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日々これ好日 https://shirane3193.hatenablog.com/

57歳で早期退職。再就職研修中に脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。治療終了して自分を取り囲む総てのものの見方が変わっていた。普通の日々の中に喜びがある。スローでストレスのない生活をしていこう、と考えている。そんな日々で思う事を書いています。

杜幸
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2023/03/09

  • 嬉しい副作用

    何時からだろうか、「お薬手帳」という冊子が登場しそこに自分が処方された薬が時系列で記録されるようになったのは。それまでは医師の診察を受けてから病院で薬を貰っていた。ところがやがて病院は処方箋だけの発行と変わり、薬は処方薬局で貰うようになった。そんな医薬分業は1990年代に一般化したという。 2000年代に転勤したヨーロッパでもすでに医薬分業が行われていた。薬は薬局で。ドイツではアポテーケが、フランスではファーマシーがそれだった。どちらも看板のマークは統一化されていて赤のAマーク看板、緑の赤十字看板を探せばよかった。日本の処方薬局には統一されたマークが無く、インバウンドの方には解りずらそうに思う…

  • 学友

    学生時代の仲間二人が我が家に遊びに来た。年賀状のやり取りだけとなった関係から久しぶりに会おうと切り出したのは僕だった。そしてこの数年の間に何度か会ってきた。 S君は今や行税書士事務所を四軒経営している男だった。学生時代からすでにサラリーマンではなく公認会計士を目指していた。それが行政書士に落ち着いたとしても、満願成就だな、と思った。定年など存在しない。働ける限り働けるのだから。あまりメジャーではないこの職業を日向のものにしたいという彼の思いはすでに都内と横浜市に支店を多く構えている時点で達成していると思った。 もう一人のM君は学校卒業後に就職した会社がいくつも分社化した影響もあり、今は当時とは…

  • 苦労とご褒美

    ああ、極楽だぁ。 頭にタオルを載せたオトウサンが唸った。彼は八十歳を超えているだろうか。するとたまたま鉢合わせただけと思われる男も頷く。まったくですねぇと。その男は還暦を越えているだろう。禿げ頭でお腹が出た初老の男だった。天空は蒼く渡る風は心地よい。湯は硫黄の匂いが漂うが熱くはなく、肌がすべすべするように思える。 男は考える。こんな時に確かに自分も「極楽」と口にするだろう。勿論その前に「ウーッ」や「アーッ」と唸ってからだ。一体なぜ、唸った上に極楽というのだろうか?そもそも極楽とは、なんだ。極めて楽しい?楽しさの極み?何げなく使ってはいるが。男は不明があると広辞苑を開く。デジタル社会を生きるアナ…

  • 寝言

    暑いさなか、犬は板敷きに横になっている。気持ちが良いのだろう、寝ている。しかし時々何か唸る。寝言だろうか。犬語は理解できないが何と言っているのか気にはなる。 家内も時々寝言を言う。急に唸ったり、ああ、と声を出すこともある。明瞭な言葉をしゃべることもある。そんな時申し訳ないが起こしていまう。おい、どうした?悪い夢か?と。大抵の返事は、どうしたの、夢?どんな話かなあ、とひどくのんびりしたものだった。夢の中身を問いただしたくなるのは何故だろう。一時自分は寝床にノートを置いていた。夢を見ると大抵尿意で目が覚めるがそんな時どんな夢だったのかを書くようにしていた。しかし寝ぼけ眼なので字は支離滅裂で後から見…

  • 待ちわびたよ

    忠犬ハチ公を知ったのは幼稚園の時だっただろうか。渋谷という街に銅像があるという。そしてハチ公にまつわる話を聞いた時に、自分の犬に対する思慕は高まった。以来、ずっと犬が好きだ。当時東京都大田区に住んでいた叔母の家に何故泊まりに行ったのかは覚えていないのだが、叔母に頼んで渋谷のハチ公を見に行った。アオガエルの様な電車が記憶にあるのでそれは東急池上線だったかもしれない。五反田で乗り換えた。銅像は思ったよりも小さかったが、これがあの犬か、と嬉しかった。渋谷にキャンパスのある大学に進んだ。ハチ公は飲み会の集合場所となり馴染となった。七年間亡くなった飼い主の帰宅をこの駅で待ち続けたという。なんともいじらし…

  • 裏返し

    週に三、四回程度、日が落ちる時間帯に一時間程度ノルディックウォークをしている。高原の空気が冷えてきて歩いていても心地よい。ポールを突いて後ろに突き出すように動かす。時折ポールはグレーチングの穴にはまってしまい動きが止まる。カーボンのポールが折れてしまったら困る。グレーチングが続く路肩を外しやや車道寄りに歩くようにした。 平地や下り坂では前を見て歩くが登り坂では足元を見る。前方に何かがあった。石ではない。近づくと渦巻の殻だった。カタツムリだろうか。 なぜ路肩の雑草から五十センチ以上横に出て車道に居るのかが分からない。近づくとぬけ殻ではなかった。ナメクジの様な本体が殻から出ていた。アスファルトはま…

  • ハローワーク

    昔は「職安」と言われていた。今ではハローワーク。名前が変われば印象も変わる。その建物には以前ほどの悲壮感を感じない。就職した会社で会社人生活を全うする人は今はいかほどの割合だろうか。終身雇用という仕組みは消えた。しかし自分が社会人になった頃は社会は未だそんな神話を信じていた。 都市銀行や証券会社などで不良債権や不正会計などで消えていくものもあったが経営陣は泣く泣く謝っていた。従業員には罪はないと。しかしそこから数十年、今では人員整理や希望退職という名称はよく聞くようになった。会社は存続・発展のためにある。その為にはかなり大ナタを振るわなくてはいけないこともある。バブルの崩壊、リーマンショック、…

  • 夜の散歩道

    一日を病院の待合室で過ごした。とても混んでいた。二科を受診しようとしたのだから時間がかかっても仕方がなかった。朝十時前に家を出て診察を終えたら十四時だった。外に出てホームセンターで培養土を買った。庭木を少しづつ植えようと考えていた。 帰宅したら疲れてしまった。遅い昼食を食べると眠くなる。今、自分は自らの体に正直にありたいと思っている。眠いのならばそうするだけだ。体が休みを欲しているのだ。しかしその眠気が体の疲れからなのか脳の活動低下によるものかは自分では判断が付きかねた。 ガン病棟で自分には夢が出来た。それはこの高原に住み新しい生活を始める事だった。抗癌剤も放射線治療も、その先にはストレスのな…

  • 口の匂いを嗅ぐ医師・福之記14

    あんたの口はひどく臭いぜ 映画「ダーティハリー」でクリント・イーストウッド演ずるハリー・キャラハン刑事は身勝手な上司にこう言いのける。 余りに強烈なセリフなので子供ながらに覚えてしまった。権力を笠に着て無理な捜査を強いる上司に対しての言葉は、ある意味相手の人格の全否定に思えた。口臭とはかくも大切なのか。そうその時思った。 口腔状態は良好でも胃などの消化器官の具合が悪ければ口は臭う。またタバコやコーヒーの常習者も独特の、避けられぬ不快な口臭がある。タバコは一切口にしたこともないがコーヒーは飲む自分とて、匂いはあるのか。そもそも歯磨きも乱雑だから気づかぬものでも自分も人を不快にさせていたかもしれぬ…

  • 鯵の開き

    宅急便が届いた。思ったよりも重く、手にした箱は冷えていた。あ、クール宅急便か。 学生時代、自分は容姿が劣る事を十分認識していた。それが僕を引っ込み思案にしていた。特に女性はやたらに眩しく見えた。お洒落な学校だった。もう誰もが制服姿の女子高生ではなく大人の女性だった。アクセサリーや香水の香りが更に僕を緊張させた。自分は全く委縮した肉の塊だった。彼女達が近くを通り過ぎただけで下腹部に熱いものを感じた。頑張って話しかける。自分でもわかるほどに顔が赤くなっていた。いくつもの憧れが風船のように大きく膨らんで来たが、途中で萎むか、手を離れて飛んでいってしまった。…本当はもう少し前向きなはずなのにな、という…

  • 壁飾り

    引っ越した高原の家にはこれまで飾っていなかった絵を飾った。簡素な部屋にしたいのに妻が作った額入りの刺繍や飾っていなかった絵も飾るとなんだか急に所帯じみてしまった。そこで居間から絵を外して、代わりに寝室と自分の書斎に飾った。 自分の部屋には妻の刺繍、南アルプスを描いた甲府盆地の絵、そしてデュッセルドルフのライン川の西岸の森の絵を飾った。迷った挙句に、そこに一枚の絵を追加した。本物は遠くウィーンの美術館にある。複製画も買えるわけもない。それは多分写真をスキャンしたのだろうか、ポスターだった。それを額に入れて壁に掛けたのだった。 西洋絵画など子供の頃は興味が無かった。しかし中学や高校の美術の教科書は…

  • さんぽ

    あんまり元気に歌わないでね。そう男性が声をかけている。車椅子で歌うのは女性だ。年齢からみて父と娘か、いや、祖父と孫か。もう一人の女性も付き添っていた。父と娘そしてその娘。言い換えれば母子とその父親、祖父と子と孫。そんな関係だろう。車いすの女性は年齢がよくわからない。二十代にも三十代にも思えた。 彼女はしかし繰り返す。「♪あるこ、あるこ、わたしはげんき」と。場違いで調子のはずれた呑気な歌声は病院の白い壁に少しだけ反響していた。僕はその歌を知っていた。諳んじている。それどころか僕も大声で歌ってきた。森に棲み、傘をさして空を飛ぶ。ときに猫型のバスにもなる。幼い姉妹は森でそんな大きな妖精に出会う。彼は…

