chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
屋代源三
フォロー
住所
未設定
出身
未設定
ブログ村参加

2024/01/03

arrow_drop_down
  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)6

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】『大野家正統譜図』三十五代目【上川村系譜】詮直(~1399)・宮内少輔・母直利娘・(足利)義詮朝臣賜御諱詮字応安七(1374)申寅年(足利)義満朝臣御進發九州詮直供奉後因島田満貞讒没収於采地詮舎恨於満貞応永六(1399)己卯伹於大内義弘播籠干美濃国長森城被謀干土岐康行上洛而同年十二月被討卒注】「大洲菅田大野家本」於小田土居城連日致合戦之条、悦入候就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私難有候、當方事可得落居候間、急速陣可被竒候、可心安候、恐惶謹言卯月十三日(細川)頼有大野十郎左衛門尉(詮直)殿『愛媛県編年史(947*本文書大洲随筆にも載す)】・又貞治六年(1366)山名退治仁木為大将被向宇和喜多両郡詮直尽粉骨軍忠四月七日小田陣半落着註進其辺状為上意今川弾正俊通今月...大野家系譜(伊予上川村大野家本)6

  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)5

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】『大野家正統譜図』二十九代目【上川村系譜】成義【大野改姓】・(太ノ)太郎實成清男・母平氏女自実朝公本領安堵之有下文注】【屋代系譜三十七代】成義・大野太郎・此代ヨリ大野ト改ム家傳ニ云フ代々宇津ノ大野ト云フ所ニ住居皇子住ミ給フ故ニ王野ト云フ子孫即チ為名字此代王ノ字ヲ惶リ大ノ字ニ改ム大野ト名乗ル大ノ字ハ一人ニ叶心故用之・母ハ平岡平實ノ女也注】宇津の大野とあるから、宇津邑の渓壽寺周辺であろう。ホノギとしては後世、宇津邑に吸収される。喜多郡大野村出身春厳祖東禅師(伴・大野)【1352~1414)にて知れる。「渓壽寺由緒」2016./7/15呑舟注】成義の代で大野改姓を決め、次の養子直義の代で正式に大伴姓の使用を止める。2019.6/23呑舟⇩三十代目【上川村系譜】直義...大野家系譜(伊予上川村大野家本)5

  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)4

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】『大野家正統譜図』二十二代目【上川村系譜】藤行・次郎胄家兄宗成跡・母當女房號織部左衛門尉・冨永宮内少弼純頼共源頼義公奥州御進發御陣隋兵注】前九年の役(1051)(呑舟)注】【源頼義】(新日本古典文学大系・平治物語注釈)永延二年(988)~承保二年(1075)。清和源氏頼信の嫡男。母は修理命婦。八幡太郎義家の父。左馬頭、左衛門少尉、兵部丞、小一条院(敦明親王)の判官代、相模守などを歴任、永承六年(1051)陸奥国に発生した反乱鎮定のため、陸奥守に任ぜられて陸奥国に赴き、鎮守府将軍を兼ね、義家とともに、安倍頼時、貞任、宗任らを征討、苦戦の末、所謂、前九年の役を鎮定、その功により伊予守に任ぜられた。頼義は河内、武蔵、下野等の守も歴任、前九年の役に従軍した東国武士と...大野家系譜(伊予上川村大野家本)4

  • 昭和11年発行 【小松町誌】26

    昭和11年発行【小松町誌】【官公衛及団体】【四】専売局小松出張所広島地方専売局字開作にあり、塩及び煙草の専売事業に従事しているが、同管内に於ける塩業は左の如き数字を示している。『塩収納高』年次一等塩二等塩三等塩賠償金昭和八年度109650瓩(キロ)2210910瓩3244800瓩212782円昭和九年度269610瓩2438820瓩3507360瓩244510円昭和十年度203820瓩2873910瓩2162310瓩207966円『塩売渡高』年次一等塩二等塩三等塩輸移入塩譲渡代金昭和八年度682280瓩(キロ)252200瓩396300瓩34200瓩41193円昭和九年度80480瓩372000瓩315000瓩49200瓩40291円昭和十年度99000瓩357000瓩249000瓩40200瓩36866...昭和11年発行【小松町誌】26

  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)3

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】『大野家正統譜図』十一代目【上川村系譜】武虎・太郎舘舎宇津村蝶地森之森麓・久米郡兼押領使美濃守⇩十二代目【上川村系譜】国兄・喜多郡柚ノ木村構於城郭・(太ノ)太郎任美濃守・母者風早大領安国女注】【徳山藩大野系図】大井御舘大伴國兄(クニエ)注】【河野系図】(続群書類従系図第167)・・・好方・・・好峰・・・安国・・・安射・・・元興・・・・・・元家・・・家時・・・為世・・・為時・・・【予陽河野家譜】(風早大領安国)玉興子玉純………其の子息方大井舘嫡子好方越智押領使次男好峰野間押領使好峰子安国風早郡大領三嶋大祝…….⇩十二代目【上川村系譜】吉国・次郎任右兵衛尉相続家兄跡・初住大井舘注】【大洲系譜十二代】良国・次郎右兵衛尉・越智押領使・実武虎二男国兄同母弟也⇩十三代目...大野家系譜(伊予上川村大野家本)3

  • 日本初の女性弁護士誕生物語、始まる。

    本日、四月一日より、NHKの朝ドラは日本初の女性弁護士誕生物語を放映はじめましたね。昭和初期からの女性蔑視の風潮の中、たくましく生き抜いていく姿が楽しみです。東京神田駿河台界隈をどのように描写するのかも興味深々です。実際の人物のプロフールは下記の通りですが果たしてどのように描きますかね?https://www.lib.meiji.ac.jp/about/exhibition/gallery/38/38_pdf/pamph.pdf日本初の女性弁護士誕生物語、始まる。

  • 昭和11年発行 【小松町誌】25

    昭和11年発行【小松町誌】【官公衛及団体】【二】塩田共同組合生産額年二十萬円の製塩業は本町生産業界の覇王である。製塩戸数二十五戸、これが従業員三百十九名に達しており、その支払われる賃金、消耗品代は、優に十数万円に上ると言わるるから、その盛衰は直ちに町の経済に至大の関係を及ぼすこと言を待たない。製塩業者は製塩連絡の機関として、小松塩田共同組合を組織して、賃金の統一、石炭の共同購入等、諸方面に活動している。同組合現在の役員左の如し組合長橋本三蔵理事会計矢田部安一理事矢田部宗太郎、安元弥左衛門、安元熊槌監査小林辰一、田村好一【使用塩叺(かます)】小松塩田に使用する叺数は年によって多少の相違はあるも、年間約二十萬枚を要すると見られて居り、之が供給は郡外並びに県外よりも需めている。昭和10年4月より昭和11年2月に...昭和11年発行【小松町誌】25

