和美からのメッセージには「私の家と真衣の家が近い」と書かれている。和美の家と真衣の家が近いということは、真衣の家と菜摘の家が近いということでもあった。 そんな近くに真衣が日々を暮らし、学校に通っていたなんて全く知らなかった。 菜摘の実家からF高校までは五キロくらいの距離で、高校生時代の菜摘は自転車で通学していた。雨が降っている日はバスを使うこともあった。だけどその高校三年間で、通学途中に真衣の姿を見かけたことは一度もなかった。休日に近所の本屋や文房具屋に行ったときも、真衣のあの長い黒髪を眼にした記憶は全くない。だから菜摘は、真衣はもっと遠く離れたどこかで暮らし、そして学校に通学していたと思い込…
佐々木真衣は確かに高二のときに亡くなっている。 元クラスメート、そして元担任の岡本にも確かめている。複数人からの証言があり、それはもう覆らない。 もしそれが事実なのだとしたら、菜摘の部屋の前までやって来たあの白い影は誰なのか。菜摘に「佐々木真衣」の名前で「次はお前だ」というメッセージを送ってきたのは誰なのか。たちの悪い悪戯なのだと思いたかった。佐々木真衣の友人が悪趣味な悪戯をしているだけなのだと思いたかった。 だけど佐々木真衣をいじめていた首謀者である武井有加里が不審な死を遂げている以上、そのことをただの悪戯だと切り捨てることはできなかった。 きっと、あの白い影は佐々木真衣の身近にいた誰かなの…
「ううん。何でもない」 菜摘は小さく首を横に振り、取り繕うように言葉を口にする。右手をテーブルの下の隠し、震えが止まるようにと強く箸を握りしめた。顔には作り笑いを受かべながら。瑞恵はそんな菜摘の様子を、どこか訝しむような表情をして見ていた。 「もしかして、菜摘」 「何?」 「今回、突然福井に帰ってきたのは、このことが関係しているの?」 「……このことって?」 「さっき私が言った、菜摘の同級生だった子が東京で亡くなったって件」 菜摘は言葉に詰まる。 いつの間にか食卓はしんと静まり返り、瑞恵は菜摘の顔を黙って見つめている。隣からは雄一が自分の顔を見つめている視線を感じた。 佐々木真衣のこと、そして…
6 「菜摘、夕ご飯の支度ができたから、降りてきなさい」 階下から、母である瑞恵の声が聞こえた。 菜摘は「分かった」と答えて椅子から立ち上がる。部屋を出る時に電灯のスイッチを切って、階段を降りていった。 ダイニングテーブルには料理が湯気を立てて並んでいた。今日の夕食は肉じゃがとロールキャベツのようだ。両方ともに母の得意料理で、菜摘がまだ実家で暮らしていた頃は一週間に一度はそのどちらかが食卓に並んでいた。 肉じゃがは甘辛い味付けで、じゃがいもが煮崩れせずに味がしっかり染み込んでいる。隠し味に砂糖ではなく蜂蜜を使うのがポイントらしく、一人暮らしを始めてから菜摘も家で試しに作ってみたのだけど、なかなか…
菜摘は玄関口をくぐり、外に出る。 十月の秋の空は菜摘の心の中と裏腹に綺麗に晴れ渡り、午後のまだ早い時間の中、太陽の光が世界に降り注いでいた。 突然薄暗い世界から光の世界に投げ出された菜摘は、眩しくて目を細める。校舎の正面にはグラウンドが広がっており、体育の授業なのだろう、体操着を着た生徒たちがその上を黙々と走っているのが見えた。 「懐かしい……」 まだ高校を卒業して一年も経っていないのに、その青春とも言える光景がひどく昔のものに感じる。あの頃、自分の胸には未来への希望がいっぱいに詰め込まれていた。だけど今の自分は、死と恐怖の渦の中で溺れまいと必死にもがいている。このような未来が待っているなんて…
「真衣は……」 「え?」 「真衣自身は、母親がそのいじめの話をしている時に、何か口にしたのですか?」 「……いや」岡本は小さく首を横に振る。 「結局しゃべっていたのは母親だけで、佐々木は一言も口を開かなかった。ずっと顔を俯かせて、何も置かれていないこのテーブルの上をじっと見つめていた。 確かに母親からこの話を聞いた時に、少し不思議に思った。東京でいじめられていたこと、そしてそのいじめの加害者が不慮の事故で半身不随になったことは佐々木自身にとっても辛い思いでのはずだ。それを担任の私に話すのに、なぜ佐々木本人を連れてきたのか、疑問だった」 菜摘はその時の光景を頭の中で思い浮かべていた。 無表情のま…
「……注意、ですか?」 「そうだ」 菜摘はその先を促すように、岡本の顔を見つめる。 「母親は事前の約束もなく、突然学校にやってきた。私は当然、私の受け持つクラスに佐々木真衣という生徒が転入してくることは聞いていた。ただ転入試験の一つとして行われた面接では私は試験官ではなかったので佐々木本人にも会ったことはなかったし、その母親にも会ったこともなかった。転入生の登校初日に、その転入生と初めて顔を合わせるということも別に珍しいことではない。だから、その母親の突然の訪問に私は驚いた」 「……」 「事務室から職員室に連絡があって、とりあえず母親を応接室に通してもらった。私は急ぎで抱えていた他の用事をすぐ…
学校の応接室で、菜摘は岡本と向かい合う。 「真衣は、佐々木真衣は、私が高一の時に、私たちのクラスに転入してきましたよね……」 「そうだな」 「そして、高二の冬に自宅で亡くなったと聞いたのですが、それは本当でしょうか?」 まずはそのことを確かめない訳にはいかなかった。岡本は先ほどの「そうだな」よりも少し声音を抑えて、再び「そうだな」と口にする。 「真衣は、どのようにして亡くなったのか……岡本先生はご存知でしょうか?」 岡本は今度は中々答えなかった。どこか値踏みをするような目で菜摘を見ている。いきなり過去の教え子の死について質問されて、菜摘のことを不審に感じているのかもしれない。菜摘は「あ、いや……
5 菜摘は部屋の中に視線を巡らせる。 この高校に三年間通っていたが、応接室に入ったのは初めてだった。 職員室の隣に応接室が設けられているのは知っていたのだけど、菜摘が高校に通っていたときはその応接室に入る用事なんてなかった。職員室に用事があるときに時々その応接室から教師と一緒に見知らぬ大人が出入りするのを見かけることはあっても、生徒の保護者が何か相談があって学校に訪れているのだろう、と興味のない視線を向けるだけだった。 応接室は机を挟んでソファが向かい合うように置かれていた。別の教師に案内されてこの部屋に入った時にどちらの椅子に座ろうか少し迷ったが、自分が下座の席に座ったほうがいいだろうと思い…
菜摘は、ぱたんとノートを閉じる。 これ以上、真衣のむき出しの悪意を見ていられなかった。 カーテンが締め切られた薄暗い部屋。カーテンの隙間から漏れる光だけでは部屋の中を照らし切ることが出来ない。菜摘は椅子から立ち上がり、カーテンを掴む。そして思い切りそのカーテンを開いた。この薄暗い部屋の中に居続けていると、真衣の悪意の海に溺れていってしまいそうだった。 マンションのベランダ越しに、今、菜摘が立っている世界からかけ離れた世界、東京の片隅にある平和で穏やかな住宅街の街並みが見えた。先ほど声が聞こえていた子どもたちの姿は、どこにも見当たらなかった。 「私は、ただ……」 一人だけの部屋に、菜摘の言葉が零…
ノートは数学の授業を板書したもので、その冒頭にはその授業の日なのだろう、それぞれの日付が記されている。一ページ目の冒頭には『二◯二二年一月十四日(金)』と書かれていた。 二◯二二年……一月十四日……。 今が二◯二四年なので、今から二年前。その一月というと菜摘が高一の時の冬になる。つまり真衣も同じく高一だった。真衣が菜摘のクラスに転入してきたのが二◯二一年の十一月だったはずだから、転入してきてから二ヶ月ほど経った頃のものだ。 菜摘は一枚一枚ページを捲っていき、その記載内容に目を通していく。 病的と思えるくらい几帳面で丁寧な文字で、数学の数式や、その数式を説明する文章が書き込まれている。それ以外は…
そもそも、あの白い影は本当に佐々木真衣なのだろうか。 高校で真衣と同じクラスだった子にメッセージを送って確認した時は、『真衣は高二の冬に亡くなった』という返事が返ってきた。 自分も高二の時に佐々木真衣が亡くなったことを聞いた気がする。それは誰から聞いたのか。真衣のクラスメートの子から噂話の一つとして聞いたのか。それとも菜摘の担任の教師から「二年C組の佐々木真衣が昨日亡くなった」と聞いたのか。 霞がかったかのように、記憶がひどくぼやけている。 高校の時の真衣の存在は、菜摘にとって取るに足らないものだった。多くのクラスメートの中の一人に過ぎなかった。だからその記憶が曖昧だったとしても仕方のなかった…
カーテンの隙間から、秋晴れの空からの日差しが漏れている。その日差しは菜摘の座っているベッドの上にまでその手を伸ばしていた。 どうすればいいのか。今、自分は何をすればいいのか。 そのことを考えていた。このままベッドの上にいても、状況は何も変わらない。 昨夜、あの覗き穴から見た光景。その光景が菜摘にもたらした恐怖と衝撃は今でも生々しく菜摘の胸の中に巣食っていた。それでも時間が経つことで少しずつ気持ちが落ち着いていったのも事実だった。 千穂にこれまでのことをすべて話して、助けを求めるか。一人ではわからないことも、二人で考えれば何か良さそうな解決策を思いつくかもしれない。 だけど千穂は信じてくれるだろ…