  • た・ね・い・ぬ

    フゴゴゴ…。ふと目が覚める。妻のいびきかと思う。そうかも知れない。少し眺める。するとウガガガと聞こえた。横たわったお腹が大きく膨らんだ。息を吸ったのだろう。・・なぁるほどそうか。夢でも見ているのか。どんな夢なのだろう。そう、半年か。そんなに経つのか。 最近顔つきが変わったね、と妻は言う。それは僕も感じていた。柔和と言うか安堵というか。安心が落ち着きさを呼んだのだろうか。 犬の一年は人間の六年とも七年とも聞く。すると半年では約三年か。彼にとりその三年間は大きな変化だったのだろう。もう昔のことは忘れたのか。 彼が生まれて五年間過ごしたのはブリーダーの施設だった。運営者が高齢となり犬を手放した。それ…

  • 赤提灯

    学生時代の仲間に部屋に赤提灯を飾っている奴がいた。もしかしたらそれは何処かの店先からかっぱらってきたのかもしれなかった。夜になりそれを室内で点灯させるのだからまるでその四畳半は怪しげな飲み屋になる。実際そこに男どもが安い焼酎やそれを割るためのコーラ、それにスナック菓子を持ち込んでは他愛のない話をしていた。時としてそこは雀荘にもなった。 部屋の主は何故かあぐらもかかずに足を女性の様にくずしている。紫のジーンズをはいた彼はニコニコ笑いながら煙草の煙で輪を作っていた。煙草の煙と酸欠になりそうな部屋。話のネタは時に猥雑で、それがますますその部屋の魅力を作っていた。 その当時の僕のアパートの隣室には宮城…

  • 表情

    人間には喜怒哀楽がある。それが表情として現れる。それはしかめっ面よりは満面の笑みのほうがよい。周り全てが幸せになるから。しかしそうもいかない。人間は感情の動物だ。 山にも表情があると知った。引っ越した我が家の窓からは深田久弥の言葉を借りるなら「碧芙蓉」そして「極めて印象的なオベリスク」。甲斐駒と鳳凰三山、この二峰が目の前にドンと屏風の様に並ぶ。僕は毎朝挨拶をしている。 毎日飽きずに見ていると、知った。彼らには表情がありそれが変わっていくのだった。山が人間の様に感情を持つとは思えぬが、何故日によって顔つきが違うのだろう。この地に越して来た時、これら南アルプスの峰にはまだその肌には残雪を見た。冬の…

  • 寄り切りの軍配

    坂道の途中の変速は好きではない。特にフロントの三枚。ダブルレバーを触るときに少し緊張する。チェーンがインナーに落ちるタイミングと足を動かすタイミングに僅かな隙間があるのだろうか。チェーンが脱落してしまう。ペダルは空回りになるがそれは良い方で、時にインナーとボトムブラケットの間の隙間にチェーンが落ちてしまう。クランクはもう回らない。初めてそれを経験したときに分からずにペダルを強く踏んだら、なんとリアディレイラーの取り付けエンドが曲がってしまった。 以来登り坂の変速はトラウマだ。坂道が来るのはわかっているのだからギアを早めに落とせばよいのだ。遅れたら少し戻るなり道を横切るなり安全確実な場所で変速す…

  • かがやく道

    音楽に気軽に接することが出来る、手軽に静かに本が手に取れる。そんな街に憧れている。それにはもちろん、東京や横浜が良いのだろう。世界屈指のオーケストラが、ソリストが来日するし音楽会など毎日どこかで行われている。ドームには大物バンドも来日する。しかし有名無名を、プロ・アマを問わなければ音楽に触れる機会はとても多い。大型書店も健在だ。 この地に引っ越す前から役所や観光案内書に行っては様々なパンフレットを手にしてきた。それは音楽会の下調査でもあった。その地に根差した管弦楽団も、若手のソリストによる音楽会も多かった。むろん友人がトランペットを吹いている吹奏楽団もあり、ビッグバンドのライブ、フェス、高原音…

  • 晴耕雨製・ラジオ作り

    新しく住み始めた高原の天気のサイクルはなかなか読めない。晴れる時は思い切り晴れるが降る時はしっかり降る。風が強い日もあれば弱い日もある。海抜九百メートルの地では雲は目線より少しだけ高いだけだ。三千メートル級山岳に南北を挟まれている。南には300mの標高差で富士川が谷を東西に刻んでいる。その谷の上部に雲が出来るとそれがここでは目線の高さになる。時としてこの地は細かい雨に包まれるがそれが低気圧の雲によるものなの谷から生まれた雲によるものなのかはわからない。 ここ数日、夜から朝にかけて激しい雨が降り、昼は快晴という日が続いていた。また一日雨という日もあった。この地に来てから食材の買い物のパターンを変…

  • 森のカフェ

    アカマツがゆっくり風に揺れている。僕はそれを飽くことなく見ている。どのくらい時間が経ったのか、それも定かではない。 高さは三十メートルあるだろうか。真直ぐに伸びてその頭部に葉がある。巨人の使う歯間ブラシに見えなくもない。ムーミン谷に住むニョロニョロとも思える。そんな彼らはゆっくりと風に身を任す。木が揺れているのか、大地が揺れているのか、天が動いているのか、分明ではなかった。ただ大きな力が、そこに在った。 森のカフェのテラスで僕は思う。これまでの自分の生きざまは何だったのだろうかと。管理職で会社と部下の板挟み。無能力の自覚。適応障害。精神安定剤と抗うつ剤の日々。精神科の白い壁。早期退職。癌の発病…

  • 僕達のベーグル

    ベーグル。調べてみると東欧が発祥らしい。しかし初めてそれを知ったのは間違えなく米国だった。ゲート周りに漂うキャラメルポップコーンとシナモンロールの甘い匂いとそれはセットになっていた。シカゴ・オヘアかサンフランシスコ。そのあたりの空港だろう。通路にワゴンを出して売られていた。プレーンもありサンドイッチもあった。アメリカでサンドイッチを頼むのは辟易していた。マンハッタンのサンドイッチ屋で気軽な朝食をと思い街角のスタンドに寄ったが何を挟むか?という質問に答えられなかったからだ。オムレツも然りだった。全てと言えばよいのだがそうもいかない。不愛想に思える店員の事務的な問いに戸惑った。以来苦手になってしま…

  • 父と娘

    長女が学生の頃は毎年正月休みに二人でスキーに行っていた。運転が面倒くさいので日帰りバスツアーで長野は菅平方面のスキー場だった。気楽なもので娘と二人で帰りのバスの中ではずっとビールを飲んでいた。プッシュプッシュと蓋が開きするめや貝ひもを食べる。明らかにバスの中で僕らは浮いていた。又登山にも連れて行ってくれと言うので登山道具店に行き装備を買った。何度も山に登った。ゴルフや駅前の赤提灯も二人で行くこともあった。僕は傍目に二人の関係がどう見えるのか、少し不安だった。そこで聞かれもしないのに注文を取りに来た人に自分達は親子なんですが・・などと釈明していた。 次女と二人で出かけるとしたらそれは音楽会だった…

  • 朱の花びら 甲斐からの山・三方分山

    余りに可憐なものを目の前にするとどんな思いがするのだろう。落ちたものなら良いだろう。僕はそれを無意識に拾っていた。そして手帳の間に挟んだ。 さらに等高線を稼いだ。ブナの新緑は見事だ。空気が緑色だ。そしてそれは自分を透過していく。血液は喜び自分は生まれ変わる。そんな林に花を纏う樹が共に茂るとそこにコントラストが生まれる。それぞれの色彩が競い合う。まるで色の舞踏会のようだ。曇天の中を歩くのはは本来好きではないがこの季節の雨上がりの翌日などは夢幻を進んでいくようにも思える。霧の粒子なのか雲の粒子なのかもわからない。粒子にはムラがあり薄くなり濃くなる。絶えず動いている。それが肌に触れる。気持ち良いがい…

  • ルーズな奴ら

    高原の地に移り住んでから車に乗り走る距離が格段に増えた。都会の住宅地では十分も歩けばコンビニもスーパーもあった。この地では車で三分、歩いて二十分だろうか、小さいが必要なものは何でも揃う店がある。しかし自身の病院や犬の病院、色々な食品、衣料、ホームセンター等に行くならば車で二、三十分は必要だ。信号停止も渋滞もないのだから所要時間は同じでも走行距離は二倍以上ありそうだ。 車の中では大きな音で音楽を聴く。クラシック、70年代までのブラック、70年代までのロック・・。バンドでは低音楽器を担当する自分はやはり無意識に低音をブーストしてしまう。そんなふうにベースとバスドラがズンズン響くと運転は楽しい。 S…

  • 分水嶺

    甲府から自宅へ帰る途中だった。駿河湾に流れ出る富士川はこの地に遡るまで幾つにも分かれる。本流は釜無川と呼ばれる。それに沿った道だった。甲府には修理のために自転車を車に載せて店に訪ねて行った。プロの手によりそれは直ぐに治った。自分はサイクリストを名乗りながらもチェンリング一つ自力で外せなかった。さすがプロだという感心と、自分は何もできないし直そうという気概もない、そんな敗北感が混じりあい自分を運転に集中させなかった。釜無川に沿って緩く登る国道二十号線は決して楽しいルートではない。特に自分が乗っているような旅をする自転車・ランドナーに乗るのなら多少遠回りでも旧街道や並行して走る農道や里道が楽しい。…

  • 私のベーグル

    友から手作りしたベーグルを頂いた。とても美味しい。簡単だよ、と友は言う。トライしないわけにはいかない。 ネットには様々なレシピがある。最も楽そうなレシピを選んだ。生地作り、一次発酵、形作り、茹で上げ、二次発酵、焼き上げ。そんなステップと知った。材料はイースト菌以外は全てある。それを買い求める。が、なかなか着手出来なかった。怖かったのだろう。 妻はパンやケーキ作りが趣味だった。過去形にしたのはもう十年もそれを食べた記憶がないからだろう。しかし娘たちが高校生辺りになるまでは良く作っていた。それを受けて彼女たちも又クッキーを焼いていた。僕はただ、食べるだけだった。 本当に作れるのだろうか。物は試しと…

