chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
屋代源三
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2024/01/03

arrow_drop_down
  • コンビニ業界が変?

    「セブン&アイ/千葉県松戸市に新コンセプト店舗「SIPストア」オープン」とニュースが出ました。SIPなどと変な単語を使っているが、7イレブンに生鮮三品を加えたミニスーパーでしかない。この分野の最大手はイオン系の「マイバスケット」で都心部で1100店舗を構える一大勢力である。他に「マルエツ・プチ」「マックスバリュ・エクスプレス」など同様な形態は沢山ある。7&IのSIPが違うのは、コンビニの成功の源であるリスクを取らない、フランチャイズ方式を踏襲することですね。コンビニの加盟店主の最大のリスクは24時間365日店を開けて置かなけらばならないこと。①人件費は加盟主の負担。②商品の廃棄ロスも加盟主負担。③売上から仕入値を引いた粗利の60~65%は本部へ上納。とするリスクである。現在は人件費はうなぎ上りなので加盟店...コンビニ業界が変?

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える 4

    大島郡の古城の中で一番の論争は『大島郡古城址めぐり』に収録される平知盛の城のことであろう。これは、同書は⑦城山(島末城)平知盛城主(諸説有り)としています。ただ島末城とは誰が命名したのでしょうか?源氏の正史「吾妻鑑」は屋代島に築城するとしか書いていません。しかもこの城は屋代島の最中(真ん中もしくは中心地)に築城するとします。平知盛が直接築城はしていません、平家の臣である、屋代源三、小田三郎に命じて築城させるとしますが、築城期間が少なく完成はしていない模様です。屋代島の城を家来に築城させている間は知盛は下関の彦島築城に奔走していますので屋代島大島にはいませんでした。歴史書は寿永3年(1184)2月「山口県史整理年表」○平氏一谷城に拠る。防長の諸将これを赴援す【御両国御蔵入諸給領田畑小村帳一件記】とありますの...『大島郡古城址めぐり』を考える4

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える

    『大島郡古城址めぐり』が所収する古城は城名場所城主①城ノ坂城小松永坂城主不詳②岡本城西三蒲城主不詳③古城山屋代三蒲境城主不詳④石見城久保河内久保石見守主膳イ)久保主殿介維忠⑤東郷山久賀東郷来島出雲守⑥油由城由良左衛門九郎⑦城山(島末城)平知盛(他諸説有)⑧城山森村藤掛入道イ)藤懸入道出城⑨城山内入穴戸金丸園之助イ)金丸團之助輝國⑩城山和田2城城主不詳⑪城山油宇城主不詳⑫古城小泊城主不詳⑬城ノ岡城和佐城主不詳⑭磯兼館磯兼右近⑮古城安下庄城主不詳⑯清木城塩宇青木肥後守イ)岡部和泉守貞俊居す。(青木和泉守ともあり)⑰甲の山城城主不詳⑱田中城田中中務左近⑲古道城川間古道筑前守実久⑳古櫛山城秋金丸園之助輝国㉑津海木城戸田島崎佐渡守イ)嶋崎佐渡守久國㉒湯面城戸田城主不詳㉓宗岡城横見宗岡右衛門イ)宗岡右衛門佐俊光(一本...『大島郡古城址めぐり』を考える

  • 周防大島「古城址めぐり」を考える 2

    周防大島の古城とされるものは出典を殆ど「風土注進案」や「地下上申」等の地誌編纂時の里の伝承を元にしているので、「何時、どこの誰が」、がはっきりしないのも事実である。城と言うと天守閣のある立派な建物を想像しがちであるが、室町末期の戦国時代までは単なる領主の屋敷であった。これを「館」(やかた)と呼んだので、そこの主人は「お館(屋形)様と呼ぶようになりました。東北地方の下舘、角館、函館、等地名に残るのは領主の館があった所の名残で屋敷や街並みまで含めての範囲となります。城(いつき・グスク)は奈良期の防衛砦のイメージに近いのでしょう。「土が成る」と書きますので漢字上は土塁構築物ですね。朝鮮半島から古代、異邦人が日本に攻め込んでくる可能性がありましたので、西日本に多くの砦が築かれました。当時の日本はまだ、本格的な砦(...周防大島「古城址めぐり」を考える2