  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)1

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】伊豫史談会(愛媛県立図書館内)(伊予系譜【イ~1~20】)愛媛県立図書館内伊予史談会(謄写)大正時代伊予上川村・(他、現当主大野直樹家散逸系図)此の系譜・思考するに大野家直系に当たる大野和五郎直尚が古文書を整理しながら編纂したものと思われる.久万町史の中世の大野家の説明はこの系譜に依っている.。然りながら大洲本の尾首直好、子、直清が上川村本では直昌庶子と出て来るのはどちらが正か検討を要す。平成十八年六月十五日呑舟又、此の系譜の直尚子孫の増補筆写したしたものを写真で保存したものを東京練馬在住の熊(久万)正岡家子孫正岡貞雄氏より提供を受け、校正増補する。平成十九年三月二十三日呑舟別本大野系図上田本は此の系譜を書下し文で謄写したものである。この上川村本を唯一無比の...大野家系譜(伊予上川村大野家本)1

  • 大野家系譜(伊予上川村大野家本)2

    大野家系譜(伊予上川村大野家本)【大野直昌庶流】『大野家正統譜図』天智天皇之御子元祖大友皇子・又伊賀皇子太政大臣・母伊賀采女宅子注】(無理して神別を皇別に変更したか?無知な記録者か止む得ない時代背景があるのか?【呑舟】注】【日本全史】大友皇子(明治期に、弘文天皇に贈名)在位・天智十年(671)12月5日~天武元年(672)七月二三日(672)⇩二代目【上川村系譜】葛野王・兵部大輔・正四位式部卿注】(弘文天皇の子園城寺(現三井寺)開祖)⇩三代目【上川村系譜】牟磨・従三位中納言・大友宿禰↓都堵麿・近江国三井住・厈大伴↓黒主(注)大友黒主園城寺別当・為近江国司・姓善和歌・・・・・ここまで天智天皇御子大友系図、これより以下神別大伴に変わる⇩四代目【上川村系譜】●安麿(大伴)・正三位大納言・大友宿禰・(大ノ)朝臣撰...大野家系譜(伊予上川村大野家本)2

  • 昭和11年発行 【小松町誌】24

    昭和11年発行【小松町誌】【官公衛及団体】【一】小松分会帝国在郷軍人会は現在会員三百四十四名を有す。この内訳左如し予備74名後備132名補充138名計344名現在の役員左の如し会長佐崎憲治副会長神田司満雅藤永平治常務理事柳原良治幹事室岡朝一笹井運人評議員岡村正重大西利左一松田好美中田義信新原吉光吉田正夫清水品一班長大西利左一中田義信松岡竹一吉田正夫同会はその指導方針を左の如く内定している。入会及び出席の画期的向上を期す分会の団結を益々強固にし会員の修養を進む。会員の軍事能力を増進せしむ。日本精神並び国防教育の徹底、持続を期す。国民思想を善導し銃後の責務を完ふす。歴代分会長左の如し氏名就職年月陸軍歩兵曹長岡田元右衛門明治40年2月陸軍歩兵少尉相川清右衛門明治42年4月陸軍歩兵中尉上領熊一大正2年9月海軍兵曹...昭和11年発行【小松町誌】24

  • 伊予・河野家再興を夢見た人たち 2

    伊予・河野家再興を夢見た人たち2伊予守護河野家は天正13年秀吉の四国征伐に敗れ、秀吉の先兵となっていた小早川隆景の無血開城の説得を受け止む無く軍門に下りました。小早川隆景は毛利家一門であり、河野家最後の当主、牛福通直の正妻も毛利家側から又、母君も毛利家より嫁してきているので、所謂、親族である。開城の条件として「ここは一旦引いて後日、お家再興を秀吉に推挙するから」とされます。確かに、以後何度か毛利、小早川側から秀吉へお家再興の願いが出されていますが、色よい返事はなかったとされます。悶々の日々を送り、小早川隆景の温情で湯月城の一角に住居を与えられ二年の月日が流れていました。この辺りのことを伊予河野家史書とされる「予陽河野家譜」をかいつまんで書くと、『天正十五年夏、国家は再び大騒ぎとなり、人民は周章狼狽となった...伊予・河野家再興を夢見た人たち2

  • 昭和11年発行 【小松町誌】23

    昭和11年発行【小松町誌】【交通】【概況】小松は島の一都邑であるため往時の交通は殆ど船舶によっていた。特に本土方面に於ける陸上交通の不便なりし時代に於いては付近に於ける一大交通の要港として頗る重要な地位を占めていたものであるが挽近諸般の航通機関発達とともに、海上交通は大畠、柳井行を主として来た。半面郡内に於ける陸上交通の発達は道路の改修と相まって、非常なる進歩を来し、今や、小松町は大島郡の玄関たるに至り、本土よりの来郡者は大半、小松港に上陸して本町を経由する傾向にある。【道路】道路は殆ど平坦地であって、蒲野村に通ずる県道中両村村境付近が急勾配なる位に過ぎない。幹線道路は、大正十三年改修を決議し継続事業として実施されている。現今大半を終了した。幹線県道山口久賀線(自世並津至瀬戸)延長1563米5小松安下庄線...昭和11年発行【小松町誌】23

  • 伊予・河野家再興を夢見た人たち 1

    伊予名門・守護家であった河野家も長年の本家と分家(豫洲家)との内訌により家中は弱体化し戦国の下剋上の時代には家勢を衰え、臣下から反乱を起こされたり、また、伊豫支配を目論む中国の毛利一族(毛利・小早川・吉川)の調略により、河野通宣の代では毛利家と婚姻関係を結び毛利頼りの態勢になります。次代の河野牛福通直も毛利側から正室を受けました。長曾我部元親も四国全土の支配を目論み、南予や東予を攻め湯月城にも迫ります。土佐側の資料「土佐物語」等を湯月城陥落で家老の平岡某を人質に取るとします。伊予側資料はこれを否定します。天正10年春に高松城の攻略をしていた織田信長の家臣、秀吉は、毛利や河野へ調略の使者を送り「味方になれ」と誘います。瀬戸内海を支配していた村上海賊三家の内、能島村上家、来島村上家は同年四月十日、秀吉の招きに...伊予・河野家再興を夢見た人たち1