俯いた格好で、あの白い影がそこには立っていた。 ドアを挟んで、菜摘とその白い影は一メートルも離れていない位置に立っている。その姿を見た途端、菜摘の体は金縛りにあってしまったかのように固まった。指一本動かせなかった。恐怖のあまりその覗き穴から目を離そうとするのだけど、離したくて離したくてたまらないのだけど、菜摘の意思に反してその目はのぞき穴を通してそのドアの外を見つめ続けていた。 マンションの通路には夜間灯が点灯していて、そのドアの前の空間を照らしている。その光を背後から受けているはずなのに、その白い影の周りだけがやけに闇の中で淀んでいた。その闇の中で、やはり公園で見たときと同じように、菜摘の高…
菜摘はしばらくベッドの上に横たわり、闇の中で目を光らせていた。 先ほどのチャイムは、自分が寝ぼけていて、夢の中のシーンを現実の世界の出来事のように勘違いしているだけなんだと必死に自分に言い聞かせていた。こんな時間に菜摘を訪れる人なんているわけがないし、深夜の二時にマンションの部屋のチャイムを鳴らすという行為に何かしら狂気じみたものを感じた。 部屋の中は静まり返り、自分の心臓の鼓動だけが聞こえる。 それから、何も起こることはなく時間だけが流れた。自分でもどれくらいの時間が経ったのかわからない。ただ、自分に「さっきのはやはり夢での出来事なんだ」と言い聞かすことができるだけの長い時間が流れたのだと思…
4 その夜は、菜摘はベッドの上でなかなか寝付くことができなかった。 どうしても殺された武井有加里のことを考えてしまう。そしてその有加里の元を訪れたという白い影のことを考えてしまう。その白い影がその数時間前に、菜摘の住むこのマンションの前に現れたのだ。 もう外に出るのも怖くて、その日は何度も何度も窓や玄関の戸締まりを確認してからベッドに入った。それなのに、常夜灯で仄かに照らされた薄暗いこの部屋の片隅にあの白い影が立っている気がして、急き立てられるかのようにして部屋の電灯を点け、そして部屋の隅々に視線を巡らせる。そこに何も立っていないことにホッとして、また電灯を消してベッドに入り込む。そのようなこ…
高校の制服姿の有加里が友達と一緒に写っている写真で、有加里の隣に立つ女性生徒の顔はモザイクで消されている。だけど菜摘はその友達の顔もはっきりと思い出すことができた。有加里とよく一緒につるんでいた女子で、そして有加里と一緒になって真衣へのいじめを執念深く続けていた。 画面に映る写真を媒介して、高校時代の記憶が次々に蘇ってくる。有加里の前で黙って俯いていた真衣の姿も、その記憶の中のシーンにははっきりと刻み込まれていた。 「なぜ……有加里が……」 無意識のうちに口から零れた菜摘の声は、ひどくかすれていた。 画面の中の女性記者は深刻そうな表情をその顔に貼り付けたまま言葉を続ける。 「マンションのエレベ…
なぜ……ここにいるの……。 なぜ……こっちを見ているの……。 眼の前で起こっている事態がうまく理解できない。 ただ、体は小刻みに震え始めていた。それは決して寒さのためだけではなかった。 菜摘はベランダの地面に落ちたシャツをそのままにして、部屋の中に飛び込むようにして戻る。窓を閉め、窓の鍵をかける。そして急いでカーテンを閉めた。あの白い影から自分に向けられた視線を一秒でも早く遮りたかった。そのままへたり込むようにして、窓に背をつけて床に座り込んだ。 菜摘の中に、ある一つの疑問が浮かび上がる。 彼女は……いつから、いたのだろう……。 この数日、菜摘の身に何も起きなかったことをいいことに、菜摘はいつ…
それから数日は、菜摘の身に何も起こることなく過ぎていった。 ただ、相変わらず夜にあの公園の前を通らないようにはしていたし、夜一人で外を出歩くことも避けるようにしていた。 大学の学園祭も迫っていたが、サークルの出し物の準備には千穂に『体調が悪いから』とメッセージを送って、あの白い影を見た日以来行くことも無かった。 千穂からは『大丈夫?』『お見舞いに行こうか?』『何か欲しい物があれば買って行くけど?』というメッセージがたびたび送られてきたが、千穂に申し訳ないと心の中で謝りつつも、『少し体がだるいだけだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ』『学園祭の準備の邪魔になってもいけないから、わざわざうちに…
三十分ほどして返信が来た。 菜摘はスマホを手に持って返信が来るのをじっと待っていたので、そのスマホが小さく震えたのにすぐ気付いた。急いでメッセージアプリを開く。そこには友達から来た次のようなメッセージが表示されていた。 『覚えているけど、どうしたの?』 菜摘はその会話ページに文字を打ち込む。 『真衣って、高一の秋に東京から福井に引っ越してきて、私たちのクラスに転入してきたんだよね?』 『そうだよ』 『今も福井にいるのかな?』 『何言ってるの? 真衣は高二の冬に亡くなってるよ』 菜摘はスマホのディスプレイに表示された『亡くなってるよ』という文字を黙って見つめる。講義室では老齢の講師が英米文学につ…
3 菜摘は自分の手元にあるノートの表紙をしばらく見つめていた。 佐々木……真衣……。 完全に忘れていた高校の時の記憶が次々に蘇ってくる。そして菜摘の胸の中に一つの疑問が頭をもたげ、それがみるみる大きくなっていくのにはそれほど時間はかからなかった。 「なぜ……真衣の数学のノートがここに……」 早朝の公園は静寂に包まれていて、犬の散歩をしていた老人はいつの間にか公園からいなくなっていた。公園の中は菜摘一人しかいない。もしかしたら、この世界には気づかないうちに自分一人しかいなくなってしまったのではないだろうか。そんな想像すらしてしまう心細い思いをかかえた自分が、そこにはいた。 もしかしたら……。 菜…
それのきっかけが何だったのか、今となっては思い出せない。 おそらくほんの些細なことだったのだろう。 クラスの中で浮いた存在になっていた真衣に最初にちょっかいを出し始めたのは武井有加里だった。有加里は菜摘とは別の中学出身だったので菜摘が所属するグループとは別のグループに所属していたのだけど、そのグループの中では中心的な生徒だった。そのグループは派手好きで交友関係も広い生徒ばかりで、クラスの中でも目立つようなグループだった。 例えば、移動教室の際に教室を出ていき自分が授業を受ける教室に一人向かう真衣を、有加里は早足で追い越し、その追い越す際にわざと自分の肩を真衣の肩にぶつけたりした。 突然後ろから…
真衣が菜摘のクラスに転入してきた日の朝、真衣の自己紹介の時に生まれた教室の中の微妙な空気。それを引きづっているかのように、始めから真衣はクラスの中で浮いた存在になっていた。 真衣自身がクラスメートに積極的に話しかけていれば、まだ違っていたのかもしれない。だけど真衣は外交的な性格というわけでもなく、自分から周りに話しかけるということも無かった。顔を少し伏せるようにして、廊下側の一番後ろの席に一人黙って座っていた。 授業中に教師に当てられたときはしゃべるのだけど、それ以外に真衣の声を教室の中で聞くことも無かった。 真衣の隣の席に座っていた菜摘も、真衣に話しかけることは無かった。菜摘には同じ中学出身…
菜摘が通っていた高校は地元福井の県立高校で、その生徒たちの大部分は同じように地元の公立中学校に通っていた生徒たちだった。菜摘もその流れに流されるように中学の友人と一緒にその県立高校を受験し、その友人たちと一緒にその高校に進学した。 地元にあるいくつかの中学から進学してきた生徒たちは同じ中学から進学してきた子たちとかたまり、すぐにグループのようなものが出来上がる。菜摘も特に意識することもなく、そのグループの一つに加わった。周りは中学のときから一緒だった子ばかり。まるで中学校生活の延長線上のように、その高校生活はスタートした。 一人の少女が菜摘のクラスに転入してきたのは、そんな高校一年の冬だった。…
菜摘が眠りから目を覚ますと、いつも見慣れている自分の部屋とは全く違った場所に自分がいることに気付いた。 ここは……どこだろう……。 白い壁に囲まれた細長い形をした狭い部屋で、妙に圧迫感がある。上半身を持ち上げ、ぼんやりとした目で部屋の中を見る。自分の足元の方に小さな机があって、その上にディスプレイが一つ置かれていた。そして左側の壁には姿見のような大きな鏡と、『ご利用案内』という文字とともに何やら細々とした文字が書かれた白いプレートが貼り付けられている。 菜摘は一瞬、自分が今どこにいるのか分からずに混乱する。 だけどすぐに昨夜のことを思い出した。深夜の公園で見た、ブランコの上に座っている白い影。…
