すぎて、誰もが感情を失っていた。も…

  • 閉じ込められた部屋(36)

    「真尋、そんなところで何をしてるの?」 背後からの突然の声に、真尋は緩慢な動きで後ろを振り返る。寝室からの物音で目が覚めたのか、母が寝室の入り口に立っていた。 真尋は何も答えなかった。ただ暗闇の中で眼を光らせながら、母の姿を見つめている。 母はその真尋の様子に尋常ではない何かを感じたのか、黙ったまま寝室の中に入ってきた。そしてベッドの上のものを見た瞬間、 「ひっ」 と声にならない悲鳴をあげた。 ベッドの上では、一人の男が頭にポリ袋を被り横たわっている。全く動く気配はない。半透明のポリ袋の奥でカッと見開かれた眼がどこでもない空間を見つめている。明らかに生気を失っている。 母は右手で口を押さえるよ…

  • 閉じ込められた部屋(35)

    真尋は黙って寝室の入り口に立った。 そして中の様子を伺う。 部屋の隅にベッドが置かれていて、その上に一人の男が横になっている。会社から帰った時に着ていたワイシャツ姿のまま、毛布だけを体の上にかけていた。ときどき体を掻くような素振りをしていたが、それが終わるとまたベッドの上で動かなくなる。 それが、父の姿だった。 真尋はその入り口に五分ほど立って、父の様子を観察する。途中で目覚めでもされてしまうと、真尋の計画が失敗に終わってしまう。失敗してしまうこと自体は別に怖くは無かったけど、それでも真尋の中の冷徹な自分が、その計画を遂行させるために慎重に周りの様子を伺っていた。 深い眠りに落ちていて、起きる…

  • 閉じ込められた部屋(34)

    ビールを浴びるように飲んだ父は、そして真尋に“しつけ”をすることに疲れた父は、そのまま風呂に入ることもなく寝室に引っ込んでいった。その日は金曜日で、次の日は土曜日。父の仕事は休みだった。そのような日は、この日の夜のように父は風呂に入らずに眠ることもたびたびあった。 寝室は居間の隣に設けられていて、そこには一つのベッドが置いてある。 父はそのベッドを使って一人で眠り、そして母と真尋は居間に布団を敷いて寝ていた。いつからか、真尋の家族はそのような形で眠るようになっていた。 父が寝室に引っ込むと、母は居間のテーブルの上に残された夕食の片付けを始めた。残り物には皿にラップをして冷蔵庫に詰め込み、そして…

  • 閉じ込められた部屋(33)

    父の動きが止まった。 真尋は感情を失った目で、自分の前に立っている父を見上げる。父は赤黒い顔に、どこか残忍な笑みすら浮かべていた。 「お前、いつか逃げられると思っているんだろ」 「・・・」 「誰かが、いつかお前のことを助けてくれると思っているんだろ」 「・・・」 「お前を助けるやつなんて、誰もいないんだよ」 「・・・」 「俺から逃げられると思うなよ」 「・・・」 「いつまでもお前に付き纏ってやるからな」 「・・・」 真尋はなかば呆然としながら、父の顔を見ていた。 そして一つの事実を痛切に思い知らされていた。 どんなに、父も母も存在しない遠い未来にいる自分を想像してそこに救いを見出そうとしたとこ…

  • 閉じ込められた部屋(32)

    父の真尋に対する“しつけ”を母が知った日から、その“しつけ”は家の中では秘密でもなんでもなくなった。 それまでは小心者の父は、母が家にいない時にしかその“しつけ”をしなかったのだけど、もはや家の中では母の視線を気にすることもなくなっていた。 少しでも家で気に入らないことがあると、濁った目を真尋に向け、 「そこに立ちなさい」 と自分の前を右手で指し示す。 そして服で隠れるところをひたすら執拗に狙った。 痛みに耐えながら真尋が台所に目をやると、母はまるで居間では何も起こっていないかのように料理をしていた。その様子を見て、真尋は、 “お母さんにも、私は見捨てられたんだ・・・” と、ぽつりと思った。 …

  • 閉じ込められた部屋(31)