  • 図書の旅40 マイ・ブラームス

    ●マイ・ブラームス 舟木元 文芸社2006年 この1600字の文章の題を考える時に僕にはこう浮かんだ。「美男子なのに得をしない」と。普通に考えるとハンサムは得をする。醜男は眉目秀麗な男子を見てため息をつくだろう。羨ましい、と。ではその得とは一体何だろう。 図書館で借りてきた本の表紙を見て妻は言うのだった。「あら、イケメンね」と。成程、それは僕も否定しない。愁いを帯びたナイーブな青年に見える。彼の肖像画は多いが、たいていは髭もじゃの不愛想な初老から老人の物が多いだろう。有名なイラストには後ろ手を組んだ髭を生やした小太りな初老の男性がネズミを連れて散歩する、そんなシルエット風のものもある。ネズミは…

  • やる気スイッチ・スープカレー

    北杜夫氏は自分の好きな作家だが、彼を人気作家にのし上げた1965年の書「どくとるマンボウ航海記」はいったい何度読んだのか。水産庁の調査船の船医として彼は船に乗り込み航海に出た。彼にとり初めての海外だ。スリランカのコロンボに立ち寄った時の話は今も記憶に残りある料理を思い出させる。そして何故か汗をかく。コロンボで本場のカレーを食べようとレストランに出かける。出てきた料理は日本の物とは全く違い、鳥のモモ肉に赤っぽい汁がたっぷりかかっている。完全に赤唐辛子の色。しかし辛い物が大好きなマンボウ氏はこんなもんに負けるかと一口すする。口中がヨウコウロの如き。ビールと水でうがいをしては断末魔の吐息をついた。と…

  • 二台の車

    全く不思議だと思う。自分と妻の間に生まれた子供は半分自分で半分は妻。しかしそれは受精卵の話であとは自らが細胞分裂を続け十ケ月後に「オギャア」と世に出てくる。そこからその子は母と父を最も重要な影響を与える因子として成長していく。ある時は母に似てある時は父の生き写しとなる。それは外見ばかりでなく、その子の嗜好や思考にも及ぶ。 二人の娘がいる。自分には数えられない程悪い点があり、少しだけ良い点もあるかもしれない。カードの赤が良い点、黒が悪い点とする。すると二人にはそれぞれハートとクラブが、ダイヤとスペードが遺伝している。赤と黒は二分され、自分の醜さも、そして僅かに感じる憎めない点が違う形で二人には見…

  • ご主人のベーグル・奥様のジャム

    友人の家までは車で三分だろうか。しかしそれは都会の距離感ではない。渋滞も信号も無いのだから距離にすれば二キロだろう。彼から借りたものがありそれを返しに行った。白砂利のアプローチの奥に車があった。あ、ご在宅だな、と嬉しくなる。 簡単な挨拶だけと思うのだがいつもここに伺うとデッキに招かれコーヒーをご馳走になってしまう。それはイタリアンローストのエスプレッソだった。今日は玄関で失礼しよう、いつもそう思っている。しかしこの地の魅力を教えてくれた友人からは多くの事を教わるのだった。それにかこつけてコーヒーを戴きに行っている、と実は知っている。彼は趣味人で手先の器用さも加わり日々を楽しまれている。「手作り…

  • 幸せの小道具

    大学生の頃、憧れの女性が居た。少しだけアンニュイな空気、そんな女性だった。キャンパスですれ違うと軽いめまいを覚えた。胸が高まるが口下手な自分は話しかけるのに勇気を必要とした。幸いに友人を介していつか仲良しグループが出来た。その中心に彼女は居た。その中で彼女自身は気負いなくいつも透明だった。 彼女は雑貨が好きだった。学校帰りに一緒に渋谷を歩くとパルコやハンズ、LOFTや無印良品の店に入っては雑貨を見るのだった。正直自分には興味が無かった。雑貨より彼女の近くにいるとドキドキする。その気持ちに惹かれていた。 雑貨にもいろいろあった。いずれもセンスの良さが問われるだろう。透明なガラス細工、いや、木の香…

  • 冷えたワイン

    青空の下で飲むビール。美味いなぁ、と思ったのはテキサスだっただろうか。ドライカウンティが多いテキサス州だが自分が良く行った街は酒が許されていた。空港から仕事先には当然レンタカーを借りる事になる。早く仕事が終わったならば少し早い夕方にテックス・メックスでも食べるだろう。ファヒータにタコス、ブリトーにワカモレ、チリコンカン。流石にメキシコと国境を接しているだけある。テキサス風メキシコ料理は実に楽しめる。そこに欠かせぬのはビールだ。乾いた空気、青い空。ビールはコロナでなくとも、ミラーやクアーズ、バドワイザーでも十分美味しい。サムアダムスなどは置いていないのだ。むしろ軽いそれらのビールが似合うだろう。…

  • 旅の途中

    高原の駅で各駅停車を降りた。そこは終着駅だった。僕は北東からの上り列車に乗っていた。その駅は新宿まで続く幹線路線の駅で、特急も止まる。そして信濃へ向かう数両編成の高原列車の始発駅でもある。水が良いのでウィスキー醸造工場がある。天然水とよばれる何社かの飲料の採取地でもある。山へ向かえば別荘地帯になりそこにはリゾート施設がある。そんな場所への送迎バスが駅にやってくる。登山客・ゴルフ客・家族連れと様々だ。 ホームにはサイクリスト姿の男性が居た。リフトを使わずに階段を登って行った。通路で追いついた。 何処を走るのですか?と聞くと、ごめんなさい日本語が分かりませんと困り顔だった。綺麗な英語だった。確かに…

  • 清里、いま・むかし

    清里に始めてきたのは何時だろう。1985年頃だっただろうか。オートバイのツーリングだった。そこは八が岳山麓の海抜1200mあたりの高原で、長閑なローカル線の駅があった。その記憶は薄いがその数年後、なぜそこが脚光を浴びたのだろうか、広くない駅前通りには多くの土産物屋や芸能人の店、奇抜な建物などが軒を並べていた。アンアン・ノンノンには特集が組まれ若い女子に人気のある街だった。女子がいるなら当然男子も来る。高原の街はそんな男女に溢れていた。家族経営のペンションが多くあった。 そんな頃に当時の彼女と泊ったことがある。寒かったので冬だったのだろう。スキーをしに行ったのだろうか、よく覚えていない。ペンショ…

  • 体を馴らせばよい

    愛車の注文の際は色々と悩むものだ。タイヤの幅はどうしよう。ブレーキは何にするか。ギア比は1:1欲しいな・・。しかし一番の関門はサイズかもしれない。510か520かずっと悩んだ。510ではちょっと小さいか。勿論それ迄に乗っていた車のサイズも参考になる。色々悩むのも楽しいものだ。 二台の自転車がある。敷地も狭く並べる事も無かったが引っ越してデッキで並べることが出来た。一台はそう悩んで作ったもの。もう一台は「売ります買います」掲示板で手に入れた一台。 サイズは510、そんな風に掲示板に書かれていただろう。パリ北部の街へ見に行くと大柄の男性が自転車を押してきた。上野公園の西郷さんと犬のように見えた。彼…

  • 怒涛の練習

    高原の地に転居して初めて練習場へ行ってみた。この練習場は高速道路のパーキングエリアのすぐ裏にあるので前から気になっていた。まずは下見をした。赤松の林にドライビングレンジがまっすぐ伸びていた。全部芝だ。二百四十ヤードのレンジはパースリーの本番のコースにも思えだ。 斜面を切り崩したり、かろうじて見つけた広場に高い柵を建てたような、ビルの三階を利用したような、そんなこれまでの都会の練習場とは全く違う、自然に溶け込んだ気持ちの良いところだった。ここでドライバーを打てば自分でも二百三十ヤードは行くだろう、そんな幻想をいだいた。 一時間打ち放題では、かつて通っていた都会の練習場と変わらぬ金額、いや百円ほど…

  • 一冊の出会い

    えー、懐かしいな。彼は嬉しそうに手に取り奥付を見た。これ、初版だね。1992年。第一作の初版か。良く持ってましたね・・。 ハイキング、縦走、テント泊、テレマークスキーでの登山、サイクリング・・・。これらの趣味をひとくくりにするのは容易ではないが纏めて言えばアウトドア趣味と言えるだろう。それを充実させるために多くの趣味が派生する。ギアとしての自転車、絵画、写真、アマチュア無線など。それはあたかも大きく枝分かれし辺りを緑色に染めるようなブナの樹の如しだ。秋には紅葉し冬には落葉し新緑には燃える。ブナは季節ごとの表情が豊かだが絶えず変わっていく。同様に個々の派生した趣味の重みもまた時に変わるものだが、…

  • 限りない物

    中学の友人 A君宅は帰り道に立ち寄るには丁度良い場所にあった。路面電車の郊外線で四駅乗って通学していた。専用軌道とはいえ路面電車の延長だから四駅とて歩くことも可能だった。学校から歩き、三駅目に彼の家はあった。 A君は今で言えば少し早熟でかつアイロニカルだった。彼の部屋には大きなオーディオセットがありそこで井上陽水やかぐや姫。そしてNSP、ふきのとう、赤い鳥。そんな音楽を僕に聞かせてくれた。彼はまたフォークギターを弾いていた。ヤマハとモーリスの二本だった。なぜ二本必要なのかわからないが、モーリス持てばスーパースターも夢ではないからね、とコマーシャル通りに言うのだ。と言いつつ彼はヤマハを取っては井…