なぜ、こんなところに……。 菜摘は大学進学の際に上京して来ており、それまでは福井に住んでいた。通っていた高校はその地元である福井にあり、東京からは遠く離れている。その高校の制服を着た女子生徒が深夜、東京のこんな公園のブランコの上に座っているわけがなかった。どう考えてもおかしかった。 菜摘は、今まで聞こえていたキーという音が聞こえなくなっていることに気付いた。ブランコを見ると、それまで微かに揺れていたそのブランコはいつの間にか静止していた。ブランコの上の白い影は足を地面に付けている。そして、俯いていた顔をゆっくりと持ち上げた。長い髪は依然としてその顔を覆い隠していて、顔は見えない。それでもこちら…
久保田菜摘は真っ暗な道を一人歩いていた。 左腕の腕時計を見る。その針は深夜一時を指している。 「もうこんな時間……」 菜摘が通っている大学の学園祭が三日後に迫っていた。テニスサークルに所属していた菜摘は学園祭の出し物であるクレープ屋の準備に追われていて、ここ数日帰宅時間が遅くなっていた。今日はその作業に熱中しているうちに時間を忘れてしまい、あやうく終電にも乗り遅れるところだった。一緒に作業をしていたサークル仲間の遠藤千穂に、 「ごめん、終電に遅れるから帰るね」 慌てて告げて、大学を飛び出してきたのだ。千穂は大学から歩いて通える場所に住んでいるのでこのような時は終電を気にしなくていい。そんな千穂…
エピローグ 眼の前に夕陽が見えた。 東京都A区の街角。その歩道の上を有希は一人歩いていた。その手には、奈緒が好きだったオレンジバラの花束を抱えている。 一ヶ月前のあの日はまだ初夏に入りかけたばかりで肌を包む熱気はまだ優しいものだったけど、もう七月の下旬となり本格的な夏が訪れていた。ニュースでは連日のように35度を超える猛暑を伝えている。天気予報を伝える女性キャスターは深刻そうな表情を顔に貼り付け、決まり文句のように「十分に水分を摂り、熱中症にはお気をつけください」とカメラに向かって語りかけていた。 熱気がまだ残る歩道の上を歩き続けていると、『たかはし工務店』の看板が見えてきた。 ここだ……。 …
そこで唐突に動画は終わった。 私はまだ心の中に漂う絶望感の中で、ディスプレイの画面を見つめていた。 「なぜ……」 私の意思とは別に、口から誰かの言葉が零れる。 なぜ有希はこのような動画を作ったのか。 そしてなぜ有希は、その動画のリンクを『すぐに見てほしい』とメールに書いて私に送ってきたのか。 その動画を作ったのが有希だということを、私は全く疑いを持たなかった。そして現実主義者の有希がこの動画を作ったという行為に、そしてその動画のリンクを私に送ってきたという行為に何かしらの意味が込められているはずだと思った。 始めの動画には、男性用ウィッグを買う私の姿が映されていた。 そして二つのめの動画には、…
動画の中で、有希と男装した私はしばらく何かを言い合っていた。 有希が私を説得するように話しかけているのだが、画面の中の自分の感情がどんどん高まっていくのが見ている私にも分かる。二人が何を巡って言い争っているのかは分からない。だけど私は、自分の心が画面の中の自分と同調していくのを感じた。二人の心はぴったりと重ね合わさり、気づくと私は画面の中の自分の中に完全に入り込んでいた。パソコンのディスプレイを見つめている自分が、画面の中の自分として眼の前の有希と相対しているような錯覚すら覚えた。 画面の中の私は黒い上着を両手で抱えるようにして持っていた。 突然、その上着の下から右手を引き抜く。その右手にはナ…
ブラウザに、そのリンク先の画面が開かれていく。 その画面に現れた先ほどとは別の動画コンテンツのタイトルには、今度は『Date: June 21. 2024』と記載されていた。 先程の動画のタイトルが『Date: June 20. 2024』、そしてこれは『Date: June 21. 2024』。私は当然、先程の動画との関連性を感じた。これも有希が作った動画に違いないと思った。 先程の動画は私の人格を否定するような動画だった。ではこの動画はどのような意図で作られたものなのか。もしかしたら、この二つの動画を見ることで初めて、有希の本当の真意が分かるような作りになっているのかもしれない。 私はもは…
メールの文面は、不思議な文面だった。 いきなりこのようなお願いをするのは、変に思われるかもしれませんが、一つだけお願いしたいことがあります。 このメールに添付するリンクのリンク先を開いて、そのリンク先の画面の内容を見てもらえないでしょうか。 すごく急いでいます。 このメールを見たら、すぐにリンク先を開いてほしいです。 有希は、このメールに添付されているリンク先を開いて、その画面を私に見てほしいと書いている。それ以上のことは何も書かれていなかった。この文面だけでは何一つはっきりしたことは分からない。 メールの中に有希の秘密が書かれていると思い込んでいた私は、肩透かしを食らったような思いで、しばら…
岡田奈緒の手記 今は6月19日の23時59分。 もうすぐ19日が終わり、20日を迎える。 私は今、自分の部屋に一人座っている。家の中は静まり返り、家族はおそらく完全に眠りの中にいるのだろう。私一人の部屋もどこまでいっても静寂に包まれていた。 だけどそれと反比例するかのように、私の心の中ではある一つの考えが、乱暴に、狂気に満ちながら吹き荒れていた。その考えはあまりに強靭で、私の力では押さえつけることが全くできなかった。ただ心の中で暴れまわるのを傍観するしかなかった。 その考えのあまりの恐ろしさに、私はそれを目の前にして戦慄していた。だけどそれ以上に、その凶暴さ、残忍さにどこか恍惚とする思いすら抱…
有希はしばらく、その文字を見つめていた。 なぜ、このようなものが私の部屋のポストに入っているのか。誰がこの封筒を、わざわざこの場所までやってきてポストに投函したのか。 目の前の現実を、自分の中でうまく把握することが出来ない。そのままポストの前で立ち尽くしていた。 そのとき、外に出かけていたマンションの住人が帰ってきたのだろう、三十代くらいの一人の男性がマンションの出入り口から入ってきた。オートロックのドアに鍵を差し入れ、ロックを解除して中に入る。そしてポストの中身を受け取りに、受け取り口に向かって歩いてきた。男は、受け取り口の片隅に立ち尽くした有希に一瞬ギョッとした目を向けたが、特に言葉を発す…
有希はその夜、どのように家に帰ったのかも憶えていなかった。 警察署を出てタクシーに乗り込んでからの記憶が飛び飛びになっている。気がつくと、真っ暗な自分の部屋の中で、デスクの前の椅子に座っていた。 奈緒が死んだ……。 だけど、私は生きている……。 なぜなのだろう……。 どうして、このような結末になったのだろう……。 真っ黒いディスプレイを見つめながら、一人そのことを考えていた。だけど、有希はその答えを見つけることは出来なかった。 ふと、エクリプスリアルムの画面を今の自分が見たとしたら、そこに何が見えるのだろう、ということが気になった。まだ私の死の映像が見えるのだろうか。それとも、それとはまた別の…
暫くの間、静寂が三人を包んでいた。 有希の背後で、藤田が立ち上がる気配を感じる。藤田は有希と奈緒にゆっくりと近付くと、すぐにポケットからスマホを取り出してどこかに電話を掛けた。 「あの……。けが人がいて……。血がすごい流れていて……。救急です……。すぐにお願いします……。え、私ですか? わたしは藤田健一といいます……。場所は東京都A区です……。目標ですか? ええと、すぐ近くに『たかはし工務店』の事務所があります……。お願いします……。すぐに来て下さい……。助けてあげて下さい……」 藤田の声はひどく震えていた。通話を終えると、スマホを握った右手をだらりと下に下ろし、有希と奈緒の二人をどこか虚ろな…
「山下さん!」 暗闇の中で突然、藤田の声が聞こえた。 私はもうすぐ死を迎えるのだろうか。だから、居もしない藤田の声が幻聴として聞こえてきたのだろうか。そんな考えが有希の頭の中をよぎる。 「山下さん!」 だけど次に聞こえたその声は、より現実的な重みと存在感をもって有希の耳を貫いた。 有希はハッとするように両目を開ける。 その目に飛び込んできたのは、両手でペティナイフを握る奈緒の姿と、その奈緒の右隣から、その両腕を掴み、彼女を必死に押さえつけようとする藤田の姿だった。 「藤田……さん……」 ひどく掠れた声が有希の口から零れた。目の前の藤田の姿を見て、有希は藤田の『作戦』のことを思い出していた。なぜ…