    その“しつけ”が終わると、父は必ず、 「このことは絶対に誰にも言うなよ」 と濁った目を真尋にぎょろりと向けながら言った。 真尋はただ黙って頷くことしかできなかった。 他に何ができただろうか。6歳の幼い真尋は、その無慈悲な現実の前に立ち向かう術を何一つ持っていなかった。できるのはただ、その現実からひたすら目を逸らして、そしてその現実が真尋の目の前から通り過ぎてくれるのを待つことだけだった。 だけど、心の中ではいつだって、 “誰か・・・、助けて・・・“ と叫び続けていた。それでも、その声にならない叫び声は誰にも届くことは無かった。 一度、その“しつけ”の最中に母が家に帰ってきたことがあった。 母は…

  • 閉じ込められた部屋(30)

    父はそれを“しつけ”と呼んだ。 その日も家で気に入らないことがあったのか、父は朝から家でビールを飲み続けていた。何が気に入らなかったのかは分からない。きっと取るに足らない些細なことだったのだと思う。 そして冷蔵庫のビールが無くなると、いつもと同じように母に赤黒い顔を向けて、 「ビールを買って来い」 と命じた。 母は財布を持って黙って家を出ていった。 狭い居間には父と真尋しかいなかった。真尋はその居間の隅に座って、目の前の時間が過ぎていくことをひたすら願っていた。だけどその日はいつもとは違い、そのまま目の前の時間が過ぎていくということは無かった。 父は、部屋の隅に座っている真尋に濁った目を向けた…

  • 閉じ込められた部屋(29)

    真尋の父親は“佐藤健太郎”という名前だった。 父は、いつも家で酒を飲んでいるような人間だった。 父がどのような仕事をしていたのか、幼かった真尋には分からない。 ただ、仕事で少しでも自分の思ったように進まないことがあったら、そして少しでも嫌なことがあったら、父はそれを全て家の中にぶつけた。小心者の父はそれを外に向けて出すことは決してしなかった。 外面だけは病的なほどに気にしていて、外では自分の感情を誰かにぶつけることなんてなかったし、感情が爆発するなんてこともなかった。必死になって“家族思いの父親”を演じていた。だから、会社の同僚などは、父のことを本当に“家族思いの父親”だといまだに思っているの…

  • 閉じ込められた部屋(28)

    目の前に広がる絶望の圧倒的な深さの前に、真尋はその正体から目をそらしそうになる。逃げ出しそうになる。その絶望の正体を知ってしまったら、自分はもう元の自分のままではいられなくなるかもしれない。そのことが死ぬほど怖かった。 それでも、私はこの絶望の正体を知らなければならない・・・。 目の前の絵を見つめたまま、真尋は心の中で呟く。 そうしないと、この閉じ込められた部屋から永遠に逃れられない。一つの確信として、真尋はそれを感じた。 絵から視線を外し、あらためて自分が立っている小さな部屋に視線をぐるりと巡らせる。この部屋には、先ほどの部屋にあった机も、そしてその机の上にあった一枚の紙も存在しない。だけど…

  • 閉じ込められた部屋(27)

    それは、先ほどの部屋と同じように6畳くらいの小さな部屋だった。 そして先ほどの部屋と同じように、ドアの右側の壁に一枚の絵が掛けられていた。それ以外には何も置かれていない。机も置かれていなかったし、その上の紙も、この部屋には存在しなかった。 真尋はゆっくりと部屋の中を歩き、絵の正面に立つ。そして改めてその絵を観察した。 絵は薄暗い部屋の中を描いていた。 その部屋の隅にある窓の外には、薄暗い森と、その背後に聳える巨大な山脈が描かれている。隣の部屋に掛けられていた絵に描かれた遠景と似ている。もしかしたら、先ほどの絵に描かれていた塔のような奇妙な建物の内側を描いているのかもしれない。 その絵の中央には…

  • 閉じ込められた部屋(26)