  • ドラッグストア戦争終盤へ

    ドラッグストア最大手「ウエルシアG」と二番手「ツルハG」の経営統合が発表されました。これにより単純計算で2.2兆円のドラッグストアGが誕生します。マスコミは昨日今日の話として報道していますが、元々は30年前に遡るイオンGの業務提携戦略の一環が一つの形になったと見るべきでしょう。ジャスコ(イオン)の現岡田会長相談役の指示により特命担当H氏が新規事業体制構築の為、地方の零細薬局チェーンを提携させ当時最大規模の「マツモトキヨシ」Gに対抗しようとしました。ゆるやかな連携でしたので「イオン・ウエルシアG」と呼んでいましたが経営統合はされていませんので「懇談会」のレベルでした。差別化を図るためプライベートブランドの「ハピコム」を開発し連携各社に流し、川上への支配力を強めました。その後、ドラッグストア業界は合併統合を繰...ドラッグストア戦争終盤へ

  • 昭和11年発行 【小松町誌】22

    昭和11年発行【小松町誌】【教育】(小学校)明治六年四月本町に第二小学校が置かれ萬性院を校舎とし、従来、各字の寺子屋はその支校となった。明治八年学区制定により小松を第二十小学区、開作を第二十一小学区、志佐を二十二小学区とされた。その明新小学校として一校に統一されたのは明治十七年の学区改正の結果である。かくて志佐及び笠佐には分教場が置かれた。この年校舎新築の提議があり、字手崎に起工され、明治二十年三月落成した。これが現在の地である。其の後、沿革概要左の如し。明治二十年四月明新尋常小学校と改称、簡易科を併置す。志佐及び笠佐は独立簡易小学校となる。明治三十一年五月各簡易小学校を廃し、志佐は尋常小学校となり笠佐は志佐校の分教場となる。明治三十四年三月志佐分教場を廃す。明治三十六年高等科を置く。明治三十七年校舎一棟...昭和11年発行【小松町誌】22

  • コンビニ業界が変?

    「セブン&アイ/千葉県松戸市に新コンセプト店舗「SIPストア」オープン」とニュースが出ました。SIPなどと変な単語を使っているが、7イレブンに生鮮三品を加えたミニスーパーでしかない。この分野の最大手はイオン系の「マイバスケット」で都心部で1100店舗を構える一大勢力である。他に「マルエツ・プチ」「マックスバリュ・エクスプレス」など同様な形態は沢山ある。7&IのSIPが違うのは、コンビニの成功の源であるリスクを取らない、フランチャイズ方式を踏襲することですね。コンビニの加盟店主の最大のリスクは24時間365日店を開けて置かなけらばならないこと。①人件費は加盟主の負担。②商品の廃棄ロスも加盟主負担。③売上から仕入値を引いた粗利の60~65%は本部へ上納。とするリスクである。現在は人件費はうなぎ上りなので加盟店...コンビニ業界が変?

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える 4

    大島郡の古城の中で一番の論争は『大島郡古城址めぐり』に収録される平知盛の城のことであろう。これは、同書は⑦城山(島末城)平知盛城主(諸説有り)としています。ただ島末城とは誰が命名したのでしょうか?源氏の正史「吾妻鑑」は屋代島に築城するとしか書いていません。しかもこの城は屋代島の最中(真ん中もしくは中心地)に築城するとします。平知盛が直接築城はしていません、平家の臣である、屋代源三、小田三郎に命じて築城させるとしますが、築城期間が少なく完成はしていない模様です。屋代島の城を家来に築城させている間は知盛は下関の彦島築城に奔走していますので屋代島大島にはいませんでした。歴史書は寿永3年(1184)2月「山口県史整理年表」○平氏一谷城に拠る。防長の諸将これを赴援す【御両国御蔵入諸給領田畑小村帳一件記】とありますの...『大島郡古城址めぐり』を考える4

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える

    『大島郡古城址めぐり』が所収する古城は城名場所城主①城ノ坂城小松永坂城主不詳②岡本城西三蒲城主不詳③古城山屋代三蒲境城主不詳④石見城久保河内久保石見守主膳イ)久保主殿介維忠⑤東郷山久賀東郷来島出雲守⑥油由城由良左衛門九郎⑦城山(島末城)平知盛(他諸説有)⑧城山森村藤掛入道イ)藤懸入道出城⑨城山内入穴戸金丸園之助イ)金丸團之助輝國⑩城山和田2城城主不詳⑪城山油宇城主不詳⑫古城小泊城主不詳⑬城ノ岡城和佐城主不詳⑭磯兼館磯兼右近⑮古城安下庄城主不詳⑯清木城塩宇青木肥後守イ)岡部和泉守貞俊居す。(青木和泉守ともあり)⑰甲の山城城主不詳⑱田中城田中中務左近⑲古道城川間古道筑前守実久⑳古櫛山城秋金丸園之助輝国㉑津海木城戸田島崎佐渡守イ)嶋崎佐渡守久國㉒湯面城戸田城主不詳㉓宗岡城横見宗岡右衛門イ)宗岡右衛門佐俊光(一本...『大島郡古城址めぐり』を考える

  • 周防大島「古城址めぐり」を考える 2

    周防大島の古城とされるものは出典を殆ど「風土注進案」や「地下上申」等の地誌編纂時の里の伝承を元にしているので、「何時、どこの誰が」、がはっきりしないのも事実である。城と言うと天守閣のある立派な建物を想像しがちであるが、室町末期の戦国時代までは単なる領主の屋敷であった。これを「館」(やかた)と呼んだので、そこの主人は「お館(屋形)様と呼ぶようになりました。東北地方の下舘、角館、函館、等地名に残るのは領主の館があった所の名残で屋敷や街並みまで含めての範囲となります。城(いつき・グスク)は奈良期の防衛砦のイメージに近いのでしょう。「土が成る」と書きますので漢字上は土塁構築物ですね。朝鮮半島から古代、異邦人が日本に攻め込んでくる可能性がありましたので、西日本に多くの砦が築かれました。当時の日本はまだ、本格的な砦(...周防大島「古城址めぐり」を考える2

