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日々これ好日 https://shirane3193.hatenablog.com/

57歳で早期退職。再就職研修中に脳腫瘍・悪性リンパ腫に罹患。治療終了して自分を取り囲む総てのものの見方が変わっていた。普通の日々の中に喜びがある。スローでストレスのない生活をしていこう、と考えている。そんな日々で思う事を書いています。

杜幸
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2023/03/09

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  • 線路内にて

    - 只今蒲田川崎間にて線路内で不審な立ち入りがあり電車は緊急停止を行います。 - 先ほど大井町駅にて人身接触がありましたので当駅にて運転を見合わせております。お急ぎの方は京浜急行への振替乗車を行っております。 そんな放送が流れるたびにいつもイライラしていた。通勤電車だった。満員電車の中、ただ待つ。遅延証明書を貰えば良いな、などと思うが車内の暖房は暑く気持ち悪くなる。コートを脱ごうにも脱げない。するとこうなる。 - ご気分を悪くされたお客様の対応のために少し出発が遅れます。 会社通いはこんな風にストレスと抱き合わせだった。 高原の駅で僕は電車を持っていた。一時間に一本の各駅停車だった。総合病院で…

  • 露天風呂の気球

    温泉といえば草津、別府、登別だろうか。がそこは火山国日本、無名でも温泉には事欠かない。引っ越した高原の地が属する市のサイトによると市内には九つの温泉があると書かれている。 僕たちはそれを片っ端から潰していこうと言う計画を持っている。どこもサウナ付きで市民割引。四百円程度だった。やっと三つ目だった。そこはこれまでの三箇所の中では最もリゾート感に溢れていた。 サウナで汗を流しきって外に出た。広い露天風呂だった。見回すと湯船全員が西洋人だった。ぬるい湯は長風呂を可能にさせてくれる。すぐに会話の仲間に入れてもらった、いや、割り込んだ。 ツーリストか?こんな無名の地をどうして知ったの?日本のオンセン、楽…

  • 甲斐からの山歩き 小楢山・山梨市

    緩い登りは優しく続く。小さな峰に登りついても小径は先へ伸びていく。登山靴の靴紐がほどけかけていた。ザックを降ろして紐を締め直した。膝に手を突き立ち上がりザックを背負うと僕は一瞬ぐらりと揺れた。天と地が入れ替わったように思えた。しかし僕は焦らない。この感覚は知っている。新緑の季節に広葉樹の山を歩き空を見上げるならばいつも襲ってくるのだから。蒼い空の下に緑の葉が揺れる。光は木の葉を透過して降り注ぐ。葉緑素が落ちてくるのだ。それが僕には眩暈に思える。好きな感覚だった。 眩暈が収まり目線を下に向けた。驚いた。そこは一面フキの群生地だった。直ぐに思った。妻に煮物にしてもらおうと。 甲斐の国に引っ越して最…

  • とうとう来たか

    あれれ分からない。広大な駐車場を十五分は歩いた。 地方都市の若者に取り最大の楽しみの一つはショッピングモールだと聞いたことがある。デートに買い物にと。そんなモールは郊外にあることが多い。駅から直通バスが出ていることも多い。そこは広い敷地に航空母艦のように横たわっていた。ちょっとした要塞のようにも思えた。シネマコンプレックスがあり、流行りのテナントがあり全国展開をする多くのレストランやカフェ、スイーツ、パン屋が連なる。僕は首都圏の駅前にあるショッピングモールを思い出した。それと全く変わらなかった。アパレルに関心のない自分はこの店のテナントがどんな位置づけなのかは分からない。しかし楽器屋もあり家電…

  • こうして覚醒するのか

    好きではない、むしろ苦手だな。そんな思いはないだろうか。 それは国民楽派と呼ばれる音楽だった。19世紀中ごろから20世紀にかけてのヨーロッパではドイツ・ロマン派の影響を受けながらも自民族に継承されていた音楽や伝説を反映させた民族主義的な音楽が出てきた。東ヨーロッパからロシア辺りの音楽がそれにあたる。バッハに始まりモーツァルトからブラームス、ブルックナーに至るまでドイツ・オーストリアの音楽に傾倒したが、国民楽派は少し違うなとおぼろげ気にわかっていた。何か香りがするな、と中学生のころから思っていた。それを自分は「スラブの節回し」と呼んでいた。ゲルマン民族ではないスラブ民族の音楽だ。 主としてヨーロ…

  • 新しい日々

    高原の地に引っ越すと病院もまた変わることになる。自分の診療科は血液の病を診療する科であり「血液内科」と呼ばれている。一昔前ならば内科といえば総合的なもの以外は呼吸器科、循環器科、消化器科程度、加え神経内科あたりしか細分化されていなかったと記憶する。それが今は腫瘍内科、腎臓内科、糖尿病内科、そして、血液内科と細かくなった。ジェネラシストからスペシャリスト化が進んでいるのだろう。 新しい病院に通う必要があった。何処にしようかと迷った。血液内科の看板を掲げている病院は多くない。大学病院、県立病院、そして赤十字病院あたりだろう。いずれも急性期病院であり症状の安定した患者は受け入れない。自分が入院してい…

  • モハに乗ってはならぬ

    鉄道の中での暇つぶし。学生時代はウォークマン、いまならスマホで聞く音楽か。社会人なりたての頃は漫画雑誌。いつかそれは新聞になりビジネス書や自己啓発書になった。 しかしやはり音楽を聞くのが楽しい。スマホにメモリーカードを増設すればいくらでも好きな曲が聞ける。サブスクはどうも自分にはピンとこない。好きな音楽は自分で探したい。いやそれもつまらぬこだわりだろう。 JRの電車には鉄道ファン以外には意味不明な記号がついている。モハとかクハ。サハもあればクモハもある。その後に車両形式が続く。さてこの呪文のようなカタカナなど誰も気にしない。 モハはモーターの付いた車両。クハは制御台、つまり運転台のついた車両、…

  • 異邦人

    作家北杜夫氏。彼を有名にした一冊「ドクトルマンボウ航海記」は自分を読書の世界にいざなってくれた。彼はマグロ調査船である600トンの船に船医として乗り込み東シナ海からインド洋、地中海そして大西洋、北海までの船旅に出る。寄港地で異文化に触れ驚く様は今も色褪せない。青春の鮮やかさに加えユーモアに満ち溢れた作品は自分にはとても大切な一冊だ。ドイツ文学とりわけ、トーマス・マンに惹かれていた彼にとり北ヨーロッパは憧れだったのだろう。ドーバー海峡を抜け憧れのドイツはハンブルグへの寄港。時間を使い彼はマンの生誕地リューベックへ赴き感慨にふける。そんな書の冒頭は面白い。東京の桟橋を出航した船はまずは房総の館山に…

  • 洗礼

    洗礼とはキリスト者として生きることを決め信者となるための儀式を受けることを指す。転じてそれはあることについての経験を持つ事をも指すだろう。 カトリックの洗礼を受けた友がいる。なにか拠り所があるのだろう、彼女はしっかりとご自分を持っているように思う。教会で祈る彼女には近寄りがたい。自分など何の拠り所などないのだった。 新しい高原の土地に引っ越してから、自分はどうも体調がすぐれない。直ぐにだるくなり何事も長続きがしない。引越し前の作業から引越し後の解梱や、インフラづくりと心も体も疲れているのだろうか。加えて思ったよりも海抜九百メートルの地は冷える。環境への順応が必要だった。 三十代からずっとヨーロ…

  • 回らぬ寿司

    寿司とは自分にとり父親が時折持ち帰る経木の箱に入ったものだった。電力会社を相手に営業職をやっていた彼は接待や宴席の残り物を良く包んでもらっていたのだろう。しかしそれは握りだったのか巻き物だったのかも覚えていない。余り美味しいとは思えなかった。 さすがに成人すると寿司の味を知る。学生時代にアパート隣室の友と共に寿司屋に行った。その頃ようやく回転寿司が広まったのだろう。 空手をやる彼はタンパク質信奉者で脇目も振らずに赤身を中心に十八皿食べた。自分は十六皿。中身は覚えてはいない。レーンの上を廻る寿司が楽しかった。 恥を忍んで書くがあれ以来自分は日本では「回らない寿司屋」に行ったことがない。回らぬ寿司…

  • コゴミとホタルイカ

    犬を連れての朝の散歩。リビングの南面にみる甲斐駒にかかる雲の流れで今日の天気はいかほどか、と推測するのも楽しい。戸外でると八ケ岳が北に見える。そんな道を辿っていくと、妻は突然しゃがみこんで摘むのだった。花ではない。それは野生のコゴミだった。フキもまだ元気で先日は十本ほど頂戴してきた。横浜の路肩の蕗とは大違いな立派なものだった。こうして毎日何かを摘む。もちろん他人様の土地だからそれはいけない事なのかもしれないが嫌になるほど生えているのだから大目に見てほしいのだった。 僕は僕で枯れ枝を探して歩く。桜の枯れ枝だろうか、薪ストーブの火つけ用にもってこいなのだ。松ぼっくりも良いという。落としものだから遠…

  • 鹿往く道

    引越しの疲れか、果て無き家の荷物整理か、まだまだ整わぬインフラなのか。体調がいま一つさえない。朝は東側の森の木漏れ日で目が覚める。ウグイスの鳴き声が二重窓を越して響いてくる。体にムチ打ち起床して朝食を取り犬を散歩に連れ出す。帰宅すると精魂尽き果てたように床に就く。体に嘘をついては駄目よ、と癌病棟で入院中に学生時代の友人からアドバイスを受けたことを思い出した。サレンダーなのよ、無理せずに従ってね、と彼女は言うのだった。 情けないけれど仕方ない。午後になってからようやく体を動かすことが出来る。六十七箱あった段ボール箱もようやく片付いたが棚に収まりきらないものは床に置いたままだった。すこしづつ棚もク…

  • 来客

    ピンポンとチャイムが鳴った。以前ならば誰だろうとカメラで覗いたかもしれない。しかしこの辺りには向かいの家と隣の家、その隣しか人家はない。昼過ぎに来たのは郵便配達で以前の住所から転送されてきた書留を持ってきた。転送サービスがようやく機能したようだった。 午後遅くに又チャイムが鳴った。ドアを開けて驚いた。しかし僕は彼が誰なのか直ぐにわかった。ずっとこの日を待っていたのだ。 信州は飯山の地に鍋倉山という1289mの峰がある。そこは越後と信州の国境稜線で「信越トレイル」という名のハイキングルートが在る。鍋倉山はその一部に過ぎないが好事家はこの峰を逃さない。JR飯山線は豪雪の地を行く鉄道で余りの積雪の多…

  • あの白い峰は?

