妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村
自分を庇う(かばう)ためであっても被害者意識は心の闇を増大させてしまう
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)ために被害者意識で私が考えていることは客観的に見て間違っている。更に自分を庇うための被害者意識が私自身の苦しみの本当の原因である心の闇を増大させてしまう。まず他者を赦し、次に自分の心の闇を恐れずに直視するこ
被害者意識でネガティブになって考え込んで言動や振る舞いにそれを出すと大抵酷い結果になります。自分の考えていることを客観的に見て、間違ったことを考えていると自分で気付き、そこで被害妄想を止めれば、言動や振る舞いに出ないので、何も起こらなかったのと同じになり
Only I think this way(そう思うのは私だけ)
自我が頭の中で語る言葉の原理は『Only I think this way(そう思うのは私だけ)』であり、その正しさを支えているのは「私は頭が良い」というプライドです。これが自我という心の闇であり、自我を支えている正しさの「絶対的根拠は嘘だらけ」です。内なる心のリンク(繋がり)、
私がかつてネットの世界で探求していたのが特別性の承認欲求であった。特別性とは神からは拒まれた特別な承認をこの世界の他者に要求するというものです。それはイリュージョン(幻影)の夢の世界が私の目の前に表れて、その中で「より多くの何かを求める」ということ。何が?
自分は何にも悪くないのにあの人のせいで甚大(じんだい)な苦痛を味わったと、被害者意識に囚われている時、それでも、自分の理屈の正当性よりも、相手の幸せを願う気持ちがあれば、必ず赦す(ゆるす)ことができる。にほんブログ村
外の世界に誹謗中傷を見る時、そこに目が釘付けになるが、その時、自分の内側の「心の闇」の存在には気付かない。外の世界に酷いことが書かれているというが、同じものが自分の内側の「心の闇」にある。誹謗中傷とは自分の内側の「心の闇」が投影されて外側に映し出されたも
過去のトラウマを思い出した時、無意識に自分を庇う為に被害者意識で考え出す。自分は悪くなくて他人が悪いという、頭の中で自分の自我が言ってることを理解しようとすると、段々腹が立ってくるのです。この時にできるだけ早く、考えてる内容が間違ってると自分で気付けると
神と神が創造したままのオリジナルの神の子の関係を神聖な関係という。ある時、神の子がオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら、物凄く特別な存在になれるという妄想を抱いた。そう思った途端に神の愛が感じれなくなり、パロデ
あの人のせいで苦しんだと思っている時が一番苦しいですが、彼に罪悪は無かったと赦そう(ゆるそう)という目的を持つなら、必ず赦せる時が来ます。その時、本当の原因が見えるようになり、解決策が授けられる。この世界を駆動しているのは心なのです、真の因果律とは物理法則
自分の内側の「心の闇」を見たくないのでその存在を否認すると、必然的に外の世界に「心の闇」が映し出され具現化したものを見ることになる。自分が蔑んで(さげすんで)いるもの、嫌がっているものを他人に見ることで、自分の内側の「心の闇」を除外できたという思い違いがあ
頭の中で自分の自我が考えることが間違っているとすぐに気付けるか?
心に思い浮かぶことは真実であるという思い違いがある。実際は心に思い浮かんだことをそのまんま行動に移せば、他人からは間違っていると見えるのです。私の場合は自分で気付けないばかりか、他人から間違いを指摘されても理解できなかったりした。一番良いのは他人から指摘
過去の嫌なことで被害者意識を持って他人のせいにしていると「心の闇」が増大して、その闇が映し出された悪夢の世界を見ることになる。つまり過去が再現された嫌な世界が未来にまた訪れるのです。赦さない(ゆるさない)でいると未来は同じ嫌なことの繰り返しとなる。他者を赦
過去のトラウマに対する被害者意識、他者への不満と文句、悪口と批判、これらを頭に思い浮かべる度に「心の闇」が増大する。そしてこの「心の闇」こそが実質的な損失であり、自分の心を幽閉(ゆうへい)する鎖である。「心の闇」を増大させる考えは一切抱かないくらいのつもり
誰しもが心に過去からの傷を負っている。過去のトラウマ。これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、それが「
悪口とは自分の「心の闇」が具現化した他者の概念を実在させようとする行為です。悪口の形態は様々でしょうが、内容は自分の「心の闇」の目で見えた他者の姿を悪く言ってる点で、どの悪口も同じです。悪口とは蔑んで(さげすんで)いるものを他人に見ることで、自分の内側の無
無意識の「心の闇」が疼いた(うずいた)時、私は不快感を感じる。心を安定させる為に、「嫌いなものを外の世界に見ることで」内側の「心の闇」を解消できると思い込んでいた。ネットの誹謗中傷を目にすると私の自我は、「もっと見るねん」と私を外の世界に釘付けにしようとす
人は事実に対して怒るのではなく、出来事についての「自我の解釈(かいしゃく)」を信じることによって怒るのです。自我の被害者意識の、「私は被害者だ、私が苦しいのはアイツのせいだ」という解釈を聴き入っているうちに腹が立ってきて私は怒るのです。自我の解釈を真に受け