  • 『大島郡古城址めぐり』を考える

    周防大島町文化振興会が発刊した「大島郡古城址めぐり」を先日外入のSKさんより頂戴した。主に村岡只通氏、濱村治一氏の出筆になるものと思われる。両者の相当な力作であり、大島郡古城伝承をほぼ網羅しています。ただ、大島郡のこれらの古城はいつの年代のものかは不明で古書に書いてあるものも時期を明言していない。唯一例外的なのは源平合戦の折の平知盛が築城を命じたとされる島末城ぐらいであるが、この城も諸説ありはっきりしません。徒然なるままに愚見を述べたいと思います。ご意見、ご批評、感想等はコメント欄より投稿願います。『大島郡古城址めぐり』を考える

  • 昭和11年発行 【小松町誌】21

    昭和11年発行【小松町誌】【産業】(二)工業本町の工業には今尚ほ大して見るべきものはない。原因は大工業を施設すべき余りに土地がないのと、小工業も需給の関係上より以上に拡張発展する必要が無いと言った地理的事情があり、一面家庭工業は個々の仕事としては進展六ケ敷いもので、之を統一し、奨励する機関を必要とするため、現在までのところ其の法萌芽を見ないけれども、将来にありては、本町の工業的に進出を期待するのは恐らくこの方面であらうと信じられている。【醸造業】かかる事情の下に於いて憚り気を吐くものは醸造業である。本町醸造業は酒及び醤油ともにその品質優秀なること、今や全国的に知られるに至り、県下同業品評会に於いても常に優位に録せらることは心強い極みである。【主要工業物】種類製造高価格製造戸数酒五六〇石四四八〇〇円一醤油四...昭和11年発行【小松町誌】21

  • 台湾近代化に尽くした長州人 賀田金三郎

    台湾開発に貢献した実業家賀田金三郎【生没年】安政4(1857年)-大正11(1922年)【享年】66歳【誕生地】長門国萩米屋町(萩市)【墓】萩市北古萩町(海潮寺)札差商の賀田久兵衛の長男として生まれる。家業を継ぐも、明治18年(1885)に上京、藤田伝三郎の興した藤田組に入る。軍・官公庁などの各種物資用達に従事。後に大倉組に転じ、明治28年(1895)、日清戦争直後に総支配人として台湾に赴任、各種事業に従事した。明治32年(1899)には、台湾の通信・交通事業整備を志して独立し、賀田組を設立した。台湾各地に支店を設け、建築請負、用達、運送業を初めとして、樟脳製造、製糖、金融、開墾、農業など、幅広く事業を展開した。特に台湾東部の開発は、当時の台湾総督府も躊躇した事業であった。政府や軍の信頼を得て、後に要請に...台湾近代化に尽くした長州人賀田金三郎

  • ローソン落日の始まりか?

    昨日、KDDIは三菱商事、ローソンとともに株式公開買い付けを発表しました。三菱商事50%、KDDI50%の共同経営者として株式は上場廃止にするといいます。新しい電子商戦コンビニを目指すとします。コンビニの人手不足解消と、資源安で苦しい三菱商事と、NTT法改正でシェアを浸食されるKDDIの裏の思惑が一致した結果でしょう。負け組連合に見えるので業界は冷ややかですね。多分手始めにセルフレジを増設して、次に無人店舗を増やすぐらいでしょう。d-ポイントに差を付けられているので、ぽんたPの拡大も狙うのでしょう。この程度は別に今の経営陣でもできます。問題は出資比率が50:50ですね。これは船頭が二人いますので、船は右にも左にも、前にも後ろにも進みません。日本人の大好きな会議を延々と役員会でやって、議決も50:50になり...ローソン落日の始まりか?

  • 小松町誌 昭和11年発行 20

    昭和11年発行【小松町誌】【産業】(一)農業本町における主要農産物は米麦を主としているが、近年多角的農業の奨励される風潮に従って菜園勢方面にも着目さるるに至ったことは喜ぶべきである。左に農業統計を掲ぐ。農業戸数自作農小作農自小作農合計農業戸数九七一四〇六三三〇〇耕作地自作小作合計九耕作地田畑田畑五四三町0四四町0八三町五四八町四二百十八町九耕作地広狭別戸数五反未満五反以上一町以上合計一九六一〇二二三〇〇【みかん】本町も最近大島みかんの聲価発揚に連れて蜜柑の増殖頗る多く、現在の栽培面積二十二町に上り、樹数約一万七千本、生産四万七千貫を見るに至った。これに雑柑類を加算する時は二十四町、五万六千貫の生産量である。蜜柑面積樹数生産高二二町二一七一五〇本四万七千貫【家畜】家畜数その他の統計見るに次の如し。家畜牛兎鶏...小松町誌昭和11年発行20

  • 因島に残留の村上海賊衆のその後

    関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元が防長二州に封じ込められた時、因島義光、吉国親子も長州矢田間に二千八百石で移るが、後辞して野間郡佐方へ移るとされます。太左衛門家は周防屋代島に残り、三田尻の御船手組に出仕します。関ヶ原の戦い前までは、家中給人二百八十余騎、上下老若男女小者に至るまで八千余人とされますが、領地が二十分の一となり追々分散して減少すると能島村上家と同じ運命を辿ります。慶長五年以降、因島に残り続けた村上衆は千五百五十家に上るとされますので、因島は村上家だらけとなります。その一部を戸籍(壬申戸籍カ)に従って例示すると、①中庄町(八十三戸)平木十代村上鶴吉元祖、村上主殿は新蔵人吉充の弟で、その子六右衛門の後、数代を経て三右衛門(正徳六年・1715)帰農して以来二百五十余年相継代々大農として今日に至る。②外ノ...因島に残留の村上海賊衆のその後

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 5

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)5【大洲系譜三十八代】友直・安芸守友直息直幸大野重兵尉弟【大洲系譜】直秀・松前城主・毛利元就之幕・八代嶌ニ住居直秀息直政➡周防屋代島大野系図へ繋ぐ➡長州徳山藩毛利家中大野系図へ繋ぐ➡筑前福岡藩黒田家中大野系図へ繋ぐ弟【大洲系譜】直澄次郎左衛門始名直泰茗荷谷村中井谷村橘立花三郎兵衛尉初名ノ宣直為家臣直澄息直範【南予史】【表岸城】宇和川村汗生城とも云う、中井谷橘城の一族冨永直安の古城なり、家老に闋右衛門とて豪の者あり勇武に奢り他を軽蔑するがある時、城中の者共、川狩を催し八重栗の河中にて槍をもて突き殺したり、今に闋右衛門淵と云うなり。【南予史】【櫻ノ城】宇和川村中井谷に在り、橘城とも云う、冨永氏の古城なり。【南予史】【月ノ尾城】山鳥坂村横...大野家系譜(伊予大洲大野家本)5