「離して!」 奈緒は一歩後ろに下がり、肩に置かれた有希の手を無理やり引き剥がす。 「そもそもあなたが送ってきたのだから、あなただってあの動画を見たんでしょ」 「信じてもらえないかもしれないけど、あの画面を見る人によって見える動画が違うの。だから私には私の動画を見ることができるけど、奈緒が見た動画を私には見ることはできないの」 「また、そんな嘘を言って……。私は絶対に騙されない」 「嘘じゃない!」 有希は必死に叫んでいた。なぜ自分がこんなにも必死に、目の前の、私を今から殺そうとしている相手に話しかけているのか、自分でも分からなかった。 「嘘じゃないよ……。これは本当に大切なことなの……。どんなに…
「大学四年の就職活動のときも、そうだった……」 奈緒の口調はひどく冷静で、逆にその冷静さの中に、決して揺らぐことのない憎悪が隠れているかのようだった。 「美咲は難なく、第一志望の国内大手商社である東洋トレーディングの内定を手にし、そして有希も第一志望の広告代理店、クリエイティブ・エージェンシーの内定を手にした。……だけど、私だけは第一志望の会社に落ちた。私は他に受けた会社に一つも通ることは出来なかった。私は結局、地元の小さな工場の職しか手にすることはできなかった。……その現実を目の前にして、やっぱりそうなんだって私は思った」 「……」 「美咲と有希は勝ち組で、私は負け組。まるでそれはあらかじめ…
10 有希の前に立っていたのは、奈緒だった。 男性用の短髪のカツラを被り、顎には付け髭も付けている。 その前髪の隙間から、氷のように冷たく、ナイフのように鋭く、そして人形の目のように感情を失った目で、有希のことを見ていた。 「どうして……」 有希の声はひどく震えていた。その震えを抑えようなんて全く考えなかった。ただ、目の前に広がる光景が信じられなかった。この光景が夢であればいいと思った。次の瞬間には目を覚まして、いつものベッドの上にいる自分に戻ってくれることを願った。だけど、目の前の光景がどこまでいっても現実であるということを、有希の胸の中でどくんどくんと脈打つ心臓の音が、有希に教えていた。 …
藤田が自分の右手に巻いている腕時計を見る。有希もその動きに釣られるようにしてバッグからスマホを取り出すと、スマホ画面には16時15分と表示されていた。 もう自分が殺される時間まで一時間もない。タイムリミットは確実に近づいてきており、それに合わせて、自分の背後に“死”という暗闇も一歩一歩近づいてきているのを感じる。 「もうこんな時間だ……。動画の中の男は17時10分に山下さんの前に現れるのだとしても、それ以前の時間にこの歩道に現れないとも限らない。念の為、少し早めにお互いスタンバイしておきましょう」 藤田の提案に有希は「……そうですね」と小さな声で答える。 藤田は先ほどまで身を隠していた建物と建…
ちょうどいい場所はないかと、藤田がそれらの建物に歩み寄る。そして建物やその周りを入念に調べていった。有希はそのような藤田の様子をただ黙って見ていた。やはり現場近くの二つの建物には身を隠すのに最適な場所が見つからないようで、藤田の表情は冴えない。口の中で小さく「ここも駄目か……」と呟いているのが聞こえた。 その二つの建物を諦め、その隣の“たかはし工務店”の事務所の方にゆっくりと歩み寄る。その途中、藤田の足がふいに止まった。 何事かと藤田の顔に視線を送ると、藤田は、“たかはし工務店”とその隣の建物の間の隙間を、じっと凝視していた。 「ここがいいかもしれない……」 藤田は誰にともなく口にした。 有希…
有希が今日の17時13分に殺されることになる東京都A区の街角は、A駅から歩いて20分くらいの距離にあった。 有希自身はA駅で下車するのは初めてだったが、その街角の場所は地図アプリに入力してある。A駅に向かう電車の中でもその地図アプリを開いて、現場までの道順は頭の中に入れていた。 「こちらです」 有希は改札の右手側の出口を指し示す。藤田はその手の先に視線を送ったあとに、再び視線を有希に戻して小さく頷いた。 出口を出ると、駅前のバスロータリーが見えた。バス停には学校帰りの学生と思しき制服姿の若い女性が、必死に手元のスマホを操作しながらバスが来るのを待っていた。また別のバス停では、腕時計をしきりに気…
ドリップコーヒーをカップに入れ終えると、次にトースターに食パンを入れた。 冷蔵庫からバターと蜂蜜を取り出してテーブルに並べているとトースターがチンと鳴り、パンが焼けたことを有希に知らせてくれる。焼けたパンを皿に乗せ、そしてパンの上にバターと蜂蜜を付けてから、一人だけのリビングでゆっくりと食べた。いつもはつけているテレビもその朝はつけていなくて、リビングはひどく静かだった。 それを食べ終えると、皿を洗い場に戻してから、仕事に取り掛かるために仕事用デスクに向かった。 死の予言を解除するために自分に今できることは全てした。あとは藤田の言葉を信じて、その“作戦”に賭けるしか無いのだ。だから、今は少しで…
昨日の午後、有希は藤田とスペーシアの貸し会議室で会って、エクリプスリアルムについて自分が知っていることを藤田に全て話した。 そこで藤田は未来の死の運命の正体について驚くべき仮説を口にし、「あくまでも仮説です」という言葉を付けながらも、未来の死の運命を解除するための方法を有希に話した。 それは、自分に殺意を抱く映像の中の男を、潜在意識から顕在意識に引きずり出すこと、つまり、その男が誰なのか、それを有希自身が思い出すことだった。 会議室では、有希と藤田は机とモニターを間に挟むようにして座っていた。 「その男のことを、どうしても思い出すことが出来ないのですか?」 藤田の問いかけに、有希は映像の中の男…
9 自分の顔に光があたっていることに気づいた。 まぶしくて目を細める。 カーテンの隙間から、有希に向かって朝の日差しが降り注いでいた。 目が覚めたばかりの頭はぼんやりとしていて、一瞬、自分が今どこにいるのか分からなくなる。強い不安に襲われる。もしかしたら、自分はすでに死の闇の中に落ち込んでしまっているのではないのか、そんな思いに駆られる。 ベッドの上で必死に目だけをぎょろぎょろ動かして、視線を自分の周りに巡らせる。いつも自分が仕事で使っているデスク、見慣れた水色のカーテン、毎日食事を食べているダイニングテーブル。 私の部屋だ……。 それを見て、少しだけほっとした。 有希はベッドの上で上半身を起…
思い込みという呪い……。 自己実現する未来……。 有希は、自分が立っていたはずの地面が、いつの間にか闇の中に溶けてしまったかのようにぐらぐらと揺らぎ始めているのを感じる。 その揺らぎの中で、有希は必死になって足を踏ん張り、先ほどの藤田の話の内容について考えていた。そして、今までの自分の身に起きた出来事について思い返していた。 緑翠の間の動画……。 6月4日に有希は美咲から送られてきたエクリプスリアルムのリンクを開き、一つの動画を見た。その動画では、緑翠の間を説明する一人の男性が現れ、その途中、足を取られて転んだ男性に有希が駆け寄る映像が映っていた。そのような動画を見た。だけど実際は、見た、と思…
「山下さんの目には、このブラウザの画面の中に何かが映っているのですか?」 どこか遠くから藤田の声が聞こえる。 有希は、歩道に倒れてその周りに血溜まりができていく映像の中の自分から視線を引き剥がして、正面に座る藤田の方を見る。 藤田が眉間に深い皺を刻んだままこちらを見ていた。その藤田の顔が、なぜか全く見知らぬ他人の顔のように見えた。 「はい……」 有希は掠れた声で言う。 藤田は再びモニターの方に顔を向け、その画面をじっと見つめていた。その眉間の深い皺は刻まれたままだった。 藤田は私の正気を疑っているのだろうか……。 そもそも、今の私は本当に正気だと言えるのだろうか。自分は狂っていないと、私は断言…
有希は小さく首を横に振る。 「私だって、未だに自分の身に起きていることが信じられない……。もし私が、私以外の誰かの話としてこの話を聞いたとしたら、きっと出来の悪い作り話としか思わないのだと思う。だけど、私自身がエクリプスリアルムの映像を目にして、そして自分の身に起きた様々な出来事を実際に経験したからこそ、私には、これが本当のことだと分かる。作り話でもなんでもなく、一つの現実なのだと言うことができる。たとえそれがひどく歪んだ現実だったとしても……」 閉じていたノートパソコンに両手をかけ、ディスプレイを持ち上げる。スリープ状態だったパソコンが自動的に立ち上がり、そのディスプレイには、先ほど開いてお…
藤田は、会議室の机の上ですでにノートパソコンを開いている有希を見つけて、「早いですね」と言いながら会議室に入ってきた。 入口で一度立ち止まり、部屋の様子をざっと観察する。すぐに、有希が座っている側とは反対側に歩いていく。そして背負っていたリュックサックを床の上に壁に立てかけるように置いてから、有希の前の席の椅子に座った。有希と藤田は、机とモニターを間に挟んで向かい合う形になった。 有希はノートパソコンを一度閉じ、改めて藤田の方を見る。 「突然、こんなところに呼び出してしまって、ごめんなさい」 「いえ、僕は構わないですよ」 藤田は顔の前で右手を左右に振る。 「ところで、僕に相談したいことって、仕…