過去のトラウマを想起した時、自分を庇う(かばう)ために自我が被害者意識で「自分が苦しいのを人のせいにすることができる」とその魅惑的(みわくてき)なロジックを頭の中で語りだしてきます。その頭の中で自我の言ってることの意味を理解しようとしていると腹が立ってきて、
疲労やストレスを感じると性格が悪くなり他人を批判しがちです。疲労やストレスによって抑圧(よくあつ)されていた無意識の「心の闇」が表面化して私は不機嫌になる。私は不快感を感じているので嫌なものを外の世界に見ること、他人の中に罪悪を見て、蔑んで(さげすんで)いる
私の心の中には見たくないものがあり、それが私の罪悪である「心の闇」です。直視するにはおぞましいこの罪悪の闇を否認(ひにん)して、つまり見たくないが故にその心の闇が存在しないフリをする。しかし心の闇は無意識に疼いて(うずいて)私は不快感を感じる。私は精神を安定
過去のトラウマを思い出す時、被害者意識でどうしてそうなったかを考えて誰かのせいだと確信しようとする。この一見良い事のように見える、苦痛から自分を庇う(かばう)ために被害者意識で文句を言うことが、自分の「心の闇」を増大させる。「心の闇」が具現化した、私を誹謗
私は疲れている時に無自覚の「心の闇」の衝動で他人の悪口を言う傾向にある。「心の闇」は不快なためそれを解消しようとして悪口を言うのです。その時、私は直接的に自分の「心の闇」のせいで不快感を味わっていることには全く気付かない。私は不快感を解消するために他人の
無意識の「心の闇」が疼く(うずく)と、私は不安感に襲われて、すぐに外の世界を確認したくなり、険しい表情で誹謗中傷を目にする。自我はこう言うだろう「もっと見るねん」と。それが、なぜ、どのようにして起こったのか、と分析することは目に見えてものの実在性を強化して
過去のトラウマを想起(そうき)して文句を言うとは、頭に思い浮かんだそのまんまに文句を言うことです。「目に見えているそのまんまに文句を言う」あたかも私が被害者であるかのように。この発生源には「私の」罪悪である心の闇がある。この心の闇が頭の中のスクリーンに映し
私が過去を想起(そうき)して不快感に囚われた時、「過去に不当な扱いを受けたことに文句を言うのは正当である」という、間違った思い込みをしている。私は過去の出来事が私を不快にしていると思い込んでいて、それを他人の責任にしようとしている。この過去の不快感が「心の
不安になった時、外を見るのではなく、まずは心の内側を確認する
無自覚の心の闇が疼いて(うずいて)不安な気持ちになり外の世界を確認すると、やっぱりそこに嫌な物、嫌な人を見ることになる。これは鏡のように私の無意識の心の内容を具現化した、私を攻撃してくる他者という姿が見えているのです。そうして私は気になるから外の世界の他者
無自覚の心の闇が映し出されることで見えているのが現実世界である。この現実世界とは、あなたの心を惑わす(まどわす)イリュージョン(幻覚)である。イリュージョン(幻覚)の世界で為された罪を実在のものとして扱い、それを不快感の原因とすることが、自分の心の闇を保護して
私たちは、嫌いな物を外の世界に見ることで、自分の内側の心の闇を除去できるという間違った信念を持っている。嫌な物や嫌いな人は誰にでもあるだろうが、それらの嫌いな物が意識に上る時というのは、本当は心の内の自己嫌悪や自己憎悪、つまり心の闇が疼いて(うずいて)いて
心の闇が外側に映し出されることで現実世界が出現する。心の闇とは過去の嫌がっている記憶です。トラウマとは自分を庇う(かばう)為に持つ被害者意識です。この一見良い事のように思える心理的な防衛によって、鏡のように私の心の闇の内容を具現化した、私を誹謗中傷してくる
私が他者から攻撃される原因は私の無自覚の「心の闇」にある。それはトラウマであり嫌がっている心です。嫌なので見ないことで無意識となり「心の闇」になった。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現化した他者の姿が、私が見ている世界に映し出されるのです。私の「心の
私の自我が「世界の唯一の解釈」としてしまった「それはつまりこういうことだ」という解釈の中に答えはない。「世界とはこういうものだ」という解釈は歪められており不正確である。何も証明していないし達成されていない。だけど、『アンサイズニア』答えは近い神は答えを私
気分が悪くなると酷い心になり文句を言いたくなりますが。その時、私の視点からはそれは「世界の唯一の解釈」であり正しいのだと、私の感覚がそうだと言っているのです。しかし他者視点の解釈だと、その時の文句を言っている私の姿は明らかに間違っていておかしいのです。そ
妄想とは「世界の唯一の解釈」のことである。世界の見え方を訂正すれば簡単に解決できることが、自分の妄想に囚われているので答えが見えないのです。知ってる人から見たら「こうすればいい」で済むことが何年も解決しないのもザラです。自分以外の世界の解釈を認めることで
嫌な事が起こった時、被害者意識になるのではなく赦す(ゆるす)ことが必要です。反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識になって、出来事を許さないと解釈(かいしゃく)するのですが、その解釈は間違っています。その時、自分の許さない解釈が「世界の唯一の解釈」となっ