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 4

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)4↓【大洲系譜三十五代】綱直(~九郎次郎実通繁二男、冨直依早世継家督宇都宮教綱烏帽子子也、久万山大乱未治無詮方自土岐光定召寄當家領分菩提所高源寺之僧、本当家興土岐同氏也為當家再興荏原久万山譲干土岐左京太夫成頼乞軍勢、成頼喜而語細川右京太夫政元以土州讃州之諸勢忽誅伐凶畢、其時状曰*(1492*土岐成頼書状へ飛ぶ)【細川政元書状(大野文書)】(端裏切封)「・---」當國久万山事、馳向明神葛懸城敵数輩討捕被官三人討死之由候、尤以神妙之至候所詮宇都宮森山一段被相談、平岡事不日被相支退候者、為分國別而可喜入候、仍太刀一腰遣候、猶大平中務丞(國雄)可申候也謹言〔文明十二年)五月十七日政元(花押)大野九郎次郎(綱直)殿(1489*細川政元書状)【...大野家系譜(伊予大洲大野家本)4

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 3

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)3大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)3【大洲系譜三十代】義直・左衛門次郎・左近将監安芸守・賜(足利)義満公諱・永和二年(1376)當国道後出渕有凶賊義直依抽粉骨戦功為上意感状伊与国打出道後出渕致忠節於其事尤以神妙弥可抽戦功状如件武蔵守頼之永和二年十二月廿六日大野左衛門次郎殿・又土刕就御退治細川満元状曰上意として土州退治之事、被仰出候間、執事を越候也、国境之事ニて候得者、憑入候、無等閑候者悦入候、委細状不申次第猶庄林入道可申候、兼又宇津宮方之事、自其能々御籌策ニて無子細候者殊本望候、将又上意之事連々可心得申也恐惶謹言八月七日(細川)満元大野殿(1197*本文書土佐国古文叢にも載す)*【予章記(山野井本)】*南朝方の立場応安元年伊予国ニ留リ...大野家系譜(伊予大洲大野家本)3

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 2

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)2【大洲系譜十九代】定武・太田八郎左京進・母源姓女・今度源平之戦不省父依忠功如父賜当国地頭職【大洲系譜】武清(定武弟)・於肥後国有凶徒依勅命而引率四国中国軍勢急而進発鎮西令凶徒追討揚威名感状数通帰国而先立父早世矦壽二十一歳↓【大洲系譜二十代】安清・久万権介実定清二男也・武清同母弟武清卒后継家督↓【大洲系譜二十一代】成清・六郎母源姓女・於鎮西討死↓【大洲系譜二十ニ代】成俊・久万弥太郎・降参者多分領大ニ治・実武清嫡男也*【予陽河野家譜】【河野通有弘安の役出陣ス】後宇多院弘安四年五月廿一日、蒙古襲来充満干筑前国志賀鷹嶋鹿島等海上、此時蒙勅命、通有主同嫡子千宝丸、伯父伯耆守通時主、一族別府七郎左衛門尉通高、執事久万弥太郎成俊以下、進発干彼所...大野家系譜(伊予大洲大野家本)2

  • 大野家系譜(伊予大洲大野家本) 1

    大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)1【大野直利嫡流】伊予史談会蔵(伊予系譜【オー34】)(はしがき)大野系図、大野略系図(分家)大野傳書之系大野家聞書の四本は、大洲大野某の所蔵にして今越智郡書記たる、小笠原珍丸の保管に属す。仝人は大野家所出にして而して大野家には着実の主人なく、亡失の處あるを以って、仝人の監督に移したるものなり。大野家の系譜記録多しと雖も、本書の如く詳悉にして、且つ要領を得たるものは、未だ曽て見ざる所なり。今回伊予資料展覧会に提出したるに因り、特に謄写して之を蔵置す。大野家には本書の外、陣貝(螺貝)一箇を珍襲す。伝えて、長宗我部氏と戦いたる時分捕りたるものなりと云う。此の四書を合本して假に大野系譜と題称す。右装幀に臨み事由を叙し以って参考に資すと云う...大野家系譜(伊予大洲大野家本)1

  • 因島村上文書 四、 大塔宮護良親王 令旨

    因島村上文書の中で一番注目されるのは下記の文書である。この文書をめぐって過去に大論争が起こり現在も決着を見ていません。この文書は元弘三年(1333)五月八日付の【大塔宮護良親王令旨】です。大塔宮令旨写度々合戰捨身命致軍忠之刻去四月三日同八日廿七日等合戰之時子息己下郎從討死之条尤以不便次第所有御感也早可有恩賞者大塔二品親王令旨如此悉之以状元弘三年五月八日左少辯(ママ)判備後国因嶋本主治部法橋幸賀館「度々の合戦に身命を捨て、軍忠を致すの刻、去る四月三日、同八日、同二十七日、など合戦の時、子息以下郎従討死の条、尤ももって不便の次第、御感有る所也。早く恩賞有るべき者(てへれば)、大塔二品親王令旨、かくの如し、之を悉せ。以て状す。元弘三年五月八日左少将(花押)備後国因嶋本主治部法橋幸賀館(びんごのくにいんのしまほん...因島村上文書四、大塔宮護良親王令旨

  • 因島村上文書 2

    01貞元年(1222)十一月十一日備後国因島中庄預所下文(賜給田)公文清原守高02[23]貞応三年(1224)四月六日備後国因島中庄頜家下文(公文職宛行)03[24]弘安九年(1286)十月日預所寄進状(放生会頭田)04[22]弘安三年(1333)五月八日大塔宮令旨写[度々合戰捨身命致]備後国因嶋本主05[25]天授三年(1377)三月十五日正民充行状[讃岐国弘田郷地頭]両三人06[26]応永三十四年(1427)十二月十一日足利義持感状[就播州事早々馳参]村上備中入道07[27]正長元年(1428)十月廿日山名時熙充行状[備後国多嶋地頭職]村上備中入道08[30]宝德元年(1449)六月十四日河野教通書状[去十一佐礼城打落]村上備中守09[28]享徳二年(1449)五月十五日管領細川勝元奉書[就河野伊予守...因島村上文書2