    高原の地に引っ越してきてから毎日碧芙蓉こと甲斐駒ケ岳を眺めている。まだまだ残雪を纏いたいのだろうが峻険な岸壁がそれを許さない。僅かに山頂部とルンゼの様な谷筋にそれを見る。まさに如何にも剛毅にして高邁な鉄の峰だった。そこから東への長い連嶺はこれも見飽きない。一部を残して自分は甲斐駒からその東端の鳳凰三山までをテントを担いで縦走していた。地蔵岳のオベリスクも又下界から見てもよくわかる。一人ポツンと天を指している。こんな懐かしい稜線はいつ見ても心を揺るがせてくれる。甲斐駒から西にも峰は続く。鋸岳といういかにも峻険な名の通り高度感ある岩場ルートという事で体力・気力溢れる三十代四十代でも今一つその気にな…

  • 営業職

    営業という単語は分ったようでわからない。広辞苑によると「営利を目的として事業を営む事、またその営み」とまずは書かれている。新入社員研修を終え「海外営業部配属」と聞いた時に困った、外国人は怖い、英語は喋れない、人見知りだ。そんな自分が営業などできるのかと。しかし改めて広辞苑を考えるなら営業とは事業を営む事やその営みとある。大義になるが営業職というとわかりやすそうだ。いずれにせよ自分などその一部を担うだけという事だろう。 モノを売る相手も企業が相手なのか消費者が相手なのかによって仕事の内容は変わるだろう。自分は欧米の情報機器メーカーに対して自社の製品をOEMで扱ってもらうための販売部門の営業職だっ…

  • 平和な共和国

    癌の放射線治療は強力だった。巨大な機械で頭に無慈悲な光線を当てるのだ。抗がん剤攻撃にも耐えていた我が毛髪軍は一気に壊滅した。その戦にはいくつの弾や砲弾が使われたのか、最後に残ったのはまるでそんな弾丸の親玉の様につるつるな我が頭だった。 もっとも攻防戦に入る前から我が頭髪陣営は後退しており敗色は濃厚だったのだ。降伏です。そう白旗を上げようにも残った頭髪軍の兵士は誰もいなかった。戦後の日本は焼け跡に闇市が出始めて、混沌の中からやがて生きる事へのエネルギーが溢れてきたのだろう。自分の頭髪軍も砲弾の様に丸い荒れ野にそよぐスギナの如くポチポチと伸び始めていた。 病前と同様な長さに毛が伸びた時点で床屋に行…

  • 素敵な足慣らし

    こんにちは、と声がした。引っ越した高原の家は敷地を示すフェンスも無ければ門扉もない。家に鍵をかける必要もないと思っているが流石にそれはないだろう。ただ車を停めた庭先からは誰もが自由にやってくる。昨年だったか庭に鹿の糞があったのだから人間以外も自由に往来している。 声の主は家の敷地内にいらした。ウッドデッキに出ると友人夫妻だった。彼らは自分達より一回りは年上だが同じように関東平野の都会の街から山を求めてこの地へ引っ越してきたのだった。海抜千メートルに白い素敵な家を建てている。山歩き、庭仕事、陶芸、写真、音楽活動、と夫婦そろって高原の生活を楽しまれている。山が好きな僕は登山やサイクリングの帰りには…

  • 雲を見る日

    転居した家の書斎の窓からは甲斐駒が見える。海量というお坊様がこんな漢詩を読んでいる。最後の行だけを引用しよう。主語は「雲間ニ独リ秀ズ鉄リノ峰」、すなわち甲斐駒ケ岳2966mになる。五月に残雪が残るころに、この僧はこの鉄の峰をこう詩っている。「青天ニ削出ス碧芙蓉」と。深田久弥の「日本百名山」は僕にこの素敵な言葉を教えてくれた。碧芙蓉とは美しい表現に思う。 手に取れるように聳えているのに決して平面な地続きではない。我が小屋と甲斐駒の表玄関登山口の間には富士川が刻んだ深い谷がある。白州の谷、そこには名水が湧く。甲州街道がそこを通る。ウィスキーメーカーの工場があり同時にそこは南アルプス天然水の採取地で…

  • 彼女の作品

    娘は女子大の付属高校に進んだ。彼女が何故その学校を選んだのかは分からぬが確かに自分はそこを勧めた。中学から入学すればとも言った。その大学は漫画家・高橋留美子の母校でもある。高校生の頃にクラスメイトから教えてもらった漫画にすっかり僕は虜になってしまい、コミックスは買いアニメのセル画まで買う始末だった。 中学から入学すると良いだろうなと思ったの辛い受験は一回きりで終えたら、と思ったからだろう。いつか本人もその気になっていた。しかし彼女が小六の秋に自分はドイツへ転勤となりひと月遅れて一家が北緯五十度の街へ引っ越してきた。娘は受験を諦めたが、悔しかったのかホッとしたのかは分からない。 現地の中学校では…

  • 五十年前の扉

    断捨離をしていた。押し入れの奥からレコード盤が出てきた。約二十枚はあっただろう。今はアナログレコードプレーヤーも処分して再生のしようもない、これらは十年前に中古レコード店に持っていき買い取りできずで戻ってきものだった。70年代までの英国ロックと荒井・松任谷由実、フュージョンバンド・カシオペアなどのレコードだった。なぜか、アニメのアルバムもあった。これらのアナログ盤はアニメ以外は全てCDで買い直しそれもデジタルファイルでパソコンに取り込み済だった。 アナログレコードは最近ブームであるという。ただ捨てるのも惜しいので再び中古レコード店に持ち込んだ。アニメ「うる星やつら」サントラ版も含め今度はすべて…

  • なんでもDIY

    新しく住み始めた家の建築には時間がかかった。ハウスメーカーの話ではこの地辺りの大工さんが不足しているという話だった。加えコロナの真っ最中から余韻の期間で、物流の遅延、電子部品の品切れと資材面でも滞った。コロナが五種移行されたころからようやく工事が始まった。 基礎工事はかなり深く掘った。この地は冬は氷点下に下がる。土地は凍結する。凍結深度という用語を初めて知った。70センチは基礎を掘るというのだった。溝を掘り水糸で場所を張り木塀を立ててセメントで固める。基礎工事にはベタ基礎と布基礎がある。これも初めて知った。自分の家のサイズならば敷地全部を掘りセメントで固めるベタ基礎ではなく立ち上がり部分を掘り…

  • あずさ二号

    八時ちょうどの「あずさ二号」で歌の主人公は「貴方」と別れ信濃路へ旅立った訳だ。がこれには鉄道ファン的には齟齬がある。新宿から松本に行く下り列車は奇数番号であり、偶数番号は上り列車なのだから。しかし歌に載せた時の字数的には二号でないとピンとこなかったのだろう、そう思っている。 さて自分は「あずさ」に乗ってきたわけではないが新宿から西へ160キロの街に居る。この高原へ来たのは車だった。そして翌朝には家財道具一式を積み込んだトラックもこの地へ着いた。僕たち夫婦は四十年近く住み慣れた横浜を離れた。自分に至っては五十年住んでいた街だった、この場所は海抜九百メートルで南側を見れば目の前には南アルプス北部の…

  • 頑張っているな

    80歳を迎えてもステージに立ち動き回る。頑張っているなと思う。凄いと思うが同時に奇跡にも思う。ストーンズ(ザ・ローリング・ストーンズ)について語りだすときりが無くなる。だからあまり書かない。 まぎれもなく世界でも有数の長寿バンドだろう。1962年の結成だから。60年間現役でポップミュージックの世界を転がり続けている。昨年はなんと新作スタジオアルバムまでも出した。メンバーは皆80歳を迎えようとしている。エッジの効いた黒っぽいサウンドは紛れもなく彼らだった。 ブルースやR&Bの模倣から始まるのは1960年代当時のロンドンの音楽シーンだったのだろう。そんなカバーバンドで始まった彼らはやがてミック・ジ…

  • 壊れた屋根

    雨上がりの翌日は良く晴れていた。玄関のチャイムが鳴った。作業服を着たような若いお兄さんがそこに居た。 「余計なお世話かもしれないですが・・・」そう少しもじもじするのだった。彼は続けた。「ご主人の家の屋根、カサギが外れていますよ」と。数軒隣の建築現場で足場作業をしていたから気が付いた、そんな話だった。 カサギとは何ですかと問うと屋根の一番上にのっている金属の材だという。その片側が捲れているというのだった。このままでは雨漏りしますよ、と続ける。上がって修理しましょうかとでもいうのかと思った。 彼は耳にブルートゥースイヤホンを付けたままだった。自分はまずそれが何処を指すのか理解しようと思った。質問を…