自我による「世界の唯一の解釈」は幻覚(イリュージョン)である
私が過去を思い出して、誰かを頭の中で悪く考える時、私は黒い衝動と共に迫力を持って考える。その時、私の自我の解釈(かいしゃく)が「世界の唯一の解釈」なのだと、私は信じている。他の世界の見え方、別の解釈も存在する、ということを知らないのです。そもそも自分の解釈
私が過去のトラウマを思い出して被害者意識を持った時、私の自我の解釈が「世界の唯一の解釈」となっていて、その悪夢に私は閉じ込められているのです。問題は、I think this way.(私はこう思う)が、「世界の唯一の解釈」となっており、訂正不可能になっていることにある。も
影で誰かの悪口を言う時、その闇は私の世界に映し出されて、私の世界が不穏(ふおん)なものに見えるようになる。この時、私の解釈が、『世界の唯一の解釈』となっており、私はその悪夢の世界に閉じ込められている。私は頭の中の私の声だけしか聞こえず、世界についての別の解
私が過去のトラウマで被害者意識に囚われている時、「あまりにも酷い」と、それが世界の唯一の解釈(かいしゃく)となっており、私は私の悪夢に閉じ込められている。その悪夢から脱出する鍵は、私の世界の見え方が、世界の唯一の解釈ではないと、知っているかにかかっている。
他人を具体的に悪く言う時、私は疲れていて、そういう時に心の闇が表面化する。私はその人を悪く言うが、私が彼の中に見ているのは彼の罪悪ではなく、本当は「私の」罪悪を彼の中に見て、悪口を言うことで「私の」罪悪を解消しようとしてるだけなのです。したがって彼を完全
疲れている時に心の底の罪悪感が浮上し易くなります。決して気分の良いものではないですがピンチはチャンスなのです。まず過去の赦せない何かが浮上してその瞬間はもちろん赦していないのですが、そこで心を変えることを選択して「過去のことは赦す」と心を決めるのです。次
被害者意識で過去のトラウマを想起する時、私は自分を肉体だと信じていて、心であることを忘れている。私は被害者意識で文句を言うことで想念の周波数を下げているのだがそのことに気付かない。自分を想念であると思い出させてくれるものを利用するのがいいのかもしれない。
科学的には私たちは肉体の頭脳だと言われている。私もそう信じていました。しかし自分を肉体だと信じると、遅かれ早かれ必ずチェックメイト(王手で詰み)状態になり、被害者意識に囚われて不平不満を言うだけの、絶望的な回答となってしまうのです。しかし私たちは想念である
私たちの正体は物理的肉体ではなく「想念(そうねん)」である。自分を肉体だと信じていることの論理的帰結は憎悪を持つということです。音楽が好きな人は同調することでその音楽と一体になる。バイクが好きな人は同調することでそのバイクと一体になる。私たちは想念の中でな
私は被害者意識の雑念に考えが囚われる(とらわれる)ことがある。被害者意識で頭の中に過去を映し出してイライラするのです。その精神が動作した直後は赦していないのですが、その時にすぐに被害者意識だと気付いて、「赦す」と決断することで、心の闇が少しずつ減っていき、
私は高校の頃、身体の病気で散々苦しんでいたのに親が全く配慮せず「学校に行かないのは悪いことだ」と私に罪悪感を感じさせて無理矢理学校に通わされた過去があるのです。私はその頃の罪悪感が今も残っており、被害者意識で責めて親に罪悪感を感じさせて、私はその罪悪感か
この世界は神からの分離によってもたらされた。他者との差異(さい)の夢の世界。他人とは、自分との比較対象になっていて差異を証明するものとなっているのです。「皆同じだ」と言うと、自尊心(プライド)の高い彼はもしかしたら「私の方が遥かに知能が高いですよ」と侮辱され
私が過去を想起(そうき)する時、過去の事実ではなく、その解釈によって怒るのです。「あまりにも酷い」という解釈です。それは心の中で自我が語る言葉は心の声だから真実に違いないという私の誤解です。精神科の主治医はこう言うでしょう、「今の君の話を聴いて、私は非常に
被害者意識で過去の記憶を解釈する時、その理屈は非常に酷いものとなる。被害者意識ではなく、赦し(ゆるし)の心を持とう。答えは、過去を理屈で解釈することではなく、赦す(ゆるす)という意志(いし)を持つことにある。にほんブログ村
私には嫌がっていた過去があり、そのせいで他人を責める気持ちがある。私が他人を責めるのは、「彼に罪悪があるからだ」と私は思い込んでいるが、本当は私が私の心の闇を感じ取っていて不快に感じているからです。私は自分の心の闇を直視する勇気が無いので、その罪悪の闇を
かつて「はるかなる故郷」に居た私たちに小さな狂った考えが生じた。神が創造したままのオリジナルの神の子であることを止めて、神の子の代用品(パロディー)としての自我を作り出して神から分離したというものです。神と神の子は一体であり、その一体性から分離したのが自我
赦せる(ゆるせる)かどうかは、全体像をよく確認してからでないと決定できないと、「被害者意識」で過去を回想して酷い物語が頭の中で流れて、そして怒るという一定のパターンが私にはあります。量子物理学の「シュレディンガーの猫状態」というか、全体像を確認するまでは赦