  • ようこそメゾン・ド・フォレへ

    高原の地には友人がいる。もう二十年来か、いやそれ以上のつきあいだ。とある山の会で知り合った。その頃彼は埼玉県住まいだったはずだがいつからだろう、この高原にご夫婦で移住されていた。信州や甲州の山の帰りに僕は時折立ち寄った。山のついでだったのか、友の宅に寄るついでに山があったのかは定かではない。また彼はサイクリング雑誌の編集子をされたこともあり、自転車に詳しい。彼が所有するランドナーは自分の参考になった。ランドナーはフランス発祥の自転車だが彼はそれをイタリアンパーツ主体で組み上げられていた。自分は日本のパーツだった。しかし彼は良い自転車だね、と褒めてくれた。それは嬉しい事だった。 何でも手作りして…

  • 良いとは思ったが

    彼は自費出版の良いカモだな。そう出版社は思ったのだろう。忘れた頃に原稿の進み具合はどうですか?と連絡を送ってくる。何かをまとめたい。形にしたいという思いはあるが何も具体化していない。それに高額な自費出版が良いかもわからない。辛うじていくつもある投稿コンテストへの応募がよい目標になっている。 自分が高原の地へ転居して通う事に決めた病院は湖の畔にある。フォッサマグナとは中央構造分離帯、大規模な断層。そう地理で学んだ。そんな地殻の割れ目にその湖はある。日本地図を見るならばそこはまさに、へそだった。 病院でのガン検査を終えて湖の辺のベンチに座った。体に放射性物質を投与し全身のガンの有無を調べるという。…

  • 線路内にて

    - 只今蒲田川崎間にて線路内で不審な立ち入りがあり電車は緊急停止を行います。 - 先ほど大井町駅にて人身接触がありましたので当駅にて運転を見合わせております。お急ぎの方は京浜急行への振替乗車を行っております。 そんな放送が流れるたびにいつもイライラしていた。通勤電車だった。満員電車の中、ただ待つ。遅延証明書を貰えば良いな、などと思うが車内の暖房は暑く気持ち悪くなる。コートを脱ごうにも脱げない。するとこうなる。 - ご気分を悪くされたお客様の対応のために少し出発が遅れます。 会社通いはこんな風にストレスと抱き合わせだった。 高原の駅で僕は電車を持っていた。一時間に一本の各駅停車だった。総合病院で…

  • 露天風呂の気球

    温泉といえば草津、別府、登別だろうか。がそこは火山国日本、無名でも温泉には事欠かない。引っ越した高原の地が属する市のサイトによると市内には九つの温泉があると書かれている。 僕たちはそれを片っ端から潰していこうと言う計画を持っている。どこもサウナ付きで市民割引。四百円程度だった。やっと三つ目だった。そこはこれまでの三箇所の中では最もリゾート感に溢れていた。 サウナで汗を流しきって外に出た。広い露天風呂だった。見回すと湯船全員が西洋人だった。ぬるい湯は長風呂を可能にさせてくれる。すぐに会話の仲間に入れてもらった、いや、割り込んだ。 ツーリストか?こんな無名の地をどうして知ったの?日本のオンセン、楽…

  • 甲斐からの山歩き 小楢山・山梨市

    緩い登りは優しく続く。小さな峰に登りついても小径は先へ伸びていく。登山靴の靴紐がほどけかけていた。ザックを降ろして紐を締め直した。膝に手を突き立ち上がりザックを背負うと僕は一瞬ぐらりと揺れた。天と地が入れ替わったように思えた。しかし僕は焦らない。この感覚は知っている。新緑の季節に広葉樹の山を歩き空を見上げるならばいつも襲ってくるのだから。蒼い空の下に緑の葉が揺れる。光は木の葉を透過して降り注ぐ。葉緑素が落ちてくるのだ。それが僕には眩暈に思える。好きな感覚だった。 眩暈が収まり目線を下に向けた。驚いた。そこは一面フキの群生地だった。直ぐに思った。妻に煮物にしてもらおうと。 甲斐の国に引っ越して最…

  • とうとう来たか

    あれれ分からない。広大な駐車場を十五分は歩いた。 地方都市の若者に取り最大の楽しみの一つはショッピングモールだと聞いたことがある。デートに買い物にと。そんなモールは郊外にあることが多い。駅から直通バスが出ていることも多い。そこは広い敷地に航空母艦のように横たわっていた。ちょっとした要塞のようにも思えた。シネマコンプレックスがあり、流行りのテナントがあり全国展開をする多くのレストランやカフェ、スイーツ、パン屋が連なる。僕は首都圏の駅前にあるショッピングモールを思い出した。それと全く変わらなかった。アパレルに関心のない自分はこの店のテナントがどんな位置づけなのかは分からない。しかし楽器屋もあり家電…

  • こうして覚醒するのか

    好きではない、むしろ苦手だな。そんな思いはないだろうか。 それは国民楽派と呼ばれる音楽だった。19世紀中ごろから20世紀にかけてのヨーロッパではドイツ・ロマン派の影響を受けながらも自民族に継承されていた音楽や伝説を反映させた民族主義的な音楽が出てきた。東ヨーロッパからロシア辺りの音楽がそれにあたる。バッハに始まりモーツァルトからブラームス、ブルックナーに至るまでドイツ・オーストリアの音楽に傾倒したが、国民楽派は少し違うなとおぼろげ気にわかっていた。何か香りがするな、と中学生のころから思っていた。それを自分は「スラブの節回し」と呼んでいた。ゲルマン民族ではないスラブ民族の音楽だ。 主としてヨーロ…

  • 新しい日々

    高原の地に引っ越すと病院もまた変わることになる。自分の診療科は血液の病を診療する科であり「血液内科」と呼ばれている。一昔前ならば内科といえば総合的なもの以外は呼吸器科、循環器科、消化器科程度、加え神経内科あたりしか細分化されていなかったと記憶する。それが今は腫瘍内科、腎臓内科、糖尿病内科、そして、血液内科と細かくなった。ジェネラシストからスペシャリスト化が進んでいるのだろう。 新しい病院に通う必要があった。何処にしようかと迷った。血液内科の看板を掲げている病院は多くない。大学病院、県立病院、そして赤十字病院あたりだろう。いずれも急性期病院であり症状の安定した患者は受け入れない。自分が入院してい…

  • モハに乗ってはならぬ

    鉄道の中での暇つぶし。学生時代はウォークマン、いまならスマホで聞く音楽か。社会人なりたての頃は漫画雑誌。いつかそれは新聞になりビジネス書や自己啓発書になった。 しかしやはり音楽を聞くのが楽しい。スマホにメモリーカードを増設すればいくらでも好きな曲が聞ける。サブスクはどうも自分にはピンとこない。好きな音楽は自分で探したい。いやそれもつまらぬこだわりだろう。 JRの電車には鉄道ファン以外には意味不明な記号がついている。モハとかクハ。サハもあればクモハもある。その後に車両形式が続く。さてこの呪文のようなカタカナなど誰も気にしない。 モハはモーターの付いた車両。クハは制御台、つまり運転台のついた車両、…

  • 異邦人

    作家北杜夫氏。彼を有名にした一冊「ドクトルマンボウ航海記」は自分を読書の世界にいざなってくれた。彼はマグロ調査船である600トンの船に船医として乗り込み東シナ海からインド洋、地中海そして大西洋、北海までの船旅に出る。寄港地で異文化に触れ驚く様は今も色褪せない。青春の鮮やかさに加えユーモアに満ち溢れた作品は自分にはとても大切な一冊だ。ドイツ文学とりわけ、トーマス・マンに惹かれていた彼にとり北ヨーロッパは憧れだったのだろう。ドーバー海峡を抜け憧れのドイツはハンブルグへの寄港。時間を使い彼はマンの生誕地リューベックへ赴き感慨にふける。そんな書の冒頭は面白い。東京の桟橋を出航した船はまずは房総の館山に…

  • 洗礼

    洗礼とはキリスト者として生きることを決め信者となるための儀式を受けることを指す。転じてそれはあることについての経験を持つ事をも指すだろう。 カトリックの洗礼を受けた友がいる。なにか拠り所があるのだろう、彼女はしっかりとご自分を持っているように思う。教会で祈る彼女には近寄りがたい。自分など何の拠り所などないのだった。 新しい高原の土地に引っ越してから、自分はどうも体調がすぐれない。直ぐにだるくなり何事も長続きがしない。引越し前の作業から引越し後の解梱や、インフラづくりと心も体も疲れているのだろうか。加えて思ったよりも海抜九百メートルの地は冷える。環境への順応が必要だった。 三十代からずっとヨーロ…

  • 回らぬ寿司

    寿司とは自分にとり父親が時折持ち帰る経木の箱に入ったものだった。電力会社を相手に営業職をやっていた彼は接待や宴席の残り物を良く包んでもらっていたのだろう。しかしそれは握りだったのか巻き物だったのかも覚えていない。余り美味しいとは思えなかった。 さすがに成人すると寿司の味を知る。学生時代にアパート隣室の友と共に寿司屋に行った。その頃ようやく回転寿司が広まったのだろう。 空手をやる彼はタンパク質信奉者で脇目も振らずに赤身を中心に十八皿食べた。自分は十六皿。中身は覚えてはいない。レーンの上を廻る寿司が楽しかった。 恥を忍んで書くがあれ以来自分は日本では「回らない寿司屋」に行ったことがない。回らぬ寿司…

  • コゴミとホタルイカ

    犬を連れての朝の散歩。リビングの南面にみる甲斐駒にかかる雲の流れで今日の天気はいかほどか、と推測するのも楽しい。戸外でると八ケ岳が北に見える。そんな道を辿っていくと、妻は突然しゃがみこんで摘むのだった。花ではない。それは野生のコゴミだった。フキもまだ元気で先日は十本ほど頂戴してきた。横浜の路肩の蕗とは大違いな立派なものだった。こうして毎日何かを摘む。もちろん他人様の土地だからそれはいけない事なのかもしれないが嫌になるほど生えているのだから大目に見てほしいのだった。 僕は僕で枯れ枝を探して歩く。桜の枯れ枝だろうか、薪ストーブの火つけ用にもってこいなのだ。松ぼっくりも良いという。落としものだから遠…