  • 三枚の絵

    何故だろう、この十年以上の間、飾らなかった。生活に彩が無かったのだろうか、余裕が無かったのだろうか。押し入れの奥から絵が出てきた。それはドイツを去る日に買ったものだった。 デュッセルドルフは当時人口五十万人の都市だった。そこに日本人が五千人住んでいた。1%が日本人の比率だった。日系企業の欧州本部としてこの地は多くの日本の会社の支社が置かれていた。駐在員の多くは街の真ん中を流れるライン川の西岸地区に住んでいた。そこはオーバーカッセルやニーダーカッセルという地名だった。またデュッセルドルフ市内を出てしまうがその西のメアブッシュという街にも多くの日本人がいた。ライン川西岸が日本人居住区というとわかり…

  • 炭酸水

    初めて六本木に行ったのは十八歳だった。学生仲間でもお洒落な奴や好奇心のある奴らはディスコに行っていた。しかし自分はそんな場所は怖かった。何より女性に話しかける勇気もなく、振り絞って行っても歯牙にもかからぬだろう。容姿が劣っているという点が全ての自分の行動の足かせになっていた。その年齢で既に自分は諦めを知っていた。 噂に聞く六本木。遊び慣れた大人の街。大学は渋谷にあったが自分の学年から基礎課程の二年間はなぜか厚木の新キャンパスだった。自分は神奈川県中部の相模川が流れる街のアパートを借りた。隣室の住人は宮城県の男子高校から来た男だった。学部は違うが同じ厚木一回生。男子校卒業ということもあるのか彼は…

  • 192グラムの夢

    カメラ、自動巻き腕時計、鉄道模型、自転車のパーツ・・。好きなものを上げていくとわかる。自分は精密なメカが好きなのだと。腕は二本しかないのに幾つ腕時計があるのだろう。父の遺品、叔父の香典返し、勤続二十五周年の記念品、欲しくなかったのに我が手に来たものもあるがそれらはどれも電池で動くクォーツ時計だった。欲しいがどうするか、と迷って買った時計は自動巻きだった。 自動巻きは時刻が狂う。一つは遅れ、一つは進む。がクォーツですら狂う。電波時計はそうはならない。色々個性があって楽しい。狂う時計はその求められる機能を満たしていないことになるが、それも愛嬌がある可愛らしい。 カメラだ。今カメラはスマートフォンで…

  • 道しるべ

    会社員なりたての頃。昭和のモーレツの痕跡はもう無かったが、やはり自分も会社を中心に動いていた。男女雇用機会均等法の初年度に社会人になったが、世間はまだまだ男社会で今風に言えば「不適切」だらけだった。配属は海外営業部門で出張の機会もあり、かつ達成感もあった。しかし自分は仕事だけの人間で終わりたくないと何処かで無意識に思っていたのだろう。 その雑誌の存在は知っていた。時々買っていた。その一冊が今でも書棚にある。海辺だろう。オフロードバイクを前に小さなテントから女性が顔を出している。隣にはコッヘルが湯気を上げている。女性ライダーのソロキャンプツーリングの一コマが表紙だった。魅力的だった。 中を開いて…

  • 埃まみれのブラッキー

    ブラッキーと言えばギター好きならははぁと思うだろう。1977年の録音「スローハンド」のジャケット写真にはネックしか写っていない。ギターに愛称をつけるギタリストがいる。ミカウバーそれにマルコムはキース・リチャーズ。ルシールはBBキング。そして・・。ブラッキーとくればエリック・クラプトン。そんな有名な一本にはロックやブルースが好きならため息が出るかもしれない。 ブラッキーとは黒のフェンダー・ストラトキャスター。自分は幸いにもこのギターの音をレコードやCDではなく生で聞いたことがあった。武道館だった。クロスロードやホワイトルームといった60年代のナンバーから、いとしのレイラやコカインなどの70年代の…

  • 夢中な日々

    昔から年賀状を出すのはいつも遅れていた。流石に越年は無かったが大晦日に出すこともあった。当時交際していた女性とは結婚を意識していた。彼女宛の年賀状はやはり元旦に到着してほしいものだがそれは晦日や大晦日に吐くセリフでもない。 例によって遅れてしまった。そこで僕は一計を案じた。彼女が住む街の集配業務をする郵便局本局まで直接持ち込もうと考えた。大晦日も暮れようとする日に家から三十分かけてバイクで直接本局窓口に一枚の年賀状を手渡しに行った。 久しぶりに羽田に行った。飛行場に用事があったのではなく川崎まで出たついでに一般道で通れる多摩川の最下流の橋を渡ろうと思ったのだ。そこからの東京湾と羽田空港の風景を…

  • しばしの御機嫌よう・丹沢

    ここら辺りだったかな、テントを張ったのは。鹿の気配が濃厚であまり寝付けない夜だった。いや、それとは別に水場のあるカヤトの峰でテントを張った事もあったな。風の強い夜で朝はグンと冷え込んだ。しかし下界が朝焼けに染まるさま、それは見事だった。 様々な風景を思い出す。昔の記憶をたどりながら歩く山だった。稜線に上がるまではヒノキの林を沢に沿って登る。道型が小さな雷光型になり一気に高さを稼ぐと稜線だった。ブナの林が心地よい。 やれやれ一汗も二汗もかかされた。呼吸は落ち着き、行動食の大福餅を口にして水を摂った。長い主脈縦走路だった。地味な上り下りが続くのも尾根歩きのいつもの風景だ。あれほど多かった鹿の糞はし…

  • 山スキーヤーたるもの・東吾妻山

    プラ靴のコバを締め具に合わせてカチリと押すと靴は装着される。あとは流れ止めを巻くだけになる。ゲレンデスキーでもないのでステップインの締め具ではない。これで板は自らが外さない以外はまず外れない。しかし転んでも踵が固定されていないので足が捻じれる事もなく大事に至らない。つま先から母指球までが板に固定され、踵は常時解放されているというテレマークスキーは至って単純な構造だ。 歩くときはスキーの裏に滑り止めを貼る。シールと呼ばれるナイロン生地は巡目には抵抗なく逆目には毛が立つ。これを利用して斜面を登る。昔はアザラシの皮、そしてモヘアを使ったのでスキンとも呼ばれる。シールを貼れば体感では直登は斜度二十度を…

  • 僕だって入りたい・・

    ここの所すこしばかり断捨離で物を捨てる作業をしていたので妻も自分も疲れ気味だった。これからシャワーを浴びるのもなにか味気ない。すこし芯から休めないか、そう話して今日は銭湯の日にした。 行きつけの銭湯は数カ所あり、基本的にはそれをぐるぐる回っている。今日は最も小さくて家庭的な湯を選んだ。番台は時間替わりで男性と女性に入れ替わる。自分達よりは十歳は年上だろう。たいてい女性の番台さんにあたる。 彼女は犬好きで風呂から出て家内を待つ間、僕はいつも彼女と立ち話をしている。なぜ犬好きと知ったかと言えば、我が家の犬が車の中で吠えている事をいつも気にかけくれているからだった。 「ほら、ワンちゃん吠えているわよ…

  • 魔法の調味料

    パスタは美味しい。初めて食べたのは何時だろう。母親が作っていたものが最初だろう。それはフニャフニャの麺をケチャップで炒めたようなものだった。大学の学生食堂ではミートソースのスパゲティがあった。挽肉のソースが美味しかった。がこれまた柔らかな麺だった。が250円という値段は魅力的だった。それは「スパミ」と略して呼ばれ多くの学生から人気があった。食べ終わると口の周りが赤茶になるので女子学生を前にする時は無意識で手で口を拭っていた。 初めてそれらしいパスタを食べたのは渋谷だった。壁の穴という名前のレストランだったろうか。それはソフト麵にミートソースをかけたものではなくもっと手が込んでいた。とても美味し…

  • ちいさな祈り

    車に乗りオーディオを鳴らした。メモリーカードにはジャンル分けした好きな曲が入っている。その時はソウルミュージックのフォルダだった。アレサ・フランクリンが熱唱している。彼女の歌声は自分にある風景を思い出させてくれた。 カトリックの友人と教会に行った。彼女は壁にかかったイエスの像を前に膝まずき十字を切っていた。それは自然な所作だった。ステンドグラスから光が漏れて床にいくつもの彩を作っていた。ひんやりとした空間で、厳かだった。自分は何をしたらよいか分からなかった。何のお祈りをしているのかなどは分からない。ただ祈れる相手がいて祈ることがあるという事が素晴らしいと思った。 アレサの歌っている内容を知りた…

  • 万引き

    何故そんな気持ちになったのか分からない。もう大学生活もひと月を残すだけになっていた。別れがたい仲間たちもみなそれぞれに就職が決まり新しい世界へ行くことが決まっていた。故郷に帰る友もいれば東京で働く事を選んだ友もいた。それぞれだった。 世田谷は下北沢が自分達の根城だった。友人のアパートがあり自分はずっと入り浸っていた。渋谷は学校のある街で、青山通りを渋谷駅に向かいセンター街の飲み屋に行くことが多かった。その日も渋谷で飲んで、下北沢まで戻ってまた飲んだ。そこで解散となったが三人残った。自分はもう一人の友とともに友人のアパートに行くことにしていた。狭い路地を三人で千鳥足だった。彼のアパートの手前にコ…

  • 目の毒

    都内の街角で見かけてしまった。思わず足を止めて見とれた。バイク乗りを辞めて15年以上経つ。しかし今でも密かに心の中におき火が残っている。それは時々燃える。 自分がバイクに熱心に乗っていたのは1980年代から2000年あたりまでだった。当時のバイクにはレーサーレプリカもあればDOHC四気筒のスポーツ車もあった。自分が選んだのは当初はSOHC二気筒という使いやすい商用車のエンジンを載せたアメリカンバイクだった。本当は一気筒エンジンのオフロードバイクに乗りたかったのだが、脚が短いので諦めてしまった。あまり好きでなかったバイクはやはり手放す。そしてとうとう200㏄のオフロード車に乗り換えた。赤のホンダ…