疲れている時によく被害者意識に囚われて過去を回想することがありますが。過去の記憶の全体像を再確認すると、酷い話なので嫌な気持ちになって行動の面で暴発することがあるのですが。量子力学実験のシュレディンガーの猫状態というか、過去の全体像を再確認するまでは赦せ
被害者意識で過去を解釈すると、主観的には腹が立ってくるが、客観的には狂った解釈であり、聞くに堪えない物語であると解る。被害者意識というのは自分を庇う為にそう考えるのだが、全然自分を守れていない防衛である。自分の思考の底流を流れている愚かな部分があり、主観
無能力、失敗、空虚感、欠乏感、これらの「心の闇」が目の前のスクリーンに映し出されたのがこの世界の正体である。神からの分離。それは天国から離れる、という「夢のはじまり」その分離の「闇」が自我となった。自我はあなたの心にある天国の記憶の封印が解かれることを恐
過去の嫌な体験を思い出す時、私は自分を庇う為に被害者意識を持つが、これは相手に罪悪感を背負わせるための心理的な攻撃なのです。この被害者意識という攻撃の心を持つことで、私は罪悪感を感じて神からの処罰を恐れるようになる。この世界は鏡であり、私の心の内容を具現
私が誹謗中傷を見る前に、心の中で必ず被害者意識が生じている。まず内側に被害者意識から不安と恐怖があり、外の世界を確認する必要性が生じて、その後に誹謗中傷を目にするのです。この世界のあらゆる存在物を支えているのが、相反する2極性である。押せば押し返される、熱
過去のトラウマを思い出す時、私は自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持つ。「私は不当な苦痛を味わった」これは自分を庇う為に考えているのだから、自分にとって良いことだと思っているのですが、違うのです。被害者意識を持つことは、相手に罪悪感を抱かせる(いだかせる
通常の鏡だと、鏡の前に立つと自分の物理的な姿が映し出される。しかし、現実世界というのは、自分の無意識の心の状態を具現化した他者の姿が見える特殊な鏡なのである。私が無意識に攻撃の心を鏡に向けて、私を攻撃してくる他者の姿を鏡に映し出すことで、最初は私が攻撃の
自分が「信じるに値しない人間」という誹謗中傷をされているのを見た時、私が認識できるのは全体像の半分だけである。私は彼らの攻撃には何の正当性も無いとだけ感じる。だから私は、なぜ自分が攻撃されているのかが理解できない。認識できないもう半分は、無自覚な私の「心
「人はしかるべき場所を、立つべき処(ところ)を持たずして、生きていくことができるのか?」もしそれが本当に真実であれば、それをよりより処(どころ)にした考え方ができる。そして世界での発言と振る舞いが変わってくる。にほんブログ村
「心の闇」が疼いて(うずいて)過去のトラウマが蘇った時、その出来事の全体像を吟味してよく確認してから赦そう(ゆるそう)とすると、僕は大抵嫌がって次に怒りの感情で腹が立ちます。自我の判断を介入させてからだと赦せない(ゆるせない)のです。前もって赦す(ゆるす)と心を
完璧でない形(かたち)をしているものは愛することができないというジレンマ
「愛することでしかそれ(対象)を本当に知ることはできない」のであれば、奇跡講座をもっと愛することができれば、ちゃんと理解できるようになるのでは?と思っていました。しかし奇跡講座という形(かたち)を崇める(あがめる)ことが、本当の意味で愛するということにはならな
私たちはまず無意識に内側の心を見て、もしそこに「心の闇」があるなら、即座に外の世界にあらゆる形象(かたち)を映し出す。そしてその意味を理解しようとしているうちに次第に不快な気分になり、結果として怒るのです。まず外の世界に形象(かたち)として映し出された、不快
私たちはSNSなどを利用して繋がりを持とうとするが、本物の気持ちを返してくれる人は居ない。SNSに真実の絆は存在しない。なぜなら見えている世界というのは、心の中の分離の想念が目の前に映し出されたものだから、分離の世界には本物の絆は見つからないのです。それでも、
神が創造したままの神の子のオリジナルの心は無形・永遠・完璧であり、心の中に形象(かたち)である言葉は実在しない。私たちは神から分離する為に、「神が創造したままのオリジナルの心」の代用品として、「パロディーである自我の心」を作った。神が創造したままのオリジナ
自我は2極性を信じている。裕福と貧乏、健康と病気、美しい者と不細工、強い者と弱き者、知能の高い者と馬鹿、皆が好む他人との差異とはより多くの良いとされる極の極端な独占状態である。裕福で健康で美しく強く知能が高い、これらの有利性の差異をずっと維持している者が勝
私のこれまでの傾向として、例えばゲームでもキャラクターの見かけの形(かたち)の好みだけ見て、内容であるキャラクターの心情描写は無視していました。ボスが出てきたらただダメージを与えてステージをクリアするだけで、主人公達の意志や成長と言ったことには無関心でした
私が文句を言うのは不快(ふかい)だからなのですが、そもそも他人のせいにしている考え方が間違っているのです。無自覚に「私の」罪悪を他人の中に見て文句を言ってる限り、私の言う「絶対的根拠は嘘だらけ」なのです。にほんブログ村
誹謗中傷は相手が過去に達成できなかったことや過ち(あやまち)について責める。実際に私に何があったかについては食い違うだろうが、私に苦痛をもたらしている過去の傷跡があるということ。無能力、失敗、空虚感、心の欠けてる部分、つまり私の『心の闇』について語っている