  • 因島村上文書 1

    因島村上文書を「とんぼ草」氏が整理してくれましたので転載します。背景や意味を共同で勉強したいと思います。協力してくれる方はコメント欄から投稿ねがいます。[01]『因島村上家文書』「目録」本文末尾に証文や家譜を上関(周防)で焼失しており委細不明とのこと。毛利家萩移封での因島村上宗家の同行時、周防上関深浦の浜で4か月近く待機しており、その時の焼失か(屋代源三氏)。①『因島市史料第五集の「因島村上文書」』より。②『因島村上家文書を読む』(以後、因島読)。③整理番号は本書で固定扱い。壱之巻01~31、二之巻32~42、参之巻43~51。④整理番号右肩に*は、②因島読で年が判明したもの。⑤整理番号右肩の[数字]は、閥閲録図書組村上太左衛門文書の山口県文書館編纂での整理番号。⑥整理番号右肩の+は、⑤で補足の年がある文...因島村上文書1

  • 大山鳴動して鼠一匹

    鼠たちがアルバイトで稼いだ、米を帳面に付けずにそれぞれが勝手に食べていたとして、鼠総取締役が調査に入りましたが、年老いた鼠と鼠の意向にそった子ネズミだけ捕まりました。世の中、大騒ぎをして政治の停滞を引き起こし「政治」そっちのけで、騒いでいます。もちろん今回の「政治資金規正法」違反で大騒ぎの事件ですね。内偵は昨年9月以前から始まっていたとされますから、それ以前に検察にチクった人がいたのでしょうね。たぶん根が深く、安倍さんよりの検事総長が変わってから検察は虎視眈々と狙っていたのでしょう。今回の結果が示すように、トカゲの尻尾切りで終わる割に、日本の政治不信が蔓延するので政治態勢が揺らぐだけですね。日本が政治不安定化するほど喜ぶ国が近くにあることを忘れないようにしましょう。安倍さんが生きていれば検察は手は出さなか...大山鳴動して鼠一匹

  • 今年の年金UPは2.7%

    今年の年金支給額は2.7%と発表されました。昨年の物価上昇が3.1%なので実質的に目減りします。昔は物価上昇%がそのままUPされていましたが、年金財政を守るため、マクロスライドなるものを考えだしたのでインフレ局面ではどんどん年金生活者は生活が苦しくなります。マイナス金利ですから物価上昇分現在の預金は目減りしますので実質、貯蓄も減っていきます。今年から新NISAが発足しますから、預金から株式投資へと政府は囃してますが、老人には殆どメリットはありません。新NISA導入で年初から株価が大幅に上昇とマスコミと証券会社が囃してますが、今の大幅上昇は新NISAとは全く関係ありません。現在の上昇を支えているのは外国投資家の大幅な買い越しが原因でNISA等の国内個人投資家はここぞとばかりに売りまくっていますので大幅な売り...今年の年金UPは2.7%

  • 世界で三番目の行くべき所 山口市

    ニューヨークタイムスは昨日、「2024年の世界で行くべく都市」に日本で唯一、山口市が三番目に掲載されました。県知事・市長は歓迎の意を表していますが、直ちに受け入れ態勢のP/Tを発足すべきでしょう。観光客が国内外を含めて昨年の8~10倍になります。県内の大手旅館は国内外の旅行社が昨日より必死で客室の確保をしようしています。10倍近くになると山口市では間に合いません。長門、下関、徳山、岩国、宮島、広島、津和野が総動員です。SL山口号は毎日運行すべきでしょう。JR西日本は旅行業界の意向を確かめて団体列車の編成に取り組むべきです。宇部・岩国空港もチャーター便の受け入れに動くべきですね。JALとANAは増便に動きます。JTBや近ツリ等の大手は山口市を中心とした新商品をもうすぐ緊急発売するでしょう。大型岸壁を持つ自治...世界で三番目の行くべき所山口市

  • 面倒くさいインターネットの世界

    スマホかパソコンを使ってインターネットを利用する者にとっては近頃は便利などころか面倒くささが目立ってきました。年寄りは錯乱するしかありません。パソコンのレベルUPによって操作方法が複雑になり、コボルやフォートランの世代には荷が重い。通信費が安くなったので全世界からウイルスが飛んできます。ウイルス防止のソフトは何の意味もありません。高い利用料を払っても次から次へとウイルスに感染しこのパソコンもダウン寸前です。インターネット通販をしたせいか、訳のわからないメールが飛び込んできます。殆どが詐欺メールですね。間違ってクリックするとメールの嵐になります。近頃はハニートラップがX(ツイッター)に多く来ます。若い女の子の写真とともに「お友達になりたい」ときますが、みんな引っ掛けで、今の所、殆ど中国本土からおっさんが虎視...面倒くさいインターネットの世界

  • 正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫所収)3

    ●大伴旅人↓●【兄】大伴家持宝亀十一年二ノ丙申三木二ノ申辰右大弁天応元年四ノ巳亥春宮大夫五ノ乙丑左大弁八ノ甲午東宮大夫十一ノ巳巳従三延暦元年壬正ノ壬子坐川継黨解却見任五ノ乙未春宮太夫六ノ戊辰陸奥按察使鎮守府将軍同二年七ノ甲午中納言同三年二ノ巳丑持節征東将軍同四年八ノ庚寅薨未葬種継事露見追除名大同元年三ノ辛巳復本位「家持略伝727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、家持も同じ頃平城京佐保の自...正統大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫所収)3

  • 正統 大伴姓大野系図(系図纂要 内閣文庫所収)2

    大伴安麻呂↓●大伴旅人養老四年三ノ丙辰征隼人持節大将軍天平二年十ノ一大納言同三年正ノ丙子従二同三年七ノ辛未薨六十七「旅人略伝672(天武1)年、8歳の時、壬申の乱勃発。父安麻呂は吉野方として参戦し、勲功を挙げる。乱後、母方の祖父と推測される巨勢比等は子孫とともに流刑に処されており、あるいは母巨勢郎女もこの時配流されたか。684(天武13)年、大伴氏は宿禰を賜わる。旅人はこの時20歳。701(大宝1)年、第七次遣唐使が任命される。伴氏系図は旅人を「入唐使」とするが、正史に記録は無い。705(慶雲2)年、父安麻呂は大納言兼大宰帥に就任する。708(和銅1)年、弟宿奈麻呂、従六位下より従五位下に昇進する。この年、藤原不比等が右大臣に就任。710(和銅3)年、元旦朝賀において左将軍(正五位上相当)として騎兵を陳列...正統大伴姓大野系図(系図纂要内閣文庫所収)2