  • 変わりゆく街

    駅前に降りたのは四年振りだった。コロナになる前、ライブ直前のつめでこの街の音楽スタジオに頻繁に通っていた。ライブまで数週間に迫った頃、中国から端を発したウィルスは未曽有のものとなり、世の中は停止した。バンドのアンサンブルは完成していたがライブハウスはキャンセルした。そして堰を切ったように自分には激動が待っていた。早期退職、新たな職場、ガン罹患。再度退職。自分の全ては白紙になり癌治療でつるつる禿げげ頭になった。 久しぶりに降りた駅前には工事のシートが張られそこに重機が数台動いていた。どんなビルが建っていたのかも思い出せないのだが場所柄お洒落なカフェも入っていたのだろうか。路地裏に入り込みスタジオ…

  • 尾翼のマーク

    飛行機が好きだ。第二次世界大戦で使われた飛行機が特に好きだ。また小学生の頃はそんな好奇心を満たしてくれる書籍も多かった。日本海軍エース坂井三郎空戦記に始まり、本土防空戦、そしてバトル・オブ・ブリテンからドイツ本土防空戦、さらに数年前に友から借りたフィンランド空軍記まで。一体何冊の本を手にしたのだろう。そしてそんな軍用機のプラモデル作りは小学生から学生時代に熱中したがいまでも開封待ちのキットがある。 もちろん現代の軍用機も魅力ある。少し古いがベトナム戦争でのファントムとミグの空戦記録やヘリコプターを本格的に使ったヘリボーン作戦も胸が弾む。映画トップ・ガンマーヴェリックも手に汗握った。戦争というそ…

  • 好奇心と探究心

    玄関に停まっている車を見て色々な方が反応する。宅配便のドライバー氏。訪問診療の医師、様々だ。だれもが「いいですね」と言い、続いて「納期はどうでしたか?」と聞いてくる。車など多くの人にとっては移動手動に過ぎないがそこに様々な方向性を持つ趣味が加わると「好きな人にはたまらない」という車が出てくる。スポーティなクーペや豪華なミニバン、クラシックな車など嗜好は様々だ。 車の免許を持つ前から興味はブレずに変わらない。ウィリスジープ、初代ビッグホーン、ランクル40、ランクル70、ダイハツラガー、そして古いレンジローバー…。こう憧れた車を書き続けると自分の好きな車種が浮かび上がる。箱。頑丈。無骨。質素。泥。…

  • 借り物と自分の物

    世界最高峰のオーケストラがウィーン・フィルとベルリン・フィルであることは周目の意見が一致するところだろう。カラヤン、ベーム、バーンスタインからアバド、オザワ。そしてムーティ、メータ、今ではラトル、ティーレマンときら星のような指揮者が並ぶ。彼らのお陰で輝いたのか、あるいはオケがすごいのでマエストロたちが集まったのかはわからない。多分相互作用だろう。 自分の所有する録音はウィーン・フィルが多い。蒼古というべきか伝統的と言うべきか、あの響きを求めるとそうなってしまった。ムジークフェラインザールで響く彼らの音はさように魅力的だ。 トップオーケストラの団員の楽器はやはり数億円もするような高価なのだろう、…

  • 代名詞禁止法

    ねぇ、あれとって。そこにあるでしょ。これ見て、これ。あの事だけどさ・・。 そんな会話が続くと何故か苛立たしくなるのは脳腫瘍を摘出するための外科手術の影響でなにかの「緒」が切れたからなのだろうか?頭を開き病巣を取り出しホチキスで縫合してからは、まるで思考回路がショートしたかのように持ち前の短気さに拍車がかかった。とばっちりを受けたのは生活を共にする家内だった。 あれって何?これって?そこって何処?あの事って何の事? 少し考えれば、一握りの想像力を働かせれば済む話なのに頭には幾つもの?が湧く。実はあれこれそれが概ね分かっていることもあるが、最初からきちんと系統立てて話してほしいのでそう言ってしまう…

  • 桜の夜

    桜の花びらが舞っている。夜風が冷たい、それが花びらをこの時期まで枝にとどまらせたのだろう。やや強い風に枝からはらはらと離れて気まぐれな空気の中を泳いでいた。 三十三年前の今日。ちょうどこの時間帯に自分達は六本木のトラットリアに居た。気取らぬ店だった。学生時代の友人が二人で仕切ってくれた。男の友人はそれがプレッシャーだったのか、何度かトイレに行っていたという。女性の友人は笑顔でそつがなかった。それは自分達二人がごく近しい人たちだけを呼んだ小さなパーティだった。 どんな料理が出たのかも、立食だったのかも覚えていない。ただ女性の友人が伝手を使いその店を貸し切りにしてすべてをアレンジしてくれた事、そし…

  • 角刈り禁止

    千円を機械にいれるとカードが出てくる。それを手にして待合の長椅子に座る。先客三名か。今日は二人体制だな、少し待つな、と足を組んだ。見慣れた風景だが壁の但し書きに目が行った。 「当店では角刈りとそれに相当する髪型のカットは受け付けておりません」と。 なぜか笑ってしまった。金を払うのだから注文通りやってくれ、といった野暮な話ではない。角刈りと言う言葉を少し懐かしく思い出したからだった。 角刈りにサングラス。するとショットガンが欲しくなる。角刈りにドスとなると腹に白いサラシを巻いてほしい。渡哲也に菅原文太、高倉健。そんな往年のスターが思い出された。スクリーンから男気が匂い出てくる俳優さんだった。 頭…

  • フリーになって欲しいこと

    バリアフリーは随分と一般化してきた。自分がもし家を建てるのならバリアフリーにするだろう。つまらない事でも高齢者は足が引っかかる。カーペット一枚の有無が転倒リスクを左右する。ましてや部屋と部屋の間の扉周りの建具で段差があるとやはり危ない。それは高齢者が住む家なら誰もが直面する話だ。階段や玄関のステップは初めから段差ありきなので手摺がつく事もあるし歩く方も心して歩くだろう。そんなことで障害を避けるような工夫が家やショッピングセンター、駅などでは進んでいる。 もう一つ、進んで欲しいなと思う事がある。それはレストランやカフェ、宿泊施設などでの犬連れの話だ。宿泊施設など犬宿泊OKという宿が増えてきた。が…

  • 折れたうどん

    香川県生まれの自分がうどんに求めるものは二つ。強いコシの麺と金色に光るイリコ出汁だ。冷たく戴くときは余りこだわりが無い。物心ついたころには香川のうどんは暖かいものばかりだったから。 コシは大切に思う。関東のうどんを目にしたときに真っ黒い汁に驚き口にしたときの歯ごたえの無い麺にはさらに驚いた。その意味で数年前に知った武蔵野うどんは気に入った。見ようによっては赤みを帯びた麺は歯ごたえがあり小麦の香りも野趣あふれる。これは暖かい肉つけ汁で頂く。 自宅でうどんを作るとなるとイリコダシは粉末も手に入るが、あの麺は遠い世界だ。尤も、ものの本によると小麦粉と水と塩があれば、あとはこねて足踏みするとある。興味…

  • 雨のち晴れ、そして雨

    車で西に向かっていた。自分はその地にある建物に品物をいくつか届けようとしていた。しかし前日の天気予報では中部地方から東海地方にかけて雨予報で所により強い雨とあった。普段より時間がかかるなと覚悟して早めに家を出た。西には強い雨の予報があり、それは東へ移動してくる。その中を自分は東から西へ行こうとしている。 敢えて火中の栗を拾いに行くようなものだな、と考えながらハンドルを握っているとすぐに雨が降ってきた。気圧の谷へ向かっているのだからその通りだった。のどのような谷筋の道に入ると雨は激しくなり霧も多かった。霧の中に先行者のテールライトが滲んで危険だった。自分はフォグランプを点けた。誰もが慎重に走って…

  • 性に合わぬこと

    「三万すった」、そう友はタバコを手に諦め顔で戻ってきた。軍艦マーチが店外に流れだしていた。僕はその向かいのハンバーガー店で時間をつぶしていたのだろうか。彼に一度だけ付き合って店の中に入ったことがある。千円札を自販機に入れると手にした皿に数センチの銀玉が出てきた。ジャラジャラとそれを機械のトレイに流し入れた。手のひらでグリップを握りを右に回すと球が弾けだされてきた。ピンやチューリップの羽にあたりながらそれは下まで落ちて吸い込まれた。勇壮な音に反して玉は数十秒で無くなった。俺には無理だな、と思い店外に出た。 父親が世を去り半年以上経過した。様々な手続きがあった。父には僅かながらの残したものがあった…

  • 信じる事に決めた・福之記13

    抗癌剤の治療が決まった時、自分は家内に犬用のバリカンを持ってきてもらった。病院の浴室で鏡を見ながら自分の頭を丸刈りにした。薬で毛が抜けるのなら自ら短くしようと。さっぱりした。が、毛根はなかなかしたたかで、意外にも抗癌剤に耐えた。しかしその後の脳への放射線治療は強力で、全ての髪の毛は無くなった。 その後多少は髪の毛は伸びたが、大砲の弾丸の様な髪形を維持している。寝ぐせもつかずドライヤーも不要。直射日光の暑さと冬の寒気は帽子で防ぐ。それ以外は全く気楽なのだった。自分で出来るだけバリカンを掛ければよい、と決めていたがどうしても後頭部はうまくいかない。ハゲのくせに生えているところはしっかり伸びる。一カ…

  • 雲間の菩薩 

    樹林帯を抜け出すと灌木帯だ。随分と手を焼かせてくれた。崩れやすい尾根道を注意して進む。足場の目安を立て露岩に手をかけて体を上げた。それ以上高い場所はここにはなかった。朝から曇っていたが薄くなった空気の狭間がゆっくりと解けた。いったん緩むと呆気なく、その網目からこぼれる光が足元に転がった小さな標識を浮かび上がらせた。かつては柱に括り付けられてたであろう木の札は風で飛ばされたのか、塗料も禿げそこに書かれた山の名前も明瞭ではなかった。しかしよく見るとそこには先輩のペンネームが記されていた。辛うじて判読できた。 縞田武弥はそれを見てああようやくここまで来ることが出来たか、とザックを下ろし呟いた。背中か…