    真尋はゆっくりとドアに近づく。 先ほどは全く開くことがなかったドア。そのドアに設けられた鈍く光るドアノブ。 右手を持ち上げ、そのドアノブを握る。金属製のドアノブの冷たさが真尋の手のひらを通じて、体の中に流れ込んでくる。真尋はそこで一度大きく息を吐いてから、意を決してそのドアノブを握る手に力を入れた。 先ほどは全く回ることがなかったそのドアノブは、何の抵抗もなく最後まで回転した。 開いた・・・。 そのままドアを向こう側に押し込む。 ドアはぎいい、と耳障りな音を立てて真尋の前で開かれていった。 そして初めに真尋の目に飛び込んできたのは壁だった。 どういう・・・、こと・・・。 真尋は心の中で呟く。 …

  • 閉じ込められた部屋(25)

    ふと、真尋の視界に、自分の腕が映っていることに気づいた。 絵を床に置くために前に腕を伸ばしているので、それが視線に入ることはある意味では当たり前のことだった。自分の腕なので、それは絶えず自分の視界の中にある。意識していなければ、ただ当たり前のこととして意識に上ってくることもない。 だけど、その腕は赤かった。 それは、赤いニットのセーターだった。この冬が始まる前にバイト代をはたいて買った真尋のお気に入りのセーターで、大学に行くときによく着ていくものだった。この部屋で目覚めることになる前日も着ていた。当然今も着ている。 その赤さが、突然強い意志を持ったかのように真尋の目に映ったのだ。 赤・・・。 …

  • 閉じ込められた部屋(24)

    黒と赤・・・。 どちらが正解なのか・・・。 そもそもボタンを押すこと自体が正解なのかもわからない。 黒いボタンを押そうが赤いボタンを押そうが、いずれにせよ真尋の身に絶望的な何かが起こってしまうという可能性もあるのかもしれない。どちらのボタンも押さずにひたすら助けを待つ、という選択肢が正解の可能性もあるのかもしれない。 そう考えると、真尋はますますその目の前のボタンを押すことに抵抗を感じた。 だけど、このボタンは絵の後ろにわざわざ隠されていた。 真尋がその存在に気づいたのは、本当に偶然だった。このボタンの存在に気づかないという可能性も十分にあった。その一点だけをとってみても、やはりどちらか一方の…

  • 閉じ込められた部屋(23)

    真尋はゆっくりと絵に近づく。 奇妙な絵が真尋のすぐ目の前にあった。 真尋がこの部屋に閉じ込められてからどれくらい時間が経っただろうか。その部屋には時計は置かれていなかったので、真尋は時間感覚を失っていた。正確な時間は分からない。ただ、自分が目覚めてから一時間は経っているはずだ。その時間の中で、この部屋は何度も確認したし、この奇妙な絵だって十分な時間をかけて観察もした。 ある意味では、それが盲点だったのかもしれない。 真尋がまだ調べていないところ。 それは真尋の目には見えているのに、そして見えていなかった場所だった。それは、何か別のもので隠されていた場所でもあった。 絵は額に入れられることもなく…

  • 閉じ込められた部屋(22)

    真尋は行ったり来たりと歩き続けていた足を止め、部屋の中央に立ち止まる。 視線を上に上げると、奇妙な絵がその目の前にあった。 真尋は小さく首を横に振った。そして、 「そんな訳がない・・・。さすがに考えすぎだよ・・・」 自分自身に言い聞かせるように呟いた。 母が父をどうにかしたなんて、そんなことがある訳がない。そんなことはテレビの中の世界での出来事なんだ。そんなことが自分の身近に起こるなんて、ある訳がない。 きっと、母は、父の浮気か何かで離婚することになって、それを自分の娘に言いづらいだけなんだ。そしてあのスーツケースは、母が知り合いから借りていたもので、それをあの夜に返しに行っただけなんだ。 真…

  • 閉じ込められた部屋(21)

    そうだ。 あの夜、母はスーツケースを持ってどこかに出かけて行った。 そしてその早朝に母は帰ってきた。 母が家を出る時に、真尋にこぼした言葉、 「真尋。何も無かったの。何も無かったのよ。だからあなたも忘れなさい」 その言葉がまざまざと真尋の中で蘇る。 この言葉はどのような意味だったのだろうか。真尋の頭に蘇ったのは、その言葉を真尋に向かって言い放つ母の姿だけだった。その言葉がどうして母の口からこぼれ出たのか。その言葉の裏に、どのような現実が隠れているのか。真尋にはどうしても思い出せなかった。 ただ、 「何も無かった」 とわざわざ言ったのだとしたら、それは、何かがあったということなのではないのか。本…