私の眼前(がんぜん)に現実世界が映し出されている。そこで私の人生という夢が紡がれる(つむがれる)。私の夢の世界の登場人物が私にとって悪い事をして、そのせいで苦痛を味わったと腹を立てているとする。しかし私の見ている夢の世界の登場人物の誰かに罪悪があると解釈した
かつて楽園で神と共に永遠の日々を過ごしていたある時、神の子の心に小さな狂った考えが生じた。それは神が創造したままの神の子であることを辞めるというもので、自分で思い通りの自分になれるという妄想によって自我を作り出した。それは「あなたの愛だけでは足りなかった
かつて神の子であった私たちは神が創造したままのオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれるという妄想よって自我を作り出した。そして思い通りの特別な存在になれた自我の素晴らしさを神に認めさせたかった。これが神の子の小さな狂
自分への誹謗中傷を目にして怒りを感じることを正当化しようとした時に、気付いて欲しい、「原因は自分の心にある」と。誹謗中傷の語っている酷い論理と、同じ間違ったことを自分も無自覚に信じているのです。誹謗中傷という形で「あなたにはこんなところがある」と指摘され
不快(ふかい)な気分になった時、誰かや何かのせいにしたくなるが、少し立ち止まって欲しい。外の世界の何かが原因で不快感が生じているように見えているのだが、本当は内側の心の闇が外の世界に映し出されてそれを不快だと感じていることを。原因は自分の無自覚の心の闇にあ
神が創造したままの神の子の代用品として私たちは自我を作った。この自我が自分に得をさせてくれる頭の良い存在だと誤解していることに不幸の根源がある。自我を信じることは得をさせてくれるのではなく問題を永続させるということです。神の子の代用品である自我は神の愛の
被害妄想に陥っている時、私は心の中から相手の主観を排除している。「私の価値観で世界が変わる」これが妄想世界の原理なのです。その妄想世界は私の主観だけで構成されている。「他者の主観を排除する」とは、心の中で自分一人で居るということであり孤独感を感じるという
私たちは神から分離するために神が創造したままのオリジナルの神の子の代用品(パロディー)である自我を作った。しかし神が創造したままのオリジナルの自己が私たちの心の根底にありこれが真実である。あなたの心に神聖さがあるのなら神と一体である証拠で、代用品(自我)はこ
神から分離するために神が創造したままのオリジナルの神の子の代用品(パロディー)として、私たちは個人としての自我を作り出した。神の子の代用品である自我は神の愛の代用品を欲求する。「私だけを見て欲しい、他の人はゴミ同然に扱って構わないから、私だけを特別に愛して
この世界のどんな物理的なものにも本質的な価値はない。私たちの心の中に神が灯し(ともし)続けている光だけに価値がある。この闇の夢の世界の物理的な何にも光はない。神があなたの心の中に灯し続ける光はあなたを救う知識となって授けられる。これによりこの闇の夢の世界で
奇跡講座との「価値観の違い」がこの本を読むにあたり抵抗を生じさせる。価値観の違いを乗り越えていかなければいけない。ここ2週間くらいこの本の読解に抵抗が生じていました。また頑張って読み込んでいきたいです。1周読むのに50時間くらいかかってますが、今「奇跡講座上
自我とは狂った心であり、他人の罪を語る。心の中で自我の言うロジックとは、他者が絶対に許されない罪を犯したのだという理屈が完成するまで延々と呪いの言葉を紡ぎ(つむぎ)続けるということです。自我の言うことに少しでも正当性があると認めるのなら、私は心の中の自我の
赦さない(ゆるさない)でいる限り、問題は保持され続ける。本気で赦そう(ゆるそう)とする時、私たちは心を共有することができる。そして自分一人ではたどり着けなかった解決策が授けられる。あなたの失敗の原因はそれを「知らないこと」にあった。それを「知ってるか、知らな
私たちの故郷である天国での神と神の子の関係が神聖な関係である。しかし、ある時、神の子の心にある小さな狂った考えが生じた。それは神が創造したままのオリジナルの神の子であることを止め、自分で思い通りの特別なパロディーの自分になれるという妄想であった。パロディ
身体の病気は、心の平和をかき消すノイズのようなものです。他人のせいで苦しんでいると恨んでいる限り、その病気の治癒を自分で妨害しているのです。間尺に合わないかもしれないが苦痛の原因は他者にはないと赦そう(ゆるそう)とすることで、その病気の最善の解決策である知
自我はより多くの何かに特別性を見る。より多くでなければならない、何が多くかは問題ではない。例えば普通よりも高い知能を持っているといったことに価値を感じることを特別性とよぶ。だが他人が持っていなくて自分だけが持っているように見えるものは特別性である。逆に自
神が創造したままの神の子の心がオリジナルである。自我とは自分で思い通りの自分になりたいという願望が生み出したパロディーである。オリジナルの心は偉大であり完璧なフィーリング(perfect feeling)の精神状態を伴う。オリジナルの心の動力源には神の無限の力が供給されて