  • 図書の旅39  約束の国への長い旅

    ●約束の国への長い旅 篠輝久著 リブリオ出版 1988年 一本のレールが続いていた。それは壁に向かっていた。壁にただ一つある門を抜けると広大な敷地だった。そこにはレンガで作ったマッチ箱のような建物がいくつも整然と並んでいる。その箱はすぐにも倒壊しそうに思えた。中に入ると陰鬱だった。この地は北緯50度はある。冬でもないのに凍てついた。 ユダヤ人を初めてそれと認識したのは三十歳代だった。マンハッタンの街頭だった。黒い帽子、黒いスーツに伸ばしたヒゲ。何から何まで黒尽くめでとても分かりやすい姿だった。自分はイスラエルとパレスチナの問題をしっかり理解していない。知っていることは戦後にユダヤ人が彼の地に建…

  • 栄光は君に輝く

    東北新幹線はなかなか列車種別が多く県庁所在地駅も通らないものもある。「はやぶさ」を選ぶと東京からは大宮だけに停まりその先は仙台までノンストップになる。栃木の県庁所在地・宇都宮も、福島の交通要所・郡山も、県庁所在地の福島にも停まらない。時速300キロを超えて走るのだから風景はたちどころに流れていく。東北新幹線は青森に向かって左側の窓際に座るのが好きだ。山の眺めを堪能できる。下り列車だと朝日を浴びて、上り列車だと残照を背に山が浮かび上がる。日光白根山・男体山・女峰山、福島に入っては安達太良山、盛岡を過ぎると岩手山と、既知未知の山々があっという間に右から左へ去っていく。福島駅を通過する手前で僕はいつ…

  • フキ三昧

    子供の頃、原っぱにたくさん咲いていた名も無い花を姉は無心に摘んでいた。それは小さな花束になり持ち帰ると母は「マーガレットね」と言うのだった。姉の嬉しそうな顔と花を摘む後ろ姿はよく覚えている。眼の前の路傍の草の前にしゃがんでプチプチと音を立てている妻の姿を見てそんなことを思い出した。 妻は目ざとくフキを見つける。流石にフキの芽はもう無くなり花も終わりかけている。大きすぎる花は天麩羅には不向きに思える。そこで今朝は芽や花ではなく茎を摘んだ。 すぐにそれは花束のようになった。茎を煮物にするのは美味しい。野生の茎はスーパーで見かけるような立派なものではなくその径は1センチに届かない。しかしそれでも十分…

  • 桜並木の見沼用水

    埼玉県の見沼公園あたりの風景を知ったのは誰かのブログだったろうか。いや、ランドナーというキーワードで検索したWEBサイトだったかもしれない。ランドナーとは今流行りのカーボンやアルミのロードバイクではなく、鉄のホリゾンタルフレームに泥除けのついたクラシックなデザインの自転車を指す。早く走る為の自転車ではなくゆっくりと旅をする自転車だ。そんな自転車の愛好会の会合が見沼の公園で開催されていたことを思い出したのだった。見沼の地は埼玉県大宮市、いや、今はさいたま市は大宮の東側にあるという認識だった。 東大宮に住む知人の家に行く所用があり折角行くのだから自転車で行ってみようと思った。自分の街からは片道70…

  • 羽やすめ

    次回のバンドのリハーサルに向けてベースギターの練習をしていた。新しい曲の音をようやく拾えた。まずは曲を流して全体像を掴みたい。リズム楽器はノリが大切で音源を流しながら体で拍子をとって弾いていた。曲の途中で止めると体の中のグルーブ感が止まってしまうのでそれは嫌だった。 窓の外を見ながら弾いていると数軒隣の地デジアンテナに目が行った。アマチュア無線をやっているので人様のアンテナは気になる。目が留まったのはそこに二羽の鳥が止まっていたからだった。練習を止めたくは無いが、僕は鳥をじっくりと観察しようと思った。 四月になったのにここ数日雨が続いていた。つられて気温も寒かった。今朝早くにそれはようやく止ん…

  • 薄いコーヒー

    ♪冷えだした手のひらで包んでる紙コップはドーナツ屋の薄いコーヒー ほっと一息は良いものだった。僕には陶器のカップに入った目の前のそれは歌の様には薄くは感じられなかった。 駅前のドーナツ屋は店舗統廃合だろうか、一度廃業し違うテナントが入っていた。しかしいつの間にか同じ場所で少し大きな店舗として再開店していた。 妻と知り合うきっかけはそんなドーナツ屋だった。会社の近くの交差点で、とても一人では食べられないような長い箱に入ったドーナツの袋を下げている女性が目に止まった。同じ会社の同期入社だった。小柄な彼女には不似合いに大きなドーナツ袋。見られちゃったというような笑顔は、話しかけてみようという気持ちを…

  • 歯磨き・福之記12

    ドリフの「八時だよ全員集合」が大好きだった。番組の最後では出演者一同がステージに並び「いい湯だな」を歌うが、そこで一番人気のカトチャンがこう言う。「歯みがけよ」と。しかし歯磨きは好きではなかった。痛いし面倒くさかった。色気づき口臭が気になる頃、お好み焼きの青のりが気になる頃、それは高校か大学の頃だったが、丁寧な歯磨きはその頃にようやく定着した。今も面倒くさがり屋だが、歯間ブラシや糸ようじで歯の隙間を綺麗にし歯ぐきから出血すると嬉しくなる。ガン病棟ではしかし歯ぐきから血が出るほど力を入れて歯磨きせぬようにと言われた。抗癌剤で白血球が大幅に低下しており雑菌感染を懸念してだった。 親の入れ歯を見た時…

  • 捻じれたチェーン

    油まみれの指先を見て思い出した。香川で自転車屋をやっていた祖父の指だった。子供の頃毎夏遊びに行くといつも祖父はパンクを直しチェーンに油を指していた。その彼の指先は真っ黒で石鹸で洗ってもとれていない。もはや地肌の色と化していた。黒い手指に笑顔で遠来の孫を歓迎してくれていた。 ロードバイクのブレーキがキュウキュウと異音を立てていた。雨上がりだから気にしなかったが晴天でも鳴る。交換時期だった。ブレーキはゴム素材だから柔らかいとも思うが、そのまま使っていると金属のリムが壊れる事もある。それは避けたい。金属の船にゴムのシューが嵌っている古いタイプのブレーキパッドは今はネットでも入手が難しく一体成型品が多…

  • 親指サイズ

    娘から妻にラインが来た。「円形脱毛症になった」と。それなら自分もなった、直ぐに治るよ、と話したが「相変わらずね。あなた私の円形脱毛症を見つけて指摘したでしょ、結婚前の話よ」と妻は続けたのだった。 すっかりそんな出来事は忘れていた。まだ二十代前半だったのだからか、あるいは交際相手が無遠慮に指摘したからか、確かに彼女は傷ついたのかもしれなかった。 自分の円形脱毛症は明らかにストレス起因だった。三十代の頃、勤務していた会社の事業部はグループ会社との間で事業合併が行われ、外部からの社員が混ざるようになった。異文化交流とは日本人が昔から苦手としていた分野ではないか、まさにそれだった。上司はそんな外部から…

  • ザノースフェイスのマウンテンパーカー

    自分がアウトドア趣味に目覚めた1980年代とは少し混沌としていたな、と思う。国内外の文化が混じっていた。アウトドアのファッションとしての話だ。 ハイキングや山登りは昭和30年代から流行り始めたようで当時は英国スタイルなのかツイードのジャケットを着て登っていたようだ。だが1980年代の登山の格好はさすがにツイードジャケット姿は見なかった。がチェックのウールシャツに霜降りのニッカボッカは高尾駅や奥多摩駅、秦野駅・伊勢原駅あたりでよく見かけた。ザックは蟹の様な頭陀袋であるキスリングが辛うじて残っていたが直ぐにそれは消えて行った。 そんな時期にアメリカ文化が入って来たのだろう。フレームザック、バンダナ…

  • 腹帯

    友人の娘さんが妊娠されたという。結婚後三年目と言う話だった。その娘さんは母である友には妊娠三カ月でそれを告げたそうだがしばらくは口外しないようにと言われたという。安定期に入り旦那さんからそれを夫の実家に伝えたそうだ。 腹帯などは今も使うのかなぁと水を向けると彼女は続けた。「早速来たらしいのよ、娘の旦那の実家から腹帯が。今時はそんな時代でもないのにねぇ」と。想像がついた。その話を妻にしたら、私ももらったでしょ腹帯、お義母さんから、と言われた。今なら怒ってそれを母につき返していただろうが、あの頃は疑問に思わなかった。古い価値観に凝り固まっている母だからわかる。当たり前のことをしたのだろうと。 今も…

  • 何かが起こる予感

    強い風の吹く日だった。木造三階建ての家は揺れる。風は立ち向かうものではなく受け流すものだと知った。梁がたわんで家全体で受け流していると思うと家の揺れは気にならない。頼むぜ頑張れと応援する。これでまともに耐えたらどこかで崩れるだろう。思えばそれが最後の冬の抵抗だったのだろうか、翌日全てが去り溢れる日差しと15度以上の気温が待っていた。暦はまだ辛うじて三月だったがそれもあと数日だ。 朝7時に目が覚めた。日差しを見て心がうきうきしたのは何故だろう。犬を連れて直ぐに外に出た。風はすっかりなりを潜め空気には角が無かった。何か奇跡が起きそうで、今日は良い日に違いない、そう思った。朝食後に家の窓をすべて開け…