  • 閉じ込められた部屋(20)

    真尋は奇妙な絵をじっと見つめる。 何かを思い出しそうな感覚が自分の中にあった。それと同時に、その記憶は深い海に沈み込んでいるかのように、真尋の目にはぼやけて映るだけで、その正体を捉えることができなかった。その深い海に両手を差し込んで、必死になってその記憶をつまみ上げようとしても、真尋の手は何物も掴むことができなかった。あと少しだった。あと少しで、その記憶を思い出せそうだった。それなのに・・・。 真尋は無意識のうちに歩き出す。もうじっとしていられなかった。 そして小さい部屋の中で、行ったり来たりを繰り返す。 「夜・・・。母・・・。六歳の私・・・」 呪文のようにこの言葉をひたすら呟き続けた。 「夜…

  • 閉じ込められた部屋(19)

    真尋は、高校二年生ときに自分の戸籍謄本を目にしたあの日のことをまざまざと思い出していた。 公園のゴミ箱に戸籍謄本を捨てた真尋は、そのまま自分の家に帰った。そしてあの狭苦しい家での母との生活という日常に戻ったのだ。当然、自分の戸籍謄本を見たことは母に一言だって言わなかった。 戸籍謄本で目にした父の「佐藤健太郎」という名前、そしてその下に記載された「失踪宣告」という四文字。それらについて改めて考えることもなかった。それらを目にした時に真尋の頭に浮かんだ一つのイメージ、 夜。 母。 そしてその母を見送る六歳の自分。 そのイメージの正体を自分の中で探ることもしなかった。あえて、それらから目を逸らそうと…

  • 閉じ込められた部屋(18)

    真尋の記憶の片隅に、ぼんやりとした一つのイメージが漂っていた。 夜。 母。 そしてその母を見送る六歳の自分。 だけどそのイメージは霧の奥に隠れているかのようにはっきりとした形を持っておらず、真尋はその形をとらえることはできなかった。必死になってその記憶を思い出そうとしたのだけど、どうしても思い出すことはできなかった。 頭に鈍い痛みを感じた。 私は、忘れてはならないことを忘れてしまっている・・・。 それが何なのかはわからなかった。 だけど、自分にとって、母にとって、そして真尋の記憶には存在しない父にとって重大な何かであるような気がした。その記憶を真尋は忘れてしまっている。もしそうだとしたら、その…

  • 閉じ込められた部屋(17)

    スマホでブラウザを立ち上げ、検索エンジンを呼び出す。そして「失踪宣告」という四文字を入力すると、検索結果一覧がスマホに表示された。 真尋は、その一覧の一番上に出てきたページを開いた。 それは失踪宣告に関する手続きを説明するサイトだった。そしてそのサイトの冒頭に、失踪宣告の説明として、次のような記載が掲載されていた。 “不在者(従来の住所又は居所を去り,容易に戻る見込みのない者)につき,その生死が七年間明らかでないとき(普通失踪),又は戦争,船舶の沈没,震災などの死亡の原因となる危難に遭遇しその危難が去った後その生死が一年間明らかでないとき(危難失踪)は,家庭裁判所は,申立てにより,失踪宣告をす…

  • 閉じ込められた部屋(16)

    小さく折りたたんだ状態の戸籍謄本を膝の上で丁寧に広げる。 そして真尋は戸籍謄本に目を通していく。 本籍地は、東京都K区となっている。そこは住民票で調べたので真尋はすでに知っていることだった。そしてその下には「氏名」として次のような名前が書かれていた。 佐藤健太郎。 それが真尋の父親の名前だった。初めて見る父親の名前は、真尋には全くの他人の名前にしか見えなかった。それも当たり前だった。だって、真尋の母は、自分の父親の名前すら教えてはくれなかったのだから。 「佐藤・・・健太郎・・・」 小さな声でその名前を呟いてみる。 他人行儀の響きは、それでも変わらなかった。 真尋は、その父の欄の左側には見慣れな…

  • 閉じ込められた部屋(15)