奈緒が駄目なら……。 もう有希には、頼れる人として仕事仲間である藤田の顔しか思い浮かばなかった。 すぐにスマホのアドレス帳から藤田の番号を探して、電話をかける。藤田はすぐに電話に出た。 「はい、藤田です」 「山下有希です」 「ああ、山下さん。……体調は大丈夫ですか?」 「え?」 有希は藤田の問いかけに一瞬戸惑う。すぐに、昨日の午前中、体調が悪くて二、三日仕事を休むというメールを優奈と藤田宛てに送ったことを思い出した。昨日のことなのに、そのメールを送ってから今まで有希の身にあまりにたくさんのことがありすぎて、まるで遠い過去の出来事のように感じる。 「……大丈夫です。突然、仕事を休んでしまって、ご…
デスクの上の時計を見ると、もうすでに正午を回っている。 「もう……こんな時間……」 エクリプスリアルムの動画に映された男の正体を探ろうと、映像の確認に集中していたら、いつの間にか数時間が経っていた。 有希は一度大きく息を吐く。 頭の中はすでに煮詰まっている。この状態で考え続けていても、何か有効なアイデアが出るとも思えなかった。それにしっかり食べないと体がもたない。こんなときだからこそ、食事はしっかりと食べよう。 握りしめていたマウスから右手を離す。 その時ふと、昼食をとる前に、ノイズ処理をほどこした動画ファイルを保存しておこうと思った。 動画編集ソフトのメニューから“名前をつけて保存”を選択す…
次に、二人の周りの景色に視線を転じる。 画面の右側は、画面を上下に縦断する片道一車線の車道が映っており、そして左側はその車道に沿うかたちで設けられている歩道が映っている。その間の空間を、緑の街路樹が区切っていた。どこにでもありそうな街角だった。 どこかの街角なのだろうけど、やはりこのような場所に今まで行った記憶はないし、あるいは何かの映像で見たという記憶もなかった。 ディスプレイには、その見知らぬ街角の歩道の上で向かい合う、有希と男の二人の姿が映っている。 その画像を見つめながら、有希は、 “なぜ、この男はこの場所に現れたのだろう?” と思った。 有希の後ろをつけて来たのか。 だけど、有希はこ…
ディスプレイには、見知らぬ街角が映っていた。 6月18日の夜に見て、そして有希を絶望に突き落とした映像。その映像を有希は奥歯を強く噛み締めながら、じっと見つめる。 街頭防犯カメラの映像だと思われるが、一般的な防犯カメラの映像よりはよほど高解像度の映像だった。だけどそれでも映像に粗さは残っていて、被写体は細かいノイズで少しぼけている。 映像が始まって二分後に、道路脇の歩道を下の方から歩いてくる有希の姿が画面に現れる。画面の中の有希は、その歩道を少し歩いたところで立ち止まり、何かを考え込むように顔を伏せる。 そして映像が始まって五分後に、画面の上から一人の男が現れた。 有希は動画を停止させる。 こ…
8 朝、目が覚めると、有希はしばらくベッドの上で体を動かすこともなく佇んでいた。 窓からは朝日が差し込み、ベッドの端にまでその手を伸ばしている。 自分は、まだ生きている……。 あらためて、そのことを一つの実感として感じる。久し振りに睡眠をとった頭の中は、まだ霞がかかったようにぼんやりとしていた。 むっくりとベッドの上で身体を起こす。 デスクの上の時計に視線を送ると、時計の針は7時13分を指している。昨夜は20時過ぎにベッドに入ったはずだから、10時間近く眠ったことになる。このような状況の中で、自分が10時間も眠れたことに驚いた。 視線は時計を通り過ぎ、その隣に置かれた卓上カレンダーに流れる。 …
「これでよかったんだ……こうするしかなかったんだ……」 有希は必死に自分自身に言い聞かせる。 そうでもしていないと、自分自身を保つことが出来ない気がした。そう自分に言い聞かせ続けていないと、心がばらばらに砕け散って、もう二度と元に戻らない気がした。 「私の命を救うためには、他に選択肢なんて無かったんだ……」 デスクの上に、水滴が一つ落ちた。 「これでよかったんだ……」 有希の両目に涙が溢れ、ぽろぽろと零れ落ちていく。 「こうするしかなかったんだ……」 本当に? 「他に選択肢なんて無かったんだ……」 本当に、そうなの……? 「これで……」 いい訳がない……。こんなこと、絶対に間違っている……。 …
もし、この考えが正しいのだとしたら……。 自分もこのエクリプスリアルムのリンクを誰かに送って、そして死のタイムリミットである6月21日の17時13分までにリンク先の画面をその相手に見てもらえば、自分の死の運命は解除される。 そして、自分は救われる……。 でも……このリンクを誰に送れば良いのだろう……。 このリンクを送るということは、死の運命をその相手に送るということに他ならなかった。自分の命を救うために、その相手の命を犠牲にするということ以外の何物でもなかった。 その時有希は、美咲が嵌ることになる底の見えない暗闇に、自分も同じように嵌っていることに気付いた。 誰に送れば良いのだろうか……。 茜…
アドレスが同じということは、やはり、美咲は茜から送られてきたリンクをそのまま有希に転送したということになる。そして、美咲が見ていた画面と有希が見ていた画面は同じだったということになる。 6月4日に有希がそのリンク先の画面を開いたときは、“Date: June 18. 2024”というタイトルの動画しかそのエクリプスリアルムの画面には載っていなかった。美咲が自分の未来の死の映像を最後に見たのが5月31日。そのときは美咲自身の未来の死を予言する“Date: May 31. 2024”というタイトルの動画が載っていた。そこに何か別の動画も載っていたのだとしたら、美咲は日記にそう書いているはずだ。書い…
有希は椅子から立ち上がる。 気持ちを落ち着かせるために、コーヒーを飲もうと思った。疲労と恐怖で頭は疲れ切っていたので、少し体を動かしたかった。 キッチンに向かい、薬缶に水を入れてIHコンロの上に置く。湯が沸くまでの時間を利用して、棚の上からペーパーフィルター、ドリッパー、サーバーを取り出してテーブルの上に並べる。そしてドリッパーの上にペーパーフィルターをセットして、その中に有希がお気に入りのK社製のコーヒー粉を入れた。 薬缶の湯が沸くと、その薬缶をつまみ上げてペーパーフィルターの中に湯を注ぎ込んだ。三回に分けて湯を入れ終えると薬缶をIHコンロの上に戻し、有希はダイニングテーブルの前の椅子に座っ…
「有希」 5月31日 16時13分 美咲からのメールを受信する。しかし、他の仕事関連のメールの中に紛れてしまい、メールの存在に気付かなかった。 6月1日 20時過ぎ 明子から電話がかかってきて、美咲が事故で亡くなったことを告げられる。 6月4日 22時過ぎ 5月31日の日付で美咲から一通のメールが来ていたことに気づく。 メールに添付されていたリンクを開くとエクリプスリアルムの画面が開き、そこで“Date: June 18. 2024”というタイトルが付けられた動画を見つける。その動画を再生させると、どこかの旅館で撮ったと思われる映像が流れ、その映像の最後に有希自身が映る。 6月18日 13時 …
7 “たとえ最低の人間になったとしても、それでも私は生きたかった。” 美咲の日記は、震えるような文字で書かれたこの言葉で終わっていた。 有希は、美咲の日記をデスクの上に置く。 半ば呆然としながら無意識に視線を持ち上げると、その視線の先に窓の外の光景が見えた。 6月の午後の穏やかな日差しに包まれた平和な住宅街が広がっている。その街路を母親と小さい娘の親子連れが、手をつなぎながら歩いていた。この家に帰った時はまだ高かった日は、だいぶ下の位置に移動している。その日の高さが、この日記を読んでいた時間の流れを有希に教えていた。 このノートの中には、5月21日から5月31日までに美咲の身に何が起こったのか…
5月31日(金) 今日、母と二人で夕食を食べた。 私はいつも自分が座っている席に座り、目の前にはダイニングテーブルを挟んで、仕事から帰って夕食の準備をしてくれた母が座っている。私は何の言葉を発することもなく、黙々と目の前の食事を食べていた。 母も何も言わなかった。だけど、私に向けてくるその視線の中に、私に対する心配や疑問が滲んでいるのは痛いくらい分かった。それでも私は黙って食べ続けていた。 これが母と食べる最後の食事かも知れない……。 そんな不安が心のなかに忍び込んで来る。 だけどその度に、”いや、きっと大丈夫。あの方法で私は助かるはず”と、必死に自分自身に言い聞かせていた。 夕食も終わろうと…
5月30日(木) 今は、5月30日の深夜1時。 0時を超えてしまったので、実際の日付としては5月31日となる。私の事故が予言されている日だ。 私は、とうとう見つけた。 自分の未来の死の映像、その死の運命から逃れるための方法をずっと探していた。ちょっとした手がかりでもいいから、今日は一日中ずっと自分の部屋に籠もってそれを必死になって探し続けていた。 そしてついさっき、私はその未来の死の映像について書かれたと思われるサイトを偶然見つけたのだ。 それは、英語で書かれた個人記事のようなサイトだった。 サイトの一番上には、その記事のタイトルとして“How to avoid one’s predeterm…