  • 豊かに響く平均律

    ダニエル・バレンボイムの録音に初めて触れたのは指揮者としてではなくピアニストとしてだった。ただそれが何だったかはあまり覚えていない。ベートヴェンのピアノソナタだっただろうか。当時のLPレコードは手放してしまったし、あの頃はバックハウスやケンプなどのいわゆる大巨匠の演奏が好きだった。バレンボイムはリアルタイムだったが世代が少し新しく長老好きな自分の中ではなかなかお鉢が回らなかったのだろう。彼はその後シカゴ交響楽団の常任指揮者を長く務め、ベルリン・フィルからは名誉指揮者を称号されている。が自分にとっては指揮者の立ち位置としても同様で、自分が引き寄せられたのは2009年、彼が初登場したウィーン・フィ…

  • 終わりと始まり

    暖かくなったのか寒いままなのか、よくわからないまま数週間が過ぎている。日中の陽射しは陽だまりを作るがそれはすぐに北風に蹴散らされてしまう。ただ、確実に春が近づく風景は、確かに在る。梅の花はもう散ってしまい樹は肌寒そうに思える。桜の蕾は少しづつ膨らんでくる。足元にフキノトウをみつけ天婦羅にしたのは数週間前だった。摘み残した花は大きくなり食べられそうになかった。かわりに蕗の茎をもいで、油揚げと共に煮物にした。苦みに満ちた食卓は春だった。 雨の降る一日があった。その中で雨に滲む目に鮮やかな色合いが在った。女子学生の袴姿だった。ビニル傘をさして歩きづらそうに歩いている。そんな時期なのか、と思った。三年…

  • 天婦羅せいろ、大盛で

    一人住まいの母を蕎麦屋に連れて行ったのは母が蕎麦を食べたがっているからだった。父も母も四国は讃岐の人間だ。讃岐はうどん。自分も香川生まれで、物心ついたころからうどんを食べていた。我が家は当時転勤で横浜に住んでいたが母と自分達姉弟は夏休みの度に一月間、讃岐に里帰りをしていた。岡山の宇野から自分の生誕地高松までは国鉄の連絡船が運行していた。そこの甲板で食べるうどんが香川からの歓迎の使者だった。 母の範疇では麺類と言えばうどん、そして支那ソバしかなかった。祖母の家の裏手には屋台に毛が生えたような支那ソバ屋の店があった。うどんを食べてから支那ソバを食べる。いずれも横浜よりもずっと美味しかった。自分の味…

  • オープンマイク

    オープンマイクと言う言葉を知ったのはバンド仲間からだった。ネットにはこう書かれている。「店のマイクを飛び入りの客に開放する」と。カフェやライブハウスで行われるのだろう、ステージ飛び入りで歌う。バンドメイトの彼女は自分たちがやっている音楽とは別に80年代からの良質なJ-POPがお好きなようだった。今ではシティポップと呼ばれて海外にも人気のジャンルだろう。彼女の家に遊びに行くととても嬉しそうに聴いていた。音楽とはかくも人を幸せにするのか、と思うのだった。 飛び込みは度胸がいるな、と思う。伴奏者がいるのかいないのかも分からない。彼女はキーボード奏者でもあるのでピアノの弾き語りなのだろうと思う。見に行…

  • 上州三峰山

    関越自動車道を北に向かう。ゲレンデスキーに熱中していた頃は毎冬の話だった。しかしテレマークスキーでのバックカントリーの楽しさを知ってからはスキー場は無縁になった。いつか関越道は登山やスキー登山のための道路だった。 高崎より北に向かうならその行先は尾瀬、上越国境、越後の山になる。赤城山、皇海山、武尊山、日光白根山、至仏山、苗場山、巻機山、越後駒ケ岳、谷川岳、平ケ岳と錚々たる日本百名山が目の前に聳える。またスキーに滑り止めのシールを張り踵の上がる装備で登山をする。そんな山スキーのルートも多い。その多くは容易な山ではない。ハンドルを握り北へ向かうといつも気になる山があった。それは高崎の北、沼田市にあ…

  • 日陰の文化・亡き人宛の手紙

    実家には老いた母が一人で住んでいる。介護保険の点数を使い切るように様々なサービスを入れている。ヘルパー、デイサービス、介護器具・・。ありがたい世の中で一週間絶えることなく人が出入りしてくれる。そのサービスまで持ってくるのは大変だった。いつも初めに拒否がある。宅配弁当も嫌がった。しかし「お父さんが建てた家で過ごしたい」というのだから仕方なかった。母あての郵便物は全て自分の家に来るように手を打った。 実家のポストを開けて気づいた。なぜか郵便物があり「親展」とあった。それは父宛だった。彼が勤務していた電機メーカーからはしばしOB会の連絡が着ていたので逝去の旨は伝えていたのだが、誰だろう。 封筒の出し…

  • ゼロポイントのアルパインジャケット

    もともとはコアな登山用品ブランドだったものが今ではすっかり街着のブランドになってしまったものがある。直ぐに浮かぶのはノース・フェイス、パタゴニア、そして国産ブランドならモンベルだろうか。いずれも街着としてのブランドステイタスを自分は知らない。多くの方が着ているから人気なのだろう。 出会いは自分がアウトドアに目覚めた1980年代後半だった。モンベルは国産品であり細かいところまで気を使った製品作りだった。そんなモンベル製品の初めはテント、そしてゴアテックスのレインウェア上下だった。テントはバイクでのキャンプツーリングの為に買った。一方のレインウェアは山に行く予定が決まり慌てて登山道具店に駆け込んだ…

  • 9ボルトが欲しい

    おお、なんと13.8ボルトか。良かった、このまま使つていたら壊れたな。煙の一つも出たかもな。ホッとした。 ギター用のコンパクトエフェクターは9ボルトの乾電池で動く。外部からの直流アダプタも同じ電圧だ。乾電池が切れたので手持ちの他のマルチエフェクタ用のDCアダプタを使おうとした。極性と電圧を確認しようとテスターで計測した。ジャックとプラグの芯線がプラスで外皮がマイナスと言う常識はなぜかエフェクタでは通じない。どのメーカーのエフェクタも逆だった。シャシー側がプラスになるのだから怖くないのだろうか?楽器用の回路はまた違うのだろうか?と言っても仕方ない。気づかずにつなぐと保護回路が働きヒューズが飛ぶだ…

  • IDカード・福之記11

    運転免許書、社員証、学生証、そしてマイナンバーカード・・。誰しもが自分の写真が写ったカードを持っているだろう。 犬の写真が入ったカードなど想像もしなかったが、それなら名前をもう少し丁寧に書けばよかった、と思うのだった。保護犬が家にやってきて四か月経った。まだ飼い主の事を信用していないのか、嫌がることがある。留守番、歯磨きだった。留守番はそれが分離不安だと知っても、そこまで吠えなくてもいいだろうに、と思う。帰宅を待ちわびすぎてドアの扉に飛びつくのだからそれは彼の爪によりたくさんの傷が付いてしまった。もう死んでしまった先住犬は子犬から飼ったので乳歯から永久歯への生え変わり時期を共にした。生え変わる…

  • ランステの会員証

    「ステージでへたりたくないのよ、だから走っとかないと。ミックだって今もステージ狭しと踊りながら走り回るでしょ。彼八十歳なのに」 二人とも少し息が上がっていた。酒が入った上に乗り換え駅の階段をダッシュしたのだ。休日前夜の都心の駅でやってきた電車に飛び乗れた。いやぁ、今日のリハは疲れたけど楽しかったね。二時間では足りないね、そんな話からの会話だった。 初めて彼女を観た時自分はプロの歌い手さんなのかと思った。華があった。存在感と言い換えても良い。声量・熱量だろう。スパンコールのついた衣装がスポットライトに煌めいた。ダイアナ・ロスにみえた。ブラックミュージックを演奏する友人のバンドのライブを見に行った…

  • 娘の自転車

    いいの、人の話は聞きたくないの。自分で決めるし人からああだこうだとウンチク聞きたくないの。・・私は一人の時間が欲しいから自転車を買ったの。 くそ、なんで混んでるのかな、渋滞の一番先まで行ってその原因を起こしている「ヤツ」を割り出して謝らした上に排除したい。 僕は余りにおかしくて笑ってしまうのだが同時に申し訳ないと謝りたいのだった。こんな暴言を吐く人とは友達にはなりたくない。しかし認めなくてはいけない。全ては自分から出てきたもの、身から出た錆だと。 最初の言葉は長女から、後ろの言葉は次女から口に出たもの。内容は都度変わるが彼女たちの口から似たような言葉をよく聞く。それは全く僕そのものだった。すま…

  • 山の湯

    登山の楽しみの一つは、山麓の湯だろう。三十年以上昔の政府の肝いり政策・ふるさと創生事業で支給された支援金を元で多くの温泉施設が至る所にできた。下山して緊張が解ける。そこに暖かい湯がある。いつか山が目的なのか湯が目的なのかわからなくなる。有名な温泉地ばかりではなく名もない古くからの温泉地や湯治場もあれは、それこそふるさと創出事業であたりをボーリングして出来た日帰り湯まで、温泉はその気になればすぐに見つかる。 いったいこれ迄幾つの温泉に入ったのか、あいにくと数えていない。登山の回数とそれはほぼ同じだろう。数百カ所だろうか。どの湯も素晴らしいのだが、やはりひなびた共同湯がありがたい。更衣室の篭など数…

  • 僕の椅子

    腰かけると少し音が鳴るのは油が切れているからだろう。もともと余りに大きくて決して気にはいってはいなかったのだ。今の家に引っ越すときに自分の部屋らしい一角を居間の角に設けた。狭い敷地に容積率ぎりぎりまで無理やり立てた三階建てだったが、寝室に加え子供たちにそれぞれ部屋があり、広いリビングがあった。そこに本棚と他の家具で小さなスペースを作ったがそれが自分の部屋ならぬ個人スペースだった。 子供は段ボールでもあればそれを立てて小さな部屋を作る。その上を毛布などで覆い自分の空間を作る。それが楽しい。僕のスペースもそれだった。リビングの隙間に本棚で造り上げた無理やりの空間。そこにはタワー型PCと二台のモニタ…