    「佐藤さん、佐藤真尋さん」 窓口から声をかけられて、真尋は自分の中で流れ続けていた思考の流れを無理やり停止させてその窓口に向かった。 「戸籍謄本はこちらになります」 女性職員は数枚の書類を真尋の前に差し出した。 「費用は450円になります」 真尋は鞄の中から財布を出して、窓口の前に450円の小銭を並べる。それと引き換えにするように目の前の書類を受け取った。そして受け取るとその内容には目を通さずにすぐに小さく折りたたんで鞄の中に入れた。自分の戸籍謄本は、人目のつかない、どこか一人のところで見たかった。そのような真尋の様子を、その女性職員はどこか訝しげな表情を浮かべながら見ていた。 真尋が自分の腕…

  • 閉じ込められた部屋(14)

    東京都K区の区役所は第一庁舎から第五庁舎まで、五つの庁舎に別れていた。 調べてみると、真尋の目的とする戸籍謄本は第二庁舎の「戸籍住民課」が窓口になるらしい。戸籍住民課の窓口は、第二庁舎の二階に設けられているとのことだった。 区役所の最寄駅であるO駅に着いたのは午後三時を回っていた。 その時間であればまだ学校も終わっていないのか、学生服姿も駅の構内にはまばらにしか見えない。真尋はO駅前に広がるA公園を通り抜け、その第二庁舎に向かった。通りを歩いているとすぐに「K区役所」という大きな表示を掲げたビルが見えてきたので、道に迷うということもなかった。 建物の入り口から中に入り、階段で二階に向かう。建物…

  • 閉じ込められた部屋(13)

    真尋はその場で住民票に記載されている自分の本籍地を確認する。 そこには、東京都K区の、真尋が一度も聞いたことのない住所が書かれていた。 そのような住所をかつて母の口から聞いた記憶は全くなかったし、自分の身の回りの書類などにそのような住所が書かれているのを一度も目にしたこともなかった。自分とその東京都K区にはどのような関係があるのか、そして母とその場所とどのような関係があるのか、真尋には全く心当たりがなかった。 真尋は住民票を小さく折りたたんで、鞄の一番下に差し込む。そして多くの人が座っている区役所の待合室を通り抜けるようにして外に出た。 家に向かう電車の中で、 “どのようにこの東京都K区に戸籍…

  • 閉じ込められた部屋(12)

    真尋の実家は埼玉県S市にあった。 大学生になって一人暮らしをするまではずっとその家で暮らしていた。家といっても小さな部屋が二つあるだけの賃貸アパートで、その家で母とそれこそ膝を寄せ合わせて、息を潜めるようにして暮らしていた。 その日、高校の午後の授業が終わると、真尋はすぐに学校を出た。 住民票をもらうためにS市にあった区役所に行こうと思っていた。その区役所は17時15分には閉庁してしまうためいちいち家に寄って私服に着替える余裕はない。仕方なく真尋は制服姿のままその区役所に向かった。 高校の最寄駅から電車に乗り、区役所がある駅で途中下車をする。その駅は近辺では比較的大きな駅となっていて、真尋と同…

  • 閉じ込められた部屋(11)

    それは、真尋が十七歳、高校二年生の時のことだった。 真尋は家から電車で30分ほど行ったところにある、県立高校に通っていた。 母子家庭であった真尋の家はそれほど裕福ではなかったけれど、それでも母は毎日一生懸命に働き、そのおかげもあって高校に通うことができていた。真尋自体も高校に上がるとバイトを始め、ささやかながら家にお金を入れるようになった。それもあって家には少しずつ余裕も出来てきた。色々な仕事を掛け持ちしていた母はその仕事の数も多少絞ることができ、夕食を二人で家で食べることも増えた。 夕食時に母は、 「学校ではどう?」 と真尋の高校生活のことについて知りたがった。真尋は作り笑いを顔に浮かべなが…

  • 閉じ込められた部屋(10)