  • 正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)1

    伊予大野系図は複数あって多くは天智天皇(大友皇子)を元祖とする書き出しで始まっていますがそれらの多くは同じ元本から派生したと見られます。中身は大伴を大友皇子の書き出しに代え、「神別系図」を「皇別系図」に変更しようとした形跡があります。今残る日本の多くの系譜が元祖を天皇としています(皇別系図)。勿論多くは加冒です。次に多いのが天皇の重臣たちを元祖とする(神別系図)ですね。その他、地方豪族(國造)や外来人を元祖とするものもあります。いつの時代も日本の中心家であった天皇家に対する尊敬は厚く、天皇の子孫以外も天皇の子孫と系図を加冒することは絶えませんでした。流布されている伊予大野家系図もその一例ですね。ただ唯一、系図纂用や内閣文庫に所収されている『大伴姓菅田大野系図』が史実に近いものと思われます。これらを少し補強...正統大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)1

  • 村上海賊の系譜 3 来島(久留島)村上家

    村上海賊の系譜3では来島(久留島)村上家について説明します。諸説ありますが、村上師清から能島村上家、久留島村上家、因島村上家が分れたとする説で書きます。それぞれが拠点とした、能島、来島、因島から三島村上とされます。流れ的には、因島村上海賊は中国地方の小早川氏、後は毛利の影響が強く【百合文書】の京の東寺に塩を運んだ運送人として初見されます。これらに対し、能島村上や因島村上は伊豫河野家に近く、能島村上は早くも「藤原純友の乱」の時一緒に純友退治をしたとしています【予章記】それに同書は村上を流人一族と書きますので、これが何を意味しているのかは不明です。ただ、同書は河野家の古い時代を書き残してとされる文書ですが前半は荒唐無稽なことが多く、伊豫史談会初代会長の景浦氏はあまり史書としては参考にならないとしています。確か...村上海賊の系譜3来島(久留島)村上家

  • このブログの見方とコメントについて

    拙い記事の「周防大島物語」へお越し頂きまして有難うございます。投稿数が増えたのと、ランダムに投稿していますので見たいテーマが混乱するとの指摘を受けています。このブログの見方を説明します。①個別のタイトルの真下に投稿時間の右にカテゴリー(テーマ)があります。このカテゴリーをクリックすると同じカテゴリーが纏められます。②カテゴリーの一番下に複数記事がある場合は「次ページ」で古い記事が現れます。「次ページ」は元の(新しい)カテゴリーに戻ります。③画面左に纏められているカテゴリーをクリックしても操作は同じです。記事は直近の投稿から表示してありますので、順に見ないと分からない場合は古い順に見て下さい。④意見・感想はそれぞれの記事の右下に「コメント」の表示がありますのでクリックして下さい。そうすると「コメントを投稿す...このブログの見方とコメントについて

  • 大龍寺(現龍心寺)歴代住職

    以前、ある人を通して、大龍寺歴代住職一覧を、現在の住職、渡辺和尚様から頂戴した。下記の通りである。【】内は他の文書を出典とする筆者の加筆である。【海印山龍心寺(元大龍寺)歴代大和尚】開山海應玄巨大和尚二世中興易應等周大和尚【周高カ?慶長十三年和田良禅寺屋敷跡へ移る】三世揚雲永播大和尚【元正寺建立ス住職周高(大野兵庫直政弟・峯雲周高禅師)元和八年和田村大龍寺住持揚雲の時片山極楽寺屋敷引移寛永十二年焼失し宝物旧記本尊悉皆焼失、寛永二十年同村石井二尊院屋敷に建立】四世雄山玄英大和尚五世禅室傳宗大和尚【慶安二年一洞院葬式の堂主・久国天良和尚(檀徒大野直政三男)伊予大野家末裔】六世一玄警察大和尚七世閑鷗守澤大和尚八世大泉高徹大和尚【・大泉出家防州大龍寺現住「伊予・上川村大野系図」(伊予・太田上川村大野直棟の妹(林宗...大龍寺(現龍心寺)歴代住職

  • 徳山藩 大野家略系譜 2

    長州徳山藩大野家略系図先々代大野直秀(隆直)[冨永傳兵衛]【黒田藩へ】『屋代島大野系図・徳山藩大野系図』隆直(直秀)(1530~1595)・備前介左近大輔久万王先代大野直政(友田治兵衛)(宗竹)【屋代島野島村上家家老】(1552~1637)・久万王兵庫助後友田治兵衛・落髪後宗築ト云(後世加筆)・母曽祢氏・寛永十四年(1637)酉十ニ月廿五日八十五才ニテ逝周防國大島郡八代島大竜寺ニ葬ル後正福寺ニ移ル法庵宗如居士ト号ス直則代ニ百五十回忌ノ際大乗院ト追謚ス(後世加筆)初代大野直廣(堺九太夫)【先代大野直政の次男・徳山藩へ仕官、徳山大野家初代】【徳山大野系譜】徳山大野祖直廣(1593~1641)・堺九太夫・寛永十八(1641)巳八月十一日四十九才而逝号月秋道海居士葬八代島八代村ノ内福正寺山・室富山清左衛門女貞亨元...徳山藩大野家略系譜2

  • 徳山藩 大野家略系図 1

    【注】このブログはスペースも含めて10000文字しか入りませんので分割しています。長州徳山藩大野家略系図先々代大野直秀(隆直)[冨永傳兵衛]【黒田藩へ】『屋代島大野系図・徳山藩大野系図』隆直(直秀)(1530~1595)・備前介左近大輔久万王・一ニ直秀トモ云フ・流浪後傳兵衛ト称ス(後世加筆)・妻ハ曽根信孝娘後妻大友氏ノ娘輝元公ノ妾竹ノ丸殿牧村九左衛門母ト三人兄弟也・天文十一年(1542)大内従二位義隆卿依裁許受領應大内ノ命軍功有リ・受領證文天文十一(1542)七月廿ニ日ナリ小湊後誥等書翰有之・此時迄久万小田ノ地古給六千貫ヲ領ス・伊豫久万山ノ城ニ住ス・法名一露上珍ト号・文禄四年(1595)己未十月二日歿*徳山本には上記没年はない。後世の加筆か?一、傳云永禄年中四国乱逆大野久万山ハ土佐境故一条家伊予働ニハトカ...徳山藩大野家略系図1