  • 鹿往く道

    引越しの疲れか、果て無き家の荷物整理か、まだまだ整わぬインフラなのか。体調がいま一つさえない。朝は東側の森の木漏れ日で目が覚める。ウグイスの鳴き声が二重窓を越して響いてくる。体にムチ打ち起床して朝食を取り犬を散歩に連れ出す。帰宅すると精魂尽き果てたように床に就く。体に嘘をついては駄目よ、と癌病棟で入院中に学生時代の友人からアドバイスを受けたことを思い出した。サレンダーなのよ、無理せずに従ってね、と彼女は言うのだった。 情けないけれど仕方ない。午後になってからようやく体を動かすことが出来る。六十七箱あった段ボール箱もようやく片付いたが棚に収まりきらないものは床に置いたままだった。すこしづつ棚もク…

  • 来客

    ピンポンとチャイムが鳴った。以前ならば誰だろうとカメラで覗いたかもしれない。しかしこの辺りには向かいの家と隣の家、その隣しか人家はない。昼過ぎに来たのは郵便配達で以前の住所から転送されてきた書留を持ってきた。転送サービスがようやく機能したようだった。 午後遅くに又チャイムが鳴った。ドアを開けて驚いた。しかし僕は彼が誰なのか直ぐにわかった。ずっとこの日を待っていたのだ。 信州は飯山の地に鍋倉山という1289mの峰がある。そこは越後と信州の国境稜線で「信越トレイル」という名のハイキングルートが在る。鍋倉山はその一部に過ぎないが好事家はこの峰を逃さない。JR飯山線は豪雪の地を行く鉄道で余りの積雪の多…

  • あの白い峰は?

    高原の地に引っ越してきてから毎日碧芙蓉こと甲斐駒ケ岳を眺めている。まだまだ残雪を纏いたいのだろうが峻険な岸壁がそれを許さない。僅かに山頂部とルンゼの様な谷筋にそれを見る。まさに如何にも剛毅にして高邁な鉄の峰だった。そこから東への長い連嶺はこれも見飽きない。一部を残して自分は甲斐駒からその東端の鳳凰三山までをテントを担いで縦走していた。地蔵岳のオベリスクも又下界から見てもよくわかる。一人ポツンと天を指している。こんな懐かしい稜線はいつ見ても心を揺るがせてくれる。甲斐駒から西にも峰は続く。鋸岳といういかにも峻険な名の通り高度感ある岩場ルートという事で体力・気力溢れる三十代四十代でも今一つその気にな…

  • 営業職

    営業という単語は分ったようでわからない。広辞苑によると「営利を目的として事業を営む事、またその営み」とまずは書かれている。新入社員研修を終え「海外営業部配属」と聞いた時に困った、外国人は怖い、英語は喋れない、人見知りだ。そんな自分が営業などできるのかと。しかし改めて広辞苑を考えるなら営業とは事業を営む事やその営みとある。大義になるが営業職というとわかりやすそうだ。いずれにせよ自分などその一部を担うだけという事だろう。 モノを売る相手も企業が相手なのか消費者が相手なのかによって仕事の内容は変わるだろう。自分は欧米の情報機器メーカーに対して自社の製品をOEMで扱ってもらうための販売部門の営業職だっ…

  • 平和な共和国

    癌の放射線治療は強力だった。巨大な機械で頭に無慈悲な光線を当てるのだ。抗がん剤攻撃にも耐えていた我が毛髪軍は一気に壊滅した。その戦にはいくつの弾や砲弾が使われたのか、最後に残ったのはまるでそんな弾丸の親玉の様につるつるな我が頭だった。 もっとも攻防戦に入る前から我が頭髪陣営は後退しており敗色は濃厚だったのだ。降伏です。そう白旗を上げようにも残った頭髪軍の兵士は誰もいなかった。戦後の日本は焼け跡に闇市が出始めて、混沌の中からやがて生きる事へのエネルギーが溢れてきたのだろう。自分の頭髪軍も砲弾の様に丸い荒れ野にそよぐスギナの如くポチポチと伸び始めていた。 病前と同様な長さに毛が伸びた時点で床屋に行…

  • 素敵な足慣らし

    こんにちは、と声がした。引っ越した高原の家は敷地を示すフェンスも無ければ門扉もない。家に鍵をかける必要もないと思っているが流石にそれはないだろう。ただ車を停めた庭先からは誰もが自由にやってくる。昨年だったか庭に鹿の糞があったのだから人間以外も自由に往来している。 声の主は家の敷地内にいらした。ウッドデッキに出ると友人夫妻だった。彼らは自分達より一回りは年上だが同じように関東平野の都会の街から山を求めてこの地へ引っ越してきたのだった。海抜千メートルに白い素敵な家を建てている。山歩き、庭仕事、陶芸、写真、音楽活動、と夫婦そろって高原の生活を楽しまれている。山が好きな僕は登山やサイクリングの帰りには…

  • 雲を見る日

    転居した家の書斎の窓からは甲斐駒が見える。海量というお坊様がこんな漢詩を読んでいる。最後の行だけを引用しよう。主語は「雲間ニ独リ秀ズ鉄リノ峰」、すなわち甲斐駒ケ岳2966mになる。五月に残雪が残るころに、この僧はこの鉄の峰をこう詩っている。「青天ニ削出ス碧芙蓉」と。深田久弥の「日本百名山」は僕にこの素敵な言葉を教えてくれた。碧芙蓉とは美しい表現に思う。 手に取れるように聳えているのに決して平面な地続きではない。我が小屋と甲斐駒の表玄関登山口の間には富士川が刻んだ深い谷がある。白州の谷、そこには名水が湧く。甲州街道がそこを通る。ウィスキーメーカーの工場があり同時にそこは南アルプス天然水の採取地で…

  • 彼女の作品

    娘は女子大の付属高校に進んだ。彼女が何故その学校を選んだのかは分からぬが確かに自分はそこを勧めた。中学から入学すればとも言った。その大学は漫画家・高橋留美子の母校でもある。高校生の頃にクラスメイトから教えてもらった漫画にすっかり僕は虜になってしまい、コミックスは買いアニメのセル画まで買う始末だった。 中学から入学すると良いだろうなと思ったの辛い受験は一回きりで終えたら、と思ったからだろう。いつか本人もその気になっていた。しかし彼女が小六の秋に自分はドイツへ転勤となりひと月遅れて一家が北緯五十度の街へ引っ越してきた。娘は受験を諦めたが、悔しかったのかホッとしたのかは分からない。 現地の中学校では…

  • 五十年前の扉

    断捨離をしていた。押し入れの奥からレコード盤が出てきた。約二十枚はあっただろう。今はアナログレコードプレーヤーも処分して再生のしようもない、これらは十年前に中古レコード店に持っていき買い取りできずで戻ってきものだった。70年代までの英国ロックと荒井・松任谷由実、フュージョンバンド・カシオペアなどのレコードだった。なぜか、アニメのアルバムもあった。これらのアナログ盤はアニメ以外は全てCDで買い直しそれもデジタルファイルでパソコンに取り込み済だった。 アナログレコードは最近ブームであるという。ただ捨てるのも惜しいので再び中古レコード店に持ち込んだ。アニメ「うる星やつら」サントラ版も含め今度はすべて…

  • なんでもDIY

    新しく住み始めた家の建築には時間がかかった。ハウスメーカーの話ではこの地辺りの大工さんが不足しているという話だった。加えコロナの真っ最中から余韻の期間で、物流の遅延、電子部品の品切れと資材面でも滞った。コロナが五種移行されたころからようやく工事が始まった。 基礎工事はかなり深く掘った。この地は冬は氷点下に下がる。土地は凍結する。凍結深度という用語を初めて知った。70センチは基礎を掘るというのだった。溝を掘り水糸で場所を張り木塀を立ててセメントで固める。基礎工事にはベタ基礎と布基礎がある。これも初めて知った。自分の家のサイズならば敷地全部を掘りセメントで固めるベタ基礎ではなく立ち上がり部分を掘り…

  • あずさ二号

    八時ちょうどの「あずさ二号」で歌の主人公は「貴方」と別れ信濃路へ旅立った訳だ。がこれには鉄道ファン的には齟齬がある。新宿から松本に行く下り列車は奇数番号であり、偶数番号は上り列車なのだから。しかし歌に載せた時の字数的には二号でないとピンとこなかったのだろう、そう思っている。 さて自分は「あずさ」に乗ってきたわけではないが新宿から西へ160キロの街に居る。この高原へ来たのは車だった。そして翌朝には家財道具一式を積み込んだトラックもこの地へ着いた。僕たち夫婦は四十年近く住み慣れた横浜を離れた。自分に至っては五十年住んでいた街だった、この場所は海抜九百メートルで南側を見れば目の前には南アルプス北部の…

  • 頑張っているな

    80歳を迎えてもステージに立ち動き回る。頑張っているなと思う。凄いと思うが同時に奇跡にも思う。ストーンズ(ザ・ローリング・ストーンズ)について語りだすときりが無くなる。だからあまり書かない。 まぎれもなく世界でも有数の長寿バンドだろう。1962年の結成だから。60年間現役でポップミュージックの世界を転がり続けている。昨年はなんと新作スタジオアルバムまでも出した。メンバーは皆80歳を迎えようとしている。エッジの効いた黒っぽいサウンドは紛れもなく彼らだった。 ブルースやR&Bの模倣から始まるのは1960年代当時のロンドンの音楽シーンだったのだろう。そんなカバーバンドで始まった彼らはやがてミック・ジ…