私は「仕事中、ごめんね」と言って、電話を切った。 茜本人に、彼女が送ってきたメッセージについて確認する、という手段を絶たれてしまった私は、しばらく呆然としながら自分の椅子に座っていた。 だけど、そのまま何もせずに座っていて問題が解決するわけがなかった。何もせずに座り続けるということは、そのまま何もせずに自分の死のタイムリミットが近づいてくるということでしかなかった。 死の未来の運命から逃れる方法を、何とか自分の力で探すしか無い……。 私は自分の右手に握られたままのスマホに視線を移す。 もう、手がかりは、茜から送られてきたメッセージと、それに添付されていた一つのリンクしかなかった。 スマホで再び…
起きたら、私はベッドの上にいた。 いつの間に眠ってしまったのだろう。 前日の夜、自分がベッドに横になった記憶が無かった。まるで濃い靄に包まれているかのように、うまく思い出すことが出来ない。 自分の着ている服に目が留まる。昨夜、会社から帰った時のままの服装だ。着替えることもなくいつの間にかベッドの上で横になってしまったらしい。私はベッドの上から、目の前にあるデスクに視線を向ける。 昨夜……私は……。 その視線はデスクの上に置かれたスマホの上に止まった。 ある動画を見て……。 私はその濃い靄の奥に隠れていた、昨夜の絶望を思い出す。 そうだ、私は死ぬんだ……。 フラッシュバックのように、昨夜、あの動…
「どうしたの?」 母が尋ねてきた。 だけど、この状況について私のほうが知りたいくらいだったのだから、何も答えられる訳がなかった。私は「ううん、何でもない」小さく作り笑いを浮かべながら首を横に振った。 母は特に気にすることもなく視線をテレビに戻す。テレビでは、H通りの事故のニュースから、次のニュースに移っていた。画面の中の女性キャスターは、今度は怒ったような表情を浮かべて、政治家の政治資金問題について喋っていた。 私は母を居間に残して、自分の部屋に入った。 バッグをデスクの横において、椅子に座る。 頭の中では、茜から一週間前に送られてきたメッセージと、そして先ほど見たニュース映像のことを考えてい…
5月29日(水) 昨日、あの動画を見た時、私は絶望の底に叩き落された気がした。 これから、どうすればいいのか分からなかった。 怖くて怖くてたまらなかった。 ずっと混乱していたし、ずっと怯えていた。 その中でも私は今日一日、あの映像についてずっと考えていた。あの映像が意味しているものは何なのか。そしてその映像が映す未来から逃れるためにはどうすればいいのか。 まだ深い霧の中を彷徨っているような状態だけど、頭の中を少しでも整理するためにも、昨日、今日の二日間で私の身に起きたことをこの日記に記しておこうと思う。 昨日の夜、つまり、5月28日の夜、私は20時過ぎに会社を出た。 本社ビルの入口で、同じく家…
5月26日(日) 今日は丸一日、ずっと家の中にいた。一歩も外に出ていない。 たまにはこんな日があってもいいよね。 午前中、物入れの奥に仕舞ったままになっていたハンドメイド用の道具を取り出して、アクセサリー作りをしていた。 ハンドメイドを始めたのは社会人になってからだ。 それには、ある一人の女性との出会いが関係している。 私の隣の部署に、格好いい、それこそ“ザ・キャリアウーマン”といった感じの女性社員がいた。年齢は私の10歳くらい上だろうか。私もこのような人のようになりたいと思えるような先輩で、その先輩が私の近くを通ると、無意識のうちにその人の姿を目で追っている自分がいた。 たまたま仕事で彼女と…
5月23日(木) 今日は21時まで残業。 ここのところ付きっきりで取り組んできた一つの仕事の山場がとうとう明日やってくる。その準備に今日は一日中追われていた。 私が所属する部署は、エネルギー開発の上流分野ビジネスを扱っている。事業を展開しようとしている国のリスク、つまり、起こり得る政治動向の変化や天災、紛争、事業停止などが現実となった場合、会社にどれくらいの影響があるかなどを調査、分析して経営陣に報告を行う。そのためには営業部隊と緊密に連携して調査、分析を行う必要があって、それだけでも大変な仕事だ。 その経営陣への報告については、若手メンバーに経験を積ませようという上司の考えもあって、その大役…
6 5月21日(火) 午前中、会社で部内会議に参加していたら私のスマホが震えた。 何だろう、と思いポケットからスマホを取り出して画面を見ると、茜から一通のメッセージが来ていた。 茜とは高校の時は毎日会っていたのに、今はお互いに遠く離れてしまっていることもあってなかなか会えていない。連絡だけであれば取り合うこともできるはずだけど、物理的に距離が離れてしまうと心の距離も離れてしまったような気がして、ここ最近は連絡を取り合うこともめっきり少なくなっている。 久しぶりに「茜」の名前を目にして何事だろうと思った。だけど会議中だったので、その時はメッセージを開くこともなくスマホをポケットに戻した。 昼休み…
明子の家を出ると、有希は寄り道することもなく駅に向かった。 そのまま、自宅の最寄り駅に向かう電車に飛び乗る。 少しでも早く美咲の日記を読みたかったので、途中、喫茶店に入ってその日記を読むことも考えたのだけど、日記に何が書かれているかも分からない。もしかしたら自分が平静でいられなくなるような何かが書かれているかもしれない。それを考えると、できれば自分一人の空間の中でその日記を読みたかった。電車の中では、バッグの中から日記を取り出して読み始めたい衝動を必死に抑えながら、座席に座っていた。 平日、午前の遅い時間の電車の中は、人の姿もまばらだった。 有希の前の座席では、今日は遅めの登校なのだろうか、制…
そして、それも仕方のないことかもしれない、とも思った。 この美咲の部屋で何も手掛かりが見つからなかったら、自分一人の力でその手掛かりを探さなくてはならなくなる。広大なインターネットの海の中で、美咲が見つけたはずのその手掛かりが簡単に見つかるとも思えなかったし、何よりも有希に残された時間はあまりに少なすぎた。自分はあと二日後に、見知らぬ男にナイフで刺されて殺されてしまうのだ。焦りと絶望で、有希の心は壊れかけていた。 有希は小さく溜息を吐く。 そして、フォトフレームの中の美咲の笑顔から視線を引き剥がして、夢遊病者のような緩慢な動きで、再びドアの方に体を向ける。右手を差し出しドアノブを握る。だけどそ…
有希は美咲の部屋の中に視線を戻す。 まず始めに、デスクの上に閉じられた状態で置かれているノートパソコンが目に止まった。 これが、5月29日の夜に美咲が見ていたというノートパソコンだろうか……。 有希は静かにデスクに歩み寄る。 いけないことだと分かっていながらも、ノートパソコンを開く。ノートパソコンには電源コードは接続されたままになっていたが、電源自体は入っていなかった。有希は心の中で、“美咲、勝手にパソコンの電源を入れて、ごめんなさい”と謝りながら、その電源ボタンを押した。 ディスプレイにメーカー名が大きく表示され、パソコンが立ち上がる。 やっぱり、そうか……。 メーカー名に引き続いてディスプ…
有希は今の明子の話に、引っ掛かりを感じていた。 なぜ美咲は『どうしても行かなければならないの』と言ったのだろう。 その後、美咲は東京都T市の路上で事故に遭うことになる。もしエクリプスリアルムで見た未来の死の映像が、T市で事故に遭う映像だったのだとしたら、なぜわざわざ自分からT市に行ったのか。『どうしても行かなければならないの』とはどういう意味だったのか。そのエクリプスリアルムの映像の現場に行くこと自体に、何か別の目的があったのか。 いくら考えても、有希にはどうしても分からなった。 「……美咲は、玄関から出るときに、一度だけ私を振り返って、『全てが終わったら、ちゃんと話すから』と言いました。そし…
明子は再び、重い口を開く。 「夜7時過ぎに家に帰ると、居間の電灯は消えていました。明かりを点けて部屋の中を見ると、居間のテーブルの上は朝、私が家を出た時のままでした。それを見て、美咲はどうしたのだろうと心配になりました。美咲の部屋のドアをノックしたのですが、何も返事は返ってきませんでした。『美咲、部屋にいるの?』と声をかけても、何の言葉も返ってきません。私はますます心配になって、ドアを開けて中を覗きました……」 「……」 「部屋の電灯は点いていませんでした……」 「……」 「美咲は、自分のデスクの上のノートパソコンの画面をじっと見つめていました。薄暗い部屋の中で、ノートパソコンのディスプレイの…