    真尋は久しぶりに、自分の幼い頃の記憶を思い出していた。 部屋の壁にもたれかかるようにして座り、殺風景の部屋をぼんやりと見つめる。 そうだ、あの日担任から作文を返してもらって、純粋に担任の言葉を信じた私は、その作文を母に渡したのだ。いつものように仕事帰りの母は、疲れ果てた顔をして家事をしていた。真尋は、 「これ、お母さんに見せてあげてって・・・」 そう呟きながら、手元の原稿用紙を母に差し出した。 「何、これ?」 母は不思議そうな顔をして真尋を見た。 「学校でお母さんについて作文を書く授業があって、私が書いた。先生が、お母さんに見せてあげてって・・・」 母は「そう」といって、真尋からその原稿用紙を…

  • 閉じ込められた部屋(9)

    ある日、小学校の国語の授業で、自分の親をテーマに作文に書くという課題が課されたことがあった。 両親が揃っている生徒は、父親と母親、どちらかを選んで作文を書くのだが、真尋のようなシングルマザーの場合は自分の母親をテーマに選ぶしかなかった。 真尋はどのようなことを書けばいいのか困ってしまった。 色々な仕事を掛け持ちしている母はいつも家にはいなかったし、二人でどこかに出かけたという思い出もなかった。夕食は母が前もって買っておいた惣菜を電子レンジで温めて、いつも一人で食べた。母は夜の九時過ぎに家に帰ってきても、疲れた顔を隠そうともせず黙って家で家事をしていた。 特に真尋を構うということもなかった。 「…

  • 閉じ込められた部屋(8)

    真尋の母親は“佐藤美和”という名前だった。 真尋は母子家庭だった。 自分の父親がいつから家にいなかったのか。物心ついた時には父親という存在はこの家の中にはいなかったし、幼い頃の真尋もそれを不自然なものとも感じなかった。母は色々な仕事を掛け持ちしていて、自分は保育園に預けられることも多かったのだけど、それでも夜、その保育園に母が迎えに来てくれるのが何よりも待ち遠しかったし、何よりも嬉しかった。保育園のドアに現れる母の笑顔を見るだけで、自分は幸せなのだと感じられた。 ただ、小学生になって、クラスメートが自分の父親なるものの話をするのを聞いて、父親という存在がこの世界にはあるのだということを知った。…

  • 閉じ込められた部屋(7)

    真尋は再び、絵の中の奇妙な建物に視線を戻した。 窓枠の中の少女。そしてドアから出ていく女性。少女は感情を失った死人のような顔でその女性を見下ろしている。 この絵は何を意味しているのだろうか。必死になって考えてみるのだけど、何も思いつかない。煮詰まった真尋は、絵を全体的に見てみようと思って少し体を後ろに引いた。そして再びその絵の全体を視界の中に入れる。 その時だった。 「あ・・・」 真尋の頭の中で、微かな電流が流れたかのような感覚を覚えた。 私は、この絵と似た光景を、過去に見たことがある・・・。 なぜかは分からなかったけど、はっきりとそう感じたのだ。 私は、どこでそれを見たのだろう・・・。 何度…

  • 閉じ込められた部屋(6)

    壁に掛けられた奇妙な絵。 一メートル四方くらいの、この小さな部屋には不釣り合いな大きな絵だった。閉じ込められた部屋という閉鎖空間。その空間をさらに重苦しく、そして息苦しいものにしている。 真尋は顔を絵に近づけた。そして細部を観察していく。 その絵は山脈と森をバックにして、手前側に塔のような奇妙な建物が描かれている。全体として灰色と黒を基調とした陰鬱な絵だった。その建物にはいくつかの窓があった。その窓枠を蔦が絡み付いていて、その建物の古臭い印象を醸し出している。 その時、窓枠の一つに、人影が描かれていることに気づいた。 「これは・・・」 顔を近づけて確認する。 その人影は窓から少し離れているのか…

  • 閉じ込められた部屋(5)

    真尋はドアに耳をつける。 ドアの向こう側から、小さな音でもいいので何かしらの物音がしないかと聞き耳を立てる。だけど、そのドアを介してどんな音も聞こえては来なかった。ここまで無音だということは、かなりの防音対応が施されているのかもしれない。外の音が自分に聞こえないようにするためなのか、あるいは、自分の叫び声が外に聞こえないようにするためなのか。どちらにせよ、真尋にとって希望の持てる状況では無かった。 諦めて耳を離す。そして後ろを振り返った。 一度大声を出したせいか、逆に真尋は冷静になった。 部屋の中をあらためて観察する。外からは何の物音も聞こえない。それなら、この部屋の中に、今の自分が陥った状況…