  • 村上海賊の系譜 2 能島村上一学家

    村上海賊の系譜2では能島村上家の分家一学家について説明します。能島村上総帥武吉の長嫡男元吉が関ケ原の合戦に呼応して豊臣家の名代として伊予松前・正木の城受取りに出向いた所で加藤家留守部隊の策略で夜討ちにあいあえなく討死します。父武吉を支え能島村上家の立て直しを図ったのが弟の景親です。この家を萩藩では一学家とします。尚、武吉以前の先祖は、「能島村上図書家」でUPしてありますので参照願います。【能島村上一学家略系譜】元祖道祖次郎掃部頭大和守村上武吉太栄6~慶長9(1532~1604.8.22)72才法名大仙寺殿覚甫元正居士母平岡左近将監女室来島右衛門大夫通康一女・妙輪・ムメ(~天正14/6/5)法名香厳院殿梅甫妙輪大姉・俗名ムメ後妻来島通康二女・妙三・ハナ(~慶長12(1606)/3/11)【元正寺墓有武吉墓後...村上海賊の系譜2能島村上一学家

  • 村上海賊の系譜 能島村上図書家 1

    能島村上図書家とは三島村上の総帥であったとされる能島村上家の系統です。所謂、本流の中の本流宗家となります。即ち、村上武吉の長嫡男家となります。次男嫡男家は別途「能島村上一学家」としてUPします。データベースは村上図書の時代に萩藩に提出した家譜と最期の殿様、村上兼助が記録した譜録です。紙面の都合上略系譜とします。尚一部他文献より私が加筆しています。【能島村上図書家略系譜】元祖【村上源氏】人王六十二代村上天王(926.6/2~967.5/25)↓始祖二品中務卿具平親王(964.7/30~1009.8/21)↓二代始賜源氏姓源師房(1008~1077.3/14)↓三代六条右府源顕房(1037~1094.10/6)↓久我家祖久我雅實(1059~1127.2/5)太政大臣↓右大臣久我雅定(1194~1162.5/2...村上海賊の系譜能島村上図書家1

  • 村上海賊の系譜

    周防大島と村上海賊は切っても切れない関係にありますね。諸説ありますが村上海賊の系譜を見てみましょう。ここでは村上天皇流能島村上家の宗家をとりあげます。村上海賊は大きく分けて,①村上天皇流と②清和源氏流と③まったく瀬戸内海の漁民(ムラグミ)が組織化されただけの集団(民族学者・宮本常氏一主張)等に分かれます。また時期的に「前期村上時代」と「後期村上時代」とに分けてその関連性は不明とする説もあります。基本的に歴史は人間が繋いできた過程を記したものですから、エヴィデンスとすれば一つでしょう。ただ、一次史料極少なので類推歴史書が多いのも事実ですね。系譜や系図はそれそれの家が伝承してきたものですから、同じ系譜でも書かれた時期により異動が生じます。また、古くなった同じ家の系譜でもその書き写す時の人の性格とその時代の常識...村上海賊の系譜

  • 小松町誌 昭和11年発行 19

    昭和11年発行【小松町誌】【社寺教会】(六)寺院【四福寺】真言宗醍醐派で大字小松字北町にあり。本尊は地蔵菩薩である。明治二十一年十一月下関市伊崎町より同所に移されたものである。【称念寺】浄土宗で大字小松字南町にあり、本尊は阿弥陀如来である。明治六年十二月玖珂郡より同所に移されたもので、本寺は実相院である。明治十一年八月改称されたるもの。【妙善寺】真宗で大字小松字石丸にあり、本尊は阿弥陀如来である。往時真言宗光照寺古跡に天正十八年八月再興、寛永十二年正月改宗改號さる。【淨蓮寺】真宗で大字小松字石丸にあり、本尊は阿弥陀佛方便法身である。寛永元年七月寺號公称さる。【雲蓋寺】黄檗宗で大字志佐字砂堀にあり。本尊は観世音菩薩である。明治三十七年三月玖珂郡由宇より同所に移されたものである。【長命寺】真言宗で大字開作金屋...小松町誌昭和11年発行19

  • 小松町誌 昭和11年発行 18

    昭和11年発行【小松町誌】【社寺教会】(3)村社笠佐八幡宮小松町に属する笠佐島に鎮座する神社で、祭神は応神天皇、神功皇后の二座、それと田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命が合祀されている。本社は寛永六年(1629)、山城國男山八幡宮より霊を迎えて勧請されたもので、明治六年十月村社に列せらる。源三・注)江戸期の早い時期の笠佐島に集団で島民が住んでいた証ともなります。ただ、般若姫伝説では、大分から都に上る、般若姫に島民が笠を捧げたとするエピソードから笠捧島とされ後に訛り、笠佐島とするとします。般若姫の一行は暴風雨に逢い、小松瀬戸で遭難とされます。後に勅使が下され、大畠の鳴門明神に般若姫を祀るとします。地元では般若寺の方が有名ですね。大島郡の多くの八幡様が八幡総社の宇佐八幡宮からの分社が多い中で、男山八幡宮からの分祀...小松町誌昭和11年発行18

  • 慶長七年「黒田藩分限帳」に残る能島村上衆

    秀吉の「海賊禁止令」は瀬戸内海賊の勢力をそぐに十分でした。失業した多くの海賊衆は、秀吉の「朝鮮出兵」にともない多くの西国武将に仕官することができました。関ヶ原の戦いは海賊衆を壊滅に追込みました。織田信長を支えた九鬼海賊や、秀吉に寝返った来島村上海賊は大名としては残りますが、どちらも山奥に押し込められ水軍として力を蓄えないようにしました。「岡に上がった河童」となりました。毛利家に付いた因島村上衆、能島村上衆は関ケ原の敗戦で防長二か国に毛利家が押し込められことにより、毛利家警固衆とともに毛利家御船手組(水軍)として三田尻に出仕します。御船手組の領地の殆どが大島郡となりました。下記の黒田家分限著帳に残る能島衆は能島村上家をレイオフされて福岡・黒田家に召し抱えられた人たちです。他に、細川家等の西国大名にも因島村上...慶長七年「黒田藩分限帳」に残る能島村上衆

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、屋代源三さんをフォローしませんか?

ハンドル名
屋代源三さん
ブログタイトル
山口県周防大島物語
フォロー
山口県周防大島物語

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用