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える

    周防大島町文化振興会が発刊した「大島郡古城址めぐり」を先日外入のSKさんより頂戴した。主に村岡只通氏、濱村治一氏の出筆になるものと思われる。両者の相当な力作であり、大島郡古城伝承をほぼ網羅しています。ただ、大島郡のこれらの古城はいつの年代のものかは不明で古書に書いてあるものも時期を明言していない。唯一例外的なのは源平合戦の折の平知盛が築城を命じたとされる島末城ぐらいであるが、この城も諸説ありはっきりしません。徒然なるままに愚見を述べたいと思います。ご意見、ご批評、感想等はコメント欄より投稿願います。『大島郡古城址めぐり』を考える

  • 昭和11年発行 【小松町誌】21

    昭和11年発行【小松町誌】【産業】(二)工業本町の工業には今尚ほ大して見るべきものはない。原因は大工業を施設すべき余りに土地がないのと、小工業も需給の関係上より以上に拡張発展する必要が無いと言った地理的事情があり、一面家庭工業は個々の仕事としては進展六ケ敷いもので、之を統一し、奨励する機関を必要とするため、現在までのところ其の法萌芽を見ないけれども、将来にありては、本町の工業的に進出を期待するのは恐らくこの方面であらうと信じられている。【醸造業】かかる事情の下に於いて憚り気を吐くものは醸造業である。本町醸造業は酒及び醤油ともにその品質優秀なること、今や全国的に知られるに至り、県下同業品評会に於いても常に優位に録せらることは心強い極みである。【主要工業物】種類製造高価格製造戸数酒五六〇石四四八〇〇円一醤油四...昭和11年発行【小松町誌】21

  • 台湾近代化に尽くした長州人 賀田金三郎

    台湾開発に貢献した実業家賀田金三郎【生没年】安政4(1857年)-大正11(1922年)【享年】66歳【誕生地】長門国萩米屋町(萩市)【墓】萩市北古萩町(海潮寺)札差商の賀田久兵衛の長男として生まれる。家業を継ぐも、明治18年(1885)に上京、藤田伝三郎の興した藤田組に入る。軍・官公庁などの各種物資用達に従事。後に大倉組に転じ、明治28年(1895)、日清戦争直後に総支配人として台湾に赴任、各種事業に従事した。明治32年(1899)には、台湾の通信・交通事業整備を志して独立し、賀田組を設立した。台湾各地に支店を設け、建築請負、用達、運送業を初めとして、樟脳製造、製糖、金融、開墾、農業など、幅広く事業を展開した。特に台湾東部の開発は、当時の台湾総督府も躊躇した事業であった。政府や軍の信頼を得て、後に要請に...台湾近代化に尽くした長州人賀田金三郎

  • ローソン落日の始まりか?

    昨日、KDDIは三菱商事、ローソンとともに株式公開買い付けを発表しました。三菱商事50%、KDDI50%の共同経営者として株式は上場廃止にするといいます。新しい電子商戦コンビニを目指すとします。コンビニの人手不足解消と、資源安で苦しい三菱商事と、NTT法改正でシェアを浸食されるKDDIの裏の思惑が一致した結果でしょう。負け組連合に見えるので業界は冷ややかですね。多分手始めにセルフレジを増設して、次に無人店舗を増やすぐらいでしょう。d-ポイントに差を付けられているので、ぽんたPの拡大も狙うのでしょう。この程度は別に今の経営陣でもできます。問題は出資比率が50:50ですね。これは船頭が二人いますので、船は右にも左にも、前にも後ろにも進みません。日本人の大好きな会議を延々と役員会でやって、議決も50:50になり...ローソン落日の始まりか?

  • 小松町誌 昭和11年発行 20

    昭和11年発行【小松町誌】【産業】(一)農業本町における主要農産物は米麦を主としているが、近年多角的農業の奨励される風潮に従って菜園勢方面にも着目さるるに至ったことは喜ぶべきである。左に農業統計を掲ぐ。農業戸数自作農小作農自小作農合計農業戸数九七一四〇六三三〇〇耕作地自作小作合計九耕作地田畑田畑五四三町0四四町0八三町五四八町四二百十八町九耕作地広狭別戸数五反未満五反以上一町以上合計一九六一〇二二三〇〇【みかん】本町も最近大島みかんの聲価発揚に連れて蜜柑の増殖頗る多く、現在の栽培面積二十二町に上り、樹数約一万七千本、生産四万七千貫を見るに至った。これに雑柑類を加算する時は二十四町、五万六千貫の生産量である。蜜柑面積樹数生産高二二町二一七一五〇本四万七千貫【家畜】家畜数その他の統計見るに次の如し。家畜牛兎鶏...小松町誌昭和11年発行20