  • 壊れた屋根

    雨上がりの翌日は良く晴れていた。玄関のチャイムが鳴った。作業服を着たような若いお兄さんがそこに居た。 「余計なお世話かもしれないですが・・・」そう少しもじもじするのだった。彼は続けた。「ご主人の家の屋根、カサギが外れていますよ」と。数軒隣の建築現場で足場作業をしていたから気が付いた、そんな話だった。 カサギとは何ですかと問うと屋根の一番上にのっている金属の材だという。その片側が捲れているというのだった。このままでは雨漏りしますよ、と続ける。上がって修理しましょうかとでもいうのかと思った。 彼は耳にブルートゥースイヤホンを付けたままだった。自分はまずそれが何処を指すのか理解しようと思った。質問を…

  • 三枚の絵

    何故だろう、この十年以上の間、飾らなかった。生活に彩が無かったのだろうか、余裕が無かったのだろうか。押し入れの奥から絵が出てきた。それはドイツを去る日に買ったものだった。 デュッセルドルフは当時人口五十万人の都市だった。そこに日本人が五千人住んでいた。1%が日本人の比率だった。日系企業の欧州本部としてこの地は多くの日本の会社の支社が置かれていた。駐在員の多くは街の真ん中を流れるライン川の西岸地区に住んでいた。そこはオーバーカッセルやニーダーカッセルという地名だった。またデュッセルドルフ市内を出てしまうがその西のメアブッシュという街にも多くの日本人がいた。ライン川西岸が日本人居住区というとわかり…

  • 炭酸水

    初めて六本木に行ったのは十八歳だった。学生仲間でもお洒落な奴や好奇心のある奴らはディスコに行っていた。しかし自分はそんな場所は怖かった。何より女性に話しかける勇気もなく、振り絞って行っても歯牙にもかからぬだろう。容姿が劣っているという点が全ての自分の行動の足かせになっていた。その年齢で既に自分は諦めを知っていた。 噂に聞く六本木。遊び慣れた大人の街。大学は渋谷にあったが自分の学年から基礎課程の二年間はなぜか厚木の新キャンパスだった。自分は神奈川県中部の相模川が流れる街のアパートを借りた。隣室の住人は宮城県の男子高校から来た男だった。学部は違うが同じ厚木一回生。男子校卒業ということもあるのか彼は…

  • 192グラムの夢

    カメラ、自動巻き腕時計、鉄道模型、自転車のパーツ・・。好きなものを上げていくとわかる。自分は精密なメカが好きなのだと。腕は二本しかないのに幾つ腕時計があるのだろう。父の遺品、叔父の香典返し、勤続二十五周年の記念品、欲しくなかったのに我が手に来たものもあるがそれらはどれも電池で動くクォーツ時計だった。欲しいがどうするか、と迷って買った時計は自動巻きだった。 自動巻きは時刻が狂う。一つは遅れ、一つは進む。がクォーツですら狂う。電波時計はそうはならない。色々個性があって楽しい。狂う時計はその求められる機能を満たしていないことになるが、それも愛嬌がある可愛らしい。 カメラだ。今カメラはスマートフォンで…

  • 道しるべ

    会社員なりたての頃。昭和のモーレツの痕跡はもう無かったが、やはり自分も会社を中心に動いていた。男女雇用機会均等法の初年度に社会人になったが、世間はまだまだ男社会で今風に言えば「不適切」だらけだった。配属は海外営業部門で出張の機会もあり、かつ達成感もあった。しかし自分は仕事だけの人間で終わりたくないと何処かで無意識に思っていたのだろう。 その雑誌の存在は知っていた。時々買っていた。その一冊が今でも書棚にある。海辺だろう。オフロードバイクを前に小さなテントから女性が顔を出している。隣にはコッヘルが湯気を上げている。女性ライダーのソロキャンプツーリングの一コマが表紙だった。魅力的だった。 中を開いて…

  • 埃まみれのブラッキー

    ブラッキーと言えばギター好きならははぁと思うだろう。1977年の録音「スローハンド」のジャケット写真にはネックしか写っていない。ギターに愛称をつけるギタリストがいる。ミカウバーそれにマルコムはキース・リチャーズ。ルシールはBBキング。そして・・。ブラッキーとくればエリック・クラプトン。そんな有名な一本にはロックやブルースが好きならため息が出るかもしれない。 ブラッキーとは黒のフェンダー・ストラトキャスター。自分は幸いにもこのギターの音をレコードやCDではなく生で聞いたことがあった。武道館だった。クロスロードやホワイトルームといった60年代のナンバーから、いとしのレイラやコカインなどの70年代の…

  • 夢中な日々

    昔から年賀状を出すのはいつも遅れていた。流石に越年は無かったが大晦日に出すこともあった。当時交際していた女性とは結婚を意識していた。彼女宛の年賀状はやはり元旦に到着してほしいものだがそれは晦日や大晦日に吐くセリフでもない。 例によって遅れてしまった。そこで僕は一計を案じた。彼女が住む街の集配業務をする郵便局本局まで直接持ち込もうと考えた。大晦日も暮れようとする日に家から三十分かけてバイクで直接本局窓口に一枚の年賀状を手渡しに行った。 久しぶりに羽田に行った。飛行場に用事があったのではなく川崎まで出たついでに一般道で通れる多摩川の最下流の橋を渡ろうと思ったのだ。そこからの東京湾と羽田空港の風景を…

  • しばしの御機嫌よう・丹沢

    ここら辺りだったかな、テントを張ったのは。鹿の気配が濃厚であまり寝付けない夜だった。いや、それとは別に水場のあるカヤトの峰でテントを張った事もあったな。風の強い夜で朝はグンと冷え込んだ。しかし下界が朝焼けに染まるさま、それは見事だった。 様々な風景を思い出す。昔の記憶をたどりながら歩く山だった。稜線に上がるまではヒノキの林を沢に沿って登る。道型が小さな雷光型になり一気に高さを稼ぐと稜線だった。ブナの林が心地よい。 やれやれ一汗も二汗もかかされた。呼吸は落ち着き、行動食の大福餅を口にして水を摂った。長い主脈縦走路だった。地味な上り下りが続くのも尾根歩きのいつもの風景だ。あれほど多かった鹿の糞はし…

  • 山スキーヤーたるもの・東吾妻山

    プラ靴のコバを締め具に合わせてカチリと押すと靴は装着される。あとは流れ止めを巻くだけになる。ゲレンデスキーでもないのでステップインの締め具ではない。これで板は自らが外さない以外はまず外れない。しかし転んでも踵が固定されていないので足が捻じれる事もなく大事に至らない。つま先から母指球までが板に固定され、踵は常時解放されているというテレマークスキーは至って単純な構造だ。 歩くときはスキーの裏に滑り止めを貼る。シールと呼ばれるナイロン生地は巡目には抵抗なく逆目には毛が立つ。これを利用して斜面を登る。昔はアザラシの皮、そしてモヘアを使ったのでスキンとも呼ばれる。シールを貼れば体感では直登は斜度二十度を…

  • 僕だって入りたい・・

    ここの所すこしばかり断捨離で物を捨てる作業をしていたので妻も自分も疲れ気味だった。これからシャワーを浴びるのもなにか味気ない。すこし芯から休めないか、そう話して今日は銭湯の日にした。 行きつけの銭湯は数カ所あり、基本的にはそれをぐるぐる回っている。今日は最も小さくて家庭的な湯を選んだ。番台は時間替わりで男性と女性に入れ替わる。自分達よりは十歳は年上だろう。たいてい女性の番台さんにあたる。 彼女は犬好きで風呂から出て家内を待つ間、僕はいつも彼女と立ち話をしている。なぜ犬好きと知ったかと言えば、我が家の犬が車の中で吠えている事をいつも気にかけくれているからだった。 「ほら、ワンちゃん吠えているわよ…

  • 魔法の調味料

    パスタは美味しい。初めて食べたのは何時だろう。母親が作っていたものが最初だろう。それはフニャフニャの麺をケチャップで炒めたようなものだった。大学の学生食堂ではミートソースのスパゲティがあった。挽肉のソースが美味しかった。がこれまた柔らかな麺だった。が250円という値段は魅力的だった。それは「スパミ」と略して呼ばれ多くの学生から人気があった。食べ終わると口の周りが赤茶になるので女子学生を前にする時は無意識で手で口を拭っていた。 初めてそれらしいパスタを食べたのは渋谷だった。壁の穴という名前のレストランだったろうか。それはソフト麵にミートソースをかけたものではなくもっと手が込んでいた。とても美味し…

  • ちいさな祈り

    車に乗りオーディオを鳴らした。メモリーカードにはジャンル分けした好きな曲が入っている。その時はソウルミュージックのフォルダだった。アレサ・フランクリンが熱唱している。彼女の歌声は自分にある風景を思い出させてくれた。 カトリックの友人と教会に行った。彼女は壁にかかったイエスの像を前に膝まずき十字を切っていた。それは自然な所作だった。ステンドグラスから光が漏れて床にいくつもの彩を作っていた。ひんやりとした空間で、厳かだった。自分は何をしたらよいか分からなかった。何のお祈りをしているのかなどは分からない。ただ祈れる相手がいて祈ることがあるという事が素晴らしいと思った。 アレサの歌っている内容を知りた…

  • 万引き

    何故そんな気持ちになったのか分からない。もう大学生活もひと月を残すだけになっていた。別れがたい仲間たちもみなそれぞれに就職が決まり新しい世界へ行くことが決まっていた。故郷に帰る友もいれば東京で働く事を選んだ友もいた。それぞれだった。 世田谷は下北沢が自分達の根城だった。友人のアパートがあり自分はずっと入り浸っていた。渋谷は学校のある街で、青山通りを渋谷駅に向かいセンター街の飲み屋に行くことが多かった。その日も渋谷で飲んで、下北沢まで戻ってまた飲んだ。そこで解散となったが三人残った。自分はもう一人の友とともに友人のアパートに行くことにしていた。狭い路地を三人で千鳥足だった。彼のアパートの手前にコ…