心の闇が疼いて過去の嫌な体験を思い出した時、心に力み(りきみ)が生じる。私は嫌がっているのだが、自分でその嫌な考えに自分を傷つける力を与えている。「止めてくださいと嫌がりながら自分でそれを自分にしている状態」なのです。単に心の力みを抜けば過去の嫌な体験は私
この現実世界が生起(せいき)する以前、私たちの遥かなる故郷である天国で私たちは神と共に暮らしていた。その神と私たちの関係は完璧に充足(じゅうそく)された心の状態であり、欠けているものは何も無かった。天国における神と私たちの神聖な絆(きずな)を「オリジナルの関係
私たちはこの世界に来る前は天国で神と共に幸せに暮らしていた。その神と私たち神の子の神聖な関係が私たちの元来のオリジナルの心の状態である。しかし神と共に天国に居たある時、オリジナルの神の子である私が、もし神から分離できて、自分で思い通りの自分になるというア
仮に私が誹謗中傷されたとして、被害者意識で私の言い分の方が正しいと反撃するとしたら、相手も私の言うこともどちらも等しく幻想であると言える。むしろ正しさを主張している分、私の言い分の方が有害の度合いは強いだろう。自我とは夢の世界の住人である。夢の世界に目覚
世界が生起(せいき)される以前の原初の天国で、神と神の子である私たちはたった一つの生命(いのち)を全て隠さずに分かち合っていた。しかし神と共に天国に居た私にある小さな狂った考えが生じた。それは神が創造したままのオリジナルの神の子から私が分離できて、自分で思い
「特別性」とはかつて神に要求したが、神はそれを私に与えることを拒否した「特別な関係」である。「私だけを見て欲しい、他の人はゴミ同然の扱いをして私だけを特別に愛して欲しい」しかし、それは真実の愛ではないので神はそれを与えなかったため、私は神を憎んでいるとい
私の苦痛の原因を作ったとされる人物を赦す(ゆるす)こと。相手のした罪を大目に見るという意味ではない、罪は実在していなかったと見るのです。相手を赦し、自分を赦す。これにより自分の見ている世界から罪が消えていく奇跡が起こるのである。赦しによって、過去の痛みが消
「他人のせいで苦痛を感じている」という考え方は、間違った心による世界の見え方であり、すなわち間違った解釈です。間違った心とは心の闇のことであり、それが世界に映し出されることで、間違った世界の見え方、つまり誤った解釈となる。それが頭の中で延々と語られるのが
自我は心の中の愛を持たない部分であり、それ自体を保つために絶え間ない精神的防衛を必要とする。私は被害を受けており相手に罪がある、という内容です。仮に誹謗中傷されたとしても、それが精神的に効いてしまうのは、自分自身が同じことを心の中でしている者だけである。
私は自分の自我が善良で私だけが得をするようにしてくれる点で賢いのだと騙されていました。自我はいづれ私を裏切るのです。神が心の中に置いた絆、これは全ての人の共有された心であり例外は存在しない。絆でないのならそれは利己心(りこしん)であり、奪うために裏切るので
自我は注意を世界に釘付けにしようとて、私を惑わす(まどわす)。「もっと見るねん」と言うかのように。幻である世界のそこにあるのは欠乏と損失だけである。真の充足は神が私たちの心の中に授けた光を認識するこで達成される。にほんブログ村
心の内の闇が外に投影されることで世界が出現する。夢の世界で手に入るものは時と共に滅びゆく幻であり永遠ではない。しかしこの闇の世界の中で唯一の光である永遠の絆を、私たちは神から授かっている。答えは外の闇の世界の中には無い、心の内側の光を認識することが答えで
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妄想とは間違った考えに囚われていることです。妄想が真実だから力があるのではない。その間違った考えを真実だと思い込むことで、自分で妄想に自分を支配する力を与えている。自分の考えていることが間違っていると、自分で気付くことによって妄想は止められる。にほんブロ
誰にでも間違いは起こるものだが、間違いは訂正可能である。答えは存在する。被害妄想とは間違った考えを訂正できない精神状態のことです。間違いは誰にでも起こる。「今自分は間違った考えをしている」と自分で気付ければ妄想は訂正可能になります。にほんブログ村
過去のトラウマを思い出した時、自分を庇う(かばう)ために被害者意識で私が考えていることは客観的に見て間違っている。更に自分を庇うための被害者意識が私自身の苦しみの本当の原因である心の闇を増大させてしまう。まず他者を赦し、次に自分の心の闇を恐れずに直視するこ
被害者意識でネガティブになって考え込んで言動や振る舞いにそれを出すと大抵酷い結果になります。自分の考えていることを客観的に見て、間違ったことを考えていると自分で気付き、そこで被害妄想を止めれば、言動や振る舞いに出ないので、何も起こらなかったのと同じになり
自我が頭の中で語る言葉の原理は『Only I think this way(そう思うのは私だけ)』であり、その正しさを支えているのは「私は頭が良い」というプライドです。これが自我という心の闇であり、自我を支えている正しさの「絶対的根拠は嘘だらけ」です。内なる心のリンク(繋がり)、
私がかつてネットの世界で探求していたのが特別性の承認欲求であった。特別性とは神からは拒まれた特別な承認をこの世界の他者に要求するというものです。それはイリュージョン(幻影)の夢の世界が私の目の前に表れて、その中で「より多くの何かを求める」ということ。何が?