「通夜式の後に私がお母様に挨拶させていただいた時に、確かお母様は私に次のようにおっしゃったかと思います。美咲さんが事故に遭うまでの三日間、美咲さんは会社を休んで自分の部屋に籠もっていたと……。これは間違いないでしょうか」 有希の質問に、明子は遠い視線を有希の後ろに送る。 三週間前のことを思い出しているのかもしれない。 有希の後ろの何かを見つめながら、明子は言葉を口にした。 「はい。間違いありません」 「……美咲さんが事故にあったのが5月31日なので、三日間ということは5月29日から会社を休んで自分の部屋で何かをしていた、ということでしょうか」 「そうなります」 有希の質問は、自分の娘を事故で亡…
5 通された居間で明子と向かい合って座った有希は、まずその明子の相貌の変化に驚いた。 通夜式であった時の明子は、確かに娘の美咲を突然事故で亡くしたショックで、暗い表情をまとっていた。それでもまだ40代後半の明子には、高校教師が身に纏うような凛とした雰囲気がどこかに残っていて、そこに何か気持ちの強さのようなものを感じることができた。 だけど、今、有希の目の前に座っている明子は全くの別人だった。 顔は土色で血色は失われ、頬は痩せこけている。三週間で人はこんなにも変わるものなのかと思った。それと同時に、明子にとって娘の美咲の存在がいかに大きかったかを物語っている気がした。 6月19日の朝、有希が自宅…
「運命を変える方法……」 美咲のメールに書かれている言葉を、無意識のうちに呟く。 そうだ。美咲のメールにははっきりとそのように書かれている。 でも、この“運命”とは、何を意味しているのか。 有希はデスクの上に肘をつき、掌の上に自分の顎を乗せる。何も無いデスクの上の虚空を見つめながら、この三週間の出来事を思い出していた。 5月31日の夜に美咲は母の明子と二人で暮らす自宅を飛び出し、その日の深夜に、自宅から遠く離れた東京都T市の路上で事故に遭った。そしてその翌日、6月1日の早朝に眠るように息を引き取った。 有希は、美咲の通夜式の場で、明子から聞いた話を思い出す。 明子の話によると、美咲は三日間、会…
どうしたら、未来の自分を救えるのか……。 駄目だ。何も思い浮かばない。 一睡もしていない有希の頭は、動きを停止してしまったようだった。このまま何もせずに、何も考えられずにベッドの上でぐずぐずしていても仕方がない。自分に残された時間は限られているのだ。 とりあえず朝食を食べよう。 そう思った有希は肩に被せた毛布から抜け出し、ベッドから這い出る。そのまま洗面所に向かった。 鏡に映った自分の顔はひどいものだった。 目は力を失って虚ろで、目の下には青黒いくまがうっすらと浮かび上がっている。こんなことでは駄目だ。有希は思い切り蛇口から水を出し、その水を両手で掬って勢いよく自分の顔に浴びせかけた。水のひん…
有希は、昨夜は結局一睡もすることができなかった。 ベッドの上で膝を抱えるようにして座り、肩から毛布を被りながら一晩中ガタガタと震え続けていた。その目は、ベッドの前の、仕事用デスクの上に置かれたディスプレイに注がれている。パソコンはとっくにスリープ状態に落ちていて、その画面には何一つ映されていない。ただの黒い画面。だけどその暗黒の画面をじっと見つめ続けていた。その暗黒の画面の上で、有希の目の中では、昨夜見たエクリプスリアルムの動画の映像が終わることなく延々と流れ続けていた。 昨夜、有希は自分の中の勇気を振り絞って、停止した動画を再生させた。 すると画面上で停止していた男が、命を吹き込まれたかのよ…
「あ!」 有希は思わず、動画表示の左下に設けられている“▶︎”ボタンをクリックしていた。再生は停止され、動画の中の時間は完全に静止する。 時間が止まった世界の中では、ナイフを右手に握った男は有希のすぐそばまで迫っていた。そしてその男に相対するように、男の右手のナイフを見つめたまま恐怖と驚愕で顔を歪ませたもう一人の有希の姿が映っていた。その歪んだ顔のまま、完全に動きを止めていた。 有希は忌まわしいものであるかのように、右手で握っていたマウスから手を離す。そのまま椅子から立ち上がっていた。キャスター付きの椅子が有希の体に押し出されるように後ろに滑っていき、ベッドに当たって止まった。 このあと、画面…
その映像は、どこかの街角から始まっていた。 画面右側に車道が、そして左側に歩道が映っている。 画面の右下には、以前見た動画と同じように、その映像が撮影されたと思われる時刻が“6/21/24 5:13:13 PM“と表示されていて、流れる時間をカウントしている。6月21日の午後5時13分を撮影している映像ということらしい。 日は少し傾きかかっていたが、それでも6月の日の長さの中で、まだ十分に辺りは明るかった。 道路には断続的に車が行き交っている。歩道は、時々リュック型のバッグを背負ったサラリーマンの姿や、バッグを肩から下げた女性の姿が歩いていたが、人通りは少なかった。 その街の景色に、有希は全く…
4 有希の視線は、“Date: June 21, 2024”の文字に釘付けになっていた。 今日は、6月18日だ。 つまり、この動画には、今日から三日後の映像が映っているということになる。 以前の有希だったら、「何かのフェイク動画か何かだろう」と片付けていた。だけど今の有希には、もうそのように自分に言い繕うことはできなかった。ここには、今日から三日後の未来の映像が映っている。先ほどの“緑翠の間”の映像を見た有希の中には、そのような一つの確信があった。 次に有希の心の中に沸き起こった疑問は、 “自分は、この動画を見てもいいのか?” ということだった。 何が映っているのかは分からない。もしかしたら見…
有希は藤田のメールを閉じると、メールソフトに表示されている受信メール一覧を下にスクロールしていく。 美咲からのメールは、“5月31日”の日付で依然としてその受信フォルダに残っていた。 メールを消していないので残っていて当たり前だったのだけど、有希は、その“佐藤美咲”と表示された一行を、何か不吉なものを見るような目で見つめた。美咲が事故の直前に送ってきたメール。全ての発端は、このメールだった。 “佐藤美咲”の表示にカーソルを合わせ、マウスをクリックする。美咲から送られてきたメールが画面に表示される。エクリプスリアルムのリンクは確か、メールの最後尾に添付されていたはずだ。メールの文面を下にスクロー…
その出来事の後、有希は仕事に集中することが全くできなくなっていた。 緑翠の間の撮影の後も旅館の中の撮影をいくつか予定していたのだけど、その途中で段取りを間違えたり、佐々木への指示を間違えたりしてしまう。その度に佐々木や鈴木からは、この人は大丈夫なのだろうか、という不安な目で見られていることは分かってはいた。だけど、有希にはどうしようもなかった。頭の中では、エクリプスリアルムで見た動画のことが消えてくれなかった。 なぜ、あの動画で映っていた光景が、今、目の前で再現されたのか……。 そのようなことがありうるのか……。 何かの間違いではないのか…。 ただの偶然ではないのか……。 だけど、そのような偶…
藤田が機材の入ったバッグを部屋の隅に置き、撮影の準備を始める。 有希は、撮影の段取りを決めるため佐々木と鈴木に歩み寄った。 「佐々木社長。緑翠の間はもともと予定していた撮影場所ではないので、セリフとなる原稿も事前に準備されていないかと思います。言おうと考えているセリフを始めに紙に書き起こして、話す練習をなさいますか?」 佐々木は首を軽く横に振る。 「いや、なに。わざわざ紙に書き起こさなくても大丈夫ですよ。この旅館で働き始めて30年が経っていますから。この緑翠の間のことは、頭に刻み込まれています」 自信ありげに言った。 確かに、全て決められたセリフを言うよりも、このようなアドリブがあった方が映像…
有希たちが始めに案内されたのは、藤乃屋自慢の露天風呂だった。 その露天風呂は、露天風呂付き客室として客室に付属したものとなっている。藤乃屋ではそのような客室が10室あるということは鈴木から事前に聞いていた。 ある一室の前に着くと、鈴木はもったいをつけたように、 「ここです。心の準備は大丈夫ですか」 有希たちを振り返って焦らすように言う。よほど自信があるのだろう。 「山下さんたちを焦らしても仕方がないでしょう。鈴木さん」 佐々木が少し呆れたような口調で言った。 鈴木は、「それではどうぞ」と言って、ドアを開いた。 「ああ、素敵ですね」 有希の口から言葉が零れる。 ドアから入って正面には大きなガラス…
6月17日の朝、出張の準備を終えて家を出ようとしていた有希のもとに、鈴木から突然電話がかかってきた。 それまではメールやweb会議でやり取りをしていて、電話がかかってきたことは一度もない。藤乃屋に出張するということで、何かあった時の緊急連絡用として、昨日、鈴木の電話番号をスマホの電話帳に登録したばかりだった。 何かあったのだろうか。嫌な予感を感じつつ、電話に出る。 「はい」 「あ、藤乃屋の鈴木です」 いつもはのんびりしている口調も、焦ったように少し上擦っている。 「いつもお世話になっております。山下です」 「ニュース、見ました?」 社交辞令を抜きにして、鈴木が単刀直入に話し出す。 「……何か、…