  • 目の毒

    都内の街角で見かけてしまった。思わず足を止めて見とれた。バイク乗りを辞めて15年以上経つ。しかし今でも密かに心の中におき火が残っている。それは時々燃える。 自分がバイクに熱心に乗っていたのは1980年代から2000年あたりまでだった。当時のバイクにはレーサーレプリカもあればDOHC四気筒のスポーツ車もあった。自分が選んだのは当初はSOHC二気筒という使いやすい商用車のエンジンを載せたアメリカンバイクだった。本当は一気筒エンジンのオフロードバイクに乗りたかったのだが、脚が短いので諦めてしまった。あまり好きでなかったバイクはやはり手放す。そしてとうとう200㏄のオフロード車に乗り換えた。赤のホンダ…

  • 変わりゆく街

    駅前に降りたのは四年振りだった。コロナになる前、ライブ直前のつめでこの街の音楽スタジオに頻繁に通っていた。ライブまで数週間に迫った頃、中国から端を発したウィルスは未曽有のものとなり、世の中は停止した。バンドのアンサンブルは完成していたがライブハウスはキャンセルした。そして堰を切ったように自分には激動が待っていた。早期退職、新たな職場、ガン罹患。再度退職。自分の全ては白紙になり癌治療でつるつる禿げげ頭になった。 久しぶりに降りた駅前には工事のシートが張られそこに重機が数台動いていた。どんなビルが建っていたのかも思い出せないのだが場所柄お洒落なカフェも入っていたのだろうか。路地裏に入り込みスタジオ…

  • 尾翼のマーク

    飛行機が好きだ。第二次世界大戦で使われた飛行機が特に好きだ。また小学生の頃はそんな好奇心を満たしてくれる書籍も多かった。日本海軍エース坂井三郎空戦記に始まり、本土防空戦、そしてバトル・オブ・ブリテンからドイツ本土防空戦、さらに数年前に友から借りたフィンランド空軍記まで。一体何冊の本を手にしたのだろう。そしてそんな軍用機のプラモデル作りは小学生から学生時代に熱中したがいまでも開封待ちのキットがある。 もちろん現代の軍用機も魅力ある。少し古いがベトナム戦争でのファントムとミグの空戦記録やヘリコプターを本格的に使ったヘリボーン作戦も胸が弾む。映画トップ・ガンマーヴェリックも手に汗握った。戦争というそ…

  • 好奇心と探究心

    玄関に停まっている車を見て色々な方が反応する。宅配便のドライバー氏。訪問診療の医師、様々だ。だれもが「いいですね」と言い、続いて「納期はどうでしたか?」と聞いてくる。車など多くの人にとっては移動手動に過ぎないがそこに様々な方向性を持つ趣味が加わると「好きな人にはたまらない」という車が出てくる。スポーティなクーペや豪華なミニバン、クラシックな車など嗜好は様々だ。 車の免許を持つ前から興味はブレずに変わらない。ウィリスジープ、初代ビッグホーン、ランクル40、ランクル70、ダイハツラガー、そして古いレンジローバー…。こう憧れた車を書き続けると自分の好きな車種が浮かび上がる。箱。頑丈。無骨。質素。泥。…

  • 借り物と自分の物

    世界最高峰のオーケストラがウィーン・フィルとベルリン・フィルであることは周目の意見が一致するところだろう。カラヤン、ベーム、バーンスタインからアバド、オザワ。そしてムーティ、メータ、今ではラトル、ティーレマンときら星のような指揮者が並ぶ。彼らのお陰で輝いたのか、あるいはオケがすごいのでマエストロたちが集まったのかはわからない。多分相互作用だろう。 自分の所有する録音はウィーン・フィルが多い。蒼古というべきか伝統的と言うべきか、あの響きを求めるとそうなってしまった。ムジークフェラインザールで響く彼らの音はさように魅力的だ。 トップオーケストラの団員の楽器はやはり数億円もするような高価なのだろう、…

  • 代名詞禁止法

    ねぇ、あれとって。そこにあるでしょ。これ見て、これ。あの事だけどさ・・。 そんな会話が続くと何故か苛立たしくなるのは脳腫瘍を摘出するための外科手術の影響でなにかの「緒」が切れたからなのだろうか?頭を開き病巣を取り出しホチキスで縫合してからは、まるで思考回路がショートしたかのように持ち前の短気さに拍車がかかった。とばっちりを受けたのは生活を共にする家内だった。 あれって何?これって?そこって何処?あの事って何の事? 少し考えれば、一握りの想像力を働かせれば済む話なのに頭には幾つもの?が湧く。実はあれこれそれが概ね分かっていることもあるが、最初からきちんと系統立てて話してほしいのでそう言ってしまう…

  • 桜の夜

    桜の花びらが舞っている。夜風が冷たい、それが花びらをこの時期まで枝にとどまらせたのだろう。やや強い風に枝からはらはらと離れて気まぐれな空気の中を泳いでいた。 三十三年前の今日。ちょうどこの時間帯に自分達は六本木のトラットリアに居た。気取らぬ店だった。学生時代の友人が二人で仕切ってくれた。男の友人はそれがプレッシャーだったのか、何度かトイレに行っていたという。女性の友人は笑顔でそつがなかった。それは自分達二人がごく近しい人たちだけを呼んだ小さなパーティだった。 どんな料理が出たのかも、立食だったのかも覚えていない。ただ女性の友人が伝手を使いその店を貸し切りにしてすべてをアレンジしてくれた事、そし…

  • 角刈り禁止

    千円を機械にいれるとカードが出てくる。それを手にして待合の長椅子に座る。先客三名か。今日は二人体制だな、少し待つな、と足を組んだ。見慣れた風景だが壁の但し書きに目が行った。 「当店では角刈りとそれに相当する髪型のカットは受け付けておりません」と。 なぜか笑ってしまった。金を払うのだから注文通りやってくれ、といった野暮な話ではない。角刈りと言う言葉を少し懐かしく思い出したからだった。 角刈りにサングラス。するとショットガンが欲しくなる。角刈りにドスとなると腹に白いサラシを巻いてほしい。渡哲也に菅原文太、高倉健。そんな往年のスターが思い出された。スクリーンから男気が匂い出てくる俳優さんだった。 頭…

  • フリーになって欲しいこと

    バリアフリーは随分と一般化してきた。自分がもし家を建てるのならバリアフリーにするだろう。つまらない事でも高齢者は足が引っかかる。カーペット一枚の有無が転倒リスクを左右する。ましてや部屋と部屋の間の扉周りの建具で段差があるとやはり危ない。それは高齢者が住む家なら誰もが直面する話だ。階段や玄関のステップは初めから段差ありきなので手摺がつく事もあるし歩く方も心して歩くだろう。そんなことで障害を避けるような工夫が家やショッピングセンター、駅などでは進んでいる。 もう一つ、進んで欲しいなと思う事がある。それはレストランやカフェ、宿泊施設などでの犬連れの話だ。宿泊施設など犬宿泊OKという宿が増えてきた。が…

  • 折れたうどん

    香川県生まれの自分がうどんに求めるものは二つ。強いコシの麺と金色に光るイリコ出汁だ。冷たく戴くときは余りこだわりが無い。物心ついたころには香川のうどんは暖かいものばかりだったから。 コシは大切に思う。関東のうどんを目にしたときに真っ黒い汁に驚き口にしたときの歯ごたえの無い麺にはさらに驚いた。その意味で数年前に知った武蔵野うどんは気に入った。見ようによっては赤みを帯びた麺は歯ごたえがあり小麦の香りも野趣あふれる。これは暖かい肉つけ汁で頂く。 自宅でうどんを作るとなるとイリコダシは粉末も手に入るが、あの麺は遠い世界だ。尤も、ものの本によると小麦粉と水と塩があれば、あとはこねて足踏みするとある。興味…

  • 雨のち晴れ、そして雨

    車で西に向かっていた。自分はその地にある建物に品物をいくつか届けようとしていた。しかし前日の天気予報では中部地方から東海地方にかけて雨予報で所により強い雨とあった。普段より時間がかかるなと覚悟して早めに家を出た。西には強い雨の予報があり、それは東へ移動してくる。その中を自分は東から西へ行こうとしている。 敢えて火中の栗を拾いに行くようなものだな、と考えながらハンドルを握っているとすぐに雨が降ってきた。気圧の谷へ向かっているのだからその通りだった。のどのような谷筋の道に入ると雨は激しくなり霧も多かった。霧の中に先行者のテールライトが滲んで危険だった。自分はフォグランプを点けた。誰もが慎重に走って…

  • 性に合わぬこと

    「三万すった」、そう友はタバコを手に諦め顔で戻ってきた。軍艦マーチが店外に流れだしていた。僕はその向かいのハンバーガー店で時間をつぶしていたのだろうか。彼に一度だけ付き合って店の中に入ったことがある。千円札を自販機に入れると手にした皿に数センチの銀玉が出てきた。ジャラジャラとそれを機械のトレイに流し入れた。手のひらでグリップを握りを右に回すと球が弾けだされてきた。ピンやチューリップの羽にあたりながらそれは下まで落ちて吸い込まれた。勇壮な音に反して玉は数十秒で無くなった。俺には無理だな、と思い店外に出た。 父親が世を去り半年以上経過した。様々な手続きがあった。父には僅かながらの残したものがあった…

  • 信じる事に決めた・福之記13

    抗癌剤の治療が決まった時、自分は家内に犬用のバリカンを持ってきてもらった。病院の浴室で鏡を見ながら自分の頭を丸刈りにした。薬で毛が抜けるのなら自ら短くしようと。さっぱりした。が、毛根はなかなかしたたかで、意外にも抗癌剤に耐えた。しかしその後の脳への放射線治療は強力で、全ての髪の毛は無くなった。 その後多少は髪の毛は伸びたが、大砲の弾丸の様な髪形を維持している。寝ぐせもつかずドライヤーも不要。直射日光の暑さと冬の寒気は帽子で防ぐ。それ以外は全く気楽なのだった。自分で出来るだけバリカンを掛ければよい、と決めていたがどうしても後頭部はうまくいかない。ハゲのくせに生えているところはしっかり伸びる。一カ…