自分は何にも悪くないのにあの人のせいで甚大(じんだい)な苦痛を味わったと、被害者意識に囚われている時、それでも、自分の理屈の正当性よりも、相手の幸せを願う気持ちがあれば、必ず赦す(ゆるす)ことができる。にほんブログ村
外の世界に誹謗中傷を見る時、そこに目が釘付けになるが、その時、自分の内側の「心の闇」の存在には気付かない。外の世界に酷いことが書かれているというが、同じものが自分の内側の「心の闇」にある。誹謗中傷とは自分の内側の「心の闇」が投影されて外側に映し出されたも
過去のトラウマを思い出した時、無意識に自分を庇う為に被害者意識で考え出す。自分は悪くなくて他人が悪いという、頭の中で自分の自我が言ってることを理解しようとすると、段々腹が立ってくるのです。この時にできるだけ早く、考えてる内容が間違ってると自分で気付けると
神と神が創造したままのオリジナルの神の子の関係を神聖な関係という。ある時、神の子がオリジナルの神の子であることを辞めて、自分で思い通りのパロディーの自分になれたら、物凄く特別な存在になれるという妄想を抱いた。そう思った途端に神の愛が感じれなくなり、パロデ
あの人のせいで苦しんだと思っている時が一番苦しいですが、彼に罪悪は無かったと赦そう(ゆるそう)という目的を持つなら、必ず赦せる時が来ます。その時、本当の原因が見えるようになり、解決策が授けられる。この世界を駆動しているのは心なのです、真の因果律とは物理法則
自分の内側の「心の闇」を見たくないのでその存在を否認すると、必然的に外の世界に「心の闇」が映し出され具現化したものを見ることになる。自分が蔑んで(さげすんで)いるもの、嫌がっているものを他人に見ることで、自分の内側の「心の闇」を除外できたという思い違いがあ
心に思い浮かぶことは真実であるという思い違いがある。実際は心に思い浮かんだことをそのまんま行動に移せば、他人からは間違っていると見えるのです。私の場合は自分で気付けないばかりか、他人から間違いを指摘されても理解できなかったりした。一番良いのは他人から指摘
過去の嫌なことで被害者意識を持って他人のせいにしていると「心の闇」が増大して、その闇が映し出された悪夢の世界を見ることになる。つまり過去が再現された嫌な世界が未来にまた訪れるのです。赦さない(ゆるさない)でいると未来は同じ嫌なことの繰り返しとなる。他者を赦
過去のトラウマに対する被害者意識、他者への不満と文句、悪口と批判、これらを頭に思い浮かべる度に「心の闇」が増大する。そしてこの「心の闇」こそが実質的な損失であり、自分の心を幽閉(ゆうへい)する鎖である。「心の闇」を増大させる考えは一切抱かないくらいのつもり
誰しもが心に過去からの傷を負っている。過去のトラウマ。これを見たくないものとして自分の中でその存在を否認したことにより、心の中に光の当たらない部分「心の闇」ができた。触れてはいけないもの、それについて言及してはいけないアンタッチャブルな心の領域、それが「
悪口とは自分の「心の闇」が具現化した他者の概念を実在させようとする行為です。悪口の形態は様々でしょうが、内容は自分の「心の闇」の目で見えた他者の姿を悪く言ってる点で、どの悪口も同じです。悪口とは蔑んで(さげすんで)いるものを他人に見ることで、自分の内側の無
無意識の「心の闇」が疼いた(うずいた)時、私は不快感を感じる。心を安定させる為に、「嫌いなものを外の世界に見ることで」内側の「心の闇」を解消できると思い込んでいた。ネットの誹謗中傷を目にすると私の自我は、「もっと見るねん」と私を外の世界に釘付けにしようとす
人は事実に対して怒るのではなく、出来事についての「自我の解釈(かいしゃく)」を信じることによって怒るのです。自我の被害者意識の、「私は被害者だ、私が苦しいのはアイツのせいだ」という解釈を聴き入っているうちに腹が立ってきて私は怒るのです。自我の解釈を真に受け
過去のトラウマを想起した時、自分を庇う(かばう)ために自我が被害者意識で「自分が苦しいのを人のせいにすることができる」とその魅惑的(みわくてき)なロジックを頭の中で語りだしてきます。その頭の中で自我の言ってることの意味を理解しようとしていると腹が立ってきて、
過去が原因で苦しんでいると思い込むことが、それしか世界に見えなくする。つまり私は非難されるべき過去を外の世界に見ることになるのです。赦しによって正しく世界を見れば今できる本当に正しい選択が見えてくる。にほんブログ村
目に映る全てはあなたの心と世界とのシンクロニシティである。心の内側にあるものを外の世界に見るのです。心の内側で無意識に闇が選択されていれば欠乏、邪悪さ、破壊、羨望、絶望の世界を見ることになる。奇跡的に物事が上手く行く、神がかっている、そんなに都合良くいっ
私は「嫌がらせ行為は止めてください」と他人に言うが、心の中で闇を選択することを私が止めていない。だから私はその心の闇が外の世界に映し出された世界を見て、それに「悪いこと」だという解釈をして怒るのです。人は過去の嫌な事という事実に対して怒るのではない、人は