  • グルーヴィな日々

    グルーブという単語を知ったのは何時だろう。間違いなくそれはアース・ウィンドアンドファイヤ(EW&F)の1981年のナンバー「Let's Groove」だったろう。リアルタイムだった。敢えて邦題にするならば「グルーブしようぜ」になるだろうか。レッド・ツェッペリンとローリング・ストーンズしか聞いていなかった大学生にその音はとても新鮮だった。シンセサイザーベースにボコーダーを被せたリフに艶っぽいボーカルとコーラス、煌びやかなホーン。思えば自分の聞いていたロックサウンドの奥底にそれは根付いていたのだが、そこで自分は初めて直接ブラックミュージックに触れたのだろう。 ではグルーブとは何か?そんな事を聴くよ…

  • 遅咲きのスイセン

    師走から年が明けた睦月あたり、千葉は内房に足を運べば一足早い春に会える。それはスイセンのお花畑だ。スイセンは日本の在来種ではないという。球根を誰かが植えたものが、あるいはそれが野生化したのかかは分からない。 内房には「スイセンロード」と呼ばれる長閑な里道がある。神奈川県の三浦半島の先端からフェリーに乗って東京湾を横断すればそこは近い。車を停めてから細い道を里山に向かっていくとそれは見事なスイセンが随所に咲いているのだった。路傍のスイセンも見事だが正月の花として出荷するために植えている農家さんもあるようだ。スイセンの道をのんびり歩きながら目を西に向けるとイワシ色に輝く冬の東京湾が見える。海岸に戻…

  • 陽だまりとからっ風

    とある群馬県の古刹だった。古刹の裏手には湿地と澄んだ沼があった。数年前に来た時には気づかなかったが砂利敷の駐車場の隣にアスファルトの大きな駐車場があった。それほど有名とも思えぬこの場所にはやや不釣り合いな大きさだった。しかしその一角に真新しいレストランがあった。若い女性がにこやかに笑いながら店先で客引きをしている。普段ならスルーするのだがあまりに素敵な笑顔だったので帰路立ち寄ってみた。ちょっとした甘みや軽食、手作りのお弁当を売っていた。そこはキッチンカーも備えていて、日や時間によっては何処かに売りに行くのかもしれなかった。 三十代だろうか、若い夫婦が切り盛りをしていた。オリジナルデザインの今川…

  • 遊びもほどほどに

    ロックを聴き始めたころはギターの音色は歪んだものと思っていた。そんな音ばかり聞いていた。しかし今では切れ味の良いリズムギターが耳に心地よいのだから音楽的嗜好は変わるものだと思う。それらの音を出すコンパクトエフェクターはギタリストにとっては必須のアイテムだろう。ファズ、オーヴァードライブ、ディストーションなどのひずみ系からディレイ、リバーブなどの空間系、コーラス、フランジャー、フェイザーなどのうねり系など、手に乗る小さな塊は夢の箱か。個人的なギターサウンドの好みはテレキャスターで鳴らすJCになるがツインリバーブも良い音だと思う。では果たしてギターとアンプの間にどんなエフェクターがあるのか、自分は…

  • ソラナックスとゾルビデム

    今までに数えた羊は何匹だろう。その数は数えていないがそんな民間伝承のお世話になったことはある。しかしあまり効果もなく、かえって開き直ってガバっと布団を剥いで起きてしまうことのほうが多かった。すると明日のことが気になり目がますます冴える。仕方なく布団に入りなおす。いつしか寝ている。高校生の頃からそうだった。「寝不足恐怖症」と勝手に呼んでいた。 六年間を超えるヨーロッパ生活の最後の一年は単身だった。なぜか分からぬがその一年は寝付けないことが多かった。海外生活の疲れの蓄積なのか一人住まいのせいか、わからない。会社の人に聞いてとある薬を薬局で買った。医師にかかっていないのだから今思えばどんな薬だったの…

  • やはりそうなりますか

    学生時代の友とは面白い。わずか四年とは言え同じ時間を共有した。当時の彼等の物の言い方も考え方も表情も声もすべて頭に入っているのだから、当時とはシームレスに会話が進むのだった。 あの頃は楽しかったわね。還暦を超えるなんて思ってなかったなぁ、そんな昔話が切り出しになるが、年齢相応に話題が変わっていく。病気自慢に始まる。そして将来の不安へ。もし一人になったとき、何かがあったら誰に発見されるのだろう。溶けていたら嫌だね。溶けるって?人間死んだら腐敗するでしょ、溶けるのよ。やだねと。 認知症になったらどうする?介護保険の枠ですむのかな?汚物を壁に塗りたくりたくないね。何があっても良いように認知症もカバー…

  • つがい

    ♪しょ、しょ、しょじょじ、しょじょ寺の庭は・・・ さて皆出て来い来い来い、となるのだろうか。てっきりこの唱歌はこのお寺が場所なのか、とずっと思っていたがどうやそれは違うようだった。千葉の木更津らしい。しかし童謡の場所を探し当てて何の得があろう。なにごとも現実解に結び付けるほどつまらない事は無い。想像の世界で遊ぶことは楽しい。 実際にニ十体以上の狸の置物が参道に並ぶこの寺にいると、彼らはやはり月夜に誘われて出てきたと思う。そこは確かに月がいかにも綺麗な場所に思えるのだから。 歌はともかくも、どうやらこちらはこの寺の話らしい。 和尚さんは居眠り中。すると彼が何処かで手に入れた茶釜から手足首が出た。…

  • 雪の残滓

    白一色の無機質な壁、重く響く画像診断機の音。雪が降り続くとすべての風景は白に閉ざされる。美しいものも汚れたものも覆われて、区別がつかなくなる。白とは不思議な色だ、と滉一は思った。 自分の病で来たのではないにも関わらず、白い部屋は何故か心を落ち着けてくれる。眼の前の壁が縦に伸び他に広がった。それはなぜか滉一を包みこんでしまう。彼はいつか白い壁に溶け込んでいた。そこに安堵があった。 CT室.、MRI室、血管造影室、放射線治療室。どれほどの「室」に通ったのだろう。脳腫瘍の術後様子を見る。血管にカテーテルを入れる。放射線を頭に当てる。それは彼が癌と戦った記憶だった。 九十になる母親を車椅子に乗せ、かか…

  • こだわる人

    何事も自分の好きなことに熱中している人は傍から見ていて面白い。と言うよりも、良くもそこまで掘り下げるなと関心してしまう。手始めに彼にそれを質問した時、あまりのその世界の奥深さと彼のこだわりに畏れ入ってしまった。 彼は嬉しそうだった。念願の物を手に入れたという。それはとあるロックバンドのLPレコードだった。そのレコード盤は自分も高校生の時に持っていた。しかしレコード盤は家でしか聞けない。当時はカセットテープをポータブルで再生するウォークマンが世に出たころで自分もそんな夢の道具に夢中だった。通学の際にはヘッドフォンを耳にしていつもそれを聞いていた。LPレコードはそれをカセットテープに録音する際に一…

  • 迷走

    ここの所苦戦している。堅苦しく窮屈なのは何事も思った通り事が進まないからだった。鶏が先か卵が先か、ブログに挙げる原稿の話もうまくいかない。ネタが溢れている訳もない。それは部屋の中で座っていると浮かぶという質のものではない。妻と話をする中で、朝晩の散歩の中で、しがないパートの職場にて、時を忘れて趣味を楽しむ時に、友と笑う中で。そんな時にふとある思いが芽吹くのだった。それを頭の中で彩色していく。ネタが浮かばないのは家に籠りきりなのか、それとも感性の枯渇か。ブログは自分にとっては筆慣らしであり、本当にやりたいことは別にあるがこの調子ならそれなど遥かに遠い世界に思える。 自分の頭は以前より物事を深くロ…

  • 泪の量

    一日に一体どれだけの涙が出るのだろう。人間の体の半分以上は水分という。体はある意味貯水池なのかとも思える。そこから出ていく水分と言えば、排泄物、汗、そして泪だろう。すると体重六十キロならば三十リットルの水分を放出できるのか。そんは話は医学的には成立しまい。まず脱水症状がおき生命にかかわるだろう。しかし涙ならいくら出てもたかが知れているのではないか。小さな目玉から溢れるだけだから。 我ながらよく泣くようになったな、と思うのは老境に入ってからだった。正確には会社を早期退職しガンに罹患してからだった。子供から青年を経て成人へ。親に育てられ何処かで独立して家庭人へ。いくつものステージが人間にはある。そ…

  • 迷ったうえで・真空管自作アンプ2

    数か月前に造り上げた真空管アンプ。実は一度しか火を入れていない。卓上で聴く分にはこれも手作りのデジタルアンプと自分で組んだスピーカーユニットで満足のいく音が出ているからだった。1970年代までのブラックミュージックにロックは音が大きいほど心地よいが我が部屋では難しい。控えめな音量で充分だ。実際バンドの練習のためにそれらを小さな音で手短に流すことも多い。が、ピアノ、チェンバロ、オルガン、オーケストラ、合唱が無理ない音量で豊かに聞こえればまずは良いのだった。 良いオーディオとは何だろう。それは選びに選んだ高級なアンプやスピーカー、そして電柱から特別に供給する安定した良質な電源。それをアンプに伝える…