  • 閉じ込められた部屋(4)

    他の可能性・・・。 例えば、真尋の記憶にある“昨日”、親友の真由美と一緒に大学から帰ってきた“昨日”が、実は昨日のことではないということはないのか。 自分の記憶にある“昨日”と今との間には一年以上の時間の隔たりがあって、自分はその間の記憶を何らかの理由で無くしただけではないのか。 だけど、もしそうだとしたら、自分の記憶にある“昨日”着ていた服装と、今の自分の服装が全く同じ点に矛盾があった。それにそもそもとして、どのようなことが自分の身に起きれば、今のような状況になり得るのか。自分に納得させるだけの説明を見つけることができなかった。 真尋は首を振る。 「駄目だ・・・」 そんな理由では自分を納得さ…

  • 閉じ込められた部屋(3)

    真尋は、机に置かれた一枚の紙を手にとった。 何の変哲もないコピー用紙のような紙に文字が印刷されている。紙を確認してみたが他に怪しいところはなく、別の文字の書き込みも見つからない。 「真実は、いつでもすぐそばにある」 声に出してその一文を読んでみる。 実際に言葉にすることによって、そこに何かの答えが見つかることを期待していた。だけど、真尋の声は閉ざされた部屋に虚しく響くだけで、何の答えも与えることもなく消えていった。 「何なの?」 紙を乱暴に机の上に戻す。そして机の前から離れて部屋の中央に立つ。 この場所はどこなのか。 なぜ自分は今、ここにいるのか。 そのヒントが他にこの部屋に隠されていないかと…

  • 閉じ込められた部屋(2)

    真尋の呟きに、誰も答えてはくれなかった。 ひどく頭が痛む。昨夜、自宅に帰った後のことを思い出そうとすると、その頭痛が邪魔をする。うまく思い出せない。ただ時間が経つにつれて、少しずつ思考がはっきりとしてくる。そして、それに伴って、自分を今取り巻く状況の異常さが徐々に深刻なものとして真尋の胸に迫ってきた。昨夜自分に何かが起きたのは確かだった。 「まず、今の状況を整理してみよう」 真尋は自分に言い聞かせるように口にする。 昨夜家に帰ったまでの記憶はある。 だけど、自宅のドアを開けた後の記憶がない。 そして起きると見知らぬ部屋に一人寝ていた。 自分の服装を確認すると、赤いニットのセーターに黒のロングス…

  • 閉じ込められた部屋(1)

    佐藤真尋が眠りから目を覚ますと、自分の顔を蛍光灯の光が照らしていることにまず気づいた。 あれ、昨夜、電気消し忘れたんだっけ? そんなことを思いながら大きく伸びをする。次に気づいたのは、自分がベッドに寝ていないということだった。壁にもたれかかるようにして座っている。座ったまま眠ったのか体の節々が痛んだ。伸びで上の伸ばした腕は、真尋の後ろの壁に当たっていた。あたりは妙に静かだった。 いつもなら、真尋の住むマンションの前の通りを走る車の音や、すぐ近くの公園の木々にとまった雀がうるさく鳴いているはずなのに、真尋の耳にはそれらの音が全く聞こえてこなかった。天井の蛍光灯からなのか、微かにジージーという低音…

  • 一つの奇跡

    プロローグ 2045年 8月7日 【仮想空間記録】 アイ、いつかこの僕の言葉が君に届く日は訪れるだろうか。分からない。それでもここで、僕の思いを僕の言葉でしゃべりたいと思う。 どんなに身近な存在だとしても、あまりにも突然にその存在を奪われることがある。そのことを初めて思い知らされたのはいつだっただろうか。きっと、あの日だったんだね。 5年前。その当時の僕は、まだ10歳だった。小学校に毎日のように通い、そして家に帰る。僕の世界は小学校と家という二つの世界しかまだなかった。僕には兄弟はいなかったけど、それでも何よりも僕を愛してくれた父さんと母さんがいた。勉強は苦手で、学校はそんなに楽しい場所ではな…

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