  • 因島に残留の村上海賊衆のその後

    関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が防長二州に封じ込められた時、因島義光、吉国親子も長州矢田間に二千八百石で移るが、後辞して野間郡佐方へ移るとされます。太左衛門家は周防屋代島に残り、三田尻の御船手組に出仕します。関ヶ原の戦い前までは、家中給人二百八十余騎、上下老若男女小者に至るまで八千余人とされますが、領地が二十分の一となり追々分散して減少すると能島村上家と同じ運命を辿ります。慶長五年以降、因島に残り続けた村上衆は千五百五十家に上るとされますので、因島は村上家だらけとなります。その一部を戸籍(壬申戸籍カ)に従って例示すると、①中庄町(八十三戸)平木十代村上鶴吉元祖、村上主殿は新蔵人吉充の弟で、その子六右衛門の後、数代を経て三右衛門(正徳六年・1715)帰農して以来二百五十余年相継代々大農として今日に至る。②外ノ...因島に残留の村上海賊衆のその後

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 5

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)5【大洲系譜三十八代】友直・安芸守友直息直幸大野重兵尉弟【大洲系譜】直秀・松前城主・毛利元就之幕・八代嶌ニ住居直秀息直政➡周防屋代島大野系図へ繋ぐ➡長州徳山藩毛利家中大野系図へ繋ぐ➡筑前福岡藩黒田家中大野系図へ繋ぐ弟【大洲系譜】直澄次郎左衛門始名直泰茗荷谷村中井谷村橘立花三郎兵衛尉初名ノ宣直為家臣直澄息直範【南予史】【表岸城】宇和川村汗生城とも云う、中井谷橘城の一族冨永直安の古城なり、家老に闋右衛門とて豪の者あり勇武に奢り他を軽蔑するがある時、城中の者共、川狩を催し八重栗の河中にて槍をもて突き殺したり、今に闋右衛門淵と云うなり。【南予史】【櫻ノ城】宇和川村中井谷に在り、橘城とも云う、冨永氏の古城なり。【南予史】【月ノ尾城】山鳥坂村横...大野家系譜(伊予大洲大野家本)5

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 4

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)4↓【大洲系譜三十五代】綱直(~九郎次郎実通繁二男、冨直依早世継家督宇都宮教綱烏帽子子也、久万山大乱未治無詮方自土岐光定召寄當家領分菩提所高源寺之僧、本当家興土岐同氏也為當家再興荏原久万山譲干土岐左京太夫成頼乞軍勢、成頼喜而語細川右京太夫政元以土州讃州之諸勢忽誅伐凶畢、其時状曰*(1492*土岐成頼書状へ飛ぶ)【細川政元書状(大野文書)】(端裏切封)「・---」當國久万山事、馳向明神葛懸城敵数輩討捕被官三人討死之由候、尤以神妙之至候所詮宇都宮森山一段被相談、平岡事不日被相支退候者、為分國別而可喜入候、仍太刀一腰遣候、猶大平中務丞(國雄)可申候也謹言〔文明十二年)五月十七日政元(花押)大野九郎次郎(綱直)殿(1489*細川政元書状)【...大野家系譜(伊予大洲大野家本)4

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 3

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)3大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)3【大洲系譜三十代】義直・左衛門次郎・左近将監安芸守・賜(足利)義満公諱・永和二年(1376)當国道後出渕有凶賊義直依抽粉骨戦功為上意感状伊与国打出道後出渕致忠節於其事尤以神妙弥可抽戦功状如件武蔵守頼之永和二年十二月廿六日大野左衛門次郎殿・又土刕就御退治細川満元状曰上意として土州退治之事、被仰出候間、執事を越候也、国境之事ニて候得者、憑入候、無等閑候者悦入候、委細状不申次第猶庄林入道可申候、兼又宇津宮方之事、自其能々御籌策ニて無子細候者殊本望候、将又上意之事連々可心得申也恐惶謹言八月七日(細川)満元大野殿(1197*本文書土佐国古文叢にも載す)*【予章記(山野井本)】*南朝方の立場応安元年伊予国ニ留リ...大野家系譜(伊予大洲大野家本)3

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、屋代源三さんをフォローしませんか?

ハンドル名
屋代源三さん
ブログタイトル
山口県周防大島物語
フォロー
山口県周防大島物語

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用