  • 雲間の菩薩 

    樹林帯を抜け出すと灌木帯だ。随分と手を焼かせてくれた。崩れやすい尾根道を注意して進む。足場の目安を立て露岩に手をかけて体を上げた。それ以上高い場所はここにはなかった。朝から曇っていたが薄くなった空気の狭間がゆっくりと解けた。いったん緩むと呆気なく、その網目からこぼれる光が足元に転がった小さな標識を浮かび上がらせた。かつては柱に括り付けられてたであろう木の札は風で飛ばされたのか、塗料も禿げそこに書かれた山の名前も明瞭ではなかった。しかしよく見るとそこには先輩のペンネームが記されていた。辛うじて判読できた。 縞田武弥はそれを見てああようやくここまで来ることが出来たか、とザックを下ろし呟いた。背中か…

  • 図書の旅39  約束の国への長い旅

    ●約束の国への長い旅 篠輝久著 リブリオ出版 1988年 一本のレールが続いていた。それは壁に向かっていた。壁にただ一つある門を抜けると広大な敷地だった。そこにはレンガで作ったマッチ箱のような建物がいくつも整然と並んでいる。その箱はすぐにも倒壊しそうに思えた。中に入ると陰鬱だった。この地は北緯50度はある。冬でもないのに凍てついた。 ユダヤ人を初めてそれと認識したのは三十歳代だった。マンハッタンの街頭だった。黒い帽子、黒いスーツに伸ばしたヒゲ。何から何まで黒尽くめでとても分かりやすい姿だった。自分はイスラエルとパレスチナの問題をしっかり理解していない。知っていることは戦後にユダヤ人が彼の地に建…

  • 栄光は君に輝く

    東北新幹線はなかなか列車種別が多く県庁所在地駅も通らないものもある。「はやぶさ」を選ぶと東京からは大宮だけに停まりその先は仙台までノンストップになる。栃木の県庁所在地・宇都宮も、福島の交通要所・郡山も、県庁所在地の福島にも停まらない。時速300キロを超えて走るのだから風景はたちどころに流れていく。東北新幹線は青森に向かって左側の窓際に座るのが好きだ。山の眺めを堪能できる。下り列車だと朝日を浴びて、上り列車だと残照を背に山が浮かび上がる。日光白根山・男体山・女峰山、福島に入っては安達太良山、盛岡を過ぎると岩手山と、既知未知の山々があっという間に右から左へ去っていく。福島駅を通過する手前で僕はいつ…

  • フキ三昧

    子供の頃、原っぱにたくさん咲いていた名も無い花を姉は無心に摘んでいた。それは小さな花束になり持ち帰ると母は「マーガレットね」と言うのだった。姉の嬉しそうな顔と花を摘む後ろ姿はよく覚えている。眼の前の路傍の草の前にしゃがんでプチプチと音を立てている妻の姿を見てそんなことを思い出した。 妻は目ざとくフキを見つける。流石にフキの芽はもう無くなり花も終わりかけている。大きすぎる花は天麩羅には不向きに思える。そこで今朝は芽や花ではなく茎を摘んだ。 すぐにそれは花束のようになった。茎を煮物にするのは美味しい。野生の茎はスーパーで見かけるような立派なものではなくその径は1センチに届かない。しかしそれでも十分…

  • 桜並木の見沼用水

    埼玉県の見沼公園あたりの風景を知ったのは誰かのブログだったろうか。いや、ランドナーというキーワードで検索したWEBサイトだったかもしれない。ランドナーとは今流行りのカーボンやアルミのロードバイクではなく、鉄のホリゾンタルフレームに泥除けのついたクラシックなデザインの自転車を指す。早く走る為の自転車ではなくゆっくりと旅をする自転車だ。そんな自転車の愛好会の会合が見沼の公園で開催されていたことを思い出したのだった。見沼の地は埼玉県大宮市、いや、今はさいたま市は大宮の東側にあるという認識だった。 東大宮に住む知人の家に行く所用があり折角行くのだから自転車で行ってみようと思った。自分の街からは片道70…

  • 羽やすめ

    次回のバンドのリハーサルに向けてベースギターの練習をしていた。新しい曲の音をようやく拾えた。まずは曲を流して全体像を掴みたい。リズム楽器はノリが大切で音源を流しながら体で拍子をとって弾いていた。曲の途中で止めると体の中のグルーブ感が止まってしまうのでそれは嫌だった。 窓の外を見ながら弾いていると数軒隣の地デジアンテナに目が行った。アマチュア無線をやっているので人様のアンテナは気になる。目が留まったのはそこに二羽の鳥が止まっていたからだった。練習を止めたくは無いが、僕は鳥をじっくりと観察しようと思った。 四月になったのにここ数日雨が続いていた。つられて気温も寒かった。今朝早くにそれはようやく止ん…

  • 薄いコーヒー

    ♪冷えだした手のひらで包んでる紙コップはドーナツ屋の薄いコーヒー ほっと一息は良いものだった。僕には陶器のカップに入った目の前のそれは歌の様には薄くは感じられなかった。 駅前のドーナツ屋は店舗統廃合だろうか、一度廃業し違うテナントが入っていた。しかしいつの間にか同じ場所で少し大きな店舗として再開店していた。 妻と知り合うきっかけはそんなドーナツ屋だった。会社の近くの交差点で、とても一人では食べられないような長い箱に入ったドーナツの袋を下げている女性が目に止まった。同じ会社の同期入社だった。小柄な彼女には不似合いに大きなドーナツ袋。見られちゃったというような笑顔は、話しかけてみようという気持ちを…

  • 歯磨き・福之記12

    ドリフの「八時だよ全員集合」が大好きだった。番組の最後では出演者一同がステージに並び「いい湯だな」を歌うが、そこで一番人気のカトチャンがこう言う。「歯みがけよ」と。しかし歯磨きは好きではなかった。痛いし面倒くさかった。色気づき口臭が気になる頃、お好み焼きの青のりが気になる頃、それは高校か大学の頃だったが、丁寧な歯磨きはその頃にようやく定着した。今も面倒くさがり屋だが、歯間ブラシや糸ようじで歯の隙間を綺麗にし歯ぐきから出血すると嬉しくなる。ガン病棟ではしかし歯ぐきから血が出るほど力を入れて歯磨きせぬようにと言われた。抗癌剤で白血球が大幅に低下しており雑菌感染を懸念してだった。 親の入れ歯を見た時…

  • 捻じれたチェーン

    油まみれの指先を見て思い出した。香川で自転車屋をやっていた祖父の指だった。子供の頃毎夏遊びに行くといつも祖父はパンクを直しチェーンに油を指していた。その彼の指先は真っ黒で石鹸で洗ってもとれていない。もはや地肌の色と化していた。黒い手指に笑顔で遠来の孫を歓迎してくれていた。 ロードバイクのブレーキがキュウキュウと異音を立てていた。雨上がりだから気にしなかったが晴天でも鳴る。交換時期だった。ブレーキはゴム素材だから柔らかいとも思うが、そのまま使っていると金属のリムが壊れる事もある。それは避けたい。金属の船にゴムのシューが嵌っている古いタイプのブレーキパッドは今はネットでも入手が難しく一体成型品が多…

  • 親指サイズ

    娘から妻にラインが来た。「円形脱毛症になった」と。それなら自分もなった、直ぐに治るよ、と話したが「相変わらずね。あなた私の円形脱毛症を見つけて指摘したでしょ、結婚前の話よ」と妻は続けたのだった。 すっかりそんな出来事は忘れていた。まだ二十代前半だったのだからか、あるいは交際相手が無遠慮に指摘したからか、確かに彼女は傷ついたのかもしれなかった。 自分の円形脱毛症は明らかにストレス起因だった。三十代の頃、勤務していた会社の事業部はグループ会社との間で事業合併が行われ、外部からの社員が混ざるようになった。異文化交流とは日本人が昔から苦手としていた分野ではないか、まさにそれだった。上司はそんな外部から…

  • ザノースフェイスのマウンテンパーカー

    自分がアウトドア趣味に目覚めた1980年代とは少し混沌としていたな、と思う。国内外の文化が混じっていた。アウトドアのファッションとしての話だ。 ハイキングや山登りは昭和30年代から流行り始めたようで当時は英国スタイルなのかツイードのジャケットを着て登っていたようだ。だが1980年代の登山の格好はさすがにツイードジャケット姿は見なかった。がチェックのウールシャツに霜降りのニッカボッカは高尾駅や奥多摩駅、秦野駅・伊勢原駅あたりでよく見かけた。ザックは蟹の様な頭陀袋であるキスリングが辛うじて残っていたが直ぐにそれは消えて行った。 そんな時期にアメリカ文化が入って来たのだろう。フレームザック、バンダナ…

  • 腹帯

    友人の娘さんが妊娠されたという。結婚後三年目と言う話だった。その娘さんは母である友には妊娠三カ月でそれを告げたそうだがしばらくは口外しないようにと言われたという。安定期に入り旦那さんからそれを夫の実家に伝えたそうだ。 腹帯などは今も使うのかなぁと水を向けると彼女は続けた。「早速来たらしいのよ、娘の旦那の実家から腹帯が。今時はそんな時代でもないのにねぇ」と。想像がついた。その話を妻にしたら、私ももらったでしょ腹帯、お義母さんから、と言われた。今なら怒ってそれを母につき返していただろうが、あの頃は疑問に思わなかった。古い価値観に凝り固まっている母だからわかる。当たり前のことをしたのだろうと。 今も…

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