翌朝9時前に、無事にマルシェ・アンジュに動画を納品し終えると、有希は一度大きく息を吐いた。 納期直前になって新しいシーンを撮影して動画に追加するということもあったけれど、納期前日の夜遅くまで動画の最終仕上げを行なって、今回も何とか納期通りに納品することができた。 担当者の松本美和との打ち合わせの中で擦り合わせたイメージ通り、あるいはそれ以上の動画ができたという手応えもあって、有希の中に一つの達成感が湧き起こる。この仕事をする上でのモチベーションの一つとして、有希はその思いを大切にしていた。 かと言って、のんびりしているわけにもいかない。 次の仕事はもう、口を開けて有希を待ち受けているのだ。 有…
3 「昨日、マルシェ・アンジュに行って、指示通りに素材動画を撮影してきました」 画面の向こう側で、藤田がいつものように落ち着いた口調で話す。 有希は、毎朝10時から定例として行なっているチームの打ち合わせに参加していた。参加者は有希と、そして一緒にチームを組んでいる藤田と優奈の三人。いつものようにweb会議システムにアクセスしていて、画面には藤田と優奈の顔を映し出されている。 「ありがとうございます。こんな間際になって、追加素材撮影のお願いをしてしまって、本当にごめんなさい」 「何を言っているんですか。少しでもいい動画を作るためですから、気にしていないですよ。それに、いつものことですから」 藤…
2週間も先の日付がタイトルになっている。 未来の光景を映しているという設定の、創作動画だろうか。 有希は“▶︎”ボタンの上にカーソルを合わせて、クリックする。 サイト中央の四角く切り取られた枠の中に、突然、ある場所が映し出される。枠の右下には、動画を撮影している時間を表現しているのだろうか、時計のような時刻表記が表示されていた。 6/18/24 1:42:13 PM 2024年6月18日の午後1時42分を表しているようだ。秒の表記は一定間隔で増えていき、流れていく時間をカウントしている。 映し出されている場所は、部屋の一室のようだった。 畳敷で広々とゆったりした部屋で、二脚の椅子が置かれている…
カーソルをそのリンク先の上に移動させる。 あとは、人差し指を下に下ろすだけだった。 そうすれば、死の前日に美咲が“見てほしい”と書いて送ってきた、そのリンク先を開くことができる。 だけど有希の人差し指は、マウスの上で固まったまま動かなかった。 やっぱりおかしい……。 どう考えても、おかしいよ……。 このリンク先を開いたら、駄目だ……。 有希の中の何かが、彼女にそのように警告していた。 有希はカーソルをメールソフトの左上の「×」に移動させる。クリックすると、美咲のメールは、メールソフトと一緒に画面から消えた。 パソコンの電源を落として、仕事用デスクの前で立ち上がる。そしてそのまま浴室に行って湯を…
ディスプレイに表示される「佐藤美咲」の文字。 その四文字を、有希は黙って見つめていた。 事故の当日に、つまり美咲の死の前日に送られたメール。有希にはそれが、あの世から送られてきた死者からのメッセージであるかのように感じられた。 メールを開くことに逡巡する。 開いていいのだろうか。もし開いてしまったら何か取り返しのつかないことになってしまうのではないか。そんな気がしてならなかった。 だけど、美咲は有希に何かを伝えたくて、事故の当日にこのメールを有希に送ってきたのだ。開かないわけにはいかない。そのことも、痛いくらいはっきりと有希には分かっていた。 意を決して、開封ボタンを押す。 美咲からのメールに…
有希はフーと息をつく。 机の上の時計を見ると、二十二時を回っていた。 いけない。作業に没頭していたら、こんな時間になっている。 修正作業をしていた動画ファイルを保存し直し、パソコンをシャットダウンさせる。 「今日もよく頑張った、私。えらい、えらい」 自分自身を褒めるように、小さく呟く。一人暮らしの有希には、自分で言わないと他に言ってくれる人はいない。たとえ自分自身からの言葉だとしても、その言葉があるとないとでは大違いだ。その言葉があるだけで、また明日も頑張ろうという気力に繋がる。 フリーとして自宅で仕事をするようになってからの二年間、いつの間にか仕事終わりに自分を褒めることが、有希の日課になっ…
2 時計を見ると、10時を回っていた。 いけない、打ち合わせに遅れてしまう。 有希はコーヒーを淹れたカップを手に持って、部屋の片隅に置いている机に向かう。 部屋は1Kでそれほど広いわけではない。それでも在宅で働くためにと、部屋の一角に仕事用スペースとして机を置いていた。 仕事をするときはできるだけ快適に作業をしたいと思って、それまでの会社を辞めて独立する時に作業スペースがしっかり取れる大きな机を買ったのだ。それで小さな部屋はますます狭くなってしまったが、有希はそんなことは気にしなかった。快適に仕事ができることの方を喜んで選択した。 大きな机と、その上のマックのデスクトップパソコン。そしてその横…
通夜式は滞りなく終わり、弔問客は明子にお悔やみの言葉をそれぞれ伝えてから帰っていく。 有希も明子と何か言葉を交わしたかった。一言、お礼を言いたかった。だけど、誰かに急かされるように話しをするのは嫌だったので、弔問客が消えていくのを、式場の片隅で辛抱強く待っていた。 弔問客の最後の一人が式場から出ていくのを見届けてから、有希はゆっくりと明子に近づいた。 「山下有希です。お電話をいただき、ありがとうございました」 有希は静かに頭を下げる。 明子は「いえ」と首を小さく横に振り、そして有希の後ろに一瞬、視線を彷徨わせた。岡田奈緒らしき女性の姿が見当たらないことに初めて気づいたかのように、 「岡田奈緒さ…
第一式場に消えていく会葬者の列に引きづられるようにして、有希は式場の中に入った。 第一式場は12畳くらいの部屋となっていて、扉から入って右側に祭壇が設けられている。その祭壇に向かって、中央を開けて左右に椅子が二列ずつ並んでいた。 有希はその式場の中に視線を彷徨わせる中で、祭壇に目を奪われる。 棺の周りを色彩の鮮やかな花で包んでいる、シンプルでいて心がこもった祭壇だった。そしてその祭壇の花に囲まれるようにして、美咲が微笑んでいた。いつも皆に見せていた美咲の笑顔が目の前にあった。小さく切り取られ、遺影という枠の中から会葬者に優しく微笑みかけていた。 有希の前にすでに式場に入っていた会葬者は前から詰…
通夜式は予定通り18時から開始された。 15分前の17時45分にR斎場の職員が会葬者控室に訪れ、弔問客をその控室から、通夜式が執り行われる第一斎場に誘導する。有希は第一式場に向かう人たちの一番後ろに付いて、その控室を後にした。 通夜式が始まる時間が近づいてきても、奈緒は顔を見せなかった。 まさか、ここに来る途中に奈緒も交通事故に遭ってしまったのだろうか。 心配になった有希は、会葬者控室で待っている時に、 「まだ美咲の通夜に来ていないみたいだけど、何かあった? 大丈夫?」 というメッセージをメッセージアプリで奈緒に送った。 メッセージにはすぐに“既読”の表記が付いた。 それを見て、とりあえず奈緒…
こだわりが強くて単独行動を好む有希と、明るく、社交的な美咲。 性格が正反対の二人だったのだけど、なぜかうまが合った。 始めは二人が出会ったバトミントンサークルの活動の中で、たくさんいる新入生の中の二人という形で会話をしたり、一緒にサークル活動をしたりしていただけだった。だけどその関係がサークルの活動を超えて広がっていき、そして深くなっていくのにそれほど時間はかからなかった。 有希は文学部に所属していて、美咲は商学部に所属していた。学部も学科も全く違っていたので大学の授業も基本的には違っていたのだけど、一緒に受講できる共通科目があれば二人で示し合わせて同じ授業をとったりしていた。 そして大学の授…
美咲と初めて会った日のことを、有希は今でもよく覚えている。 有希が大学に入学した、2015年の4月のことだった。 大学の構内はどこか浮ついた空気が溢れていて、新入生を自分たちの部活やサークルに入れようと様々な部活やサークルの学生たちが新入生を勧誘していた。あるサークルの学生は、構内を歩くまだ初々しい新入生に、 「Aサークルです。別に入らなくてもいいので、一度見学に来てみてください」 とチラシを手渡している。また別のサークルでは野球のユニホームを着た学生が、 「君も野球やりたいよね」 と新入生の男子生徒に声をかけていて、声をかけられた学生は、 「あ、いえ」 と戸惑った返事を返している。 有希は、…
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