今自分は心の闇の支配下にいると自覚することが必要だ。嫌な事を思い出すと、自分を庇う(かばう)ために考え始める、その瞬間私は闇に支配されて自滅へと向かう。考えることでは解決しない問題がある。考えるのではく、赦すこと、これが答えです。にほんブログ村
過去の体験というのは実は存在しないのではないか?私が確かに彼がそう言ったのを聞いた、間違いない。と言ってもそれは証拠と見なされない。正確にはそれは起こったの「かもしれない」程度の実在性しかなく、むしろ幻想であると言えるだろう。過去は幻想であり、過ぎ去らせ
過去の嫌なことを考え続けると苦しくなる。赦すことで心の闇から解放されるのだが、「自我は赦しを知らない」ということに注意が必要だ。神が授けた私たちを永遠(とわ)に繋ぐ「不滅の絆」を意識してそのうえで赦さなければ成功しない。自分ひとりの思考力に頼るなら赦せない
奇跡講座は通常とは異なる価値観で書かれている。物理的な事実というものによらない解釈についての本であり。信念を持って書かれている。その信念を疑っているとこの本は読めない。自分は何も知らないという前提でこの本を読まないと自分の価値観と信念が読解を邪魔してしま
私は越えられない壁の前でひとり恐れている。これが私の限界というやつなのです。赦さない思いが恐れと孤独感を引き起こす。にほんブログ村
奇跡講座で僕が到達したいのは「完璧なFeeling(感覚)」です。心を曇らせているものとは?心の闇、それは自分がひとりであると信じていることにある。自我は欠乏の原理を信じており、もし私が自我に同意するなら、他者がしたことに対して多かれ少なかれ不満感を持つことになる
心の闇が増大した結果、心を病むこととなった。赦さない思いが心の闇を深くした、そこから「死ね」と幻聴が聴こえてきて統合失調症になった。自分は何も悪くないと、他人の中に罪悪を見て、自分は無罪になろうとすることが心の闇を深くした。他人の中に無罪性を見ることが自
自我とは何か大切なものを忘れてしまった闇の心の部分である。神が私たちに授けた「私たちを永遠(とわ)に繋ぐ不滅の絆」である「たった一つの生命(いのち)」とは、心の最も奥で全ての人と繋がっている光の心の部分である。心の中に相反する部分がある、闇の象徴である「自我
奇跡講座の教材の重要度ランキング S>A>B>C【ランクS(最重要)】『奇跡講座上巻』『奇跡講座下巻』最も重要で一番難しいのがこの奇跡講座本編の2冊です【ランクA(必須)】『奇跡講座入門講話とQ&A』『奇跡講座ワークブック解説その1、その2』奇跡講座入門は一番最初に読むべき
ネガティブに相手の悪口を言って憎悪することの反対をすればいいのでしょうか?ポジティブに相手を褒めて持ち上げ続けることが愛なのでしょうか?私に本当に相手の価値を定めることなどできるのか?完全なる対等性とは、お互いに罪が無い、無垢性(むくせい)を共有することで
私たちの欲望は神の愛の代替(だいたい)としての特別なものをこの世界で手に入れることである。それはより多くでなければならないという幻想である。より多くのお金、より多くの人間関係、より多くの快楽。神が与えてくれなかった特別なものをより多くこの世界に求める。『神
過去の嫌な出来事を思い出すとき、被害者意識に囚われて、その際自分に罪は無く相手に罪悪があったという理屈を完成させようと頭の中で考え続けるのですが、その「赦さない」という理屈はこじつけであり間違っているのです。世界を「赦す」という選択だけが私を被害者意識か
無意識の心の闇が疼いた時、私は不安と恐れの気持ちに囚われるが、その時自分ひとりの頭に頼って答えを出そうとしてはならない。自我は赦しを知らない。答えを知らぬ者に問うてはならない。無自覚の心の闇が疼いている状態で自分ひとりで考えても自滅に至るだけです。胃が痛
不安や心配や恐れの気持ちになった時は内側の無意識の心の闇が疼いている。不安になった私は原因を外の世界に見つけ出そうと、恐れの目で世界を凝視(ぎょうし)する。心の闇の部分である自我は、「もっと見るねん」と私の目を世界に釘付けにして虜(とりこ)にさせたがる。私の
なぜ人生が上手くいかなかったのか?結局過去がそのようになったことには原因があり。『それはありもしないところに宝があるはずだと、世界の夢を見ていたことにある』ありもしないところとは外の世界のことです。それは世界がより多くの何かを私にもたらしてくれるという夢
私は他人に不満を持っていて不愉快だから文句を言う。私はその不愉快の原因とされている他人に焦点を当てているが、見るべきところを間違っていることに気付いていない。無意識の心の闇が疼くことで私は不愉快になっているのだが、その原因を外に探す私は世界を凝視して、そ
不幸になる考え方というものがある。それが被害者意識を持つことです。嫌な事があった時に、反射的に自分を庇う(かばう)ために被害者意識を持って他人を非難するのです。しかし他人の中に罪悪を見るのは、自分の無意識の心の闇が映し出されたものなのです。被害者意識で他人