  • オンライン診療

    ここ数日悪寒が取れなかった。職場からの帰りで寒風を浴びたら体の芯から胴震いだった。温かい風呂に無理やり入ったが風呂から出るとまたもや歯が鳴った。 案の定夜半には発熱だった。布団にくるまり蓑虫のように寝るだけだったが寒気が取れない。頓服としてもらっている解熱剤をのむと一時的に熱は冷めるがイタチごっこに近かった。発汗してそれで寒くなるのだった。 仕事、母の通院付き添いなど予定していた行事はすべてキャンセルした。病院にかかりたいと思っがコロナ以降、今は発熱外来という診療科が出き、多くは予約制だった。体調も悪いのにスマホ相手にそんなことはできなかった。簡単そうな治療としてオンライン治療が目についた。成…

  • VY FBな日

    ・・・- -・-- ・・-・ -・・・ 僕はそんな符号を口に出していた。 ・をト、-をツーで読み替えるとトトトツー、ツートツーツー、トトツート、ツートトトになる。何じゃこれはと思うがこれにはある規則性がある。しかし理解するためには覚えなくてはいけない。が、その気になればだれでも覚えられる。そして一度覚えると忘れない。最初の文字はアルファベットのV。次はY。そしてF、Bとなる。VYFBだ。 三日間風呂に入っていなかったのは怠けていたからでもなく体調が悪かったからだ。ずっと熱が続き、解熱剤を飲んでは効能が切れまた飲む、そんなイタチごっこだった。自分でも呆れるほどにひたすら寝た。三日目の午後にようや…

  • 図書の旅38 海と毒薬 遠藤周作

    ●海と毒薬 遠藤周作 角川文庫 昭和35年 コロナが世の中を変えてから発熱程度で気軽に通院する事が出来なくなった。発熱外来と言う予約制の診療科が出来た。病院に来る人の多くは発熱だろうから発熱外来とは何だろう、と思うのだった。昨年末に軽い誤嚥を起こしてから咳が止まらなくなり熱もあった。そこで久しぶりの医院に訪れた。そこは小さな内科医院で家庭的なオペレーションだったのであまり口うるさくないのだろう、と想像した。 社会人になった年に両親は同じ区内だがすこし西側に引っ越した。そこが自分の実家となった。そこに住むようになってから最初にやったのが病院探しだった。もともと喘息持ちだったがやや治まっていた。し…

  • 邪心の入る余地はない

    関東には三大厄除け大師がある。何処だろうと調べるが川崎のお大師様と足立区の西新井大師はよく出てくるがもう一つとなると香取市の観福寺と書かれているサイトもある。すべてが真言宗だ。栃木の佐野厄除大師を挙げているものもある。調べると天台宗だった。実家の宗派は日蓮宗だが自分は宗派にこだわりが無い。万物に神在り、全く日本人だ。 夫婦の年齢は二つ違い。すると二人共に厄年を迎える。前厄と後厄だった。厄除け祈願していかほどの効果があるかは知らぬが、やっておいて損はないだろう。手始めに川崎のお大師様に行った。ここは毎年の初詣では明治神宮、成田山新勝寺と並び人出トップスリー。行列が嫌いなので正月に行くことはない。…

  • 商売上手

    昔から米は十キロの袋だった。いつしかそれは五キロになり今では二キロを買っている。家族も減りそこまでご飯を食べるわけもなく、麺類やパンも食べる。それに二人の食卓なのだからなかなか減らない。二キロはシルバーエイジには適当なサイズだった。 お米二キロの袋はブランドに拘らなければスーパーで千円程度で手に入る。しかしブランドは異なるかもしれぬがそれが1300円で売られるとしたらずいぶんと良い商売をしているなと思う訳だ。 関東も関西もそうだろうが電鉄会社がスーパーマーケットを経営する事例は多い。自分は関東の城南地区しか知らぬが、北から京王ストア、オダキューOX、東急ストア、京急ストア、相鉄ローゼンとなるだ…

  • スージー好きが興ずると

    これ何だかわかる?と友人は嬉しそうに黒いポリカのパーツを見せるのだ。ああ、そう来たか!と思う。 乗り心地の良い車ではない。小回りも苦手だ。車に快適さを求めるのなら選ぶまい。しかし三代にわたり三台乗り続けている。自分でも不思議だが好きだから仕方がない。175/70/R16・・。小さなボディにはいささか不釣り合いな大きいタイヤ。一体その実力を発揮するような場所に年に何度行くのか?確かに街乗りではオーバースペックかもしれない。しかし今の型になって燃費は大幅に改善された。以前の型はオートマでリッター辺り街乗り9キロ台だった。先日は少し遠乗りもあったにせよ満タン法でリッター13キロだったので全くありがた…

  • 右か左か

    下山路だった。目指した山頂は先程まで足元にあった。都心を遠望できる冬枯れの低山だった。登山はピークを踏むばかりでなく無事に下山することで完結する。山頂を踏むと誰もが安心し何かを成し遂げた気がするのだろうか、道間違い、滑落、疲労による行動不能、多くの山の事故は下山時に起きるという。 尾根を下っていた。ある地点で踏み跡は南と東に分岐していた。南の道は山肌をやや強引に降りてすぐに里に降りるものだった。東の道は尾根を忠実にトレースする距離のある道だった。分岐で迷った。どちらに行くのか。何時もなら里にすぐに下りられる道を選ぶ。目標を果たした以上早く安全を確保したいからだ。しかし今日は雑木林の中、山道を長…

  • 風に揺れる耳

    それは決してそよ風ではなかった。高速道路を走るトラックの荷台だった。幌はかかっているが捲れた布から大きな塊が見えた。番号札のついた耳が風に揺れていた。黒い肌の中に埋まったような真っ黒な瞳が少し動いた。高原のそよ風なら気持ちよかろう。しかしそこは幹線の高速道路だった。トラックは力強いトルクで登り坂の自分の車を追い越していった。僕はなぜかクルーズ・コントロールのスイッチを切った。トラックは直ぐに前方に遠ざかって行った。 もう十年も前だろうか、僕は友とともにクロスカントリースキーを履いて山道を登山していた。そこは冬季閉鎖された林道で真冬にスキーを履いて歩く者など皆無だった。仮に居るとしたら酔狂ものだ…

  • 空想の庭

    もし自分の家に広い土地があったら、どんな庭にしたいのだろう? 林の中に棲んでみたいという思いが芽生えたのはやはりアウトドア誌のお陰だろう。そんな雑誌を楽しむようになったのは社会人になってすぐだった。しかし生活の拠点は会社と家のある首都圏に限られた。せいぜいオフロードバイクにキャンプ用具を満載し林道を走り山奥でテントを張り焚火をする程度だった。それしか都会生活者にはありえなかった。アウトドア趣味の究極は登山だろうか。直ぐにその世界に行きついた。 いつもアウトドア雑誌が手元にあった。色々な野遊びを提案してくれていた。その中にはログハウスの広告もある。すっきりとした雑木林の中に木の家が建っている。何…

  • パタカラ体操

    職場の二階は高齢者デイサービス施設だがそこに「パタカラ体操」と書かれたポスターがある。職員の手作りだがお爺さんとお婆さんが並んで大きく口を開けてパ・タ・カ・ラと言っている絵が描かれている。なかなかに可愛い昭和のご老人のイラストだった。入れ歯が外れぬか心配だった。 さて一体何の体操なのかは自分で口を大きく開いてパ・タ・カ・ラと動かすとすぐにわかる。腹筋トレーニング?ちょっと違う。顎が外れるまでの勢いで口を開けると何故か目もその都度見開かれるのだから人間の顔をというのは不思議に連係プレーが出来ているな、と妙に感心するのだった。 だんだんと、いや毎日自分は感じている。それは9.8メートル/秒二乗の速…

  • 余り物は何でも使え

    名古屋という街には余り直接的な縁がない。横浜の小学校を卒業した春に父は広島に転勤となった。そこへ向かう途中に何故か名古屋で一泊した。お城は立派だがコンクリート製だった。むしろその堀の中に敷かれていたレールに目が行った。名鉄瀬戸線。電車好き少年はそれにひどく感動した。テレビ塔を見てホテルに泊まった。翌朝そのロビーには当時南海ホークスの監督をしていた野村選手が居た。被っていた巨人の野球帽を取るべきか悩んだがそのつば裏に苦笑しながらもサインをして頂いた。 名古屋は自分が産まれる一年前まで両親が住んでいた街だった。伊勢湾台風がきて鉄筋アパートの鉄の扉がたわんだと母は言っていたが余程凄まじかったのだろう…

  • お母さんの店

    焦げ茶色のやたらによく震える電車を降りると駅前から砂利道だった。ダンプカーの上げる砂埃を払いながら歩くと道沿いにぽつんと小さな建物があった。店舗と民家が同じ建物なのだろうか、そこからは昼ご飯の匂いが漂っていた。ガラガラとガラス扉を開けると明るい声をあげるお母さんと幼稚園生と思える男の子が居た。僕は一片の紙切れを取り出した。 紙切れを見ながらお母さんは鼻歌を歌うように店から小さな部品を取り出してはプラスチックの皿に載せていく。どれもが床に落としたら見つけられなくなるような手のひらの部品だった。抵抗、コンデンサ、トランジスタ、ラグ板、トランス等だった。 「サンスイのトランスST32は品切れだからこ…

  • バゲット一本

    どの国にも美味しいパンがある。日本なら食パンだろうか。イギリスのパンから来たようだが日本の食パンは柔らかさを追求しているようだ。実際テレビのコマーシャルも生の食パンが如何にふわりと千切れるかを見せるシーンが多い。似た形でもこれをイギリスで食べると食感はポソポソとしている。ソフトな食感は日本人の好みなのだろう。 ドイツで自分が好きだったのはブレートヘェン(Brötchen)と呼ばれる手のひらに乗る丸パンだった。外側はこんがり焼けて中身は多少柔らかい。会社の食堂では牛肉の赤ワイン煮・グラーシュズッペが安く食べられたが、それにピタリとあう。残り汁を一かけらのパンで拭うように食べるともう一杯欲しくなる…

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